カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「二十一節 教会における自由」「二 言葉のもとでの自由」(その8−2)

『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「二十一節 教会における自由」「二 言葉のもとでの自由」(その8−2)(469−480頁)

 

二 言葉のもとでの自由(その8−2)
 単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、神の子、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、<完了>・<成就>された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和そのもの)であるイエス・キリスト――この神の言葉(啓示)自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事、全き自由のこの神の言葉(啓示)自身の自己運動に基づいて「神の言葉」は、その人間性と共にその神性を賦与され装備された聖書(預言者および使徒たち、聖書的啓示証言)を通して、終末論的限界の下で、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰を授与する、換言すれば「神の言葉を信じる者に、また神の言葉についての証人となるように、人間を目覚めさせる」。この「神の言葉が人間の言葉として人間のところに来るという……形式」は、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性のことなのである。したがって、その第三の形態である教会(その成員、アウグスティヌス、ルター、カルヴァン、バルト等誰であれ)は、その第一の形態である単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストに、具体的にはその第二の形態である聖書(イエス・キリストに直接的に唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たち、直接的な最初の第一の聖書的啓示証言・啓示の「概念の実在」)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指さなければならないのである、そういう仕方でキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、その「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(神の命令・要求・要請、福音を内容とする福音の形式としての律法、換言すればキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え――「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」)を志向し目指さなければならないのである。したがってまた、その関係と構造・秩序性におけるキリスト教に固有な類・歴史性としての「神の言葉の三形態」の現存は、「神の永遠の言葉がわれわれ人間のために肉となったという出来事についての引続きなされている証言なのである」、キリスト教に固有な類、共通性普遍性の時間累積、歴史性なのである。言い換えれば、「神の永遠の言葉が肉となったがゆえに、……預言者と使徒たちが存在するのであり、聖書が存在するのであり、神の言葉はこの(≪直接的に唯一回的特別に、その人間性と共に神性を賦与され装備された聖書、預言者および使徒たちの聖書的啓示証言としての≫)人間の言葉の形態の中でわれわれのところに来るのである」・「……イエス・キリストにあって人間的な性質と一つになったことの中で始まり、その最初の証人たちが召されたことの中で継続された神の言葉の謙譲、自己放棄、卑下」は、「(≪第一の形態である≫)神の言葉が(≪第二の形態である≫)最初の証人の言葉を通して、(≪第三の形態である≫)われわれを信仰者および証人へと呼び覚ますために、……われわれのところにも来るということの中で完成する」・「人はこの、神の言葉が(≪あの自己運動において≫)われわれのところに来ることを、(≪人は、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とするキリストにあっての神の不把握性の下にあるから、それゆえに「自分からは神の言葉を知らないし、知ることができない」から、そのことを、神の≫)要求として、われわれに出会う命令として、われわれに課せられた律法として、理解することができる」。言い換えれば、神の言葉は、その現にあるがままの現実的な人間存在における人間的な教会(その成員)に対して、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを反復することを通して、すべての人間が現実的にキリストの福音を所有することができるために、福音の言葉の繰り返しからおのずから必然的に湧出してくる行為あるいは実践としてのキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えという福音を内容とする福音の形式としての律法を、すなわち神の命令・要求を指し示しているのである。したがって、その神の言葉によって・具体的には聖書的啓示証言によって限界づけられた「神の言葉の中に……根拠を持」つ「教会の中での人間的な自由」は、この神の律法、神の命令・要求に聞き従うところに、「服従」するところに存在するのである。なぜならば、神の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、神の子、啓示・和解、個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和)であるイエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」・「キリスト教使信の中心」は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの現実的な人間存在における個体的自己としての全人間・全世界・全人類に対して、不信や非知や非キリスト者(教)に対して、完全に開かれているからである(『カール・バルト教会教義学 和解論T/1「和解論の対象と問題」』)。このような訳で、例えばバルトのエキュメニカルな運動論の立場と根拠は、徹頭徹尾、神の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおいて<完了>・<成就>された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和にのみあるのであって、換言すればそのイエス・キリストにおいて根本的包括的に原理的に、信と不信、キリスト教(者)と非キリスト教(者)、知と非知という枠組みは取り除かれ、両者は止揚され克服され、両者は架橋されている、というその言葉性や思想性にあるのであって、それゆえに「対立する双方に真理があるというような俗説」(吉本隆明『思想の基準をめぐって』)あるいは多元主義(党派主義、党派的多元主義)には決してないのであって、ましてや二元論的に<神学>の「優位性」や<教会>の「一致」を恣意的独断的に強調しそれゆえに結局は党派性を立場としている佐藤司郎の言うような狭く限定された「世界教会を目指す、世界の教会の一致を目指す思想」にあるのでは全くないのである。したがって、佐藤の抽象的空論的な言葉をそのまま鵜呑みにしたり模倣したりしない方がいいのでる。このような訳で、ほんとうは、教会(その成員)は、バルト<自身>が『福音と律法』で述べたところの、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」である、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性の第一の形態・具体的には第二の形態に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すという、またそういう仕方でキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、その「神への愛」を根拠とした「神の讃美」として「隣人愛」を志向し目指すという、すなわち福音を内容とする福音の形式としての律法――キリストの福音の告白・証し・宣べ伝え(キリストの福音の言葉の繰り返しから不可避的におのずから必然的に湧出してくる行為・実践)を志向し目指すという、この事柄に固執しなければならないのである。言い換えれば、バルトの場合は、言葉だけでなく行為も、キリストの福音についての説教(言葉)だけでなく社会的政治的実践も、という二元論的発想からでは全くなくて、『バルトの生涯』にもあるように、あくまでも前述した事柄や在り方に信頼し固執するところで、<不可避的>に社会的政治的な危機的状況に立たされた時には、すなわちそういう「……状況下において」は、「その状況に抗するそれとして」「おのずから実践に、決断に、行動になって行った」のである。したがって、バルトの場合は、政治的近代国家・民族国家を第一義化・価値化してそれを前提し固定して、その同じ土俵の法的言語や政策的言語を介してそうした実践に向かったのでは全くなかった――@「(中略)キリスト者は、政治生活において神の正義が人間によって誤認され・蹂躙される場合にも、神の正義は、……天地の一切の力が与えられているイエスの苦しみのゆえに、優越しているということを確信している。悪しき矮小なピラトが、結局は無駄骨折をするというように、配慮がなされているのである。その場合、キリスト者が、どうして、ピラト(≪ローマ帝国のユダヤ属州総督、法的政治的な国家権力≫)のともがらと成ることができようか」 (『教義学要綱』)。「イエス・キリストの名」にのみ信頼し固執したバルトは、その完了された救済・平和の場所において、法的政治的な国家権力を、不可避な過渡的課題として捉えると同時に、究極的課題としては無化される対象として捉えているのである。すなわち、バルトは、キリストの再臨、終末、救贖・完成においては、それは、無化されてしまうという観点を持っているのである、A「私は、福音宣教から独立し、それと接触しない、『自己決定の権利』を国家に与えている、いまわしいルター派の教説をこれまで決して承認しようとはしなかった。(中略)私の神学的思惟は、神の主権と、キリスト教の使信全体の終末論的性格と、キリスト教会の唯一の課題としての純粋な福音の宣教の強調に中心があり、またそれにこれまで中心をおいてきた」(『『バルト自伝』』)、B「人間の公私の生活においては、絶えず新たな支配が行われるような仕組みになっている」・「国家は支配であり、文化は支配」である・したがって、「どのような国家形態にも、どのような文化傾向にも、無条件に『然り』とは言わぬ」(『啓示・教会・神学』)。これら@・A・Bからだけでも、すぐに、バルト<自身>と、国家を第一義化・価値化してそれを前提し固定して論じ議論する国家主義者の佐藤優や冨岡幸一郎とは雲泥の差があることが理解できるであろう。
 再度述べれば、「神の永遠の言葉が肉となったがゆえに、……預言者と使徒たちが存在するのであり、神の言葉はこの人間の言葉の形態(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態、その人間性と共に神性を賦与され装備された聖書、直接的な最初の第一の聖書的啓示証言・啓示の「概念の実在」≫)の中でわれわれのところに来るのである」・その第二の形態である「聖書的預言者と使徒たちは、ただ単に自分のために生きたのではなく、……(≪第三の形態である≫)われわれに向かって語りかけたのである」・したがって、「われわれが彼らの言葉を聞き、われわれ自身の生活圏の中に彼らの言葉を取り入れるということ……が要求されるのである」・したがってまた、聖書によって教会(その成員)は宣教を義務づけられているのであるから、それゆえに教会(その成員)は、福音を内容とする福音の形式としての律法――すなわち、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指すべきなのである。あの神の言葉(啓示)自身の自己運動に基づく、この「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における類、共通性普遍性、その時間累積、その歴史性の現存は、「われわれの身に及ぶ奇蹟として理解しなければならない」のである。言い換えれば、「客観的および主観的に(≪イエス・キリストにおける客観的な啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて≫)比類なき革新(≪終末論的限界の下での人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与、思惟の転換≫)が遂行される」のであるから、「奇蹟として理解しなければならない」のである。このような訳で、あの神の言葉(啓示)自身の自己運動に基づいた「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態である教会(その成員)の「言葉」(第一の形態・具体的には第二の形態に信頼し固執し連帯してそれを反復することを通した客観的な信仰告白・教義)は、「ただ単に(≪第一の形態の≫)神の言葉であるだけでなく、またただ単に(≪第二の形態の≫)預言者および使徒たちの言葉であるだけでなく、(≪第三の形態である≫)われわれに与えられ、われわれによって取り上げられ、受け取られ、われわれ自身の言葉となる」のである。また、第三の形態である教会(その成員)は、すべての人たちがキリストの福音を現実的に所有できるために、「われわれに向かって語られた言葉」を、第一の形態に・具体的には第二の形態に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して、「われわれ自身(≪教会自身、その成員自身≫)と(≪世・≫)ほかの者たちに向かってわれわれが語るのである」。「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性において、すなわち常に受け身において、「もしも(≪第三の形態である≫)われわれが、受け身でありつづけながら、……(≪第一の形態・具体的には第二の形態を通して≫)われわれに向かって語られたことを、……われわれが自分でも自分に向かって(≪その「語られたこと」を、限界づけられた下で、その不可避性において、おのずから・必然的に、自発的に≫)語らないとしたら、どうしてわれわれは信じるであろうか。……またほかの者に向かって(≪その「語られたこと」を、限界づけられた下で、その不可避性において、おのずから・必然的に、自発的に≫)語らないとしたら、どうしてわれわれは証人であるであろうか」。イエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを認識し承認し確認するのである、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し承認し確認するのである、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪「裁き」≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを認識し承認し確認するのである。しかし、このことについて、人間の側からは「人間的に言って」、「疑うことができる」し、また「絶望することもできる」。したがって、神の側の真実としてのみあるこのことについて、終末論的信仰の下で、「われわれは常にただ感謝することができるだけであり、……ただ願い求めることができるだけであるところの実在であるということを念頭に置いていなければならない」のである。いずれにしても、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指す教会(その成員)の言葉は、すなわちその信仰・神学・宣教の言葉は、自然時空に死語化しないで、現在から未来に生きる言葉となるのである、個性や時代性、すなわち個体的自己の現存性や地域性、社会構成・支配構成・文明的――文化的構成の時代水準性、時代状況性、<特殊性>や<断続性>だけでなく、キリスト教に固有な類や歴史性、すなわち<普遍性共通性>や<連続性>を持つのである。
 このような訳で、神の言葉は、教会(その成員)に対して、人間自身教会自身の自由事項・裁量事項・決定事項として、言葉だけでなく行為も、理論だけでなく実践も、キリストの福音についての説教(言葉)だけでなく社会的政治的実践も、宣教Aだけでなく宣教Bも、という二元論的発想に基づく形而上学的一面的皮相的固定的抽象的空論的な人間自身教会自身が支配し管理する奉仕や救いや平和の企てを命じ要求しているのでは全くないのである。そうしたことを強調する二元論者たちの問題は、国家論・革命論の問題について、その過渡的――究極的な課題について認識も構想も全く持っていない点にあると同時に、それゆえに現存する政治的近代国家を第一義化・価値化してそれを前提し固定して社会的政治的実践もということを、いかにも意味あり気に吹聴する、その抽象的空論的な大言壮語にあるのである。その典型が、昨年の日本基督教団の「平和への祈り」であり・カトリックの「抗議声明」であった。肯定的なバルト論者、神学者、牧師、キリスト教的著述家も、否定的なバルト論者も、神学者、牧師、キリスト教的著述家も、このことについて全く認識し理解していないのである。彼らは、バルトを根本的包括的に原理的に認識し理解することをしないで、バルトの微小な一部分を拡大鏡にかけて全体化し、主義化し、絶対化し、宗教化し、倫理化して、あるいは部分的に肯定して、またあるいは部分的に否定して、またあるいは全面的に否定して、一面的皮相的に抽象的空論的に知ったかぶりをしているだけなのである。このような現状の中で、バルトの次の言葉は真実である――「ドストエフスキーの書いたあの大審問官は、神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていたのであるが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の善意(≪ただの人間に過ぎない彼自身が恣意的独断的に対象化した、彼自身が支配し管理する、奉仕や救いの企て≫)によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、最も洗練された支配行為に過ぎなかったのである。神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえどのように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう。またそのようなところには、教会は存在しないのである。そのような救いの計画と救いの方法の独断性が、神に余りに僅かしか信頼せず、人間に余りに多く信頼するという点に現われるということは、疑いない」(『啓示・教会・神学』)。
 「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態である教会(その成員)において、あの神の言葉(啓示)自身の自己運動に基づいて、第一の形態・具体的には第二の形態に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すという出来事が惹き起こされた場合、またそういう仕方でキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、その「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――福音を内容とする福音の形式としての律法、すなわちキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えが惹き起こされた場合、その限界づけられた「受け身」の下での「自発性」・「活動」としての「神の言葉への奉仕」は、あの神の言葉(啓示)自身の自己運動に基づいて授与された啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して与えれらた教会(その成員)の自己規定、すなわち第三の形態の「われわれの自己規定」なのである。したがって、その恵みの下での人間存在・その人間性は、その現にあるがままの現実的な人間存在・人間性、すなわち「自然的存在……からわれわれ自身を区別するわれわれの人間性……の本質である」、換言すれば、それは、本来的な人間存在・人間性、「人間の本来的な実存」である。言い換えれば、「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは」、人は、非本来的な人間存在・人間性、「一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ない」ところの「自然的人間存在」を生きるのである。「しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは」、人は本来的な人間存在・人間性を、すなわち「……確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみない」ところの「人間の本来的な実存」を生きることがゆるされるのであり・それゆえにできるのである。したがって、そのことは、その現にあるがままの現実的な人間存在、すなわちその「自然的存在」の自己意識・理性・思惟や意志性によって惹き起こされる出来事では決してないのである。なぜならば、もしもそのことが、教会(その成員)の「自然的存在」によるとしたならば、そこにおける神は、人間自身教会自身が対象化した・疎外した、それゆえに人間自身教会自身が支配し管理する「存在者レベルでの神」(偶像神)にしか過ぎなくなるからである。したがって、そのことは、神のその都度の自由な恵みの決断による、あの神の言葉(啓示)の自己運動に基づいて惹き起こされる「要求、贈り物、奇蹟としてだけ理解することができる」出来事なのである。「もしもわれわれが、それとしてのわれわれの人間的な性質そのものに対して、この奉仕(≪神の言葉に対する奉仕≫)への能力があるとみなすことができるとするならば、どうしてわれわれは恵みに対して奉仕していることになるであろうか」。神の言葉が、「ただみ子と聖霊の奇蹟の業を通してだけ」、換言すれば客観的な啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて「われわれのところに来る時、そのことは、神的な要求であり、神的な贈り物……であるということ……を知るならば、その時われわれにとっての悲観主義的なわがまま勝手さは、まさに楽観主義的なわがまま勝手さと同様、不可能なものとなる」のである。言い換えれば、神の言葉が、「ただみ子と聖霊の奇蹟の業を通してだけ」、換言すれば客観的な啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてのみ「われわれのところに来る時」には、すなわちそのような仕方で啓示認識・啓示信仰が授与された時には、「われわれは、この奉仕(≪神の言葉に対する奉仕≫)をしたがらないその気乗りの無さ全体の中でのわれわれの人間性」を、それにもかかわらず、その限界づけられた「受け身」の下で、その不可避性において、おのずから・必然的に、「自発的」に「恵への奉仕に対して用いず、保留しておくことはできないであろう」。このことは、神の言葉が、「ただみ子と聖霊の奇蹟の業を通してだけ」、換言すれば客観的な啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてのみ「われわれのところに来る時」には、すなわちそのような仕方で啓示認識・啓示信仰が授与される時には、その啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して与えられる「われわれの自己規定、われわれの自発性、われわれの活動」である、換言すればそのような仕方で「神の言葉がわれわれをその奉仕に取り上げると同時にわれわれの上に落ちてくる光に照らされた場合にこそ」与えられる「われわれの自己規定、われわれの自発性、われわれの活動」である。言い換えれば、教会(その成員)のその現にあるがままの人間的な現実存在のその「自然的存在」・その「人間性」は、「罪深い被造物としてのわれわれ、神の言葉の奉仕に対し能力ないものとしてのわれわれ、自分自身からは実際信仰者でも証人でもなく、また信仰者や証人とはなり得ないところのわれわれ」・「単に役立たないものとしてばかりでなく、言い逃れの余地のない仕方で逆らう者としての自分」・そのように「自白しなければならない」自分、としてのその「自然的存在」・その「人間性」であるが、しかしそれと同時に、神のその都度の自由な恵みの決断によって、神の言葉が、「われわれをその奉仕に取り上げると同時」に、その「光に照ら」す時には、その限界づけられた「受け身」の下で、その不可避性において、おのずから・必然的に、自発的に神の言葉・「恵への奉仕」へと向かわしめられるのである。その時には、その現にあるがままの人間的な現実存在の「われわれの人間性」を、その限界づけられた「受け身」の下で、その不可避性において、おのずから・必然的に、「自発的」に「恵への奉仕に対して用いず、保留しておくことはできないであろう」。したがって、その時には、「われわれは、……われわれの決断、われわれの然り」において、その限界づけられた「受け身」の下で、その不可避性において、おのずから・必然的に、自発的に神の言葉・「恵への奉仕」を引き受けるであろう。この時、この「われわれの決断に対して、服従の性格、明らかな、清潔な、誠実な、全体的な、まさに絶対的な服従の性格、を与えあるいは帰して行くことができるかどうかということは問われていない」。なぜならば、そのことは、神の言葉(啓示)自身の自己運動に属する事柄だからである。すなわち、「われわれの決断の真理性と善良さはただ、そのような決断が、(それをわれわれが信じ証しすることがゆるされる、われわれのために力をもって割って入られる)イエス・キリストの介入と、(それを通してわれわれが信仰者および証人となる)聖霊の賜物のゆえに出来事となって起こるということから成り立っているし、ただそのようなことから成り立つことができる」だけなのである。言い換えれば、そのことは、あくまでも神のその都度の自由な恵みの決断による、神の言葉(啓示)自身の自己運動に基づく客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて「起こるいうことから成り立っているし、ただそのようなことから成り立つことができる」だけなのである。したがって、そのことは、人間自身教会自身の自由事項・裁量事項・決定事項として、人間自身教会自身が実体化することは決してできないことなのである。すなわち、その「決断の真理性と善良さ」が「キリスト教の正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるのか、それと怠惰な思弁でしかないかということ」は、徹頭徹尾、「神ご自身の決定事項」なのである。神の言葉を通して問われている「われわれ自身を問う問い、あるいは決断を問う問いは、われわれの善良さあるいは邪悪さを問う問いではない。むしろわれわれ自身の決断が、(われわれに向かって語られた言葉の中で、われわれに関して下された)決断と一致するかどうかの問いである」・「ただこの意味でだけ、われわれはわれわれの自己規定が、われわれの自発性が、われわれの活動が、問われているのである」。言い換えれば、教会(その成員)は、常に、絶えず繰り返し、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される終末論的限界の下での人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰、その啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して与えられる人間の自己認識・自己理解・自己規定、この神の言葉(啓示)自身の自己運動に基づく、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉(啓示)の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における第一の形態に・具体的には第二の形態に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指しているかということが、またそのような仕方でキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、その「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――すなわち、福音を内容とする福音の形式としての律法、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、神の命令・要求・要請、すべての人々が福音を現実的に所有できるためのキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指しているかということが、「問われているのである」。人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍を尊重することが問われているのではない。中世的思考に退行したところで神学の優位性を保ちつつ人間学に正当な位置を与えるというような抽象的空論が問われているのではない。人間学的な哲学原理・認識論・世界界を媒介することが問われているのではない。国家論・革命論から言っても全くの「バカ話し」としかならない、その過渡的――究極的課題も持たないで、戦争の元凶である一部国家支配上層の意思によって動かすことができる国軍組織を持った政治的近代国家・民族国家を第一義化・価値化して、それを前提し固定して、そしてその同じ土俵の政策的言語や法的言語を介して、世界の平和を論じまた議論する「バカ話し」が問われているのではない。このような認識と理解と自覚は、高校や大学における学業的知識やメディアから流される情報からは決して得られないのであって、信仰・神学・教会の宣教の領域においてはカール・バルト<自身>、人間学の領域においてはカール・マルクス<自身>や吉本隆明<自身>やミシェル・フーコー<自身>、等々のようなほんとうの<思想家>の<思想>を介してしか得られないものなのである。
 前述した啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して与えられる自己規定における「決断する人間」は、「他との関係なしにそれ自身で存在している」近代的な「個体」ではないところの、イエス・キリストを主・頭とする教会の成員(「キリストのからだにつける肢体」)としての、それゆえに「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における第三の形態である教会の成員としての、「個人としての人間」・個体的自己としての人間のことである。旧新「聖書の中ではただ」、「一般的な人間性は、換言すれば、人間的な決断は、……それが人間に対して下された神の言葉の決断と一致するかどうかを問う問いの対象として興味があるだけである」のと同じように、「個々の人間の特別な人間性もただ、その個人が彼に対して与えられた神的な賜物を受け取り、そのようなものとして用いる」「態度」・「在り方」を「問う問いの対象としてだけ興味があるのである」。「全く彼に委託されたタラントの管理人として彼の態度でだけ、マタイ二五・一四以下の譬え話に出てくるあの僕のひとりびとりがどのような僕であるかが決定されるのであって、(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態・具体的には第二の形態に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指す、その在り方・態度を後景へと退け排除したところでの≫)各々の僕の、そのことに先行するそれぞれの人間としての在り方(≪教会の教職と信徒、知識人と非知識人、エリートと非エリート、「富める者」と「貧しい者」、「聖なる者」と「俗なる者」、「教える者」と「教えられる者」、「正常な者」と「異常な者」、「支配する者」と「支配される者」等≫)」において「決定されるのではない」。「また全くただ、それぞれ異なった、それでいて互いに関連し合っている霊の賜物を記述して行くことの中でだけ、パウロの書簡の中で(例えばローマ一二・三以下、Tコリント一二・四以下、エペソ四・七以下)、ふつう個性と呼ばれるところのことが、論じられている」。言い換えれば、常に、キリスト教に固有な類・歴史性との関連性の中での「個性の問題」が・個の現存性の問題が・自己史の問題が論じられているのである。単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストにおいては、個と共同性は、近代的に逆立し対立するのではなく、成立し平和であるから、「われわれ自身の決断」は、「わたしの決断として」、「あなたの決断として……理解されなければならない」のである。教会の成員の「個人としての人間」・個体的自己としての人間――「彼らに対して神の言葉は共通に与えられ、彼らは神の言葉をただ共通に受けとることができるだけである」のだが、このことは、「人間イエスも個人であり給い、またすべての証人たちもそれぞれ個人であるというその個人性に対応しつつ」も、「霊的な交わりの中で、換言すれば、すべてを包括する、イエス・キリストと聖霊がひとつである単一性を通して」(単一性・神性・永遠性を本質とする、イエス・キリストにおける客観的な啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰の共通性普遍性を通して、そのキリスト教に固有な類を通して)、「神の言葉、教会、洗礼がひとつである単一性を通して」(「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態の神の言葉・具体的には第二の形態の聖書的啓示証言としての神の言葉、そしてその第一の形態・具体的には第二の形態に連帯してそれを反復することを通した第三の形態の教会の信仰告白・教義、洗礼を通して、換言すればキリスト教に固有な類・共通性普遍性を通して)、キリスト教に固有な類の時間累積が「遂行される」のである。このような、対自的で対他的な、自由な、教会の成員の「個体としての人間」・個体的自己としての人間の在り方・態度に、その個性に、その個の現存に、その自己史に、「神の言葉を通して自由にされた良心」があるのである。このような訳で、もしも教会の成員の「個人としての人間」・個体的自己としての人間が、その「わたし」が、キリスト教に固有な類の時間累積、歴史性「以外のほかのものについて語るならば、わたしは神話を語っていることになるであろう」、神と人間との無限の質的差異を後景に退け排除した「存在者レベルでの神」・偶像神を「語っていることになるであろう」、それゆえに、神の言葉(啓示)自身の自己運動に基づく、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における、キリストにあっての神を語っていないことになるであろう。バルトは、この典型を、例えば『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』においては、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの神学」、すなわち「すべての大学社会の神学」に見たのである。また、例えば『教会教義学 神の言葉T/1』においては、聖書の「正しい注釈」を、「最終的に……教職の判決に、間違うことはあり得ないものとして振る舞う歴史的――批判的学問の判決に、依存させてしまう」ところの、教会の宣教に見たのである。