本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「二十一節 教会における自由」「二 言葉のもとでの自由」(その8−3)

『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「二十一節 教会における自由」「二 言葉のもとでの自由」(その8−3)(480−490頁)

 

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしておりますが、引用の不備や誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)

 

 

二十一節 教会における自由
「教会における自由」について、バルトは、次のような定式化を行っている――

 

 直接的な、絶対的な、内容的な自由を、教会の肢である成員は自分自身について主張するのではなく、ただ神の言葉としての聖書について主張する。しかしまた聖書の中での神の自由な言葉に対する服従こそが、主観的に次のこと――聖書の証言を受け入れたと告白するすべての個人が、その解釈と適用に対して自ら進んで責任を引き受けようとしており、引き受ける用意ができていること――によって規定されている。教会の中での自由は聖書の自由――それによって教会の中での自由が基礎づけられている聖書の自由――を通して間接的・相対的・形式的な自由として、限界づけられている。(397頁)
――@この定式の詳しい解説については、『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「二十一節 教会における自由」「一 言葉の自由」(その2−2)で述べています。また、A<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>(2016年6月13日作成)で述べています。

 

二 言葉のもとでの自由(その8−3)
 神の言葉は、人間自身教会自身の自由事項・裁量事項・決定事項としてではなく、またその恣意性・独断性を通してではなく、あの神の言葉(啓示)自身の自己運動によるそれ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての、客観的な対象性として与えられている「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性を通して、「全体としての教会に対してだけでなく」、その教会の「特定の肢体、成員」、「この者あるいはあの者のところに来る」。言い換えれば、その「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指す教会の「特定の肢体、成員」、「この者あるいはあの者のところに来る」、またそういう仕方でキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」とその「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すなわちすべての人々が福音を現実的に所有できるためのキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指す教会の対自的で対他的な「自由」な成員の「個人としての人間」・個体的自己としての人間のところに来る。このような訳で、神の言葉は、「自然的人間」の対自的で対他的な自由な自己意識・理性・思惟あるいは感情あるいは意志の類的活動においてやって来るのではないのである。なぜならば、もしもそういう仕方でやって来るとするならば、その時、その神・その神の啓示(言葉)は、神と人間との無限の質的差異を後景へと退け排除した、ヘーゲル的な人間の神化それゆえに神の人間化における人間自身教会自身が対象化・疎外したに過ぎない「存在者レベルでの神」(偶像神)およびその偶像神の啓示(言葉)でしかなくなってしまうからである。したがって、旧新約聖書においては、「わたしは、わたしの生まれながらの(≪その自然的人間の、その人間性の、その≫)個性の中で誰であり、何であるかということ……は問われていないのである」。旧新約聖書においては、あくまでも、「神の言葉との特別な一致が出来事となって起こる(≪教会のその成員の対自的で対他的な自由な≫)個々の決断」とその人間性における、神の言葉に対する在り方・態度が問われているのである、換言すれば、神と人間との無限の質的差異の下で、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性の下で、それゆえに終末論的限界の下で、あの神の言葉(啓示)自身の自己運動による、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性におけるその第一の形態・具体的には第二の形態を通してその神の言葉を聞いているか・その神の言葉に服従しているか、すなわちその神の言葉に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指しているか、そういう仕方でキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」とその「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――換言すれば「誰も、他人の重荷を取り除くことも、また、その人が自分にするところの厄介も、取り除くことはできはしないが」(『カール・バルト著作集17 「負いなさい! ガラテヤ書六・二」』)、「この世にあって、そこなわれた、弱い、困窮するすべての人々への黙々たる奉仕」(『福音主義神学入門』)・すなわち「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならない一切事中の唯一のこと」(『福音と律法』)としての、すべての人々が福音を現実的に所有できるためのキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指しているか、どうかということが問われているのである。神の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある、主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」における、そのイエス・キリストを信じる信仰のその「決断」とその「人間性」における、神の言葉に対するその「在り方」・「態度」が問われているのである。このような、「わたしのところに来る神の言葉の特殊性に対するわたしの関係性……だけが問われている」のである・再度述べれば、「神の言葉との特別な一致が出来事となって起こる(≪教会のその成員の≫)個々の決断」とその人間性における、神の言葉に対する在り方・態度が問われているのである・したがって、「わたしは、わたしが洗礼を受けた際に受け取った」イエス・キリストの「名をもって呼びかけられているのであって、……わたしの人格的な標識」としての「名でもって呼びかけられているのではない」。したがってまた、「わたしに対しわたしの人格性の気高さあるいは惨めさが問われているのではなく」、神の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある「神の言葉から新しく生まれた」「人間としての現実存在」における、その「精神的――身体的な現実存在」における、その「母の胎内から死に至るまでの彼の生涯」における、その個性・その現存性・その自己史における、その決断とその人間性における、神の言葉に対するその在り方・態度が問われているのである。この「全体性の中でのわたしに対して神の言葉の決断が下されており、この全体性の中でのわたしは神の言葉(≪単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方である「イエス・キリストの名」、その死と復活、啓示・和解、「インマヌエル――神われらと共にいます」、<完了>・<成就>された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和≫)を通して生まれかわったのである」・「この全体性の中で、『からだと魂をもって、生きるにも死ぬにも』、わたしは『わたしの愛する救主イエス・キリストのもの』である、またキリストのからだにつける生ける肢体である」、イエス・キリストを主・頭とする教会のその成員の個々人である――これが「イエス・キリストを信じる信仰」である。すなわち、これが、神の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある、主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」における、そのイエス・キリストに対して感謝を持って信頼し固執する、そのイエス・キリストを信じる信仰である――「われわれは、われわれの主としてのイエス・キリストに(≪感謝をもって信頼し≫)固執することにより、またイエス・キリストがわれわれのかしらであるということに(≪感謝をもって信頼し≫)固執することにより、(中略)この主とかしらのもとで、またこの主とかしらとともに、……これからは(≪神の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある、主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」における≫)神の義、神の子の義、神自身の義をまとっている者として生きることを許される 」のである(『ローマ書新解』)。この時には、生まれながらの「自然的人間」の、その思惟が、その言葉が、その決断が、その人間性が、その決断とその人間性におけるその在り方・態度が、神の言葉(啓示・和解)を通して更新され、「新しく」「生まれかわったのである」。この時には、人は、教会のその成員の個々人は、その決断と人間性において、不可避的におのずから必然的に、あの神の言葉(啓示)自身の自己運動による、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性、その第一の形態・具体的には第二の形態に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すという、神の言葉(啓示・和解)に対する在り方・態度を持つようになるのである、またそういう仕方で、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」とその「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指すという、神の言葉(啓示・和解)に対する在り方・態度を持つようになるのである。このような、啓示認識・啓示信仰に生かされ・生きるのである、またその啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求、すなわち不信仰・無神性・真実の罪、「義トサレタ罪人」、「自由の身になったという吉報を受け取った」けれでもいまだ「牢獄から外に出てしまっていない」状態にあるその現にあるがままの現実的な人間存在、という人間の自己認識・自己理解・自己規定を得るのである。ここで、神の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある「神の言葉から新しく生まれた」「人間としての現実存在」は、『福音と律法』に即して言えば、次のように規定できるのである――@「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」、A「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」。このような、キリストの復活とキリストの再臨、すなわち終末、完成・救贖の間の中間時(聖霊の時代)の下で、終末論的限界の下で、その二重性を生きるその現にあるがままの現実的な人間存在の自己認識・自己理解・自己規定は、あの神の言葉(啓示)自身の自己運動により与えられる啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して得られるそれなのである。
 このような訳で、「神の言葉との特別な一致が出来事となって起こる(≪教会、その成員の≫)個々の決断」とその教会共同性および個々人の人間性における、神の言葉に対する在り方・態度は、あの神の言葉(啓示)自身の自己運動による、「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における「(≪その第一の形態である≫)神の言葉が(≪第二の形態であるその人間性と共に神性を賦与され装備された聖書的啓示証言である≫)人間の言葉として(≪第三の形態である教会の成員≫)人間のところに来る過程」のあの「目標と終わり」――すなわち、「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における第一の形態・具体的には第二の形態に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すところで、またそういう仕方でキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」とその「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――換言すればすべての人々が福音を現実的に所有することができるためのキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指すところで、「可見的(≪可視的≫)になって来る……」のである、聖書的啓示証言の反復を通した、類として、その共通性普遍性の時間累積、歴史性として、<まこと>の客観的な対象性を持つようになるのである。したがって、それは、先ず以て、世俗的に、正義漢ぶった市民主義者、メディア的著述家、党派的知識人、党派的集団、党派的共同性の法的あるいは政策的発言等の政治的発言をオウム返しのように聖句を付加して真似しながら、言葉だけでなく行為も、理論だけでなく実践も、説教だけでなく社会的政治的実践も、と声高に叫びながら、その実質的内容においては、国家論・革命論について、観念の共同性を本質とする法的政治的な国家の無化を伴う個体的自己としての全人間の社会的現実的な究極的総体的永続的な解放という革命の明確な究極像も提起せず・提起できず、それゆえにその革命の過渡的――究極的課題も明確に提起せず・提起できず、それゆえに持たず・持とうともせずに、現前する政治的近代国家や擬制民主主義でしかない議会制民主主義やその政策的言語やその法的言語を第一義化・価値化したあるいはそれらを前提し固定した論じ方や対話や議論、そのような「バカ話し」に基づく社会的政治的な実践を行って行くというようなころで、可視的・「可見的になって来る」のでは全くないのである、あの客観的な対象性を持つのではないのである。この世界が、経済の世界性と民族国家の一国性で動いていることは、7月12日に国連海洋法条約に基づく仲裁裁判所が南シナ海の島々の「中国の主権否定」の裁定を行った時、その法的拘束力が紛争当事国のフィリピンと中国にしか及ばないとしても、それに対して民族国家としての中国が歴史資料的に南シナ海の島々は中国固有の領土だと主張し反撥している構図を見ればすぐに分かることである。しかし、この場合、視点を変えて、天皇制統一国家を基盤として編纂された『古事記』や『日本書紀』と同じように、民族国家としての中国がその主張の根拠とする歴史的資料的時間以前にまで時間を遡れば、南シナ海の島々は中国の固有な領土とは言えなくなるのである。したがって、民族国家としての中国は、当然、自国の利害のために、経済的関係はうまく保持しながら、南シナ海における様々な実効支配強化へと向かって行くに違いないのである。ちょうど、民族国家としてのブッシュ・アメリカが、石油利権の支配権獲得のために、イラクに侵攻したようにである。経済的関係は保持しながらも、北方領土返還を要求する日本の動向とそれに対してそれを拒否するロシアの動向という構図は、世界が経済の世界性と民族国家の一国性で動いていることの証左である。現存する民族国家としての日本は、原日本人(原日本)の最下層の共同幻想である自然規定、風俗・習慣、心性、文化等を接木し包摂した天皇族の天皇制的な宗教、儀礼、法、制度等を、原日本人(原日本)が自らが所有してきたもの以上に自分のものであるとして共同的に錯覚・錯誤することにおいて無意識のうちに天皇制的支配に取り込まれていったそれである、というのがほんとうのところである(吉本隆明『共同幻想論』)。また、現存する民族国家としてのアメリカ合衆国も、白人進出前からすでに、すなわち二万年前からすでに、西部劇では悪者扱いされていたことが多かったのであるが、征服併合された被支配民である平和的な種族・北米インディアン(独立革命以前のイングランド系移民の植民は、インディアンや同国人の死体を食すくらいに飢餓や疫病の流行等の困難を極めたものであったが、インディアンはそうした彼らに対して平和的で親切であった)が生活していた、というのがほんとうのところである。いずれにしても、この世界には、ある社会構成・支配構成・文明的――文化的構成の自国の利害を守るために、一部国家支配上層の意思によって大規模な専門的な軍事部門を動かすことができる民族国家が、科学・技術の発達、諸兵器の拡大・高度化、戦争方法の拡大・高度化を伴いながら、この世界の動向を左右する一つとして存在しているのである。したがって、バルトは、抽象的空論的な正義漢ぶった教条主義的な平和<主義>者とは違って、次のように述べたのである――@「われわれは平和を維持するためにできる限りのことをしなければならない」。しかし、「このことは、われわれは平和主義者でなければならないということを意味しない。平和主義は一つの絶対主義だ(すべての主義のように)。われわれは神には服従するが、一つの原理や理念にはしない。したがって、われわれは最後の手段のために、(≪政治的近代国家・民族国家が存在する限りは≫)戦争の可能性はあけておかなければならない」、A「(≪キリストの再臨、終末、完成・救贖においては国家は無化されてしまうように、国家は無化されるべき対象であるが、民族国家としては、ナチス国家よりも<相対的>に良い自由および直接民主制と武装永世中立の国家≫)スイスをナチズムからまもるために私は軍隊に参加」し、「両国を区分しているライン河にかかっている橋を護衛」するために、「もしもドイツのキリスト者の友人の一人が、その橋を爆破しようとしたら、私は射殺しなければならなかったであろう」・「規準はただ方向を与えることしかできない。(中略)ある特定の瞬間になした決断はおそらく、もっとも重要なキリスト教の教義よりもっと重要であるかもしれない」(『バルトとの対話』)。
 いずれにしても、「わたしは」、あのような仕方での 「神の言葉との特別な一致が出来事となって起こる(≪教会、その成員の≫)個々の決断」とその教会共同性および個々人の人間性における、神の言葉に対する在り方・態度の可視化・客観的な対象化の出来事を惹き起こす「この啓示を感謝と祈願をもって受け取るであろう」。したがって、「(≪あの神の言葉の自己運動に基づく「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における≫)信仰(≪聖霊の注ぎによる信仰の出来事≫)を度外視しては、それであるからイエス・キリスト(≪客観的な啓示の出来事≫)を度外視しては、わたしにとってこの(≪啓示の≫)真理はその全体性の中で……隠されており、(≪それゆえに≫)……隠されたままであり続けるであろう」。このような訳で、「信仰はその都度、……わたしが神の言葉の決断との一致の中で決断する個々の決断……の事柄」なのである。言い換えれば、信仰は、実体ではなくて、神のその都度の自由な恵みの決断によって「贈り物として与えられる」、キリスト教に固有な類・歴史性としての「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯して「後ろを振り返り見る回顧と前方を望み見る展望」であり、それを媒介・反復することを通した「その都度繰り返し受け取るべき贈り物」なのである。このような仕方で、教会(その成員)が、「あらゆる時に、あらゆる場所で、神の言葉を通して基礎づけられ、保持され、支配されるということの真理」は、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて認識し信仰することができる事柄であるから、人間自身教会自身が恣意的独断的に政治的近代国家・民族国家を第一義化し価値化してあるいはそれを前提し固定して平和への政治的実践がそれである、また人間自身教会自身が恣意的独断的に対象化・疎外した偶像神の名と呼びかけによる人間自身教会自身が支配し管理する奉仕や救いや平和の企てがそれである、というように人間自身教会自身が実体化すること・実体化して「見る」ようにすること・実体化して「提示しまとめて示すことはできない」のである。このような訳で、教会(その成員)は、その神の自由な恵みの決断によって惹き起こされた出来事を通して、初めて「ただそのことを、……(≪教会、その成員≫)に対して神によって啓示された真理として信じることがゆるされるだけ」なのである。終末論的限界の下で、啓示認識・啓示信仰することができるだけなのである。したがって、その出来事が惹き起こされた時には、教会(その成員)は、その神の自由な恵みの決断による「出来事が起こること」によって、不可避的におのずから必然的に、「それが出来事となって起こることに対して感謝し、(≪絶えず繰り返し≫)それが出来事となって起こることを祈り求める……」のである。したがってまた、教会(その成員)は、そのような仕方で、絶えず繰り返し、そのことを志向し目指すのである。神と人間との無限の質的差異ということを、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性ということを、それゆえに終末論的限界ということを、堅持するのである。したがって、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるキリスト教に固有な類、その共通性普遍性の時間累積、歴史性「以外のほかのものについて語る」ことはしないのである。ここに、キリストの福音(単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、神の言葉、啓示・和解、であるイエス・キリストにおける<完了>・<成就>された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和)の<言葉>から、不可避的におのずから必然的に湧出してくるところの、その教会(その成員)の<行為・実践>があるのである。すべての人々が聖書的啓示証言に基づいた福音を現実的に所有することができるために、あのキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」を根拠とする「神の讃美」としての「隣人愛」――キリストの福音を告白し・証しし・宣べ伝えていくという<行為・実践>があるのである。したがって、もしも教会(その成員)が、政治的近代国家・民族国家、その政策的言語や法的言語を念頭に置いて人間の究極的総体的永続的な救済(解放)・平和を考えるならば、それは国家論・革命論の問題なのである。したがって、その時には、教会(その成員)は、観念の共同性を本質とする法的政治的な国家の無化を伴う個体的自己としての全人間の社会的現実的な究極的総体的永続的な解放を志向し目指すところの国家論・革命論を、その過渡的――究極的課題を明確に提起しなければならないのである。したがってまた、その時には、その教会(その成員)は、「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における教会ではなくなるのである、それゆえに革命の究極像を明確に提起する政治的集団・政治的共同性とならなければならないのである。その時には、その教会(その成員)は、究極的革命の可能性のために、徹底的に自己凝視と自己検証をしながら、人間論的に、個体的自己としての全人間の精神の高度な更新の方途が可能なのか不可能なのかを明確に提起しなければならないのである。私は、言葉や理論や説教だけでなく行為も実践も社会的政治的実践もということを目指す二元論的な信仰や神学や教会(その成員)の宣教において、それらのことを認識し自覚した信仰や神学や教会(その成員)の宣教というものを、未だかつて見たことがない。権力を実体的に考え、それゆえに観念の共同性を本質とする法的政治的な国家の無化を伴う革命の究極像やその過渡的――究極的課題や革命後の最善最良の「ヴィジョン」も認識し自覚もしないで、「キリスト証言」について「言葉と行為とをもってする」と二元論的に正義の体現<行為>へと向かった、ボンヘッファー(『説教と牧会』)のヒトラー暗殺計画の政治的実践は、バルトが『バルトとの対話』で評したように、「夢想家」の行為でしかなかったのである。ボンヘッファーは「夢想家だった」というバルトの言葉には、現実性と妥当性があるのである。同じように、昨年の日本基督教団の「平和を求める祈り」もカトリックの「抗議声明」も、主義化された・絶対化された・宗教化された・倫理化されたイデオロギーとしての「平和」として、その啓蒙においては他律的な二者択一の倫理(善悪の判断)・「賛成」か「反対」かを強いるから、「啓蒙の<恐喝>」(ミシェル・フーコー『啓蒙とは何か』)でしかなかったのである。さらに悪いことには、それらは、その実質的内容から考えた場合、非自立的で中途半端な、皮相的な、抽象的空論的な水準のものでしかなかったのである。したがって、それらに対して、誰一人として異議申し立てをしなかったということは、私には、非常に不思議な光景として映ったのである。
 このような訳で、神の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、神の子、死と復活、啓示・和解、<完了>・<成就>された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和)であるイエス・キリストによって更新された「世、歴史、社会」に対して、その更新された「事実」に対して、人が、教会(その成員)が、「眼と耳を閉ざして生きている」というところに、ほんとうの「悲惨」さがあるのである。なぜならば、聖書的啓示証言によれば、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける救済・平和は、神の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある、<完了>・<成就>されたそれであるから、人間によって初めて「完成されねばならないような」救済・平和では全くないからである。このイエス・キリストにおける救済・平和は、「神ご自身が世界史のまっただ中に創造し見えるようにして下さった現実性」、客観的現実性・客観的実在である。したがって、その「イエス・キリストにおいては神と人間が、しかしまた人間とその隣人が平和的」なのであり、「敵としてではなく、忠実な同伴者、仲間として、共にあるのである」。このイエス・キリストにおける神の側の真実においては、それゆえに客観的現実性・客観的実在においては、個と共同性は、近代的に逆立し対立していないのである、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍からするように逆立し対立していないのである。そして、「この贈り物は、ただ、われわれがこれを受け取ることを待っている」のである。このような訳で、人が、教会(その成員)が、「この事実に目と耳を閉ざして生きているということが悲惨」なのである。したがって、そうした中で、人は「平和は戦争より善いものであるということを」くりかえし「断言せねば」ならないのだが、一部国家支配上層の意思によって動かすことができる軍事部門を持つ政治的近代国家・民族国家が存続する限り、「それらのことは究極的に何の助けをももたらさない」ことは「明白」なことなのである。このような訳であるから、世界が必要としている革命的認識は、「世界はイエス・キリストにおける神の愛によってすでに解放された世界である」ことに感謝を持って信頼し固執して、「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求めようとしない」ところにあるのである(引用は、寺園喜基私訳「平和に関するバルトの書簡」による――『バルト神学の射程』およびバルト『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』)。
 旧新約「聖書の中ではただ」、「人間的な決断は、……それが人間に対して下された神の言葉の決断と一致するかどうかを問う問いの対象として興味があるだけである」のと同じように、「個々の人間の特別な人間性もただ、その個人が彼に対して与えられた神的な賜物を受け取り、そのようなものとして用いる」「態度」・「在り方」を「問う問いの対象としてだけ興味がある」ということであった。したがって、「彼に委託されたタラントの管理人として彼の態度でだけ、マタイ二五・一四以下の譬え話に出てくるあの僕のひとりびとりがどのような僕であるかが決定される」ということであった。言い換えれば、「個々の人間の特別な人間性」も、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態・具体的には第二の形態に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すという、その在り方・態度によって、またそういう仕方で、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」とその「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すべての人々が福音を現実的に所有できるためのキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指すという、その在り方・態度によって、決定されるのである。
 「しかしここでもう一度、(≪個々の人間の、あの決断・人間性における神の言葉に対するあの在り方・態度、からの逸脱としての≫)、右および左に向かっての……転倒をともなった……偽りの弁証法が姿を現わす」。すなわち、一方に、近代主義の、近代主義的思惟の「楽観主義的なわがまま勝手さ」における「偽り……が姿を現す」。すなわち、その極限に想定される、神と人間との無限の質的を後景へと退け排除した、生まれながらの自然的人間の、その対自的で対他的な自由な自己意識・理性・思惟における自由の原理による人間の神化それゆえに神の人間化を志向し目指すヘーゲル哲学への同化に他ならない非自立的で中途半端な人間学の後追い知識にしか過ぎない人間学的神学(者)・神学的人間学(者)の「偽り……が姿を現す」。例えば、その典型であるシュライエルマッハーにとって、人間学的に「教会とは、『ただ自由な人間的行為を通して発生し、またただそのような自由な人間的行為を通して存続することのできる共同体』であり、『敬虔性と関連した共同体』である」・信仰は、人間実存の歴史的存在の一つの在り方である・神学は、神と人間との無限の質的差異、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性、終末論的限界、あの全き自由の神の言葉(啓示)自身の自己運動による「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性を後景へと退け排除したところで、近代主義的に、「人間が、誰か(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性から≫)の呼びかけを受けることなしに、(中略)人間が自分を相手に自分で独り言を言」うことである・したがって、宣教は、「『教会』と呼ばれる人間的な共同体の一つの必然的な生の表現」である、すなわち「自己表現としての宣教」である(『教会教義学 神の言葉T/1』)。言い換えれば、シュライエルマッハーは、「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における第一の形態・具体的には第二の形態に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すということを、そういう仕方でキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」とその「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――すべての人々が福音を現実的に所有できるためのキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えということを、そうした仕方で為された教会の客観的な信仰告白・教義を、後景へと退け排除して、近代主義的に、近代主義的な自分自身を対象として、「彼が自分で自分を知っていると考える彼自身である個々の信者の(≪恣意的自由における主観的なあるいは独断的な、人間自身が自分で支配し管理する≫)信仰告白」、「自己表現としての宣教」を企てたのである。したがって、シュライエルマッハーにおけるその言葉と行為は、まさしくハイデッガーの「揶揄」・批判した、人間自身教会自身が対象化・疎外した「存在者レベルでの神への信仰」(偶像神信仰)であり、その偶像神の名と呼びかけによる人間自身教会自身が支配し管理する奉仕や救いや平和の企てでしかないのものとなるのである。なぜならば、その場合、次のような具合となるからである――@「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である」・「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」・「(中略)神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」(フォイエルバッハ『キリスト教の本質』)、A「神とはまさに、人間の(≪自由な自己意識・理性・思惟の類的活動≫)想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない(フォイエルバッハ『フォイエルバッハ全集第12巻 「宗教の本質にかんする講演 下」』。このことは、シュライエルマッハーに限ったことではなくて、「われわれは、シュライエルマッハー以外の他の人々のところでも、……このヘーゲルの強力な痕跡に遭遇する……」のである(『ヘーゲル』)。具体的には、それは、ブルトマンであり、その学派であり、モルトマンであり、モルトマンが評価したというファン・ルーラーであり、A・E・マクグラスであり、エーバーハルト・ユンゲルであり、そのユンゲルを評価した大木英夫であり、滝沢克己であり、さらにその下のさらにその下の方にいる威勢の良い人受けするような言葉だけを並べた発言をする箸にも棒にもかからない支離滅裂で出鱈目なメディア的著述家たち、等々である。また、他方で、「(≪個々の人間の、あの決断・人間性における神の言葉に対するあの在り方・態度、からの逸脱としての≫)、右および左に向かっての……転倒をともなった……偽りの弁証法が姿を現わす」。すなわち、他方で、神と人間との無限の質的差異、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性、終末論的限界、あの神の言葉(啓示)自身の自己運動による「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性を後景へと退け排除したところで、近代主義の、近代主義的思惟の、近代主義的人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍が行きつくところ、「最悪の懐疑と無関心」という「悲観主義的なわがまま勝手さ」における「偽り……が姿を現す」。この「最悪の悲観論者は大体常に、過去において楽観主義者であったものである」。このような訳で、両者は「偽りの弁証法」において<裏表>をなしている。その典型は、「キリストの永遠のまことの神性の告白」を信用しない近代主義的プロテスタント主義的神学・信仰・教会の宣教(者)である。その日本的典型は、国家の無化を伴う個体的自己としての全人間の社会的現実的な究極的総体的永続的な解放という革命の究極像を提起もしないで、ただ抽象的空論的に、イエス・キリストは「人間存在の根底を語り続けた」「ただの人であり、ただの人として自らを自覚し、ただの人の真実の在り方を告げた」と述べた八木誠一(『イエス』)であり、神の言葉(啓示・和解)・具体的には聖書(聖書的啓示証言)だけでなく「人間の経験の尊重」も必要だということを強調した聖霊論的説教論なるものを主張したルドルフ・ボーレンに同調していた小泉健であり佐藤司郎である。小泉や佐藤が「人間の経験の尊重」を強調することにおいて、小泉・佐藤・「説教者が、(≪近代市民社会――政治的近代国家、その社会構成・支配構成・文明的――文化的構成における≫)実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言いつくしていない」と主張して、近代主義的な人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍の尊重が必要だと主張する時、その時には、バルトが『説教の本質と実際』で述べていたように、彼らは、聖書(預言者および使徒たちの聖書的啓示証言)に対する「信頼、信仰を持っておらず、真に信仰によって生き」ようとしていないのである。彼らは、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「大学社会」に生きようとしているのである(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)。その時、彼らは、聖書(預言者および使徒たちの聖書的啓示証言)を後景へと退け排除しているのである。したがって彼らは、その政治的実践においても、「大体常に」、政治的近代国家を、その擬制民主主義としての議会制民主主義を、その政策的言語や法的言語を、第一義化し価値化してあるいは前提し固定して論じ発言し議論しているから、その体制的あるいは反体制的な政策的言語や法的言語を介して、観念の共同性の尖端性に位置している政治的近代国家にすべて包摂されてしまうのである。すなわち、彼らは、その信仰・神学・教会の宣教におけるのと同じように、社会的政治的実践においても、停滞と循環を繰り返すだけになってしまうのである。このことは、昨年の、日本基督教団の「平和を求める祈り」やカトリックの「抗議声明」を読んでみても一目瞭然のことなのである。言い換えれば、彼らは、場当たり的なのである。聖書的啓示証言におけるキリストの福音は、人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍や、人間論や、人間学的な哲学原理・認識論・世界観、「われわれの思考や心情の中にあるのではなく、聖書の中にある」のである。したがって、あの神の言葉(啓示)自身の自己運動による三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して、啓示認識・啓示信仰の出来事が惹き起こされた場合には、その「決断」とその「人間性」における神の言葉に対するその「在り方」・「態度」に生きる人は、教会(その成員)の個々人は、不可避的におのずから必然的に、神と人間との無限の質的差異を後景へと退け排除した、人間の対自的で対他的な自由な自己意識・理性・思惟の類的活動による、「思想」、「最高の習慣、最良の見解、そのようなもの一切」を、預言者および使徒たちの聖書的啓示証言としての「聖書に聴従することの前で放棄」するのである。
 このような訳で、「われわれは確かに神の言葉を通してわれわれ自身のことが問われている」、あの神の言葉(啓示)自身の自己運動、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく終末論的限界の下での人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与、による可視的な客観的対象性を持つ「神の贈り物」――三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復するその「個人的な決断」・その「特別な人間性」における神の言葉に対するその「在り方」・「態度」が問われているのである。このように、これらの「特別な出来事」の事柄は、「主要なこととして、本質的に、ただ上から」・神の側から、「ただイエス・キリストから」、「実在であるがゆえに、実在であること」によって、「見て取ることができるのである」。したがって、これらの「特別な出来事」の事柄を、楽観主義的に「人間的に確かめ得る」とする者、あるいは悲観主義的に「確かめ得」ないと「絶望する者」は、「等しく、事柄そのものを見過ごしてしまう……」のである。彼らには、単一性・神性・永遠性を本質とする啓示の弁証法に対する認識と自覚が欠如しているのである。聖書的啓示証言によれば、神の啓示(神の言葉)は独一無比である。この神の言葉は、あくまでも神のその都度の自由な恵みの決断によって終末論的限界の下で授与されるものとして、それは、「その都度、全く特定の一回的な、独一無比な言葉である」。しかし、この単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方である「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」イエス・キリスト――神の言葉は、「完了」「成就された時間」・「実在の時間」・「新しい時間」・「啓示の時間」として、時代を超えて、「神の口を通して語られて、同時的である」。言い換えれば、この神の言葉は、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性において現存しているのである。したがって、この「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して、啓示認識・啓示信仰の出来事が惹き起こされた場合には、その決断とその人間性における神の言葉に対するその在り方・態度は、「われわれの生」・「われわれの生活全体」が、「神と共なる」「生」・「生活として」あることが「明らかになって来る」それとしてあるのである。
 バルトは、『ローマ書』で、「パウロはその時代の子としてその時代の人々に語った。けれどもこの事実よりはるかに重要な事柄は、いま一つの事実、すなわち彼は神の国の預言者ならびに使徒としてあらゆる時代のあらゆる人々に語っている、ということである。(中略)聖書の精神は永遠の精神なのである。かつての重大問題は今日もなお重大問題であり、今日の重大問題で単なる偶然や気まぐれでない事柄は、またかつての重大問題と直結している」、ということを述べている。今回の箇所では、同じことが、次のように述べられている――「聖書に含まれているどの聖句も潜在的に、私自身の生の具体的な信仰の出来事である」・このことが、「神の啓示について証言している神の言葉(≪預言者および使徒たちの聖書的啓示証言、聖書、聖書の個々の聖句≫)……によって問われている」・啓示認識(啓示信仰)とは、あの神の言葉(啓示)自身の自己運動による、客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、終末論的限界の下で、旧新約聖書の「証言の最も単純な構成要素を自分のもの」にされること、そのことによって「自分のものにする」ことである・「われわれ自身の生の中での信仰の出来事は、事実、イエス・キリストの誕生、苦しみと死、甦えり、昇天、アブラハム、イサク、ヤコブの信仰、イスラエルのエジプトからの脱出、荒野を通っての旅、カナン侵入、聖霊降誕日における聖霊の注ぎ、異邦人のもとへの使徒たちの派遣、以外の何ものでもありえない」・このような訳で、人は、教会(その成員)は、「イスラエルが紅海をわたった際に、しかしまた金の小牛を拝んだ際に、イエスがヨルダン川で洗礼を受け給うた際に、しかしまたペテロが主を否定し、ユダが主を裏切った際に、最高に個人的にその場に居合わせており、そのことに参与していたということ」、また聖書にある「姦通の女」においてイエスが語った「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」という、時代を超えてすべての人間の内面の普遍性に届く言葉を聞いた際に、「最高に個人的にその場に居合わせており、そのことに参与していたということ」――これらすべてのこと以上に、換言すれば「今日、ここで」、あの神の言葉(啓示)自身の自己運動によって「私自身に関して出来事として起こった」これらすべてのこと以上に、「もっと重要な」、「もっと切実な」、「もっと真剣な」、「もっと現実的な」経験をしたことがあるであろうか。言い換えれば、「今日、ここで」、あの神の言葉(啓示)自身の自己運動によって「私自身に関して出来事として起こったこと」は、人間学的知識や、人間論や、近代的な人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍以上に、「重要な」ことであり、「切実な」ことであり、「真剣な」ことであり、「現実的な」ことなのである、現実性と妥当性があることなのである。したがって、バルトは、『証人としてのキリスト者』では、最終的に離脱した宗教的社会主義に対して、「そこでの人間の困窮と人間に対する助けとが、聖書が理解しているほどには、真剣に理解されておらず、深く理解されて」いなかった、と述べて、その宗教的社会主義を根本的包括的に原理的に批判したのである。