本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「一 ~の用意」(その5−5)−4

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「一 ~の用意」(その5−5)−4(203−231頁)

 

「一 神の用意」(その5−5)−4

 

 論述を元に戻せば、パウロは、神の恵み、キリストの福音を対置させることで、自然神学の<段階>における思惟と語りで遊んでいた「ストア派とエピクロス派の哲学およびそのほかのすべての哲学」に対して終焉(神の裁き)を告げた。なぜならば、人間が恣意的独善的嗜好的な神の認識、神の認識可能性(「存在者レベルでの神」認識、その神認識の可能性)について観念的な「遊び」をすることに対して、神は「今や……すべての人間に向かって(ローマ人への手紙一−二章にしたがって、ユダヤ人と異邦人に、と補いつつ言い換えることができるであろう)悔い改めるよう命じておられるということ、換言すれば、神が、義をもって全世界を裁くためにその日を定め、ひとりの人(神がそのために定め、その方を、死人の中から甦らせ、その確証を示されたひとりの人)によってそれを(≪「まことの神」の「まことの証人」としての、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、業と行為、神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのものによって、神の認識、神の認識可能性を≫)なし遂げようとされたということ」が、「福音だからである」。パウロは、アテネ人たちの「単なる知識」に対して、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執し連帯した「キリスト教的・使徒的知識」を対置させたのである。そのパウロの言葉を聞いた「ほんの数人の者だけ」が、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事(具体的には、パウロの啓示証言)とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づいて、神だけでなく人間も、人間の恣意的独善的嗜好的な自主性・自己主張・自己義認の欲求もという不信仰・無神性・真実の罪を「暴露され、またそのような罪深さについて確信させられながら」、自分の「精神世界全体の裁き主の前で悔い改めつつ」、「まさに顕サレタ神こそが隠サレタ神」であり、「神の最高の義」そのものであるイエス・キリストを「信じる信仰の中で」(イエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執することの中で)、「嘲る」ことなく・「退屈を感じ」ることなく、「パウロの語りかけに対して……応答した」のである。単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、啓示・和解、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和そのものであるイエス・キリストが「すでにその人をその中に置いてい給う」ゆえに、パウロは、「心を頑固にし福音を認めない人間」や「異教徒」に対して、キリストの福音から語り、キリストの福音について語ったのである、「恵みから語り、恵みについて語」ったのである。
 したがって「われわれ」は、「傍系的な線」は「『主要な線』の言明と袂を分かつことは決してないということについて教えられた」。言い換えれば、「傍系的な線」は、あくまでも「啓示から」「啓示の故に、啓示に適った仕方で、啓示」を指し示すのである。なぜならば、「傍系的な線」は、信仰の認識としての神認識、その認識可能性が、神と人間との無限の質的差異の下で、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の自己運動、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下においてのみあるという「主要な線」を認識し自覚しているからである。したがって、「傍系的な線」におけるその思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」であるということ、私たち人間の決定事項ではないということ、それゆえに私たち人間の「傍系的な線」におけるその思惟と語りは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立」しているということ、について認識し自覚しているのである。したがってまた、「傍系的な線」は、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト(具体的には聖書的啓示証言)を自分の思惟と語りの原理・規準・法廷・審判者・支配者として、神の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、絶えず繰り返しそれに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、あの純粋な、キリストの福音、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」、すなわちイエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執して、すべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるために、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えという神の言葉に対する奉仕を志向し目指すのである、「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すのである。「エゼキエル書一章および一〇章」と「黙示録四章」で「特有な仕方で繰り返されている人と獅子と牛と鷲の顔を持った四つの生き物」は、「個々の点においてはおそらく四つの方角、四季、ないしは十二宮(≪その起源を、「宇宙の中での人間」、バビロニアに置く≫)を表徴的に表しながら」、「(おのおの顔の向かうところにまっすぐに進んだ、エゼキエル一・九)配列された神的創造そのもの……(それとさらにエゼキエル書においては、……四つの輪の形の中で描き出された世界の動きがもう一度区別されており、しかし同時にまたそれと並列的に関連づけられている神的創造そのもの)……を代表している」。それらの生きもの自身は、「神的創造のみ業」によっている。「なぜならば、『生きものが行く時には、輪もそのかたわらに行き、生きものが地からあがる時には、輪もあがる、霊の行く所には彼らも行き、輪は彼らに伴ってあがる、生きものの霊が輪の中にあるからである。彼らが行く時は、これらも行き、彼らがとどまる時は、これらもとどまり、彼らが地からあがる時は、輪もまたこれらと共にあがる、生きものの霊が輪の中にあるからである(一・十九−二一、一〇・一六−一七)』」。このように、聖書は、「宇宙の中での人間についての証言を聖書の本来的な証言の中に編み入れ、したがって実際にまたその時でも、この線の上ででも、啓示からして、啓示の故に、啓示に適った仕方で、啓示そのものを指し示しているという事実を明らかにしている」のである。「……ワレワレハ、危険ナ、不可解ナ事柄ニオイテ繰リ返シ動揺スル時、コノ教理ノ中デ安ンズル以外ニ何ヲナスコトガデキヨウカ(カルヴァン)」。したがって、第三の形態に属する全く人間的な教会におけるバルトは、次のように述べたのである――歴史主義者やブルトマンたちのように、キリストにあっての啓示から独立的に第一次化された「哲学、歴史学、心理学等」は、また人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍は、「この神学的問題領域のどれにおいても、事実上、教会の自己疎外の増大以外のなにものにも役立ちはしなかった」・「神についての教会の語りの堕落と荒廃以外の何ものにも役立ちはしなかった」・その場合、「哲学は哲学であることをやめ、歴史学は歴史学であることをやめる」、キリスト教哲学は、「それが哲学であったなら、それはキリスト教的ではなかった」し、「それがキリスト教的であったなら、それは哲学ではなかった」(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)、それゆえに「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」、神学も理性的な知的営為ではあるが(しかし、自覚された即自的な人間の「理性や力」や悟性や想像や意志等によっては全く信じることができないから、聖霊によって更新された理性的な知的営為ではあるが)、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」(『バルトとの対話』)。このバルトは、「雨に日に起こるにじが神とすべての生きものの間の契約、(それからシナイにおける契約とゴルゴタの契約の前提となる)ノアの契約のしるしとして記されている創世記九・一二以下」を、「最後に、この、疑いもなく神ご自身の代理をつとめる人の姿のような形ということでカルヴァンと共に、肉ノ中デ顕サレタ神性(≪その第二の存在の仕方とその本質≫)全体を、換言すればイエス・キリストを理解する」のである。「新約聖書の平行記事である黙示録四章では……エゼキエル書(≪預言者的な幻、預言者的認識、預言者的使信、預言者的知識≫)のテキストの構成要素がはっきりと口に出して述べられていない」が、「その代わり黙示録(≪使徒的な幻、使徒的認識、使徒的使信、使徒的知識≫)において幻」は、「明瞭」に、「終末論的な性格」・「観点」を「強調」して見られている。キリストの復活からキリストの再臨(終末)までの聖霊の時代における教会(その全成員)は、神と人間との無限の質的差異の下で、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする「神の御座を除いて」、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第三の存在の仕方である聖霊(黙示録では「そのほかの新約聖書の中で聖霊に帰せられている意味を持っている」「神の七つの霊」)が「中央を形成」する円の「配列の仕方」において、現存している。「まさに神によって造られたものこそ(≪更新されたものこそ≫)が、ほかならぬこの神を知り、また宣べ伝える」ことができるから、「四つの生きもの……は、『昼も夜も、絶え間なく、聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能である~、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方(八節)』」と「言い続けていた」ことを「われわれが聞く時」、「この霊の仲立ちをする役割」、すなわち「ほかならぬこの神を知り、また宣べ伝える」ことが考えられなければならない」のである。ここで、人は、単一性・神性・永遠性を本質とする「神が(≪その三つの存在の仕方、性質、業と行為における≫)待望と現在と想起の三つの時間(≪創造、和解、救済≫)の中で神であり給うということ、そのことはここでは……全能の神の本来的な賓辞として現われている」から、「イザヤ書六・三に出てくる『聖なるかな』の三位一体的な、同時にまた救いの経綸的な、(≪神の三つの存在の仕方における創造、和解、救済という≫)変化した形に注意しなければならない」。「聖なるかな」という「神への讃美」を、「第三の、最も外側の円のところで二四人の長老が彼らの座からおり、ひれ伏し、彼らの冠を御座の前に投げ出して、自分たちの側でも」、「主よ、私たちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです(九−一一)」、と「讃美の歌を歌いはじめ」た。この「神への讃美」の「歌声」は、「あの絶え間なくなされ」た神への「讃美も歌声と違って、明らかに一回的な、……歴史的出来事」――すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする「自己を覆い隠す」・隠蔽性・「聖性」・秘義性としての神が、その存在の仕方(神の起源的な第一の存在の仕方、創造主)において、子(神の第二の存在の仕方、和解主)として「自分を自分から区別」したところの、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」、に対する「讃美の歌声」である。なぜならば、聖書で、@イエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「失われない差異性の中」で三つの存在の仕方(性質、業と行為)において「三度別様」に父、子、聖霊なる神であって、その存在は「失われない」単一性・神性・永遠性を本質とする一神、「一人の同一なる神」であり、「三神」、「三の対象」、「三つの神的我」ではなく、父、子、聖霊の三つの存在の仕方の、単一性・神性・永遠性を本質とする「一人の同一なる神」、「三位一体の神」だからである、それゆえに単一性・神性・永遠性を本質とする神の完全さ・自由さは、父、子、聖霊の三つの存在の仕方の完全さ・自由さである、A単一性・神性・永遠性を本質とする神の起源的な第一の存在の仕方である父なる~は、子であるイエス・キリスト(第二の存在の仕方)において「創造主として、われわれの父」として自己啓示したのであり、その存在の本質においては、父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主であり、同様に、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもあり、イエス・キリストが父として啓示する神は、「われわれの生を、死を通して永遠の生命に導くために死を欲し給う」神であり、それゆえに私たち人間を永遠の生命に導くために、「ゴルゴタにおいて、イエス・キリストにあって、イエス・キリストと共に、われわれすべてのものの生命が十字架につけられた」のである(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)。ここで、「黙示録四章とエゼキエル書一章および一〇章は完全に一致する・エゼキエル書において四つの生きものは、神の栄光によってめぐりかこまれた人の御座の担い手であるが、そのような彼らは黙示録においては、三位一体の神の讃美を歌う。(三位一体の神は明らかにまたここでも御座を占める方である)。それに基づいて、それから、この方(≪~の第二の存在の仕方であるイエス・キリスト≫)、(≪単一性・神性・永遠性を本質とする≫)三位一体の神は(教会によって)創造主として誉め讃えられ給う」。このことから、神の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会における私たち成員は、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態のイエス・キリスト(具体的には第二の形態の聖書的啓示証言)をその思惟と語りの原理・規準・法廷として、他律的な服従と自律的な服従との同在性において、絶えず繰り返しそれに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、あの「~への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――すなわち「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、インマヌエル、イエス・キリストの死と復活の出来事、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えという神の言葉に対する奉仕へと向かうのである。
 このような訳で、「聖書から、われわれは、神の言葉(≪客観的な啓示の出来事、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト、具体的には第二の形態の預言者および使徒たちの直接的な最初の第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言≫)と霊の恵み(≪その啓示の出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事、すなわち人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)の中での神の用意とは違う」ところの「(人間のための)神の用意を求めるよう要求されていないし、また探し求めてよい権利も与えられていない」ということを「確かめたことになる」。「われわれ」は、「聖書から」、「神の啓示の恵みの中でのわれわれに贈り与えられている神の認識可能性(≪啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の運動、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる啓示認識・啓示信仰、信仰の認識としての神認識≫)以外の神の認識可能性を問わないようにとの命令を聞いたのである」。このことは、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教信仰・神学・教会の宣教というものが、客観的には存在することはできないということ、それゆえにそれには客観的な「生命力」は存在しないことを意味している。

 

(4)「自然神学は教会史的現象」ではあるが、人が、「聖書的」には、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教信仰・神学・教会の宣教というものには客観的な可能性や客観的な「生命力」は存在しないと「否定的な判断を下し」て、自然神学を揚棄し克服していく「決断を(≪神の言葉の起源的な第一の形態であるイエス・キリストに、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言に対する≫)服従の中でなしてゆく」ためには、「人は、その際、為すところのこと、また為さないでいることが何であるかをよく」認識し自覚していなければならない。なぜならば、そのことについて認識し自覚していないならば、「人は知らずして再び不服従に陥ってしまう」ことになるからである。自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教信仰・神学・教会の宣教を根本的包括的に原理的に止揚し克服して、<非>自然神学の<段階>のキリスト教信仰・神学・教会の宣教へと移行できる「単純で、自明的な認識」は、「神の認識可能性をただ神ご自身の用意(≪啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊であり聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の運動、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる啓示認識・啓示信仰≫)の中でだけ見出すことができ」、「(ただ神の啓示の自由な恵みとあわれみから)われわれにとって近づきうるものとされた近づき得ないものとして(≪なぜならば、キリストにあっての「神はまさに顕サレタ神こそが隠サレタ神」であるから≫)、感謝をもって受け取ることができるだけであり」、それゆえに「そのほかの神の認識可能性を期待するようなすべての神学」は、「その発端において、神が身を置き給うたところとは別な方を見ており、それと共に既にその発端においてキリスト教的神概念に対する暗殺計画を意味しているが故に(≪なぜならば、そこでは、神と人間との無限の質的差異が人間の恣意性独善性によって揚棄され後景へと退けられて、それゆえに人間自身教会自身が恣意性独善性嗜好的に対象化し客体化した「存在者レベルでの神」・偶像が認識の対象とされてしまっているから≫)」、「教会の地盤の上では議論の余地なく……不可能であるという認識」と自覚である。自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教信仰・神学・教会の宣教と<非>自然神学の<段階>のキリスト教信仰・神学・教会の宣教との差異性は、例えば次のような思惟と語りの差異性に見ることができる――@前期ハイデッガーの哲学原理を第一次化したブルトマンは、「神話的世界像と神話的人間像」は時代の経過とともに、「われわれの前から消え去ってしま」うし、私たちの「眼前存在」、現前性は「近代的な世界像、人間像」にあるから、「神話形式のままでは、新約聖書の言表」、すなわち「語られた内容の表現」は理解できないから、それは「非神話化されなければならない」と思惟し語った、それに対してバルトは、「聖書註解者」は、「だれに対して」、「誠実と真実をささげるべきなのか?」、「責任的応答をなすべき」なのか?・「同時代の人たちの思考の前提に対してか?」、「そこから形成された理解の規準に対してか?」―― 否である、「われわれ」は、十字架につけられ、復活したイエス・キリストにおける「われわれ」の「実存という場所」において、「われわれ」の「信仰より以前にも、信仰なしでも、……不信仰に抗して」も、「われわれ」のために「生きて、われわれを支配」し、「われわれ」を「愛し給う」イエス・キリストを、「認識し、持つことができることを示すということ以外の何が問題となるのだろうか?」(『ルドルフ・ブルトマン』)、A歴史主義は、人間精神が生み出したものを問題とする限り、「啓示を問おうとしない」で人間精神の自己理解を第一義として「聖書の中でも神話を問う」ことをする・しかし、「啓示の証言としての聖書の理解」と、「神話の証言としての聖書の理解」は、相互排除の関係にある・したがって、聖書記事を歴史物語とみなし、聖書記事の「一般的な歴史性(Geschitlichkeit)を問題化すること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃しない」が、聖書記事を「神話として受けとること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃する」・なぜならば、神の時間、啓示は、人間学の対象としての人間の類の時間、「歴史の枠に、はめ込まれてしまうような歴史的出来事ではない」からである・したがって、聖書の歴史認識の方法は、その歴史を、「一般的な歴史性」を含んではいるが史実史ではない歴史物語・古譚として受けとる点にある(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)。
 「既に最古の、使徒後の教会(殉教者たちの教会)において、異教主義との文書をもっての戦いに際して、表向き欠かすことができない道具として」、前述した認識と自覚を後景へと退けた自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すことが、「キリスト教神学の自明的な支柱」とされた。そのような「自然神学」は、「アウグスティヌスのような者に対しても、その救拯論的な恵みの原理のまことに首尾一貫した展開にもかかわらず、プラトン的(≪哲学的神学的≫)な神理念の形で、彼の教会的――キリスト教的思惟の学問的な基礎」とさせた(したがって、バルトは、『カント』で、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰である」とした「カントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」と述べたのである。このことから、大学でも教えているメディア的著述家・富岡幸一郎の『カール・バルト――使徒的人間』が、バルト自身の重要な批判的自然神学論に限定してみても、バルトの『教会教義学 神の言葉T/1・2』も『カント』も読まないで書かれたことは、換言すれば高校の「倫理」レベルの知識で書かれたことは明白なのである、このことはちょうどマルクスの資本論を池上彰と対談したメディア的著述家・佐藤優が、マルクスの重要な立場である『資本論』「第1版の序文」を読まずにしゃべっていたのと同じである、このような大学知識人やメディア的知識人の「本」や「単なる知識」や情報がメディア界の中でごまんと流通しているのであるから、吉本隆明が言うようにそうした「本」や「単なる知識」や情報をそのまま鵜呑みにしたり模倣したりしない方がいいのである)。そのような自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教信仰・神学・教会の宣教は、外在的にキリスト教の世俗化を強いた「コンスタンティヌスによって導入された教会と国家の関係という外的な新秩序と関連」しながら、「アリストテレスの再発見の後、中世の神学に対して……ヴァチカン公会議で(トマス・アクィナスの最高業績を標準化し教義化しつつ)決定された公式の文書の中で明らかとなった力を手に入れることができた」のである。中世の神学は、結局は、「理性と啓示、哲学と神学」の総合、哲学的神学あるいは神学的哲学の位相にあるものであるが、自覚化された自然的な人間の理性を重視し、一方でギリシャ哲学に依存しながら、それゆえに同じ土俵上にありながら、他方で「哲学は神学の婢」と主張した。まさしく自然神学の<段階>で「遊ぶ」キリスト教信仰・神学・教会の宣教と言うことができる。「明敏な……眼」を持った宗教改革者においても、自然神学の<段階>で「遊ぶ」キリスト教信仰・神学・教会の宣教、すなわち一方で「別な啓示と別な神認識を問う問いを原則的に除去することができ」なかった。バルトは、ルターの信仰論と受肉説の問題点について、次のように述べている――@ローマ書3・22、ガラテヤ書2・16等の「イエス・キリストの信仰」の属格を目的格的属格として理解し、神だけでなく人間もという神と人間との「共働」を志向し目指し、独立した人間の側からする義を求め、その現にあるがままの現実的な人間存在における「自分の理性や力」や悟性や想像や意志等によっては「全く信じることができない」にもかかわらず、人間の側からする直接的な無媒介的なイエス・キリストを信じる信仰による神の義を求め、「律法と福音」という順序の仕方で人間の側からする信仰による神の義の頂へと往相的一方通行的に上昇して行くルター(『キリスト者の自由』)の思惟と語り、その信仰論における信仰は、「……独立的に現われ活動する神的実体として(中略)(≪それには≫)あらゆることが可能であり、(中略)(≪またそれは≫)、人を義とする……、……愛と善き業を生み出す…、罪や死にも打ち勝ち、人を救う。(≪その≫)信仰と神とは『一団』をなし、信仰は(心の信頼として!)<神>と<偽神>の両方を作り、ときには(ただ『われわれ自身の内部において』だけであるが)『神性の創造者』と呼ばれるということもあり得る。さらに重要なのは、……受肉説とそれに関連した事柄である。フォイエルバッハは、このキリスト教の教説を「神は人となり、人は神となる」という定式で簡明に表現し(≪たが、それは≫)……とくにルター的なキリスト論および聖餐論を前提とする場合には、まったく不可能とか無意味とかいうことはできない。……、神性を天上に求めず地上に求め人間の中に――人間イエスの中に求めることを教え、またかれにとっては聖餐式のパ ンは高く挙げられたイエスの栄光化されたからだであらねばならなかった(中略)。(中略)これらすべてのことは、……、……天と地・神と人間を転倒する(≪「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異を揚棄し後景へと退けてしまう≫)可能性を意味しており、終末論的限界を忘れる可能性を意味している。(中略)ルターと初期ルター派の人々が、天を襲うようなキリスト論を説いて、その後継者たちを、たえず出現する思弁的・人間学的帰結に対しての一種の危険状態・無防備状態の中に置き去りにしたことは疑いない。(≪「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異という≫)神に対する関係があらゆる点で、原理的に転倒不可能な関係だということ――そのことについて、人々は、フォイエルバッハ(≪の現実性と妥当性のある根本的包括的な原理的なキリスト教批判≫)を有効に防御するためには確信を持っていなければならない……」(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)、A「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である」・「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」・「(中略)神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された(≪対象化され客体化された「存在者レベルでの」≫)神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」(フォイエルバッハ『キリスト教の本質』)。「プロテスタント主義の『英雄的時代』と目される……世紀」において、自然神学の<段階>で「遊ぶ」キリスト教信仰・神学・教会の宣教は、「その中で、福音主義の教会がほとんど何の疑念もなしに、それ以前にあったすべてのことをはるかに凌駕する新しい国教会的な在り方の中に巧みに身を処しながら入っていった」。「一八世紀において」、自然神学の<段階>で「遊ぶ」キリスト教信仰・神学・教会の宣教は、「支配」を獲得した、換言すれば人は、「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異を揚棄し後景へと退けてしまった、「自由・主権」は「神ご自身においてのみ、実在であり真理である」ということを認識し自覚することを揚棄し後景へと退けてしまった、「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」を犯すようになった、「われわれは、シュライエルマッハー以外の他の人々の所でも、……〔この〕ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇する」ようになった(『ヘーゲル』)。自然神学の<段階>で「遊ぶ」キリスト教信仰・神学・教会の宣教は、内在的には聖書的に「無効宣言」が為されているのもかかわらず、外在的には「世界観的な革命と関連しつつ、近代の学問的な意識の前でも、一般大衆の意識の前でも」、「本来的な根本教義、……キリスト教の中心的教説であるという外観を持つ」ようになった。このような訳で、「すべての無効宣言にもかかわらず」存続する自然神学の<段階>で「遊ぶ」キリスト教信仰・神学・教会の宣教、すなわち「キリスト教の神学」と「教会の歴史」は、世と教会にとって、結局は啓示から独立した「理性と啓示」、「哲学と神学」との総合、混淆、混合、共働という自然神学の<段階>で「遊ぶ」キリスト教信仰・神学・教会の宣教の歴史という外観を呈している。現存するこのような事情の中で、「今これから問われなければならない」肝要なことは、具体的には聖書に依拠して、「どういう教会ノ意見ノ一致が問題であるか」という点にある。