『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「二十一節 教会における自由」「二 言葉のもとでの自由」(その8−1)

『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「二十一節 教会における自由」「二 言葉のもとでの自由」(その8−1)(462−469頁)

 

二 言葉のもとでの自由(その8−1)
 「われわれは、ピリピ一・九以下でパウロが……(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態である≫)彼の読者たち(≪と第三の形態である教会≫)の愛」が――すなわち第二の形態に信頼し固執し連帯してそれを反復することを通したキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」を根拠とする「神の讃美」としての「隣人愛」、換言すればすべての人間が福音を現実的に所有できるための福音の告白・証し・宣べ伝えが、「(≪そういう仕方における≫)深い知識において、鋭い感覚において、いよいよ増し加わり、……何が重要であるかを判別することができ、……キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光と誉れとを顕すに至るように……と祈っているのを聞く」・「全くそれと似た仕方でパウロはコロサイ一・九以下で……祈っている」・「彼の(≪第三の形態である≫)教会を覚えて」のパウロの「祈り」の「最後的な要約」は、「すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに超えたキリストの愛を知る力(エペソ三・一八)」である。「このキリストを、(≪第二の形態である≫)わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています(コロサイ一・二八)」・「それは、この人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです(コロサイ二・二)」。この聖書的啓示証言の「結論」は、こうである――神と人間との無限の質的差異の下で、「ちょうどわれわれに対するキリストの愛が、キリストを愛するわれわれの愛と区別されているように」、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態である「キリストご自身の中に隠された知恵と知識の宝(コロサイ二・三)と区別」されて、「また(≪第二の形態である≫)使徒たち自身の認識と教えること(≪単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストにより直接的に唯一回的特別に召され任命された、その人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たち、その彼らの直接的な最初の第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、直接的な最初の第一の啓示の「概念の実在」≫)とも区別」されて、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、この神の言葉(啓示)自身の自己運動の「全き力をもって」、第二の形態である聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通してキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」――このことを通して「『賢く』なり、……自身が判断する能力があることを証明すると同時に、判断ができるようになる」――と、その「神への愛」を根拠とする「神の讃美」としての「隣人愛」――福音を内容とする福音の形式としての律法(神の命令・要求・要請)、換言すればすべての人間が福音を所有できるために福音を告白し証しし宣べ伝えて行くことを志向し目指す使徒たちの「生徒〔読者〕」と第三の形態である「教会」(その成員)を通して、第二の形態である聖書的啓示証言が「受領」され・「理解されること……が存在するということである」。この啓示認識・啓示信仰の出来事、聖書的啓示証言の「受領」と「理解」の出来事における、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態である教会(徹頭徹尾、人間的な成員たち)に対する、その人間性と共に神性を賦与され装備された第二の形態である「教会を基礎づける者としての」「使徒の執り成しの祈り」は、「一方において」、その第二の形態である「人間に対し霊的に、カリスマ的に賜物として与えれることであって、決して人間的な能力あるいは人間がつかみ取る事柄ではないことを示している」。なぜならば、第二の形態である預言者および使徒たちにその人間性と共に神性を賦与し装備させたのは、単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストだからである。「他方において」、啓示認識・啓示信仰、聖書的啓示証言の「受領」と「理解」が、第三の形態である「教会の中で人間に与えられるようになる」出来事は、第二の形態である「キリストについての証言の起源的な担い手としての使徒たちの仲介なしに起こることではなく」、第二の形態である使徒たちの第三の形態である教会に対する証言が同時に、第三の形態である教会(その成員)に対する「執り成しの祈りである」ことによって、「そのような使徒たちの仲介を通して起こるということ……を示している」。したがって、このような直接的な最初の第一の「証人たちの奉仕を通して教会の成員たちに与えられる認識と知恵というこの神の賜物こそ、われわれが……言葉の自由に対応する言葉のもとでの自由のことを語ろうとしている時、……是非とも考えなければならないことである……」。第一の形態と第三の形態の関係は、無媒介的な直接的な関係ではなくて、第二の形態を媒介・反復した媒介的関係なのである。バルトは、この媒介的関係を、「<まこと>の直接性」と規定したのである。ここに、第一の形態と第三の形態の「まことの関係性」があるのである――<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>(2016年6月13日作成)の(5)のBを参照。

 

 「神の言葉の自由の場所および領域としての教会」は、そしてその「神の言葉はまた同時に人間の言葉でもある」のだが、あの神の言葉(啓示)自身の自己運動を通して「集められたし、集められている……人間の集まりである」。言い換えれば、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における第一の形態である神の言葉が、具体的にはその人間性と共に神性を賦与され装備された第二の形態である聖書(預言者および使徒たち、聖書的啓示証言)が、換言すれば「彼らを集める神の、そして人間の言葉」が、第三の形態である教会に対して・教会の中で「直接的、絶対的、内容的な自由」を持っているとするならば、それゆえに「この言葉が、世にあって自分自身を主張し、純粋さを保ち、自分自身を貫徹させ、絶えず新たに自分自身を措定し、そのようにして教会を基礎づけ、保持し、支配する力を持っているということがまことであるとするならば」、その「力がただ単に裁きとして身に受けられるだけでなく、同時に恵みとして信じられ、服従を見出すところ、それであるから聖書の証言が受け入れられるところ」においては、その第二の形態である聖書(預言者および使徒たち、聖書的啓示証言)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復するまことの教会においては、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態に・具体的には第二の形態の「直接的、絶対的、内容的な自由」に限界づけられた人間的な「間接的・相対的・形式的な自由」が「発生するし、存在し続ける……」のである、その認識と自覚が「発生するし、存在し続ける……」のである。したがって、第三の形態である教会(その成員)は、この「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に対して「然りと言うことがゆるされるし、言わなければならない」のである。この時、神の言葉は、「人間が神から隔たっている距離全体」(神と人間との無限の質的差異)と「人間が神に(≪神の側の真実にのみ≫)依存している依存性全体の中」で、「ただ単に神の事柄であるだけでなく、また神の事柄として同時に彼ら自身の事柄となったし、彼ら自身の事柄となるのである」――<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>の(3)参照。「われわれは、前節において……教会の中に集められた人間が聖書を注釈し、適用するに際してまた互いに心を開いて聞き合おうとしており、そのために用意ができていることなしに、聖書の証言は取り上げられることはないないということを……見た」。言い換えれば、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すことで、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、その「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」を行うという点に――すなわち、すべての人間が現実的に福音を所有することができるために、福音を内容とする福音の形式としての律法、福音を告白し証しし宣べ伝えて行くという点に、聖書の証言の「注釈と適用に対して自ら責任を引き受けようとし、そのために用意ができている」ということを見た。したがって、この「神の言葉を理解するための自分自身の責任に対して用意ができており、進んでその責任を引き受けようとしているということ」が、「言葉のもとでの自由」ということである。

 

 「イエス・キリストの王国は、カルヴァンによれば」、「(彼ノ王国ガ益ナルユエンハ)……彼ニヨッテ良心ノ自由ヲ与エラレ、……彼ノ霊ノモロモロノ富ニ満タサレ、……力ヲエルコト――を意味している」。しかし、ここで「『良心』は、神が知り給うことを共に知る共知ということ」であって、「厳格に、神ご自身によってこの共知へと解放され、高められた良心のことが理解されなければならない……」。したがって、「決して一般的な、……人間的な素質と能力のことが理解されてはならない」。さらに言えば、バルトによれば、啓示認識・啓示信仰に必要な聖霊によって更新された理性が聖霊と決して同一でないように、この「神ご自身によって……共知へと……高められた良心」も人間的なそれであるという認識と自覚が必要なのである。ちょうど、客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰が、客観的な「啓示の実在」そのものではないのと同じようにである。このような訳であるから、「『良心の自由』……は、十八世紀および十九世紀の意味で、自分が適切であると考えたいと思うものを自由に考えてよいというその者に属する許可のことではなく、……神によってその啓示の中で、啓示を受け入れる者たちに分与される……神の裁きの中で正しくあること、したがってまことであり、賢明であることを考えてゆく……可能性……のことである」。したがって、それは、人間自身教会自身の自由事項・裁量事項として実体化することができないものなのである。

 

 「言葉のもとでの自由」の「基本的前提」について言えば、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態である人間的な教会の権威・「言葉のもとでの権威」は、その第一の形態に・具体的にはその人間性と共に神性を賦与され装備された第二の形態の「直接的、絶対的、内容的な権威」に限界づけられた「間接的・相対的・形式的な」権威、すなわち「言葉のもとでの権威」であって、それゆえにそれは決して「最後的な法廷」・規準・審判者ではないのである。言い換えれば、第一の形態・具体的には第二の形態が、人間的な教会の宣教における「原理」、「規準」・「法廷」・「審判者」であるから、そのように限界づけられた人間的な教会の権威・「言葉のもとでの権威」は、人間的な教会の宣教における「原理」、「規準」・「法廷」・「審判者」である「直接的、絶対的、内容的な権威」としての第一の形態に・具体的には第二の形態の下に「服する服従の中で、言葉の権威を宣べ伝え、打ち立てる奉仕の中でだけ、存在し、見て取られることができる」それなのである。「……そのようにまた言葉のもとでの自由、教会の個々の成員の良心の自由も、決してそれ自身の中で基礎づけられた、したがって無制限な自由ではない……」のである。すなわち、人間的な教会(その成員)における「間接的・相対的・形式的」な「言葉のもとでの自由、教会の個々の成員の良心の自由」は、「直接的、絶対的、内容的な自由」としての第一の形態に・具体的には第二の形態によって限界づけられたそれなのである。「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態と第三の形態の「共通の起源」は、その第一の形態である「神の言葉」(啓示)である。したがって、「神の言葉の自由こそが、教会の中での人間的な自由の起源的な基礎づけ、規定である。そのような訳で、この人間的な自由は、それ以前に人間がもともと持っている(神の言葉に相対しての)自由ではないし、また人間が自らつかみとった(神の言葉に相対しての)自由でもない」のである。すなわち、この「人間的な自由」は、「神の言葉が神ご自身の自由の中で、自ら教会を基礎づけ、保持し、支配する自由を行使する」ことによって、惹き起こされる「出来事」である。言い換えれば、それは、「直接的、絶対的、内容的な自由」としての第一の形態に・具体的にはその人間性と共に神性を賦与され装備された第二の形態によって限界づけられた「間接的・相対的・形式的」な「人間的な自由」のことなのである。この人間的な自由の「基礎づけ、規定」は、あの神の言葉(啓示)自身の自己運動による、すなわち神のその都度の全き自由の恵みの決断によって惹き起こされる、客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通した「基礎づけ、規定である」。なぜならば、聖書的啓示証言によれば、「自由」・「主権」は「神ご自身においてのみ実在であり真理である」から、それゆえに教会、教会の「個々の成員」における自由は、「以前から」自体的に持っているそれではないし、「自分自身からも持つことができない」それであるから、第一の形態である神の言葉の自由・具体的には第一の形態によってその人間性と共に神性を賦与され装備された第二の形態である聖書の自由によって「賦与される」ところの、第一の形態・具体的には第二の形態の「直接的な、絶対的な、内容的な自由」によって限界づけられた「間接的・相対的・形式的な自由」なのである。したがって、教会(その成員)は、あの神の言葉自身の全き自由の自己運動によって「造り出され、保持され、支配されるあの出来事が起こることに対して」、すなわちイエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」こと・それゆえに、人間の「世、歴史、社会」は、「その中でキリストが生まれ、死に、甦られた」、キリストの支配の下にある「世、歴史、社会」であるということ・それゆえにまた「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことに対して、「教会は常にただ感謝し、願い求めつつ、その場に居合わせるだけ」なのである。このような訳で、神の言葉の自由に「われわれ自身があずかるわれわれの参与」は、すなわち「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態に・具体的にはその人間性と共に神性を賦与され装備された第二の形態に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すことで、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、その「神への愛」を根拠とする「神の讃美」としての「隣人愛」――すなわち福音を内容とする福音の形式としての律法、換言すればすべての人間が現実的に福音を所有できるために福音を告白し証しし宣べ伝えて行くという仕方で、「われわれが神の言葉を責任もって理解しようとしており、またそのために用意ができているということは、ただわれわれの感謝と祈?の対象であるということである」。言い換えれば、まことの教会として、「教会が現にあるところのものであるということは」、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における神の「み言葉が教会のただ中にあって、それ自身の力(≪啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、この神の言葉自身の全き自由の自己運動≫)ゆえに生き続けるということ」にのみ、依存している。言い換えれば、教会は、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを反復することを通して「ただ願い求めること(≪「祈?」≫)ができるだけであり、ただ感謝することができるだけ」なのである。この「教会の維持」は、神の「言葉の自由の実在」(キリスト教に固有な類・歴史性としての、三位一体論の唯一の啓示の類比であ神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態・具体的にはその人間性と共に神性を賦与され装備された第二の形態における「直接的な、絶対的な、内容的な自由」)にのみ、依存しているのである。したがって、神の「言葉のもとでの自由」は、「常にただ、新たにそれとして受け取られるべき神のいつくしみの贈物である」。したがってまた、この事柄に対して、「われわれは……責任があるのではなく、むしろ責任あるものとされるのである」、それゆえにそのために必要な力、「言葉のもとでの自由」、教会の宣教における「原理」、「規準」・「法廷」・「審判者」としての第一の形態・具体的には第二の形態に限界づけられた「間接的・相対的・形式的な自由」を装備されるのである。このように、第三の形態である「われわれがこの人間的な存在と活動そのものの遂行の中でなす自己規定が、神的なあらかじめの規定の枠」――すなわち三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に規定されたそれであることが確かである限り、その認識と自覚に基づいた「人間的存在と活動の自主独立性、それらすべては祈りの枠を一瞬たりともすべり落ちてしまうことはできない」のである、おのずから・必然的に「祈り」を必要とするのである。ここでも、教会(その成員)においては、イエス・キリストにおける福音の宣教という「教会的な行為の……真中において」、全き自由の神の側の真実としてあるキリスト教に固有な類・歴史性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性において自己運動する神の言葉の「支配に対する感謝と、この支配が現実に続いておこなわれるようにと願う祈」りが、聖書の「注釈に先行しつつ」永続的に行われるべき「決定的な行為」なのである。

 

 このような訳で、「祈りは明らかに人間の自由な行為である」が、「J・ヴォレプが聖書ノ真ノ意味ヲ探究スル道の先端のところに不断ノ祈リを置いた時、それは決して敬虔な飾り文句ではなく、むしろ客観的な事情を確認している冷静な表現だったのである」。すなわち、「聖霊みずから、言葉に表せない切なるうめきを持って、われわれのために執り成してくださるという(ローマ八・二六)」時、「そのことは……(≪その現にあるがままの現実的な人間存在である≫)われわれが祈る……という……事情を変えるものではない」のである。その現にあるがままの現実的な人間存在としての教会の中の個々の成員は、先ず以て「不断ノ祈リ」を為すことが必要なのである。なぜならば、この「人間的態度に対して神が応じて下されるということ」は神の自由な恵みの決断によるからである、「神ご自身の決定事項」・「自由事項」だからである。いずれにしても、先ず以ての「不断ノ祈リ」、祈りの永続性が「決定的な行為」なのである。したがってまた、「言葉の研究、資料の調査等々も、人間のそのような自由な行為」によらなければならないのである。この意味で、教会(その成員)の「祈り」は、「起源」としての「直接的な、絶対的な、内容的な」「権威」・「自由」である「先ず第一義的に優位に立つ原理」としてのイエス・キリスト(「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態)と共に、その「起源」としての第一の形態から「直接的な、絶対的な、内容的な」「権威」・「自由」を賦与され装備された教会の宣教における「原理」としての「聖書」(第二の形態)、という事柄を認識し自覚したところで――ここに、神の「権威」・「自由」に服従するところの、それゆえにその神の側から賦与され装備された聖書の「権威」・「自由」に服従するところの、「人間の〔本来的な〕自由な行為」がある――、「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し連帯してそれを媒介・反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指して行く過程における「感謝と希求」なのである、そういう仕方でキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、その「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(すべての人間が福音を所有できるためのキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)を志向し目指して行く過程における「感謝と希求」なのである。「その限り、(≪「教会の成員たちに課せられた、聖書を理解すべき自分の責任の中で」、)祈りは、まさに教会の中でのすべての人間的な自由な行為の原形、そのようなものとしてすべての自由な行為の中で繰り返されなければならないところの原形、である」。この場合、終末論的限界の下での、この教会(成員)の歩みは、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリスト、啓示・和解、神の言葉(啓示)自身の自己運動における「先行する恵み……に対する(≪「感謝と希求」における≫)服従でしかないのである」。したがって、「全線にわたって……それらすべてが正しい仕方で起こっているかどうかについての判断を下すことは、われわれ(≪教会、その成員≫)の権限ではなく、ただ聖霊が、われわれが自分から……は確かによくすることができないことをよくして下さるという目的を持って、われわれのために割って入られる時にだけ、われわれの自由は、正しい自由であるということが……妥当するということ」が言えるだけなのである。したがってまた、バルトは、『教会教義学 神の言葉T/1』で、教会(その成員)の宣教が、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」なのであって、人間自身教会自身の決定事項ではない、と述べたのである。教会(その成員)の信仰・神学・宣教の在り方は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基」づいて成立している、と述べたのである。また、バルトは、前掲書で「単なる知識」と「認識」とを厳密に区別して、「単なる知識」としての形而上学的な教義学(あるいは信仰、神学、教会の宣教)は、「それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方」のものであっても、それは信仰・教会の宣教としてはまた教会の一つの機能としての「教義学としては非学問的」であると述べ、また同書と『バルトとの対話』では、次のように述べたのである――「哲学、歴史学、心理学等は、この神学的問題領域のどれにおいても、事実上、教会の自己疎外(≪この場合、疎外は、まさしくまことの教会からの逸脱としての非本来的な宗教への埋没である、人間自身教会自身が対象化した「存在者レベルでの神への信仰」・偶像神信仰への堕落である≫)の増大以外のなにものにも役立ちはしなかった」・「神についての教会の語りの堕落と荒廃以外の何ものにも役立ちはしなかった」・またその場合、「哲学は哲学であることをやめ、歴史学は歴史学であることをやめる」・キリスト教哲学は、「それが哲学であったなら、それはキリスト教的ではなかった」・また、「それがキリスト教的であったなら、それは哲学ではなかった」・「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」・すなわち、神学も理性的な知的営為ではあるが、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」のである・罪に穢れた人間には、心が開かれ「み言葉を受け入れまた聞くために」、「み言葉の主である」聖霊によって「再生」された理性を必要とするのである・「聖霊は理性を抑圧しない」・聖霊は「理性の再生をもたらす」・しかし、人間実存の直接性に依拠する「実存的釈義家」の場合は、「本文と彼自身との対話だけでなく、ある特定の人間学、つまり一つの思惟の型を前提とし」、それに信頼し固執しているから、誤謬は必然である・それに対して、聖書の中の「キリスト教原理を、覆いをとって明かにするのは」徹頭徹尾「聖霊」であるから、その「聖霊の交わりにおける人間の実存」に依拠した教会(その成員)の場合は、「あやまちは可能である」が、実存主義者の場合のように「あやまちは必然」ではないのである・もちろん、聖霊によって「再生」された理性であっても、その理性は、聖霊と同一ではない、と。そしてまた、『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』では、「すべての大学社会の神学」あるいはそれに類する信仰共同性や教会共同性においては、神と人間との無限の質的差異、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性、それゆえに終末論的限界、という事柄が後景へと退かされて除外されてしまうから、「何らかの抽象を以て始められ、何らかの空論に終わるところの神学」・信仰・宣教に過ぎないものとなる、と述べたのである。シュライエルマッハーやブルトマンはその典型であるが、わが日本に現存する神学者でその典型を挙げてみよう。それは、神学者の小泉健や佐藤司郎である。例えば佐藤は、Web上で、バルトの諸著作は「神学史のいわば一番新しい『古典』として読まれつづけ,影響をもちつづけています」、またバルトで「重要なテーマの一つ」は「エキュメニズム」にある、また「プリンストンのマコーマック教授に少し話を聞く機会があったのですが、『バルト・ルネサンス』はつづいているというのが教授の見方でした」、と述べている。佐藤は、神学者としてバルトを論じるのであれば、バルト自身の諸著作に即してバルトを根本的包括的に原理的に認識し理解し論じるべきであるにもかかわらず、こういう皮相的なことばかりを述べているのである。例えば、次のようにである――佐藤は、バルト神学においては人間の経験、換言すれば人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍の位置づけが弱いから、ルドルフ・ボーレンの聖霊論的説教論を首肯して、人間の経験を尊重すべきである、またその聖霊論的説教論に依拠して、哲学は神学の婢という中世的思考に退行し、「神学の優位性を否定することなく」「人間学的局面にもその位置を正しく与える」ことができる、と皮相的で出鱈目なことを述べているのである。なぜ、その主張が皮相的で出鱈目かと言えば、信仰・神学・教会の宣教における思想の課題は、何度も述べているように、人間自身教会自身の恣意的独断的な一方通行的な一面的な「熱狂主義」や「自律主義」、神学と人間学との混合・協働・折衷、人間学的神学・神学的人間学、の構成にはないからであり、またバルト自身も述べているように人間学的神学・神学的人間学は非自立的で中途半端な「人間学の後追い知識」に過ぎないそれとして、近代以降は「神学の優位性」を主張することは決してできないからである(人はここで、前期ハイデッガーの哲学原理に依拠したブルトマンのその方法・神学に対して、ハイデッガー自身が、それは人間自身あるいは教会自身が対象化した「存在者レベルでの神への信仰」・偶像神信仰としかならないから、「それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』」と「揶揄」した、その現実性と妥当性のある「揶揄」・批判のことを思い出すだろう)。確かに中世においては哲学は神学の婢という幻想性が成立し得たのだが、人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的活動の無限性を発見した近代以降は、非自立的で中途半端な「人間学の後追い知識」に過ぎない人間学的神学・神学的人間学においては、「神学の優位性」ということを言うことは決してできないのである。にもかかわらず、「何らかの抽象を以て始められ、何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」者の佐藤は、その閉ざされた停滞と循環を繰り返す大学社会・<神学村落共同体>の領域で、あるいはそれに類する信仰共同性や教会共同性の領域で、抽象的空論的に、それゆえに現実性と妥当性を保持し得ないところで、平然と「神学の優位性」というような馬鹿げた戯言を述べているのである。バルト自身は、このような神学者・著述家に対して、『ルドルフ・ブルトマン』で、現実性と妥当性のある次のように批判行っている――ブルトマンは「神話的世界像と神話的人間像」は時代の経過とともに、「われわれの前から消え去ってしま」うし、私たちの「眼前存在」・現前性は「近代的な世界像、人間像」にあるから、「神話形式のままでは、新約聖書の言表」、すなわち「語られた内容の表現」は理解できないから、それは「非神話化されなければならない」、と語る。それに対して、バルトは、「聖書註解者」は、「だれに対して」、「誠実と真実をささげるべきなのか?」・「責任的応答をなすべき」なのか? 「同時代の人たちの思考の前提に対してか?」・「そこから形成された理解の規準に対してか?」、否である・私たちは、十字架につけられ、復活したイエス・キリストにおける私たちの「実存という場所」において、私たちの「信仰より以前にも、信仰なしでも、……不信仰に抗して」も、私たちのために「生きて、われわれを支配」し、私たちを「愛し給う」イエス・キリストを、「認識し、持つことができることを示すということ以外の何が問題となるのだろうか?」、と。さらに、バルト<自身>は、教会(その成員)が、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すところに、またそういう仕方で、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、その「神への愛」を根拠とする「神の讃美」としての「隣人愛」――すなわち、福音を内容とする福音の形式としての律法、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、すべての人間がキリストの福音を所有できるために為す福音の告白・証し・宣べ伝え――を志向し目指すところに、エキュメニカルな運動の課題を置いていたにもかかわらず、佐藤がそのことを全く認識も理解もしないで、「すべての大学社会の神学」の常として、バルトの微小な一部分を拡大鏡にかけて全体化(主義化・絶対化・宗教化・倫理化)し抽象的空論的にバルトで重要なテーマの一つは、「エキュメニズム」――「世界教会を目指す,世界の教会の一致を目指す思想」だ、と皮相的なところで――すなわち、『ローマ書』から『教会教義学 和解論』までの一貫性の中で根本的包括的に原理的にバルトを認識し理解もしないところで、換言すれば私が前回バルト<自身>の諸著作に即して整理し作成した<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>(2016年6月13日作成)等について認識し理解もしないところで――述べている時、佐藤の現実性と妥当性のない戯言は、自然時空に死語化して行かなければならないのである。なぜならば、佐藤は、次のようなバルト<自身>にある言葉性と思想性を全く認識し理解し自覚していないと同時に、バルト<自身>にあるその言葉性と思想性を全く持っていないからである――神の側の真実としてのみある、それゆえに啓示の客観的現実性・啓示の客観的実在としてある、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、神の子、啓示・和解、個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和)であるイエス・キリストにおいては、個と共同性は、近代的に逆立し対立するのではなくて、正立し平和なのである。それだけでなく、そのイエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」・「キリスト教使信の中心」は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの現実的な人間存在における個体的自己としての全人間・全世界・全人類に対して、不信や非知や非キリスト者(教)に対して、完全に開かれているのである、ここにバルトの往還的な言葉性と思想性があるのである(『カール・バルト教会教義学 和解論T/1「和解論の対象と問題」』)。このような佐藤の論述から、佐藤の「古典」概念のいい加減さにも気づかされるのである。ほんとうは、「古典」とは、時代を超えて生き続ける水準を獲得し持ち得た言葉、思想、作品のことである、過去から現在へ・現在から未来へと生きる・生き続ける言葉、思想、作品のことである。この「古典」概念を引き寄せれば、バルト<自身>からは、バルト<自身>とは正反対の、佐藤の非自立的で中途半端な神学的人間学あるいは人間学的神学を念頭に置いた「神学の優位性を否定することなく」「人間学的局面にもその位置を正しく与える」というような出鱈目で馬鹿げた戯言などひとつも出てこないことは、明々白々のことなのである。佐藤の論述を見ている限り、佐藤は「古典」を前述したようには認識し理解していないのだと思われる。マルクス主義者とは違って決して経済決定論者ではなかったマルクス<自身>は次のように述べている――ギリシャ古典芸術の「永遠の魅力」に言及しながら、「困難は、ギリシャの芸術や叙事詩がある社会的な発展形態とむすびついていることを理解する点にあるのではない。困難は、それらのものがわれわれにたいしてなお芸術的なたのしみをあたえ、しかもある点では規範としての、到達できない規範としての意義をもっているということを理解する点にある」、と(『経済学批判序説』)。すなわち、「古典」とは、自然時空に死語化してしまわないで、時代を超えて生き続けるもののことである。人類は、経済的社会構成とそれに規定されてそこから疎外されながらもいったん疎外されるや否やそれ自体の自体性(その構造とその増殖過程)を持つようになる観念諸形態において、歴史的段階に対応したさまざまな文明と文化の形態を持つ、と述べたのである。

 

 聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通した三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性という「事柄の本質」から、神の側の真実において本質的に、教会(その成員)における神の「言葉のもとでの自由」・「教会の中での自由」は、その最初から「〔神人同権的な〕解放、恣意、わがまま勝手に向かう自分」を、「言葉に反対する自由、言葉からの自由」を、その極限に想定されるヘーゲルの自由の原理を、人間の神化・神の人間化の原理を、「展開して行く可能性を持たない」のである、神の側の真実において本質的に持てないのである。したがって、神の言葉に対する「屈服および服従」は、「同時に(≪「間接的・相対的・形式的」な、≫)自由、人間の自発性と活動、人間的な尊厳さと作業である」から、「間接的・相対的・形式的」な教会の「権威」とも「衝突することはあり得ない」のである。なぜならば、「間接的・相対的・形式的」な教会(その成員)の「権威」・「自由」は、「先ず第一に、最終的に」、「起源」としての「直接的な、絶対的な、内容的な」「権威」・「自由」である「神の言葉そのもののもとに立っていることを……通して限界づけられている」からである、その「原理」・その「法廷」・その「規準」・その「審判者」としての「神の言葉そのものの(≪支配の≫)もとに立っていることを……通して限界づけられている」からである。具体的には、その「起源」としての「神の言葉そのもの」、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示・和解、<完了>・<成就>された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和)であるイエス・キリストによって直接的に最初に第一に「直接的な、絶対的な、内容的な」「権威」・「自由」を賦与され装備された聖書(預言者および使徒たち、聖書的啓示証言)の「(≪支配の≫)もとに立っていることを……通して限界づけられている」からである。このような訳で、教会が、教会の「権威」について、それは、神と人間との無限の質的差異の下で、第一の形態・具体的には第二の形態の「直接的な、絶対的な、内容的な」「権威」によって限界づけられた「間接的・相対的・形式的」な「権威」でしかないことを認識し自覚できない場合、その教会は、そうした<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返す共同宗教として、共同宗教の最後的形態である観念の共同性を本質とする政治的近代国家の死滅と共に死滅する以外にない共同宗教としてのキリスト教、教会へと堕落し埋没して行く以外にないのである。「自由」についても、そのように限界づけられた「自由」として考えなければならないのである。なぜならば、その現にあるがままの現実的な人間存在における「教会の中での人間的な自由」は、前述したように、神の側の真実において本質的な「自分の限界としての神の言葉の中に自分の根拠を……持っている」のであるが、一方でその事柄について認識し自覚して生きることができると同時に、他方でその事柄について認識し自覚しないでその事柄から逸脱して「自分の危機」を生きることができる、という「二重」性を生きているからである。