本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「一 ~の用意」(その5−5)−3

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「一 ~の用意」(その5−5)−3(203−231頁)

 

「一 神の用意」(その5−5)−3

 

 「われわれは結論として」、「自然神学を聖書的に基礎づけるために……引合いに出」される「新約聖書の箇所」――すなわち「先ずローマ一・一八以下」に「立ち向かうことにする」。「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現われており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍くなったからです(ローマ一・二〇−二一)」。「神の怒り」は、人間が「あらゆる不信心と不義をもって」「真理の働きを妨げる」「人間に対して、天から啓示される」。また「われわれは、……一・二二および明らかな対置の二・一以下から、これらの人間ということで、異邦人のことが(パウロはギリシャ人と言っているが)考えられているということを読み取る。そのようなわけで、ここで疑いもなく宇宙の中での人間が指し示されている」。この宇宙の中での「人間に対して」、「神はその認識可能性の中で啓示されている」から、「神は彼にとって認識可能である」、そのように「神はご自身を啓示し給うた」。なぜならば、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける啓示は、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、~の言葉自身の自己運動、客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰、三位一体の唯一の啓示の類比としての~の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性としての「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性、を持っているからである。したがって、もしも「ローマ一・一八−二一それだけ」を「切り離」して、すなわちそれだけを形而上学的一面的固定的に抽象して、それだけを恣意的独善的嗜好的に拡大鏡にかけて全体化して、「その時代の世俗の、おそらくストア派の著者の書いたものとしてわれわれの前に」置くならば、「その時われわれは、この箇所」が、「宇宙の中での人間自身」が即自的に無媒介的に、「それとして神の真理の独立した(≪自然神学の<段階>における信仰・神学・教会の宣教の≫)証人であるということを語っていることを承認するしか」なくなるのであるが、「パウロのローマ人への手紙」の全体性、主題、この「手紙の全く特定の脈絡の中に立つ限り」、「この箇所」から、「そのこと(≪自然神学の<段階>における即自的無媒介的な神の認識、神の認識可能性≫)を言うことはできないし」、この箇所は、「事実そのことを言っていない」と言うことができるのである。「既にこの箇所に直接続いている前後関係から、いずれにしても、パウロはローマ一・一八以下で、一般にそれとしての異邦人そのものについて語っていないということが生じてくる。そういう一般的な意味での異邦人について、ちょうど後でローマ二・一以下で、一般にそれとしてのユダヤ人そのものについて、それであるからまさに一般に宇宙の中での人間そのものについて語られていないのと同じように語られていない。パウロが語っているユダヤ人と異邦人は、……客観的に、福音の中で神の啓示と(一・一五−一六)直面させられているユダヤ人および異邦人として特徴づけられている」。「ローマ人への手紙全体の主題は、神の義の啓示(≪単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、~の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストにあっての神の啓示」、~の側の真実としてのみある主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」、すなわち「神の最高の義」そのものの啓示≫)を記述することである」――この~の側の真実としてのみある主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」、イエス・キリストが信じる信仰は「神の最高の義」そのものである(『福音と律法』)、「イエス・キリストにおける神の愛」は、「神ご自身の人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」(『ローマ書』)、それゆえにこの「神の義(≪恵み≫)の啓示こそが、……神の怒り(≪裁き≫)の啓示である影の側面を持っている」、この「影の側面についてパウロは、ローマ人への手紙の第一部一・一八−三・二〇で語ったのである」。このローマ人への手紙の「第一部の言明の中心は、三・九の主張の中で明らかとなる(なお、二・九、二・一二、三・二三をも参照せよ)」――「ユダヤ人もギリシャ人も(≪宇宙の中での人間は≫)ことごとく罪の下にある」。パウロは、「ローマ人への手紙の第一部一・一八−三・二〇」において、「一・十七で告げ知らされている主題」――すなわち「神の力」である「福音」、~の側の真実としてのみある主格的属格としての「イエス・キリストの信仰(3・22)」(ギリシャ語原典「ピスティス・イエスー・クリストゥー」)、「神の最高の義」そのもの、それゆえにその出来事の自己運動における、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰、この「信仰を通して実現される」「神の義」、を展開している。単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストは、私たち人間のために、私たち人間に代わって、主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」という仕方で、すなわち「人と成り」「全く端的に信じ給う」という仕方で、「死んで甦り給うた」、換言すれば「甦り」「復活し給う」たイエス・キリストは、十字架の死において人間の「神の恩寵への嫌悪と回避」に対する神の答えである刑罰(死)を「唯一回なし遂げ給うた」(「律法の成就」・完了)、それゆえにこのイエス・キリストにある「復活の力」だけが、私たち人間の更新、「私たちの召命・義認・聖化」を可能とするのである、換言すれば人間の更新、「私たちの召命・義認・聖化」は、私たち人間の「理性や力」や悟性や想像や意志等によって「私たち自身の中に生起」するのではなく、徹頭徹尾全面的に、復活した「イエス・キリストの御業」として、(神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて)「私たちのため」に、「私たち自身の中に生起」するのである。したがって、「イエス・キリストの信仰」を目的格的属格として理解したルターの「律法と福音」という順序(『キリスト者の自由』)は、すなわち聖書的啓示証言における「律法―福音、罪―義という順序が、死―生命という順序と一致しているということ」は、ただ単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける「啓示の出来事」としてそうなのであって、それゆえにそれは、内在的にも歴史的にも、その現にあるがままの現実的な人間存在における「自分の理性や力」や悟性や想像や意志等を介し使って、往相的に一方通行的に信の尖端(「イエス・キリストの信仰」の目的格的属格理解における信仰による神の義、生)へと上昇して行く進歩発展過程に想定されるそれとは全く位相が異なるものなのである。言い換えれば、「律法の成就」・完了そのものであるイエス・キリストにある「復活の力」だけが、@「罪と死の法則」の律法・「汝斯く斯くなるべし」という要求・命令を、「生命の御霊の法則」の律法・「汝斯く斯くならん」という約束へと回復せしめるのである、A「自分の理性や力」や悟性や想像や意志等ではイエス・キリストの福音を「全く信じることができない」(『福音主義神学入門』)ところの個体的自己としての全人間・全世界・全人類の自主性・自己主張・自己義認の欲求、換言すれば不信仰・無神性・真実の罪ゆえに「地獄に追いやられたままの存在」を、「律法によって殺し(≪裁き≫)つつ、しかも福音(≪恵み≫)によって生かし給う」のである。~の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性、客観的実在、永遠的実在としてある主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」(「神の最高の義」そのもの)にのみ――すなわち、(神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて)このイエス・キリストに<のみ>感謝をもって信頼し固執する人間は、換言すればあくまでもこのイエス・キリストを<のみ>感謝をもって信じる人間は、その現にあるがままの現実的な人間存在を生きる人間の領域において先ず以て「福音と律法」という順序へと赴くことが強いられるところの、換言すれば<非>自然神学の<段階>へと移行させられるところのローマ3・22の「イエス・キリストの信仰」に対するバルトの主格的属格理解は、根本的包括的であり、原理的である。この時はじめて、私たちは、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の<恵み>の出来事)に基づいて終末論的限界の下で与えられる人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰を通して、自然神学の<段階>で「遊ぶ」神だけでなく人間もという、すなわち人間の独立的な、自主性・自己主張・自己義認の欲求もという人間の不信仰・無神性・真実の罪に対する<裁き>を、真剣に具体的に認識し自覚することができるのである。このような訳で、パウロは、「イエス・キリストにあっての神の恵みの啓示」、すなわち「神の義の啓示」は「神の怒りの啓示」という「影の側面」を持っていることを展開しているのである。このパウロは、「イエス・キリストの使徒として語っている」、イエス・キリストに<のみ>感謝をもって信頼し固執する使徒として語っている、イエス・キリストを<のみ>感謝をもって信じる使徒として語っている、それゆえに「一・一八から三・二〇まで」を「人間論的に、宗教哲学者あるいは歴史哲学者として語って」はいない、ユダヤ人と異邦人とを「イエス・キリストの十字架と甦りの光の中でみているので」、彼らが「神の正しい裁き」・「判決」の前に立たされているのを「知っている」、それゆえに「キリストの出来事に依存しない仕方で得られた宗教的・倫理的な観察と確信に基づいて知っている」のではない、そういう仕方で語っているのではない、「われわれはここで」、パウロが、「ユダヤ人について、律法の殺す働きについて、決して律法そのものと取り組んでの(彼の回心と召命に先行する)経験から知っているのではなく」、「イエス・キリストに対する信仰の服従へと、またイエス・キリストの使徒へと召されたあの方向転換」、その方向転換において「イエス・キリストの中で律法が成就したことが、したがってまた自分自身で律法を成就することが全く不可能であることが……明らかとなったあの方向転換に基づいて知っているということ」を「前提とする」。「もしこの前提が力を奮うとするならば」、「もしもローマ人への手紙の七章と八章の言明が伝記的にも事柄的にも分けることができない統一を形づくっているとするならば」、もしも「律法によってはただ罪の自覚が生じるだけである」という「ローマ三・二〇の命題」が「キリスト教的・使徒的命題であるとするならば」、「もしも律法についてのパウロの教え全体」が、その考え方の「ローマ人への手紙二章と三章」への「適用がパウロの福音の宣教の不可欠な構成要素として理解されなければならないとするならば」、「ユダヤ人について、律法の殺す働きについて」言われていることは、「ローマ人への手紙一章と二章が文学的にみてひとつの鎹の中に入れられているという事実と直面して、それと同じことが、……(≪「ローマ一・一八以下」の≫)異邦人に対して向けられている非難……についても言われなければならない」のである。「人は、パウロが力をこめてユダヤ人とギリシャ人を繰り返し一緒に名指しで呼んでおり、よかれあしかれ公分母に還元していること(一・十六、二・九以下、三・九)によく注意せよ」。「われわれはほかの文脈の中で、例えばTコリント一−二章から……パウロがローマにおける教会に対して……彼のキリスト教的・使徒的知識」からだけ語っているのを見る。このパウロの福音宣教の在り方から、「ローマ一章の脈絡の中で確かに決定的に重要な箇所である一・一八以下」――すなわちその「宣教の影の側面」は、パウロの福音宣教の「対象が、十字架(≪神の裁き≫)につけられ、また甦られた(≪神の恵み≫)イエスキリストであることが確かである限り」、それゆえにイエス・キリストが信じる信仰による「神の最高の義」そのもの――それを根拠とした・媒介した、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて与えられた「イエス・キリストを信じる信仰(≪「大きな問題においても、小さな問題においても」、イエス・キリストに<のみ>信頼し固執すること≫)が死(≪神の裁きを伴ったもの≫)でありまた生命(≪神の恵み、「福音宣教の光の側面」、イエス・キリストにある「復活の力」による生命≫)であることが確かである限り」、「パウロの福音宣教の不可欠な構成要素として理解されなければならない」のである。このように、「福音宣教の光の側面」は、「影の側面」も持っている。したがって、「福音宣教は、それを聞くすべての者にとって、新しいことの宣べ伝え、しかもイエス・キリストの死と甦りの中で現われた新しいことの宣べ伝えである。それもただ単にその光の側面に関してだけでなく、……その影の側面に関してもそうなのである」――(『教会教義学 ~の言葉T/1・2』において、次のように言われている)「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」・すなわち、「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」は、復活へと向かっている・このキリストの復活は、「新しい世」のはじまりである(復活したキリストと同じキリストの再臨、終末は<完成>の時である、それゆえにキリストの復活とキリストの再臨の間の聖霊の時代に、~の言葉に対する奉仕、すなわちあの「神への愛」と「~への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――すべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるために「教会自身と世」に対して為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えという、第三の形態に属する全く人間的なキリスト教会とキリスト者の生と生活がある)。したがって、ユダヤ人たちにとって「新しいこと」は、「イエス・キリストを退けつつ拒否した」彼らの「律法」が、「彼らを義とせず、かえって彼らを定罪する」という点にある。なぜならば、彼らは、「神によって死人の中から甦らされたイエス・キリストを堅くとって離さ」ないでいようとしなかったからである、そのイエス・キリストに<のみ>感謝をもって信頼し固執することをしなかったからである。したがって、「彼らは失われ滅びに陥っている」のである。ユダヤ人は、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方である「イエス・キリストと直面させられ」た時、「客観的に、自分自身の律法の違反について確信させられ」たのであるが(なぜならば、イエス・キリストは、「律法の成就」そのもの、「神の最高の義」そのものであるから)、そのことを認識し自覚しようとはしなかったのである。ユダヤ人が、「自分では律法を守っていると思っているその律法の遵守は、ゴルゴダの上で、実は全線にわたる徹底した律法の違反行為であったことが示され」たのである。キリストにあっての神は、「まさにそのようなユダヤ人をこそ、裁き給う(二・八以下)」。このことは、あの時代のユダヤ人だけに限ったことではなく、現存する第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)にも見出すことができることである。『福音と律法』において、次のように言われている――そのような人間は、キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、「神の要求」・命令・要請を、人間的な「自分自身の要求」に、「自分で満足させ得る要求」に変えて、「神的な『汝は斯くなすであろう』を変じて」、「人間的な余りに人間的な『汝は斯くなすべし』」をつくり上げる・神だけでなく人間も、人間の独立した思惟と行動もという、人間の自主性、自己主張、自己義認の欲求、すなわち不信仰、無神性、真実の罪に基づく神に対する「熱心さの無知」は、「神の要求」、命令、要請、すなわち律法を、人間によって恣意的に曲解された「十誡・預言者の言葉・ソロモンの処世上の知恵・山上の垂訓また使徒の報告」に過ぎないものへと変える・この時、人間のその存在、その思惟と語り、その実践は、「罪」に「勝利を収め」させる熱心さ、すなわち「不従順」、「虚偽」となる・なぜならば、その「無数の儀文」は、「偶像崇拝」、「神冒涜」を生じさせるからである・ある者は「盲目的に」仕事へと没頭し、ある者は「人目をひくような簡素さと寡欲さに沈潜する」、ある者は「その時代の人間中の様々な敗残者に対して、熱心に博愛的配慮……教育的配慮を行う」、ある者は「大規模な世界改良の偉大な計画」に邁進する、ある者は「大衆や時代の傾向と手をたずさえて、ある種の正義」に邁進する、ある者は自由主義国家、政治的近代国家、民族国家と同じ土俵上の法的、政策的、制度的言語を介した「平和を求める祈り」や「抗議声明」という行動において体制に加担している(なぜならば、人間学的側面から言っても、彼らは、西欧のマルクスやフーコーおよび日本の吉本等によって突き詰められた国家論、すなわち究極的に国家を無化し得る革命論を介した自前のそれを持っていないから、それゆえに彼らはただ時流や時勢に流されているだけだからである、それに対してバルトは、革命論の実現の困難さをよく認識し自覚していただけでなく、それが人間的な救済・平和である限り、個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和ではないことをよく認識し自覚もしていたから、あの「平和に関するバルトの書簡」で、「平和は戦争より善いものであるということを」繰り返し「断言せねば」ならないが、「それらのことは究極的に何の助けをももたらさない」ことは「明白」である、と述べたのである)、「まことに空の空なるかな、である」。これらのことは、福音の宣教の「影の側面」である。そのようなユダヤ人や彼らにとっては、「救助の可能性として、ただ」福音の宣教の「光の側面」――すなわちあの主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」――すなわち「イエス・キリストの中で啓示された信仰による義、換言すれば律法を、……メシヤが全くただ一人それを成就し給うた」ところの「光の側面」を、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で「感謝をもって承認すること中で、守ることだけが残」されているのである。
 さて、ユダヤ人たちにとって「新しいこと」――すなわち「イエス・キリストを退けつつ拒否した」彼らの「律法」が、「彼らを義とせず、かえって彼らを定罪」したことは、「ギリシャ人についても力を奮う」のである。すなわち、インマヌエル――「神われらと共にいます」という単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方における自己啓示としての「イエス・キリストの死と光」の下においては、換言すれば「われわれ」人間のために「われわれ」人間に代わって「われわれ」人間の「神の恩寵への嫌悪と回避」に対する神の答えである刑罰(死)を、「唯一回なし遂げ給うた」(律法の成就・完了)イエス・キリストの下においては、ユダヤ人が律法の「違反者として仮面をはがされた」ように、「イスラエルの律法を知らなかった」ということを理由に、換言すれば「異教主義」を理由に、「言い逃れをすることができる異邦人はもはや存在しない」のである。なぜならば、「昔から神に対して罪(≪神だけでなく人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという不信仰・無神性・真実の罪≫)を犯している」異邦人、すなわち「律法を知らないで罪を犯した者」は、「皆、この律法と関係なく滅び」、「また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれ(二・一二)」るからである。これらのことは、「使徒的宣教から切り離された人間論」的あるいは「宗教哲学」的、人間学的な単なる「知識の内容として、……引き出されたものでは」なく、私たち人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所であり、それゆえに福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」、「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」、「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せるイエス・キリストにおける啓示(~の言葉の起源的な第一の形態、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの)、使徒的知識(第二の形態、聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」)から「引き出されたもの」であるということに「よく注意せよ」。したがって、それらのことは、「無時間的、一般的、抽象的な真理ではない」、換言すればそれらのことは、福音の宣教の「光の側面」の中で下された、ユダヤ人、異邦人(全人間)に対する「客観的な判決」、すなわち福音の宣教の「影の側面」である。「イエス・キリストの中で現われた(≪~の側の真実としてのみある、客観的な≫)信仰の義」こそが、~の側の真実としてのみある、客観的な、律法の成就・完了としての主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」こそが、すなわちイエス・キリストが信じる信仰こそが、すなわち「神の最高の義」こそが、彼らの「唯一の救いである」――「われわれは、われわれの主としてのイエス・キリストに(≪神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる啓示認識・啓示信仰により、すなわちイエス・キリストに感謝をもって信頼し≫)固執することにより、またイエス・キリストがわれわれのかしらであるということに固執することにより、(中略)この主とかしらのもとで、またこの主とかしらとともに、……これからは神の義、神の子の義、神自身の義をまとっている者として生きることを許される」(『ローマ書新解』)。このような訳で、「無時間的な、一般的な、抽象的な真理として力を奮わせられるべき(人間自身がそれとして生まれながらに神と結ばれ、神を知っていることについての、総括的に言えば自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・教会の宣教における)命題」は、「このテキストから読み出」すことはできないのである。すなわち、「われわれは、ローマ人への手紙のほかの部分の中ででも、パウロのその他の手紙の中ででも、パウロがそのような(≪総括的に言えば自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す≫)真理を考慮に入れていたことを暗示するであろういかなる痕跡も見出さない」のである。パウロは、「宇宙の中での人間を、啓示の自発的な証人(≪即自的無媒介的な証人≫)としてではなく、不本意ながらその役割を果たしている証人として述べている」。なぜならば、起源的な第一の形態の神の言葉(イエス・キリスト、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの)の第二の形態に属するその人間性と共に神性を賦与され装備された使徒的証人・パウロの「真剣さと具体性」は、イエス・キリストにおける神の啓示が「宇宙の中での人間の中に、預言者的・使徒的全権の主権性をもって、読み入れられるということの中にある」からである。したがって、その聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯する第三の形態に属する全く人間的な証人バルトの「真剣さと具体性」は、キリストにおける神の啓示が「宇宙の中での人間の中に」、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性において、すなわち具体的には聖書的啓示証言を自分の思惟と語りの原理・規準・法廷としてそれに聞き教えられることを通して教えるという仕方で「読み入れられるということの中にある」のである。したがって、バルトは、『説教の本質と実際』で、次のように述べたのである――説教の無条件的な出発点と目的は、「新約聖書において聞く啓示、和解」、イエス・キリストの死と復活の出来事の啓示、その内容である「インマルエル、神われらと共にいます」である・したがって、説教者は、「キリストからすべてのことを期待しなければならない」・このことが「終末論」である・この「キリスト教的終末論とは、キリスト論にほかならない」・ここで説教は、「感謝と確信と共に期待の態度と行動」である・「第一の来臨(≪誕生・死と復活≫)と第二の来臨(≪終末、完成≫)との間(≪聖霊の時代≫)に、説教と同時にキリスト者の生活全体」とがある・説教は、説教者の自由事項ではないのであるから、説教は自分自身の言葉から由来すべきではなく、どのような場合であれ、その形式と内容において、「聖書への絶対的信頼」に基づく、「聖書講解であることの義務」を負っている・「説教者が、実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言いつくしていない(≪近代的な人間の感覚や知識を内容とする経験普遍や情報が不足している≫)と考えるようなことがある限り、彼は、この信頼、信仰を持っておらず、真に信仰によって生き」ようとしていないのである・福音は、「われわれの思考や心情の中にあるのではなく、聖書の中にある」から、「われわれ」は、「思想」、「最高の習慣、最良の見解、そのようなものいっさい」を、聖書に「聴従」することの前で、「放棄」しなければならない・「聖書は神の言葉となる」ところで、「聖書は神の言葉なのである」、すなわち神の言葉自身の出来事の運動の中において、聖書によって導かれなければならないのである・説教者にとって、教会自身と世に対して「語らなければならない彼ら自身に関する真理」 は、「神がすでに為した」、「わたしの前にいるこの人々のために、キリストは死に、甦られた」――神、罪深きわれらと共に、ということである。神の言葉に対する奉仕者(証人)にとって、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるこの媒介性・反復性(「結びつき点」)に信頼し固執し連帯することが肝要なことなのである。したがって、「結びつき点」は、人間に先験的に備わってはいないし、それゆえに人間に内在しているわけではないのであって、「福音の宣教の中で、福音の宣教と共に、新しく措定され」たのである。
 「これと同じ方向」を、「使徒行伝十七章のアレオパゴスでの説教」は、「さらに鋭い、煮詰まった形で……指し示している」。この説教において、「人間が既にイエス・キリストにあっての神の啓示なしにも、神の啓示以前にも」、「独立的に」、「自分自身」の「理性」や「力」や悟性や想像や意志等によって、「神とひとつの関係……の中に立」つことはできないということを認識し自覚していたパウロが、キリストの福音、「イエスと復活について福音」を宣べ伝えた時、人は、@アレオパゴスでは「宇宙の中での人間」、換言すれば「アテネ人やそこに在留する外国人」は「何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていた(二一節)」から、「エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者」(自然哲学、人間論、人間学における学究の徒、学者、知識人)も、「このおしゃべりは、いったい何を言おうとしているのか」・「あれは、異国の神々を伝えているらしい」と考えて、パウロをアレオパゴスに連れて行ったという「十六節以下に出ている……状況についてもよく注意せよ」、A最後的には、「アテネの哲学者たちの側から」は、「パウロに対して嘲笑と退屈感をもって応じ」られ、「ただ幾人かの者だけが、……パウロに従った」ということについて「よく注意せよ」。「アテネの哲学者たちの側から」は、「パウロに対して嘲笑と退屈感をもって応じ」られたというこの出来事は、「人間が福音に対してもともと自然的に語りかけられ得るもの」ではないということを「証し」している。言い換えれば、イエス・キリストにあっての福音に感謝をもって聞き、イエス・キリストに<のみ>感謝をもって信頼し固執し得るためには、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事(神の言葉の起源的な第一の形態であるイエス・キリスト、具体的には聖書的啓示証言、使徒的使信・使徒的知識、パウロの説教)とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事を必要とする、ということを「証し」している。したがって、「使徒行伝一四・一五−一七」の自然神学的な表現における「文学的な不幸なケース」は、「ルカ」にとって意志された自然神学に対する肯定的な「意図的意味を持っていたということはあり得ない」のであって、「ローマ一・一八−二三」の報告における自然神学的な「パウロの伝道説教の失敗と見えるところのものは、ルカにとってはむしろみ言葉を通して人間の身に起こる(≪それゆえに、み言葉を説教の原理・規準・法廷として、絶えず繰り返しそれに聞き教えられることを通して教える説教においても起こる、このみ言葉を説教の原理・規準・法廷としてそれに聞き教えられること通して教える説教は「誤謬は可能」ではあるが、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す説教は「誤謬は必然」である≫)正常な危機である」、換言すればこの時、「ルカの念頭」には、「(Tコリント一・二三で言われている)十字架につけられたキリストは、ユダヤ人にはつまづかせるもの、異邦人には愚かなものであるということが、これらの報告に際して、事柄からして、当然」あったのである。パウロは、アレオパゴスの丘でも、「ルカの考えによれば、……原則的に、これまでいつもいたるところでキリストを宣べ伝えていたのと違わない仕方で、十字架につけられたキリストを宣べ伝え」たのである。アレオパゴスの説教は、「使徒の使信」の「新しい教え」を、一般的な「この世」的な「興味」や「精神的な」知的対象として「受け取るまさにあの考え方に対してこそ、反対している」のである。神と人間との無限の質的差異の下で、その人間性と共に神性を賦与され装備された神の言葉の第二の形態の使徒パウロのアレオパゴスの説教は、それが、「まさに顕サレタ神こそが隠サレタ神」、すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにあっての神の啓示についての説教である以上、換言すればそれは、人間の構成する観念(それが低質で低級なものであれ高質で高級なものであれ「単なる知識」)ではない以上、それは、「アテネの哲学者たちの世界をそれ自身からして理解し、内部からして克服しようとするこころみではなく(≪なぜならば、キリストにあっての「神に関する無知」は、彼らの「内部から」、「単なる知識」からは「全く何も理解され、克服されること」はできないから≫)、……確かにこの世界に、しかしこの世界の<外>(≪彼岸≫)から出会う(≪自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す「単なる知識」に対する≫)裁きの告知である」。言い換えれば、このことは、第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)に引き寄せて言えば、現存する教会が、私たちが、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」、それに類するキリスト教信仰・神学・教会の宣教、「単なる知識」としてのキリスト教を、イエス・キリストにあっての神の啓示――「この一つの事柄」にのみ信頼し固執することによって、換言すれば三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態のイエス・キリスト(具体的には第二の形態の聖書的啓示証言)を、その思惟と語りと実践の原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、神の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、根本的包括的に原理的に止揚し克服して<非>自然神学の<段階>へ移行していくことが肝要なことであるということを教えている。したがって、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態(具体的には第二の形態の聖書的啓示証言)に信頼し固執したバルトは、第三の形態に属する全く人間的な教会の説教者・神学者として、イエス・キリストにあっての神の啓示――「この一つの事柄に仕えなければならな いのであって、ひとつの党派(≪ある、教派、学派、思想傾向、主義主張、時流や時勢、社会的あるいは政治的な言説と運動≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」と述べたのである・それだけでなく、「教義学者は、信仰者としても、知識を持つ者としても、神がここでなし給うことに関しては、教会の誰か一人の会員よりも、よりよい状況にあるわけではない」、教義学者とは「ただ単に教義学を専攻する大学教員や著述家だけ」のことではなく、「広く一般に、今日および昨日の教義学的問いによって突き当てられ動かされる者たち」のことであると、また「正しい注釈」のために、その原理・規準・法廷・審判者・支配者を、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としてのイエス・キリスト(神の言葉の起源的な第一の形態)に、具体的にはその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言(第二の形態)に置かなければならないと、それゆえにある哲学原理・認識論・世界観、近代的な人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍を第一次化したり、神学と人間学との混淆・混合・協働を志向し目指したりすべきではないと、また「正しい注釈」を、「最終的に……教会の教職の判決に、……間違うことはありえないものとして振る舞う歴史的――批判的学問の判決に、依存させてしま」うべきではないと、述べたのである(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)、また『啓示・教会・神学』では、「教授でないものも、牧師でないものも、彼らの教授や牧師の神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、共同の責任」を負っている、と述べたのである。なぜならば、神の言葉の起源的な第一の形態のイエス・キリストにのみ、それゆえに具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言にのみ信頼し固執し連帯すること(媒介・反復すること)を通して、<非>自然神学の<段階>へと移行することなしには、自然神学の<段階>を揚棄し克服することはできないのである。イエス・キリストにあっての単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神、すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする神の、起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身、第三の存在の仕方である「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊は、「この世界とその中にある万物を造った主であり、天地の主として、手で造った宮などにお住みにならない主、また何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要のない主であり給う」、「この世界と歴史の主」であり、神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという人間自身の共働・協働・混合を必要としない主であり、それゆえに「われわれは神のうちに生き、動き、存在している」だけなのである、それゆえに「われわれ」は、キリストの福音にとらえられた時には、終末論的限界の下で、ただ感謝をもって神の言葉に奉仕することができるだけなのである。なぜならば、イエス・キリストにおける客観的な啓示は、その啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の運動、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事(具体的には聖書的啓示証言)とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(裁きを媒介とした、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)の運動を持っているからである。したがって、イエス・キリストが、「われわれ」人間に対して、聖書および聖書に信頼し固執し連帯した教会の宣教を通して「同時的となる時と所」、「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、すなわち神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて与えられる啓示認識・啓示信仰を通して、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを、それゆえに「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として、それゆえに「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪裁き≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ということを承認し確認するのである。パウロは、人間自身が対象化し客体化した「存在者レベルでの神」を「尋ね求め、感じ取り、見出そうとする」アテに人たちの「努力全体を、『無知の時代』」と総括しながら、キリストにあっての「神の恵みを対置させた」のである。人間自身が対象化し客体化した「存在者レベルでの神」を「尋ね求め、感じ取り、見出そうとする」「ストア派とエピクロス派の哲学、およびそのほかのすべての哲学は終わった」、という福音の言葉を対置させたのである。すなわち、それらは古い、「過去に属する事柄、それとして不可能なものとなった」、という福音の言葉を対置させたのである。このような訳で、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」としての神学は、「方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」のである・「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」のである(『バルトとの対話』)。したがって、「証人としてのキリスト者」は、神の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、あの純粋な、キリストの福音、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」、すべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるために為す、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えの「奉仕」、神の言葉に対する「奉仕者」であることができるだけなのである。
 因みに、世俗化された共同宗教としてキリスト教、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教の信仰・神学・教会の宣教は、そうではないと主観的にどのように思惟し語ろうとも、次のような事態が起こっているのである――「反宗教的批判の基礎は、(≪フォイエルバッハが述べているように≫)人間が宗教をつくるのであり、宗教が人間を造るのではない、ということである。しかも宗教は、……人間の自己意識であり自己感情なのである」・しかし、マルクスは、このフォイエルバッハの思惟と語りを否定的に媒介して、「人間というものは、この世界の外部にうずくまっている抽象的な存在ではない」、自己意識・理性・思惟だけの存在ではない・「人間とはすなわち人間の世界であり、国家であり、社会的結合である。この国家は、この社会的結合が倒錯した世界であるゆえに、倒錯した世界認識である宗教を生み出すのである」・「キリスト教ではなく、キリスト教の人間的基礎」が、民主的「国家の基礎である。ここでも宗教は、その国家の成員たちの観念的な非現世的な意識として存続する。というのは、宗教は、その国家において実現される人間的発展段階の観念的な形態だからである」、世俗化された共同宗教としての自然神学の<段階>にあるキリスト教の最後的形態は擬制民主主義としての議会制民主主義に基づく政治的近代国家である。「政治的国家の成員が宗教的であるのは、個人的生活と類的生活」とが、すなわち具体的に私人として「私利・私意」に基づく利己主義的な私的他者との対立・争い、利害共同性との対立・争いのある現実的な「市民社会の生活」(現世)とあたかもそうした対立・争いのない観念的法的政治的共同的観念によって統一された公的共同性の一員・公民としての生活(天国)とが、「二元的であるため」であり、換言すれば人間が社会的現実的な生活と観念的政治的な生活との二重の生活を強いられるからであり、しかもその場合、観念的法的政治的な共同的観念を本質とする国家に第一義性・価値が移行し、天国、「宗教が市民社会の精神」となり、宗教は、「人間(≪「現実的な市民社会の生活」≫)と人間(≪観念的な天国の生活≫)との分離の表現」だからであり、それゆえに公民としての生活(擬制的された観念的な天国)が「自分の真の生活であるかのように」、第一義化・価値化され強いられるからである。政治的近代国家への途上にある宗教的対立が現存する国家(例えばプロイセン国家)における国家の問題(人間にとって部分的な観念的政治的法的解放の問題)、すなわち世俗的な自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す共同宗教としてのユダヤ教と対立するキリスト教の問題、宗教対立の問題、天上の問題は、「天国の批判」の問題、「神学の批判」の問題、自然神学の<段階>であ停滞と循環を繰り返す共同宗教としてのキリスト教の僧・神学者の批判が課題であったが、観念的政治的法的に信教の自由が保証された政教分離の政治的近代国家(例えば北アメリカ)における国家の問題は、現世的な問題への批判が、すなわち個体的自己としての全人間の社会的現実的な究極的総体的永続的な解放の問題が、観念の共同性を本質とする政治的近代国家への批判(最後的には国家の無化)が課題であって、「宗教への批判は法への批判に、神学への批判は政治への批判に変化する」、共同宗教としてのキリスト教の僧・神学者の批判は、国家の僧・神学者である制度としての官僚(市民社会生活、個別的私的現実的な生活における官僚ではなく、法の支配の下での法による行政に基づく政治的近代国家の職能団体における制度としての官僚)への批判に変化する(『ユダヤ人問題によせて』・『ヘーゲル法哲学批判序説』)。したがって、マルクスは、『フォイエルバッハ』に関するテーゼで、次のように述べたのである――@「いままでのすべての唯物論(フォイエルバッハのも含めて)のおもな欠陥は、対象、現実、感性がただ客体または直感の形式のもとにのみとらえられて、感性的な人間的活動、実践としてとらえられず、主体的にとらえられないことである。したがって、活動的な側面は、唯物論とは反対に抽象的に観念論……によって展開された」、A自然の一部としての個体的自己としての全人間は、全自然(自己身体、他者身体、外界としての自然――天然自然および人間の対象的活動によって人間化された自然としての人間的自然)との、身体と精神を介した、肉体的身体的および精神的意識的な、普遍的で実践的な相互規定的な対象的活動を行う。ここに、人間の類的な活動や生活がある。それは、人間諸個人による全自然の対象化であり、非有機的身体化であり、自然の人間化であり、その反作用によってまた人間は、人間の自然化として有機的自然となる。それは、人間の歴史的行為である。諸個人の全自然の非有機的身体化によって生み出された人間的自然は、それが感覚的客体としては孤立しているのであるが、現実的な生活過程においては媒介的に他の人間と関係づけられているから、それは協働関係としての社会を構成する。そして、その時間的累積は、人間の類の歴史として自然史の一部を構成する。また、そこにおいて、さまざまな観念諸形態が生み出される。その自然史の一部としての人類史の自然史的過程である経済社会構成体における産業構造の拡大・高度化、科学や技術の発達やその知識の増大・高度化、生活的利便性の向上等は、自然史的必然に属しているから、さまざまな規制等によって遅延させることはできても、停滞させたり逆行させたりすることはできない位相にあるものである。また、そこにおいてさまざまな観念諸形態が生み出されるのであるが、その観念諸形態は、それ自体の展開過程と増殖過程を持ち時間累積されていく(『経済学・哲学草稿』)、「歴史とは個々の世代(≪個体的自己の成果の世代的総和≫)の継起にほかならず、これら世代のいずれもがこれに先行するすべての世代からゆずられた材料、資本、生産力(≪あるいは言語、性・夫婦・家族≫)を利用(≪媒介・反復≫)する」(『ドイツ・イデオロギー』)、「私の立場は、経済的な社会構造の発展を自然史的過程として理解しようとするものであって、決して個人を社会的諸関係に責任あるものとしようとするものではない。個人は、主観的にはどんなに諸関係を超越していると考えていても、社会的には畢竟その造出物にほかならないものであるから である」(『資本論』)。これらのことを念頭に置けば、国家主義を標榜するキリスト教的著述家の佐藤優や富岡幸一郎の思惟と語りは「ばか話し」とかならないことは必然であるし、人間学と同じ土俵の上で、近代的人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍の尊重を主張し、しかも中世的思考に退行して人間学に対する「神学の優位性」を空想するルドルフ・ボーレンや小泉健や佐藤司郎の「聖霊論的説教論」も「軽薄に書き上げられた」(『シュライエルマッハーとわたし』)ものでしかないと言うことができる。すでに時代状況がゆるさなくなった西洋近代を頂点とする進歩史観に依拠して神学と人間学との混合神学を目指したモルトマンの神学的な三段階的進歩史観は、客観的な事実として、自然時空に死語化してしまっているのである。