本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「二十一節 教会における自由」「二 言葉のもとでの自由」(その8−8)――了――

『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「二十一節 教会における自由」「二 言葉のもとでの自由」(その8−8)(541−549頁)――了――

 

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしておりますが、引用の不備や誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)

 

 

二十一節 教会における自由
「教会における自由」について、バルトは、次のような定式化を行っている――

 

 直接的な、絶対的な、内容的な自由を、教会の肢である成員は自分自身について主張するのではなく、ただ神の言葉としての聖書について主張する。しかしまた聖書の中での神の自由な言葉に対する服従こそが、主観的に次のこと――聖書の証言を受け入れたと告白するすべての個人が、その解釈と適用に対して自ら進んで責任を引き受けようとしており、引き受ける用意ができていること――によって規定されている。教会の中での自由は聖書の自由――それによって教会の中での自由が基礎づけられている聖書の自由――を通して間接的・相対的・形式的な自由として、限界づけられている。(397頁)
――@この定式の詳しい解説については、『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「二十一節 教会における自由」「一 言葉の自由」(その2−2)で述べています。また、A<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>(2016年6月13日作成)で述べています。

 

二 言葉のもとでの自由(その8−8)
(5)聖書注釈は、教会(その成員)の宣教の規準・法廷・審判者・支配者である、その人間性と共に神性を賦与され装備された、「直接的な、絶対的な、内容的な自由」を持つ、聖書本文、聖書の言葉、の「映像の中でわれわれに出会う対象」――すなわち三位一体論の唯一の啓示の類比としての、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性である「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における第一の形態であるイエス・キリストに向かって「われわれが本当に自分を開」き、「われわれに向かって語られていることを観察し、思索する行為が、続いて同化する行為へと発展して行く」ことを志向し目指す点にある。このような「ひとつの聖書注釈の全体が問題である」。このような聖書注釈の総体的構造の認識と自覚が問題である。言い換えれば、言葉と行為、宣教Aと宣教B、理論と実践という二元論が肝要なことでは全くなくて、「かつて語った(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態である「聖書への絶対的信頼」に基づく「聖書講解」としての≫)説教の一貫した繰り返しが、 (ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから(≪それゆえに「自分の実存のひとつの規定」として、「内的必然性」として≫)実践に、決断に、行動になって行った」という在り方が、このような聖書注釈の総体的構造の認識と自覚が、肝要なことなのである。この同化において、「『共ニ知ル者』となる」、「それが自分たちに語られたと言うことに基づいて、今後は自分自身も知り、したがって自分と他の者に向かって、自分に語られたことを、自分からも語っていく者、ただ単にあとに続いて考えていくというだけでなく、自分自身で考えていく者となるという仕方で、われわれ自身のもの」となる。言い換えれば、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指す者となる、またそういう仕方でキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」とその「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」――福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、すなわちキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指す者となる。なぜならば、ここで同化とは、「神の言葉(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態、啓示、啓示・和解、イエス・キリスト、客観的な「啓示の実在」そのもの≫)は聖書の言葉の形態(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態、直接的な最初の第一の客観的な啓示の「概念の実在」≫)の中でわれわれに出会うがゆえに、聖書の読者および聞き手が啓示の証人と同時的になり、同質的になり、間接的に同一となること(≪媒介的に同一となること、すなわち直接的な最初の第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である第二の形態を通して第一の形態と同一となること≫)」だからである。『教会教義学 神の言葉T/1』にある言葉で言えば、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証の力、神の言葉の自己運動の下での聖書注釈は、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に規定されたところで、神の言葉(啓示)について、「別の言葉で同一のことを言うこと」だからである。このような訳で、「われわれが、われわれの行為として同化と呼ぶところのこと……は……、〔自分を〕与える行為として神の言葉自身の自由な、しかもまさに最も本来的な、最も親密な行為をわれわれが行為をもって確認することができるだけである」、ということなのである。言い換えれば、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、客観的な啓示の実在そのもの、啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」、「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを認識し承認し確認するのである、イエス・キリストが「われわれとの共同の交わりの中で、(中略)われわれの思惟だけでなく、……われわれの思惟と生活を、われわれの実存を、支配しようと欲する」ということを認識し承認し確認するのである。したがって、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し承認し確認するのである。したがってまた、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを認識し承認し確認するのである(『教会教義学 神の言葉T/1』)。このような訳で、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおいては、「いわゆる理論の背後でびっこをひいているいわゆる実践についての気遣いなどというものは、単に余計なものであるばかりでなく、また不可能にされてしまうのである」。すなわち、神の言葉(啓示)自身が持っている啓示に固有な証明能力、聖霊の証の力、神の言葉の自己運動の下では、もともと、言葉と行為、宣教Aと宣教B、理論と実践という二元論は成立しないのである。「ローマ一五・四」・「Uテモテ三・一六」における「聖書ノ使用」は、人間自身教会自身が・「われわれが聖書から自分で造り出さなければならない何かとしてではなく、……聖書の現実存在から、したがって聖書そのものの注釈から切り離してしまうことのできない、(≪聖書自身が持っている≫)必然的な機能のような何ものかとして記述されていること……によく注意しなければならない」。したがって、バルトは、『教会教義学 神の言葉T/1』においては、「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」・「解釈する」とは、「別の言葉で同一のことを言うこと」である、と述べたのである。「神の言葉は、われわれの中に住む時でも、……われわれを支配しようと欲する」。「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態のイエス・キリストと共に、直接的な最初の第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である「聖書こそ」が、教会(その成員)の宣教における原理である。この、教会(その成員)の宣教の規準・法廷・審判者である「聖書こそ」が、教会(その成員)に宣教を義務づけている。したがって、「聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのである」。すなわち、ある社会構成・支配構成・文明的――文化的構成の時代水準のただ中で、その現にあるがままの現実的な人間存在である教会のその成員は、その資質や個性を含めたその存在・その思惟・その実践において、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して、「別の言葉で同一のことを言う」ということを志向し目指さなければならないのである。「人が神の言葉(≪具体的には聖書の言葉≫)を同化して自分のものとするということ」は、「確かに、神の言葉を聞く、あるいは読む一人びとりの個人が、自分に向かって語られたことを、……まさに自分に向かってこそ語られたこととして、それであるから彼によって用いられるべきものとして、自分自身と関わらせるということを意味している。教会が神の言葉を聞く者たちの集まりであるならば、そのことは最後的には……、神の言葉を用いる者たちの集まりということを意味しなければならない。……まさにこのことこそが、神の言葉の……側から彼らを用いることに対して〔自分を〕開いており、それを進んで身に受けようとしている者たちの集まりということ……以外のことを意味することはできない」。ここで、聖書が「主体」であって、聞き手・読み手は「客体」である。したがって、聞き手・読み手が、先ず以て人間の(彼の)感覚と知識を内容とする経験的普遍や人間学的な哲学原理・認識論・世界観を第一次化させたらならば、「彼は正しくないであろう」、彼は自分自身(人間自身)が対象化した・疎外した・外化した「存在者レベルでの神」(偶像)を崇拝することになるであろう、他者にもそれを吹聴することになるであろう。「彼にとって何がよく、またこのよいものが彼にどのように与えられるであろうかについての決定は、彼自身がなすべき事柄ではなく、……(≪神のその都度の自由な恵みの決断によって≫)彼に向かって語られていることの中に含まれており、それはまさにそのようにしてこそよい仕方で決められるのであり、したがってまさにそのような仕方でこそ彼によって受け取られるべきであるということ……について信頼をもたなければならない……」。したがって、例えば、神学者・説教者・人間自身が恣意的独断的に、ルドルフ・ボーレンの「神律的相互関係」の概念に依拠して、「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」というように聖霊と聖霊の言葉を人間の自由事項・裁量事項・決定事項として実体化させて論じている日本基督教団立東京神学大学実践神学担当の小泉健の聖霊論的説教論は、その最初から「誤謬は必然」のものなのである。「聖書を用いる際の用い方は……神の言葉が、(人間が決めたことではなく)神の言葉自身が決めたことを実行に移し、神の言葉が神の言葉自身の『忍耐』、神の言葉が神の言葉自身の『慰め』を彼に与えるために、聖書の中で彼に向かって語られていることを人がそのまま自分の生の中に浸透させ、まさにそのことでもって満足し、まさにそのような仕方で与えられてこそ、希望するものとなるということ……から成り立っていなければならない……」。「聖書注釈は最後的には、その時その時の現代のいわゆる焦眉の急を告げ知らせる問題に答えて行くことに合流して行かねばならぬとか、聖書注釈は、それがその時その時の現代の世代に特有な問題に対し解答を与えることができるということの中にはじめてその意味と力を持っているといった具合ではない。聖書注釈は、実際にはそのようなことをなすであろうということを落ち着いた信頼の中で遂行されることがゆるされ、遂行されなければならないとしても、どの程度まで聖書注釈がそのことをなすであろうかということは聖書自身にまかせられなければならない。いったい何が本当の現実なのか、現在の焦眉の問題とは何なのか、否、いったいわれわれは誰であり、何者なのか、『われわれの時代』とは何か、『現代人』とは何か等々に関してさえ、われわれは神の言葉の自由から教えられることを期待すべきであって、それに先立ってそれを出し抜くような仕方で知ろうと欲してはならない」のである。このことを、バルトは、『ローマ書』においては、次のように述べている――「パウロはその時代の子としてその時代の人々に語った。けれどもこの事実よりはるかに重要な事柄は、いま一つの事実、すなわち彼は神の国の預言者ならびに使徒としてあらゆる時代のあらゆる人々に語っている、ということである。(中略)聖書の精神は永遠の精神なのである。かつての重大問題は今日もなお重大問題であり、今日の重大問題で単なる偶然や気まぐれでない事柄は、またかつての重大問題と直結している」。また、『証人としてのキリスト者』においては、次のように述べている――最終的に離脱した宗教的社会主義における「そこでの人間の困窮と人間に対する助けとが、聖書が理解しているほどには、真剣に理解されておらず、深く理解されて」いなかった。このような訳で、「聖書注釈は最後的には」、教会(その成員)のその存在・その思惟・その実践において、「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指さなければならないのである、またそういう仕方でキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」とその「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」――福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、すなわちキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指さなければならないのである。なぜならば、「聖書の言葉の中でわれわれに向かって語られていることを本当に同化しうるためには、聞き手と読み手は、……自分自身の関心や問題の体系から……逸して、聖書の言葉そのものの中に置かなければならない」からである、「彼は自分自身から抜け出て、聖書の言葉と聖書の言葉が関心事とし、問題としていることの中に身を置かなければならない」からである、「あらゆる事情の下で、ただそこのところからしてだけ、……光は彼自身の生の中に射し込んでくることができる、それと共に彼が自分自身の生に対して必要としている助けが与えられることができる。また事実そうなるであろう」からである。
 「聖書を注釈する者にとっての本当の問題は、聖書の言葉が無条件的にわれわれを支配するということだけである。あるいは同じことをわれわれの側から言えば、聖書の言葉の支配がよいものであることに対する無条件的な信頼である」。聖書本文、聖書の言葉、の「映像の中でわれわれに出会う対象」――すなわち三位一体論の唯一の啓示の類比としてのそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性である「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における第一の形態、啓示・和解、個体的自己としての全人間・全世界・全人類の完了された究極的包括的総体的永遠的な救済・平和の客観的現実性・客観的実在、であるところのイエス・キリストが、「具体的な」「全き信頼としてのわれわれの信頼を要求するし、われわれの信頼を全き信頼として義とするのである」。あの神の言葉(啓示)の自己運動による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示「信仰の中で、聖書を読み、聞くことは、啓示の証人たちと同時的、同質的となり、また間接的に同一となる」。その「信仰の中で、彼らの証言は、われわれ自身の責任の事柄となる」。「……最後的には全くただ服従的な信仰だけが、教会の肢としてのわれわれから要求されている活動、われわれに与えられている言葉のもとでの自由を行為をもって確認すること、なのである」。
 政治的近代国家における恣意的自由において、言葉と行為、宣教Aと宣教B、理論と実践、説教だけでなく社会的政治的実践もという二元論を倫理化・道徳化・宗教化する信仰・神学・教会の宣教における、いつも時流や時勢に流され・流され続けている者たちは、本当は、いつも、資本主義社会と政治的近代国家の枠組みに束縛された不自由人なのである、彼らは反体制を標榜していても、その法的言語や政策的言語によって政治的近代国家に直に包摂されてしまう体制加担者なのである。彼らの、信仰・神学・教会の宣教、また世俗的な社会的政治的実践は「支配行為」にすぎないのである――「ドストエフスキーの書いたあの大審問官は、神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていたのであるが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の善意(≪彼自身が対象化した・疎外した・外化した「存在者レベルでの神」・偶像の名と呼びかけによる救いと平和の企て≫)によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、最も洗練された支配行為に過ぎなかったのである。神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえどのように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう。またそのようなところには、教会は存在しないのである。そのような救いの計画と救いの方法の独断性が、神に余りに僅かしか信頼せず、人間に余りに多く信頼するという点に現われるということは、疑いない」(『啓示・教会・神学』)
 それに対して、その社会構成・支配構成・文明的――文化的構成の時代水準のただ中で、その枠組みの外へと超出することができる理論を、その信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成それ自体において構成したどこまでも聖書的啓示証言に信頼し固執した思想家カール・バルトは自由人だった――「人間の公私の生活においては、絶えず新たな支配が行われるような仕組みになっている」・「国家は支配であり、文化は支配」である。したがって、どのような国家形態にも、どのような文化傾向にも、無条件に『然り』とは言わぬ」(『啓示・教会・神学』)、またその自然哲学・経済学・政治哲学の体系において構成した思想家マルクスは自由人だった、また人間・世界・歴史をトータルに認識する方法において構成した思想家・吉本隆明は自由人だった。
――了――