カール・バルト(その生涯と神学の総体像)を理解するためのサイト

1.『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』(1-26頁)

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

1.『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』(1-26頁)
再推敲・再整理版です。
この教会教義学 神の言葉U1 神の啓示 言葉の受肉』についてさらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります
https://karl-barth-studies4.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。

 

 

「序論」
 「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>(『ローマ書』)の下での、神の側からするイエス・キリストにおける神の自己啓示・自己顕現は、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動・活動、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)において、すなわち言葉の語り手であり啓示者である父なる神の子としての「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉自身、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」において、ご自身の中での神としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の認識(啓示認識)と信仰(啓示信仰)を要求する啓示である。もしもそうでないならば、その神は、客観的な正当性と妥当性とをもってフォイエルバッハが根本的包括的な原理的な批判を為したところの、人間的理性や人間的欲求やが対象化し客体化したに過ぎない偶像神でしかないであろう――「人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である。人間は思惟する、すなわち人間は会話をする、人間は自分自身と話をする。動物は自分以外の他の個体がいなければ類の機能をひとつもはたすことはできない、しかし人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかという類的機能……を果たすことができる」、この自己意識・理性・思惟の類的機能の無限性を持つ「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である」、それ故に「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」、「(中略)神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……」ものである、「こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」、それ故にまた「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである」、何故ならばその時、「理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である」からである(『キリスト教に本質』)、「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」(『フォイエルバッハ全集第12巻』「宗教の本質にかんする講演 下」)。もしも神がこのような神であるとするならば、ハイデッガー自身が、「新約聖書の釈義に役立つ新しい哲学的な鍵」を、前期ハイデッガーの哲学に見出したブルトマン(ブルトマン学派)に対して、「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる(≪生来的な自然的な人間的理性や人間的欲求やが恣意的独断的に対象化し客体化した≫)存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」というように、客観的な正当性と妥当性とをもって根本的包括的な原理的な「揶揄」・批判を為したように、その同じハイデッガーから、同じような「揶揄」・批判をされてしまうであろう。

 

 このような訳で、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の成員のわれわれは、徹頭徹尾、具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、前述した「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」――この「一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(≪恣意的独断的な、閉じられ閉じられて行く、党派的思想、党派的共同性、党派的多元主義、宗派、教派、学派、思想的傾向、フェミニズム、エコロジー、社会的政治的な言説や運動等々≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」。何故ならば、「啓示の中」での体系は、徹頭徹尾終末論的限界の下で、具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言における「イエス・キリストの名」だけだからである――「(中略)確かに受肉は中心的にして重要なものではあるが……新約聖書の本来的内容であるというふうには言ってはならないのである。(中略)それはおよそすべての他の宗教世界の神話や思弁の中にも見出されるものである。(中略)人は、聖書が語っている受肉を、ただ聖書からのみ、換言すればイエス・キリストの名からのみ……理解することができる。……神人性それ自体もまた新約聖書の内容ではない(≪何故ならば、農耕を経済的基盤とした人類史のアジア的段階における日本において、非農耕民は天皇を含めて神人と呼ばれていたからである≫)。新約聖書の内容とは、ただイエス・キリストの名だけであり、そのイエス・キリストの名がたしかにまた、そしてとりわけ、彼の神人性の真理をその名に含んでいるのである。ただまったくこの名だけが、啓示の客観的現実を言いあらわしている」。

 

 「最も単純な形において神の啓示の実在を問う問いに対する新約聖書の答え」は、「永遠なる神性」を内在的な本質とする「まことの神」にして「まことの人間」「イエス・キリストの名」(外在的な第二の存在の仕方、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、「啓示ないし和解の実在」、起源的な第一の形態の神の言葉)だけである。このイエス・キリストが、われわれ人間に対して、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書およびその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした教会の宣教を通して「同時的となる時と所」、「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところにおいては、われわれは神の支配のもとに入ることを承認し確認する」のである、それ故にわれわれは「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会として承認し確認する」のである、すなわち「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪裁き≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけであることを承認し確認する」のである。したがって、われわれは、イエス・キリストにおける神の自己啓示を通して、それ故に具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書におけるそれを通して、「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」のである、それだけでなく自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教における福音が、「ただ単なる知識」へと、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」、「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」、「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎない神秘主義へと変わって行く」ことをも見出すのである。この時、われわれは、子供も含めて老若男女誰であれ、村上春樹の言うように、「カルト宗教に意味を求める人々の大半は、べつに異常な人々ではない。落ちこぼれでもなければ、風変わりな人でもない。彼らは、私やあなたのまわりに暮らしている普通(あるいは見方によっては普通以上)の人々なのだ」、「彼らは……まわりの人たちと心をうまく通じ合わせることができなくて、いくらか悩んでいるかもしれない。自己表現の手段をうまく見つけることができなくて、プライドとコンプレックスとのあいだを激しく行き来しているかもしれない。それは私であるかもしれないし、あなたであるかもしれない。私たちの日常生活と、危険性をはらんだカルト宗教を隔てている一枚の壁は、我々が想像しているよりも遥かに薄っぺらなものであるかもしれないのだ」というほかはないのである。この社会では、「ウエット性やユーモアの概念」は、「ドライで異様な軽率さや明るさと交換可能」である。「アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ」という太宰治の言葉は、現在も時代を超えた言葉として生きている。すなわち、この言葉は、一方通行的に上昇して行く「明るいもの」(明る過ぎるもの)、「健康なもの」(健康過ぎるもの)、「建設的なもの」(建設的過ぎるもの)は「すべてまやかし」・「錯覚」「であり、疑いをもったほうがよい」、ということをわれわれに教えている。「休息や遊び」も「価値論や自然必然性の中にも含めてしまう必要がある」と吉本が語る時、それは、ユーモアを持つ必要性があるということを語っているのではなく、現存する「息苦しさ」からの個体的自己としての全人間の「自己解放」・「自己慰安」の必要性を語っているのである(『吉本隆明が語る戦後55年6』)。

 

 「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在」における内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外にむかって」外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(働き・業・行為、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)であるイエス・キリストにおける神の自己啓示・自己顕現は、換言すれば「特定の歴史〔出来事〕」であり「この出来事の先取りや繰り返しはない」という意味で「唯一無比で一回的」な「イエス・キリストの名」は、まことの「神の言葉が人間となった」(その内在的な本質としての神性の受肉ではないところの、その外在的な第二の存在の仕方における言葉の受肉である)、そのまことの「人間は神の言葉であった」という出来事としての「啓示の客観的な実在」(「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉そのもの)である――「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである(Tテモテ2・5)」。また、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした教会の宣教における「神の三位一体についての教説」(三位一体論)は、「聖書の中に証しされている啓示の主体を問う問いに対する答え」であり、「神論の決定的に重要な構成要素」であり、「啓示の認識原理」である。したがって、「教会の宣教の批判と訂正」 は、常にこの三位一体論に即して行わなければならないのである。何故ならば、この三位一体論を「啓示認識の原理」としない場合、すぐに「神性否定のキリスト論」や「半神・半人キリスト論」や「三神論」に埋没していくことになるからである。キリストにあっての神は、「神」として、「主」として、イエス・キリストにおける「啓示が由来する」ご自身の中での神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「神の内三位一体的父」・「父なる名の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の神の<起源>・<根源>としての父が「子として自分を自分から区別した」子は「父が根源」であり、愛に基づく父と子の交わりとしての「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊は「父と子が根源」である――「子と霊は父とともにひとつの本質である。神的本質のこの単一性(≪「失われない単一性」≫)の中で子は父から、霊は父と子からであり、他方、父は自分自身以外の何ものからでもない」、父は子として「自分を自分から区別するし自己啓示する神として自分自身が根源である」。それからまた、キリストにあっての神は、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方における「啓示を客観的に(われわれのために)遂行する子」(客観的な啓示、啓示の客観的遂行)であり、「啓示を主観的に(われわれの中で)遂行する聖霊」(啓示されてあること、啓示の主観的遂行)であり、「しかもこれらの異なった、互いに同一視されてはならない(≪外在的なその「失われない差異性」における三つの≫)存在の仕方と行為の仕方の中でのひとりの神であり給う」。したがって、「三神」・「三の対象」・「三つの神的我」ではないのである。

 

 さて、「キリスト論の基礎的部分」は、「神の言葉の受肉(≪神性の受肉ではなく、言葉の受肉である≫)についての教説」である。すなわち、それは、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を根源とする第二の形態の神の言葉である「テキストを問う問い、事実質問を扱う」、教会教義学の「プロレゴメナ、基礎づけに属している」。それに対して、「キリストの人格と業についての教説におけるキリスト論」は、神の啓示が人間に及ぶところの「和解についての教説の内部」にある。すなわち、それは、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を根源とする第二の形態の神の言葉であるテキストの「注釈を問う問い」、「了解質問」を扱う。したがって、この順序を逆転させることはできない。言い換えれば、この順序を逆転させるならば、そこでの神は、第一段落目において述べたように、客観的な正当性と妥当性とを持ってフォイエルバッハやハイデッガーが根本的包括的な原理的な揶揄・批判を為した「存在者レベルでの神」(偶像神)でしかなくなってしまうであろう。したがって、バルトは、「神学に対して、その思惟と語りの本質は事実人間が自分の像にしたがって自分の神を創造すること(≪人間的理性や人間的欲求やが対象化し客体化した「存在者レベルでの神」、偶像神を創造すること≫)であると言ったフォイエルバッハの非難を正しいとしなければならない」と述べている――「人間が人間自身の力によって、自然的な能力・その悟性・その感情に応じて、認識しうるもの、それは精々、最高の実在・絶対的存在のようなもの・絶対に自由な力の精髄・一切事物を超越する存在の精髄であろう。このような絶対最高の存在・このような究極最深のもの・このような「物自体」は、神とは何の関りもない」(『教義学要綱』)。シュライエルマッハーやブルトマン等の自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教に対して、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を根源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした立場(その原理、その認識方法と概念構成)において、そうした信仰・神学・教会の宣教を根本的に原理的に包括し止揚し克服し、そうした信仰・神学・教会の宣教から超出するという意味で「超自然な神学」(あるいは「<非>自然な神学」あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教)に立脚したバルトは、「事実質問」から「了解質問」へという在り方において、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を根源とする第二の形態の神の言葉である「聖書の中で規定されている存在秩序」、「何よりも先に啓示(≪外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事≫)の主体としての神(≪内在的な「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」≫)を問う」のである。バルトにとって、「キリスト論と聖霊論」は、「神の恵みについての認識であり讃美である」。何故ならば、信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)の授与は、イエス・キリストにおける神の自己啓示に固有な証明能力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊」である聖霊の証しの力、聖霊の業としての「啓示されてあること」――すなわちそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事(具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書におけるそれ)とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事(「啓示と信仰の出来事」)に基づいて初めて終末論的限界の下で起こるからである。

 

 このような訳で、バルトにおける「認識原理」・「了解原理」は、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼する」点にあり、それは、「啓示によって示される基礎に基づくもの」であり(神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる啓示認識・啓示信仰に依拠した啓示の類比、信仰の類比、関係の類比に基づくものであり)、生来的な自然的な人間の「理性による基礎に基づくものではない」(人間の感覚と知識を内容とした経験的普遍、人間学的な哲学原理・認識論・世界観等に依拠した存在の類比に基づくものではない)。先に述べてきたように、「イエス・キリストの名は、人々が啓示を理解すべきであり、啓示を理解できる際の、第一のこと、決定的なこと、すべてを包括することである」。「イエス・キリストの名」においてのみ、「救いが存在する」、「義と聖とあがない」がある、「知識」と「知恵」がある。「足のきかない人が元気になる(使徒行伝4・10)」。「イエス・キリストの名」は、神の側の真実としてある、それ故に「成就と執行」・「永遠的実在」としてある、主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(平和の概念は、この救済概念に包括されている)そのものである。まさに先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」――「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の「イエス・キリストの信仰」(≪ギリシャ語原典ピスティス・イエスー・クリストゥーの属格≫)は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである」――このことが「福音と律法の真理性」における福音の内容である、また「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、(≪神の側の真実としてある≫)神の子が信じ給うこと(≪主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」、イエス・キリストが信ずる信仰≫)に由って生きるのだということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(われわれの「召命」、「和解」、「義認」、「聖化」、「救済」、そして「更新」を可能とするのは、「今日に至るまで罪人の手に渡され・十字架につけられ・死んで甦られ給うたイエス・キリストにある『復活の力』のみ」である)――このことが、「福音と律法の現実性」における勝利の福音の内容である(『福音と律法』)。

 

 バルトの啓示認識の可能性の問いを誤解し誤謬し曲解したままバルトを批判したトラウプの啓示認識の方法に対して、逆にバルトは次のように根本的包括的な原理的な批判を加えている――トラウプは、具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とした第二の形態の神の言葉である聖書(最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として「どのように人間は神の言葉を認識することができるのか」というバルトの問いを、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階における常道に従って誤解し誤謬し曲解して、直接的無媒介的に「どのようにわたしは(≪わたしの生来的な自然的な理性は≫)、神の言葉を神の言葉として、また実在として、肯定することにまでくることができるのかという問い」に変じてしまったのである。すなわち、トラウプは、直接的無媒介的に、生来的な自然的な人間の理性による、「啓示の実在」の認識可能性を論じているのである。言い換えれば、トラウプは、「啓示の実在」を、直接的無媒介的に、生来的な自然的な人間の自己意識・理性・思惟の類的機能の<此岸・内>に求めようとしているのである。まさに、トラウプは、人間を先行させた人間学的領域で、それ故に生来的な自然的な人間の自己意識・理性・思惟の類的機能の領域で、直接的無媒介的に、人間学的神学を求めているのである、総括的に言えば自然神学を求めているのである。したがって、トラウプの啓示認識は、必然的に、「存在者レベルでの神」、その神の啓示、その神の名と呼びかけによる救済と平和、「存在者レベルでの神への信仰」を求めるそれとなるのである。

 

 このようなトラウプに代表される自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教における啓示認識の方法に対して、バルトは、カンタベリーのアンセルムスに即して根本的包括的な原理的な批判を加えている――アンセルムスは「キリストが人間となり給うこと、キリストの贖罪死の必然性を理解シヨウ、理性的に論証シヨウとした」、「そのことを人は合理主義だと批判した」。しかし、アンセルムスは、「教義学的な合理主義を明確に否定している」。すなわち、アンセルムスは、神学を「一般的真理としてではなく」、「啓示から得られた認識」、具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とした第二の形態の神の言葉である聖書(最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」において、またその聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者した第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義を媒介・反復することにおいて、啓示認識の可能性について考えたのである。