『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』「二十二節 教会の委託」「三 倫理学としての教義学」その2−2
『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』吉永正義訳、新教出版社に基づく
カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』「二十二節 教会の委託」「三 倫理学としての教義学」(91−102頁) その2−2
「教義学と倫理学を方法論的に区別しようとする試み」は、教会の宣教における「主体の宿命的な取り違え」による「試み」、すなわち人間自身教会自身の恣意的独断的な世俗<主義>化の「試み」である。なぜならば、その「試み」は、三位一体論の唯一の啓示の類比としての~の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性である「~の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯して、現実性と妥当性のあるフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの根本的包括的な原理的なキリスト教(宗教)批判を、その信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成それ自体において、根本的包括的に原理的に止揚し克服していくことが必要であることを認識し自覚せず、それゆえにその作業をなすことを全く放棄してしまって、次のような認識と実践を持たない「試み」だからである――すなわち、その「試み」は、具体的には教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者である「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態(その人間性と共に神性を装備され賦与された予言者および使徒たちのイエス・キリストについての聖書的啓示証言、客観的対象として存在するところの直接的な最初の第一の啓示の「概念の実在」)を媒介・反復することを通して起源的な第一の形態(~の言葉、啓示・和解、単一性・神性・永遠性を本質とする~のその第二の存在の仕方、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」、~の側の真実としてのみある啓示の客観的現実性・客観的実在、客観的対象として存在するところの「啓示の実在」そのもの)と「間接的」・媒介的・反復的に同一となることを志向し目指していくという認識と実践を持たない「試み」だからである、またそういう仕方でキリストにあっての~を尋ね求める「~への愛」と、あくまでもそのような「~への愛」を根拠とした「~の賛美」としての「隣人愛」――キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、~の命令・要求・要請、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」(キリストの福音の告白・証し・宣べ伝え、行為・実践)を志向し目指していくという認識と実践を、またそういう仕方で「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指していくという認識と実践を持たない「試み」だからである、また「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」のであるから、聖書的啓示証言に信頼し固執して「別の言葉で同一のことを言う」ところの解釈を志向し目指していくという認識と実践を持たない「試み」だからである――神の言葉は、「偶発的な同時性」、すなわち「特定のアノトコロデアノ時ニが、特定のココデイマ」となる。したがって、神の言葉は、「その都度、全く特定の一回的な、独一無比な」言葉である。しかしまた、神の言葉は、「神の口を通して語られて、同時的」である。すなわち、神の言葉は一つである、「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」イエス・キリストにおいて連続性を持っている。この単一性・神性・神性を本質とする~の第二の存在の仕方(~の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの)であるイエス・キリストの連続性における「同時性」が、「特定のアノトコロデアノ時ニが、特定のココデイマ」となる出来事の時間・空間のベクトル変容を可能とするのである。すなわち、そのイエス・キリストの「特定のアノトコロデアノ時ニ」において、バルトの「特定のココデイマ」は、預言者や使徒たちの特定の時空と交点を結び得るのである。言い換えれば、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態である聖書的啓示証言を媒介することを通して起源的な第一の形態であるイエス・キリスト(~の第二の存在の仕方、~の言葉)と「間接的」・媒介的・反復的に同一(「同時性」)となることができるのである、交点を結び得るのである。「時の全くの厳格な相違性の中で、神の言葉は一つであり、同時的である(イエス・キリストは、きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない)」(『教会教義学 ~の言葉T/1』)。したがって、その「試み」は、この世的な革命の課題においても、国家の無化を伴う個体的自己としての全人間の社会的現実的な究極的総体的永続的な解放の課題・構想についての認識と自覚だけでなく、その過渡的な課題・構想についての認識も自覚も持たないところの場当たり的な社会的政治的な実践を「主体」化(世俗<主義>化)する「試み」に過ぎないものなのである――「ドストエフスキーの書いたあの大審問官は、神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていたのであるが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の善意(≪その現にあるがままの現実的な人間存在である彼の自己意識が対象化した対象物・「存在者レベルでの~」・偶像、その偶像としての~の名と呼びかけによる救いや平和の企て≫)によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、(≪人間自身教会自身が為す恣意的独断的な≫)最も洗練された支配行為に過ぎなかったのである。神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえどのように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう。またそのようなところには、教会は存在しないのである。そのような救いの計画と救いの方法の独断性が、神に余りに僅かしか信頼せず、人間に余りに多く信頼するという点に現われるということは、疑いない」(『啓示・教会・神学』)。ここでは、「~と人間の取り違えが起こ」っている。「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」~と人間との無限の質的差異(『ローマ書』)の揚棄、捨象、排除が起こっているのである、すなわち~の人間化・人間の神化が、神学の人間学化・人間学の神学化が、人間自身教会自身が対象化した「存在者レベルでの~への信仰」化が、観念の共同性を本質とする共同宗教としてのキリスト教の最後的形態である政治的近代国家への埋没が、キリスト教の世俗<主義>化が起こっているのである。その証左が、議会制民主主義、資本主義社会(近代市民社会)――政治的近代国家の枠組みに束縛された、政治的近代国家の言語(法的言語、政策的言語)を介した昨年の、日本基督教団の「戦後70年にあたって平和を求める祈り」であり、カトリックの「抗議声明」である。このような訳で、「教義学と倫理学を方法論的に区別」することはできないのである。言い換えれば、教義学は倫理学を包摂しているのである。したがって、バルトは、「かつて語った説教(≪あの「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯した教会の宣教における教え・教義、言葉≫)の一貫した繰り返しが」、「ある(≪社会的政治的な≫)状況下において、その(≪社会的政治的な≫)状況に抗するそれとして」、おのずから実践に、決断に、行動(≪実践≫)になって行った」(『バルトの生涯』)、と述べたのである。したがってまた、二元論的に説教(言葉)に対して意志的な社会的政治的な実践があるのではなく、倫理学は教義学に包摂されてあるのだが、社会的政治的な実践は状況に強いられて不可避的にやってくるものであり、その原動力は、社会的政治的な実践に対する意志にあるのではなくて、あの「かつて語った説教の一貫した繰り返し」から「おのずから」必然的にやってくるものなのである。このような訳で、バルトは、社会的政治的な参加や発言や実践が必要である、ということを声高に叫ばないのである。少し話しは逸れてしまうのだが、東日本大震災の時に震度6弱のところに住んでいた私は、その大災害時に、人々は、隣近所の人はもちろん、見ず知らずの人同士でも、絆や奉仕という言葉を全く語らず全く<自然>に、声を掛け合おう、物を分け合おう、助け合おう、とするということを体験した。その時、この自然な感情は、人類史の原型・母型・母胎においてあったものの<名残り>のように思われた。したがって、人々は、この現存する不信とむなしさと不安と不確かさの蔓延した資本主義社会――政治的近代国家の枠組みにおける不可避的な生活に戻されたとき、時間の経過と共に、また黙して静かに元の生活へと戻っていった。ある人々は転勤でか会社の倒産でかその家の事情でか<突然>住宅を売却して転居していった。そして、町の人々の姿が変わった。
神学、教義学は、「そのすべての部門にわたって、人間に向けられ、人間をしかるべく正しく裁く神の言葉の実在を記述することである」が、換言すればそれはその原理・規準・法廷・審判者・支配者を、「先ず第一義的」なイエス・キリスト(神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態)に、具体的には聖書(直接的な最初の第一のいえす・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」、第二の形態)に置く記述であるが、それゆえに人間自身教会自身の恣意的独断的な自主性・自己主張・自己義認を志向し目指す教会は、そしてその神学、教義学は、「神の言葉を通してだけ教えられる代わりに」、換言すればキリスト教に固有な類・歴史性である「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における「神の言葉を通してだけ教えられる」ことを志向し目指すのではなく、「人間についての普遍的な、人間的な知識を通しても教えられる」ことを志向し目指すことをするために、人間自身教会自身が対象化したに過ぎない恣意的独断的な「委任、資格、能力を造り出す」のである、「外国留学」と「学位」という通俗的な市民的観点・市民的常識に則った「後任牧師の選任」基準(関田寛雄『「断片」の神学――実践神学の諸問題』)を「造り出す」のである。聖書神学と実践神学を統括する教義学は倫理学を包摂しており、それは「実際に人間に向けられ、人間を正しく裁く神の言葉の実在を記述することである」から、「倫理学の問題」は「神学的な問題」なのである。このような訳で、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における「神の言葉の実在の中に含まれているものとして、神学は当然のことながらまた……この言葉が向けられており、この言葉を通して正しく裁かれる人間……の実在を記述しなければならない」のである。したがって、人間自身教会自身が、その神学、教義学が、「あたかもこれら(≪~と人間、神の言葉と神の言葉を聞く人間、教会の宣教の原理・規準・法廷・審判者・支配者としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態であるイエス・キリストおよび具体的には第二の形態である聖書的啓示証言と、徹頭徹尾人間的な第三の形態である教会という≫)二つの実在が一つの平面上にあるかのように、あたかもこれら二つの実在の間に対等な関係、連続性、交換可能性が存在しているかのように、あたかもそれら二つは最後的には(≪人間自身教会自身の恣意性独断性において無媒介的に直接的に≫)同一のものであるかのように、これら二つの実在を……考察することは神学的に不可能」なのである。なぜならば、終末論的限界の下での人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰は、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、~ご自身のその都度の自由な恵みの決断による啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてのみ授与されることができるからである、この出来事の生起は、人間自身教会自身の自由事項・決定事項・裁量事項ではないからである。したがって、「信じる人間が~の国が来ることに対して協力して働かなければならないということは本当」のことではないのである。モルトマンの神学的三段階的進歩史観は、時代状況的にもそうなのであるが、神学的、教義学的に、その最初から「誤謬は必然」のものなのである。「聖書の主題であり哲学の要旨である」~と人間との無限の質的差異(『ローマ書』)の下での神学、教義学は、「自然と超自然」、理性と啓示、時間と永遠、人間の歴史(人間の時間)と~の側の真実としてのみある救済史(永遠、~の時間、キリストの時間、完了・成就された時間であるキリストの復活を基軸とする待望の時間と想起の時間)、人間的な自然(例えばブルンナーは、内容的な神の像は完全に喪失してしまったが「形式的な~の像」を残している「人間には啓示なくしても」、そして「啓示の中で初めて甦ってくるところのものである」としても、「啓示に先立つ『啓示能力』」・「結合点」――すなわち人間の「~の啓示に対する客観的可能性」、すなわち人間に内在する人間の「人間性」・「理性や責任応答性や決断能力」・善の主観的な原理としての意志があるとする)と~の側の真実としてのみあるあの神の言葉の自己運動(~ご自身の自由な恵みの決断による啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される終末論的限界の下での人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰)、との「出会いと取り組みつつ作業するのではない」のである。~と人間あるいは神学と人間学との混淆・混合・協働・折衷を志向し目指して「作業するのではないのである」。言い換えれば、~と人間との無限の質的差異の下での神学、教義学は、「自然と恩寵の出会い、具体的に言えば、人間と(≪それ自身が聖霊の業でありそれゆえにキリスト教に固有な類・歴史性である啓示の主観的可能性として「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における≫)神の言葉」との「出会いと取り組んで作業するのである」。したがって、「一方に神の言葉、他方において神の言葉を聞く人間の間」には、「対等の関係はあり得ない」のである。~と人間との無限の質的差異は、厳然として、徹頭徹尾、し続けるのである。したがって、「~の言葉を通して」、すなわち啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に基づいて「語りかけられた人間の実在」は、三位一体論の唯一の啓示の類比としての~の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「~の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における「~の言葉の実在に対して」、この~の言葉の「実在の中」に「措定された者として」、この~の言葉の中での「人間の実在」である。したがって、「この人間の実在」は、キリストにあっての神を尋ね求める「~への愛」として、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してその人間性と共に神性を装備され賦与された第二の形態である直接的な最初の第一の「聖書」的啓示証言(直接的な最初の第一の客観的な啓示の「概念の実在」)を媒介・反復することを通してその起源的な第一の形態である単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方(~の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの)であるイエス・キリストと「間接的」・媒介的・反復的に同一となることを志向し目指すのである、そういう仕方でキリストにあっての神を尋ね求める「~への愛」と、そのような「~への愛」(「純粋な教え」)を根拠とした「~の賛美」としての「隣人愛」(キリスト教に固有な倫理的実践)を志向し目指すのである、すなわちキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、~の命令・要求・要請、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指すのである。この「人間の実在」は、あの「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における客観的対象として存在している起源的な第一の形態の実在からだけ、具体的には客観的対象として存在している直接的な最初の第一の啓示証言(聖書)である第二の形態の実在からだけ、「見出すことができるのであり」、それゆえにその実在は、「あの~の言葉の実在について語る」ことによってだけ「語ることができる」のである。すなわち、「キリスト信者はただキリストの中でだけ存在する」のであって、「決してそれ自身で存在するのではない」のである・~の側の真実としてのみある啓示の客観的現実性・客観的実在から・「ただ上から存在するのであって」、「……徹底的に罪人であり、人間の中には罪で汚されてないものは何もない」人間(ブルンナー)の側から・「下から存在するのではない」のである。したがって、「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」のである・すなわち、神学も理性的な知的営為ではあるが、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」(『バルトとの対話』)のである。その現にあるがままの現実的な人間存在における「キリスト者」・「キリスト教」・「キリスト教的」は、「カトリック信者やプロテスタント信者」という存在の仕方におけるそれではなくて、「ヨハネ福音書が述べているような、そのほかすべての世と同じ意味」でのその世における存在の仕方のそれである。その世におけるその現にあるがままの現実的な人間存在におけるそれである。したがって、「人はその時、非神学的に語」ることができるのである。「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯して第二の形態の聖書的啓示証言を媒介することを通して起源的な第一の形態のイエス・キリストと間接的・媒介的・反復的に同一となるという仕方でキリストにあっての~を尋ね求める「~への愛」、「純粋な教え」、を志向し目指すするところの神学的なあるいはそうではないところの非神学的な対象という「弁証法的」な二重性を持った「教会史」は、「非神学的」な学問的研究の対象(人間学的対象)としても存在しており、「まさに教会史こそが、キリスト信者とキリスト教は、世にあって多くのそのほかの現象と並ぶ現象であるということを指し示している」のである。世俗的な共同<宗教>としてのキリスト教の最後的形態は、まさに観念の共同性を本質とする政治的近代国家であると言えるのである。教会史こそが、例えば「アウグスティヌスあるいはルター」であれ、その「キリスト教的人間がそれ自身で、~の言葉によって語りかけられた人間ではないということ」、彼らはこの世の時代性におけるその現にあるがままの現実的な人間存在を生きたということ、彼らに「固有な神聖性について語ることができないということ」を「明らかにしている」。一方で、このような「弁証法的」な二重性を持った「教会史こそ」が、逆に、「非神学的な問題提起」に対して、すなわち現実性と妥当性のある非神学的なフォイエルバッハやマルクスやハイデッガー等の原理的な根本的包括的なキリスト教批判に対して、聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯したその信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成それ自体で、「キリスト信者を世の一部および担い手以外の何かとして理解することが問題であるところでは」、「あくまでも神学的に問われ、神学的に答えられなければならないこと」を「明らかにしている」のである。これらの事柄は、「神学の中」で、教義学の中で、「人間の行為が、キリスト教的な生が」、それゆえに「倫理学の問題が提起されると時、……問題」となるのである。
さて、教会の補助的奉仕・一つの機能としての教義学の問いは、教会の宣教における「教えの純粋さを問う問い」、換言すればあの「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性において「キリスト教の宣教の中での~の言葉を問う問いである」。あの「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性において~語り給うがゆえに~語り給うことを人間が聞くという「教義学的な弁証法の中で指向されている起源、関係、目標の点(≪起源的な第一の形態である~の言葉、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在イエス・キリスト≫)である~の言葉」は、「~によって人間に向けられ」、それゆえに「人間によって聞かれ、くり返し聞かれるべき、人間の身に関わってくる」、「人間の実存」に「人間の状況の現実」に関わってくる、「~の言葉を通して規定された」「人間のキリスト教的生」に関わってくる、「人間を要求し、占有する言葉である」――@イエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」、すなわち「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを認識し承認し確認するのである。したがって、「われわれは……世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し承認し確認する、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在 せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪裁き≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを認識し承認し確認するのである・「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」(授与された啓示認識・啓示信仰)は、「単なる知識」ではなくその啓示に信頼し固執する啓示「認識」・啓示信仰である。その時初めて、神の言葉は、その人間に対して「実在」となり、またその人間も人間的にそれを「実在として理解」することができる。したがって、ただ「単なる知識」に過ぎないある理念・ある概念の実体化・「最高存在」・「最モ完全ナ存在」としての啓示概念は、啓示の「概念の実在」ではないのである(『教会教義学 ~の言葉T/1』)、A「パウロはその時代の子としてその時代の人々に語った。けれどもこの事実よりはるかに重要な事柄は、いま一つの事実、すなわち彼は神の国の預言者ならびに使徒としてあらゆる時代のあらゆる人々に語っている、ということである。(中略)聖書の精神は永遠の精神なのである。かつての重大問題は今日もなお重大問題であり、今日の重大問題で単なる偶然や気まぐれでない事柄は、またかつての重大問題と直結している」(『ローマ書』)、B最終的に離脱した宗教的社会主義における「そこでの人間の困窮と人間に対する助け」は、「聖書が理解しているほどには、真剣に理解されておらず、深く理解されて」いなかった(『証人としてのキリスト者』)。このような訳で、「われわれはその啓示(≪「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態、「啓示の実在」そのもの≫)の中での、聖書というその啓示証言(≪その人間性と共に神性を装備され賦与された第二の形態、直接的な最初の第一の啓示の「概念の実在」≫)の中での、~の言葉を、どの点においてもそれと違った仕方で理解することはできない」のである。「『人間』はいずれにしても(≪その現実的な生活的日常に重心を置くにしろ観念的な知識的日常に重心を置くにしろ、その存在・その思惟・その実践の総体において≫)実存的に存在」しており、実在の~の言葉はそのような「実在の人間……に語り給うた言葉であるから」、「もしも人が~の言葉を彼の現実存在の行為の中で聞かないならば、もしも人が~の言葉の聞き手として実存的に生きることをしないならば、人は~の言葉を全く聞いていないのであり、たとえ人がそれについて考えるとしても、必然的に違った何かについて考えているのであり、たとえそれについて語るとしても、必然的に違った何かについて語っていることになる」のである。したがって、バルトの神学的実存の在り方は、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯したところでの「かつて語った説教の一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから実践に、決断に、行動になって行った」という在り方にあったのである。ここからは、言葉と行為、宣教Aと宣教B、説教と等価とされた社会的政治的実践、というような馬鹿げた二元論は出てこないのである。等価とされた社会的政治的実践として意味づけされた場合は、その現存するキリスト教的奉仕の水準は、例えばイザベラ・バードの『日本奥地紀行』における人類史的過程の原型・母型・母胎の名残のあったアイヌ人における精神性と、どちらがキリスト教的かを比較考量されなければならないのである。なぜならば、次のような事態が実際的に惹き起こされているからである――それは、阪神・淡路 大震災の時、ある牧師が「武器を持って神戸市役所かどこかに押しかけて行って、被災者の住めるような建物をすぐにつくってくれと、職員を脅かした」ことを話すために、吉本隆明にわざわざ電話をかけた事態である。その牧師の行為に対して吉本は、その牧師は「じぶんがやったことを得々としゃべるわけです。ぼくは、ははぁ、戦前とちっとも変っていないやと思いながら聞いていた……。(中略)正義のために脅かしたのだと得々としゃべることは、ぼくらが戦争中に『お国のために』といわれたのとまったくおなじことで、そんなの、ちっともよくない」・「日本というか、あるいはアジアの特質かもしれません。ラジカルな人ほど、ほかの分野の人に対してじぶんを押し付けがちです。そういう傾向がとても強い」と述べている。私は、この吉本の意見を首肯する。いずれにしても、教会の補助的奉仕・一つの機能としての教義学において「啓示の認識原理」である三位一体論の教説が「決定的に重要」であるように、「~の言葉の受肉」、「教会論」、「義認論」もそうなのだが、「倫理学となる聖化についての特別な教説」もそれらと「事情は……同じである」から、教義学は、「自分の対象」と「自分の意味」を喪失しないためには、「聖化についての教説」――「倫理学でなければならない」のである。教会の宣教の補助的奉仕・ひとつの機能としての教義学の任務は、言葉と行為、理論と実践、宣教Aと宣教B、説教と政治的近代国家の法的言語や政策的言語を介した社会的政治的実践という形而上学的一面的固定的抽象的な二元論的な教説(理論)の構成にあるのでは決してなく、三位一体論の唯一の啓示の類比としての~の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「~の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に関連づけられたキリストにあっての神を尋ね求める「~への愛」と、それに根拠づけられた「~の賛美」としての「隣人愛」について、その教説(理論)自身がおのずから必然的に実践へと導き出していくところの教説(理論)の構成にあるのである。
さて、「倫理問題、……正しい行為を問う問題は、人間的な実存の問題である」。「人間が存在して、それから場合によってまた行為するといった具合ではない。むしろ彼は、行為する(個体的自己としての全人間は、知覚作用の座である身体と精神とを介して、普遍的で実践的な、全自然との、すなわち自己身体・他者身体、外界――天然自然および人間化された自然である人間的自然・人為的自然との、相互規定的な対象的活動を行う、類的活動を行う)」ことによって、「存在するのである」。したがって、神学、教義学は、「倫理問題を問う」ことによって「人間的な実存の問い」を問うているのである。しかし、この「人間的な実存問題がそれとしてそのまま」教義学の、神学の「主題である」訳ではない。神学、教義学は、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態に、それゆえに具体的には第二の形態の直接的な最初の第一の聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを志向し目指すところで成立するものであるから、教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者である第一の形態が、具体的には第二の形態が、第三の形態の教会の宣教における補助的奉仕・一つの機能である神学、教義学における「人間的な実存を問う問いに対して先行」しなければならないのである。例えば、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態に、具体的には第二の形態に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することによって、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて次のような啓示認識・啓示信仰を授与されると同時に、その啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して次のような人間の自己認識・自己理解・自己規定を得られるのである――@「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イ エス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の「イエスの信仰」は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである)」(『福音と律法』)、A「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」。すなわち、「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」は、復活へと向かっている。このキリストの復活・成就された時間は、「新しい世」のはじまりである。すなわち、敗北者である「われわれ人間の失われた非本来的な古い時間」は、「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」、成就された時間であるキリストの復活における神の「勝利の行為」によって包括され止揚され・克服されて「そこにある」のである。したがって、この勝利の行為は、「敗北者もまた依然としてそこにいるところの勝利の行為」なのである。このような訳で、バルトは、次のように言うのである――@「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(≪ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の「イエス・キリストの信仰」の属格は、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、終末論的限界の下で明らかに主格的属格として理解されるべきものであるという啓示認識・啓示信仰の授与において≫)(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」・「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」(『福音と律法』)、A救済を、~のその都度の自由な恵みの決断による啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与された啓示認識・啓示信仰の中で持つことは、「約束として持つ」ことである。「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」。「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、<すでに>と<いまだ>の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである。ここで、「終末論的」とは、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍・「われわれの経験と感性」にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてのみある啓示の客観的現実性・客観的実在、「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである(『教会教義学 ~の言葉T/1』)。このように、「実存を問う問いを、~の言葉の中で既に基礎づけられ、先ず第一に~の言葉そのものを通して問われている問いとして受け取る」ことによってだけ、教義学、「神学は実存を問う問いを純粋な、差し迫った問いとして受け取ることができる」のである。前期ハイデッガーの哲学的原理によって宗教(偶像崇拝)としての「存在者レベルでの神への信仰」を志向し目指したブルトマンは、その「存在者レベルでの~」を第一次化すること自体が、自己自身の「非本来的存在から本来的存在への」・「過ぎゆく存在から将来の存在への移行の歴史」であり、信仰であり、説教であるとしたであるが、ローマ3・22やガラテヤ2・16等の「イエス・キリストの信仰」の属格を主格的属格として理解した(啓示認識・啓示信仰)バルトの実存理解はこうである―― ~と人間との無限の質的差異の下で、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする~の不把握性の下で、それゆえに終末論的限界の下で、新約聖書の使信において、私たち人間は、「見えないもの、知りえないもの、勝手に処理しえないものへの信頼としての信仰」へ、「自己自身の現在から神の将来への方向転換」へ、「そのことによって神と隣人に対する愛」へ、「そのままで、人間の本来的実存であり、真に自然な実存である新しい被造物の『終末論的』実存」へ、その神の恵みに対する感謝の応答としての実存へと召しだされている、という点にある。言い換えれば、神の側の真実としてのみあるキリストの復活・成就された時間においては、換言すればその現にあるがままの現実的な人間的存在が「イエス・キリストの人間的存在である限りは」、「そのままで、人間の本来的実存」なのである(『ルドルフ・ブルトマン』)。このような訳で、神学、「教義学の対象は~の言葉であり、それ以外のものではない」のである。「しかし、~の言葉の対象は、人間的な実存、人間的な生、意志、行為である」。したがって、先にも述べたように、「~の言葉を通して……人間的な実存、生、意志、行為は問いに付される」のである・「その正しさが問われるし、同時にまた正されるのである」。「この意味で、あらかじめ人間的実存に固有な、前もって定義されることのできる能力によってではなく」、「~の言葉を通して、人間的実存は神学的に重要な意味を得てくる」のである。したがって、神学、教義学は、「全体を通し貫いて……倫理学でもあろうとしないならば」・倫理学でないならば、「神学」、「教義学であることはできない」のである。教義学の対象は人間的実存を対象とする~の言葉であるから、「人間的実存と関わっていなければならない」というこの二重性に、教義学の「弁証法と姿勢全体」があるのである。したがって、「P・アルトハウスが、『倫理学は教義学と最も密接に関連し合っている』と述べているとき、それでは全く舌足らず」なのであって、「教義学自身が倫理学である」と言うべきなのである。「~と人間の現実存在」は、「何かある二つのもの」の協働的・混合的なそれではなくて、~と人間との無限の質的差異の下で、「ここでは創造主が、あそこでは被造物が、ここでは聖なる方が、あそこでは罪人が、ここでは永遠から永遠にわたって生き給う方が、あそこでは死ぬべき者が、立っているのである」。また、「~と人間の現実存在」の「関係は……~の言葉を通して造り出される関係である」。すなわち、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方(性質・働き・行為・業)である~の言葉(啓示・和解)はイエス・キリストであるから、「この関係は、~の自由な恵みという性質を持っている」。したがって、この関係は、「自明なことではなく、……あくまでも~の奇蹟であるということを明らかにすることなしに」、換言すれば~のその都度の自由な恵みの決断による啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される啓示認識・啓示信仰なしに、「どうして……記述されることができるであろうか」。「教義学が全体を通し貫いて終始また倫理学でもなければならないということ」は、教義学は「先ず第一に」、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してその第二の形態を媒介することを通して起源的な第一の形態と間接的・媒介的・反復的に同一となるという仕方で「~の言葉を問う問い」、純粋な教えを尋ね求める、すなわちキリストにあっての神を尋ね求める「~への愛」を志向し目指さなければならのであるから、「ただこの問いに従属させられた形でだけ」、「キリスト教的生を問う問い」、倫理問題を、換言すればあの「~への愛」を根拠とした「~の賛美」としての「隣人愛」――キリストの福音を内容とする福音の形式である律法、~の命令・要求・要請、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、 教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指す倫理学を、要請されているのである。したがって、教義学は、「倫理学の中へと、あるいは実存哲学の中へと、解消してしまうこと」はできないのである。このような訳で、「教義学と並んで特別な、独立した」倫理学を構成することはできないのであるから、「はっきりと言葉に出して」、倫理学は、「事実的に、神学的な補助学問という性格を持っていなければならない」と言うのである。~と人間との無限の質的差異の下で人は終末論的限界を生きているのであるから、神学は、「たとえそれが最上の教義学であろうと、決して天から人間に語りかけたのではない」ということを、また「ただ~ご自身だけが一度ですべてにわたって力を奮う仕方で語り給うことができることを」、「地上で(≪あの「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性を通して≫)再び語られなければならないことを承認しているということ」を「証しすることができる」のである。このことは、終末論的限界の下における、神学、教義学の「留保」の問題である。このような仕方で、「倫理学を教義学の中に直接組み入れる道」は、「とにかくより大きな首尾一貫性」を持っているという点で、また「より誤解の余地がない」という点で、また根本的に包括的に原理的に誤謬が必然とならないという点で、また「より大きな明瞭さという点」で、また二元論の陥穽に陥らないという点で、「優れている」のである。