本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「二十一節 教会における自由」「二 言葉のもとでの自由」(その8−4)

『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「二十一節 教会における自由」「二 言葉のもとでの自由」(その8−4)(491−501頁)

 

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしておりますが、引用の不備や誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)

 

 

二十一節 教会における自由
「教会における自由」について、バルトは、次のような定式化を行っている――

 

 直接的な、絶対的な、内容的な自由を、教会の肢である成員は自分自身について主張するのではなく、ただ神の言葉としての聖書について主張する。しかしまた聖書の中での神の自由な言葉に対する服従こそが、主観的に次のこと――聖書の証言を受け入れたと告白するすべての個人が、その解釈と適用に対して自ら進んで責任を引き受けようとしており、引き受ける用意ができていること――によって規定されている。教会の中での自由は聖書の自由――それによって教会の中での自由が基礎づけられている聖書の自由――を通して間接的・相対的・形式的な自由として、限界づけられている。(397頁)
――@この定式の詳しい解説については、『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「二十一節 教会における自由」「一 言葉の自由」(その2−2)で述べています。また、A<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>(2016年6月13日作成)で述べています。

 

二 言葉のもとでの自由(その8−4)
 聖書的啓示証言によれば、「自由」・「主権」は、「神ご自身においてのみ実在であり真理である」(『教会教義学 神の言葉T/1』)。したがって、神の言葉(単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、啓示・和解、神の子、<完了>された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和)の下での「人間的な自由」は、その「神の言葉の自由を通して基礎づけられた」自由である。この神の言葉自身の自己運動からすれば、神の言葉の下での「人間的な自由」は、「神的な自由を傷つけ、侮辱することはあり得ない」ものとしてある。なぜならば、「神ご自身においてのみ実在であり真理である」全き「神的な自由」は、言葉の下での「人間的な自由に対して、常に、あらゆる点で、先行する……」からである。また、その「神的自由が人間的自由を破壊するとか除去するということもあり得ない」。なぜならば、その神的自由は、神のその都度の自由な恵みの決断によって、すなわちあの神の言葉自身の自己運動によって、神の言葉の下での「人間的自由を、常に、あらゆる点で自分の方に、自分のところに、引き寄せる」からである。言い換えれば、その神的自由は、神のその都度の自由な恵みの決断によって、すなわちあの神の言葉自身の自己運動によって、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性において、キリスト教に固有な類、共通性普遍性の時間累積、歴史性の出来事を惹き起こすし・惹き起こし続けるからである。このような訳で、教会(その成員)は、その「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復すること通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指して行くところの、教会の決断・教会共同性およびその教会の成員一人一人の「個々の決断」・個々の「人間性」において、また、そういう仕方でキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」とその「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――福音を内容とする福音の形式としての律法、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、すなわちすべての人々が福音を現実的に所有することができるためのキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指し実践して行くところの、教会の決断・教会共同性およびその教会の成員一人一人の「個々の決断」・個々の「人間性」において、神の言葉に対する教会・教会共同性および教会の成員一人一人の個々の「在り方」・個々の「態度」の可視化・客観的な対象化の出来事を惹き起こすことができるのであり、それゆえにそのような出来事を惹き起こす「啓示を感謝と祈願をもって受け取る」のである。そのような「神の言葉との特別な一致」の出来事を惹き起こす神の言葉を、「啓示を感謝と祈願をもって受け取る」のである。教会(その成員)は、「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを反復することを通して、「共に知る者として、立っている」のである。すなわち、神の言葉は、あの神の言葉自身の自己運動による「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性において、「ただ単に(≪第一の形態である≫)神の言葉であり続けるだけでなく、またただ単に(≪第二の形態である≫)使徒および預言者の言葉であり続けるだけでもなく、むしろ(≪第三の形態である≫)教会のものとなるように自分自身を与え、したがって(≪イエス・キリストを主・頭とする第三の形態である≫)教会の肢体である成員によって取り上げられ、受け入れられ、その限りそれらの者自身の言葉となる……」のである。このような仕方で、「神の言葉の下での自由(≪第三の形態である教会の成員の人間的自由≫)」における言葉は、「神の言葉の中に基礎づけられ、それに拘束されているまことの」「神の言葉の注釈(≪解釈≫)と適用にまでくる」のである、すなわちキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」とその「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――すべての人々が福音を現実的に所有することができるためのキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えにまでくるのである。徹頭徹尾、教会(その成員)は、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に強いられているのであるから、それゆえに教会(その成員)は、先ず以て、神の言葉に対して、常に、終末論的限界の下で「受け身」であり続けるのであるから、教会(その成員)は、恣意的独断的に、それゆえに神の言葉・具体的には聖書を支配し管理して、これが、神の言葉だ、キリストの霊である聖霊だ、奉仕と救いと平和の企てだ、と「例証」すること・実体化することは出来ないし、そうすることは許されないのである。したがって、原則的に、ルドルフ・ボーレンや佐藤司郎や小泉健が恣意的独断的に主張する、近代主義的な人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍の尊重論や小泉健の主張する聖霊や聖霊の言葉の実体化は出来ないし、そうすることは許されないのである。バルトは、『教会教義学 神の言葉T/1』で、「単なる知識」と「認識」(啓示認識・啓示信仰)とを厳密に区別して、次のように述べている――「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、換言すれば客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に感謝をもって信頼し固執する「認識」(啓示認識・啓示信仰)である。その時初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができる。言い換えれば、人間論的な「人間の現実存在の内部」にある善なる類的本質や人間学的なある理念の実体化・「最高存在」・「最モ完全ナ存在」としての啓示概念は、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における神でも啓示でも善でも義でもないのである。
 さて、前述した事柄と対極にあるものが、神と人間との無限の質的差異を後景へと退け排除した、人間中心主義的なヘーゲルにおける人間の対自的で対他的な、他在であって自在の、自由の、自己意識・理性・思惟の類的活動の無限性、自由の原理である。それは、人間の神化、神の人間化の原理である。それは、事実的に、人間自身が支配し管理する様々な偶像神を創り出すことができる、偶像神の啓示を創り出すことができる、人間自身教会自身が支配し管理する様々な「存在者レベルでの神」(偶像神)の名と呼びかけによる人間自身教会自身が支配し管理する大量の奉仕や救いや平和の企てを創り出すことができる。その対自性は、自然の生み出す混沌美に対して、自然から最高度に超出した精神が生み出す秩序美を、そういう芸術概念を創り出すことができる。また、その対他性は、共同宗教(ローマ・カトリック主義や近代主義的プロテスタント主義的キリスト教、政治的近代国家に包摂されてしまう体制的反体制的なキリスト教的社会集団や政治集団、如何わしいカルト集団等、神と人間との混淆・共働・協働・折衷論における人間中心主義的な、換言すればヘーゲル主義的な、自然神学の段階で停滞と循環を繰り返す共同宗教としてのキリスト教)の最後的形態である観念の共同性の尖端に位置する第一義化・価値化された政治的近代国家を生み出した。また、その自由を本質とする世界精神は、世界史において、自然を原理とするアジア的段階を止揚し超出して、その世界史の尖端性として、普遍性として、自由を原理とする西欧近代を生み出した。しかし、この西欧近代を頂点とする進歩史観は、時代状況がゆるさなくなった。にも拘らず、その西欧近代を頂点とするヘーゲルの進歩史観に依拠して神学的三段階的進歩史観を展開したモルトマンに依拠した喜田川信は、この状況認識と共に、人類史の西欧的段階において世界普遍性として成立していた人間や社会や世界という西欧的概念の危機、マルクス主義の危機、「西欧の合理性の歴史とその限界」(ミシェル・フーコー)も認識し自覚していないのである。彼らとは全く違って、バルトは、ヘーゲルの歴史哲学に対して、次のような現実性と妥当性のある批判を行っているのである――「先行する他のもろもろの時代のその問題意識にも……、真に耳を傾けることが出来るようになる」ために、私たちは、西洋近代を頂点とした歴史の直線的な進歩・発展というヘーゲルの思想を、「直ちに全面的に放棄」しなければならない。この認識と自覚がモルトマンには欠如しているのである。また、喜田川信には、この西欧的危機の認識と自覚だけでなく、次のような認識と自覚も欠如させているのである――すなわち、「現在の日本では骨肉にまで受け入れた西欧近代というものの部分で西欧とおなじ危機に陥っています。その一方で、西欧的にいえばアジア的という概念(≪人類史の自然を原理とするアジア的段階という概念≫)で括られる思想的伝統、習慣、風俗、社会構成、文化を引きずっています。そうすると、現在日本のもっている危機の意味あいは二重になってきます」という、この西欧的危機の問題とアジア的日本的特殊性の問題とを同在的に扱う必要があるのだが、このことに対する認識と自覚を欠如させているのである(『世界認識の方法』)。このような訳で、西欧近代を頂点としたヘーゲル的マルクス的な進歩史観は時代状況がゆるさなくなっているから、そうした人間学の後追い知識としてのモルトマンの神学的三段階的進歩史観はとっくの昔に自然時空に死語化してしまっているのである。

 

(1)神の「言葉の下での自由」、神の言葉の下での「教会の中での人間的自由」は、あの神の言葉自身の自己運動による、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯して「聖書を注釈(≪解釈≫)し適用する<責任>を引き受けること」にある。それは、そういう仕方で、「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すことにある、そういう仕方で、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」とその「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――福音を内容とする福音の形式としての律法、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、すなわち、すべての人々が福音を現実的に所有することができるためのキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指すことにある。言い換えれば、神の言葉は、このような仕方で「聞かれるようになることを欲している」。したがって、神の「み言葉が欲しているこの意欲に対して、教会の成員は、まさにこのみ言葉の中に基礎づけられた自由の力によって、何も参与しないで、受身的な(≪傍観者的な≫)、ただ待っているだけの態度をもって、(そのみ言葉に対して)相対して立っていることはできない」のである。なぜならば、「聖書を通して教会が基礎づけられ、保持され、支配される……出来事」が惹き起こされ、教会の成員たちが「聖書に対して責任を持」つようになる出来事が惹き起こされた時には、その出来事は、教会・その成員が、「この出来事の主体となるという仕方で起こる」からである。この時には、「われわれ自身が今や、神の言葉が教会の中で、世の中で、さらに先へと道を進む……その場にいるのである」、この時には、神の言葉が、「教会の中で、世の中で」、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるキリスト教に固有な類、共通性普遍性の時間累積、歴史性において、現在から未来に生きる道を、それゆえに自然時空に埋没し死語化しない形で、「先へと……進」んでいる場にいるのである。「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における「教会を通して教会の中へと呼び出される時、われわれ自身」が、「召命が存在するところの教会と……なる時」、「ほかならぬわれわれ自身が教会となったのであり、そのような者として、教会の将来の存在に対して責任あるものとされたのである。……われわれは、教会の中で、また世の中で、聖書が生き、支配し続けて行く大いなる進行に、共に責任ある者として参与している」ものとされたのである。したがって、「われわれは」、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性を後景へと退け排除して、「自分の舌でもって教えるべき奉仕の務めについた人たち」のような在り方、換言すれば恣意的独断的に「大言壮語」(「ヤコブ三・一以下」)する人間自身教会自身の在り方に参与するものとされたのでは決してないのである。

 

 「人は先ず第一に繰り返し(中略)受肉の秘義と奇蹟全体のことを、人間イエスの現実存在とイエスの完結した預言者としての務めを、さらにまたイエスによって全権を委ねられた証人たちの現実存在の謎全体のことを」、「よく考慮に入れなければならない……」。言い換えれば、人は、この「理解を絶した神の卑下と人間の高揚をわれわれは」、人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍によってではなく、また人間の自然的存在における自己意識・理性・思惟や意志によってではなく、「まさにこの真理(≪それ自身の自己運動、啓示・和解、神の言葉、の真理≫)の中でのみみてとらなければならない……」、認識し信仰しなければならない。そして、教会(その成員)は、終末論的限界の下で、その神の言葉に対する態度と在り方において、その啓示(真理)の主観的可能性を「実証しつつ、確かめなければならない……」。聖書は、その「客観的な明瞭さ」において、「繰り返し聞えるようになり、聞かれるために、解き明かしされることを欲している」、現存する教会(その成員)が「別の言葉で同一のことを言うこと」を欲している。この事柄は、神の言葉の下での自由な「すべての人間的な責任の前提である」。なぜならば、神の言葉の下での「われわれとしてなすべき責任がある聖書の解き明かしは、ただ聖書が神の言葉として自分自身の中で明瞭」であり、自分自身で「客観的な明瞭さ」を持っているということに「基づいてだけ、企てられることができる」からである。したがって、神の言葉を、人間自身教会自身が支配し管理する仕方で「先手を打って処理することは許されない」のである、本質的に出来ないのである。なぜならば、単一性・神性・永遠性を本質とする神は、聖性・秘義性・隠蔽性を本質としており、不把握性として存在しているからである。したがって、神の言葉は、人間自身教会自身を、終末論的限界の下に置くのである。したがってまた、神の言葉は、人間自身教会自身が対象化・疎外した「存在者レベルでの神」(偶像神)の言葉となることは決してないのである。すなわち、神の言葉を、人間自身教会自身が、自分自身の自由事項・裁量事項・決定事項とすることは、本質的に出来ないのである、許されないのである。一方で、その人間性と共に神性を賦与され装備された聖書の中での神の言葉は、「人間的な言葉という形態も持っている。そしてこの人間的な言葉の方は説明(解釈と適用)を必要としている」のである。なぜならば、その「人間的な言葉という形態」で表現された言語は、それが表現されるや否や客観的対象として百人百様の享受の対象となるからである。その現にあるがままの現実的な人間存在に引き寄せて言えば、近代市民社会の精神は私利・私意にあって、資本主義の拡大・高度化と自由主義国家の成熟は私的利害と恣意的自由の優先意識を定着させ関係意識を希薄化させ共同性の統括力を衰退させて行ったから、時代状況を踏まえた現在から未来に生きる「説明を必要」とするのである。起源的に言えば、「神の言葉が聖書の中で人間的な言葉の形態をとった」ことによって、「神の言葉は自ら、この説明を必要としている状態におもむいたのである」。したがって、神の言葉の下での自由における「われわれ人間的な責任」は、換言すれば「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における第三の形態における「解明」の「部分的な責任」は、終末論的限界の下で、その「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通した「説明」、すなわち時代状況を踏まえた現在から未来に生きる「解釈と適用」にあるのである。なぜならば、第三の形態の教会(その成員)は、それぞれの個性や時代性を生きてきたからである。また、現存する第三の教会(その成員)は、現存する社会構成・支配構成・文明的――文化的構成の時代水準(時代性、時代状況)とそこで生き生活し喜怒哀楽し思惟し思想し意志し行動している個体的自己としての人間のその資質やその個性を生きているからである。しかし、このような仕方における、神の言葉の下での「(≪第三の形態の中で生き生活し喜怒哀楽し思惟し思想し意志し行動する≫)われわれとしてなすべき責任がある聖書の解き明かしは、ただ聖書が神の言葉として自分自身の中で明瞭」であり、自分自身で「客観的な明瞭さ」を持っているということに「基づいてだけ、企てられることができる」のである。すなわち、この事柄は、人間自身教会自身の恣意的独断的な自由事項・裁量事項・決定事項では決してないのである。言い換えれば、教会(その成員)は、その個性や時代性において、「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、啓示・和解)である「イエス・キリストの名」――この神の言葉自身の自己運動による「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して、「別の言葉で同一のことを言う」ことができるだけなのである。このような「聖書の人間的な言葉の自己説明は、概念の狭い意味での……われわれの責任として委任されている聖書の解き明かし……の一つの前提を形成している」、このような仕方で「聖書の解き明かしは出来事として起こ」る。しかし、その場合も、教会(その成員)は、恣意的独断的に「解き明かし」をなすことは許されていないのであって、客観的な「手引き」を必要とするのである。すなわち、教会(その成員)は、可視化された客観的な対象性として与えられた、すなわちあの神の言葉自身の自己運動によって与えられた、可視的で客観的な啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性という「手引き」を必要とするのである。

 

 このようにして、ここで、「狭い意味でそう呼ばれるべき聖書説明の必要性が始まるし、またここで、教会の成員に対して課せられている責任が始まってくる」のである。このような仕方で、「教会の成員」は、「語る者と聞く者の間に、したがって聖書の人間的言葉と教会のほかの成員の間に、……また聖書の言葉と世の中の人間の間に、両者を助けるために割って入るところのあの第三者(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性の第三の形態に属する教会の成員として、すべての人々が福音を現実的に所有することができるためのキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを行う、「人間に対する奉仕」者・「聖書に対する奉仕者」としての第三者≫)であるように召されている」のである。「ポラーヌスが聖書解釈についてなしたよい定義に注意を向けることにする。聖書解釈トハ、ソノマコトノ意味ト使用ニツイテノ説明ノコトデアルガ、ソレハ明白ナ言葉ヲ用イテ神ノ名誉(≪「解釈の課題」――すなわち、人間自身教会自身の恣意性独断性を止揚し克服するところの、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを反復することを通して、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」における解釈の課題≫)と教会ノ建設(≪その「神への愛」における解釈の適用としての「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――すなわち、「神への愛」を根拠とした、すべての人々が福音を現実的に所有することができるためのキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えの実践における「教会の成員に課せられた責任」≫)ノタメニナサレルモノデアル」。

 

 この「教会の成員に課せられた責任」は、人間の対自的で対他的な自由な自己意識・理性・思惟の類的活動の無限性を発見した、それゆえに神と人間との無限の質的差異を後景へと退け排除する人間の神化あるいは神の人間化を発見した近代以降においては、さらに現存する現在においては、「十六世紀および十七世紀において強調したよりももっと強く……強調」する必要のあるのである。したがって、この「責任」は、「原則的に……特別聖書に通暁している者に対してだけでなく」、教会の「すべての成員に対して課せられている」のである――@「あらゆるキリスト者の生が、意識するにせよ、しないにせよ、やはりひとつの証しである」限り、「教会とその信仰を基礎づけている神の言葉から、提起される」「真理問題はあらゆるキリスト者に向けられている。この証しにおいてこの真理問題に対する責任を負う限り、いかなるキリスト者も彼自身がまた、神学者としても召されている」(『福音主義神学入門』)、A「教授でないものも、牧師でないものも、彼らの教授や牧師(≪やキリスト教的著述家や教会・教団上層≫)の神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、共同の責任」を負っている(『啓示・教会・神学』)。この場合、「聖書の言葉と彼自身の間に割り入り、彼に対して解釈と適用の奉仕をしてくれる第三者(≪キリスト教に固有な類・歴史性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを反復することを通して、「別の言葉で同一のことを言う」ことができる第三者≫)……の奉仕によって生きないような者はひとりもいないのである」。このような訳で、「教会全体はまさにこの仲介する奉仕を果たす組織体であるということができる」、そのような共同性であるということができる。聖書は、「特別な役職に対してではなく、むしろ教会全体に対して与えられている」、それゆえに聖書は、イエス・キリストを主・頭とする教会の肢体である一人一人の成員に対して与えられている。「教会の中のすべての者が、聖書を解釈し、適用すべき責任はまた自分に対しても課せられているということを知る時に初めて、……あの役職の中でなされる、あるいはなされないことについての意味深い批判があり得るのである」。したがって、「聖書に通暁している者たちに相対して、(≪「聖書に通暁している者たち」の「神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、共同の責任」を負わずに、傍観者的に対応する≫)未熟な教会、聖書説明という点で受け身的な教会は、ひそかに既に(≪神の言葉、啓示・和解に≫)反逆して」いる教会であり、それゆえに「(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態の≫)聖書正典と(≪第三の形態の教会の客観的な≫)信仰告白、それと共に(≪第一の形態の≫)神の言葉および信仰(≪第三の形態の教会における、あの神の言葉自身の自己運動により授与された一人一人の成員の啓示認識・啓示信仰≫)と、縁を切った教会、それであるからそもそも、もはやイエス・キリストの教会(≪イエス・キリストを主・頭とする教会≫)ではないものである」。したがって、そのような教会は、「直接的な、絶対的な、内容的な」「権威」と「自由」を、その人間性と共に神性を賦与され装備された「神の言葉としての聖書について主張」しない教会である、したがって「教会の中での」「権威」と「自由」を、その人間性と共に神性を賦与され装備された「聖書の自由……を通して間接的・相対的・形式的な自由として、限界づけられている」ことを認識し自覚することをしない「反逆を犯」している教会・「反逆して」いる教会、である。私にとっては、その第三の形態における「第三者」は、カール・バルト<自身>であった。私にとって、神学者、牧師、著述家等の、多くのカール・バルト論あるいは解説書は、バルトの微小な部分を拡大鏡にかけて全体化した抽象的空論に過ぎなかった。それらからは、現在から未来に生きる言葉を全く見出せなかった。それらからは、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーが批判したり揶揄したりした自然神学の段階で停滞と循環を繰り返すだけの共同<宗教>としてのキリスト教や神学をしか見い出せなかった。それらからは、自然時空に死語化して行く言葉しか見い出せなかった。