カール・バルト(その生涯と神学の総体像)を理解するためのサイト

19.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」

19.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」
推敲済みです。

 

「神学の目標(証明)」(1)
 「教義学的な合理主義を明確に否定している」(神学を「一般的真理としてではなく、啓示から得られた認識」として思惟し語っている)アンセルムスは、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼」していた(『教会教義学 神の言葉』)。したがって、彼は、「存在的なラチオ性」――すなわち三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするキリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)に包括された「認識的なラチオ性」――すなわち聖霊と同一ではないところの聖霊によって更新された人間の理性性は、「啓示、恵み、信仰」を前提条件としていた、換言すれば神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示の客観的可能性」としての客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事(「存在的な必然性」)と「啓示の主観的可能性」としてのその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事(「認識的な必然性」)を前提条件としていた。したがって、彼は、「いかなる人間もほかの者に教えることができないことを教えることができ、また繰り返し教えるであろうことを信頼していた客観的な根拠」、すなわち「信仰の対象そのものの客観的根拠」(起源的な第一の形態の神の言葉であり、「啓示ないし和解の実在」そのものであり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストの名」)の「力強さを念頭において」、「非キリスト者をキリスト者として、不信者を信者として語りかけ」、「信者と不信者の間の深淵を超え」出て、「心を頑固にし福音を認めない人間」(不信者)や「異教徒」も神の側の真実として「イエス・キリストがすでにその人を恵みの中に置いてい給う」という啓示認識・啓示信仰において、「彼が自分を不信者たちに対して不信者たちと同類の者(≪不信者≫)としておき、不信者たちを自分と同類の者(≪信者≫)として受けとる」ことができたのである。したがって、アンセルムスのこの立場は、信、信者、知からする、不信、不信者、非知に対する、啓蒙主義、外部注入論、迎合主義とは異なっている。

 

 「知解が起こる時、……知解の先端として、証明にまでくる。そして、アンセルムスは、証明しようと欲するのである」、「『モノロギオン』と『プロスロギオン』の中で、後の彼自身の言明によれば、『信仰ヲモッテ神性トソノ位格ニツイテワレラガ知解シテイルコト』(下記の【注1】を参照)、あるいは西方の『……ト子ヨリ』、あるいはキリストが人間となることの必然性を証明しようと欲する」のである。「ただ証明しようと欲するだけでなく」、「なしとげられた知解の美にも興味があるのである」(下記の【注2】を参照)。アンセルムスは、「孤独な思惟を拒否しない」ところで(『モノロギオン』)「人間的な対向者との関係の中で考える」、自己意識・理性・思惟の対自的で対他的な構造の中で考える(下記の【注3】を参照)。「キリスト教のCredoの諸命題」――すなわち第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態に属する全く人間的な教会の<客観的>な信仰告白および教義は、「異教徒、ユダヤ人、異端者たちによって誤解され、疑われ、異論が唱えられること、またそのことが起こらないところでも、教会の内部ででも、それらの諸命題のラチオ」が、「不安」をもって「問われるということを(≪アンセルムスは≫)知っている」、また彼は、「彼の読者たちが、そのことについて知っているということ知っている」、「この孤独なキリスト教の思想家もひどく生き生きと非キリスト教的思想家のもろもろの可能性と取り組んでいる」(下記の【注4】を参照)――「この状況との対決の中で、アンセルムス的な知解スルintelligereは遂行され、その限りそれは証明スルprobareになる」。

 

【注1】イエス・キリストにおいて自己啓示された神は、ご自身の中での神(自己自身である神)としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性(それ故に、われわれは神の不把握性の下にある)において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の名の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」である、それからまたわれわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動、活動)、すなわち起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造主、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉としての起源的な第一の形態の神の言葉・和解主、愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である聖霊――啓示されてあること・三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事であるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済主なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体である。このイエス・キリストにおける神の自己啓示は、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、すなわち「イエス・キリストの名」(その外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方)において、その存在の本質である「失われない単一性」・神性・永遠性の認識(啓示認識)と信仰(啓示信仰)を要求する啓示である、またその「啓示自身が啓示に固有な証明能力を持っている」。ここで神の自由は、「自己自身である神の自由」(ご自身の中での神の自由)としての「自存性の概念」(神の自由の概念の積極的側面)と「神とは異なるもの(≪具体的にはわれわれ人間≫)によって為されるすべての条件づけからの神の自由」としての「独立性の概念」(神の自由の概念の消極的側面)」との全体性・総体性におけるそれである。したがって、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事の授与は、われわれ人間(全く人間的な教会)の自由事項・決定事項には属してはおらず、あくまでも神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に属しているのである、すなわち神ご自身の自由事項・決定事項に属しているのである。キリストの啓示は、存在的な必然性と認識的な必然性を前提条件とした存在的なラチオ性と認識的なラチオ性という総体構造を持っている。

 

【注2】アンセルムスの思惟と語りにとって、「本来的な、また事柄的な表示は、結局、証明スルではなく、……知解スル(intellegere)ということである」、そして「知解スル者が求め見出す根拠そのもの」、「信仰の根拠(ratio)」に、「有用サ」だけでなく、「も」、「喜び」も「固有なものとして含まれている」。「知解スルintelligereという動詞の文字通りの意味」、すなわち「内部ニ立チ入ッテ読ムことintus legereをどこかで想起することが適切であるとすれば」、アンセルムスにおいて「知解スルintelligereこと」は、「原則的に、読ムlegereことを、すなわちCredoの中であらかじめ語られていることを」、換言すれば第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>信仰告白および教義(Credo)の中であらかじめ語られていることを、後続して「後から考えることを意味している」。何故ならば、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするキリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)に連帯して「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」だからである(『教会教義学 神の言葉』)。この根拠は、次の点にある――<先行>する神の用意に包摂された<後続>する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神の側の真実としてある、神の側からする神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な三位一体の~の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち啓示者である父なる神の子としての「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉そのもの、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)に向かっての人間の用意が存在する」という点にある。

 

【注3】これは、われわれ人間に備わったわれわれ人間の自己意識・理性・思惟の類的機能である――「人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である。人間は思惟する、すなわち人間は会話をする、人間は自分自身と話をする。動物は自分以外の他の個体がいなければ類の機能をひとつもはたすことはできない、しかし人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかという類的機能……を果たすことができる」(ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ『キリスト教の本質』)。

 

【注4】「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり(≪生来的な自然的な≫)『自分の理性や力(≪身体力、知力、感情力、悟性力、意志力等≫)によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)。第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした教会の<客観的>な信仰告白および教義であるCredoに対する関係の中で、「信ジルこと(≪主観的なcredoワレ信ズ≫)は、知解スル(intelligere)ことの前提である」。「教会の客観的なCredo」(信仰告白および教義)を信じる「信仰自身」(「Credoを信ジルことcredere des Credoとしての信仰自身」)が、「既に……知解することである」。「アンセルムスにとって問題であるところの学問、知解は、信仰ノ知解である」。したがって、「信仰ノ知解」は、「最後的には祈りおよび祈りの聞き届けの問題である」。教会の宣教、その一つの補助的機能としての神学、その思惟と語り――「それが、キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」が故に、それは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの(≪祈りの≫)人間的態度に対し神が応じて下さる(≪祈りの聞き届け≫)ということに基づいて成立している」のである(『教会教義学 神の言葉』)。

 

 「ここで、『証明』とは何を意味しているかを理解したいと思うならば」、「キリスト教のCredo(≪聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした教会の<客観的>な信仰告白および教義≫)の諸命題に内在している真理ノラチオそのもの」は、「一瞬間たりとも議論の的になっていない」ということ、「自明的な議論の基礎を形造っているということに注意しなければならない」、換言すればそれは、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした「キリスト教のCredoの諸命題に内在している真理ノラチオそのもの」として、「議論の基礎」を形造っているということに注意しなければならない。何故ならば、「キリスト教のCredoの諸命題に内在している真理ノラチオそのもの」を「議論の的」にしたならば、その「証明」は、具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者としないところの、その人間的理性が対象化し客体化した第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の<客観的>な信仰告白および教義を第一次化したそれでしかないことになってしまうからである、人間的理性が対象化し客体化したただ単なる「存在者レベルでの神」の人間的理性による証明に過ぎなくなってしまうからである。アンセルムスの「対話の形と証明しようとする意志」は、党派的二元主義あるいは党派的多元主義において「信仰と不信仰、教会の声とすべてのそのほかの声が同じ権利を持っているプラットホームに赴くということを意味してはいない」、すなわちあくまでも聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした自分の立場において両者を包括し止揚して両者を架橋するという点にある――「……質疑応答ノ形式ニヨル探究ハ多クノ人、特ニ理解度ノ鋭イ者ニハ把握シヤスク、シタガッテソレダケ彼ラノ意ニ適ウデアロウ」。「次に、仮定されている質問者兼反対者ボゾ」は、「はっきりと言葉に出して、アンセルムス的な私ハ知解スルタメニ信ジマスの地盤に身を置いており、対話の中でなされている『不信者』のために代理となることをば『仮面』(下記の【注5】を参照)と言い切っており」、「神学に相対して、同時にまた(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者した≫)教会の権威の利害を代表している」。この時、われわれは、「自由な確信の自由な学校とは別なところにいる」、換言すればわれわれは、自然科学や人文科学についての自由な学問・研究の場である「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)とは別なところにいる。

 

【注5】「私ガ異教徒ノ言葉ヲ使用スルコトヲオ許シクダサイ。私タチガソノ信仰ノ根拠ヲ探究シヨウト努メル時、……彼ラノ異議ヲ、私ガ提出スルコトハ妥当ダカラデス」、「コノ問題デハ、貴君ハ、……何モ信ジタガラナイ人々ノ立場ヲトッテイルノデ」。

 

 「また、アンセルムスと、マルムティエの修道僧で『プロスロギオン』二−四章の部分の批判者であるガウニロとの関係についても、事情は、それと別様ではない」。ガウニロは、「書物の第一部のことを、論証ガサホド確実ニナサレテイナイとしても、直観ノ正シサヲモッテナサレテタモノ」という「留保のもとで全体を肯定することができ、肯定すべきであると考えている」――「全体ガ絶大ナ敬意ト賞賛トヲモッテ受ケ容レラレルデアロウ」。したがって、ガウニロは、「神の存在ではなく」、「ただそのためになされたアンセルムスの証明のことを論じている」。アンセルムスにとっては、「あの客観的なラチオ性の資格づけられた教会的な前提なしには」、すなわち三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするキリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)という前提なしには、「知解スルことのための努力全体は、……また神学的な議論と弁証論の問いと答え全体は、対象がなく、意味のないものであった」。「神が存在し、神は最高の本質であり、三つの位格における一つの本質であり、人間となった……ということがまことである(先に述べた【注1】を参照)という前提のもとで、アンセルムスは、どの程度までそれがまことであるかという問いを論じるのであり、彼がこれこれの信仰命題に関して、この『どの程度まで』を問い、自分に問わせる時、彼は、すべての自余の命題の前提された真理からして答える」のである。何故ならば、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするキリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)に連帯して「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」だからである(『教会教義学 神の言葉』)。「もしも彼(≪アンセルムス≫)が自分自身に徹底的に矛盾すること」がないとすれば、それは、「知解スルことについてのこの彼の概念」が、「また証明スルことについての彼の概念である」からである。「『どの程度まで』についての不安」は、先の【注1】で述べたキリストにあっての神の「事柄に適ったものであり、意味深いものである」(なお、「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられるわれわれ人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰は、Tコリント13・8以下に記されている水準にあるものである)――「……私ハ論述ニ対スル反論ガイカニ単純デオヨソ愚カシイモノデハアッタトシテモ、ソレヲ無視セズニ先ニ進ミタイ。ココマデ述ベテ来タコトニ曖昧ナ点ガ残ラナイト、私モソレダケ確実ニ論ヲ進メルコトガ出来ルシ、マタ私ガ黙想シテイルコトヲ人ニ納得サセタイコトガタマタマアッタトシテモ、スベテノタトエ小サナ障害デモ除去シテイタナラ、理解ノ早クナイ者モ話ヲ聞イテ容易ニソレヲ理解出来ルデアロウ」。このことに、「すべての人間的な知解スルことの限界と不確実さについての不安、知解を基礎づける信仰の行為が真正なものであることについての不安、最後に知解をはじめて現実のものとする、常に新しく願い求められなければならない、神の恵みの現臨についての不安が、付け加わってくる」(先に述べた【注4】を参照)。「しかしながら、神が、(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である≫)聖書の中で、また(≪その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした教会の<客観的>な信仰告白および教義としての≫)Credoの中で、ご自分の事柄をよくなし給うたかについての不安」、「不信仰ないしは疎遠な宗教あるいは異端の存在を通して不安ならしめられること、啓示の否定の可能性を真剣にとること」は、「アンセルムス的証明の前提には属していない」(何故ならば、アンセルムスは、先に述べた【注1】を前提としているからである)。