本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「二十一節 教会における自由」「二 言葉のもとでの自由」(その8−7)

『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「二十一節 教会における自由」「二 言葉のもとでの自由」(その8−7)(524−540頁)

 

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしておりますが、引用の不備や誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)

 

 

二十一節 教会における自由
「教会における自由」について、バルトは、次のような定式化を行っている――

 

 直接的な、絶対的な、内容的な自由を、教会の肢である成員は自分自身について主張するのではなく、ただ神の言葉としての聖書について主張する。しかしまた聖書の中での神の自由な言葉に対する服従こそが、主観的に次のこと――聖書の証言を受け入れたと告白するすべての個人が、その解釈と適用に対して自ら進んで責任を引き受けようとしており、引き受ける用意ができていること――によって規定されている。教会の中での自由は聖書の自由――それによって教会の中での自由が基礎づけられている聖書の自由――を通して間接的・相対的・形式的な自由として、限界づけられている。(397頁)
――@この定式の詳しい解説については、『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「二十一節 教会における自由」「一 言葉の自由」(その2−2)で述べています。また、A<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>(2016年6月13日作成)で述べています。

 

二 言葉のもとでの自由(その8−7)
(4)バルトは、前回に述べた聖書解釈とそれの適用の中間に、歴史性の軸を挿入する。「それ以前に語られた神ご自身の言葉(≪キリスト教に固有な類・歴史性としてある「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態および具体的には第二の形態≫)……と(≪ある時代に現存する教会・その成員としての≫)自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた(≪教会の一つの機能としての≫)教義学的作業の成果(≪歴史性としてのそれ≫)」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」であるというように、歴史性の軸を挿入するのである(『教会教義学 神の言葉T/1』)。一般的な歴史について、マルクスが、「歴史とは個々の世代(≪個体的自己の成果の世代的総和、類≫)の継起にほかならず、これら世代のいずれもがこれに先行するすべての世代からゆずられた材料、資本、生産力(≪言語、性=対・対なる共同性としての家族≫)を利用(≪媒介・反復≫)する」と述べたようにである(『ドイツ・イデオロギー』)。これは、人間の存在様式である。したがって、バルトは、終末論的限界の下で、それゆえにその認識と自覚の下で、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」たのである(『啓示・教会・神学』)。また一方で、そうする仕方で、バルトは、その信仰・神学・教会の宣教に個性と時代性を刻んだのである。したがって、バルトは、キリスト教に固有な類・歴史性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復するという作業を、「聖書解釈」と「それの適用の中間」に置いたのである。したがってまた、バルトの場合は、言葉だけでなく社会的政治的実践(≪行為≫)も必要だということを声高に叫ぶ輩たちとは全く違って、徹頭徹尾、「かつて語った説教(≪言葉≫)の一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから実践に、決断に、行動になって行った」という在り方に一貫性をもって徹したのである。バルトの「知解」概念は、これら総体的構造におけるそれなのである。
 さて、その現にあるがままの現実的な人間存在における聖書の「観察者」・「模写者」は、人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍や人間論や人間学的な哲学原理・認識論・世界観のただ中に存在し、その影響を不可避的に受けている。「あらゆる空なる思弁と形而上学を嫌うところのリッチュル学派が、聖書を正確に読み、理解することができると考えた」「人間理性の形式主義」も「哲学の一種であった」。そうした時代性や個性に規定されたさまざな要因から、「いまだかつていかなる聖書注釈者も、ただ全く聖書のみをして語らせたためしはない」。「J・T・ベックのような聖書主義者」も、「彼が聖書をして語らしめようとした時、また聖書をして語らしめようとした」ことによって、「実は彼がF・Ch・エティンガーやシェリングやバーデルのような哲学者から自分の中に取り入れたものが、きわめて力強く、また部分的には、きわめてわざわいを及ぼす仕方で、共に語っていた」。「中世紀のスコラ哲学者や、それからまた一六〇〇年以降のプロテスタント正統主義者たちは、最もあからさまにアリストテレスの太陽のように明るい考え方を自分のものとしたとすれば、彼ら以前にルターとカルヴァンは、哲学的に見た場合、同様に見紛うべくもなくプラトン主義者であった。またツヴィングリは、この点ではルターおよびカルヴァンよりももっと近代的であり、ミランドラのピコに見られるようなルネッサンスの汎神論なしにはツヴィングリではなかったであろう。それであるから彼がディルタイによって特に好かれた人間となり得たことは当然のことであった」。「十九世紀の最も重要な歴史的注釈的学派であったF・Ch・フォン・バウルのチュービンゲン学派が、……ヘーゲル哲学の光を自分たちの燭台の上に置いたとすれば、結局、今日の様式史的注釈の最後にはまたフッセルやシェーラーの現象学の前提が見紛うべくもなく立っている」。「反ヘーゲル主義を原理にまで高めた」キルケゴールも、「特定の考え方の眼鏡を通して聖書を読む人びとの列の中に立って」いる。「いかなる哲学(≪聖書の思惟図式とは全く違う、外から持ってきた思惟図式≫)にもよらず、ただ聖書そのものにのみよるというようなことは何人もしていない。なぜならばそれは(≪何人も、その現にあるがままの現実的な人間存在を生きるのであるから、≫)何人にもできないからである。福音を少しも哲学と混ぜることをしないということは何人についても言えないことである」。バルト自身も、そうであった。バルトは、正直に、「私自身は、ヘーゲルが好きだという弱みを持っていますし、そしていつでも<ヘーゲル的に考える>のが好きです」、と述べている(『バルトの生涯』)。この言葉の中で重要な点は、バルト自身の「弱みを持っている」という認識と自覚の言葉にある。なぜならば、<ヘーゲル的に考える>のが好きだ、というこの言葉だけを拡大鏡にかけて全体化すると、バルトも、神学と哲学の協働・混合・折衷を目指す自然神学の系譜に属する神学者であるということになってしまうからである。しかし、バルトのこの「弱み」の認識と自覚は、その信仰・神学・教会の宣教におけるその原理およびその認識方法と概念構成それ自体において、自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教を、それゆえにその極限に想定されるヘーゲル哲学を、根本的包括的に原理的に止揚し克服して行くという含意を持っている。その証左が、『ヘーゲル』である――@思惟に思惟を重ねて具体的普遍の頂へと高次化する思惟は、自然から超出した精神であるから、その頂を極めた「精神は、また精神自体としては神と全く同一である」・これを支えているものが、無限と有限との統一としての「究極的同一性」である・この「究極的同一性」において、「神の理性」のその属格理解における理性は、人間の理性が神を思惟する理性から、神の理性が思惟する理性に転化され、人間の理性の思惟は、神の理性の思惟と等価性を持つことになる・この事態は、人間の神化・神の人間化、神と人間との無限の質的差異の揚棄、捨象、排除を意味する・すなわち、自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教の極限への埋没である、Aヘーゲルにおける神・その啓示は、人間自身の自己意識が「捕えた虜囚」でしかないものとなってしまうから、「受け入れ難く耐え難い」ものである・「ヘーゲルの哲学的手法に対して」、「受け入れ難く耐え難い」「最も重大でかつ決定的なもの」は、「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」、「神の自由を認識していないという事態」にある・「われわれは、シュライエルマッハー以外の他の人々の所でも、……〔この〕ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇するであろう」、B共同性に価値をおくヘーゲルは、神自身にとって「最高に必要であり必然的であるのは教団」であって、「教団の精神であることによって初めて神は精神となり神となることができる」、と述べている・それに対して、バルトは、「個々の人間による和解の主体的実現という問題は、絶対に欠くことの出来ない問題」ではあるが、「イエス・キリストにおいて客観的に起った和解の主体的実現は、まず第一に教団において、イエス・キリストの聖霊の業として遂行される」と述べている・このことは、バルトが個と教団との関係において、神学的な共同性価値論に立っていることを意味している・しかし、そのバルトの共同性価値論は、現実的な個や家族や社会から逆立的に疎外された観念の共同性を本質とする国家共同性価値論とは全く異なったものである・またそれは、ヘーゲルのような客観的精神の弁証法的展開の果てに想定される哲学的な国家的共同性価値論とは全く異なっている・したがって、バルトは、一切の近代<主義>的な信仰・神学・教会の宣教に抗するために、まず「神の霊と人間の精神の全面的な区別」が強調されなければならないと述べたのである、そして、その「啓示の主体的現実」化を、「人間の業(≪自己意識・理性・思惟、あるいは意志、感情の業≫)としてではなく、まさに神の霊の行為としてとらえることによって、聖霊を、神の似姿の『唯一の現実』として、人間の『恩寵に敵対する態度』に立ち向かって戦うものとして、実存を超えたところにある神の子としての身分の創造者として理解」したのである・その上で、「(聖霊と密接に関連して)記されている」、「真理の柱、真理の基礎」とは、「神の教団」・「イエス・キリストの教団」・「使徒ヨリノ唯一ノ聖ナル公同教会」のことであって、「イエス・キリストと個人的関係を持つ」その「肢々」としての「一人一人のキリスト者」、「 キリスト者個人」のことではない・バルトにとって、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいては、「新約聖書の『体』の概念」においては、個と共同性は逆立し対立するのではなく、正立し平和なのである、「個々人と共同体の対立は近代的な対立であって、新約聖書のものではない」のである(『バルトとの対話』)・単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」・「キリスト教使信の中心」は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」、「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの現実的な人現存在における不信、非キリスト者(教)、非知、個体的自己としての全人間・全世界・全人類に対して完全に開かれているのである(『カール・バルト教会教義学 和解論T/1 「和解論の対象と問題」』)・「先行する他のもろもろの時代のその問題意識にも……、真に耳を傾けることが出来るようになる」ために、西洋近代を頂点とした歴史の直線的な進歩・発展というヘーゲルの思想を、「直ちに全面的に放棄」しなければならない。このような訳で、ほんとうにバルトを理解しようとするならば、今回の箇所の一部を拡大鏡にかけて全体化したら全く間違ってしまうので、それゆえに支離滅裂で出鱈目なことを主張することになってしまうので、『ヘーゲル』や『カント』や『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』や『ローマ書』や『教会教義学 神の言葉T/1』や『神の人間性』等々を通して、トータルなバルト理解を目指す必要があるのである。そうでないならば、そのバルト理解は、形而上学的部分的一面的固定的抽象的空論的なバルト理解としかならないのである。
 人は、前期から後期までのバルトの著作を読む時、『ローマ書』では神と人間との無限の質的差異という概念からキルケゴールの影響を感じ取ることができるのであるが、著作総体としてはヘーゲルの匂いを感じ取るに違いない。事実、前述したように、バルト自身、正直に、「私自身は、ヘーゲルが好きだという弱みを持っていますし、そしていつでも<ヘーゲル的に考える>のが好きです」と述べている。と同時に、これこそがバルトを信仰・神学・教会の宣教における思想家であると呼んでもよい所以であるが、バルトは、聖書的啓示証言から次のような限界づけと自戒を得てきているのである。「この過程は……非常な警戒と用心とをもってなされなければならない」ことであるが、「われわれは、聖書を読む」ことによって、「何らかの思惟図式」(聖書の思惟図式とは全く違う、外から持ってきた思惟図式)、「換言すれば自分の哲学の標準に従っていずれにしても考えることのできることのうちの何かを考える」とバルトが述べた時、「非常な警戒と用心とをもってなされなければならない」という言葉で、バルトは、一方で、聖書的啓示証言から得られた神と人間との無限の質的差異という概念を決して手放さないということを(『ローマ書』)、また「自由」・「主権」は、「神ご自身においてのみ実在であり真理である」という概念を決して手放さないということを(『教会教義学 神の言葉T/1』)、表明しているのである。このような訳で、その総体像の中でバルトを理解することが必要なのであり、それゆえに「その神学者の哲学的教養の跡を……明瞭に暴露」する批判、「その神学的な意見の表明の中で何かある哲学の概念が用いられているということ」に対する批判は、「神学的な批判としては全く意味のないものである」。なぜならば、その場合、「ただ一つの哲学がほかの哲学に対して争う戦いに従事しているだけであり、そのような戦いは、聖書の解釈とは何の関わりもないもの」だからである。「神学的な批判」は、哲学者(外から持ってきた思惟図式を使用する者)としての神学者の批判にあるのではなく、神学者としての神学者の根本的包括的な原理的な批判にあるのである。したがって、「人は……聖書解釈に際しての哲学の使用に原則的に反対することはゆるされない」ことであるから、「そこで問題とすべきこと」は「哲学を使用する際の用い方」にあるのである。肝要なことは、次の点にある――「(≪単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、この≫)一つの事柄に仕えなければならな いのであって、ひとつの党派(≪宗教、教派、学派、人間学的な哲学原理・認識論・世界観、思想傾向、時流や時勢、社会的政治的な言説や運動≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」(『教会教義学 神の言葉T/1』)。
 「哲学を使用する際の用い方」において問題とすべき第一のことは、「われわれが外から持ち込んでくる思惟図式」・「自分の哲学の標準」の「すべては、われわれによって解釈されるべき聖書の言葉の思惟図式とは原則的に違ったものである」といいうことに対する認識、自覚、自戒にある。言い換えれば、「原則的に聖書の思惟図式」は、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊自身の証の力、神のその都度の自由な決断によって惹き起こされる啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく終末論的限界の下での人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与、この神の言葉(啓示)の自己運動に基づく三位一体論の唯一の啓示の類比としてのそれ自体が聖霊の業であり啓示の主観的可能性である「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すという点に、そうした仕方でキリストに会っての神を尋ね求める「神への愛」とその「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」――福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、 教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」であるキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指すという点にある。「聖書の言葉の対象が、イエス・キリストにあっての啓示であり、聖書の言葉は、この啓示について聖霊によってなされた証言である限り、また聖書の言葉はただその同じ聖霊を通してだけわれわれにとって明らかとなり得るものである限り、われわれが外から持ち込んでくる思惟図式(≪「哲学」・「自分の哲学の標準」≫)はすべて、原則的に聖書の思惟図式とは違ったものなのである」。したがって、「われわれの思惟が神の言葉の思惟の仕方に参加させられる」ための方途は、「われわれの思惟図式が聖書の言葉と出会い、聖書の言葉のあとについて行く」以外にはないのである、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復する以外に、すなわちこの「服従の敢為」以外にはないのである。そのためには、聖霊によって自己意識・思惟・理性が更新される必要があるのである。もちろん、その更新された思惟・理性も単一性・神性・永遠性を本質とする聖霊と同一ではないのである。「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」のである(『教義学要綱』)。
 「哲学を使用する際の用い方」において問題とすべき第二のことは、「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」・「解釈するとは、別の言葉で同一のことを言うことである」から、教会の宣教における「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての「神の言葉の支配の下」で、それゆえに具体的には教会に宣教を義務づけているその宣教の原理としての聖書の「支配」の下で、「教会のひとつの肢」としての「わたしの思惟の仕方にもかかわらず、その思惟の仕方を用いて」、聖書解釈の「試み」をなし「適用をしなければならない」のである。終末論的限界の下でのその試みが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」・自由事項なのであって、私たち人間の決定事項・自由事項ではないのである。したがって、教会の一つの機能である教義学の在り方は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基」づいて成立しているのである。ここに、「服従のなかで敢えてしなければならない仮説」・「試み」・終末論的限界の下での教説がある。したがって、「それ自身、それだけで、聖書の言葉を把握し解釈して行くのに適した形式ではない。……それ自身、それとして、常に試み……であって、既に成功し、完結した……思索の遂行ではない」。したがって、外から持ち込んだ思惟図式・自分の哲学の標準を主義化し・絶対化し・宗教化し・倫理化して閉じてしまうことはできない、それは開かれていなければならない。「それであるからわたしは、私の哲学(≪外から持ち込んだ思惟図式≫)とは違う(≪神と人間との無限の質的差異、「神の言葉の支配」、具体的には「聖書の支配」の下に立つ、それゆえに聖書を教会の宣教の規準・法廷・審判者として認識し自覚している≫)哲学(≪外から持ち込んだ思惟図式≫)に対しても、それらがあの同じ神の言葉への奉仕に際して役立ち得る仮説」・「試み」・終末論的限界の下での教説であるという「性格を原則的に否定してはならない……」のである。したがって、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの根本的包括的な原理的なキリスト教批判(宗教批判)をも、教会(その成員)は、ほんとうのキリスト教信仰へと導く現実性と妥当性を持ったひとつの批判として、「正直に受け取ら」なければならないのである。その根本的包括的な原理的なキリスト教批判(宗教批判)を引き受けなければならないのである。言い換えれば、教会(その成員)は、その批判を、その信仰・その神学・その教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成それ自体において、根本的包括的に原理的に止揚し克服して行かなければならないのである。このような訳で、『希望の資本論』における佐藤優の、「無神論を勉強していたらもうこれは半年くらいで、マルクスやフォイエルバッハの言っている無視論は、キリスト教神学でとっくに克服されていることが分かりました」という、マルクスやフォイエルバッハやハイデッガーのキリスト教批判(宗教批判)におけるキリスト教(宗教)の本質的問題を何にも分かってはいない発言は、全く出鱈目な大法螺とハッタリでしかないものなのである。なぜならば、佐藤は、近代以降の全キリスト教界において初めて唯一、その課題を認識し自覚してその全著作を通してその課題と取り組んだバルトのその信仰・神学・教会の宣教における思想的営為を全く認識し理解していないからである。それは、ちょうど、佐藤が、『資本論』「第1版の序文」にあるマルクスの重要な立場である自然史的過程という概念を全く認識し理解していなかったのと同じである(前回の、池上彰×佐藤優『希望の資本論』から垣間見ることのできるメディア的知識人およびメディア的著述家の知識の位相について、を参照、)。
 「哲学を使用する際の用い方」において問題とすべき第三のことは、「外から持ち込んでくる思惟図式」・「自分の哲学の標準」というものは、「決して自己目的となることはできない」という点にある。すなわち、この事柄を引き寄せて言えば、例えば、ブルトマンのように、前期ハイデッガーの哲学的原理、「容易に修得しえない」「先行的理解と言語〔表現〕」によって対象化された啓示・神の言葉(「存在者レベルでの神」の啓示)を<第一次的なもの>に形式変換し、新約聖書の使信・証言を、その<第一次的なもの>に「従事することにおいてのみ真であり、重要であるもの」、すなわち<第二次的なもの>へと形式変換することはできないのである。したがって、「われわれはここで哲学(≪外から持ち込んだ思惟図式≫)が聖書解釈に対して、それと共にそもそも神学および教会に対して、これまでいつも意味してきたし、今も意味することができる危険について思い出さねばならない」のである。「あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従い人間の言伝えに基づくものに過ぎない(コロサイ二・八)」。ここで肝要な点は、外から持ち込んだ思惟図式・自分の哲学の標準と「聖書の思惟の仕方」・「聖書の思惟図式」との<差異性>についの徹底した認識と自覚とにあるのである。この差異性の認識と自覚を後景へと退け排除する時、その外から持ち込んだ思惟図式・「哲学は『むなしいだましごとの哲学』となる」のである、「真理ノ……贋造者となる」のである、「人は聖書を必然的に改竄する」のである、人間の神化が・神の人間化が行われるのである、人間自身教会自身が対象化した・疎外した・外化した「存在者レベルでの神への信仰」(偶像崇拝)がはじまるのである。これらの事態は、すべて、その現にあるがままの現実的な人現存在を生きるキリスト者を含めた全人間にある、「神だけでなく人間も」という、人間の「自主性」・「自己主張」・「自己義認」の「欲求」に、換言すれば「不信仰」・「無神性」・「真実の罪」によって惹き起こされる。したがって、「危険になる可能性のない哲学(≪外から持ち込んだ思惟図式≫)はひとつもない」のであるから、神と人間との無限の質的差異、外から持ち込んだ思惟図式・自分の哲学の標準と「聖書の思惟の仕方」・「聖書の思惟図式」との差異性についての徹底した認識と自覚が必要なのである。聖書的啓示証言によれば、特別な「独立的な興味」というものは、「ただ、われわれの考え方に先行する聖書の考え方だけが、要求することができる。聖書の考え方に従うならば、すべての人間の考え方は良くあることができる」のである。言い換えれば、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通した道を歩む時、「すべての人間の考え方は良くあることができる」のである。
 「哲学を使用する際の用い方」において問題とすべき第四のことは、その「外から持ち込んでくる思惟図式」・「自分の哲学の標準」は「偶然であってはならず」、「特別な必然性でしかあり得ない。特定の事情の下でまさにこれこれの点からして用いることが、多くのものに命じられて来るのである」。しかし、それを「絶対化」することはできない。なぜならば、ブルトマンにおけるような、「人が聖書注釈者として、正常な前理解としてまた神の言葉の実在に対しても押しつけることがゆるされるような実在の理解……は存在しない」からである。啓示認識・啓示信仰の本質から言えば、それは、あの神の言葉の自己運動からやってくる事柄だからである。もっと言えば、それは、不信を包括し止揚した、それゆえに信と不信を架橋した、主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」(ローマ3・22、ガラテヤ2・16等)からやってくる事柄だからである、客観的現実性・客観的実在としてある神の側の真実の側からやってくる事柄だからである。言い換えれば、それは、人間の側の自由事項・決定事項・裁量事項では全くない事柄なのである。
 「哲学を使用する際の用い方」において問題とすべき第五のことは、その「使用の仕方が正しくまた有効であるのは、その思惟図式が、聖書本文によって、また聖書本文の中で明らかになってくる対象像によって、規定され、また支配される時」である、換言すればその「思惟図式が……実際に」、聖書の「後に続いて思惟してゆくことに奉仕せしめられる時」である、という点にある。このような訳で、「観察と描写」において「決定的なこと」は、すなわち「われわれが(≪聖書の≫)後に続いてなす思惟が実際に正しいかどうかについては、われわれの思惟の主人としての(聖書本文のあの対象像の中で映し出されている)対象が決定する」。言い換えれば、そのことは、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性である「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復すること通すという仕方におけるそのことに対して、「われわれの思惟の主人としての……対象が決定する」。このような仕方での神の言葉(啓示)に対する服従の行為(自己運動する神の言葉に参画する行為)は、「われわれがわれわれの人間的な思惟と共に、神の言葉によって、神の言葉と一緒に取り上げられること……を意味する……」。したがって、「批判的な(≪思惟図式の≫)使用の仕方」において、「批判されるものは……聖書ではなく、むしろわれわれの思惟図式であり、したがってまさに(≪教会の宣教の規準・法廷・審判者である≫)聖書がこの批判の主体でなければならない」のである。この時、その批判は、「正しくまた有効である……」。このことは、「哲学を再び神学ノ端女の地位に落」すことでもなければ、「哲学を独裁的、絶対的、排他的な仕方で用いる」ことでもない。教会(その成員)の神学にとって「主人はただ聖書だけである」から、その神学は聖書の「端女」として、「自分自身ただ(≪聖書の≫)端女であろうと欲することができるだけである」ことは、必然的な事柄なのである。したがって、その人間性と共に神性を賦与され装備された「主人」としての聖書に対して、外から持ち込んだ思惟図式・自分の哲学の標準を「主人」として自己主張するならば、「そのような考え方は、自動的に誤謬の源泉となる……」のである、「誤謬は必然」となるのである。したがって、「われわれが聖書注釈者としてなすべき聖書および教会に対する奉仕は、その時、なされずに終わってしまう……」ことになるのである。ここでもバルトは、前期『ローマ書』で神と人間との無限の質的差異が「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」と述べたことを徹底させている。「人はいかなる特定の哲学に対しても留保なしに、決定的に自分を任せきってしまってはならないであろうが、しかし同時にそれだからと言って人はまたいかなる哲学をも全面的に、決定的におそれてはならない」のである。「聖書注釈の課題は、人間的な思惟のすべての可能性に対してあの用心深さと同様、またこの開放性を要求するのである」。
 最後に少しだけ付言すれば、バルトは、『教会教義学 神の言葉T/1』において、神学と哲学との協働・混合・折衷の危険性について、その歴史性に引き寄せて、次のように述べている――「哲学、歴史学、心理学等は、この神学的問題領域のどれにおいても、事実上、教会の自己疎外の増大以外のなにものにも役立ちはしなかった」・「神についての教会の語りの堕落と荒廃以外の何ものにも役立ちはしなかった」・またその場合、「哲学は哲学であることをやめ、歴史学は歴史学であることをやめる」。キリスト教哲学は、「それが哲学であったなら、それはキリスト教的ではなかった」・また、「それがキリスト教的であったなら、それは哲学ではなかった」。また、バルトは、『バルトとの対話』において、最終的にその必然的な限界づけについて、次のように述べている――「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」・すなわち、神学も理性的な知的営為ではあるが、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」。なぜならば、聖書の思惟の仕方・思惟図式と外から持ち込んだ思惟図式・自分の哲学の標準との間には、厳然として差異性が存在するからである。言い換えれば、聖書的啓示証言によれば、神と人間との無限の質的差異の下での、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性の下での、それゆえに終末論的限界の下での、神に敵対し神に服従しない「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力」を一切持ってはいない人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与とその現存は、徹頭徹尾、神のその都度の自由な恵みの決断によるあの神の言葉(啓示)の自己運動を通してやってくるからである、客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてやってくるからである、人間自身教会自身の自由事項・決定事項・裁量事項としては決してやってはこないからである。