本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』「二十三節 聞く教会の機能としての教義学」「一 教義学の形式的課題」その2−1

『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』「二十三節 聞く教会の機能としての教義学」「一 教義学の形式的課題」(103−116頁) その2−1

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしておりますが、引用の不備や誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)

 

二十三節 聞く教会の機能としての教義学
「聞く教会の機能としての教義学」について、バルトは、次のような定式化を行っている。

 

 教義学は、教える教会に対して、聖書の中に証しされた啓示の~の言葉を新しく聞くよう呼びかける。しかしそのことを教義学は、ただ、教義学の側でも、自分自身聞く教会の立場を取り、それであるから教義学自身、規準――聞く教会がそのようなものとして、その下に置かれているのを知っている規準――としての~の言葉に聞き従う間に(≪indem――井上良雄的に「聞き従うことによって」≫)、なすことができる。(103頁)

 

〔この定式の詳述〕
 (≪「啓示の認識原理」であり「教会の宣教の批判と訂正」の規準・原理・法廷・審判者・支配者である<三位一体論>の唯一の啓示の類比としての~の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、客観的な対象として存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態であるその人間性と共に神性を装備され賦与された直接的な最初の第一の予言者および使徒たちの客観的な対象として存在している聖書的啓示証言、啓示の「概念の実在」である聖書を媒介・反復することを通して起源的な第一の形態である単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、客観的な対象として存在している~の言葉、まことの神にしてまことの人間、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」――すなわち「イエス・キリストの名」、「啓示の実在」そのものであるイエス・キリストと間接的媒介的反復的に同一となることを志向し目指す、第三の形態である客観的な対象として存在している人間的な教会の宣教における補助的奉仕であり一つの機能である≫)教義学は、教える教会(≪あくまでも終末論的限界の下で絶えず繰り返し、第二の形態である客観的な対象として存在している啓示の「概念の実在」である聖書的啓示証言を媒介・反復することを通して起源的な第一の形態である客観的な対象として存在している「啓示の実在」そのもののであるイエス・キリストと間接的媒介的反復的に同一となることを志向し目指すという仕方で「教える」ところの第三の形態である「教会」≫)に対して、聖書の中に証しされた啓示(≪その人間性と共に神性を装備され賦与された預言者および使徒たちの直接的な最初の第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、すなわち第二の形態である客観的な対象として存在している啓示の「概念の実在」≫)の~の言葉(≪起源的な第一の形態である単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの≫)を新しく聞くよう呼びかける。しかしそのことを(≪教会の宣教における補助的奉仕・一つの機能として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、教会に対して、その全成員に対して、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的な対象として存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態である客観的な対象として存在している啓示の「概念の実在」である聖書的啓示証言を媒介・反復することを通して、換言すれば第二の形態である聖書的啓示証言に「聞く」ことを通して、起源的な第一の形態である客観的な対象として存在している「啓示の実在」そのものであるイエス・キリストと間接的媒介的反復的に同一となるようにと呼びかける≫)教義学は、ただ、教義学の側でも、自分自身聞く教会の立場を取り、それであるから教義学自身、規準(≪原理、法廷、審判者、支配者≫)――聞く教会がそのようなものとして、その下に置かれているのを知っている規準――としての~の言葉(≪『啓示・教会・神学』に引き寄せて言えば、教会に宣教を義務づけている第二の形態である客観的な対象として存在している聖書は、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての起源的な第一の形態である客観的な対象として存在しているイエス・キリストと共に、客観的な対象として存在している第三の形態である人間的な「教会の宣教における原理」・規準・法廷・審判者・支配者である、それゆえに「聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのである」、それゆえにまた起源的な第一の形態である~の言葉、「啓示の実在」そのもの、イエス・キリスト、具体的には第二の形態である直接的な最初の第一の啓示証言、啓示の「概念の実在」、聖書≫)に聞き従う間に(≪indem――井上良雄的に「聞き従うことによって」≫)、なすことができる。(103頁)

 

註:「啓示の認識原理」であり「教会の宣教の批判と訂正」の規準・原理・法廷・審判者・支配者である<三位一体論>の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的な対象として存在している「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性等々については、<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>(2016年6月13日作成)、を参照してください。

 

一 教義学の形式的課題(その2−1)
 「ローマ・カトリック神学の用語から由来している」「教える教会」を主とする主客転倒された「教える教会と聞く教会」という「区別」は、それを<否定的>に媒介するならば、すなわちキリスト教会とその全成員が、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、三位一体論の唯一の啓示の類比としての~の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的な対象として存在している「~の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における第二の形態である聖書的啓示証言(客観的な対象として存在している直接的な最初の第一の啓示の「概念の実在」)を媒介することを通して起源的な第一の形態であるイエス・キリスト(客観的な対象として存在している~の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの)と間接的媒介的反復的に同一となるという仕方で教会の宣教における純粋な教えを志向し目指すならば、「聖書的にも根拠のある区別であって」、教会の宣教における「奉仕の二重の規定を記述していく上の前提」となり得る概念である。このような訳で、ローマ・カトリック的な概念的適用に対して「われわれは……(≪その≫)二つの概念の順序をひっくり返」して、「教会は先ず第一に、……(≪「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態に、具体的には第二の形態に≫)聞く教会であり、それから初めて、そのような聞く教会(≪第三の形態≫)としてまた教える教会(≪第三の形態≫)でもあると主張する……」。したがって、そのような第三の形態である人間的な教会の宣教における補助的奉仕・一つの機能としての教義学の課題は、イエス・キリストを主・頭とする教会の宣教がそうであるように、決して、世俗<主義>的な、「存在者レベルでの~(≪人間自身教会自身が恣意的独断的に対象化した偶像≫)への信仰」、その偶像の名と呼びかけによる恣意的独断的な救いと平和の企て、世俗<主義>的なその最後的形態としての政治的近代国家へと馳せ下る共同宗教としてのキリスト教、を志向し目指すところにあるのではないのであって、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、あの「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態であるその人間性と共に神性を装備され賦与された客観的な対象として存在している直接的な最初の第一の啓示の「概念の実在」である聖書的啓示証言を媒介・反復することを通して起源的な第一の形態である単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方(~の言葉、啓示・和解、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和、客観的な「啓示の実在」そのもの)――すなわち客観的な対象として存在している「啓示の実在」そのものであるイエス・キリストと間接的媒介的反復的に同一となるという仕方で純粋な教えを志向し目指すところにあるのである、そのような仕方でキリストにあっての神を尋ね求める「~への愛」を志向し目指すところにあるのである、そしてそのような「~への愛」を根拠とした「~の賛美」としての「隣人愛」――キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、~の命令・要求・要請、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指すところにあるのである。このような訳で、第三の形態である人間的な教会の宣教は、またその教会の宣教における補助的奉仕・一つの機能である教義学は、先ず以て、客観的な対象として存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における客観的な対象として存在している第一の形態に、具体的には客観的な対象として存在している第二の形態に、終末論的限界の下で絶えず繰り返し「聞く」ことによって「初めて」、「教える」ことができるという二重性によって成り立っているのである。したがって、「われわれは、(≪第三の形態である人間的な≫)教会を」、ローマ・カトリックのように「教皇の中で総括された司教団という形での教会の教職、それぞれ司祭へと聖別されることによって抜きん出た地位を持つようになる聖職者によって代表された教職」(集団)と教会のそれ以外の「成員すべてを含めた集団」という二元論で理解することはできないのであって、それら「成員全体をひっくるめて、聞く教会として理解すると同時に、また教える教会として(≪、この二重性において≫)理解する」のである――したがって、@「あらゆるキリスト者の生が、意識するにせよ、しないにせよ、やはりひとつの証しである」限り、「教会とその信仰を基礎づけている神の言葉(≪「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態のイエス・キリスト、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言≫)から、提起される」「真理問題はあらゆるキリスト者(≪キリスト教会の成員全体≫)に向けられている。この証しにおいてこの真理問題に対する責任を負う限り、いかなるキリスト者も彼自身がまた、神学者としても召されている」(『福音主義神学入門』)、A「教授でないものも、牧師でないものも、彼らの教授や牧師の神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、(≪終末論的限界の下で絶えず繰り返し、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態のイエス・キリスト、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通してキリストにあっての神を尋ね求める「~への愛」を志向し目指すという仕方で、すなわち純粋な教えを志向し目指すという仕方で≫)共同の責任」を負っている(『啓示・教会・神学』)、B「教義学は、決して信仰と、その認識のより高い段階を意味しない」。なぜならば、「最も単純な福音の宣教も、それが神のみ心である時には、最も制限されない意味で、真理の宣べ伝えであることができるし、最も単純な聞き手に対しても、この真理を完全な効力をもって、伝えてゆくことができる」からである。「教義学者は、信仰者としても、知識を持つ者としても、神がここでなし給うことに関しては、教会の誰か一人の会員よりも、よりよい状況にあるわけではない」。教義学者とは「ただ単に教義学を専攻する大学教員や(≪牧師や≫)著述家だけ」のことではなく、「広く一般に、今日および昨日の教義学的問いによって突き当てられ動かされる者たち」のことである、そのような教会の成員全体のことである(『教会教義学 神の言葉T/1』)。このような訳で、教会において、一方は教え他方は聞くという区別は、「ただ暫時的な、技術的な意味を持つことができるだけである。秘伝にあずかっている者と秘伝にあずからない者、神学者と『俗人』、聖職者と『平信徒の会衆』の間の区別は原則的な意義を持ってはいない」のである。言い換えれば、両者には、「原則的にただ共通の責任と参与があるだけである」。なぜならば、「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の 信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」・「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」からである(『福音と律法』)。したがって、「教会は、(≪~のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて≫)人間が神に聞くというこの一事によって―― 神が人間に語り給うゆえに聞き、神が人間に語り給うこと(≪~の側の真実としてのみある、それゆえに啓示の客観的現実性・客観的実在としてある、主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」、イエス・キリストの死と復活、インマヌエル≫)を聞くというこの一事によって、基礎づけられ、支えられているのである。(中略)このことが起こるところ、そこではたとえ二人三人の集まりであっても、またこの二人三人が決して選り抜きの人でなくても、また高い水準にさえ達していなくても、またむしろ人間の屑に属する者であるようなことがあっても、(≪その「ある特定の」人たちが、「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、神の自己啓示を通して、すなわち客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて~の言葉に「参与」し、「神の言葉」を聞き、啓示認識・啓示信仰し、そして語る「責任ある証人」となる出来事が惹き起こされたならば、≫)教会は存在する」・したがって、そうでない場合は、「どのような大群衆をその中に擁し、どのように優れた個人をその中に擁していても教会は存在しない。またそれが、もっとも豊かな生命を示し、国家と社会において、どのように尊敬されようとも教会は存在しない」のである(『啓示・教会・神学』)。総括的に言えば、キリスト教会、その全成員は、客観的な対象として存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態であるイエス・キリスト(客観的な対象として存在している~の言葉、「啓示の実在」そのもの)に、具体的には第二の形態である聖書的啓示証言(客観的な対象として存在している預言者および使徒たちの直接的な最初の第一の啓示の「概念の実在」)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して、非僧非俗であることが、すなわち即自的な僧(神学者、聖職者、牧師、著述家、知)に対しても即自的な俗(俗人、平信徒、会衆、非知)に対しても、それらを物神化したり至上化したり第一義化するのではなく、それらから対象的になって距離をとることが肝要なことなのである。
 教義学が「出発するところの事実」の「曖昧性」、「また繰り返し戻って行くところの事実」の「曖昧性」の原因は、「人間的な言葉」――すなわち、キリスト教会の宣教において、「外面的状況および精神的、歴史的状況の前提の下で」、あるいは「個人的な存在と意志、体験、認識の前提の下で」、「人間がほかの人間に向かって、~および神に対する人間の関係について知識を伝え、……彼ら自身の内面的および外面的な生に関して」、「欺瞞的に」「何らかの仕方で聖書を引き合いに出し」ながら、また人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍や人間論や人間学的な哲学原理・認識論・世界観を介して「欺瞞的に」「聖書の注釈に何らかの仕方でくみし」ながら、人間自身教会自身が恣意的独断的な言葉で「指示と忠告を与えようとする試み」における「欺瞞」にある。したがって、そこでは、「~の言葉を宣教する代わりに」、換言すれば客観的な対象として存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態(客観的な対象として存在している~の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの、イエス・キリスト)、具体的には第二の形態(客観的な対象として存在している直接的な最初の第一の預言者および使徒たちの聖書的啓示証言、啓示の「概念の実在」)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復する代わりに、「ひどく人間的な邪道に導く逸脱(≪恣意性独断性、「欺瞞」≫)ということが……起こっている」のである。このことは、「教会史」に引き寄せて言えば、「聖書に対する関係が結局欺瞞に基づいており、欺瞞から成り立っている教会の宣教を通して邪道に導かれるということが、終始また印象的に生き生きとした教会の生、説教者の印象深い真面目な敬虔さと結びついており、それであるからあの事実の曖昧性を事情によってはさらに増し加えることになるという事実」が示している。言い換えれば、そこでの曖昧性と欺瞞と逸脱における「人間的な言葉」は、終末論的限界の下で絶えず繰り返し客観的な対象として存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態を媒介することを通して起源的な第一の形態と間接的媒介的反復的に同一となるということを志向し目指さないところの、そういう仕方で純粋な教えを志向し目指さないところの、人間自身教会自身の恣意的独断的な言葉なのである。したがって、そこでの「人間的な言葉」は、「教会の宣教を通して邪道に導く」「曖昧性」と「欺瞞」のそれなのである。なぜならば、そこでの「人間的な言葉」は、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、「啓示の認識原理」であり「教会の宣教の批判と訂正」の規準・原理・法廷・審判者・支配者である三位一体論の唯一の啓示の類比としての~の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的な対象として存在している「~の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯して、その第二の形態であるその人間性と共に神性を装備され賦与された直接的な最初の第一の予言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(客観的な対象として存在している聖書的啓示証言、啓示の「概念の実在」、聖書)を媒介・反復することを通して、起源的な第一の形態である単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方(客観的な対象として存在している~の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの、イエス・キリスト)と間接的媒介的反復的に同一となることを志向し目指さないからである。したがって、そこでの教会の宣教における「人間的な言葉」は、人間自身教会自身が対象化した「存在者レベルでの~への信仰」(偶像崇拝)とその偶像の名と呼びかけによる救いと平和の企て、すなわち「教会の宣教を通して邪道に導く」、恣意性と独断性、「曖昧性」と「欺瞞」に基づいたそれなのである。その典型が、「受け入れ難く耐え難い」人間中心主義者、「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」・「神の自由を認識していないという事態」を惹き起こした近代主義的プロテスタント主義者、すなわち「聖書の主題であり哲学の要旨である」~と人間との無限の質的差異(『ローマ書』)を揚棄し捨象し「ヘーゲルの哲学的手法」を踏襲したシュライエルマッハー等々であった――「われわれは、シュライエルマッハー以外の他の人々の所でも、……〔この〕ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇するであろう」(『ヘーゲル』)。シュライエルマッハーは、人間学的に「教会とは、『ただ自由な人間的行為を通して発生し、またただそのような自由な人間的行為を通して存続することのできる共同体』であり、『敬虔性(≪絶対的依存感情≫)と関連した共同体』である」と言う。したがって、シュライエルマッハーおいては、信仰も、人間実存の歴史的存在の一つの在り方として理解される。そのような訳で、神学、教義学における「近代主義的思惟は、人間が、誰かによる呼びかけを受けることなしに、(中略)人間がじぶんを相手に自分だけでひとりごとを言っているのを聞く。それ故、近代主義にとっては、宣教は、『教会』と呼ばれる人間的な共同体の一つの必然的な生の表現」となる。シュライエルマッハー等近代主義者は、人間の「精神的な促進のために、自分と彼らに共通な宝庫からくみ取りつつ、この宝庫をさらに豊かにするために」、対自的で対他的な自由な人間の自己意識の類的活動の無限性に信頼し固執して、人間自身教会自身の恣意的独断的な救いと平和の企て、「自分自身の歴史」と「現在の解釈」を表現しようとする。すなわち、彼らは、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、聖書的啓示証言によればそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的な対象として存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態に、具体的には第二の形態に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通してキリストにあっての神を尋ね求める「~への愛」へと向かう、すなわち純粋な教えへと向かうベクトルを持った宣教を志向し目指すのではなく、多かれ少なかれ人間自身教会自身の恣意的独断的な「自己表現としての宣教」を企てるのである。このようなキリスト教、キリスト教会、その宣教は、現実性と妥当性を持っているところの、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの根本的包括的な原理的なキリスト教批判の対象そのものなのであり、最後的には政治的近代国家へと馳せ下る世俗主義的な共同宗教としてのキリスト教批判の対象そのものなのである――「人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である。人間は思惟する、すなわち人間は会話をする、人間は自分自身と話をする。動物は自分以外の他の個体がいなければ類の機能をひとつもはたすことはできない、しかし人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかという類的機能……を果たすことができる」・「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である」(『キリスト教の本質』)、「神とはまさに、人間の(≪対自的で対他的な自由な自己意識の類的活動の無限性における≫)想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」(『フォイエルバッハ全集第12巻 宗教の本質にかんする講演 下』)。
 教会の宣教、その補助的奉仕・その一つの機能である教義学は、~と人間との無限の質的差異の下で、聖性・秘義性・隠蔽生を本質とする~の不把握性の下で、それゆえに終末論的限界の下で、「~が語り給うたし、語り給うし、語り給うであろう」という出来事・「神は語られたし、今なお語るし、再び語り給うであろうという出来事」、「教会によって常に新しくつかまれ、信仰の中で、したがって信仰の服従の中で、新たにつかまれるべき」「約束に基づいて」、すなわち客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証し力、その都度の~の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰、「啓示の認識原理」であり「教会の宣教の批判と訂正」の規準・原理・法廷・審判者・支配者である三位一体論の唯一の啓示の類比としての~の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的な対象として存在している「~の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性――この関係と構造・秩序性において「~の言葉の三形態」が授与されているのであるから、全キリスト教会、その全成員は、「説教者とその聞き手」は、~の言葉から「孤立」しているわけでは決してないし、また~の言葉を人間自身教会自身が独力でつくりあげなければならないことは全くないのである。したがって、ある社会構成・支配構成・文明的文化的構成の歴史的な時代状況に現存している全キリスト教会、その全成員は、「説教者とその聞き手」は、啓示について恣意的独断的に「例証」するのではなく、具体的にはある時代状況のただ中において「別の言葉」で聖書的啓示証言と「同一のことを言う」べきなのである――、あの~の言葉の自己運動に信頼し固執し連帯してその第二の形態である客観的な対象として存在している預言者および使徒たちの聖書的啓示証言を媒介することを通して起源的な第一の形態である客観的な対象として存在している「~の永遠の言葉」としてのイエス・キリストと間接的媒介的反復的に同一となることを志向し目指すのである、そういう仕方でキリストにあっての神を尋ね求める「~への愛」を志向し目指すのである、すなわち人間自身教会自身の恣意性独断性によってでなく、具体的には聖書的啓示証言を教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、~のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される啓示認識・啓示信仰に依拠して「純粋な教えの明瞭さ」を志向し目指すのである、キリストにあっての「~についてよりよく語」ることを志向し目指すのである。言い換えれば、教会の宣教は、その補助的奉仕・その一つの機能である教義学は、「人間的な語りと語りの可能性のすべての内容の彼岸において、語られなければならないことは徹頭徹尾すでに語られたし、また語られるであろうということを思い出させることから……成り立っている」のである――「パウロはその時代の子としてその時代の人々に語った。けれどもこの事実よりはるかに重要な事柄は、いま一つの事実、すなわち彼は神の国の預言者ならびに使徒としてあらゆる時代のあらゆる人々に語っている、ということである。(中略)聖書の精神は永遠の精神なのである。かつての重大問題は今日もなお重大問題であり、今日の重大問題で単なる偶然や気まぐれでない事柄は、またかつての重大問題と直結している」(『ローマ書』)。したがって、「何が説教されるべきであるのかという問いに関しても」、教会がある対象を恣意的独断的に「是認し、選び、それからそれに基づいて語るということが教会の力の中にある」ということは、「排除されているのである」。また教会が「答えを自分でも与えようとすることができる」ということは「排除されているのである」。このような訳で、教会は、「すでに与えられている答えを承認し、受け取り、自分をそれに合わせて方向づけるということ……が教会の宣教の内容に関して」肝要な問題なのである。すなわち、教会の宣教は、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、純粋な教えを「聞いて」「教えられる」ために、「純粋な教えの客観的可能性」としての、すなわちそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的な対象として存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態を媒介・反復することを通して起源的な第一の形態と間接的媒介的反復的に同一となることを志向し目指すということ、そういう仕方でキリストにあっての神を尋ね求める「~への愛」を志向し目指すということ、またそういう仕方で「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すということ、そしてそうした「~への愛」を根拠とした「~の賛美」としての「隣人愛」――キリストの福音の告白・証し・宣べ伝え(聞いて「教える」)を志向し目指すということ、「教会の宣教のそのような方向づけの必然性を思い起こさせる」ところで、教会との「完全な連帯責任性」において、教会の宣教における補助的奉仕であり一つの機能としての「教義学的作業、教義学的命題形成、教義学的教えと体系は、……成り立っている」のである。なぜならば、「教会の宣教の神的な主体(≪客観的な対象として存在している、教会の宣教における「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての「啓示の実在」そのものであるイエス・キリスト、具体的にはそれと共に教会に宣教を義務づけている教会の宣教の原理である直接的な最初の第一の啓示の「概念の実在」である聖書≫)が人間的な主体(≪キリスト教会、その全成員≫)に対して」、規準・審判者・支配者・「法廷として相対して立っていないならば、純粋な教えの客観的可能性は……無力なものになってしまい、そのような純粋な教えの客観的可能性の中で反映されている約束そのものは意味のないものとなり、その実在性において疑わしいもの、……認識できないもの、となってしまう……」からである、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方(永遠の言葉の受肉)である「~の言葉(≪第一の形態≫)はイエス・キリストであり、イエス・キリストは聖書(≪その人間性と共に神性を賦与された第二の形態≫)の中ですべての時代に対し、証しされているがゆえに、……その中(≪その人間性と共に神性を賦与された第二の形態の中≫)で、~ご自身が教会の宣教(≪人間的な第三の形態≫)の中で語り給うであろうという約束は認識され得るものであり、また意味深いもの」だからである。したがって、「そのことの中で」、換言すればそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的な対象として存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態を媒介することを通して第一の形態と間接的媒介的反復的に同一となることを志向し目指す中で、すなわち「聖書への絶対的信頼」(『説教の本質と実際』)、終末論的限界の下で絶えず繰り返し聖書に「聞く」という「信仰の服従の中で」、~のその都度の自由な恵みの決断によって客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰が授与されるということの中で、「純粋な教えの客観的可能性は」、それゆえに「想起の可能性は、……現実的な、具体的な実現可能性を持っているのである」、「教える教会が教えることは出来事となって起こることができるのである」。この時、その教会の宣教における「人間の言葉」は、「~の言葉への奉仕」である。このような訳で、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性において客観的な対象として存在している可視的な「~の言葉」は、「先ず啓示という第一の形態を持っており、また聖書という第二の形態を持っているがゆえに」、「それに基づいて、……教会の宣教という第三の形態を持っているということが言われることができるし、いわれなければならない」のである。「教会の宣教が~の言葉であるということ」は、「ちょうど~がイエス・キリストの中で」、また「~がイエス・キリストの証人としての預言者と使徒の中で、ご自身を語られたし、語るし、語り給うであろうのと同じように」、「~は教会の宣教の中で……語り給うということを意味している」。したがって、教会の宣教、その補助的奉仕であり一つの機能としての教義学に対して「要求された方向づけ」は、「ただ一つの特定の方向、~の言葉のあれら二つの最初の形態(≪客観的な対象として存在している可視的な「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態、すなわち「啓示の実在」そのものであるイエス・キリスト、具体的には第二の形態、すなわち直接的な最初の第一の啓示の「概念の実在」である預言者および使徒たちの聖書的啓示証言≫)を通してしるしづけられた方向、をとって進むことができるだけである」。言い換えれば、「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」のであり、それゆえに神学も理性的な知的営為ではあるが、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」のである(『バルトとの対話』)。このような訳で、教会の宣教における補助的奉仕であり一つの機能である教義学の「形式的課題」は、「教会の宣教」における~の言葉は客観的な対象として存在している「~の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における第一の形態としての・具体的には第二の形態としての「~の言葉であることを思い出させることから成り立っている」のである。したがって、教義学は、「自らの言動に気をつけ、教会の中での一致を目差すようにとの一般的な呼びかけではなく」、あくまでも客観的な対象として存在している「~の言葉の第一の形態および第二の形態の存在を通して規定された(そのようなことを目差すようにとの)呼びかけ」なのである。この「呼びかけ」の「形式的な側面」における「特性」は、「先ず第一に教える教会に向けられた聞くようにとの呼びかけ」、すなわち教会に宣教を義務づけている、教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者である「聖書(≪第二の形態、客観的な対象として存在している直接的な最初の第一の啓示の「概念の実在」≫)の中に証しされているイエス・キリスト(≪起源的な第一の形態、客観的な対象として存在している「啓示の実在」そのもの≫)に聞くようにとの呼びかけである」という点にある。なぜならば、「教会が教えるということはあくまでも人間的な行為であり、そのようなものとして」、人間的なそれであるから、意識的にか無意識的にか恣意性・独断性・曖昧性・欺瞞性・誤謬性・逸脱性・不服従の陥穽に陥るそれとしてあるからである。
 「教会的な教え」は、「その現実存在」を、人間自身教会自身がある社会構成・支配構成・文明的文化的構成の歴史的な時代状況の中で、すなわち個・現存性――類・歴史性の中で生きることが不可避である以上、「正しく事柄が起こっている時には、(≪客観的な対象として存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯したところの、資質・個性や時代性に規定された、「個々の説教者の具体的な個人的な人格と彼らの教会の現状」における≫)聖書の説明および適用……それと共に神の啓示の宣教……の思想と概念の系列……の中に持っている」。言い換えれば、「理想的な場合」には、「その教えの形態」は、そうした「人間的な被制約性にもかかわらず、……人間的な被制約性の中で、徹頭徹尾、(≪「信仰の中で、信仰の服従の中で」、客観的な対象として存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してその第一の形態を、具体的にはその第二の形態を媒介・反復することによって、換言すればその第一の形態に、具体的にはその第二の形態に「聞く」ことによって≫)~の言葉を忠実に正しく聞くことから由来しており、それであるからそこで語られたところのことは、純粋な教えの出来事として、~の言葉の純粋な宣教として特徴づけることができる……」のである。ところで、自己意識における対自的意識と対他的意識、言語の自己表出と指示表出の構造である現実的意識の外化である言語表現は、「現実的人間との関係の意識、いわば対他的意識(≪実践的意識≫)の外化である」が、表現されるや否やそれは百人百様の享受の対象となるから、「その発生と最初の登場の段階を過ぎるや直ちに、すなわち第一の口から第二の口に移るとき、……すでに問題的になってくる」のである。言い換えれば、この時、「教会的な教え」は、意識的にか無意識的にか、客観的な対象として存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態を媒介することを通して起源的な第一の形態と間接的媒介的反復的に同一となることを志向し目指すということを後景へと退け排除していくのである、それゆえにキリストにあっての神を尋ね求める「~への愛」を志向し目指すということを後景へと退け排除していくのである、それゆえに「純粋な教え」を志向し目指すということを後景へと退け排除していくのである、それゆえに起源的な第一の形態、「啓示の実在」そのものであるイエス・キリストからの逸脱を惹き起こすのである、具体的には第二の形態、啓示の「概念の実在」である聖書的啓示証言からの逸脱を惹き起こすのである。「換言すれば、彼らは……自分で考え出した美しい、強力な、時代の流れに沿った事柄」、人間自身教会自身が恣意的独断的に対象化した「存在者レベルでの~」(偶像)、その偶像の名と呼びかけによる救いと平和の企て、最後的に政治的近代国家へと馳せ下る世俗<主義>化した共同<宗教>としてのキリスト教、を志向し目指すのである。そして、彼らは、「神の要求」・命令・要請を、人間自身教会自身によって恣意的独断的に曲解された「十誡・預言者の言葉・ソロモンの処世上の知恵・山上の垂訓また使徒の報告」に過ぎないものへと変えるのである。この時、人間のその存在・その思惟・その実践は、「罪」に「勝利を収め」させる「熱心さ」・「不従順」・「虚偽」となるのである。なぜならば、その「無数の儀文」は、「偶像崇拝」・「~冒涜」を生じさせるからである。この時、「霊において始まった宣教は直ちに、全線にわたって、肉にあって終わっていくという傾向を示す」のである。すなわち、この時、キリスト教会、その成員は、「啓示の認識原理」である三位一体論の唯一の啓示の類比としての~の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的な対象として存在している「~の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態を、具体的には第二の形態を後景へと退け第二義的なものとして、それゆえに議会制民主主義、資本主義社会(近代市民社会)――政治的近代国家の枠組みに束縛されてしまって、それゆえにその法的言語や政策的言語に束縛されてしまって、それゆえにその法的言語や政策的言語を介して、ある者は「盲目的に」仕事へと没頭し、ある者は「人目をひくような簡素さと寡欲さに沈潜」し、ある者は「その時代の人間中の様々な敗残者に対して、熱心に博愛的配慮……教育的配慮を行」い、ある者は「大規模な世界改良の偉大な計画」に邁進し、ある者は「大衆や時代の傾向と手をたずさえて、ある種の正義」に邁進し、人間自身教会自身の自主性・自己主張・自己義認の欲求を、すなわち不信仰・無神性・真実の罪を、前面化・全面化させるのである(『福音と律法』)。教会史に引き寄せていえば、その時、「始めの曖昧さのない純粋な教えが、今や再び教会の宣教の曖昧な事実となってしまったのである」。このような訳で、その現にあるがままの現実的な人間存在における、人間的な、全キリスト教、全キリスト教会、その全成員にとっては、あの「理想的な場合」における「曖昧さのない純粋な教え」は、形而上学的固定的に「保証されてはいないのである」。したがって、人間的な、全キリスト教、全キリスト教会、その全成員は、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、具体的には第二の形態である聖書的啓示証言を教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、その第二の形態を媒介・反復することを通して、すなわちその第二の形態に「聞く」ことによって、起源的な第一の形態であるイエス・キリストと間接的媒介的反復的に同一となることを志向し目指さなければならないのである、そういう仕方で「曖昧さのない純粋な教え」を尋ね求めなければならないのである。なぜならば、「たとえどれほど信頼に値する人格も、たとえどれほど忠実な信仰の交わりも」、それがその現にあるがままの現実的人間存在、ただの人間のそれである以上、あの「理想的な場合」における「曖昧さのない純粋な教え」を「守ることはできない」からである。このような訳で、「教会史の現実の事実は決して、われわれが仮定した理想的なケースに対応してはいない」のである。すなわち、人間的な、全キリスト教、全キリスト教会、その全成員の宣教における現実の事実は、次のような具合である――人間的な第三の形態の教会の宣教において、~の言葉は、「教えの形態が発生した際、既に、部分的に聞かれ、しかし部分的に聞かれず」、換言すれば一部分を拡大鏡にかけて全体化されて聞かれ、それゆえに「全く別な声によってかき消されてしまい、……一義的に純粋な教えとはならず、常にただ、いろいろと違った種類の曖昧性、より大きな曖昧性とより小さな曖昧性、……より危険な曖昧性とそれほど危険でない曖昧性の間の変化に富んだ戦い」の過程の中に置かれてしまうのである、人間自身教会自身が「わがまま勝手に」に為す「互いに区別されたさまざまな教えの形態の間での絶えざる」戦いの過程の中に置かれてしまうのである。