本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』「二十二節 教会の委託」「一 キリスト教説教における神の言葉と人間の言葉」その2−2

『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』「二十二節 教会の委託」「一 キリスト教説教における神の言葉と人間の言葉」(21−31頁) その2−2

 

バルトの教会論・教会の宣教論についての註:@<三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性等々については、カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註、を参照してください>(2016年6月13日作成)、Aバルトは、教会の宣教を「より危険なものにしてしまう」教会の在り方について、次のように述べている――○「正しい注釈」を、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としてのイエス・キリストに、具体的にはその直接的な最初の第一の啓示証言の聖書に基づくことをしないところにある。言い換えれば、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍や人間論や人間学的な哲学原理・認識論・世界観を第一次化するところにある、あるいはそれらとの混淆・混合・折衷を志向し目指すところにある、○「正しい注釈」を、「最終的に……教会の教職の判決に、……間違うことはありえないものとして 振る舞う歴史的――批判的学問の判決に、依存させてしまう」ところにある。○「福音が純粋ニ教エラレ、聖礼典が正シク執行サレルということ」がなされないままに、礼拝改革・社会的政治的実践・キリスト教教育とか、教会と国家および社会との関係とか、国際間の教会的な相互理解というような領域で、「何か真剣なことを企て遂行してゆくことができると考える」ところにある、○宣教の規準を、聖書と同時に、「最上の仕方で基礎づけられ、熟慮に熟慮を重ねられ た人間的な判断」あるいは「哲学、道徳、政治」等におくところにある、○「特定の人種、民族、国民、国家の特性、利益と折り合」おうとするところにある、○ある「社会機構、あるいは経済機構の保持」・「廃止」に貢献しようとするところにある、○「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求め」ようとするところにある、○神の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてあるイエス・キリストにおける完了・成就された救済・平和の場所に信頼し固執したバルトは、終末論的立場から、「教会の存在と現状が、……福音から考え・行動し・処理されているということを語っていないならば、教会の説教も福音宣教も虚しいものとなるであろう。教会みずからが、……その行為と態度によって、自己の内なる政治をこの使信に合わせてゆくこと( ≪観念の共同性を本質とする、一切の、政治的権力、政治的支配、国家を無化していくこと≫)を全然考えないとしたならば、どうして世は、王とその御国の使信を信ずるであろうか」(『キリスト者共同体と市民共同体』)・「(中略)キリスト者は、政治生活において神の正義が人間によって誤認され・蹂躙される場合にも、 神の正義は、……天地の一切の力が与えられているイエスの苦しみのゆえに、優越しているということを確信している。悪しき矮小なピラトが、結局は無駄骨折をするというように、配慮がなされているのである。その場合、キリスト者が、どうして、ピラト(≪観念の共同性を本質とする、一切の、政治的権力、政治的支配、国家、資本主義社会――政治的近代国家の枠組み≫)のともがらと成ることができようか(『教義学要綱』)、と言うのである、〇したがって、バルトは、「教会は、(≪啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態、聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯してそれを媒介することを通して第一の形態、すなわち起源的な形態であるイエス・キリストと間接的・媒介的・反復的に同一化するという仕方で、すなわち啓示について聖書的啓示証言を媒介して別の言葉で同一のことを言うという仕方で、≫)人間が神に聞くというこの一事によって―― 神が人間に語り給うゆえに聞き、神が人間に語り給うこと(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言≫)を聞くというこの一事によって、基礎づけられ、支えられているのである。(中略)このことが起こるところ、そこではたとえ二人三人の集まりで あっても、またこの二人三人が決して選り抜きの人でなくても、また高い水準にさえ達していなくても、またむしろ人間の屑に属する者であるようなことがあっても、教会は存在する」・したがって、そうでない場合は、「どのような大群衆をその中に擁し、どのように優れた個人をその中に擁していても教会は存在しない。またそれが、もっとも豊かな生命を示し、国家と社会において、どのように尊敬されようとも教会は存在しない(『啓示・教会・神学』)、と言うのである、したがってまた、バルトは、現存する日本基督教団やカトリック教会等々が行っているような、すなわち政治的近代国家に直に包摂されてしまう、資本主義社会――政治的近代国家の枠組みにおける即自的な法的言語や政策的言語を介して救済や平和を語るようなことは決してしないのである。

 

 前回、次のような事柄が述べられていた――すなわち、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態としての教会の「権威」・「自由」は、あくまでも「直接的な、絶対的な、内容的な」イエス・キリストのまことの<神性>――「権威」性と「直接的な、絶対的な、内容的な」イエス・キリストのまことの<人間性>――「自由」性によって賦与され装備された「直接的な、絶対的な、内容的な」「権威」と「自由」を持っている第二の形態としての聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言、直接的な最初の第一の啓示の「概念の実在」)の「権威」・「自由」に基礎づけられているところの、徹頭徹尾、「間接的・相対的・形式的な」「権威」・「自由」として、「限界づけ」られている。したがって、第三の形態の教会(その宣教)は、本質的に、決して第一の形態になることはできないし、決して第一の形態との無媒介的な関係性(直接的な関係性)を築くことはできないし、それゆえに、決して第二の形態(聖書、聖書的啓示証言)を後景へと退け排除し「除外」することはできないのである。「神の言葉によって、神の言葉の中で、基礎づけられた(≪イエス・キリストを主・頭とする教会の≫)人間的な権威と自由の中で神の言葉は、教会的な宣教の対象となり、……イエス・キリスト(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態、起源的形態≫)と同一ではないし、預言者や使徒たち(≪第二の形態≫)とも同一でない人間、ただ間接的にだけ、ただ信仰の中でだけ、(≪聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯してそれを媒介することを通してだけ間接的、媒介的、反復的に≫)同一となり得る人間」、「それもただ彼らが洗礼を受けた教会の成員であり、そのような者として教会の委託と委任にあずかっているという理由で、(≪間接的、媒介的、反復的に≫)同一となり得る人間」が、「神の言葉の担い手、語り手、となり、神の言葉は(≪終末論的限界の下で≫)彼らによって、彼らの人間的な言葉の形態(≪第三の形態≫)の中で、語られた言葉となる」のである。

 

 このような訳であるから、聖書的啓示証言によれば、「人間的なものが……神の恵み(≪神のその都度の自由な恵みの決断≫)にあずかる」ことによって、前述したあの神の言葉(啓示)の自己運動に基づく「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してその第二の形態を媒介・反復することを志向し目指すことで、あの「限界づけ」の下で、また終末論的限界の下で、「間接的」、媒介的、反復的に第一の形態と同一となり得るということを、換言すればそういう仕方でのみ人間的な教会の宣教も「まことの神性」を授与されるということを、「信じる信仰」(啓示認識・啓示信仰)に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して初めて、教会(その成員)は、「それ自身では失われた人間性の認識……その人間性の中での教会の宣教」を自己認識・自己理解・自己規定することができるのである、「神ご自身が……人間に向かって、人間は神について語ることが出来ないと言って責め給う(≪「生ける神の裁き」≫)ということ、人間が神の言葉の下に置かれて、ただ人間的な権威と自由をもって語ることしか出来ないということ、まさにそのことが鉄則」であり、それゆえに、この鉄則が、「気遣」うべきもの・「真剣」なもの・「難渋」なもの・「重大なもの」として、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介することを通してキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」とその「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」――福音を内容とする福音の形式としての律法、すなわち<キリストの福音>の告白・証し・宣べ伝え、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」を志向し目指すことを強いるのである。したがって、それは、言葉だけでなく行為も・説教だけでなく社会的政治的実践もという二元論に依拠して、観念の共同性を本質とする政治的近代国家に直に包摂されてしまう、資本主義社会――政治的近代国家の枠組においてその枠組みの中での即自的な法的言語や政策的言語を介して社会的政治的実践を志向し目指すことを強いるのではないのである。
 前述したように、「教会の宣教のまことの神性を信じる信仰から」、「教会の中で奉仕する人間的な宣教者は、結局、人間的な宣教者であることをやめはしないという認識……が生じて来なければならない……。彼の語りはあくまで神についての人間的な語り、あまりに人間的な語り」であって、「それ自身では決して」、キリストにあっての神についての語りという「その目標と目的に……到達しない(≪限界づけられた、終末論的限界の下での≫)語りである」。したがって、日本基督教団立東京神学大学の実践神学担当の小泉健が、神の言葉を、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーからする現実性と妥当性のあるキリスト教批判をその信仰・神学・教会の宣教の思想的課題として認識し自覚し引き受けないところで発明したルドルフ・ボーレンの「神律的相互関係」の概念に依拠して、それゆえに「気遣」うべきもの・「真剣」なもの・「難渋」なもの・「重大なもの」としてある、聖書的啓示証言から与えられた、神の言葉(啓示)の自己運動に基づく、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性についての認識も持たずに、あるいはそれを後景へと退け除外して、神についての語りを人間自身教会自身の自由事項・決定事項・裁量事項として、「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」、と聖霊や聖霊の言葉を恣意的独断的に実体化させた時、小泉は、根本的包括的な原理的な本質的な誤謬を犯しているのであり、それゆえにその誤謬に「普遍性」の「後光」と「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「大学社会の神学」(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)という「組織性」の「後光」をかぶせて語っているのである、根本的包括的な原理的な誤謬の下にあるバルト論やマルクス論に、「普遍性」の「後光」とメディア的「組織性」の「後光」をかぶせて語っている佐藤優のように。「カルヴァンの冷徹な命題、シカシコノ区別ハ、ハッキリサセテオカナケレバナラナイ。スナワチ、ワレワレハ人間ガ自ラナシウルコトト、神ニ固有ナコトトヲ、記憶ニトドメナケレバナラナイ」。「人間ガ自ラナシウルコトを思い起こすなら、主の祈りの第五の願いは確かにまた教会の中で、人間的な宣教者にとって欠かすことができないものであるであろう。なぜならば、モシモ神ガワレワレヲヒキ続イテ支エ給ウノデナケレバ、全認識モ、神学ソノモノモ、全ク役ニ立タナイデアロウ(ルター)」。

 

 「人が神について語ることができないということ」が、「ただ一般的」な、「人間的な状況そのものの内在性」から、その「人間的な不可能性」から、「神秘主義」や「懐疑論」等から、なされるものであるならば、その「試練」は、現実的な「致命的な危険」ではない。言い換えれば、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする「神から来る」「試練」が、「現実の危険」、「致命的な危険」である。したがって、バルトは、『教会教義学 神の言葉T/1』において、次のように述べたのである――聖書的啓示証言の本来的テーマは、「三位一体の第二の存在の仕方」である「子(≪神の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの≫)なる神、キリストの神性(≪単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリスト≫)」を問う問いの中に、「父を問う問い」と「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊を問う問いとが包括されているという点にある。神は、そのイエス・キリストにおいて、インマヌエル――「神われらと共にいます」という存在の仕方で、顕現・自己啓示(神の自己認識・自己理解・自己規定)したのである。このことは、単一性・神性・永遠性を本質とする「自己を覆い隠す」・隠蔽性・秘義性・「聖性」としての神が、その「存在の仕方」において子(≪神の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの≫)として「自分を自分から区別」したことを意味するのである。したがって、その顕現・自己啓示は、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」、神の第二の存在の仕方において、その「存在の本質」である単一性・神性・永遠性の認識・信仰を要求する啓示なのである。このように顕現・自己啓示する神は、啓示の弁証法において「まさにアラワサレタ神こそが隠サレタ神」なのである。またこのことは、神ご自身がイエス・キリストを通して人間に対して顕現・自己啓示されないならば、すなわち神ご自身が神と私たち人間とを架橋されないならば、全く不信仰で罪に穢れた私たち人間は、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰・概念・教義をさえ持つことはできないということを意味している。ここに、現実的な「致命的な危険」が存在する。言い換えれば、神の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある、主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」(ローマ3・22、ガラテヤ2・16等)、すなわちイエス・キリストを信じる信仰ではなくて第一義的第一次的に単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストご自身が信じる信仰、神の言葉、神の子、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和、イエス・キリストによって完了された・成就された人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求・不信・無神性・真実の罪を包括し止揚し克服した信仰、すなわち不信を包括し止揚し克服した信、換言すれば信と不信を架橋した信、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与――この神の言葉(啓示)の自己運動に基づくそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性が、人間的な教会(その成員)に対して、それに信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すことを、そういう仕方でキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」とその「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」を志向し目指すことを強いるのである。このことが、「神から来る現実の試練」である、この試練が「致命的な危険」としてあるのである。なぜならば、人間的な教会(その成員)が、この「神から来る現実の試練」を志向し目指しているかどうかということが、教会(その宣教)が存在するか・存在しないかという規準・法廷・審判者となるからである。
 「教会は、(≪啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態、聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯してそれを媒介することを通して第一の形態、起源的な形態であるイエス・キリストと間接的・媒介的・反復的に同一となるという仕方で、すなわち啓示について聖書的啓示証言を媒介して別の言葉で同一のことを言うという仕方で、≫)人間が神に聞くというこの一事によって―― 神が人間に語り給うゆえに聞き、神が人間に語り給うこと(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言≫)を聞くというこの一事によって、基礎づけられ、支えられているのである。(中略)このことが起こるところ、そこではたとえ二人三人の集まりで あっても、またこの二人三人が決して選り抜きの人でなくても、また高い水準にさえ達していなくても、またむしろ人間の屑に属する者であるようなことがあっても、教会は存在する」・したがって、そうでない場合は、「どのような大群衆をその中に擁し、どのように優れた個人をその中に擁していても教会は存在しない。またそれが、もっとも豊かな生命を示し、国家と社会において、どのように尊敬されようとも教会は存在しない」(『啓示・教会・神学』)のである。神の側からやってくる「現実の試練」は、教会(その成員)の宣教が、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態の聖書的啓示証言を媒介することを通して起源的な形態(第一の形態)のイエス・キリストと間接的・媒介的・反復的に同一となることを志向し目指しているかどうかという点にあるから、「最高に隠された、しかし最高に現実のこととして起こる」のである。神は、「人間に対して恵み深くあり給う」ことによって、また「人間を受け入れ給う」ことによって、人間の「罪人としての正体を暴露し給う」、またその人間の内面の普遍性としてある罪・その人間性にある不信仰・無神性・真実の罪を「暴露し給う」、また神の恵みに対して憎悪し反逆する(『福音と律法』)「人間に対して逆らい給う」ゆえに、その「神から来る現実の試練」は、「神の裁き」である。したがって、その「試練の克服」も、神の側からやってこなければならない、「われわれに対し重荷を課し給う同じ主を通して、われわれは助けられなければならない……」。「ナゼナラバ、真理ノ言葉ハ外面的ニハ肉体的な声ト奉仕ヲ通シテ人間ニ伝エラレルガ、シカシ植エル者モ水ソソグ者モ、共ニ取ルニ足リナイ。大事ナノハ、成長サセテ下サル神ノミデアル(Tコリント三・七)カラデアル」。「ソレガ人デアロウト天カタノ使イデアロウト、話シ手……の語ルノヲ聞クノハ、ソコデ語ラレテイルコト(≪啓示認識・啓示信仰について言えば、啓示の出来事、聖書的啓示証言≫)ガマコトデアルコトヲ見テ取リ、知ルタメデアルガ、ソレハ彼ノ心ノ中ニ、(永遠ニトドマリ、暗闇ノ中ニアッテモ輝ク)光ガ注ガレルコト(≪啓示認識・啓示信仰について言えば、神のその都度の自由な恵みの決断による啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事≫)ニヨッテデアル(アウグスティヌス)」。「神ガソノミ言葉ノ役者ヲ必要トサレル時、ソレハ神ガ小サクナリ給ウタトイウコトデハナイ。アルイハゴ自分ノ力ガ減退スルコトヲ許シ給ウタトイウコトデモナイ。神ハ与エルモノヲ失イ給ワナイ」、受肉・「神が人間となる」こと・「僕の姿」となること・「自分を空しくすること、受難、卑下」は、「神性の放棄」や神性の「減少」を意味するのではなく、「神的姿の隠蔽」・「覆い隠し」を意味しているように(『教会教義学 神の言葉T/1』)。「神ハソノヨウナ道具ヲ使ウコトヲ欲シ給ウ。タダソレハ、スベテガ神ニ帰スルコト、神デナイホカノ源泉カラ、タトエ一滴タリトモ汲ミ出サナイデ、スベテノ源泉デアル神カラ汲ミ出ストイウ条件デノコトデアル(カルヴァン)」。それは「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してその第二の形態の聖書的啓示証言を媒介することを通してその起源的な第一の形態のイエス・キリストと間接的・媒介的・反復的に同一となるという人間的な教会の宣教によるのであるが、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与の出来事は、本質的には、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断よる客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事、この神の言葉(啓示)の自己運動によって惹き起こされるのである。人間自身教会自身が対象化した対象物としての「存在者レベルでの神」・偶像神によって惹き起こされることはないのである。

 

 このような訳で、人間自身教会自身の「不誠実」によって「神の誠実が無にされる」ことはない、「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方である」(ローマ3・4)。「彼が……(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性を認識し自覚した≫)正しいキリスト教の説教者としても」、ただ(≪終末論的限界の下で、彼は、≫)人間としてだけ語るだけであり、したがってすべての人間的な語りの裁きの下でだけ」、換言すれば「先ず第一義的に優位に立つ原理」としてのイエス・キリスト共に、教会の宣教における原理である聖書、すなわち教会の宣教に対する規準・法廷・審判者・支配者の下でだけ、「語っている」のである。「われわれは……教会を、……(≪聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯してそれを媒介することを通してだけ≫)主とただ間接的(≪・媒介的・反復的≫)にだけ、同一視することができる。そうでないとしたら、明らかにわれわれは教会および教会的権威についてローマ・カトリック的思惟の道に逆戻りしてしまうことになるであろう」。したがって、教会(その成員)は、「教会の宣教の人間性は正確に……ここで語る者も、ここで聞く者も、神の自由な恵みへと、それと共に祈りへと、さし向けられ、頼らしめられているということについてわれわれが明らかに気づかせられ、はっきりと意識していることが必要」なのである。

 

 「神の恵みに頼るように差し向けられ、神の恵みなしには失われ駄目になった人間、神の恵みを通してまことに謙遜ならしめられ、祈りへと導かれる人間」は、その「謙遜にされた状態の中で」、「祈り求めている神の言葉に向かって熱心に、倦むことなく手を伸」ばすであろう、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態の直接的な最初の第一の聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯してそれを媒介することを通して、「倦むことなく」、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」を志向し目指すであろう、そういう仕方で「神の賛美」としての「隣人愛」――キリストの福音を内容とするその福音の形式としてある律法、すなわちキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指すであろう。したがって、そうでないならば、「彼は、まことの裁き、神の裁き、に対してまだ自分の身をさらし」、屈していなかったということ」・屈していないということを「証明して」いることになるであろう。したがってまた、人間自身による恣意的独断的な「人間的な無力さの絶対化」は、神からの逃亡としてのそれであるだろう。言い換えれば、神の側の真実から規定されてくる「神の前での実際の人間的な無力さ」は、教会(その成員)の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者としての聖書(直接的な最初の第一の聖書的啓示証言)という認識と自覚、終末論的限界という認識と自覚を与えることはあっても、自分の無力さを人間的に<絶対化>(宗教化)することはないのであって、「それは神の前での無力さとして……完膚なきまでの無力さ」であり、神ご自身が神と不信仰で罪に穢れた私たち人間とを架橋されないならば、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰は決して得られないところのそれであり、「われわれが神から逃げることを許さない」それである。「現に本当に神によって裁かれるならば、その人間にとっては、まさに自分を裁く者を、したがって神の恵みを、かたく取って離さないでいることしか残っていないであろう」。「ただ神の恵みによってだけわれわれはまことに裁かれている」のである、「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給う」ように(『福音と律法』)。神の側の真実からやってくる、私たち人間の、不信仰、無神性、真実の罪、罪と穢れ、無力さという人間の自己認識・自己理解・自己規定は、客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して初めて得られるそれなのである。言い換えれば、それは、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍や人間論や人間学的な哲学原理・認識論・世界観によって得られるそれではないのである。私たち人間において「神の恵みを信じる……転向」を可能とするのは、イエス・キリストの「復活の力」である。「ゴルゴタの十字架の上であの完全な裁きが、すべての人間を虚言者として宣言しつつ、すべての口を封じつつ、われわれの身に起こったのである。そしてイエス・キリストが死人の中から甦えられた」ことによって、「われわれは神の恵みの領域に移されたのである」。したがって、「この転向」は、完了された・成就された「〔既に〕起こったこととして受け取らなければならない」のである。「それの光の中で(換言すれば、具体的に)、われわれの人間性は、すなわち教会の宣教の人間性は、見られなければならないのである」。
 「神の言葉の自己啓示と自己証言は、……われわれのなすべき事柄ではなく」、神の言葉(啓示)自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、この神の言葉(啓示)の自己運動、すなわち神ご自身のその都度の自由な恵みの決断に基づいた「神がなし給う事柄である」。したがって、「その中で(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯してそれを媒介することを通してその起源的な形態であるイエス・キリストと間接的・媒介的・反復的に同一となることを志向し目指す≫)キリスト教的説教が神の言葉のこの自己啓示と自己証言を指し示すところの人間的な言葉のしるし」であるとしても、「ただ、それらが神ご自身により、聖霊を通して(≪啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて≫)動かされ用いられることによってだけ、力を発揮して働くようになる」のである。なぜならば、現存する教会は「とにかく罪人の教会であ」るから、「まさに神が教会の語る言葉を認め給う時にこそ」、その教会の語る言葉は、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態(教会、教会の宣教)の中での神の言葉、すなわち神の言葉としての教会の宣教となり得るからである。したがって、「神については結局神ご自身だけが語り給うことができる」のである(もしも人間自身も語ることができると言うなら、その場合それらすべては、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーが批判した人間自身教会自身が対象化した対象物(存在者、人間的自然)としての偶像神崇拝、通俗的な宗教としかならない)。したがって、「神ご自身の行為(≪神ご自身が神と人間とを架橋する介在的行為≫)がなければ」、神と人間との無限の質的差異の下にある「われわれは……神について語り、また神について語られていることを聞くことは」できないのである、それゆえに神の言葉としての教会の宣教における「資格、認識、勇気はわれわれには必然的に欠けているところの(≪終末論的限界の下での≫)敢為……であり続ける……」のである。したがってまた、「それらすべてのことは、神が教会に対し神について語るように委託し給い、教会がこの委託を(≪あの「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して≫)実行に移す」ことによって、「神ご自身が自らご自分の啓示と証言を宣べ伝えるために、教会のただ中にい給うという積極的な命題に対する留保と解明であることができるだけである」という認識と自覚が必要となるのである。この人間的な課題としての「留保と解明」は、「教会の成員たちが彼らの人間性全体の中で、神の言葉の宣教という神ご自身の業に参与するよう取り上げられ、受け入れられているという積極的な真理……に対する妨害となることはできない」から、第一に、「教会は、その奉仕をしつつ神について語る時、何らかの形で自負心に陥ってしまったり、自信過剰に身をゆだねることはできないということを意味している」、それゆえに「奇蹟はもはや奇蹟ではなく、恵みはもはや恵みではなく、敢為はもはや敢為ではないところの不遜な坊主根性」は、「実に教会がすべてのそのほかの敵にもまして鋭い形で戦わなければならない……敵」である。なぜならば、その不遜な坊主根性は、あの「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯すべき第三の形態の教会を、まさにフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーが批判した偶像神崇拝、通俗的な宗教へと堕落させてしまうからである。またその「留保と解明」は、第二に、次に述べるような不可避性を意味している。教会の成員、すなわち「教会の中での人間」に対して「高慢へと逃げ込む可能性が断ち切られている」ように、「同時にまた小心へと、したがって怠惰へと逃げる可能性も断ち切られている」から、教会の成員は、不可避的に、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通してキリストにあって神を尋ね求める「神への愛」とその「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」――キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指すという、その「仕事に手をつけるしか残っていない」のである。人間的な弱さ、無能力、「イエス・キリストの甦えりの力、聖霊の力、から身を引こうと望んでいる人間の反抗心と小心な気後れ」は、人間の歴史的形態、イエス・キリストの名として「神の子が肉の中に入り給い、その聖霊を教会に注ぎ給うたということ、神について語るように委託が実際に教会に与えられたということ……を通して為される時」、またその「信仰から来る時」は、「力強いのである」。その時には、それは、「われわれの高慢と小心に反対しつつ働く……救いの力となる批判の力である。この批判の背後と上には、まさに……ゴルゴタの十字架の上で、また復活の朝、起こった転向……が立っている……」。「われわれはこの転向」を、完了された・成就された「出来事として信仰の中で受け取る」ことによって、「大いなる試練」を内包した「あの救いとなる批判」、その「背後と上」にある「転向に、教会の成員としてあずかるのである。この転向を受け取るということはその時、まさに」、@「『その方はその霊と賜物をもって、われわれのもとに登場された』ということを認識し、告白することを意味している」、A「教会の人間性について、したがってわれわれ自身の人間性について、なされるべきすべての考察に際して、その無能力と無価値さ全体を通し貫いて、教会の根拠と始まり、イエス・キリストにあっての教会の存在、にまで視線を向けるということを意味している」・その時「イエス・キリストにあって、人間性は決して神について語るのに無能で価値がないのではないのである」、その時イエス・キリストにあって「人間性は神について語るためになければならないすべてのものである……」、その時イエス・キリストにあって人間性は「神について語るために必要なすべてのものを持っている」、その時イエス・キリストにあって人間性は、「その行為において、義とされ、聖化され、祝福され、正当なものとされている」、「そこのところで(≪イエス・キリストにあって≫)人間が神について語ることができ、実際に語るために起こらなければならない奇蹟は、人間の身に既に起こったのである」――ここに「視線を向けることに」ことによって、「教会は平安のうちに、しかしまた最後的な確信をもって、自分が、人間の言葉で神について語りつつ、神ご自身の言葉を宣べ伝えていることを公に言明し、告白するであろう。その場合、どうして教会は、自負心や怠惰に陥ることができようか」、その時教会は「この言明と告白はあまりにも大胆で、尊大であるという避難を聞かなければならないとしても、そのことに耐えることができるであろう」、したがって教会は、「イエス・キリスト以外のものに視線を向けることを自分に許してしまう」ことによって、「この言明と告白において不確実となる……」であろう――「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」というように、また「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<(≪目的格的属格として≫)私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、(≪主格的属格として≫)神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、 現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」というように(『福音と律法』)。