本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』「二十二節 教会の委託」「二 教義学の問題としての純粋な教え」その3−3

『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』「二十二節 教会の委託」「二 教義学の問題としての純粋な教え」(56−76頁) その3−3

 

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしておりますが、引用の不備や誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)

 

 

二十二節 教会の委託
「教会の委託」について、バルトは、次のような定式化を行っている――

 

 神の言葉は、イエス・キリストの教会の宣教の中での神ご自身である。神が教会に対し、神について語るよう委託し給う間に、また教会がこの委託を実行に移す間に、神ご自身がその証言の中で神の啓示を宣べ伝え給う。教会の宣教は、その宣教の中で語られている人間的な言葉が、聖書的な啓示証言を確証しつつ、自ら神の言葉に服従し、また神の言葉に対する服従を造り出す時、純粋な教えである。このことが教会の説教者の言葉の本質、秩序、課題である間に、教会の説教者の言葉は、教義学的作業の特別な、また直接の対象である。(3頁)

 

註:@この定式の詳述およびバルトの教会論・教会の宣教論についての註は、<カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』「二十二節 教会の委託」「一 キリスト教説教における神の言葉と人間の言葉」その2−1>で行っていますので、参照してください、A三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性等々については、<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>(2016年6月13日作成)、を参照してください。

 

 教義学の「特別な課題」は、聖書的啓示証言に対する教会の服従的な補助奉仕として、教会の一つの機能として、次の点にある。それは、教義学が、教会にキリストの福音の宣教を義務づけている、教会の宣教にとって<不可避的>な、その宣教の原理・基準・法廷・審判者・支配者である「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における第二の形態の聖書的啓示証言(イエス・キリストによって直接的唯一回的特別に召され任命された予言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、直接的な最初の第一の啓示の「概念の実在」)を媒介・反復することを通して起源的な第一の形態の単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの)であるイエス・キリストと間接的・媒介的・反復的に同一となることを、換言すれば「神の言葉の純粋な教え」としての客観的な信仰告白および認識・教義となることを志向し目指すところの第三の形態の教会の宣教の服従的な補助奉仕、教会の一つの機能として、「釈義神学と実践神学の真中のところで発生」し「作業」し「展開」し教会「形成」に奉仕していく「独自性をもった学問」であるという点にある。なぜならば、聖書の中に証しされている教会の宣教の課題である啓示、啓示・和解、神の言葉、であるイエス・キリストの死と復活の出来事(その内容であるインマヌエル)の宣べ伝えを志向し目指すことのない「単なる知識」としての形而上学的抽象的空論的な教義学は、「それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方」のものであっても、その教義学は「教義学としては非学問的」であるからである(『教会教義学 神の言葉T/1』)。ここに、差異性(形式)としての三領域を持つ神学の単一性(内容)を志向し目指す、換言すれば釈義神学と実践神学を統括するところの、教会の宣教があの「神の言葉の純粋な教え」を志向し目指すことに<自覚的>な教義学の「特別な課題」がある。したがって、「教義学が本格的なものであり、それと共に……神学が本格的なものであるということは、……教義学が自覚しつつ、首尾一貫してあの〔聖書(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態≫)と教会の宣教(≪その第三の形態≫)の間の〕場所と枠の中に自分を置くということと共に立もすれば倒れもする」のである。ここで、教義学は、「自分の作業の自由と厳格さ」・「自分の可能性についての展望を、……また自分の限界の秘義を(≪換言すれば、神と人間との無限の質的差異の下で、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性の下で、それゆえに終末論的限界の下で、それゆえにまたあの神の言葉の自己運動――すなわちその都度の神の言葉の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与の下で、≫)見て取る洞察を、受け取るのである」。したがって、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態である聖書(直接的な最初の第一の、聖書的啓示証言、啓示の「概念の実在」)と教会の宣教(その聖書的啓示証言を媒介することを通して起源的な第一の形態であるイエス・キリストと間接的・媒介的・反復的に同一となることを志向し目指すところで与えられる教会の客観的な信仰告白・教義)という「場所と枠の中に〔順序正しく〕位置づけることによってだけ」「根本的な学問」(なぜならば、この「場所と枠」、すなわち神の言葉の自己運動による「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯するならば、資本主義社会・近代市民社会――政治的近代国家・民族国家の枠組みの縛り、人間自身教会自身の恣意的独断的な縛りから自由の身となるからである)としての神学と言うことができるのである。したがってまた、もしも神学が人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍や人間論や人間学的な哲学原理・認識論・世界観との混合神学・協働神学・折衷神学を志向し目指す自然神学の段階で停滞と循環を繰り返すそれとして、あの原則的な「学問的な自覚も持たず、先ず第一に哲学のところで、それから歴史学のところで、自分を養ってもらわなければならないし、自分を養うことができる考えた」ならば、「一般歴史学に相対しての教会史の独立性」というものは捨象され除外されてしまうし、それゆえに「釈義神学は教会史の中で、実践神学は多かれ少なかれ恣意的に選ばれ、与えられる技術的な助言の収集の中で、それぞれ解消され」てしまうことになるのである。そのようなところでは、説教も、「独善的な説教、(≪身体を介した≫)体験的な説教、(≪近代主義的な感覚や知識を介した≫)経験的な説教」とならざるを得ないのである。
 さて、教義学的自覚は、次のような認識と問いを喚起させる。すなわち、「世の中で、……また教会そのものの中でも」、「聖書は教義学よりもっとはるかに単純」であるだろうし、「説教と教育も、もっとはるかに単純なものでありうるし、単純なものでなければならない」のであるから、神学に対する実生活からする「不信感」・「不平や苦情」、また神学に対する「何という実人生にうとい抽象の中でのことであろうか」という「不信感」・「不平や苦情が、直接的にあるいは間接的に、まさに教義学に対してこそ向けられているということ……は偶然ではない」という認識と問いを喚起させる。また終末論的限界の下で「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通してどこまでも神の言葉の純粋な教えを尋ね求めていこうとする教義学的な往相的思索(思索の自然的過程)――「見きわめ難いほどの膨大な量の形式的な考察、探求、限界設定、およびそれと不可避的に結びついている論争と否定、それらはそもそも何のためなのであろうか」、「技巧的に造り出されているのではなかろうか」という認識と問いを喚起させる。このような訳であるから、「あの真中のとこで自分の生を生き尽すものである限り」、換言すれば人間が聖書神学と実践神学とを統括する教義学的な思索作業において、「実際に事柄と取り組んで事柄の下にいる代わりに自分一人だけでいる限り(≪なぜならば、どのような人間のどのような思索であれその思索は、その人間の自己意識・思惟・理性の類的活動であるから、その尖端性に向かって往相的に上昇過程を辿る思索であるから≫)」、「人は教義学者として……(≪自分の≫)行為全体をもって事柄のところにいるよりも実は自分自身とだけいるのではないか」と、絶えずくり返し自己批判的に自問自答しなければならないのである。言い換えれば、最後的には、常に、実践神学への適用(世と教会自身に向かって語らなければならない聖書的啓示証言における「真理」、イエス・キリストにおいて「神がすでに為した」「わたしの前にいるこの人々のために、キリストは死に、甦られた」――「インマヌエル、神われたと共にいます」という事柄、現存するすべての人間の生・生活は「まさにイエス・キリストの中に根拠と希望を持っている」という事柄の宣べ伝え、「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という教義学的な還相的思索(思索の意志的過程、自覚的思索)を必要とするのである。バルトは、『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』で、次のように述べている――アンセルムスは、「いかなる人間もほかの者に教えることができないことを教えることができ、また繰り返し教えるであろうことを信頼していた客観的な根拠」、すなわち「信仰の対象そのものの客観的根拠」(聖書的啓示証言における単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリスト、神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの)の「力強さを念頭において」、(神の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある、イエス・キリストにおける完了・成就された信と不信の架橋によって)「非キリスト者をキリスト者として、不信者を信者として語りかけ」、「信者と不信者の間の深淵を超え」出て、キリスト者・信者の「彼が自分を不信者たちに対して不信者たちと同類の者(≪不信者、非キリスト者≫)としておき、不信者たちを自分と同類の者(≪信者、キリスト者≫)として受けとることができた」(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)。教会(その成員)が、牧師が、聖書を教会の宣教の原理・規準・法廷・審判者・支配者として、「聖書が支配するところでは、牧師くさいことは決して芽生えることはできない……」のである(『説教の本質と実際』)。そこでは、思想の往還をがなされる、不可避的に、即自的な僧と俗から対象的となった・距離をとった<非僧非俗>とならざるを得ないであろう。
 また、教義学は、「焦眉の急を告げる問題」として、まさに前述した「そのところでこそ、……神学と哲学の関係の問題」を惹き起こすのである。すなわち、「注釈的に思惟し語るのではなく、……また実践的に思惟し語ってもいない」ようなところで、「哲学」が、統括的な教義学的「批判と整理」の方法を「神学に教えようと助けを申し出」たり、神学の方から助けを求めたりすることが行われるのである。ここに、混合神学・協働神学・折衷神学の出自がある。神学的人間学、人間学的神学、哲学的神学・哲学的キリスト教、神学的哲学・キリスト教的哲学、の出自がある。ここでは、聖書的啓示証言とは「疎遠な諸力の侵入が起こり、聖書に対しても教会に対してもひそかに対立している形而上学が神学の中に混入してくることが起こり、聖書と教会を互いに引き離し、それらの侵入や混入が教義学に対して先ずある種の偽りの自主独立性を与えた後、教義学」を、それゆえに「それと共にそもそも神学を、内的に解消させ、それから間もなくまた外的にも解消させ」ることが行われるのである。したがって、「もう一度われわれは差し当たって先ず、ここに(≪神と人間、神学と人間学、との混合・協働・折衷に基づく「教えの不純さ」の≫)危険の源泉が存在しているということを確認しなければならない」。なぜならば、この確認と自覚を持たないならば、そのことが、ほんとうはその危険な作業を見抜き・取り除くべき教会の宣教における教会の一つの機能としての教義学自体の内部で惹き起こされてしまうからである。教義学――「見張る者自身が敵に対し扉を開けてしま」うからである。ここで、肝要なことは、教会の宣教における一つの機能としての教義学的作業における「思惟図式」は、人間自身教会自身の教義学自体を原理・規準・法廷・審判者・支配者とすることにあるのでは決してなく、教会に宣教を義務づけているその宣教の原理・規準・法廷・審判者・支配者としての聖書的啓示証言(単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストによって直接的唯一回的特別に召され任命された、その人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての直接的な最初の第一の「言葉、証言、宣教、説教」)にある、という点にある。言い換えれば、人は誰であれ、不可避的に、ある社会構成・支配構成・文明的――文化的構成の歴史的現存性のただ中に生誕するのであるから、「何かある哲学の標準に従って規定されている人間的な思惟、人間的な思惟が遂行しなければならない批判と整理を……停止させてしまうことが問題」ではないのである、除外してしまうことが問題ではないのである。したがって、バルトは、次のように述べたのである――「哲学、歴史学、心理学等は、この神学的問題領域のどれにおいても、事実上、教会の自己疎外の増大以外のなにものにも役立ちはしなかった」・「神についての教会の語りの堕落と荒廃以外の何ものにも役立ちはしなかった」・また、神学と人間学とを混合・協働・折衷させた場合、「哲学は哲学であることをやめ、歴史学は歴史学であることをやめる」、またキリスト教哲学は、「それが哲学であったなら、それはキリスト教的ではなかった」し、「それがキリスト教的であっ たなら、それは哲学ではなかった」(『教会教義学 神の言葉T/1』)、「われが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」・すなわち、神学も理性的な知的営為ではあるが、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」(『バルトとの対話』)。言い換えれば、罪と穢れに満ち満ちたその現にあるがままの現実的な人間存在である私たち人間は、心が開かれ「み言葉を受け入れまた聞くために」は、その「み言葉の主」――キリストの霊である聖霊によって「再生」された理性を必要とするのである。「聖霊は理性を抑圧しない」・「理性の再生をもたらす」。しかし、人間実存の直接性に依拠する「実存的釈義家」の場合は、「本文と彼自身との対話だけでなく、ある特定の人間学、つまり一つの思惟の型を前提とし」・それに信頼し固執しているから、「誤謬は必然」となるである。それに対して、聖書の中の「キリスト教原理を、覆いをとって明かにするのは」徹頭徹尾「聖霊」であるから、その「聖霊の交わりにおける人間の実存」に依拠したバルトの場合は、「あやまちは可能である」が、「あやまちは必然」ではないのである。もちろん、ここで、聖霊によって「再生」された理性であっても、その人間的な理性は、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第三の存在の仕方(「父ト子ヨリ出ズル御霊、救済主・完成主、永遠なる霊)である聖霊と同一ではないのである(『教義学要綱』)。したがって、バルトは、例えば聖書の歴史認識の方法について、次のような限界づけを行っている――「啓示証言としての聖書の理解」と、「神話の証言としての聖書の理解」は、相互排除の関係にある。したがって、聖書記事を歴史物語とみなし、聖書記事の「一般的な歴史性(Geschitlichkeit)を問題化すること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃しない」。しかし、聖書記事を「神話として受けとること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃する」。なぜならば、神と人間との無限の質的差異において、神の側の真実としてある啓示は、人間の「歴史の枠に、はめ込まれてしまうような歴史的出来事ではない」からである。したがって、聖書の歴史認識の方法は、その歴史を、「一般的な歴史性」を含んではいるが史実史ではない歴史物語・古譚として受けとる点にある。しかし、神学における歴史主義は、人間精神が生み出したものを問題とする限り、「啓示を問おうとしない」で人間精神の自己理解を第一義として「聖書の中でも神話を問う」ことをする。対自的で対他的な自由な自己意識・思惟・理性の類的活動における自己表現を目指す。このような自然神学の段階で停滞と循環を繰り返す神学は、人間学的領域からも異議申し立てがなされている――?「神話にはいろいろな解釈の仕方があります。比較神話学のように、他の周辺地域の神話との共通点や相違点をくらべていく考え方もありますし、神話なるものはすべて古代における祭式祭儀というものの物語化であるという考え方もあります。また神話のこの部分は歴史的<事実>であり、この部分はでっち上げであるというより分け方というやり方もあります。そのどの方法をとっている場合でも、この説がいいということは、いまのところ残念ながら断定できません。プロ野球で三割の打率があれば相当の打者だということになるのと同じように、神話乃至古代史の研究において、打率三割ならばまったく優秀な研究者であるとわたしはおもっています。じぶんでそれ以上の打率があるとおもっているやつはバカだとかんがえたほうがいいとおもいます」(吉本隆明『敗北の構造 南島論』)、A「ダーウィンの進化論の主要な構成は、遺伝学によって完全なかたちで裏付けられることになりましたが、彼はその進化論において鍵となるいくつかの概念を、今日では批判され捨て去られている科学的領域から引き出しました。(≪しかし、「形而上史学的な歴史の科学」とは異なる評価の観点においては、そのことは、≫)、全く重大なことではないのです」( M・フーコー『思考集成 IV ミシェル・フーコーとの対話』)、B「……<奇跡>(中略)たとえば、お前は癒された、立てといったら癩患者が立ち上がった……。これは自分流( ≪文芸批評あるいは思想≫)の言葉でいえば、比喩なんです。比喩の言葉というのは、あるばあいにはストレートな真実の言葉よりもっと真実を語るということがありうるわけで、これを実在論に還元してしまうと、田川健三はそうだとおもいますが、こんなのでたらめじゃないか、こういういいかげんなことを書いてる本だという以外にないわけです。しかし言葉としての聖書というのは、信仰の書として読んでも、文学書として読んでも、あるいは思想の書として読んでも、どんな読み方をしょうと人間をのめり込ませる力があるとすれば、これは叡知じゃないとこういう ことは言えないという言葉が、そのなかに散らばっているからです。たとえばイエスが、 「鶏が三度なく前に私を否むだろう」と言うと、ペテロはそのとおりなっちゃったみたいなエピソードをとっても、人間の<悪>というのが徹底的にわかっていないとだめだし、心というのがわかっていないとだめだし、同時にこれはすごい言葉なんだというのがなければ、やっぱり感ずるということはないとおもうんです」(吉本隆明『 <非知>へ――<信>の構造 対話編 吉本×末次 滝沢克己をめぐって』)。
 聖書神学と実践神学の真中で思索作業を行うことによって両者を統括する教義学的思索も、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態である聖書を通して「神の言葉を聞くこと、しかも(≪第三の形態である≫)教会の宣教の中で神の言葉を聞くこと、以外の仕方で始」めることはできない。さらに、その思索は、「ここで聞かれるべきはずの人間の言葉はただ単に人間の言葉であるだけでなく、むしろ神ご自身の言葉であるだろうという期待と主張……から出発している」。これらの「前提なしには、教義学的作業は教会の宣教に対して何も言うべきものを持たないであろうし、教義学的作業が立てなければならない問い、教義学的作業がしなければならない批判、教義学的作業が与えなければならない提案は根も葉もない、対象のない、内容のないものであるだろう。教義学が思惟し、語る場所は教会の外部ではなく、教会の内部である。そのようなわけで教義学は、教会に与えられた約束を無視しつつ語るのではなく、教会に与えられた約束を承認しつつ思惟し、語る」のである。したがって、「教会の宣教に対」する「教義学の態度」は、神語り給うゆえに神語り給うことを聞くという神の言葉の自己運動の下で、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力・聖霊の証しの力に信頼し固執して、「懐疑的――否定的」ではなく、聖書的啓示証言を宣教の原理・規準・法廷・審判者・支配者としてその宣教を自己吟味し・的確に「批判し、訂正」していくという「批判的な態度」のものでなければならない。「そのようなわけで教義学は、純粋な教えを、したがってただ単に人間的な言葉だけでなくまた神の言葉を聞くことを考慮に入れる」ことによって、「聞く」のである、「教会の説教を、人がそれを信仰の中で聞かなければならないような仕方で、聞く」のである。「この意味で教義学は、その都度」、ある社会構成・支配構成・文明的――文化的構成の歴史的な時代水準のただ中に現存する教会が、「その生の表現の範囲全体にわたって神について語らなければならないことを」、聖書的啓示証言に「聞こうと試みる」のである、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯して「別の言葉で同一のことを言うこと」を「試みる」のである。したがって、「実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言い尽くしていない」(『説教の本質と実際』)とは言わないであろう、ルドルフ・ボーレンや小泉健や佐藤司郎のように近代主義的な人間の感覚と知識を内容とした経験的普遍も必要だとは言わないであろう。言い換えれば、「たとい特別の事件が、たとえば戦争の勃発といったことが起こったとしても、テキストは、当面の事件の主題を常に越えて立っていなければならない。戦争に対する考えをテキストの中に持ち込むことをしてはならない。むしろそのような状況の下でこそ、テキストに対する従順を保持することが重要である」。したがって、バルトは、次のように述べたのである――「かつて語った説教(≪キリストの福音≫)の一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから実践に、決断に、行動になって行った」(『バルトの生涯』)。
 「教義学にとってもう一つ別の前提」は、教会が「罪人の教会であることが確かである限り」、「ここで神について語る者は(≪そのような≫)人間であり、ここで起こるところのことにおいては、教会の奉仕が、換言すれば……それとして、神の言葉そのもののように完全で論難の余地のないものではなく、むしろ神の言葉そのものを通して(≪具体的には教会の宣教の原理・規準・法廷・審判者・支配者である聖書的啓示証言に絶えずくり返し聞くことを通して≫)、(したがって人間的な側面から見て)教会の祈りと作業のもとで、常に新しく、それが現にあるところのものとならなければならない教会の典礼……が問題であるということである」。したがって、教会の宣教の一つの機能としての教義学は、「その典礼の正しさ」を、それゆえに「その教えの純粋さを願う教会の祈りを前提とする」と同時に、その「教会の祈りに、自ら参与する」ことによって、聖書神学と実践神学とを統括する教義学的な作業と「取り組むことができるのである」。最後的には、「教義学的作業の資質は、……教会にとって、また教義学の作業そのものにとって、必要ナ唯一ノモノ、しかもどんな技巧をもってしても強制的に呼び下すことができず、ただまさに祈願されることができるだけである必要ナ唯一ノモノである聖霊……を切に願い求める間断ない願い」に依拠している。したがって、教会の宣教の一つの機能としての教義学は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基」づいて成立しているのである(『教会教義学 神の言葉T/1』)。
 「教会が純粋な教えを祈り求めなければならないという洞察」は、「教会の行為全体」の運動過程において、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯した純粋な教えを志向し目指す「勤勉な作業」を惹き起こさせる。「教会の説教は、人間的側面から見て、それが罪深い人間の説教である限り、ただ神的な医者を通して癒やされ」なければ為すべきことを為し得ない「病人であるとしても」、一方では、その「神的な医者を通して」喚起される問い、「ヨハネ五・六の問い、あなたはなおりたいのかという問い、を自分に向けて問」わなければならないのである。キリスト教会の説教者は、終末論的限界の下で、ほんとうに、純粋な教えを、換言すれば「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してその第二の形態である聖書的啓示証言を媒介することを通して起源的な第一の形態であるイエス・キリストと間接的・媒介的・反復的に同一となることを、すなわちキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」を志向し目指すことを祈りつつ「勤勉な作業」の運動過程を歩みたいのかどうかということを自問しなければならないのである。したがって、教会の宣教の一つの機能・「教会的な補助奉仕」としての教義学は、教会に宣教を義務づけている聖書(聖書的啓示証言)をその宣教の原理・規準・法廷・審判者・支配者として絶えずくり聖書に聞くことによって、正直に「はっきりと言葉に出して語られなければならない人間的な問い」、すなわちそのキリスト教会の説教が、純粋な教えを志向し目指しているかどうかについて、またそれが「神の言葉に対する奉仕として……適切であるか」どうかについて問わなければならないのである。なぜならば、その現にあるがままの現実的な人間存在が為すところの「キリスト教の宣教が出来事となって起こるところ、そこでは」、その宣教の遂行過程において、「服従とわがまま勝手さが、決然さと不明瞭さが、集中と散漫が、……ほとんど区別できないように見える弁証法の中で、対立しつつ立っている」からである。このような訳で、教会は、その宣教において「教えの純粋さ」を決断し実践しているかどうかということについて、常に、「致命的な」「危険にさらされ」ているし、「致命的な脅かし」を受けているのである。したがって、人間的な教会の宣教は、このような認識と自覚が必要なのである。キリスト教会の宣教が、このような認識と自覚を持たない場合、その宣教において、「誰かある者あるいは何かあるものが、教会の宣教の事柄において非原則性を自分に許してしまう」「最も取るに足りない些細な逸脱、……非原則性の背後にも、……見たところ最も無害な気まぐれさの背後にも、どこかで……約束が否定され、教会が破壊され」てしまうところの、原理的な根本的包括的な「誤謬と虚偽……が潜んでいることがあり得るのである」。
 さて、「もしもわれわれが聖霊を祈り求めつつ教会を神の恵みにゆだねるならば、その時われわれは」、私たちすべての人間の更新を可能とするのは、「今日に至るまで罪人の手に渡され・十字架につけられ・死んで甦られ給うた」、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の子、神の言葉、啓示・和解、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和)であるイエス・キリストにある「復活の力」のみなのであるから(『福音と律法』)、「教会は神の恵みを必要としており、生きるために死から救われなければならないこと……を認めているのである」。終末論的限界の下でその現にあるがままの現実的な人間存在のその人間が為す「教義学は確かに教えの絶対的な純粋さ……を問うことはできず(≪なぜならば、神と人間との無限の質的差異の下で、神は聖性・秘義性・隠蔽性を本質としており、その神に対して人間の理性は「全く闇に閉ざされ」た「盲目」性を本質としているのであるが、このことは人間におけるその「神の不把握性」を意味しているから≫)、……まさにただ教えのより大きな、あるいはより僅かな純粋さを問うことができるだけであるとしても」、教会の宣教における教えの純粋さを決断し実践して行くことを志向し目指す聖書神学と実践神学とを統括する教会の宣教の一つの機能・「教会的な補助奉仕」としての教義学は、「常に」、現存する教会が、「存在」か「非存在」か、「生」か「死」か、ということを問うのである。その「教義学が到るところで」、教会の宣教においては、「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における「神の一つの言葉が問題であるということ」を「信頼をもって」「聞く」ことによって、「また教義学は到るところで」、その宣教において「果たして本当に神の一つの言葉が問題」とされているのかどうかということを「問わなければならない」のである。「信頼と批判のこの結びつきの中で、教義学的問いの真剣さが発生してくる」。したがって、「批判なしの信頼は世俗的な、偽りの教会的な自信として禁じられた信頼であるだろう。信頼なしの批判は世俗的な、(≪人間自身教会自身による≫)神的裁きの先取りとして、不信仰から出た批判として禁じられているであろう」。このような訳で、教義学的問いは、「すべて原則的に(中略)教えの純粋さ」を問う問いである。「それであるからキリスト教的説教の言葉、文章、思想の脈絡、体系的関連性」が、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における「神の言葉への(≪服従的な≫)奉仕としての性質、したがって神の言葉を表現すべく透明な性質を持っているかどうかということが問題」となるのである。言い換えれば、「人はよく注意せよ」、あの神の言葉の自己運動の下で、そして終末論的限界の下で、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してその第二の形態である聖書的啓示証言を媒介することを通して起源的な第一の形態であるイエス・キリストと間接的・媒介的・反復的に同一となることを志向し目指すという仕方で、換言すれば、そういう仕方でキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」を志向し目指すという仕方で、そしてその「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」――キリストの福音を内容とする福音の形式である律法、神の命令・要求・要請、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指すという仕方で、「キリスト教説教において何かが為されるということ、しかも正しくなされるということが問題なのである」。したがって、「人間的な言葉、命題、思想の続き、体系的な関連性をそのまま中止すること」が、それゆえに「沈黙」することが、また「聖礼典と典礼をもって説教におきかえよう」とすることが、また二元論的に説教(言葉)に対して直接的無媒介的な社会的政治的実践(行為・行動)を対置することが問題なのではないのである。革命論の問題から言っても、現存するキリスト教的な社会的政治的実践(プロテスタントの側、カトリックの側、のそれ)は、過渡的課題も認識し自覚もしていないから、ただ議会制民主主義、私利・私意を精神とする資本主義社会(近代市民社会)――政治的近代国家の枠組みに縛られたままの水準のものであり、それゆえに国家の無化を伴う個体自己としての全人間の社会的現実的な究極的総体的永続的な解放という究極的課題も認識し自覚もしていない水準のものに過ぎないのである。「そのようなわけで教義学は、……(≪教会の宣教において≫)先ず語られていること自体を越えて、語られていることの中で意図されていることにまで遡って(≪そのことについて、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯して批判的に≫)取り組む」のである。「それから、そこのところから……教義学は、それとして語られていること自体」と取り組むのである。それは、教会の宣教が、「適切な仕方で語られているどうかを問い、場合によっては訂正するように提案してゆくためである」。
 教会の宣教の一つの機能・「教会的な補助奉仕」としての「教義学の素材」は、「原則的には、それが……その都度の現在の教会から、神についてのその人間的な語りとして聞くようになること全体から成り立っている」。言い換えれば、その「神についての(≪その第三の形態である≫)教会の語りは、……全く展望のきかない、全く形をなさない無秩序な素材ではなく」、それゆえに教義学の素材は、あの全き自由の神の言葉の恵み――神の言葉の自己運動によるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における「基本的な言葉と基本線が見紛うべくもなく存在していることを通して」、その秩序性において「その単一性を、それと共にまたその純粋性を」志向し目指している「ひとつの教え全体としてその実際の姿が示されるであろうという信頼」、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、聖霊の証しの力、に対する「信頼」(啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される啓示認識・啓示信仰)を「初めから正当なものとしているのである」、また教会に宣教を義務づけている聖書を「先ず第一に優位に立つ原理」としての神の言葉、「啓示の実在」そのものであるイエス・キリストと共に、教会の宣教の原理・規準・法廷・審判者・支配者として、そのことを「初めから正当なものとしているのである」、また第二の形態である聖書および第三の形態である教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示するということを、「初めから正当なものとしているのである」、それゆえにこの啓示が教会の宣教の客観的な信仰告白と教義である三位一体論の根拠であり、そしてこの三位一体論は、神論の決定的に重要な構成要素であり、「啓示の認識原理」であるということを、それゆえにまた「教会の宣教の批判と訂正」は、常に、この三位一体論に即して行わなければならないということを、「初めから正当なものとしているのである」。イエス・キリストを主・頭とする教会は、「神についてのその語りを秩序づける原理から」、「基本的な言葉と基本線」から、換言すれば具体的には神語り給うゆえに聞き・神語り給うことを聞くという仕方で聖書的啓示証言に絶えずくり返し聞くことによって教会は教会となることによって教会である限り、<不可避的>なそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としてのあの「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性から、「(それに対して反抗している時でさえ)結局完全に身を引いてしまうことはできない……」のである。「基本的な言葉と基本線」――「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性は、「連続性」を持って「絶えず運動して」いるのであるから、すなわちキリスト教に固有な類の時間累積(歴史性)の過程性を持っているから、「教義学が今日結びつかなければならない基本的な言葉と思想は、実際には、それが既に昨日、既に四百年前に、あるいは一千年前に結びついた基本的な言葉と思想と決して違ったものではあり得ないということが、言われなければならない」のである。このことを『教会教義学 神の言葉T/1』に引き寄せて言えば、ある社会構成・支配構成・文明的――文化的構成の歴史的な時代水準のただ中に現存する教会において、@「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている…… 時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」であると言うことができる、A「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」・「解釈する」とは、「別の言葉で同一のことを言うこと」であると言うことである。このようにして、教義学は、未来に生きる言葉を志向し目指して、「ただ単に自分が属している現代の教会と対話しつつあるというだけでなく、……常にまたすべての先行する……教会とも対話している」のである。この「責任の意識」は、「教会に与えられた約束」――すなわち「教会は神の言葉を語るべきであるし、語ることが許されるという約束」、「教会の宣教という出来事の意味」――「神ご自身がその教会と世に向かって語ろうと欲せられ、語り給うであろう言葉であると言うこと」について「教会に与えられた約束を知る知識」に「由来」している。このように、「一方において教会に与えられた約束を知る知識と、他方において教義学的な問いの厳格さの間に、正確な比例関係が成り立っている」のである。したがって、「実際の、厳格な、教義学的な問いは、人が神の言葉そのものの現臨と活動という前提を拒否しなければならないと考えるところ」においては、「必然的にまさに論難されるしかない」のである。「新約聖書の釈義に役立つ新しい哲学的な鍵」を、前期ハイデッガーの哲学原理に見出したブルトマンが、第一義的・第一次的な神の言葉・「啓示の実在」そのもの、具体的には聖書的啓示証言を後景へと退け、前期ハイデッガーの哲学原理によって対象化された対象物・「存在者レベルでの神」を第一次的なものとし、この第一次的なものに従事することにおいてのみ「イエス・キリストについてのケーリュグマ」・「宣教する」ことによって伝えられた宣教内容・新約聖書の使信の内容・イエス・キリストの出来事を知らせた宣教や説教を第二次的なものとした時、「必然的にまさに論難されるしかないであろう」。人間学領域のハイデッガーによっても、「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』・『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」というように、「必然的にまさに論難されるしかないであろう」。それに対して、「神の言葉そのものの現臨と活動という前提」が「力を奮うところ」においては、「実際の、厳格な、教義学的な問い」は、「切迫した仕方で」、「神の言葉の教会」が「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態である聖書的啓示証言を媒介することを通してして起源的な第一の形態であるイエス・キリストと間接的・媒介的・反復的に同一となることによって「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指しているかどうかということを問う問いとなる。教会の宣教の一つの機能・「教会的な補助奉仕」としての教義学的なこの問いは、「教会にとって生命に関わる必然的な」それである。このような訳で、「教義学の課題」は、「まさに神についての教会の語りのあれらの基本的な言葉と基本線を、吟味することから成り立っている」。ここで、「吟味することは捨て去ることを意味」せず、教会の語りが、「果たして……人間の言葉として神の言葉に奉仕するのに適しているかどうかについて」、換言すればそれが神の言葉の自己運動による「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性において純粋な教えを志向し目指しているかどうかについて「確かめ、はかるために取り上げることを意味」している。したがって、この神についての教会の語りの吟味は、人間的な教会の側において、「恣意的に為されてはならない」のである。それは、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における聖書を教会の神についての語りの原理・規準・法廷・審判者・支配者として、その宣教を自己吟味し・的確に「批判し、訂正」して行かないければならないということを意味している吟味である。したがって、「教会の説教の悪い吟味」は、それゆえに「悪い教義学」は、「説教を……より悪くする」のである。したがってまた、教義学は、「自分の身を置かなければならない秩序」――「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性(「秩序」)に信頼し固執し連帯して純粋な教えを思索する教義学的作業を為しているのかどうかということについて自己吟味しなければならない。このような訳で、「教義学が先ず第一に自分自身に対して向けなければならない問い」は、@「それを手がかりにして吟味されるべきところの尺度あるいは標準を問う問い」、A「このはかることを正しく遂行することを問う問い」の「二つの問い」である。「われわれは第一の問いを教義学的な規準を問う問い呼び、第二の問いを教義学的な思惟を問う問いと呼ぶことができる。教義学的な規準は、教会の宣教の客観的な可能性(それの実在が神の言葉自身――単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、啓示・和解、「啓示の実在」そのものである客観的な可視的な「人間の歴史的形態」イエス・キリストの名、それゆえに具体的には客観的な可視的な神の言葉の自己運動による「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態の聖書的啓示証言、直接的な最初の第一の啓示の「概念の実在」としてのそれ)であり、教義学的な思惟は、教会の宣教の主観的な可能性(啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、聖霊の証しの力、あの神の言葉の自己運動に信頼し固執し連帯して純粋な教えを志向し目指すことでキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」とその「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」――キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを遂行していくことができ得るそれ)である」。このような訳で、それの「実在は、……(≪教会の宣教の原理・規準・法廷・審判者・支配者としての≫)教会のための(聖書としての)神の言葉であり、客観的な可能性は教会の中での権威(≪「直接的な、絶対的な、内容的な」イエス・キリストのまことの<神性>――「権威」性によって賦与され装備された「直接的な、絶対的な、内容的な」「権威」を持つ聖書の「権威」に基礎づけられた、それゆえにその聖書によって限界づけられた間接的・相対的・形式的なそれ≫)であり、主観的な可能性は教会の中での自由(≪「直接的な、絶対的な、内容的な」イエス・キリストのまことの<人間性>――「自由」性によって賦与され装備された「直接的な、絶対的な、内容的な」「自由」を持つ聖書の「自由」に基礎づけられた、それゆえにその聖書によって限界づけられた間接的・相対的・形式的なそれ≫)である」。また、それの「実在は三位一体の神(≪聖書また教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する・したがって、この啓示が 教会の宣教の客観的な信仰告白と教義である三位一体論の根拠である・したがってまた、この三位一体論は、教会の宣教における神論の決定的に重要な構成要素であり、「啓示の認識原理」であるところのそれ≫)であり、客観的な可能性は言葉の受肉(≪神の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある、「人間の歴史的形態」イエス・キリストの名における客観的な可視的な啓示の出来事≫)であり、主観的な可能性は聖霊の注ぎ(≪客観的な「啓示の出来事の中での主観的側面」――神のその都度の恵みの決断、聖霊の注ぎによる、人間の側に惹き起こされる主観的な信仰の出来事、人間的主観に実現された神の恵みの出来事、終末論的限界の下における人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与の出来事≫)である」。