本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「一 ~の用意」(その5−3)−2

カール・バルト『教会教義学 神論T/1 ~の認識』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「一 ~の用意」(その5−3)−2(154−177頁)

 

 

「一 ~の用意」(その5−3)−2
(2)「われわれ」は、神の認識可能性について問う場合、「~の言葉と霊の恵の中にある神の用意以外」の、換言すれば客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、~の言葉自身の出来事の運動、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識という「神の用意以外」の観点を、換言すれば~の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会の「教育的な、牧会的な観点」を、総括的に言えば自然神学の<段階>の観点を、「尋ね求めなければならない……かどうか」について問わなければならない。
 ~の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会の「教育的な、牧会的な観点」においては、総括的に言えば自然神学の<段階>の観点においては、思想の往還を持たないところで、「教会の現実存在と活動にとって必然的に前提とされるべき」全く人間的な「教会と教会を囲む世の間の、信仰と不信仰の間の」、「仮面をかぶった」一方通行的な往相的<信>からする全く人間的な「対話の基盤が問題」とされる。この場合、その「仮面をかぶった信」には、「ドストエフスキーの『大審問官』に怪しげな仕方で近づきながら……<愛>の義務として、意識的に相手に合わせ、自然的な人間の意を出迎えるということが課せられる」、人間の側からする、神と人間との無限の質的差異を止揚し後景へと退けた、神と人間、神学と人間学との協働化・混合化が課せられる。自然や人間を対象として学問研究をする「何らの抽象をもって始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」――すなわち自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す人間学的神学者たちあるいは神学的人間学者たちとは違って、真剣で誠実な宗教改革者であった実存的なルターは、近代主義的プロテスタント主義的神学者や牧師や著述家たちのように仮面をかぶってはいなかったのだが、しかし「イエス・キリストの信仰」の属格を目的格的属格として理解したルターは、半分は自然的な人間(人間的な自然)の契機を温存させ、律法と福音を対立させ、律法と福音という順序に立脚したルターは、それゆえに一方通行的に<信>の頂へと上昇して行く<信>としての往相的<信>に立脚したルターは、その「教育的な」方法(「技術」)を次のように述べている――先ずは「罪人を怖れさせ、その罪を暴露して、痛悔し且つ回心させるためには、誡めを説教すべきである」・しかし、それだけではいけないので、その次に「他の言、すなわち恩恵の呼びかけを説教して、信仰を教えるべき」である・「かようなときにはじめて他の言、すなわち神からの約束の告知が現われて、そして語る」・「さらばキリストを信じなさい」、「あなたが信じるならこれを得られるし、信じないなら得られない」(『キリスト者の自由』)。この思惟と語りは、ローマ書3・22、ガラテヤ書2・16等の「イエス・キリストの信仰」の属格を目的格的属格として理解したルターにとって、必然的帰結なのである。宗教改革者のルターは、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・教会の宣教を、少なくとも半分は温存させたのである。この、「イエス・キリストの信仰」の目的格的属格理解における往相的<信>は、どうしても自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す<信>とならざるを得ないのである。なぜならば、その<信>は、少なくとも半分はその現にあるがままの現実的な自然的人間の契機を必要としているからである。したがって、その場合には、現実性と妥当性をもってフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーが根本的包括的に原理的に批判していたように、必然的不可避的に、「存在者レベルでの神」へと、偶像崇拝へと、最後的には政治的近代国家へと馳せ下る共同宗教としてのキリスト教(宗教)へと向かわざるを得ないのである。
 こうしたルターに対して、客観的な啓示の「概念の実在」に信頼し固執して<信>と<不信>の往還を為したカンタベリーのアンセルムスは、「いかなる人間もほかの者に教えることができないことを教えることができ、また繰り返し教えるであろうことを信頼していた客観的な根拠」、すなわち「信仰の対象そのものの客観的根拠」(換言すれば、~の言葉の起源的な第一の形態、客観的な「啓示の実在」そのもの、具体的にはその第二の形態、聖書的啓示証言における客観的な啓示の「概念の実在」)の「力強さを念頭において」(換言すれば、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、~の言葉自身の出来事の運動において)、「非キリスト者をキリスト者として、不信者を信者として語りかけ」、「信者と不信者の間の深淵を超え」出て、すなわちキリスト者である自分自身だけでなく「心を頑固にし福音を認めない人間」や「異教徒」も「イエス・キリストがすでにその人をその中に(≪恵の中に≫)置いてい給う」という啓示認識・啓示信仰において「彼が自分を不信者たちに対して不信者たちと同類の者としておき、不信者たちを自分と同類の者として受けとる」ことができたのである(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)。バルトの『福音と律法』に即して総括的に言えば、この思惟と語りは、ローマ書3・22、ガラテヤ書2・16等の「イエス・キリストの信仰」の属格を主格的属格として理解するということである、換言すれば自然神学の<段階>を包括し止揚し克服して<非>自然神学の<段階>の信仰・神学・教会の宣教に移行するということである、換言すれば~の側の真実としてある、すなわち主格的属格としてある「イエス・キリストの信仰」の恵の場所において、キリスト者を含めた個体的自己としての全人間にある<不信>を包括し止揚し克服した<信>、<信>と<不信>を架橋した<信>の<段階>に移行するということである――@「自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、 現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)、A「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう(≪それは、仮面をかぶった信であるだろう≫)。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力(≪意志力、感情力等≫)によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)「わたくしは信じる」とかれが言うのは、「主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい」という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)。
 このような訳で、「われわれ」は、「聖書の側からあげられている(≪自然神学に対する≫)抗弁にもかかわらず」為されるところの神と人間との無限の質的差異を止揚し後景へと退けた自然神学の「教育学的な実験」・「自然神学の教育学的な基礎づけ」が、換言すれば「神の『自然的な』(人間的能力による――理性・自己意識・思惟、意志、感情、自然を内面の原理とする修行、による)認識可能性」についての「考慮」、思惟と語りが、「約束に満ちたもの」かどうかを「吟味してみ」なければならない。その場合、その「吟味」の「最初にして最後のこと」は、その自然神学の<段階>の「領域の中で……認識可能である『神』は、どのような性質のものであるのかということ」についてである、結論的に言えばその自然神学の<段階>の「領域の中で」の「神」は、その必然性として、結局は人間自身教会自身が恣意的独善的嗜好的に対象化・客体化した「存在者レベルでの神」(偶像)としかならないということについてである。なぜならば、『教会教義学 ~の言葉T/1・2』に即して言えば、~の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)における自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・その宣教は、その必然性として、@「正しい注釈」を、先ず以てその宣教における「第一義的に優位に立つ原理」・規準・法廷・審判者・支配者である~の言葉の起源的な第一の形態――イエス・キリストに、客観的な「啓示の実在」そのものに、具体的にはその第二の形態――聖書的啓示証言におけるイエス・キリストに、~の言葉に、客観的な啓示の「概念の実在」に、基づくことをしないからである、A「正しい注釈」を、「最終的に……(≪~の言葉の第三の形態に属する全く人間的な≫)教会の教職の判決に、……間違うことはありえないものとして振る舞う(≪人間学的な≫)歴史的――批判的学問の判決に、依存させてしてしまう」からである、それゆえに第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)は、「教授でないものも、牧師でないものも、彼らの教授や牧師の神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、共同の責任を負っている」のである。このような訳で、その必然性として、自然神学の<段階>における「神の『自然的な』認識可能性」の「段階的な進歩」の果てに想定される「神々」(偶像)は、「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異の下における、聖性・秘義性・隠蔽生を本質とする~の不把握性の下における、聖書的啓示証言における内的な、内在的な、自己還帰的な単一性・神性・永遠性を本質とする神の起源的な第一の存在の仕方である「父なる名の内三位一体的特殊性」のその<第二の存在の仕方>における顕現化、外在化、対象化――すなわち「まさに顕サレタ神こそが隠サレタ神」であるというキリストにあっての神、「啓示の実在の神」、三位一体の神ではないのである。したがって、自然神学の<段階>における「神の『自然的な』認識可能性」の「段階的な進歩」の果てに想定される「神々のうちのどれかひとつを実在の神と同一視する」思惟と語りは、「頭から否定されなければならない」。「われわれ」は、「神の啓示の主(≪単一性・神性・永遠性を本質とする~≫)、創造者(≪その~の起源的な第一の存在の仕方≫)、和解者(≪その~の第二の存在の仕方≫)、救済者(≪その~の第三の存在の仕方≫)、したがって実在の神」と、自然神学の<段階>における「神の『自然的な』認識可能性」の「段階的な進歩」の果てに想定される「神々」――すなわち「自然的な人間の熱意と空想が造り出した産物」としての「神々」(人間自身教会自身が恣意的独善的嗜好的に対象化・客体化した「存在者レベルでの」神々)とを、神と人間との無限の質的差異の下で、厳格厳密に「区別」しなければならない。なぜならば、そのような「神々」は、「まさに顕サレタ神こそが隠サレタ神」であるというキリストにあっての神、「啓示の実在の神」、三位一体の神ではないからである、そのような「神々」は、人間自身教会自身が恣意的独善的嗜好的に対象化・客体化した、次のような水準のものであるに過ぎないからである――@「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない(『フォイエルバッハ全集第12巻 宗教の本質にかんする講演 下』船山信一訳、福村出版)、A<自然的>な「人間が(≪人間的自然としてある≫)人間自身の力によって、<自然的>な能力・その悟性・その感情に応じて、認識しうるもの、 それは精々、最高の実在・絶対的存在のようなもの・絶対に自由な力の精髄・一切事物を超越する存在の精髄であろう。このような絶対最高の存在・このような究極最深のもの・このような『物自体』は、神とは何の関りもない」(『教義学要綱』)。
 このような訳で、「もしも人が、……聖書が持ち出す抗弁(≪「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異≫)を通して、教会の主および牧者と違う(≪自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・教会の宣教における≫)別な神を神と呼んだり、神として認めること」を妨げ防ぎ許さないならば、「人は自然的な人間の生きるこころみの領域の中での神の認識可能性」を認めることはできないのである、総括的に言えば自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・教会の宣教における「存在者レベルでの神」(さまざまな偶像)を認めることはできないのである。したがって、その時、「われわれ」は、自然神学の<段階>における「神の『自然的な』認識可能性」の「段階的な進歩」を、<非>自然神学の<段階>における「実在の神の認識可能性……へと通じる前段階である」とは決して言わないのである、「その時、われわれは、ここで問題になってくる神々の認識からは、実在の神に対してただ盲目的となり、実在の神の敵となることができるだけであるということを、よく」認識し自覚しなければならないのである。なぜならば、これらのことをよく認識し自覚しないならば、「われわれ」は、~の言葉の起源的な第一の形態の~の言葉、客観的な「啓示の実在」そのものを、具体的にはその第二の形態の直接的な最初の第一の教会に宣教を義務づけている聖書的啓示証言における~の言葉、客観的な啓示の「概念の実在」を、教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストにあっての神(キリストの福音)を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、すなわちすべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)を志向し目指すということを「避け」、後景へと退けてしまうからである。あくまでも神のその都度の自由な恵の決断によりキリストにあっての「実在の神ご自身が彼のところまで来たり給う」時に、人間は、その~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において信仰するかどうかという「信仰あるいは不信仰の決断の中に立つ」のである、立たされるのである。「存在者レベルでの神」(偶像、さまざまな神々)を生み出す「神の『自然的な』認識可能性」の「段階的な進歩」の果てにおいて、人間は、「信仰あるいは不信仰の決断の中に立つ」のではないのである、立たされるのではないのである。このような訳で、「たとえどんなに愛に満ちた、親愛な意図」におけるそれであろうと、あの自然神学の「教育学的な実験」、「自然神学の教育学的な基礎づけ」、「教育法の信頼性は、その目標設定に関して否定されてしまうのである」。
 すでに述べたように、~の側の真実としてある、不信を包括し止揚し克服した主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」が、その単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストが、全く同じ人間的な「教会と世の間の、信仰と不信仰の間の、共通の対話の地盤」・「基礎」である。この「共通の対話の地盤」・「基礎」において、~の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)は、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態である~の言葉を、具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉を、その宣教(その教義学)における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストにあっての神(キリストの福音)を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」を――換言すればキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、すなわちキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを、キリストにあっての「~を認識しないことから……認識することへ」の・「それと共に滅びから救いへ」の「招きと導きの業」を志向し目指していくことができるのである。第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)は、あの「共通の対話の地盤」・「基礎」において、「彼(≪不信、非キリスト者≫)が……自ら信仰の決断へと直面させられることができるために」、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる不信を包括し止揚し克服した「信仰から彼(≪不信、非キリスト者≫)に向かって語られなければならない」。したがって、「もしも人が、それと反対の流儀を支持しようとしてカンタベリーのアンセルムスの模範を引き合いに出すとしたら、それは誤解に基づいている」のである。なぜならば、アンセルムスは、「キリストが人間となり給うこと、キリストの贖罪死」の必然性を「理解シヨウ、理性的に論証シヨウとした」が、それゆえにそのことを「人は合理主義だと批判」したが、アンセルムスは「教義学的な合理主義を明確に否定」しているからである・すなわち、アンセルムスは、神学を一般的真理としてではなく、あの「啓示から得られた認識」としてのイエス・キリストの「実在から」、客観的な啓示の「概念の実在」から、啓示認識の可能性について考えたからである(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)。「アンセルムスは(特に『何故神ハ人間トナリ給ウタカ』という書物の中で)、タダ理性ダケニヨル彼の神学的な論証によってユダヤ人と異邦人を納得させることに対して自分を義務づけた。キリストカラ離レテ、アタカモソノヨウナコトハ何モ起コラナカッタカノヨウニ、……アタカモキリストニツイテハ何モ知ラレテイナイカノヨウニシテ、彼は特に、まさにキリストの和解の業の必然性を説明しようとする。しかし、アンセルムスがここで語っている理性とか必然性ということ」は、「彼にとっては、神の業(≪単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方≫)、そしてキリスト教の(≪客観的な≫)信仰告白の内容と同じであるところの」「神の真理の、理性であり、必然性である(≪客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵の決断による~の言葉自身の出来事の運動、三位一体の唯一の啓示の類比としての~の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性としての、客観的な対象として与えられ存在している、必然性としてある「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性である≫)。彼がそのような神の真理の理性と必然性を信じることによって、彼はそれを認識し論証しようとする」のである。すなわち、アンセルムスは、「そのような神の真理の理性と必然性を信じることによって」、客観的な啓示の「概念の実在」およびそれを媒介・反復した教会の客観的な信仰告白を、聖霊によって更新された人間的理性を用いて「認識し論証しよう」としたのである。信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰には、自然的な人間に人間的自然として備わっている人間的理性を必要とするのであるが、その理性は、信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識のために、神の自由な恵の決断による聖霊の注ぎによって更新されなければならないのである。しかし、「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異の下で、「聖霊は、人間精神と同一ではない」、「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」から、その聖霊の注ぎによって更新された理性であっても、その人間理性は、聖霊ではないのである、あくまでも人間的理性であり続けるのである。アンセルムスは、「理性ニヨッテ(彼の人間的な理性を用いて)理性ヲ(神の真理の神的な理性性を)、あるいは必然性ニヨッテ(基礎づけられた仕方で思惟しつつ)必然性ヲ(神の真理の神的根拠を)」、「具体的ニ、それこれの信仰命題の(例えば、キリストの和解の業についての信仰命題の)理性性と根拠を明らかにしようとする。この信仰命題がまことであるという前提のもとで、アンセルムスは、どの程度までその信仰命題がまことであるかを探求し示すのである」。このような訳で、「アンセルムスは、自然神学の守護神としてかつぎ出されるのに適してはいないのである」、換言すればアンセルムスは、「存在者レベルでの神への信仰」のベクトルを持つ「教義学的な合理主義を明確に否定」しているのである。
 さて、全く同じ人間的な「教会と世の間」・「信仰と不信仰の間」において、「対話の相手」・「信仰」が、その「信仰は……(≪不信の自分に対して、≫)有名な『理念の策略』を用いようとしている」語りであり、「仮面をかぶった語」りであり、「もともと非本来的に語られているに過ぎないということ」を、世が不信が「見出すならば(≪認識し自覚するならば≫)、その時」、たとえそのことが「好意的な意図」のものであったとしても、「当然のことながら……(≪世は不信は≫)自分が馬鹿にされ、欺かれていると、……感じる」に決まっているのである。因みに、「有名な『理念の策略』」について言えば、へーゲルは、次のように述べている――「人間は本来、理性的であると言えば、人間は素質の形で、萌芽の形で理性を持つことを意味する。この意味において人間は理性、悟性、想像、意志を生れながらにもつ。(中略)しかし子供((≪人類史に敷衍して言えば、自然を原理とするアジア的段階≫)は、このような理性の能力(≪論理的合理的体系的な思惟能力≫)」の「可能性を単にもつというだけであるから(≪そのことを認識し自覚していないから≫)、理性をもたないのと同じである。そしてそれ故に、自由でもないのである」・「アフリカ民族およびアジア民族と、……(≪西欧≫)現代人との唯一の区別」は、後者は自然から完全に超出し「自由であることを自分で知っており、それを自覚している」のに対して、前者の場合は萌芽的に「自由であるにもかかわらず」自然から超出でき得ていないために(≪自由ということを認識し自覚していないために≫)、彼らは 「自由なものとして実存」できていないところにある・ヘーゲルにとって世界史は、人類が自然(自然を原理とするアジア的段階)から超出していく、「他在のもとで自分のもとにある」、自己還帰する対自的であって対他的・他在であって自在な自由を原理とする「一なる精神」、絶対精神が、偶然的な特殊と規定された「時代」、「現実」と、それを対象的に把握する普遍的な規定としての哲学的、理性的な思惟との間で、弁証法的運動において高次の段階(人類史の頂、総括的に言えば西欧近代――なぜならば、ヘーゲルにとって発展とは、隠蔽されていたもの・自覚されていなかったものが現実化することであるから)へと自己実現していく過程である。そしてそれは、現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的であるから、自覚された普遍的理念としての自由の概念の獲得過程でもあるのである。その具現化された形態が、西欧の芸術・宗教・学(<概念>構成の頂に想定される哲学)である・このことは、理性の術策・狡知・詭計と呼ばれる・「(中略)中国の哲学とエレア哲学とスピノザの哲学が、おなじ一を原理とするといっても、肝心なのは一の内容がどうなのかです。一が抽象的な一か具体的な一か、精神的な一に達するほど具体的にとらえられているかどうか、そこに根本的なちがいがあるので、それを無視して三つの哲学を同列にあつかうのは、みずから、抽象的な一しか知らないこと、哲学の関心がどこにあるかを知らないまま哲学について判断をくだしていることを、証明するようなものです」(『歴史哲学講義』)。論述を元に戻せば、全く同じ人間的な「教会と世の間」・「信仰と不信仰の間」において、「対話の相手」・「信仰」が、その「信仰は……(≪不信の自分に対して、≫)有名な『理念の策略』を用いようとしている」語りであり、「仮面をかぶった語」りであり、「もともと非本来的に語られているに過ぎないということ」を、世が不信が「見出すならば(≪認識し自覚するならば≫)、その時」、「対話の相手」・「信仰」が「ただ外見でだけ」「不信仰の立場をとっているかのように見せかけるために」「自分自身の立場を捨てる信仰」、換言すればあの「共通の対話の地盤」・「基礎」を後景へと退けた「(仮面をかぶった)信仰」、~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従の同在性において「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に感謝をもって信頼し固執し連帯しない信仰に対して、世は不信は、「自分を閉ざし、また態度を硬化させる」に決まっているのである。言い換えれば、そのような「対話の相手」・「信仰」の語りに耳を傾けるよりは、説教者の恣意的独善的嗜好的な主題説教の語りに聞くよりは、純粋に人間的な領域の思惟と語りである、人間や世界の本質を指し示してくれ、人間的な慰安も励ましも喜びも心の響き合いも心の豊かさも享受させてくれる、吉本やフーコーやヘーゲルやフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーや太宰や漱石や賢治やドストエフスキー等々の言葉や言説に対して耳を傾けるに決まっているのである。「仮面をかぶった信仰は、……不信仰の領域においては、自分で考えているほど堪能で、有能ではないのである」。なぜならば、「自分自身(≪「『自分の理性や力によっては』……全く信じることができない」ところの自分自身≫)をも不信仰をも真剣に受け取っていない(≪認識し自覚していない≫)信仰は、信頼に値する仕方で働くことはできず」、「ただ(≪自然的な人間の「『自分の理性や力によって』」神は認識可能である、「自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と≫)心を頑なにさせるような仕方で働くことができるだけだからである」。したがって、たとえ自然神学の<段階>にある「不誠実さが見透かされ」ないで隠し通せたとしても、「その場合も、自然神学は同じように相手の心を頑なにさせる仕方で働く」だけなのである。自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・教会の宣教における問題は、総括的に言えば、それらが、啓示自身が持っている啓示の固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、~の言葉自身の出来事の運動、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく終末論的限界の下で与えられる人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰(信仰の認識としての神認識)、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性としての「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯して、~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、純粋なキリストにあっての神(キリストの福音)を尋ね求める「~への愛」と、その「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(すべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)を志向し目指すことをしない点にあるのである、本来的な意味における「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すことをしない点にあるのである、換言すれば神と人間との無限の質的差異を止揚し後景へと退けて、神だけでなく自然的な人間も、神と自然的な人間との協働・共働・混合も、自然的な人間的契機の介在も、自然的な人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求も、ということを頑なに志向し目指し続ける点にあるのである。このような訳で、自然神学には、「ただ単に事柄に関してだけでなく、また人間、世、不信仰に関する誤謬、ただ(≪聖書的啓示証言における啓示の≫)真理を損なうだけでなく、また愛(≪あの「神への愛」、「神への愛」を根拠とする「神の讃美」としての「隣人愛」≫)をも、まさに愛をこそ損なう誤謬、それがあきらかにまた教育学的な誤謬であることによって、それとして正体を暴露する神学的誤謬が存在している」のである。したがって、自然神学における「(仮面をかぶった)信仰」は、「神に対する積極的な敵意であって、決して愛に値する」ものとはならないのである。「不信仰は、(≪神と人間との無限の質的差異を「主題」とする聖書的啓示証言における啓示の≫)真理を憎む憎悪であり、そのようにして(≪神と人間との無限の質的差異を「主題」とする聖書的啓示証言における啓示の≫)真理を欠いていることである」。自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すことで「不信仰に対して、誠実な仕方で」出会わない者は、すなわち神と人間との無限の質的差異を「主題」とする聖書的啓示証言における啓示の「真理をもって出会わない者」は、「不信仰が欠いている」神と人間との無限の質的差異を「主題」とする聖書的啓示証言における啓示の「真理でもって不信仰を養うことはできない」。したがって、「人は、不信仰を、真剣に受け取らなければならない……不信仰が自分自身を真剣に受け取っているよりももっと真剣に受け取らなければならない」。そうでなければ、純粋な人間学が、ハイデッガーが、確実に、現実性と妥当性をもって、次のように根本的包括的に原理的に揶揄・批判するのである――「『今日まさにこのマールブルク(≪ブルトマン、ブルトマン学派≫)では、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ<無神論という安っぽい非難>を受け入れた方がよい』、『いわゆる<存在者レベルでの神への信仰>は、結局のところ<神を見失うこと>ではなかろうか』」。このような訳で、「信仰そのものこそ」が、「(≪その≫)信仰が信じている」「実在の神こそ」が、「真剣に受け取られ(≪認識され自覚され≫)なければならない」のであるから、「単に見かけだけの不信仰の立場に身を置くということ」、「(仮面をかぶった)信仰」の立場に身を置くということ、「あの教育的見地から」する「遊び」――すなわち「(不信仰の可能性の領域の中ヘと)相手に合わせて身をおとすということ(≪、総括的に言えば自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すということ≫)は、排除されているのである」。したがって、排除されているにもかかわらずその排除されている立場に身を置くことは、ローマ・カトリック的なまた近代主義的プロテスタント主義的な信仰・神学・教会の宣教および「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」、総括的に言えば「すべての自然神学の宿命的な、……避けられない前提である」が、あの全く同じ人間的な「教会と世の間の、信仰と不信仰の間の、共通の対話の地盤」・「基礎」、根拠においては、「人間がほかの人間に向かって、信者が不信者に向かって」、「相手に合わせて身を落さなければならない」ことはないのである、自然神学の<段階>に「身を落さなければならない」ことはないのである。なぜならば、「われわれすべてに対して、信者と不信者に対して、身をおとされた方は、ただその恵とあわれみの中にあり給う(≪キリストにあっての≫)実在の神だけ」だからである。したがって、「信仰の知識はそのことを知る知識である」、それゆえに「信者」は、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる啓示認識・啓示信仰として「そのことを知っているということを通して、不信者から区別される」のである。この時、真剣に、「信者こそ」が、「不信仰を先ず第一に、とりわけ<自分自身>の中に見出す」ことができるのである、聖書的啓示証言における啓示の「真理に対する敵意と真理を欠いている姿を(≪先ず第一に、とりわけ<自分自身>の中に≫)見出す」ことができるのである(私は、再度、引用しておきたい)――@「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう(≪その信じる信は、自然神学の<段階>における「仮面をかぶった信仰」であるだろう≫)。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力(≪意志力、感情力、自然を内面の原理とする修行等≫)によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)、A「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)。このように、「われわれ」は、自分「自身の不信仰とほかの者の不信仰に対して、最も深い謙虚さと同時に最高の確信をもって、信仰そのもの、……(≪その≫)信仰が信じている実在の神(≪キリストにあっての神≫)以外のものをぶつけてゆくこと」はできないのである。この「信仰の業こそ」が、あの「共通の対話の地盤」・「基礎」において、「対話の中で出来事となって起こらなければならない」ことである。この時、「不信仰は直ちに信仰そのものと」、すなわち「信者であるからといって不信仰の対話相手と比べて罪深さが僅かである訳ではない人間、それ故に自分たちの信仰に対して何の力も持っておらず、……自分たちの信仰でもって勝利を収めたり、ほかの者の不信仰を克服する力を持っていない人間」、神に敵対し神に服従しない人間、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力」を一切持っていない人間、全く不信仰で罪に穢れた人間の「信仰と取り組むことになる」のである。このことを認識し自覚した信者は、あの「共通の対話の地盤」・「基礎」において、啓示自身が持っている啓示の固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、~の言葉自身の出来事の運動に信頼し固執して、「要求がましくない態度」で、自分たちの「信仰の事実」を携えて「対話に足を踏み入れる」、「不信者とのまったき誠実な連帯責任性が意味する謙遜さの中で、彼らと出会ってゆくことができる」。バルトは、『証人としてのキリスト者』で、次のように述べている――「心を頑固にし福音を認めない人間」や「異教徒」に対して、「恵みから語り、恵みについて語るという以外のこと」を為すことはできない・すなわち、「われわれ」が、そうした人々に呼びかけることができるのは、@「私がその人をその中に置くことによってではなく」、イエス・キリストが(≪単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストが≫)すでにその人をその中に(≪~の側の真実としてある、それゆえに客観的現実性、永遠的実在としてある、成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・救済の中に、恵の中に≫)置いてい給うことによってである」・したがって、「われわれ」は、「キリストにあるものとしての人間のために、努力し得るにすぎない」、と。また、『カール・バルト教会教義学 和解論T/ 1 和解論の対象と問題』では、次のように述べている――単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」、「キリスト教使信の中心」は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」、「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの現実的な人間存在における不信、非キリスト者、非知、個体的自己としての全人間、全世界、全人類に対して完全に開かれている、と。ここでは、「信者たちは不信者たちにあわせるために身をおとさなければならない」ことはない、「信者たちは不信者たちに近づくために、いかなる特別な技巧を弄する必要もない」、終末論的限界の下で「信者たちは、まさに信仰の証言を携えてあわれな罪人としてほかのあわれな罪人……と並んで立つことによって、不信者たちのもとにいる」ことができる、「信仰と不信仰は出来る限り互いに近くあり、また出来る限り胸襟を開いて相対して立っている」、「信仰は不信仰に対して、……人間的な不確実さと(しかしまた)神的な確実さの中で……相対して立っている」のである。
 このような訳で、「教育的――牧会的な問いに対する注意深い答えは、……実践的な対象としての人間を念頭に置い」たとしても、「自然神学が全く用いられない方が」、その実践的な対象としての「人間に対してもっとよい奉仕が為されるであろう」という点にある、と言うことができる。なぜならば、例えば「哲学、歴史学、心理学等は、この神学的問題領域のどれにおいても、事実上、教会の自己疎外の増大以外のなにものにも役立ちはしなかった」からである、「神についての教会の語りの堕落と荒廃以外の何ものにも役立ちはしなかった」からである(『教会教義学 ~の言葉T/1・2』)。教会の宣教、それゆえにその一つの機能としての「神学は、方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」からである(『バルトとの対話』)。終末論的限界の下で与えられる信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識は、あくまでもあの神のその都度の自由な恵の決断によるからである、「われわれ」の思惟と語りが「キリスト教的」思惟と語りの「正しい内容と認識として祝福されきよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないということは、神ご自身の決定事項」であって、「われわれ」人間自身教会自身の決定事項ではないからである、それゆえにそれは、あくまでも「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立」しているからである(『教会教義学 ~の言葉T/1・2』)。このような訳で、「明らかなことは、(自然神学によって規定されている)教育的――牧会的な実践は、その事柄的な目標に関しても、その際、人間によって進み行かれるべき道に関しても、……信頼に値しない実践でしかないということである」。なぜならば、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・教会の宣教における事態は、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーが現実性と妥当性をもって根本的包括的に原理的に揶揄・批判したキリスト教そのものであるからである。この典型は、人間中心主義的に「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異を止揚した「ヘーゲルの強力な痕跡」をとどめるシュライエルマッハー、ブルトマン、モルトマン、クラッパート、パンネンベルク、エーバーハルト・ユンゲル、ラインホルド・ニーバー、ルドルフ・ボーレン、A・E・マクグラス、ファン・ルーラー、滝沢克己や八木誠一、大木英夫、寺園喜基、北森嘉蔵、倉松功、喜多川信、佐藤司郎、小泉健、それと国家主義者を標榜する著述家の佐藤優や富岡幸一郎、等々である、また阪神・淡路 大震災の時、「武器を持って神戸市役所かどこかに押しかけて行って、被災者の住めるような建物をすぐにつくってくれと、職員を脅かした」ことを話すために、吉本隆明にわざわざ電話をかけた」牧師である――吉本は、この牧師に対して、「じぶんがやったことを得々としゃべるわけです。ぼくは、ははぁ、戦前とちっとも変っていないやと思いながら聞いていた……。(中略)正義(≪この牧師自身が対象化し絶対化し企てた正義でしかない正義≫)のために(≪責任の特定できない職員を≫)脅かしたのだと得々としゃべることは、ぼくらが戦争中に『お国のために』(≪現実的な社会に生き生活する個や対・性・夫婦・家族よりも、一般国民を戦争へと駆り立て家族や親族や友人を死に追いやることもする観念の共同性を本質とする国家共同性を第一義・価値とせよ≫)といわれたのとまったくおなじことで、そんなの、ちっともよくない」・「日本というか、あるいはアジアの特質かもしれません。ラジカルな人ほど、ほかの分野の人に対してじぶんを押し付けがちです。そういう傾向がとても強い」と述べている。したがって、そのような牧師の説教の言葉に耳を傾けるよりは、吉本の言葉に耳を傾けた方がいいに決まっているのである、また教会の宣教にとって最善最良のバルトの神学のほんとうの処女作『ローマ書』第2版から『教会教義学 和解論』までの断続性と連続性の総体的構造を理解しないで、バルトの一部分を拡大鏡にかけて全体化し、出鱈目極まりない仕方でバルトを二元論的に前期と後期に分断し、バルトの「『神の人間性』に見る後期バルトの神観」について論じ、「バルトが語る<神の人間性>とは」、「たとえ人間が」「神を神とすることを止めて自らを神とし(≪換言すれば「わがまま勝手に」、「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異を止揚し後景へと退けて、神の人間化あるいは人間の神化をし≫)、神の敵として歩み始めたとしても、神(≪この牧師自身が恣意的独善的に対象化し客体化した「存在者レベルでの神」、すなわち偶像≫)は人間と関わりを持つことを決して拒まれないで、あくまでも苦難の中にうめいている人間と苦しみを共にすることを選ばれたということ」であると出鱈目極まりないことを知ったかぶりして論じたある教会の牧師である――このような牧師に対して、バルト自身は、「<神の神性において>、また神の神性と<共に>、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」、それゆえに「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異、すなわち「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人は、今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」、この牧師は、事実、理解していなかったのである。バルトと同じように、トゥルナイゼンも『ドストエフスキー』で、「~は神である。これがドストエフスキーのただ一つの中心的認識である」と述べている。したがって、そのような牧師の説教の言葉に耳を傾けるよりは、ドストエフスキーの言葉に耳を傾けた方がいいに決まっているのである。「近代における異教徒に対する伝道は、確かに(ヨーロッパおよびアメリカでの母教会の発展に対応しつつ)長い時期」、すなわち「キリスト教の使信を異教的な現存する思想と結びつけるために、あらゆる種類の自然神学を用いるべきだと信じた長い時期」を「背後に持っている。しかし、異教徒に対する伝道は、それと関連して、決してよい経験をしなかった。エルサレムの伝道会議(一九二八年三月−四月)の結末となった<完全な混乱>」は、そのことの証左である。
 この「エルサレムの伝道会議(一九二八年三月−四月)」については、「1920年代、東アジアのプロテスタントを広く巻き込んだエキュメニカル運動に焦点を当て、当時の列強が主導する国際政治のなかでキリスト教が演じた役割……とりわけ、1928年にエルサレムで開催された世界宣教会議に焦点を当て、東アジアと中東における植民地主義の文脈において、この会議がエルサレムで開催されたことの背景と意味について考えてみた」という役重善洋の「<論説>エルサレム世界宣教会議と植民地主義」(『京都大学学術情報リポジトリKURENAI』)を参照されたし。

 

(3)次回に続く