カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「二十一節 教会における自由」「二 言葉のもとでの自由」(その8−6)

『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「二十一節 教会における自由」「二 言葉のもとでの自由」(その8−6)(514−524頁)

 

二 言葉のもとでの自由(その8−6)
(3)前回(その8−5)の聖書説明・聖書注釈・聖書解釈の「基本的な規則」――「聖書の正しい注釈」・「解釈」・「説明」の規則は、換言すれば聖書説明は教会の宣教の規準・法廷・審判者としての「聖書そのものと一致しなければならない」という原則は、「ただ単にすべての聖書解釈にとって妥当する原則」というだけでなく、聖書説明・聖書解釈・「聖書注釈の……明瞭な標準としての聖書の特別な内容」(神の側の真実としてのみある・それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある「イエス・キリストの名」、換言すれば「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態である「啓示の実在」そのものとしての「イエス・キリストの名」、具体的にはそのイエス・キリストによって直接的唯一回的特別に召され任命された第二の形態である予言者および使徒たちの直接的な最初の第一のイエス・キリストについての「言葉・証言・宣教・説教」としての啓示の「概念の実在」)と一致しなければならないという「聖書的な解釈学にとってだけ妥当する根本的規則」ということであった。
 このような訳で、この「基本的な規則」から「聖書説明の過程」を規定することができる――
 「聖書説明の第一の要素」は、「観察の行為」にある。啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力の下で、キリストの霊である聖霊の証の力の下で、神の言葉(啓示・和解)自身の自己運動の下で、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性の下で、換言すれば「客観的な神の言葉の自己隠蔽」の下で、それゆえに終末論的限界の下で、百人百様の享受の対象として客観的に存在している、その人間性と共に神性を賦与され装備された神の言葉としての聖書は、先ず以て文学作品や思想書と同じような対象性としてすべての人びとのために存在している。したがって、太宰治にとって、聖書は、『正義と微笑』においては、次のように存在していた――「聖書を読みたくなって来た。こんな、たまらなく、いらいらしている時には、聖書に限るようである。他の本が、みな無味乾燥でひとつも頭に入ってこない時でも、聖書の言葉だけは、胸にひびく。本当に、たいしたものだ」。また、吉本隆明にとって、『<非知>へ――<信>の構造 対話篇 「吉本×末次 滝沢克己をめぐって」』においては、次のように存在していた――「……<奇跡>(中略)たとえば、お前は癒された、立てといったら癩患者が立ち上がった……。 これは自分流(≪文芸批評あるいは思想≫)の言葉でいえば、比喩なんです。比喩の言葉というのは、あるばあいにはストレートな真実の言葉よりもっと真実を語るということがありうるわけで、これを実在論に還元してしまうと、田川健三はそうだとおもいますが、こんなのでたらめじゃないか、こういういいかげんなことを書いてる本だという以外にないわけです。しかし言葉としての聖書というのは、信仰の書として読んでも、文学書として読んでも、あるいは思想の書として読んでも、どんな読み方をしょうと人間をのめり込ませる力があるとすれば、これは叡知じゃないとこういうことは言えないという言葉が、そのなかに散らばっているからです。たとえば『イエスが、鶏が三度なく前に私を否むだろう』と言うと、ペテロはそのとおりなっちゃったみたいなエピソードをとっても、人間の<悪>というのが徹底的にわかっていないとだめだし、心というのがわかっていな いとだめだし、同時にこれはすごい言葉なんだというのがなければ、やっぱり感ずるということはないとおもうんです」。また一方で、形而上学的一面的固定的抽象的に論じる、あるいは部分を全体化して論じる、近代以降の宗教の形態である科学<主義>者たちあるいは人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的活動の無限性を発見して人間の神化と神の人間化を志向し目指す近代<主義>者たちにおいては、その人間性と共に神性を賦与され装備された聖書のその人間的側面にだけ目を向けて「キリストの永遠のまことの神性の告白を信用しない」でその事柄を否定することができる対象性としても存在している。
 しかし、その人間性と共に神性を賦与され装備された聖書は、啓示(神の言葉)自身が持っている啓示に固有な証明能力によって、キリストの霊である聖霊の証の力によって、すなわちその都度の神の自由な恵みの決断によって、客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰が授与された場合、その人間に対して、その「神の言葉の自己表現を繰り返し表現し、模写していくべき課題」を惹き起こさせるという対象性としても存在している。言い換えれば、啓示は人間自身教会自身によって「例証されようとせず」、「別の言葉で同一のことを言うことを欲する」のであるから、それは(具体的には聖書的啓示証言は)、客観的な対象性として存在しているそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における第一の形態・具体的には第二の形態に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指していくべき課題を、またそういう仕方でキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」とその「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」――福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、であるすべての人びとが福音を現実的に所有することができるためのキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指していくべき課題を、惹き起こさせるという対象性としても存在している。したがって、「聖書の言葉について思索して行くこと」へと向かう「表現」としての聖書説明の「始ま」りは、終末論的限界の下での、この課題の遂行にあるのである。
 「このわれわれに向かって(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における直接的な最初の第一の啓示証言としての第二の形態である≫)聖書の言葉の中でそれ自身、意味深い仕方で〔先に〕語られていることそのものが、表現としての聖書説明の問題である。それの前提、およびその最も重要な道具は、明らかに文学的・歴史的観察である。(中略)換言すれば、(≪ある資質や個性を持ってある地域性や社会構成・支配構成・文明的――文化的構成の時代水準・時代状況のただ中に現存する≫)わたしは預言者と使徒たちの言葉を、彼らの具体的な歴史状況の文書として聞こうと試みなければならない。(中略)彼らの具体的な、歴史的な状況はわたしにとって語ってくる状況とならなければならない。……この試みの発端においては、なお全く一般的な解釈学の地盤にたっている」。しかし、一方に聖書説明における観察の課題は、前述したように「二重の課題」、二重性としてあるのであるが、「さしあたって先ずわれわれの前にある」聖書は、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態、すなわち直接的唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちの直接的な最初の第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(啓示証言)であるから、「われわれ」は、聖書を、先ず以て「使徒と預言者たち自身が、語ってくるものとして、……見なければならない……」のである。この時、人は、次のようにして「聞こうと試み」るのである――「パウロはその時代の子としてその時代の人々に語った。けれどもこの事実よりはるかに重要な事柄は、いま一つの事実、すなわち彼は神の国の預言者ならびに使徒としてあらゆる時代のあらゆる 人々に語っている、ということである。(中略)聖書の精神は永遠の精神なのである。かつての重大問題は今日もなお重大問題であり、今日の重大問題で単なる偶然や気まぐれでない事柄は、またかつての重大問題と直結している(『ローマ書』)。したがって、聖書説明の過程の「特に文学的・歴史的な側面」は、「もしもわたしが特定の本文の中で語られていることの意味を聞こうと思うならば」、先ず以て人間学的な哲学原理・認識論・世界観や人間論や人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍に依拠することはしないで、先ず以て「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態である「本文を通して語られている」その本文を「さしあたって……本文として展開しようとする」「原則」を手放さずに、「個々の点において次のように記述」することができるのである――「わたしは、(特定の聖書本文を構成している)言葉および語群を、資料説、辞書編集、文法、文章論の規則に従って、蓋然性から見て最も確かと思われる仕方で内的に関連づけ、聖書記者はこの本文の中で何について語ろうとしているのか、何のことを言おうとしているのかを明らかにして行こうと試みる」。次に、その概念「像を、その同じ聖書記者がそれと同じ事柄に対して語ったほかのこと、および彼がそのほか語ったことと比較する」。「さらに引き続いての標準(≪キリスト教に固有な類、共通性普遍性≫)を手に入れるために、同時代の著者たち、あるいはそのほか、積極的、消極的に彼に近く立っている著者たちが同じ事柄について語ったことと比較する」。「そのようにして得られた洞察……に基づいて」、ある資質や個性を持ってある社会構成・支配構成・文明的――文化的構成に現存している「わたしは本文が事柄から見て間隙を提供しているように見えるところで、(本文そのものがわたしに対してそのことを禁じているのでない限り)彼が述べていることを補充し、仕上げようと試みる……」。「最後に、どの程度まで著者は、彼が語っていることの中で、ほかの者に、あるいはほかの者と共通的に第三の者に、依存しているか、どの程度までそれと同じことが今度はほかの者のところでも彼に相対して実際のこととして起こっているかということ、を確かめようと努める……」。なぜならば、 「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている…… 時、正しい内容を持っている」からであり、 「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、 「根本的には……真理が来るということのしるし」であるからであり、それゆえにオリジナルな信仰・神学・教会の宣教というものはないからである(『教会教義学 神の言葉T/1』)。このことは、彼の語った事柄における固有な資質や個性や地域性や時代性、彼の語った事柄におけるキリスト教に固有な類、共通性普遍性、その時間累積、歴史性を「明らかにして行くためである」。そのために、「わたしは」、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態である預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、宣教」、換言すれば感謝を持って信頼し固執している彼らの言葉を支配している第一の形態についての「対象像」(啓示の「概念の実在」)――聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯してそれを反復することを通して、神の言葉を絶えず繰り返し聞き、「模写しようと試みる……」のである。聖書注釈の記述にとって決定的なことは、「聖書本文をしてわれわれに語らせ、われわれに向かって語られていることとその内容をあくまでも堅くとって離さないでいるかどうか」という点にあるのである。このような訳で、「一般的な解釈学の道は、聖書的な解釈学の道から、このところで必然的に分かれなければならない」ことは「明らかである」が、もっと決定的な差異性は、聖書的解釈学が、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における客観的な対象を持っているという「聖書的解釈学の前提こそが、聖書的解釈学をして、解釈学として首尾一貫することを可能にさせている」という点にある。したがって、バルトは、『教会教義学 神の言葉T/1』において、復活の出来事について、無空間的無時間的な神話としてでもなく、歴史主義的な史実時空においてでもなく、歴史物語・古潭時空において起こっている出来事として理解したのである。聖書の歴史・歴史物語あるいは古譚・「原歴史」・「史実以前の歴史」は、まさに一つの年代的および地誌的地域的時空の中で起こったことであるが、証明されることもされないこともある、と述べたのである。また、バルトは、歴史主義的に・「<史実的に>確定することのできることだけが実際に時間の中で起こり得たに違いないというのは、迷信に基づく。<歴史家>たちがそれとして確証できるすべてのことよりも、はるかに確実に、実際に時間の中で起こった出来事というものがたしかにあり得る」のであり、「そのような出来事の中にとくにイエスの甦りの歴史が属していると受けとるべき根拠」を持っている、と述べたのである。神話についての一般的な解釈学の前提は様々であって、「比較神話学のように、他の周辺地域の神話との共通点や相違点をくらべていく考え方」を前提とする解釈の仕方もあるし、「神話なるものはすべて古代における祭式祭儀というものの物語化であるという考え方」を前提とする解釈の仕方もあるし、「神話のこの部分は歴史的<事実>であり、この部分はでっち上げであるというより分け方」を前提とする解釈の仕方もありということで、一般的な解釈学には共通性普遍性首尾一貫性はないのである。したがって、「そのどの方法をとっている場合でも、この説がいいということは、いまのところ残念ながら断定できません。プロ野球で三割の打率があれば相当の打者だということになるのと同じように、神話乃至古代史の研究において、打率三割ならばまったく優秀な研究者であるとわたしはおもっています。じぶんでそれ以上の打率があるとおもっているやつはバカだとかんがえたほうがいいとおもいます」(吉本隆明『南島論』)。この、主義化され絶対化され倫理化され宗教化された、「形而上史学的な歴史の科学」、歴史的事実がすべてだとする「歴史主義」、それを前提し固定する一般的な解釈学は、その聖書説明の「観察行為」において、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に基づく客観的な対象として存在している「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通してキリストにあっての神を尋ね求めるという首尾一貫性を持たないのである。このような訳で、例えばその聖書的証言に対して、それを「聞くもの、見る者、信じる者」にとっては、すなわち「非中立的な観察者」にとっては、啓示・聖書・教会の宣教の中に「同時に啓示の秘義があったし、あり続けた」のである。したがって、その非中立的な観察者だけが、聖書の中の歴史について、「史実的」には「全く何も確かめられない」ということ知らされたし、「啓示の出来事にとって重要でないものだけ」・「啓示とは別の何かだけ」しか確認できないということを知らされたのである。したがって、史実的に正しい内容が重要なのではなく、重要なことは、聖書が、「シリアの総督のクレニオ」と「聖降誕の出来事」、「ポンテオ・ピラト」と使徒信条というように、神の啓示に対してその都度ごとに、一つの年代的・時間的と地誌的・空間的・地域的との限定性において、「出来事として起こったもろもろの歴史( Gschichten)」について語っているという点にあるのである。すなわち、聖書の歴史認識の方法は、「一般的な歴史性」を含んではいるが、史実史ではない「歴史物語・古潭」として受け取るという点にある。こうした作業過程を経由させたところで、バルトは、例えば不信とむなしさと不安の現代のただ中で、現在的課題のただ中で、その信仰・神学・教会の宣教における現在を止揚し克服していく課題のただ中で、『福音と律法』においては、ローマ書3・22およびガラテヤ書2・26等の「イエス・キリストの信仰」の属格を、ルターや旧来訳聖書や新共同訳聖書とは根本的包括的に原理的に全く違って、神の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある、「イエス・キリストが信じる信仰」として、主格的属格として、理解したのである、啓示認識・啓示信仰したのである。そして、バルトは、次のように述べたのである――「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである』(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)」(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」。
 聖書注釈の表出と表現においては聖書注釈者は、「預言者および使徒の言葉の中に反射されているところの対象像」(啓示の「概念の実在」、直接的な最初の第一の聖書的啓示証言)に、「いついかなる事情の下でも、忠実であらねばならない」。このことは、「まさに(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態・具体的には第二の形態である聖書的啓示証言の≫)対象像そのものが要求してくる」事柄である。また、このことは、あの「忠実さ」において、「歴史的に位置づけ、批評をして行くことが、対象像を観察し、模写して行く上に必要である限り、それは……適用されなければならない」のである。なぜならば、聖書説明において「観察するということは……はっきりさせるということ、……実在的なものを非実在的なものから、確実なものを不確実なものから、区別することである」からである。しかし、この場合、聖書の対象像に対しては、それを「模写するときには、(≪啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証の力、その都度の神の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰の授与、この神の言葉の自己運動による「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性等≫)あくまでもその対象の形式に従うべきであって、(≪近代主義的な人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍や人間論や人間学的な哲学原理・認識論・世界観等の≫)われわれが外から自分で持ち込んだ形式の法則に従うべきではない」のである。このような訳で、この「忠実であるというこの自由の中で、聖書本文の観察は、それら本文そのものに対しても、その対象像に対しても……公正であり、その正しい要求に従わなければならない」のである。したがって、聖書本文の「対象像に対して忠実であるという前提の下では、事情によっては」、「文学的な側面においても訂正され、正されなければならないであろう」。「そしてただ聖書本文の観察」が、その本文の「広がり全体の中で公正であり、その正しい要求に従おうとする」ことによってだけ、「聖書本文の観察は、本文が言おうとしていることの描写を、したがって本文の意味の展開を、実際にして行くことができるであろう。そのような観察に基づく描写は、本文をして正確に、それが語るままに語らせるであろう」。言い換えれば、「啓示は例証されようとはせず、解釈されることを欲する」から、人は、ある資質や個性、ある地域性や社会構成・支配構成・文明的――文化的構成の時代水準・時代性・時代状況の中で、「別の言葉で同一のことを言う」であろう(『教会教義学 神の言葉T/1』)。「それと共にそれは……実際に本文の、まさに本文そのものの、語ることの、後に従って考え、思索する可能性を造り出すであろう」。すなわち、それは、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性において、その類、共通性普遍性の時間累積、歴史性を志向し目指すであろう。
 「聖書的、神学的な解釈学は、……自分が秘義に満ちた特別の権利を持っていることを主張しているわけではないこと…を強調する……」。また、「聖書本文の対象像が確かにイエス・キリストの名であるということ、この本文は、ただ、……この対象像によって規定されている姿の中で理解される時にだけ理解されることができるということ、この洞察は神学者の特権ではない」ことを強調する。教会の一つの機能である「教義学は、決して信仰と、その認識のより高い段階を意味しない」・なぜならば、「最も単純な福音の宣教も、それが神のみ心である時には、最も制限されない意味で、真理の宣べ伝えであることができるし、最も単純な聞き手に対しても、この真理を完全な効力をもって、伝えてゆくことができる」からである・「教義学者は、信仰者としても、知識を持つ者としても、神がここでなし給うことに関しては、教会の誰か一人の会員よりも、よりよい状況にあるわけではない」のである・言い換えれば、教義学者とは、「ただ単に教義学を専攻する大学教員や著述家だけ」のことではなく、「広く一般に、今日および昨日の教義学的問いによって突き当てられ動かされる者たち」のことなのである(『教会教義学 神の言葉T/1』)。言い換えれば、聖書的解釈学における「洞察」は、前期ハイデッガーの哲学的原理に第一義的に依拠したブルトマンとは全く違って、あるいはヘーゲルの西洋近代を頂点とした進歩史観に第一義的に依拠したモルトマンとは全く違って、あるいはメルロ・ポンティの身体論に第一義的に依拠した喜田川信とは全く違って、あの神の言葉の自己運動によるあの客観的な対象性として存在している「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通してのみやってくる、と言うことができるのである。