本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』「二十二節 教会の委託」「一 キリスト教説教における神の言葉と人間の言葉」(3−20頁) その2−1

『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』「二十二節 教会の委託」「一 キリスト教説教における神の言葉と人間の言葉」(3−20頁) その2−1

 

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしておりますが、引用の不備や誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)

 

 

二十二節 教会の委託
「教会の委託」について、バルトは、次のような定式化を行っている――

 

 神の言葉は、イエス・キリストの教会の宣教の中での神ご自身である。神が教会に対し、神について語るよう委託し給う間に、また教会がこの委託を実行に移す間に、神ご自身がその証言の中で神の啓示を宣べ伝え給う。教会の宣教は、その宣教の中で語られている人間的な言葉が、聖書的な啓示証言を確証しつつ、自ら神の言葉に服従し、また神の言葉に対する服従を造り出す時、純粋な教えである。このことが教会の説教者の言葉の本質、秩序、課題である間に、教会の説教者の言葉は、教義学的作業の特別な、また直接の対象である。(3頁)

 

 この定式の詳述――(≪単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、客観的な啓示の実在そのもの、啓示・和解、である≫)神の言葉は、(≪三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性である「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態の≫)イエス・キリストの教会の宣教(≪第二の形態の聖書的啓示証言を媒介することを通して第一の形態のイエス・キリストとの「間接的な同一性」・<媒介的>同一性・<反復的>同一性を志向し目指すところの教会の宣教≫)の中での神ご自身である。神が教会に対し、(≪第三の形態の教会が、第一の形態に、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して、換言すれば、教会が、第二の形態の聖書的啓示証言を媒介することを通して第一の形態のイエス・キリストとの「間接的な同一性」・<媒介的>同一性・<反復的>同一性を志向し目指すというそういう仕方で、第一の形態の啓示について「例証する」のではなくて「解釈する」ことにおいて、すなわち、ある社会構成・支配構成・文明的――文化的構成の時代水準のただ中に現存する教会(その成員)が、第二の形態の聖書的啓示証言を媒介して「別の言葉で同一のことを言うこと」を志向し目指すことを通して、≫)神について語るよう委託し給う間に(このindemは、井上良雄ならば、「……委託し給うことによって」、と訳す)、また教会がこの委託を実行に移す間に(≪教会がそういう仕方でその委託を実行に移すことによって≫)、神ご自身がその証言(≪啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、「父ト子ヨリ出ズル御霊」・キリストの霊・聖霊の証しの力、神の言葉の自己運動における、その第二の形態である、その人間性と共に神性を賦与され装備された聖書的啓示証言、すなわち直接的な最初の第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、直接的な最初の第一の啓示の「概念の実在」≫)の中で神の啓示を宣べ伝え給う。(≪第三の形態の≫)教会の宣教は、その宣教の中で語られている人間的な言葉が聖書的な啓示証言を確証しつつ、自ら神の言葉に服従し、また神の言葉に対する服従を造り出す時(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通してキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」とその「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」――福音を内容とする福音の形式としての律法、すなわちキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指す時≫)(≪第一の形態に、具体的には第二の形態に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通したイエス・キリストの教会の宣教の客観的な信仰告白・教義として、すなわち直接的な最初の第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である第二の形態を媒介・反復すること通して第一の形態のイエス・キリストと「間接的」に・媒介的に・反復的に同一となることによって、換言すれば第二の形態の聖書的啓示証言を媒介することを通して第一の形態である啓示について「別の言葉で同一のことを言う」ことによって≫)純粋な教えである。このことが教会の説教者の言葉の本質、秩序、課題である間に(このことが教会の説教者の言葉の本質、秩序、課題であることによって)教会の説教者の言葉は、(≪「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」る、という教会の一つの機能としての≫)教義学的作業の特別な、また直接の対象である(≪したがって、教会に宣教を義務づけている「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態の「聖書が(≪第三の形態の≫)教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのである」。教会の成員、説教者は、あくまでも聖書を規準・法廷・審判者・支配者として、その教会の宣教、その説教と聖礼典について、絶えずくり返し、自己吟味し・的確に「批判し、訂正」していかなければならないのである。なぜならば、第二の形態の聖書は、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、客観的な啓示の実在そのものである、第一の形態のイエス・キリストと共に、第三の形態の「教会の宣教における原理」だからである。この「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性は、『教会教義学 神の言葉T/1』において論じられた次の事柄と同じである――「創造された世界」における「神の愛」と「われわれの世界」における「イエス・キリストの事実の中における神の愛」との間には差異がある。すなわち、後者の神の愛は、「まさしく神に対し罪を犯し、負い目を負うことになった人間の失われた世界に対する神の愛」である。すなわち、「和解ないし啓示」は、「創造の継続」や「創造の完成」ではない。すなわち、「和解ないし啓示」は、神の「存在の仕方」(性質・行為・働き・業)の差異性における「第二の存在の仕方」(神の言葉、神の子、完了された・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和)であるイエス・キリストの「新しい神の業」である。それは、「神的な愛の力」・「和解の力」である。イエス・キリストは、和解主として、創造主のあとに続いて、神の「第二の存在の仕方」において「第二の神的行為を遂行」したのである。この神の「存在の仕方」の差異性における「創造と和解のこの順序」に、「キリスト論的に、父と子の順序、父(≪啓示者≫)と言葉(≪啓示≫)の順序」が対応しており、「和解主としてのイエス・キリスト」は、創造主・父に先行することはできないのである。しかし、父と子は共に神ご自身としてのその「存在」において単一性・神性・永遠性を本質としているから、この従属的な関係は、「存在の本質」の差異性を意味しているのではなくて、「存在の仕方」の差異性を意味しているのである。また、「イエス・キリストにおける神の愛」について『ローマ書』に引き寄せて言えば、次のように言うことができる――「イエス・キリストにおける神の愛」は、「神ご自身の人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」。また、聖書の言葉について『ローマ書』に引き寄せて言えば、次のように言うことができる――「パウロはその時代の子としてその時代の人々に語った。けれどもこの事実よりはるかに重要な事柄は、いま一つの事実、すなわち彼は神の国の預言者ならびに使徒としてあらゆる時代のあらゆる人々に語っている、ということである。(中略)聖書の精神は永遠の精神なのである。かつての重大問題は今日もなお重大問題であり、今日の重大問題で単なる偶然や気まぐれでない事柄は、またかつての重大問題と直結している」≫)。(3頁)

 

註:@<三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性等々については、カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註、を参照してください>(2016年6月13日作成)、Aバルトは、教会の宣教を「より危険なものにしてしまう」教会の在り方について、次のように述べている――○「正しい注釈」を、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としてのイエス・キリストに、具体的にはその直接的な最初の第一の啓示証言の聖書に基づくことをしないところにある。言い換えれば、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍や人間論や人間学的な哲学原理・認識論・世界観を第一次化するところにある、あるいはそれらとの混淆・混合・折衷を志向し目指すところにある、○「正しい注釈」を、「最終的に……教会の教職の判決に、……間違うことはありえないものとして 振る舞う歴史的――批判的学問の判決に、依存させてしまう」ところにある。○「福音が純粋ニ教エラレ、聖礼典が正シク執行サレルということ」がなされないままに、礼拝改革・社会的政治的実践・キリスト教教育とか、教会と国家および社会との関係とか、国際間の教会的な相互理解というような領域で、「何か真剣なことを企て遂行してゆくことができると考える」ところにある、○宣教の規準を、聖書と同時に、「最上の仕方で基礎づけられ、熟慮に熟慮を重ねられ た人間的な判断」あるいは「哲学、道徳、政治」等におくところにある、○「特定の人種、民族、国民、国家の特性、利益と折り合」おうとするところにある、○ある「社会機構、あるいは経済機構の保持」・「廃止」に貢献しようとするところにある、○「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求め」ようとするところにある、○神の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてあるイエス・キリストにおける完了・成就された救済・平和の場所に信頼し固執したバルトは、終末論的立場から、「教会の存在と現状が、……福音から考え・行動し・処理されているということを語っていないならば、教会の説教も福音宣教も虚しいものとなるであろう。教会みずからが、……その行為と態度によって、自己の内なる政治をこの使信に合わせてゆくこと( ≪観念の共同性を本質とする、一切の、政治的権力、政治的支配、国家を無化していくこと≫)を全然考えないとしたならば、どうして世は、王とその御国の使信を信ずるであろうか」(『キリスト者共同体と市民共同体』)・「(中略)キリスト者は、政治生活において神の正義が人間によって誤認され・蹂躙される場合にも、 神の正義は、……天地の一切の力が与えられているイエスの苦しみのゆえに、優越しているということを確信している。悪しき矮小なピラトが、結局は無駄骨折をするというように、配慮がなされているのである。その場合、キリスト者が、どうして、ピラト(≪観念の共同性を本質とする、一切の、政治的権力、政治的支配、国家、資本主義社会――政治的近代国家の枠組み≫)のともがらと成ることができようか(『教義学要綱』)、と言うのである。したがって、バルトは、現存する日本基督教団やカトリック教会等々が行っているような、すなわち政治的近代国家に直に包摂されてしまう、資本主義社会――政治的近代国家の枠組みにおける即自的な法的言語や政策的言語を介して救済や平和を語るようなことは決してしないのである。

 

 「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態の「教会の宣教としての神の言葉」は、「『神の啓示としての神の言葉』という第一のこと(≪第一の形態≫)、また『聖書としての神の言葉』という第二のこと(≪第二の形態≫)」との間の「間接的な同一性」・媒介的同一性・反復的同一性としてあるかどうかということが問題である限り、換言すれば「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」のであり、解釈するとは「別の言葉で同一のことを言うこと」であるのであるから、それゆえにそれは、第二の形態を媒介することを通した第一の形態との間接的な同一性、媒介的な同一性、反復的な同一性を志向し目指さなければならないのであるから、それがそのような形態として存在しているかどうかということが課題として生じてくるのである。したがって、その課題は、教会の一つの機能である教義学の課題なのである。したがってまた、教会の一つの機能である「教義学は何をしなければならず、何をなしてはならないかということを確かめなければならない」のである。
 「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態の教会における「権威」・「自由」は、あくまでも「直接的な、絶対的な、内容的な」イエス・キリストのまことの<神性>――「権威」性と「直接的な、絶対的な、内容的な」イエス・キリストのまことの<人間性>――「自由」性によって賦与され装備された「直接的な、絶対的な、内容的な」「権威」と「自由」を持っている第二の形態の聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言、直接的な最初の第一の啓示の「概念の実在」)の「権威」・「自由」に基礎づけられているところの、徹頭徹尾、「間接的・相対的・形式的な」「権威」・「自由」として、「限界づけ」られているのである。したがって、本質的に、第三の形態の教会(その宣教)は、決して、第一の形態になることはできないし、決して、第一の形態との無媒介的な関係の直接性を築くことはできないし、それゆえに決して、第二の形態(聖書)を後景へと退け排除し「除外」することはできないのである。このような「神の言葉によって、神の言葉の中で、基礎づけられた人間的な権威と自由の中で神の言葉は教会的な宣教の対象となり、……イエス・キリストと同一ではないし、預言者や使徒たちとも同一でない人間、ただ間接的にだけ、ただ信仰の中でだけ、(≪間接的、媒介的、反復的に≫)同一となり得る人間」、「それもただ彼らが洗礼を受けた教会の成員であり、そのような者として教会の委託と委任にあずかっているという理由で、(≪間接的、媒介的、反復的に≫)同一となり得る人間……が神の言葉の担い手、語り手、となり、神の言葉は(≪終末論的限界の下で≫)彼らによって、彼らの人間的な言葉の形態の中で、語られた言葉となる。われわれは……(≪第一の形態の≫)神の言葉は」、その人間性と共に神性を賦与され装備された第二の形態の「聖書の中で」、すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストによって唯一回的・特別に召され任命された「予言者と使徒たちの(≪直接的な最初の第一の≫)証言の中で」、(≪第一の形態の≫)「啓示そのものの中におけるとは違った仕方で」、すなわち(≪第一の形態の≫)「神ご自身のみ子の起源的な証言の中におけるのとは違った仕方で、しかし決してより僅かな程度にではなく、同じ程度に(≪しかし、神と人間との無限の質的差異の下で、決して神と人間・神の言葉と人間の言葉との混淆・混合・折衷、「神の言葉の緩和と水増し……混濁や毀損が起」こらない仕方で≫)、(≪第一の形態の≫)神の言葉であるということを……知っている」。このことは、「……原則的に、(≪第二の形態の≫)聖書、……また(≪第一の形態の≫)啓示と、……(≪第三の形態の≫)教会の宣教の間の関係に関しても言われなければならない」。言い換えれば、「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反服することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すという「服従の中にこそ、……鎹の力…は成り立っているのである」。したがって、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、聖霊の証しの力、この神の言葉の自己運動による「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯して、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容」を持つことができるのであり、またそういう仕方で「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は「根本的には……真理が来ることのしるし」なのである・「時の全く厳格な相違性の中で、神の言葉は一つであり、同時的である(イエス・キリストは、きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない)」(『教会教義学 神の言葉T/1』)。神の言葉は、「減少させられたり、弱められたりすること」はない。「神のみ子が肉の中に来たり給い、肉の中で甦えり給うたということがまことであるならば、それであるから聖書が神の啓示についての証言として教会のための神の言葉であることがまことであるならば、その時教会は……教会に対して神の言葉がただ神の啓示を通してだけ、またただそれの聖書的な証言を通してだけ、仲介され、与えられているということ……を想起し覚えておかなければならない……」。第三の形態の「教会の宣教としての神の言葉……あるいは神の言葉としての教会の宣教を問う問いが含みを持っているまことの問題性」は、第一の形態の「神の啓示としての神の言葉、また(≪第二の形態の≫)聖書としての神の言葉が、(≪第三の形態の≫)教会に向かって語られたとして、それと共に教会の委託および委任となったとして、われわれの前に立っている時」、終末論的限界の下で、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通してキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」とその「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」――福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、すなわちキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え、を志向し目指すことは、「われわれの(≪服従的な「探求」、服従的な≫)取り組みの前提」である。したがって、「われわれ自身の洞察」、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍、人間論、人間学的な哲学原理・認識論・世界観を前提とすることはできないのである。なぜならば、後者の在り方の場合、そのキリスト教は、まさしく、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーにおける宗教批判(キリスト教批判)の対象そのものとしての宗教(キリスト教)、すなわち人間自身教会自身が対象化した対象物に対する偶像崇拝に過ぎなくなるからである。
 さて、「キリスト教会の宣教」に対する「起源的な神の恵みの然り」は、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、「父ト子ヨリ出ズル御霊」・キリストの霊・聖霊の証しの力、この神の言葉(啓示)の自己運動による、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、客観的な「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性の現存そのものである。言い換えれば、先行する起源的形態は、第一の形態の客観的な「啓示の実在」そのものである単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、啓示・和解)であるイエス・キリストである、またその起源的形態からその人間性と共に神性を賦与され装備された聖書は、直接的な最初の第一の、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、、聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」、第二の形態としてある。これが、教会(その成員)の宣教の規準・法廷・審判者・支配者である。したがって、この「洞察の宣言」から「出発して、〔そこで初めて〕」、客観的な「啓示の実在」そのものであるイエス・キリストを、具体的には直接的な最初の第一の啓示証言(直接的な最初の第一の啓示の「概念の実在」)である聖書を規準・法廷・審判者・支配者として、「必要な批判と自己批判はなされなければならない」のである。ここにおいて、「キリストのからだにつける肢体として」、「自分自身イエス・キリストではないし、また自分自身預言者や使徒でもない……人間」として、その「人間性全体の中で神の言葉が委託されている者たちの集まりである」人間的な教会(その成員)の宣教は、人間自身教会自身の「人間性を主張し、貫徹させつつ、神の言葉以外の何かを語ろうと欲する高慢」はゆるされないのであるから、ただ教会の宣教の前提として与えられた「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して、具体的には聖書的啓示証言に「絶対的信頼」(『説教の本質と実際』)を置いて、終末論的限界の下で、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」とその「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」――キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指さなければならないのである。この時、教会の宣教は、終末論的限界の下での「教会の宣教としての神の言葉……あるいは神の言葉としての教会の宣教」となる。この事柄は、「教会の中にいる人間にとって……律法および課題」である。この事柄を志向し目指すことは、教会の一つの機能としての教義学の重要な役割である。したがって、この「律法および課題」は、人間自身教会自身の自主性・自己主張・自己義認の欲求を志向し目指すところのそれではない、換言すれば「人が律法でもって、また自分自身の律法の成就でもって、事を始めようとする時、いつでもそうであるように……ただ軽率さかあるいは絶望でもって終わるしかないであろう」ような「律法および課題」ではない。「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的形態から規定されてくる・強いられてくる「律法および課題」である。したがって、この「律法および課題」は、個体的自己としての全人間・全世界・全人類の不信仰(神だけでなく人間も、という人間自身教会自身の自主性・自己主張・自己義認の欲求)・無神性・真実の罪のために、「イエス・キリストは人と成り、死んで甦り給うた」――このイエス・キリストにある「復活の力」に「取り囲まれた」それである。なぜならば、赦罪や和解や救済や平和について、私たち人間から「生ずる現実は何もない」中で、個体的自己としての全人間の更新を可能とするのは、「今日に至るまで罪人の手に渡され・十字架につけられ・死んで甦られ給うた」イエス・キリストにある「復活の力」のみだからである。したがって、神ご自身のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰を必要とするのである。あの「律法および課題」においても、「律法は、それが真剣に受け取られ、尊重されるべき時には、……先ず第一に、ただイエス・キリストの中で成就された律法として理解され、信じられることを欲している」、「福音を内容とする福音の形式」(『福音と律法』)としての「律法として理解され、信じられることを欲している」。なぜならば、「教会の宣教が神の言葉であるために起こらなければならないこと、実際に教会の中にいる人間が実際に神の言葉を宣べ伝えるために起こらなければならないこと、は〔既に〕起こった」からである、「ちょうど、そもそも教会が神の教会として生きるために、起こらなければならないすべてのことがひとつ残らず起こったように」。このような訳であるから、あの「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性の中で、「教会はイエス・キリストを通し、イエス・キリストの中で、基礎づけられた自分の生を生きる」のである。「イエス・キリストが甦えられた」ことによって、「それであるから教会に対して神の啓示(≪第一の形態、神の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの≫)と神の証言(≪第二の形態、直接的な最初の第一の、聖書的啓示証言、啓示の「概念の実在」≫)が与えられた」ことによって、それゆえに「神が語ることを人間が語らなければならないという不可能性全体……は、イエス・キリストにあって取り除かれている」ことによって、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性の下で、すなわち終末論的限界の下で、第三の形態の「教会はその委託を受け、またその委託を持つのである」。したがって、教会の宣教について、「われわれはそのための前提を自分でこれから造り出さなければならないことない」のである。したがってまた、教会(その成員)にとっては、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを「欲し給う聖霊……に逆らわないということだけが問題であり得る」のである。
 「わたしは以前……ルターの発言の内容」には「教会の教職の無謬性につてのカトリックの教説に逆戻りする極端な考え方」があるとして「拒否」したが、その「ルターの発言がなされている脈絡について」もっとよく「考察」してみる時、ルターは、「真理と誤謬の間の紙一重のところを通り抜けながら」、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性の現存を「考慮に入れ」ていたのである。言い換えれば、ルターは、第二の形態の聖書的啓示証言を媒介することを通して第一の形態のイエス・キリストとの「間接的な同一性」・媒介的同一性・反復的同一性を通した、説教者の説教を志向し目指していたのである。「カルヴァンは教会の宣教を次のように特徴づけた、ワタシタチガ勝手に定メタヨイコトヲナスタメ、マタワタシタチノ空想デモッテ人々ヲ養ウタメニ、説教者デアッテハナラナイ。真理ノ言葉(≪第一の形態、具体的には、第二の形態の、直接的な最初の第一の、聖書的啓示証言・啓示の「概念の実在」≫)ガワタシタチヲ強イルノデアル」。「人はまたここでも理論が問題ではなく」、換言すれば教会の宣教について「われわれはそのための前提(≪理論≫)を自分でこれから造り出さなければならない」ということが問題ではなく、「むしろ最も身近な、決定的な実践が問題であるということを」、換言すれば聖書的啓示証言から与えられた次の事柄――それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性が現存しているということを、それゆえにそれに信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通してキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」とその「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」――キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指さななければならないということを、また聖書は「先ず第一義的に優位に立つ原理」、規準・法廷・審判者・支配者であるイエス・キリストと共に、教会の宣教(「説教と聖礼典」、「間接的に教会の祈りと賛美歌、教会の信仰告白、教会の教育、牧会的配慮」)における原理、規準・法廷・審判者・支配者であるということを、したがって「聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならない」ということを、これらのすでに与えられた前提(認識、信仰、言葉、理論)が、必然的に実践へと連れ出していくということを、「よく理解せよ」。この時、「教会の中で神の言葉が現臨するために必要なすべてのことが、イエス・キリストの中で既に生起したということにわれわれ」は、「あくまで踏みとどまる」のである、「それであるからわれわれがここで能動的あるいは受動的に参与している人間的な出来事が、事実……神ご自身が(≪あの神の言葉の自己運動の過程における第一の形態の≫)啓示と(≪第二の形態の、直接的な最初の第一の≫)その証言を宣べ伝え給うということことの光の中に入れられる」のである。したがって、バルトは、それが社会的政治的実践であっても、二元論的な説教(言葉)だけでなく社会的政治的実践も必要であるということでは全くなくて、それゆえに資本主義社会――政治的近代国家という枠組みの中での即自的な法的言語や政策的言語を介して直に政治的近代国家に包摂されてしまう体制的実践によってでは全くなくて、「かつて語った説教(≪聖書的啓示証言を媒介・反復することを通した、言葉、信仰告白、教義、教説≫)の一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから実践に、決断に、行動になって行った」と言うのである(『バルトの生涯』)。
 聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性が、「すべての教会の宣教がひとつの例外もなしに立っているところの鉄則……である」。換言すれば、「この世界に属し給わない」神について、また人間が対象化した諸対象物の「系列に属し給わない」神について、また「自然的な事物でないし、……精神的な事物でもあり給わない」神について、「われわれは語ることができない」。人間的な教会の宣教におけるこの事情の中では、「虚弱さがあるのではなく、むしろ死がある」・「困難さがあるのではなく、むしろまことにただ不可能性がある」・「何か不完全なことが起こるのではなく、……そもそも何も起こっていないのである」。「神秘家は、また懐疑論者は、この神とこの神の隠れおよび不把握性について何」も知ってはいない。なぜならば、彼らの「神」は、神と人間との無限の質的差異における「神」、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする「神」、「人間の主、裁き主、贖い主」としての「神」ではなくて、彼ら人間自身が対象化した客観的な対象物としての「神」(偶像)に過ぎないからである。言い換えれば、「まさにアラワサレタ神こそが隠サレタ神」、三位一体の神、その三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通さないところの、人間自身教会自身が「自分で見出し、自分自身の力の領域の中に編み入れられた深みは神の深み」と何の「共通」性も持ってはいないのである。「人は実際に神について、実際に語ることができないということ」を、「人は、実際に神について語ることができるということを知っているところでだけ知る」。すなわち、人間からはできないことを可能とするために、「神ご自身がその言葉と霊をもって中に割って入られるし、既に割って入り給うということに基づいてだけ知るのである」、言い換えれば、神のその都度の自由な恵みの決断によって、客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてだけ知るのである、その出来事に基づいてだけ啓示認識・啓示信仰は授与されるのである。このことは、神ご自身が人間に対して自己啓示されないならば、すなわち神ご自身が神と人間とを架橋されないならば、全く不信仰で罪に穢れた私たちすべての人間は、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰さえ持つことはできないことを意味している。「イエス・キリストの十字架の中で神の実際の隠れと不把握性を、換言すれば、神ご自身によって決定され、実現された神の隠れと不把握性を、……人間に示すために」、他在であって自在の、全き自由の、恵み深き神は、「自らご自分のために語り給う神を、神について正しく語ることができる力としてのイエス・キリストの甦えりを、必要」としたのである、「人間の歴史的形態、イエスの名」、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の「存在の仕方」(神の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの、神の子、まことの神にしてまことの人間)を必要としたのである。「旧約聖書的な待望の時間」と「新約聖書的な想起の時間」との間の「成就された時間」とは、「イエスがご自分〔の生きていること〕をお示しになった」復活の「あの四〇日(使徒行伝一・三)」のことである。「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態の「新約聖書の証人たち」は、この起源的形態である第一の形態の単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストの復活の四〇日をおぼえる想起において、「キリストの死」と「キリストの生涯」を想起する時、「光を得」たのである。彼らは「甦えりの証人」(イエス・キリストによって召され任命された、「直接的な、絶対的な、内容的な」「権威」・「自由」を賦与され装備された、直接的な最初の第一の証人)である。彼らは、「既に来た方」であるイエス・キリストは「またこれから来たり給う方」であることを語るのである(『教会教義学 神の言葉T/1』)。バルトは、全キリスト者を含めたその現にあるがままの現実的な人間存在を念頭に置いて、全く正直に、次のように述べている――復活の出来事が「どのようにして……起こりえたか、また起こったか、……私はあなたがた(≪当時のバーゼル刑務所で囚われの身となっている人たち≫)と同じように、その理由を知らない。それは( ≪人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍に依拠して考えれば≫)人が信じないようなことだと言う以外に、単純な言い方はほかに存在しない。事実、当時でさえも、解き明かすことは愚か、書き記すことや説明することはできなかった」・「イエスの復活は、徹頭徹尾神の業であって、そのようなものとして、最高度に良くなされたが、しかし最高度に理解し難いもの」なのである・したがって、「当時でさえも、ただ認識(≪客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて啓示認識・啓示信仰≫)され、告白され、証しされ、宣べ伝えることができた」だけである( 『カール・バルト著作集17 説教集<下> 主を見た時 ヨハネ』)・「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』」その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を「持っている」、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力(≪人間的な、意志的集中、感情的集中、肉体的精神的修行等々≫)によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する」(『福音主義神学入門』)・「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)、ここでもバルトは「神の御子の信じる信仰」の属格を主格的属格として理解している・吉本隆明の『南島論』によれば「神話乃至古代史の研究において」、「どの方法をとっている場合でも、この説がいいということは、今のところ……断定」できないのであるから、部分でしかない科学を全体化する近代以降の宗教的形態である科学<主義>に依拠して「<史実的に>確定することのできることだけがじっさいに時間の中で起こり得たに違いないというのは、迷信に基づく」のである、すなわちその語り方は、「誤謬に普遍性と組織性の後光をかぶせて語」る語り方に過ぎないのである、ミシェル・フーコーは『ミシェル・フーコーとの対話』で、そういう科学の在り方を、「形而上史学的な歴史の科学」と呼んだのである。「<歴史家>たちがそれとして確証できるすべてのことよりも、はるかに確実に、じっさいに時間の中で起こった出来事というものがたしかにあり得る」のであり、「そのような出来事の中にとくにイエスの甦りの歴史が属していると受けとるべき根拠」を持っている。すなわち、「史実的に正しい内容が重要なのではなく、重要なことは、聖書が、シリアの総督のクレニオ」と「聖降誕の出来事」、「ポンテオ・ピラト」と「使徒信条」というように、神の啓示に対してその都度ごとに、一つの年代的・時間的と地誌的・空間的・地域的との限定性において、「出来事として起こったもろもろの歴史(Gschichten)」について語っているという点にある。聖書の中の歴史は「歴史物語」あるいは「古譚」であって、そのような「神と人間との間に起こったもろもろの歴史」は、「神的な側面」からは、常に、人間が人間的に所有する人間の一般的な歴史認識・ 概念の彼岸・外にあるものなのである。すなわち、聖書的啓示証言の報知における歴史(Gschichte)、「特殊な歴史〔的出来事〕」については、いかなる「『史実的な(historisch)』判断」認識・概念もあり得ないのである(『教会教義学 神の言葉T/1』)。したがって、聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯する教会(その成員)の宣教においては、この事柄の認識と自覚が重要なのである。したがって、教会の「宣教があるとするならば、……人間的な成功としてではなく、むしろ……人間的な失敗を主権的な仕方で生かし用いる神の成功として……理解されることができるし、理解されるであろう」。このことは、「教会に関して神ご自身によって造り出された前提を信じる信仰の中でだけ」、すなわちあの神の言葉の自己運動による、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通してだけ、「したがって(≪その起源的な形態である第一の形態の≫)イエス・キリストを信じる信仰(≪第三の形態の教会に宣教があるとするならば、「人間的な失敗を主権的な仕方で生かし用いる神の成功として」、「奇跡」として、「神的な成功の出来事」として、第二の形態の聖書的啓示証言を媒介・反復することを通した起源的な形態のイエス・キリストの成功として信じる信仰≫)の中でだけ、期待されることができるであろう」。「われわれの時代およびすべての時代にわたって目撃する」ところの、人間的な「教会の宣教の不幸、窮状、言語の混乱、無力さ」、教会の宣教における「神の言葉が、文字通り溺れ死んで行く」「見渡す限りの不純な教えの海全体」を垣間見る時、そうした中で教会の宣教があり得るとするならば、そのことは、「人間的な失敗を主権的な仕方で生かし用いる神の成功」であることができるだけということ、「ただ奇跡であることができるだけということ……をわれわれに思い出させるであろう」。言い換えれば、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的形態である第一の形態のイエス・キリストがその「復活の力」により教会の宣教をその「困窮から救い出す」ことによって、換言すれば啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてその啓示認識・啓示信仰を授与することによって、同時に、その啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して、教会の宣教の困窮・「われわれの困窮を明らかにし、われわれは自分自身からしては神について語ることができないということを認識するよう(≪全キリスト者を含めてすべての人間が、そのように自己認識・自己理解・自己規定すよう≫)われわれを強いるのである」。「ルターは次のように書いている。『……神の言葉を教える』われわれ」の「謙遜さと怖れ」・「臆病さは、神の言葉はそれほどまでに奇しく、尊いものであることをわれわれが正直に<信じる>という事実から、またそのような大いなることが、まだ血肉をもって生きているわれわれを通して語られ、なされるということはただ全くわれわれのふさわしさによってでないことを知ることから、生じてくる」。バルトは、このルターについて、ルターは、「罪」からではなく、「『神の言葉はかくも奇しく尊いものである』という信仰」、「罪の認識を……初めて可能にする」啓示認識・啓示信仰から、人間の「無能力さの認識」を得てきていると述べている。言い換えれば、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して、人間ルターの「謙遜さと怖れ」・「臆病さ」(「われわれの無能力さ」)の自己認識・自己理解・自己規定はやってきているのである。ルターは、『キリスト者の自由』で、律法と福音を対立させ、<まずは>「罪人を怖れさせ、その罪を暴露して、痛悔し且つ回心させるためには、誡めを説教すべきである」・しかしそれだけではいけないので、<その次に>「他の言葉、すなわち恩恵の呼びかけを説教して、信仰を教えるべき」であると、「信仰」よりも「罪」・「律法」を先行させていたことを考えると、ここでは「謙遜さと怖れ」・「臆病さ」(「われわれの無能力さ」)よりも先ず以て「信仰」を先行させているから、『ローマ書』で「ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の『イエスの信仰』は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである」と述べたバルトとは根本的包括的な原理的な差異性があるとしても、ここでバルトの述べていることから判断すれば、バルトの言う「いかにルターが自分自身を訂正しているかに人は注意せよ」という言葉にも妥当性があると言える。