カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「二十一節 教会における自由」「二 言葉のもとでの自由」(その8−5)

『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「二十一節 教会における自由」「二 言葉のもとでの自由」(その8−5)(501−514頁)

 

二 言葉のもとでの自由(その8−5)
(2)前回(その8−4)の事柄を踏まえた、「責任をもって引き受けられ、実行されるべきすべての聖書説明の必然的な、原則的な形」は、「……すべての人間的な表象、思想、確信」を、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍や人間論や人間学的な哲学原理・認識論・世界観を媒介することを通してではなく、あの神の言葉(啓示・和解)自身の自己運動による、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通すという仕方で、「聖書の中にある啓示証言のもとに服せしめる(自由に遂行された)服従の行為……から成り立っていなければならない……」、換言すれば、啓示認識・啓示信仰にしても、それに依拠した人間の自己認識・自己理解・自己規定にしても、人間の側からする即自的な人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的活動に基づく啓示認識・啓示信仰に依拠した存在の類比を通してではなく、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性ゆえに終末論的限界の下で、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される啓示認識・啓示信仰に依拠した啓示の類比・信仰の類比・関係の類比を通した、「聖書の中にある啓示証言のもとに服せしめる(自由に遂行された)服従の行為……から成り立っていなければならない……」。すなわち、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力において自己運動する啓示は、人間自身教会自身によって「例証され」ることを欲しないのであるから、教会(その成員)は、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して、その資質や個性や時代性や地域性に規定されながらも「別の言葉で同一のことを言」わなければならないのである、聖書の言葉を「解釈」しなければならないのである、聖書説明しなければならないのである。ここで、「自由に遂行された」服従とは、人間自身教会自身が恣意的独断的になす人間自身教会自身が支配し管理する服従のことではなくて、「あくまでも対象(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態、具体的にはその第二の形態である単一性・~性・永遠性を本質とするイエス・キリストによって直接的唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちの直接的な最初の第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書≫)の下に服する服従」のことなのである。したがって、神と人間との無限の質的差異の下での、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性の下での、それゆえに終末論的限界の下での「自由に遂行された」「服従」は、神の言葉(啓示・和解)に対する・具体的には聖書的啓示証言(聖書)に対する「自分自身の、自発的な活動……のことである」。言い換えれば、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指す「自分自身の、自発的な活動……のことである」、また、そういう仕方でキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」とその「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」――福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、 教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、すべての人々が福音を現実的に所有することができるためのキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指す「自分自身の、自発的な活動……のことである」。したがって、この自由は、人間自身教会自身の側から、対象(「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態である教会の主・頭としてのイエス・キリスト、具体的には第二の形態である直接的な最初の第一の啓示証言としての聖書)に対して、恣意的独断的な「優位性」や「自由」を主張することをしないのである、神と人間との混交・混合・協働・共働・折衷を主張しないのである。このように、「自由」は、「必然的に、対象に対する~的な主権性を意味しないし、また人間的な自由としても必然的に、対象と、対象に相対して自発的に活動する人間との間で交わされる相互作用を意味しない」のである。「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態である神の言葉(啓示・和解)が、その第二の形態である「聖書の中でわれわれに与えられている」ことによって、その第三の形態に現存する「われわれに対して……まさに」「自由に遂行された」服従の行為の中での「活動を要求してくる対象(具体的には第二の形態およびその第二の形態に信頼し固執し連帯してそれを反復することを通した第一の形態)……が与えられているのである」。この時、教会(その成員)は、単一性・~性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストという「一つの事柄に仕えなければならないのであって」、「ひとつのは党派」・「特定の人種、民族、国民、国家特性」・「社会機構、あるいは経済機構」・「哲学、道徳、政治」・「国家……文化」・宗教としての科学<主義>やその対極にあるエコロジーあるいはその極限に想定される天然自然<主義>や政治的近代国家という近代的形態・学派・教派・分派・思想傾向・時流や時勢・大衆迎合や大衆啓蒙・民族・社会構成と支配構成および文明的――文化的構成・社会的政治的な言説や運動等に「仕えなければならないことはないのである」、それゆえにあの「一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではないのである」。また、この時、教会(成員)は、「国家は支配であり、文化は支配」であるから、「どのような国家形態にも、どのような文化傾向にも、無条件に『然り』とは言わぬ」のである、無条件に、即自的に、政治的近代国家の法的言語や政策的言語を媒介することはしないのである、そのようなものを第一義化したり価値化したりあるいは前提したり固定したりあるいはまた部分を全体化して論じたり・対談したり・議論したりする、事実的・実証的ではあってもその原理・その認識方法と概念構成が形而上学的一面的固定的抽象的な空論に過ぎない「ばか話し」はしないのである。
 その人間性と共に~性を賦与された装備された聖書においては、「人間的な言葉の形態の中で、われわれに出会う神の言葉が、……問題である」。その聖書が教会(その成員)に義務づけている「教会の宣教」(説教と聖礼典)においては、「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯してそれを反復することを通して、その資質や個性や時代性や地域性に規定されながらも「別の言葉で同一のことを言う」ことが問題である、聖書の言葉を「解釈」することが問題である、聖書の「言葉の説明が問題である」。すなわち、この聖書の言葉の「解釈」・「説明の根本形式」は、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性ゆえに終末論的限界の下で、あくまでも「神語り給う故に、神語り給うことを聞く」者として、神の言葉(啓示・和解)に対して、「われわれの表象、思想、確信を〔神の言葉に(≪具体的には唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちの直接的な最初の第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である聖書に≫)〕服従させる」行為にあるのである、換言すれば「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを反復することを通した、「自由に遂行された」「服従の行為」にあるのである。このような訳で、「われわれは神の言葉」を、われわれの表象、思想、確信に照らしてはかろうとすることはできない」のである(「イザヤ四〇・一二以下は……認識論的な指示を含んでいる(中略)またイザヤ五五・七以下もこれと同様である……」)。
 神の言葉(「神の思い」)は、「抽象的ニではなく、具体的ニ、(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における、その人間性と共に~性を賦与され装備された第二の形態である≫)預言者と使徒たちの人間的な言葉(そのようなものとしてただ単に神の思いの表現であるだけでなく、……また、彼ら自身の思いの表現でもある預言者と使徒たちの人間的な言葉)の形態の中で出会う」のであるから、「『暗やみに輝くともしび』(Uペテロ一・一九)として出会うのである」。したがって、「われわれは……(≪直接的に、神の≫)純粋な言葉とは何のかかわりも持つことができないであろう」。すなわち、神の言葉は、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通してしか持つことはできないのである。単一性・~性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストが人間性・「人間の歴史的形態、イエス・キリストの名」において存在し、聖書もその人間性と共に~性を賦与され装備された啓示証言である限り、また人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的活動の無限性を発見した近代以降において、近代主義的な人間の経験的普遍や人間論や人間学的な哲学原理・認識論・世界観に従って、換言すれば近代主義的な「われわれの精神世界の在り方に従って相互作用的に……理解される可能性に」さらされている限り、しかしまた一方で、厳然として聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性から「それと同時に確かにまた理解されない可能性にさらされている限り、(≪あの神の言葉の自己運動による「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを反復することを通した、終末論的限界の下での≫)説明を必要とするのである」。神の言葉はそれ自身の固有な証明能力を持っているから、「啓示は例証されようとせず」、その資質や個性や時代性や地域性に規定されながらも、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを反復することを通して、「別の言葉で同一のことを言う」という仕方で、「説明」・「解釈されることを欲する」のである。この神の言葉の説明の可能性は、「神の言葉が……死人の中からのイエス・キリストの甦りのゆえに」、「神の永遠の言葉が肉をとり、肉の中で甦り、肉の中で自分についての証言を基礎づけた」ゆえに、「預言者と使徒たちの証言の中で実際にまたわれわれ精神世界の大気の中で光であるということ……に基づいて」いるのである。この神の言葉に対する「自由に遂行され」る「服従の行為」は、「単なる理念、空虚な要請……ではない……」。「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同の教会」を志向し目指す、神の言葉に対する「自由に遂行され」る「服従の行為」であり、またそういう仕方でキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」とその「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」―すべての人々が福音を現実的に所有できるためのキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指す、神の言葉に対する「自由に遂行され」る「服従の行為」である。「まさにわれわれは、(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態である≫)神の言葉と、ほかならぬ特定の人間的な言葉の形態(≪第二の形態≫)の中でかかわらなければならないがゆえに、あの服従を実行に移すことは具体的な課題……となる」のである。このような訳で、「神の言葉を解き明かすということは、今や、聖書を解き明かすということを意味しなければならないし、意味することができる」のである。この時、その人間性と共に~性を賦与され装備された聖書の言葉の解き明かしは、「神への愛と恐れの中で、神ご自身によって任命され、全権をゆだねられた神の証人と使者に対して服従しなければならないような仕方で、服従しなければならないのである」。「聖書説明は、本質的には、神の言葉が自らなす説明から成り立っており、また預言者と使徒の言葉が自分自身を通し、またわれわれ自身のために、別に特別な説明なしに、持つことができるすべての明瞭さ、そしてまた、(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態である≫)われわれがなすあの説明(≪客観的な信仰告白および教義≫)を通して……の明瞭さは、結局、(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態である≫)神の言葉が自分自身の中に持っている明瞭さに遡」るとしても、この神の言葉の自己運動による「自己説明こそがどうしてもわれわれ(われわれの神の言葉に対する「自由に遂行され」る「服従の行為」)なしに起こるのではない。この自己説明は結局、(われわれ自身が教会の肢体としてそれへと召されている)あの自由さの中で、したがって神の言葉に奉仕しつつなされる人間的な活動の中で、起こるのである」。すなわち、聖書説明は、キリスト教に固有な類、共通性普遍性の時間累積、歴史性として、終末論的限界の下で連綿と受け継がれてきた「具体的」な出来事であり、キリストの再臨、終末、救贖・完成まで、終末論的限界の下で連綿と受け継がれていく「具体的」な出来事である。
 その人間性と共に~性を賦与され装備された聖書的啓示証言――その「人間的な証言に対しての服従」において問題は、「われわれがそこでわれわれの表象、思想、確信をそのまま放棄し、忘却してしまわなければならないということ」にあるのではない。なぜならば、神の言葉に対する「自由に遂行され」る「服従の行為」は、その現にあるがままの現実的な人間存在を「除去」するとか「絶滅」するとかを「意味しない」からである、その現にあるがままの現実的な人間存在として「服従させられる者がそのような者としてそこにおり、その場に存在し続けることを前提としている」からである――「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の 信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦 りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのため に人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」・「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかし それと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様 に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」(『福音と律法』、その現にあるがままの人間の現実的存在、自主性・自己主張・自己義認の欲求のただ中にある人間、不信仰、それゆえに無~性、それゆえに真実の罪のただ中にある人間が、神の側の真実としてのみある主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」において包括され止揚され克服されてそこにいる)。一方で、「しかしながら服従は、服従させられる者が、服従させる者に対して、最後に置くこと、後に従うこと、従順に従うこと、を意味している」、それゆえに「われわれの表象、思想、確信を」、「最高の習慣、最良の見解、そのようなものいっさい」を、「聖書に聴従することの前で放棄しなければならないのである」。なぜならば、教会自身と世に対して、すべての人々に対して、「語らなければならない彼ら自身に関する真理」は、「神がすでに為した」「わたしの前にいるこの人々のために、キリストは死に、甦られた」(インマヌエル)ということであるからである。このことは、「われわれが自分の表象、思想、確信を、預言者と使徒の表象、思想、確信によって排除されなければならないということ……ではない」。なぜならば、人はその現にあるがままの現実的な人間存在を生き死んでいく者であるから、すなわちある社会構成・支配構成・文明的――文化的構成の時代水準や地域性に規定されながらある資質や個性を持って生き生活し信仰し喜怒哀楽し思惟し思想し意志し行動し老いて死んでいく者であるから、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態である教会(その成員)は、その個性や時代性や地域性に規定されながら「別の言葉で同一のことを言」わなければならないからである、聖書の説明・解釈をしなければならないからである。したがって、聖書説明は、預言者や使徒の「言葉をそのままおうむ返しに繰り返して」いうことではないのである。このような訳であるから、教会(その成員)は、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを反復するという仕方で、「聖書が教会を支配する」ということを、それゆえに「教会が聖書を支配してはならない」ということを前提として、換言すれば聖書を規準・法廷・審判者として、その宣教(説教と聖礼典)を、絶えず繰り返し、自己吟味し・的確に「批判し、訂正」していかなければならないのである。なぜならば、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態である聖書は、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての第一の形態である単一性・~性・永遠性を本質とするイエス・キリストと共に、「教会の宣教における原理」だからである(『教会教義学 神の言葉T/1』)。「決定的なことは……聖書自身が啓示証言として、われわれ自身の存在と生成、心に思いはかること、希望と苦しみがなすすべての証言に対して、われわれの精神のすべての証言に対しても、われわれの感覚のすべての証言に対しても、(そこからわれわれが由来しており、またそのようなものとしてわれわれが携えてゆくことができる)すべての公理と定理にたいしても、無条件的な優位性を持たなければならない」という点にある。言い換えれば、「聖書注釈」は、聖書がその「構成要素の内、見たところ最も疑わしく、最も些細な取るに足りないものと見える構成要素の中で、われわれに語ることも」、「われわれが自分自身で語った、あるいは語ることができる最上の、最も必然的なものよりも」、「あらゆる事情のもとで、もっと正しく、もっと重要であるという前提」に「立っている」という点にある。「聖書は、それが神によって任命され、全権をゆだねられた啓示証言である」ことによって、「そのような仕方で解明されることを要求する」。したがって、「この要求が注意されない時には、聖書は原理的に解明されない」ことになる。したがってまた、ここでは、「まさに、人間的な自由の行為が問題である(ヤコブ一・二五)」。人間自身教会自身によって「例証されることを欲せず」、「別の言葉で同一のことを言うことを欲する」、すなわち「解釈されることを欲する」啓示証言としての聖書は、「その際、聖書自身の精神世界、すなわち聖書的精神世界、が直ちに同じように、ゆるがされないものとしてとしてではなく、むしろ全く特定の仕方で奉仕しつつ、機能を果たす、柔軟な、生ける道具として、自分を証明するであろう」。「聖書がわれわれに対してこの奉仕(≪啓示証言を伝達する奉仕≫)をしてくれる」ことによって、「聖書はそのすべての構成要素の中で、われわれ自身が自分で自分に語ることができることよりももっと正しく、もっと重要なことを語るのである」。聖書解釈の規準・法廷・審判者は、聖書である(「イザヤ八・二〇……ルカ一六・二九……Tヨハネ四・六」)――「パウロはその時代の子としてその時代の人々に語った。けれどもこの事実よりはるかに重要な事柄は、いま一つの事実、すなわち彼は神の国の預言者ならびに使徒としてあらゆる時代のあらゆる人々に語っている、ということである。(中略)聖書の精神は永遠の精神なのである。かつての重大問題は今日もなお重大問題であり、今日の重大問題で単なる偶然や気まぐれでない事柄は、またかつての重大問題と直結している」(『ローマ書 』)。
 「すべての聖書解釈のこの原則を決定的に基礎づけることは、……ただ聖書の内容からしてだけなされ得る。同時にそれについての洞察も、聖書の内容からしてだけなされることができる……」。一般的な解釈学とは違って聖書的解釈学は、「われわれ自身の精神の証言を聖書の精神の証言に服従させなければならない」という「特別な原則のもとにに立たなければならないということは……確かなことである」。なぜならば、聖書は、「実にさまざまなことの中でただ一つのこと、……旧約聖書の中ではイスラエルの名のもとに覆い隠されており、……自分で自分をそう理解していたように、ただ旧約聖書への注釈としてだけ理解されることができる新約聖書の中では」、単一性・~性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、神の側の真実としてのみある・それゆえに客観的現実性客観的実在としてある、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストの名、を語る」からである。聖書は、イエス・キリストによって直接的唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちのその人間性と共に~性を賦与され装備された直接的な最初の第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、宣教」・啓示の「概念の実在」だからである。「このような事情からして、われわれの表象、思想、確信は聖書が自分自身についてないしている証言のもとに服従させられなければならないという……原則が生じてくる」のである。なぜならば、聖書的啓示証言の内容からすれば、即自的な、人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的活動、その「われわれの表象、思想、確信」は、「イエス・キリストの名なしの、したがって恵み深くわれわれに働けかけ給う神なしの罪深い人間の性質」、すなわち「彼が自らの心の中で勝手に像を刻んで造り上げた神(≪偶像~≫)の前で自ら、自分を義しい者としようとする努力」をする人間の性質、それゆえに「自分自身をできる限り大きくし、同時に神をできる限り小さく」しようとする人間の性質における「靄のかかった暗い闇」のただ中にある「人間の精神世界」そのものだからであるである。このような訳で、近代主義的な人間の経験的普遍を、人間学的な哲学原理・認識論・世界観を、聖書的解釈学に適用することは不可能であるし、神と人間の「自律性」、神学と人間学の「自律性」を「両立させ」ることは聖書的解釈学においては不可能なのである。聖書的解釈学におけるそのような「二元論」は、本質的に不可能であるから、それは、「聖書解釈の課題を断念することを意味する……」。したがって、聖書解釈の課題の「解決の原則」は、教会(その成員)が、「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復するという点に、それゆえに彼らが、その第二の形態である聖書に、その聖書的啓示証言に「優位性と優先権を認める」という点にあるのである。「聖書は聖書を通して解釈されなければならないという原則」は、次の点にある――単一性・~性・永遠性を本質とするイエス・キリストによって直接的唯一回的特別に召され任命された「預言者ト使徒タチノ教エ(≪その人間性と共に~性を賦与され装備された直接的な最初の第一の、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、客観的な啓示の「概念の実在」、聖書的啓示証言≫)ハ神ノ確カナ言葉デアッテ、ソノ神ノ確カナ言葉ハ全世界ノスベテノ意見ニ対シテモ対置サレ、ソノ神ノ確カナ言葉カラ真理ト虚偽ガ区別サレナケレバナラナイ。ソノ言葉ハ、何ノ疑イモナシニ、聖書ノ中ニアル(ポラーヌス)」から、「聖書の中で、預言者的――使徒的教えの形で為されている神の語りは……そのほかすべての声から区別されなければならない。そして神の語りが、まことのものと偽りのものを見分ける標準(≪・規準・法廷・審判者≫)として承認されなければならない」、という点にある。また、「聖書の正しい注釈は聖書そのものと一致しなければならない」という原則は、「ただ単にすべての聖書解釈にとって妥当する原則」というだけでなく、「聖書注釈の……明瞭な標準としての聖書の特別な内容」と一致しなければならないという「聖書的な解釈学にとってだけ妥当する根本的規則」であるということを意味している。ここで、「聖書の特別な内容」は、次の点にある――「ヨハネ七・一八」を引用して「ポラーヌス」は、「ワレワレノ永遠ノ救イノスベテノ誉ヲタダ神(≪徹頭徹尾、神の側の真実≫)ニノミ帰シ、人間ニ対シテハ少シモ認メナイトコロノモノ(解釈)ガ聖書ト一致スル。ソレニ反シテ永遠ノ救イノ栄誉ノホンノ僅カナ部分デモ人間(≪その存在、その思考、その実践≫)ニ帰スルトコロノ解釈ハ聖書ト一致シナイ」、と述べている。ここでの「ポラーヌス」の「最後的な帰結に人は注意せよ。聖書の中でわれわれに語られている神の言葉の内容は、われわれの永遠の救いの事柄においては徹頭徹尾ただ神だけが誉れを帰せられるべきであって、人間には全く誉れが帰せられるべきではないということであるがゆえに、また聖書のすべての注釈に対してもただ正典だけが、誉れを帰せられるべきなのである」。
 最後に、バルトとブルトマンの聖書説明の原則的な差異は、次のような点にある――
@バルトにとって、神のその都度の自由な恵みの決断による「神の語り、行為、秘義」である神の言葉は、客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づい て初めて「聞かれ」 「信じられる」(啓示認識・啓示信仰される)ものであるから、人間自身や教会自身に内在的に存在している実体で全くないし、また人間自身教会自身の「証明を必要としない」ものである。
A非自立的で中途半端な人間学の後追い知識としてのブルトマン神学におけるその原理・その認識方法と概念構成およびその「特殊な主題」の特徴は、第一には、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態である客観的な「啓示の実在」そのもの(単一性・~性・永遠性を本質とするイエス・キリストの出来事)を後景へと退け排除してしまうという点にある。第二には、前期ハイデッガーの哲学原理に依拠した「容易に修得し得ない」「先行的理解と言語〔表現〕」によって人間自身が対象化(疎外)した「存在者レベルでの神」(偶像~)を「第一次的なもの」に「形式変換」し、新約聖書の使信・証言を、その「第一次的なもの」に「従事することにおいてのみ真であり、重要なもの」・「第二次的なもの」へと「形式変換」するという点にある(←→この「教養人の間」だけで通用する神学に対して、バルトは、「『現代人』が実際に存在するのは」、「ただ教養人の間だけではない」のであるから、ブルトマンのような「実存主義への特別な拘束力が生じるべきだ」と述べたのである)、それゆえにブルトマンにおける啓示認識の対象は、常に人間自身が対象化(疎外)した使信であるという点にある、この場合、「神学は人間学以外の何物でもでもない」(ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ『キリスト教の本質』)ものとなるのである。すなわち「特定の哲学にとらわれ」た「エジプト捕囚ないしバビロン捕囚の身になっている」という点にある、このような即自的な人間実存に依拠する「実存的釈義家」の場合は、「本文と彼自身との対話だけでなく、ある特定の人間学、つまり一つの思惟の型を前提とし」・それに信頼し固執してそれを固定して論じるから、「誤謬は必然」となるという点にある(←→それに対して、聖書の中の「キリスト教原理を、覆いをとって明らかにするのは」徹頭徹尾「聖霊」であるから・神のその都度の自由な恵みの決断による聖霊の注ぎを必要とするから、その原理・その認識方法と概念構成において「聖霊の交わりにおける人間の実存」に信頼し固執し連帯したバルトの場合は、「あやまちは可能である」がブルトマンのように「あやまち(≪偶像~信仰・偶像崇拝≫)は必然」とはならないのである。また、人間自身教会自身が己の自由事項・裁量事項・決定事項として聖霊を実体化することは決してできないから、終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与において聖霊によって更新された理性であっても聖霊とは同一ではないのである)。
Bバルトは、『教会教義学 神の言葉T/1』で、次のように述べている――
当然にも、釈義神学による聖書的教えの認識・概念も、キリスト教的な神についての「語りの規準」であるイエス・キリスト自身(客観的な「啓示の実在」そのもの)と同一ではない。したがって、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態である教会の一つの機能である教義学は「使徒や預言者たちが語ったことを問う」のではない。なぜならば、その人間性と共に~性を賦与され装備された第二の形態である「使徒や預言者たちが語ったこと」は直接的な最初の第一の啓示の「概念の実在」ではあっても客観的な「啓示の実在」そのものではないから、もしも彼らの語りをそれとして問うことをしたならば、それは、人間によって言語を介して対象化された彼らの語り・ 「存在者レベルでの神」を問うことになってしまうからである。したがって、第三の形態である教会の一つの機能である教義学は、「『使徒と預言者たちに基づいて』何をわれわれ自身が語るべきかを問」わなければならないのである。言い換えれば、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における第一の形態――単一性・~性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、キリストの死と復活の出来事、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和、インマヌエル)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト(「イエス・キリスト名」)を、このキリストにあっての神を尋ね求めなければならないのである。言い換えれば、現存する教会(その成員)が為すべき肝要な点は、先ず以て第一義的に、その存在・その思惟・その実践、その人間性、その資質、その個性、その社会構成・支配構成・文明的――文化的構成、その時代性、その地域性、に規定された中で、あの「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態に・具体的にはイエス・キリストによって直接的唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちの直接的な最初の第一の<イエス・キリスト>についての「言葉、証言、宣教、説教」(聖書的啓示証言)に信頼し固執し連帯してそれを反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すという点にあるのである、そういう仕方でキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」とその「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」――福音を内容とする福音の形式としての律法、すべての人々が福音を現実的に所有することができるためのキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指すという点にあるのである。この時だけ、 「キリスト教的語りは今日何を語ることがゆるされ、語るべきかを問うよう自分が要請され」 ・命じられているかといういことを知ることができる。教会の一つの機能である教義学そのもの、また神についての教会の語りは、 「信仰のない」人間の、 「信仰にさからう理性を用いての語り」であるが、その教義学そのものが、 前述したことを通して「神についての語りをはかる規準を、イエス・キ リストの中で、受けとる限り、教義学は真理の認識として可能」となるのである。その場合、教義学は、「人間的な問いの中で、人間的な問いと共に、人間的な問いのもとで、……神的な答えについて語る」こ とができるのである。しかし、それが、 「キリスト教的語りの正しい内容の認識と して祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身」の決定事項なのであって、人間自身教会自身の決定事項では決してないのである。したがって、教会の一つの機能である教義学の在り方 は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下 さるということに基」づいて成立しているのである。
Cバルトは、次のように述べている――「(中略)この(新約聖書の)使信が、まさにイエス・キリストについての使信として、神と人間と の間に起った出来事を内容としていることが確かであり、また、この使信が、その形式において、この出来事についての人間による証言であることも確かであるかぎり、われわれがこの使信の人間学的内容にも問いかけることは可能であり、またそうしなければならないことは明瞭である。(≪しかし、第一義的第一次的な、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態であるイエス・キリストの出来事、すなわち≫)(中略)他のすべてのものを基礎づけ、制約し、支配するキリストの出来事としてのキリストの出来事を、この証言(≪第二の形態である聖書的啓示証言≫)から取り去って(≪第一の形態である第一義的第一次的な客観的な「啓示の実在」そのものを後景へと退け取り去り排除して≫)――その結果、この証言(≪第二の形態である聖書的啓示証言≫)を、そこでは第二次的なもの、あの第一次的なもの(≪前期ハイデッガーの哲学的原理・ 「容易に修得しえない」 「先行的理解と言語〔表現〕 」によって人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」、偶像~≫)に従事することにおいてのみ真であ り、重要であるもの、に形式変換し、転釈するという場合、(≪第二の形態である聖書的啓示証言の≫)その使信をゆがめ、切りちぢめることにならざるをえない……」(『ルドルフ・ブルトマン』)・「 私の思想はいかなる場合にも一つの点において常に同じであるということである。いわゆる(≪人間自身教会自身が自分の類的本質を対象化・疎外した≫)「宗教」が私の思惟の対象・根源・規準ではなく、むしろ、……神の言葉こそ私の思惟の対象であるという点では少しも変わってはいない。キリスト教会、その神学、その説教、その伝道を基礎づけ、 維持し、支えてきた神の言葉、聖書において人間に……あらゆる時代、あらゆる国、生のあらゆる段階と状況の人間に語りかける……神の言葉、神との関係における人間の秘義……ではなくて、人間との関係における神の秘義である神の言葉……それこそが常に私の思惟の対象なのである」 (『バルト自伝』)。