本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』「二十二節 教会の委託」「二 教義学の問題としての純粋な教え」その3−2

『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』「二十二節 教会の委託」「二 教義学の問題としての純粋な教え」(44−56頁) その3−2

 

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしておりますが、引用の不備や誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)

 

 

二十二節 教会の委託
「教会の委託」について、バルトは、次のような定式化を行っている――

 

 神の言葉は、イエス・キリストの教会の宣教の中での神ご自身である。神が教会に対し、神について語るよう委託し給う間に、また教会がこの委託を実行に移す間に、神ご自身がその証言の中で神の啓示を宣べ伝え給う。教会の宣教は、その宣教の中で語られている人間的な言葉が、聖書的な啓示証言を確証しつつ、自ら神の言葉に服従し、また神の言葉に対する服従を造り出す時、純粋な教えである。このことが教会の説教者の言葉の本質、秩序、課題である間に、教会の説教者の言葉は、教義学的作業の特別な、また直接の対象である。(3頁)

 

註:@この定式の詳述およびバルトの教会論・教会の宣教論についての註は、<カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』「二十二節 教会の委託」「一 キリスト教説教における神の言葉と人間の言葉」その2−1>で行っていますので、参照してください、A三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性等々については、<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>(2016年6月13日作成)、を参照してください。

 

 「われわれが神の言葉の(≪「直接的な、絶対的な、内容的な」≫)権威と自由について、また教会の(≪「間接的・相対的・形式的な」≫)権威と自由について、確かめたすべてのこと」、また「キリスト教的説教の中での神の言葉と人間の言葉の関係についてのわれわれの基本的理解」は、「キリスト教的説教の本質、秩序、課題」を、キリスト教的説教が「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における第二の形態である聖書的啓示証言を媒介することを通して起源的な第一の形態であるイエス・キリスト(神の子、神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和そのもの)と間接的・媒介的・反復的に同一となるという「純粋な教え」を志向し目指す「べき」であるように・またそう「できる」ように「定義すべく……われわれを強いる」のである。「まさに神の言葉が現臨し自主的に活動するであろうという約束(≪神の言葉の自己運動、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神ご自身のその都度の自由な恵みの決断による啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事――それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性≫)」が強いてくる「純粋な教えという規準概念こそが、キリスト教的説教」を、さまざまな人間的な行為の「相対的な自主独立性の中で……自分を区別する具体的な人間的な行為の内容として特徴づける」のである。したがって、その規準概念としての純粋な教えは、神の言葉の自己運動に属する事柄であり、またそれが強いてくる不可避的な事柄であるから、それについて、「われわれは……(≪人間自身教会自身の自由事項・裁量事項・決定事項としての≫)人間的な目標設定、作業、努力の事柄である」とは、「いかなる意味においても言いはしない……」。言い換えれば、教会(その成員)は、不可避的に、終末論的限界の下で、キリスト教に固有な類・歴史性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態の聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して起源的な第一の形態であるイエス・キリストと間接的・媒介的・反復的に同一となることを志向し目指すキリスト教的説教を、またそういう仕方で「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すキリスト教的説教を、またそういう仕方でキリストにあって神を尋ね求める「神への愛」とそのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」――キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えという「宣教の奉仕へと召されている」のである。このような仕方における神の言葉への奉仕が、「教会が神の前で、結局は人間の前でも、実際に自分の身分を証明することができる唯一の行為」なのである。このことは、「キリスト教説教に固有な問題」であるから、教会(その成員)は、「キリスト教的説教の本質、秩序、課題」について、その原理・規準・法廷・審判者・支配者を聖書的啓示証言に置くことを強いるのである。なぜならば、「ただ神ご自身が教会の宣教の中でみ言葉を語り給うということに基づいてだけ」、それゆえに終末論的限界の下で、その神の言葉の自己運動への奉仕を通してだけ、具体的にはあの「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通してだけ、「徹頭徹尾神の言葉を仲介しようと尽力する人間の言葉という規準概念(≪聖書的啓示証言を媒介することを通して起源的な神の言葉と間接的・媒介的に同一となるという純粋な教えとしての規準概念、教会の客観的な信仰告白・教義≫)は、立てられることができる」からである。したがって、「キリスト教的説教がこの意味で純粋な教えであるということが実現されるとするならば、その時それは人間的な業績や功績ではなく」、「その約束を成就しつつ、人間によって語られた言葉を承認しようと欲し、承認したところの神の言葉、それからこの人間的な言葉の必要な純粋さに対して自ら気を配ったところの神の言葉……の恵みであるだろう」、「常に神の自由な恵みであるだろう」。したがって、教会(その成員)は、「その言葉のすべての不純さをもってしても、この神の言葉の恵みの力に対して妨害し、限界を引くことはできない」という啓示認識・啓示信仰を授与されることによって、「慰めを与えられなければならない……」。したがってまた、教会(その成員)は、その宣教における説教等々において「為し遂げられることのできる最も真面目なことも、最上なこのことも、事実神の恵みを必要としているということをよく考慮に入れ」て置かなければならないのである。このような訳で、バルトは、『教会教義学 神の言葉T/1』では、次のように述べたのである――教会の客観的な信仰告白・教義が「キリスト教的語りの正しい内容の認識(≪純粋な教え≫)として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」であって、人間自身教会自身の自由事項・裁量事項・決定事項ではないのであるから、教会におけるその説教、その教義学の在り方は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基」づいて成立しているのである。
 さて、「神の恵みは決して魔術ではない」のであるから、「それは、神の言葉に奉仕するよう要求され、その奉仕に対して用意ができている教会、そのような教会に対して約束されているのである」。すなわち、「神の言葉の恵みが、人間が弱くすることを強くし、人間が悪くすることをよくし、人間が不純にすることを純粋にするにしても、そのことは、人間がそもそも何もしないところで人間があの要求の下に立っておらず、少しもあの用意を整えていないところ」においても、「神の言葉の恵みはそれらすべてのことをなすということを意味しているのではない」のである。言い換えれば、あくまでも「われわれは、なすべく義務を負うているすべてのことをなし終えた後で、わたしたちは無益な僕ですと言うべき」なのである。したがって、「怠惰な僕であってもよいという結論を引き出したいと思う……者は、明らかに神の言葉の恵みに対し信頼を寄せていない」者である。なぜならば、「神の言葉の恵みに対して信頼を寄せる者は、……(≪不可避的に、あの「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に対する総体的関わりを強いられた≫)教会に課せられた神の言葉の法則の下に立っている」からである。
 このバルトの言葉は、次のように言うことができる――「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態としての教会の「権威」・「自由」は、あくまでも「直接的な、絶対的な、内容的な」イエス・キリストのまことの<神性>――「権威」性と「直接的な、絶対的な、内容的な」イエス・キリストのまことの<人間性>――「自由」性によって賦与され装備された「直接的な、絶対的な、内容的な」「権威」と「自由」を持っている第二の形態としての聖書(単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストによって直接的唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちの、直接的な最初の第一の、イエス・キリストについて「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、啓示の「概念の実在」)の「権威」・「自由」に基礎づけられているところの、徹頭徹尾、「間接的・相対的・形式的な」「権威」・「自由」として、「限界づけ」られている。したがって、第三の形態である教会(その成員、その宣教)は、本質的に、第一の形態になることはできないし、また起源的な第一の形態であるイエス・キリストとの無媒介的な関係性(直接的な関係性)を築くことはできないし、それゆえに第二の形態(聖書、聖書的啓示証言)を後景へと退け捨象し「除外」してしまうことはできないのである。言い換えれば、第三の形態である教会(その成員、その宣教)は、本質的に、「教会に宣教を義務づけている」第二の形態である聖書的啓示証言を、その宣教の原理・規準・法廷・審判者・支配者としなければならないのである。「神の言葉によって、神の言葉の中で、基礎づけられた(≪イエス・キリストを主・頭とする教会の≫)人間的な権威と自由の中で神の言葉は、教会的な宣教の対象となり、……イエス・キリスト(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態≫)と同一ではないし、預言者や使徒たち(≪第二の形態≫)とも同一でない人間、ただ間接的にだけ、ただ信仰の中でだけ、(≪聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯してそれを媒介することを通してだけ間接的、媒介的、反復的に≫)同一となり得る人間」、「それもただ彼らが洗礼を受けた教会の成員であり、そのような者として教会の委託と委任にあずかっているという理由で、(≪間接的、媒介的、反復的に≫)同一となり得る人間」が、「神の言葉の担い手、語り手、となり、神の言葉は(≪終末論的限界の下で≫)彼らによって、彼らの人間的な言葉の形態(≪第三の形態≫)の中で、語られた言葉となる」のである。こういう仕方において、「教会の中での人間」は、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」とそのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」――すなわちキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えという「宣教の奉仕へと召されている」のである。したがって、キリスト教説教の中での神の言葉と人間の言葉の間のあの間接的な同一性のことを考慮に入れる」ことをしないならば、「説教の中で神について語られる……説教とは一体、何なのであろうか」、といように問われなければならないのである。なぜならば、もしもそのことを考慮に入れないならば、その場合、その説教は、ただ単なる人間自身教会自身が対象化した対象物(物質的・精神的対象物、人間的自然、さまざまな偶像)としての人間自身教会自身の恣意的独断的な自己表現(自己主張、救いと平和の企て)に過ぎないものとなってしまうからである。このような訳で、教会の宣教におけるひとつの機能としての教義学の課題は、「具体的ニハ」、「キリスト教的説教の問題」、「教会の教えの純粋さと取り組んでの教会の作業と努力」にあると言うことができるのである。すなわち、それは、聖書的啓示証言を媒介することを通して起源的な神の言葉である単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方である「人間の歴史的形態、イエス・キリストの名」と間接的・媒介的・反復的に同一となること(純粋な教え)を志向し目指す「行為」にある。
 さて、聖書的啓示証言でイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「失われない差異性の中」で三つの「存在の仕方」(性質・行為・働き・業)において「三度別様」に父、子、聖霊なる神であって、その「存在」は「失われない単一性」・神性・永遠性を「本質」とする「一神」・「一人の同一なる神」である。したがって、聖書的啓示証言でイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「三神」・「三の対象」・「三つの神的我」ではなく、父、子、聖霊の三つの「存在の仕方」の、単一性・神性・永遠性を「存在の本質」とする「一人の同一なる神」、すなわち「三位一体」の神なのである。したがってまた、単一性・神性・永遠性を「存在の本質」とする神の完全さ・自由さは、父、子、聖霊という三つの「存在の仕方」の完全さ・自由さなのである。「われわれに出会う神」である父、子、聖霊の三つの「存在の仕方」は、「啓示者、啓示、啓示されてあること(≪なぜならば、客観的な、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事――それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性が授与されているのであるから≫)」、「神の聖(≪隠蔽≫)、あわれみ(≪顕現≫)、愛(≪父・隠蔽と子・顕現の愛に基づく交わり≫)」、「聖金曜日、復活日、聖霊降誕日」、「創造主なる神、和解主なる神、救済者なる神」の三つの「存在の仕方」に対応している。この神は、「隠蔽」と「顕現」において、またその都度の自由な恵みの決断において、「人間に対して自己を伝達」・啓示する。バルトは、この「三度別様」の「三つ」を、「他との関係なしにそれ自身で存在している」近代的な「個体」と区別させるために、「人格の名で呼ぶことを避け」て、「存在の仕方」あるいは「存在の様態」と呼んだのである。また、聖書的啓示証言の本来的テーマは、「三位一体の第二の存在の仕方」である「子なる神(≪その「存在の仕方」≫)、キリストの神性(≪その「存在の本質」≫)」を問う問いの中に、「父を問う問い」と「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊を問う問いとが包括されている点にある。自在であって他在の、すなわち全き自由(「自由・主権は、「神ご自身においてのみ実在であり真理」である」)の神は、その全き自由の恵みの決断によって、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の子、神の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの)であるイエス・キリストにおいて、インマヌエル――「神われらと共にいます」という存在の仕方で、顕現・自己啓示したのである。このことは、単一性・神性・永遠性を存在の本質とする「自己を覆い隠す」・隠蔽性・聖性・秘義性としての神が、その「存在の仕方」において子として「自分を自分から区別」したことを意味するのである。したがって、その神ご自身の自己啓示、すなわち神ご自身の自己認識・自己理解・自己規定は、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」・「存在の仕方」において、その「存在の本質」である単一性・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示なのである。したがってまた、この人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰は、キリスト者を含めて全く不信仰・無神性・真実の罪や穢れのただ中にある、人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍、人間論、人間学的な哲学原理や認識論や世界観によって授与されることは不可能なのであって、それは、神のその都度の自由な恵みの決断による啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される、と言うことができるのである。このような仕方で自己啓示する神は、啓示の弁証法において「まさにアラワサレタ神こそが隠サレタ神」なのである。またこのことは、神ご自身が私たち人間に対して自己啓示されないならば、また神ご自身が神と私たち人間とを架橋されないならば、全く不信仰で罪に穢れた私たち人間は、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰・信仰告白・教義をさえ持つことができないということを意味しているのである。このような訳で、「人は……神学全体」――すなわち原理的に「聖書神学(≪釈義神学≫)、教義学、実践神学の(≪「失われない」≫)単一性について語ることができる」のであるが、「聖なる三位一体の中で事情がそうであるように」、神学全体にも「失われない」三つの存在の仕方があり、その中に「具体的な中央があるのであり」、「まさに(≪教会の一つの機能としての≫)教義学こそ」が、その「中央を形造っているのである」。教義学が釈義神学と実践神学を統括しているのである。なぜならば、教会の一つの機能としての教義学は、教会の宣教がその原理・規準・法廷・審判者・支配者である聖書的啓示証言・「聖書の中に証しされている啓示」の「内容」と「一致」しているかどうかを「思索」し問うからである。これら三つの神学的課題は、「三つの失われない差異性」という三位一体論の適用であり、また聖書的啓示証言の本来的テーマは、「三位一体の第二の存在の仕方」である「子なる神、キリストの神性」を問う問いの中に、「父を問う問い」と「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊を問う問いとが包括されている点にあるから、必然的にキリスト論的集中(「イエス・キリストの名のみ」という神学的課題の単一性)を志向し目指すこととなるのである。すなわち、聖書的啓示証言に関わる神学的課題は、その「三つの失われない差異性」と「失われない単一性」との構造としてあるのである。
 このような訳で、神学全体は、「教会に委託された奉仕」(キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」――キリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)を「正しく果たすべき課題と取り組んで努力するのである」。その奉仕が「よい、あるいは悪い実在」であるのかどうかというについては、すなわちそれが「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁(≪抽象的空論≫)でしかないかということは」、人間自身教会自身の決定事項ではなく、「神ご自身の決定事項」なのである。すなわち、「ただ神の言葉の恵みだけが、その奉仕の、よい、あるいは悪い実在について決定する」のである。したがって、その人間的な奉仕が「よい……実在」であるためには、「神の言葉の恵み」を必要とするのである。言い換えれば、よい実在としての人間的な服従的奉仕は、「主よ、信じます。私の不信仰を助けてください」(マルコ9・24、『福音主義神学入門』・『教会教義学 神の言葉T/1』)という祈りの下で、あの「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してその第二の形態である聖書的啓示証言を媒介することを通して起源的な第一の形態であるイエス・キリストと間接的・媒介的・反復的に同一となることを志向し目指すという点にあるのである、そういう仕方でキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」とそのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」――キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指すという点にあるのである。教会(その成員)は、教会に委託された宣教の内容を聖書的啓示証言からしか「教えられることができないということを知ること」によって(この啓示認識・啓示信仰を授与されることによって)、あの「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性と同じように、聖書神学・釈義神学が「神学全体の本来的中心」に位置する教義学に「先行」し「内在する」ということを認識し自覚すると同時に、実践神学がその教義学に「後続」し「内在する」ということをも認識し自覚するのである。したがって、聖書的な「啓示の証言を観察する」聖書神学者がどのような神の言葉の聞き手であるかどうかということは、「神の言葉を思索する」その教義学の内容で決定される、と言うことができるのである。したがってまた、聖書的啓示証言を内容とするその「形式を問う」、「聖書ノ使用」・「聖書ノ適用」を問う実践神学者がどのような聞き手であるかどうかということも、その教義学の内容によって規定される、と言うことができるのである。具体的に例示すれば、形而上学的一面的固定的皮相的抽象的なバルト神学者のR・ボーレンや佐藤司郎等が、バルトの神の言葉の神学における説教論においては「人間の経験」の位置づけが弱いから――すなわち人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍を「尊重」していないから、「人間の経験」の「尊重」――すなわち近代主義的な社会構成・支配構成・文明的――文化的構成の中での身体的体験や意識内経験の尊重、資本主義社会――政治的近代国家の枠組みの中での社会的政治的関わりや実践の尊重、復古的な中性的思考に依拠した人間学との交流の尊重、をすべきだと主張したことに対して、根本的包括的に原理的に批判的な立場のバルトは、神学的一貫性をもって、@『説教の本質と実際』・A『証人としてのキリスト者』・B『ローマ書』で、次のように述べている――説教の「無条件的な出発点と目的」は、「新約聖書において聞く啓示、和解」、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの)であるイエス・キリストの死と復活の出来事における啓示、その内容である「インマルエル、神われらと共にいます」である。したがって、私たちは「キリストからすべてのことを期待しなければならない」。このことが「終末論」である。したがってまた、「キリスト教的終末論とは、キリスト論にほかならない」。ここで説教は、「感謝と確信と共に期待の態度と行動」である。「第一の来臨(≪イエス・キリストの誕生、生涯、死と復活≫)と第二の来臨(≪キリストの再臨、終末、救贖・完成≫)との間(≪聖霊の時代≫)に、説教と、また同時にキリスト者の生活全体」とがある。説教は、説教者の自由事項や裁量事項や独占事項ではないのであるから、自分自身の言葉から由来すべきではなく、どのような場合であれ、その形式と内容において、「聖書への絶対的信頼」に基づく、「聖書講解であることの義務」を負っている。したがって、「説教者が、実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言いつくしていない(≪近代主義的な人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍や情報が不足している≫)、と考えるようなことがある限り、彼は、この信頼、信仰を持っておらず、真に信仰によって生き」ようとしていない証左なのである。福音は、「われわれの思考や心情の中にあるのではなく、聖書の中にある」から、人は、「思想」、「最高の習慣、最良の見解、そのようなものいっさい」を、聖書に「聴従」することの前で、「放棄」しなければならない。その「聖書は神の言葉となる」ところで、「聖書は神の言葉なのである」。したがって、聖書に「聴従」するために、神のその都度の自由な恵みの決断による啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、その神の言葉の「出来事」の運動の中において、聖書によって導かれなければならないのである、A最終的に離脱した宗教的社会主義における「そこでの人間の困窮と人間に対する助けとが、聖書が理解しているほどには、真剣に理解されておらず、深く理解されて」はいなかった、B「パウロはその時代の子としてその時代の人々に語った。けれどもこの事実よりはるかに重要な事柄は、いま一つの事実、すなわち彼は神の国の預言者ならびに使徒としてあらゆる時代のあらゆる人々に語っている、ということである。(中略)聖書の精神は永遠の精神なのである。かつての重大問題(≪不信とむなしさと不安と不確かさの問題、大多数の被支配としての民衆の救抜の問題、個体的自己としての全人間・全世界・全人類の救済と平和の問題≫)は今日もなお重大問題であり、今日の重大問題で単なる偶然や気まぐれでない事柄は、またかつての重大問題と直結している」。
 さて、聖書神学・釈義神学は、「聖書的啓示証言の……言葉の観察」を通して「教会の宣教の基礎づけ」・「聖書ノ意味」を問う、キリスト教会の宣教は「どこから語らなければならないか」という問いを問う。また、この釈義神学的観察から実践神学へという過程の中央(中間)で、教義学は、「聖書的啓示証言の……言葉の思索」を通して、キリスト教会の宣教の内容がその宣教の原理・規準・法廷・審判者・支配者である聖書的啓示証言・「聖書の中に証しされている啓示」の「内容」と「一致」しているかどうかを問う。また、この教義学的思索の過程を経て、実践神学は、聖書的啓示証言の言葉との「同化」という「聖書ノ使用」・「聖書ノ適用」を問う。これらのことを総括すれば、キリスト教会の宣教は、その客観的な信仰告白・教義において、終末論的限界の下で、あの「神の言葉の三形態」の第二の形態である聖書的啓示証言(直接的な最初の第一の、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」)を媒介・反復することを通して、起源的な第一の形態であるイエス・キリスト(神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの)と間接的・媒介的・反復的に同一となることを志向し目指す、という点にあると言うことができる。言い換えれば、キリスト教会の宣教は、そういう仕方でキリストにあっての神を尋ねる「神への愛」とそのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」――「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指す、という点にあると言うことができる。このように、キリスト教会の宣教は「どこから語らなければならないか」という問いと「どのように語らなければならないか」という神学的課題を、「神学全体の本来的中心」としての教義学が担うのである。ここでは、人間自身教会自身の恣意性・独断性、恣意的独断的な救いや平和の計画と企てすべては、単なる宗教として相対化されるのである。したがって、「われわれは、教義学と言う時、自明のことながらこの教授、あるいはあの教授が生み出した著述のことを考えているのではない。むしろ、その作業の主体がひとりの成員の例外もなしに教会全体である限り、教会の宣教の何を問う(≪前述したあの内容を問う≫)あの中央の問い(≪前述したあの教義学的課題としての問い≫)と取り組んでの作業」――すなわち教会の宣教の内容が聖書的啓示証言の内容と一致しているかどうかを問う問いを扱う教義学的作業、……のことを考えている」。したがって、バルトは、@『福音主義入門』・A『啓示教会神学』・B『教会教義学 神の言葉T/1』で、次のように述べている――@「あらゆるキリスト者の生が、意識するにせよ、しないにせよ、やはりひとつの証しである」限り、「教会とその信仰を基礎づけている神の言葉から、提起される」「真理問題はあらゆるキリスト者に向けられている。この証しにおいてこの真理問題に対する責任を負う限り、いかなるキリスト者も 彼自身がまた、神学者としても召されている」、A「教授でないものも、牧師でないものも、(≪著述家でない者も、≫)彼らの教授や牧師(≪や著述家≫)の神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、共同の責任」を負っている、B「教義学は、決して信仰と、その認識のより高い段階を意味しない」。なぜならば、「最も単純な福音の宣教も、それが神のみ心である時には(≪「神の言葉の恵み」による時には、神の自由な恵みの決断による時には≫)、最も制限されない意味で、真理の宣べ伝えであることができるし、最も単純な聞き手に対しても、この真理を完全な効力をもって、伝えてゆくことができる」。「教義学者は、信仰者としても、知識を持つ者としても、神がここでなし給うことに関しては、教会の誰か一人の会員よりも、よりよい状況にあるわけではない」。教義学者とは「ただ単に教義学を専攻する大学教員や著述家(≪や牧師≫)だけ」のことではなく、「広く一般に、今日および昨日の教義学的問いによって突き当てられ動かされる者たち」のことである・神の言葉が「人間によって信じられる……出来事」、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与の出来事は、徹頭徹尾人間「自身の業」ではなく、「神の言葉の恵み」、「神の言葉自身」、啓示の出来事と聖霊の注ぎを必要とするのである。すなわち、「言葉を与える主」は、同時に、「信仰を与える主」なのである。したがって、聖書の中で証しされている教会の宣教の課題であるイエス・キリストにおける啓示・和解、神の言葉の宣べ伝えを目指すことのない「単なる知識」としての形而上学的抽象的空論的な教義学は、「それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方」のものであっても、その教義学は「教義学としては非学問的」なのである。
 このような訳で、「キリスト教的説教の人間的な言葉が純粋な教えであるということが現実のこと」・現実の出来事となる時には、その出来事は、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与された人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰における「服従の行為として、教会の中で働く聖霊の行為として、現実のこと」・現実の出来事なのである。このように、純粋な教え(言葉)は、おのずから必然的に「服従の行為」を惹き起こすのである。「それは、……思想の、あるいは言葉の事柄」ではない。「したがって、純粋な教えは、(中略)特定の神学的な定式を表現したテキストと同一でないし、特定の神学的な体系のテキストとも同一ではない」。純粋な教えは、「神の言葉の恵み」に基づく「出来事である」。第一に、「神の言葉としての啓示は、言葉の受肉と聖霊の注ぎの行為の単一性」としての神の言葉である。第二に、「神の言葉としての聖書は、預言者および使徒たちに語りかけ給う神の語りと彼らを通して教会に語りかけ給う神の語りの行為の単一性」としての神の言葉である。第三に、人間的な「教会の宣教は、(≪「神語り給うゆえに神語り給うことを」≫)聞く教会および語る教会の生の中でなされる行為の単一性としての神の言葉である」。にもかかわらず、「特にはっきりとした形で、第二、第三の点において、十七世紀の古プロテスタント主義は、……行為の単一性を解消させてしまい、神人協力主義に、一方において客観的に与えられている神的な事実と、他方において主観的に人間が受け取り、自分のものとして行く働きを考慮に入れるという過ちに陥ったのである」。すなわち、古プロテスタント主義においては、その人間性と共に神性を賦与され装備された「聖書は(≪形而上学的一面的固定的抽象的に、その人間的側面を捨象・除外されて≫)霊感を受けた文字となり、……また(≪教会の宣教の原理・規準・法廷・審判者・支配者としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態の聖書は捨象・除外されて、その現にあるがままの現実的な人間存在における人間が人間的に所有する人間の・教会の第三の形態における≫)純粋な教えは教会の宣教の規準概念として文字となったのである」。すなわち、古プロテスタント主義は、「神の言葉の権威と自由を、……最高に人間的な権威と自由に変えて行くということに対して準備したのである」。その最後的形態が、人間の自由な自己意識・思惟・理性の類的活動、その無限性を原理としたヘーゲル哲学である。そして、その神学的適用がシュライエルマッハー等々である。この「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」、「神の自由を認識していないという事態」――「われわれは、シュライエルマッハー以外の他の人々の所でも、……〔この〕ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇するであろう」(『ヘーゲル』)。現実性と妥当性のある仕方で、このような自然神学の段階にあるすべてのキリスト教を根本的包括的に原理的に批判したのが、フォイエルバッハであり、マルクスであり、ハイデッガーである。シュライエルマッハーとは格の違いがあるのだが、現存する身近な自然神学の段階の系譜に属する人物を挙げれば、キリスト教的メディア的著述家の佐藤優であり富岡幸一郎であり、さまざまな神学者たちでありさまざまなメディア的牧師たちである。その最初から自然神学の段階にどっぷりと浸かっているキリスト教的メディア的著述家の佐藤優は、自然神学についての根本的包括的な原理的な概念規定を持たないし、また同じキリスト教的メディア的著述家の富岡幸一郎も高校の倫理レベルの自然神学論しか持たないから、そのバルト論は、結局は、根本的包括的な原理的な誤謬に普遍性やメディア的組織性の後光をかぶせて語っただけのものになるのである。私たちは、キリスト者として、このような根本的包括的な原理的な誤謬に普遍性やメディア的組織性の後光をかぶせて語るキリスト教的メディア的著述家やメディア的牧師や神学者や知識人のその知識をそのまま鵜呑みにしたり模倣したりすることは決してできないので、その都度、自分なりの仕方で、根本的包括的な原理的な批判をしていかなければならないのである。マルクスの『資本論』「第1版の序文」にある「私の立場は、経済的な社会構造の発展を自然史的過程として理解しようとするものであって、決して個人を社会的諸関係に責任あるものとしようとするものではない」(マルクス自身の重要な立場)ということを理解することもしないで、「数学があまり得意でなかったから、等号でつないでしまっている」マルクスの「『資本論』のもう一つのポイントは、どうやって資本主義が出てくるかということで、資本主義とは実は<偶然>からできている」というような出鱈目な言葉・誤謬に普遍性やメディア的組織性の後光をかぶせて語っている『希望の資本論』の一対談者で政治屋の佐藤は、性懲りもなく、「無神論を勉強していたらもうこれは半年くらいで、マルクスやフォイエルバッハの言っている無神論は、キリスト教神学でとっくに克服されていることが分かりました」とやはり出鱈目な大法螺を吹いたのである。佐藤は、フォイエルバッハやマルクスが無神論者であるということが問題なのではなく、問題は、彼らの根本的包括的な原理的なキリスト教批判(宗教批判)が、現実性と妥当性を持って、すべての、キリスト教、教会、その宣教、一人一人のキリスト者に投げかけられたし・投げかけられているということが、それゆえにその批判を、自らの信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成それ自体によって、根本的包括的に原理的に止揚し克服して行くことが問題なのだ、ということが全く分かっていないしそのことが理解できないのである。したがって、佐藤の発言は、いつもブツ切りで頓珍漢な発言となってしまうのである。それが商業資本である限り、消費資本主義段階においては、そのメディアは、そのシステムそのものに強いられて、その水準がどのようなものであれ、さまざまなイメージ価値(直木賞や芥川賞等のブランド価値のような、知の巨人等々のイメージ価値)を付加して、売れているならば、売れるならば、そうである間は、それゆえに佐藤や富岡のようなバルト論であれそのほかの誰々の何々のものであれ、煽て売り続けることをするのである。佐藤は『希望の資本論』で、お年玉のような風習でしかないことを、「資本の論理が分かると、お手伝いをしたら子どもに今日は500円あげるとか、そういうことをしなくなる」というような馬鹿げたことを言っていたのだが、むしろ資本の論理が分かれば、その水準とは無関係にただ金儲けに使える対象としてのみ取り扱う商業資本の必然的な非情さ・冷酷さが分かる、と言うべきである。
 「教会の宣教に対して与えられた約束の成就としての純粋な教え」は、「神の言葉の恵みの出来事、そしてその恵みを通して(≪啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて≫)造り出された(≪授与された≫)信仰(≪啓示認識・啓示信仰≫)の服従の出来事」である。すなわち、「神の賜物」である。したがって、ここでも、「人は(≪「尊重され、受け取られる」≫)聖霊の神的実在を、……聖霊を願い求める祈り……から切り離し、抽象してしまうことはできない」のである。神の言葉に対する服従の行為として、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してその第二の形態である聖書的啓示証言を媒介することを通して起源的な第一の形態であるイエス・キリストと間接的・媒介的・反復的に同一のなることを志向し目指すところで与えられる人間的な第三の形態における純粋な教えは、「それが教会の中での人間的な行為の目的規定である限り、よかれあしかれとにかく、課題として、人間的作業の対象として、理解されなければならない……」。啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、この神の言葉の自己運動の下で、その現にあるがままの現実的な人間存在は、不可避的に、ある社会構成・支配構成・文明的――文化的構成の歴史的な時代水準の中に、ある親のもとで生誕し、その個体的自己の現存性を生かされ生きる以上、「その教えの純粋さと取り組んでなされる教会の努力としての教義学がなすべき事柄」は、「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」のであるから、あの「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してその第二の形態である聖書的啓示証言を媒介することを通して、「教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、教会の宣教の内容が聖書的啓示証言の内容と一致しているかどうかということを、その宣教の原理・規準・法廷・審判者・支配者である聖書的啓示証言を媒介することを通して「思索」し自己吟味し的確に「批判し、訂正」することを志向し目指していくという点にある。このような「努力としての教義学は、聖書および教会の(≪キリスト教に固有な類・歴史性としての客観的な≫)信仰告白のテキスト、また教会的な(≪キリスト教に固有な類・歴史性としての客観的な≫)認識として既に与えられているすべてのことを記載しているテキスト、と取り組んで丹念に探求することでもって始まることができる……」。したがって、バルトは、そのことに尽力しているし実践しているのである――「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている…… 時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」(『教会教義学 神の言葉T/1』)であるから、あの「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯して「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』(≪純粋な教え≫)を尋ね求め」(『啓示・教会・神学』)、一方でその信仰・神学・教会の宣教に個性や時代性を刻んだのである。こういう仕方で、バルトは、終末論的限界の下で、あの「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態において現存している者として、未来に生きる、キリスト教に固有な類の時間累積(歴史性)をなしたのである。このような訳で、教会の一つの機能としての教義学は、「自分で新しいテキストを造り出して行こう」とすることはできないのである。「教義学のすべての成果は、さらに先に作業を進めて行くための流動的な材料として意図され、取り上げられ、理解されなければならない」のである。すなわち、教義学の成果が「重要なのではな」く、「その都度の成果を通して表示された(教えの純粋さと取り組んで努力する教会の)運動が重要なのである」、教会の一つの機能としての教義学は、終末論的限界の下で、あの「神の言葉の三形態」の第三の形態に現存する者として、未来に生きる、キリスト教に固有な類の時間累積(歴史性)を志向し目指すところの「運動」の過程性が「重要なのである」。したがって、そうした教義学が「よい教義学」なのである。したがってまた、「教義学を教えるということは、……(≪あの「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してその第二の形態である聖書的啓示証言を媒介・反復することを通して≫)純粋な教えに向かって努力する教会の作業を取り上げ、引き続いて営み、深め、特定の新しい時代の中で、新しい問題と直面しつつ、新しい作業をなして行くということを意味している」のである。「教義学を教えるということ」は、そういう仕方で、キリスト教に固有な類を「深め」(キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」を「深め」)ながら時間累積していくことを意味している。「それであるからまた、教義学を学ぶということは」、それまでの教義学的成果を媒介しながら、ある社会構成・支配構成・文明的――文化的構成の歴史的な時代水準に現存するただ中で、「純粋な教えを問う問いと取り組んで」、純粋な教えに向かって神の言葉に対する服従的な行為、換言すればそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してその第二の形態である聖書的啓示証言を媒介することを通して起源的な第一の形態であるイエス・キリスト(神の言葉、啓示・和解、救済・平和そのもの)と間接的・媒介的・反復的に同一となることを志向し目指すところの神の言葉に対する服従的な行為としての「自主独立的な努力である作業……に参与することを意味している」のである。
 「われわれは、この作業の一般的な記述」において、「ここでもあそこでも純粋な教えが問題であり、具体的ニハ教義学はまた宣教であり、宣教はまた教義学であることができ、両者はまた原則的には互いに分離することができないのであるが」、教会の宣教内容が聖書的啓示証言の内容と同一性を保持しているかどうかということを問う「教義学の課題」は、「すべての正しい行為に必然的に先行する正しい熟慮(≪思索、内在的・心的行為、表出過程≫)が、行為そのもの(≪その外化・外在化、その表現、その実践、その身体的行為≫)から区別されなければならないように」、「正しい」キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えの方法――すなわち「聖書ノ使用」・「聖書ノ適用」を問う「宣教の課題」と「同一ではない」、という「限定設定」が必要である。なぜならば、「両者は、ちょうど学ぶことと教えることが区別されるように区別される」からである。
 「神の言葉の純粋な教えとしての宣教」は、絶えずくり返しの反省なしに実在となることはできないし、それは「神の言葉の恵みを通して」、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事を通して実在となるのであるから、教会(その成員)は、その宣教について、絶えずくり返し、あの「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における聖書的啓示証言を原理・規準・法廷・審判者・支配者として自己吟味し・的確に「批判し・訂正」して行かなければならないのである。したがって、そのことの後で、次の言葉が語られるのである――その宣教が、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」であって、人間自身教会自身の決定事項ではない、と。このような訳で、教会(その成員)は、あの「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性において「聞く教会として教えなければならない」ことによって、「教会がなす説教と教育、牧会的配慮、聖礼典の執行、祈願、教会がその肢である成員に課する規律、世に向かっての使信、とりわけ国家および社会の力に対してとる具体的な態度、の中で」、「その教えの純粋さあるいは不純さについて決断」を下すのである。昨年、日本基督教団とカトリック教会が、議会制民主主義、資本主義社会――政治的近代国家、という枠組みに縛られた中で、反体制的な「平和のための祈り」と「抗議声明」をなした時、さらにその政治的近代国家の法的言語や政策的言語を介してそれをなした時、教会の宣教内容である単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和そのものを後景へと退けただけでなく(それゆえに「教えの……不純さ」を「決断」し実践しただけでなく)、革命の問題においては革命の究極的課題――過渡的課題についても認識し自覚もしない彼らは、すなわちそうした構想を持たない彼らは、一方で人間自身教会自身が対象化した救済・平和の企てを標榜しながら、他方で現存する政治的近代国家に直に包摂されてしまうことを、それゆえに現存する支配体制に直に加担してしまうことを、それゆえにまた戦争の元凶である近代国家・民族国家を保管してしまうことを、「決断」し実践したのである(それゆえに「教えの……不純さ」を「決断」し実践したのである)。バルトがあのボンヘッファーの政治的な権力闘争に対して、革命後のヴィジョンを持っていなかった・それゆえに彼は「夢想家だった」と根本的な批判をした時、そのことは、正確に言えばこのことであると言うことができる。昨年の日本基督教団やカトリック教会のあの動向は、バルトの『説教の本質と実際』に依拠して言えば、その教会上層が聖書的啓示証言に対して「絶対的信頼」を置いていないことの証左である、と言うことができる、それゆえに観念の共同性を本質とする支配の側の<制度>としての資本家や政治家や官僚(法の支配の下での<ザル>法による行政に基づく政治的国家の職能団体)でもないにもかかわらず、その教会上層の宣教やそのことから強いられてなす社会的政治的な関わりのベクトルが、彼ら自身の「思考や心情」にある証左である、と言うことができる、時流や時勢や主流や多数の後に聖書の言葉を付加しながらついて行けば、その決断も実践も悪くはないだろうという水準の決断や実践であった、と言うことができる。バルトは、終末、キリストの再臨、救贖・完成においては、一切の政治的国家は無化されるという観点を持って、『キリスト者共同体と市民共同体』・『教義学要項』・『啓示・教会・神学』で、次のように述べている――「教会の存在と現状が、……福音から考え・行動し・処理されているということを語っていないならば、教会の説教も福音宣教も虚しいものとなるであろう。教会みずからが、……その行為と態度によって、自己の内なる政治をこの使信に合わせてゆくこと(≪幻想の共同的形態、観念の共同性を本質とする政治的権力、政治的支配、政治的国家を無化していくこと≫)を全然考えないとしたならば、どうして世は、王とその御国の使信を信ずるであろうか」・「(中略)キリスト者は、政治生活において神の正義が人間によって誤認され・蹂躙される場合にも、神の正義は、……天地の一切の力が与えられているイエスの苦しみのゆえに、優越しているということを確信している。悪しき矮小なピラトが、結局は無駄骨折をするというように、配慮がなされているのである。その場合、キリスト者が、どうして、ピラト(≪一切の政治的権力、政治的支配、政治的国家≫)のともがらと成ることができようか」・「人間の公私の生活においては、絶えず新たな支配が行われるような仕組みになっている」、「国家は支配であり、文化は支配」である。したがって、それが過渡的形態におけるそれであれ、「どのような国家形態にも、どのような文化傾向にも、無条件に『然り』とは言わぬ」。
 さて、「教会の生に、確かに教義学も属している」が、教会の一つの機能としての教義学は、「教会の自余の生の中で出来事となって起こらなければならないすべてのことに取って代わることこと」はできない。教義学は、「教会的な補助奉仕である」。この教義学は、「学問的な領域で作業している神学の事柄であり得るだけでなく」、「原則的に全教会の事柄でなければならない」。したがって、あの「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第二の形態である聖書的啓示証言を媒介することを通して起源的な第一の形態であるイエス・キリスト(神の言葉)と間接的・媒介的・反復的に同一となることを思索する「教義学の中で純粋な教えが尋ね求められるとすれば、その時、確かにそのことはまた教会の自余の領域の中ででも起こっている」。もしもそのことが「起こるならば、その時そのことは確かにまたそのほかのところでも起こっている」のである。「教義学の課題は宣教の課題と同一ではない」とは次のことである――教会(その成員)が教会の一つの機能・「教会的な補助奉仕」であるあの教義学的作業をなすのは、説教者が、「説教者として知るべきこと」、すなわち「語らなければならないことを知るためである」。したがって、説教者のその「知は徹頭徹尾ただ(≪具体的には、あの「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態である≫)聖書的啓示証言から汲み取られるべき」なのである。したがってまた、宣教内容が聖書的啓示証言と同一性を保持しているかどうかを問う教会(その成員)の一つの機能・「教会的な補助奉仕」としての教義学は、「説教者に対して、この源泉」、すなわち聖書的啓示証言から「純粋な教えを汲み取る」ように「教育すべきなのである」。この場合、聖書的啓示証言としての「源泉から純粋な教えを汲み取るということは、説教者はただの人間であるのだから、自明的なことではなく、それは彼にとって祈りの事柄であると同時に、またそれと取り組んで作業して行く事柄でなければならない」のである。また、説教者は、そのような仕方で得られた教義学的な「知を(≪そのまま≫)説教すべきではなく」、宣教内容が聖書的啓示証言と同一性を保持しているかどうかを問う教義学的な「知の前提の下で」、その「知を適用し、監督(≪「日々学ブコトニヨッテ成長シ、ヨリヨイモノヲ学ビトル」ことによって、「ヨリヨイ仕方デ教エル」ことを≫)しつつ、説教しなければならない」のである。言い換えれば、「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」のであり、「解釈する」とは「別の言葉で同一のことを言うこと」であるから、ある社会構成・支配構成・文明的――文化的構成の歴史的な時代水準のただ中に現存するただの人間である説教者は、宣教内容が聖書的啓示証言と同一性を保持しているかどうかを問う教義学的な「知の前提の下で」、歴史的な時代の水準のただ中で、「教会自身と世に対して」、「別の言葉で」、聖書的啓示証言を媒介することを通して起源的な神の言葉であるイエス・キリストの福音と間接的・媒介的・反復的に同一となることを言わなければならないのである。ここで、この説教者は、キリスト教に固有な類・歴史性に連帯しながら、個性と時代性を刻むのである。