『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「二十一節 教会における自由」「一 言葉の自由」(その2−1)

『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「二十一節 教会における自由」「一 言葉の自由」(その2−1)(397−420頁)

 

二十一節 教会における自由
「教会における自由」について、バルトは、次のような定式化を行っている――

 

(≪「直接的な、絶対的な、内容的な」「権威」と同じように、≫)直接的な、絶対的な、内容的な自由を、教会の肢である成員は自分自身について主張するのではなく、ただ神の言葉(≪聖書の中で、イエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「失われない差異性の中」で三つの「存在の仕方」・「存在の様態」(性質・行為・働き・業)において「三度別様」に父、子、聖霊なる神であって、その「存在」は「失われない」単一性・神性・永遠性を「本質」とする「一神」・「一人の同一なる神」である。したがって、「三神」・「三の対象」・「三つの神的我」ではなく、父、子、聖霊の三つの「存在の仕方」の、単一性・神性・永遠性を本質とする「一人の同一なる神」、すなわち「神論の決定的に重要な構成要素」であり・「啓示の認識原理」である「三位一体」の神――この三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第一の形態、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする、単一性・神性・永遠性を本質とする、神が、肉となったのではなくて、その神の<第二の存在の仕方>において顕現化した<客観的>な神の<言葉>が肉となったところの「具体的に肉となった神の言葉」、神の子、啓示・和解、「主辞」としての単一性・神性・永遠性を本質とする<まことの神>、であり、「賓辞」としてのナザレのイエスという人間の歴史的形態・人間的性質を持った<まことの人間>、である、「イエス・キリスト」、「イエス・キリストの名」、このイエス・キリストにおける主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」――『福音と律法』における徹頭徹尾<神の側の真実>としてのみある、個体的自己としての全人間に代わって執行され成就されたイエス・キリストご自身が信ずる<まことの信仰>、徹頭徹尾<神の側の真実>としてのみある、イエス・キリストの死と復活の出来事において<完了>された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和、インマヌエル、<客観的>な「啓示の実在」そのもの≫)としての聖書(≪三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第二の形態、「神ご自身においてのみ実在であり真理」であるその全き自由において、その全き自由の恵みの決断において、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊自身による証しの力、によって「その書物性の中で同時に霊であり、生命である」「運動」を持っている「聖書」、単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストによって唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、<直接的>な最初の第一の客観的な啓示の「概念の実在」、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリスト共に教会における宣教の原理である「直接的な、絶対的な、内容的な」「権威」と「自由」を授与され装備している聖書、すなわち「直接的な、絶対的な、内容的な」イエス・キリストのまことの<神性性>――「権威」性とイエス・キリストのまことの<人間性>――「自由」性とによって授与され根拠づけられた「権威」と「自由」を持ち装備している聖書、したがって「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における、その第一の形態である<啓示>そのものとその第三の形態である教会とを、またその第二の形態である<聖書>とその第三の形態である教会とを、同一致することは決してできないのである≫)について主張する。しかしまた聖書の中での神の自由な言葉に対する服従(≪三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第一の形態・具体的にはその第二の形態に信頼し固執し連帯してそれを反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指しキリスト教に固有な類の時間累積の責任を果たして行く服従、換言すればあくまでもそうした仕方でキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、その「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」を志向し目指して行く服従、換言すれば、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、すなわち福音を内容とする福音の形式である律法に対する服従、神の命令・要請・要求に対する服従、それゆえにイエス・キリストの死と復活の出来事、インマヌエル、イエス・キリストにおける福音の「告白」・「証し」・「宣べ伝え」を志向し目指して行く服従、マタイ26・6−13やマルコ14・3−9にあるように、教会・その成員にとって、自分が現に身近に接している「食物の飢え」等々で困窮している具体的な一人の人や一部の人を施しや奉仕によって相対的・部分的に救済しようとする課題は、教会・その成員の<信>や<知>にとって一方通行的な一面的な往相的な緊急的相対的過渡的課題に属している服従でしかないから、換言すればそうした服従は、余りに人間的な人間自身教会自身が支配し管理する一面的皮相的相対的固定的抽象的空論的な奉仕や救いや平和の企てとなってしまうから、それゆえに教会・その成員にとって先ず以て現実的な第一義的な服従というものは、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある、啓示・和解、イエス・キリストの死と復活の出来事において<完了>された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和、インマヌエル、そのイエス・キリストにおける福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指して行くところの究極的永遠的課題に属する服従にあるのである≫)こそが、主観的に次のこと――聖書の証言を受け入れたと告白するすべての個人が、その解釈と適用に対して自ら進んで責任を引き受けようとしており、引き受ける用意(≪前述したことの認識と自覚における用意、その認識と自覚の下で、「かつて語った」・前述した事柄についての「説教の繰り返しが」・「ある状況下において、その状況に抗するそれとして」・「おのずから実践に、決断に、行動になって行った」という説教の言葉についての認識と自覚における用意、それゆえに言葉だけでなく行為も・神だけでなく人間もというように二元論的にでは決してなく、イエス・キリストにおける福音の言葉自体が行動へと必然的に連れ出して行くところの説教の言葉についての認識と自覚における用意≫)ができていること――によって規定されている。教会(≪三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第三の形態、それゆえにその第一の形態・具体的にはその第二の形態に信頼し固執し連帯してそれを反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指してキリスト教に固有な類の時間累積をなしていくところのまことの教会の客観的な信仰告白・教義、<間接的>な啓示の「概念の実在」、したがって、教会・その成員は、アウグスティヌスであれ、ルターであれ、カルヴァンであれ、バルトであれ、誰であれ、単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストによって唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちと決して同一ではないのである、それゆえに本質的に決して同一化することはできないのである、預言者および使徒たちと「イエス・キリストとの出会いの直接性」における「直接的、絶対的、内容的な自由、イエスの弟子たちがキリストの後に従う随従」は、唯一回的特別なそれであるから、「繰り返され得ないもの」なのである、預言者および使徒たちと主なるイエス・キリストとの関係は、「啓示そのものが一回的であるのと同じように、一回的な関係」なのである、したがって、本質的に、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第三の形態である「教会・その成員の現実存在」と、そうしたその第二の形態である「預言者および使徒たちの現実存在」とを同一化することは決してできないのである、このような訳で、本質的に、バルトの現実存在に対して使徒概念あるいは使徒的概念を適用することは決してできないのである、したがって、私たち一般のキリスト者が、些細な誤謬ではなくて根本的包括的な原理的な誤謬に「普遍性や組織性の後光をかぶせて語」っているキリスト教的著述家・富岡幸一郎をバルト読みのバルト知らずと断定でき得るのは、それゆえにそう断定するのは、『<使徒的>人間――カール・バルト』を書いた富岡が、権威としての天皇と権力としての国家との国家形態を主張する佐藤優と全く同じように、政治的近代国家・民族国家を第一義化・価値化してその国家を前提し固定して論じている国家主義者だからであり、国家主義者として靖国神社参拝推進論を展開しているからであり、バルトの『カント』や『教会教義学 神の言葉』等々を読めばすぐに分かるように、高校の倫理レベルの通俗的な知識や理解では論じられないところの、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第二の形態である聖書――神と人間との無限の質的差異が「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」等々――に根拠づけられたバルトの自然神学論を理解もしないで根本的包括的な原理的な誤謬に「普遍性と組織性の後光をかぶせて」論じているからであり、「使徒」概念あるいは「使徒的」概念についても本質的に理解しないままにやはり根本的包括的な原理的な誤謬に「普遍性と組織性の後光をかぶせて」論じているからである≫)の中での自由(≪神と人間との無限の質的差異の下での、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性の下での、それゆえに終末論的限界の下での、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第三の形態に授与された「間接的・相対的・形式的な」自由≫)は聖書の自由(≪神と人間との無限の質的差異の下での、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性の下での、それゆえに終末論的限界の下での、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第二の形態に授与され装備された「直接的な、絶対的な、内容的な」自由≫)――それによって教会の中での自由が基礎づけられている聖書の自由――を通して間接的・相対的・形式的な自由として、限界づけられている(≪キリスト教に固有な類・歴史性である「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指しキリスト教に固有な類の時間累積を志向し目指さないところの教会は、それゆえに「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第一の形態・具体的にはその第二の形態に連帯してそれを反復することを通してキリスト教に固有な類の時間累積を志向し目指すところで初めて授与される「間接的・相対的・形式的な」「教会の自由」についての認識と自覚を欠如させた教会は、それゆえにその第一の形態・具体的にはその第二の形態を教会の宣教の原理としない教会は、それゆえに神と人間との無限の質的差異の下で、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性の下で、それゆえに終末論的限界の下で、その第一の形態・具体的にはその第二の形態を、教会の宣教の自己吟味・「批判」・「訂正」を行う上での唯一の「規準」・「審判者」・「法廷」としない教会は、ある教会・教団組織の支配上層、ある牧師たち、ある聖職者たち、ある神学者たち、あるキリスト教的著述家たち、の余りに恣意的独断的な人間的な教会として、党派的な世俗組織的な教会として、余りに人間的な人間自身教会自身が支配し管理する教会・教団として、世俗組織的な教会・教団として、宗教としての「形而上史学的な歴史の科学」・歴史<主義>を信奉する・近代以降の宗教的形態である科学<主義>を信奉する・宗教としてのエコロジーの極限に想定される天然自然<主義>を信奉する・宗教としての自由<主義>を信奉する・宗教としてのマルクス<主義>を信奉する・宗教としての理性<主義>を信奉する・国家共同性に第一義性・価値性を置く宗教としての国家<主義>、政治的近代国家、民族国家を信奉する・宗教としての議会制民主<主義>を信奉する・人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍や人間論や人間学的な哲学原理、認識論、世界観を信奉する等々、人間自身教会自身が支配し管理する奉仕と救いと平和の企てしか持たないところの教会・教団でしかなくなるのである、もしもそのような人間自身教会自身が支配し管理する世界的に質の悪い教会の宣教であるならば、私たち一般のキリスト者は、党派的な恣意的独断的な牧師・神学者・キリスト教的著述家たち等々の支配し管理する言葉を聞くよりは、徹頭徹尾、全面的に、信仰・神学・教会の宣教の領域においてはまさしくイエス・キリストにおける福音の告白・証し・宣べ伝えを聞くことができる、世界的にもっとも質の良いカール・バルト<自身>の言葉と教説に耳を傾けた方がいいに決まっているように、純粋に人間学的領域における世界的にもっとも質の良い吉本隆明<自身>やマルクス<自身>やドストエフスキー<自身>や太宰治<自身>や宮沢賢治<自身>等々の言葉や言説に耳を傾けた方がいいに決まっているのである、なぜならば、実際的に、確実に、一貫性があって世界的に質の良い彼らの方が、人間や世界の本質、現在的課題、現在を止揚する課題、その往相的な過渡的緊急的課題と還相的な究極的永続的課題、その認識方法と概念構成等々を指し示してくれるし、人間的な慰安も励ましも喜びも心の響き合いも心の豊かさも享受させてくれるからである≫)。(397頁)
 この定式化においてもまた、バルトは、神と人間との無限の質的差異、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性、それゆえに終末論的限界、という前期から後期へと貫かれている<一貫性>のあるその信仰・神学・教会の宣教における認識方法と概念構成において、存在の類比の極限に想定されるヘーゲルが発見した人間の対自的で対他的な自由な自己意識・理性・思惟の無限性の原理、区別を包括した同一性の原理、思惟と思惟されたものとの等価性の原理、無限と有限との統一としての「究極的同一性」の原理における人間の神化・神の人間化を――前期ハイデッガーの哲学的原理に依拠したブルトマン(その学派、そのエピゴーネン)を含めて、「われわれは、シュライエルマッハー以外の他の人々の所でも、……このヘーゲルの強力な痕跡に遭遇するであろう」――、また人間の自由と神の自由(聖書において「自由・「主権」は「神ご自身においてのみ実在であり真理」である)との同一化を、また人間の自己運動(人間の自由な自己意識・理性・思惟の無限性)と神の自己運動(神と人間との無限の質的差異、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性、その神の全き自由な恵みの決断による神の自己啓示、その啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力等々)との同一化を(フォイエルバッハ流に言えば、「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」・「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した」という偶像神を、ハイデッガー流に言えば、人間自身教会自身が対象化した人間自身教会自身が支配し管理する「存在者レベルでの神」という偶像神を)、根本的包括的に原理的に止揚し克服しているのである。したがって、バルトは、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第三の形態である教会(その成員)の「間接的・相対的・形式的な」「権威」と「自由」という概念規定を、先ず以て、あの啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼し固執して、神ご自身のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、その第一の形態・具体的にはその第二の形態の「直接的な、絶対的な、内容的な」「権威」と「自由」という啓示認識・啓示信仰を授与され、そしてそれから、その啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して初めて授与されるところの、その第三の形態である教会(その成員)の自己認識・自己理解・自己規定として行っているのである。「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における、その第一の形態・具体的にはその第一の形態によって授与され装備されたその第二の形態の「直接的な、絶対的な、内容的な」「権威」・「自由」、と、その第三の形態である教会(その成員)の「間接的・相対的・形式的な」「権威」と「自由」は、徹頭徹尾、本質的に、決して、同一化することはできないのである、等価ではないのである。したがって、もしも、教会(その成員)が、同一である・等価であると主張するならば、彼らは直ちに、ローマ・カトリック主義的なあるいは近代主義的プロテスタント主義的な信仰・神学・教会の宣教の陥穽に陥る以外にないのであって、その場合、総括的に言えば、神と人間との無限の質的差異、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性、それゆえに終末論的限界、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊自身の証しの力、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性等々を後景へ退け排除してしまうところの<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・教会の宣教の陥穽に陥る以外にはないのである。そうした共同宗教としてのキリスト教は、そうした観念の共同的形態・観念の共同性として、そうした観念の共同性を本質とする共同宗教の最後的形態である信教の自由が保障された政教分離の自由主義国家、近代国家、政治的近代国家、民族国家の死滅と共に死滅する以外にはないのである。
 ここで、個体的自己としての全人間、全世界、全人類ということを、少し整理しておきたい――誰であれ、人は、ある不可避的な歴史的現存性のただ中に、ある親の下で、生誕する。それゆえに、個体的自己は、その中に、ある親の下で、自分の意志とは全く関係なしに生誕する。その個体的自己は、ある親の下で不可避的な歴史的現存性のただ中に生誕し、ある社会構成・支配構成・文明的――文化的構成のただ中を生き生活し喜怒哀楽し思考し思想し意志し行為し死んで行くという仕方で自分の個性や現存性を刻んで行く。その現にあるがままの現実的な人間存在、自然の一部としての身体を座とする対自的で対他的な自由な自己意識を持った個体的自己としての人間、人間の歴史的行為としての身体と精神を介した普遍的で実践的な全自然(自己身体、他者身体、外界としての自然)との相互規定的な対象的活動を行う個体的自己としての人間、その肉体的身体的および精神的意識的な人間の類的な活動や生活を行う個体的自己としての人間、@個(他人と通じ合うことは第二義的な<個体的>自己・個人の内面世界、「他人には理解できない内面を含めた、その人の心のもち方」・その人の心・精神の振る舞い方の世界、対自的な<個体的>自己・個人が自己自身に関係する<個体的>自己・個人の世界、典型的には文学の世界)、A対(個体的自己・個人が一対の男女・性・夫婦として振舞うの世界、対自的な個体的自己が肉体的身体的および精神的意識的に一対の男女・性・夫婦として関係する<個体的>自己・個人の世界、それゆえに他者愛・隣人愛は自己愛の外化として成立する、またその対の<共同性>である<家族>の一員として振る舞う<個体的>自己・個人の世界)、B共同性(先ず以て、現実的な社会的な仕事や消費行動等の生活過程における振る舞い方としての対他的な<個体的>自己・個人が社会に関係する<社会的>自己・個人としての世界、次に、人間の思惟や現実的生活において、現実的な市民社会における諸矛盾と諸利害に満ちた社会の本質を、観念的政治的な法・制度を<第一義化>し<価値化>することによって、それゆえにそれを疎外したこちら側の<社会的>自己・個人にその<第一義性>・<価値性>を自己還帰させないままに、それゆえに現存する現実的社会的な諸矛盾と諸利害を現実的社会的に止揚するのではなくて、観念の共同性を本質とする第一義化・価値化された政治的近代国家において法制度を・法的言語や政策的言語を疎外することによって止揚する時、人は現実的社会的にと観念的政治的にとの二重の生活を強いられる、市民社会的生活、個別的私的現実的生活、「私利・私意」に基づく利己主義的な私的他者との対立や争いの生活、利害共同性との対立や争いの生活とあたかもそうした対立や争いのない法的政治的な観念の共同性によって統一された公的共同性の一員・公民・国民としての生活を強いられる、この観念の共同性を本質とする政治的近代国家での納税・選挙行動等における振る舞い方、典型的には対他的な<個体的>自己・個人が納税や選挙行動や法制度や法的言語や政策的言語等を介して観念の共同性を本質とする政治的近代国家に関係する<政治的>自己・個人としての世界、三人を基本単位とする集団構成の世界、したがって集団構成には法的政治的な事柄が付きまとう、したがってまた宗教的な教会・教団といえども事実的にその側面を色濃く持っている、事実的に権力闘争さえ行われている)――これら三つの人間の存在様式を生きる個体的自己としての人間、この個体的自己の総和としての全人間、その個体的自己の成果の世代的総和(類)としての全世界、その個々の世代を継起とするその類の時間累積としての全人類、ということである。
 現在的課題、現在を止揚する課題を認識し自覚しないところの、それゆえに現存する政治的近代国家、民族国家を第一義化・価値化してそれを前提し固定したところの、大多数の被支配としての一般大衆・一般市民・一般国民には閉じられた、国家主義、間接民主制、議会制民主主義、擬制民主主義の下において、意味あり気に騒ぎ立てている、選挙権の引き下げや諸政党の選挙公約や政治学者や経済学者や法律家や宗教家や著述家等の法的言語や政策的言語を介した体制への加担、例えば財政赤字は政府債務残高のことであってその赤字の責任は全面的に制度としての官僚・政治家・政府支配上層にあるにもかかわらず、その責任を一般大衆・一般市民・一般国民に消費税増税必要論で転嫁するその政策的言語を介した彼らの体制への加担、いまも時流や時勢に翻弄され続けている非自立的で中途半端な政治的近代国家を第一義化・価値化してそれを前提し固定して提出された昨年の日本キリスト教団の「平和の祈り」やカトリックの「抗議声明」、それらは、ただ単なる場当たり的な形而上学的一面的皮相的固定的抽象的空論的なそれでしかないものである。彼らには、人類は「文明の進展やエリート層への従属のために存在しているのではない」から、大多数の被支配としての一般大衆・一般市民・一般国民が「歴史の主人公だと思うためには、まだやること、創られるべき物語はたくさんあるのです。意識のなかの転倒、知識のなかの転倒、政治のなかの転倒をふくめて、すべてひっくり返さなければいけない反物語ばかりです」(吉本隆明『大情況論』)という認識と自覚が皆無なのである。佐藤優の強調するエリート主義や党派主義・党派的多元主義や根本的包括的な原理的な誤謬に満ちた知ったかぶりのバルト論は、その国家主義の主張と共に、「バカ話し」としかならないのである。そうしたキリスト教界の中で、その信仰・神学・教会の宣教において、ただ神の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある、イエス・キリストにおける<完了>された究極的包括的総体的永遠的な救済・平和に感謝を持って信頼し固執して、聖書において「否定的判決」を言い渡された・「失われた」・「非本来的な」・「敗北的な」<「教会自身」>と<「この世」>の、<再>転倒を志向し目指したのは、近代以降においてはただひとり――カール・バルトだけだったのである。言い換えれば、バルトだけが、神の側の真実としてのみある、それゆえに<客観的>現実性・<客観的>実在としてある、イエス・キリストの死と復活の出来事において<完了>された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和――この「一つの事柄」に感謝を持って信頼し固執し「仕え」たのである。このバルト<自身>は、次のように述べている――「(中略)確かに受肉は中心的にして重要なものではあるが……新約聖書の本来的内容であるというふうには言ってはならないのである。(中略)それはおよそすべての他の宗教世界の神話や思弁の中にも見出されるものである。(中略)人は、聖書が語っている受肉を、ただ聖書からのみ、換言すればイエス・キリストの名からのみ……理解することができる。……神人性それ自体もまた新約聖書の内容ではない。新約聖書の内容とは、ただイエス・キリストの名だけであり、そのイエス・キリストの名がたしかにまた、そしてとりわけ、彼の神人性の真理をその名に含んでいるのである。ただまったくこの名だけが、啓示の客観的現実を言いあらわしている」(『教会教義学 神の言葉』)、(逝去直近の言葉)「私が……語るべき最後の言葉は、<恩寵>といった概念ではなく、一つの名、イエス・キリストなのです。この方こそ、恩寵であり、この方こそ、この世と教会とそしてまた神学の彼岸にある、究極のものなのです。(中略)この名前以外のいかなる名前にも、救いはありません。そこにこそ、恩寵があります。そこには仕事と闘いへと向かうはげましがあり、共同体と仲間の人たちとの交わりへと向かうはげましがあります。そこには、弱く愚かであった私がその生涯において試みたすべてのことがあります。しかしそれらすべても、この名において、なのです」(『カール・バルトの生涯』)。

 

一 言葉の自由(その2−1)
 「神の言葉を通して」、具体的には聖書を通して「召され、基礎づけられた教会」は、換言すれば「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第一の形態・具体的にはその第二の形態に信頼し固執し連帯してそれを反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指す教会は、「福音と信仰の聖所を通して支配され、規定されているという意味で」、換言すれば「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第一の形態・具体的にはその第二の形態によって「支配され、規定されているとい意味で」、「聖ナルモノノ交ワリ」であり、またその「交ワリの中で起こっている聖ナルモノの伝達のゆえに、聖徒の交ワリとなり、ただ単に聞き手であるばかりでなく、また言葉の行為者でもあるということが彼らの手に委ねられ、委託されている」ところのその第三の形態におけるまことの教会である。したがって、バルトは、聖書(「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第二の形態)は、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての客観的な「啓示の実在」そのものであるイエス・キリスト(「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第一の形態)と共に、教会の宣教における原理である、と述べたのである。なぜならば、<直接的>な最初の第一の啓示の「概念の実在」である預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」としての「聖書こそ」が、教会に宣教(説教と聖礼典)を義務づけているからである。したがって、「聖書(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第二の形態≫)が教会(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第三の形態≫)を支配するのであって、教会(≪その第三の形態≫)が聖書(≪その第二の形態、イエス・キリストによって唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、直接的な最初の第一の啓示の「概念の実在」≫)を支配してはならないのである」。したがってまた、この「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すところの<教会的>な共同体・共同性は、「人間にあまりに信頼」し「神にあまりに信頼」しないことによって成立しているところの神と人間との混淆的混合的共働的協働的折衷的な<宗教的>共同体・共同性ではないし、人間自身教会自身が恣意的独断的に対象化した「存在者レベルでの神」(偶像)崇拝とその神(偶像)の名と呼びかけによる人間自身教会自身が支配し管理する奉仕や救いや平和の企てを実践するところの神と人間との混淆的混合的共働的協働的折衷的な<宗教的>共同体・共同性でもないのである。このような、人間自身教会自身が恣意的独断的に対象化した「存在者レベルでの神」(偶像)崇拝を行うところの神と人間との混淆的混合的共働的協働的折衷的な<宗教的>共同体・共同性は、そうした教会(その成員)は、その最初から、教会(その成員)の宣教の「法廷」・「審判者」・「規準」としての「聖書の性格」および「聖書の自由な力」を後景へ退け排除してしまっているのである。
 さて、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指す教会が、その秩序性において「神の権威に聞き従うということは、神の権威によって無理強いされ、人間としての自主性(「心からの」「選択と決断」)が押さえつけられ、除去されるということを意味しない」。『福音と律法』によれば、バルトにおいて「真実の罪」は、神に対する人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求、無神性・不信仰ということであった。したがって、ここで自主性とは、客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて啓示認識・啓示信仰を授与された人間の、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第一の形態・具体的にはその第二の形態に信頼し固執して行くという「服従」、「心からの」「選択と決断」を意味しているのである。なぜならば、「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・啓示認識し啓示信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなく、その啓示に対して、自らのその存在・その思惟・その実践において「心から」信頼し固執していく啓示認識・啓示信仰だからである。またその時初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができるからである。このような訳で、神の言葉は、「人間の現実存在の内部」、人間の感情・理性・意志、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍、人間論、人間学的な哲学原理・認識論・世界観、の中にはないのであって、それゆえに人間学的なただ「単なる知識」に過ぎないある理念、ある概念の実体化、「最高存在」・「最モ完全ナ存在」とは決して同一ではないのである。なぜならば、神に敵対し神に服従しないすべての人間は、個体的自己としての全人間は、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力」を一切持ってはいないからである。したがって、神の言葉は、その都度の「神ご自身の自由な恵みの決断」において、またその隠蔽性と顕現性において、「われわれのところに来」るのである。この神の秘義性・隠蔽性とは、人間のその啓示認識が、常に終末論的限界の前に立たされるということなのである。したがってまた、教会(その成員)の宣教における語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身」の決定事項なのであって、私たち人間の決定事項ではないのである。このような訳で、教会(その成員)の信仰・神学・教会の宣教は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基」づいて成立しているのである。したがって、「人間が人間自身の力によって、自然的な能力・その悟性・その感情に応じて、認識しうるもの、それは精々、最高の実在・絶対的存在のようなもの・絶対に自由な力の精髄・一切事物を超越する存在の精髄であろう。このような絶対最高の存在・このような究極最深のもの・このような『物自体』は、神とは何の関りもない」、のである (『教義学要綱』)。したがってまた、日本キリスト教団立の東京神学大学の実践神学者の小泉健が、ルドルフ・ボーレンの「神律的相互関係」の概念に依拠して、「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」、と直截的・断定的に聖霊や聖霊の言葉を実体化させて述べている時、その聖霊や聖霊の言葉は、神学者(小泉)たちや説教者たちの自由事項にされてしまっているのである。この事態は、まさしく、神と人間との無限の質的差異、の人間自身教会自身による恣意的独断的な<転倒>を意味しているのである。その時、聖霊や聖霊の言葉は、神学者たちや説教者たちの恣意的自由における自己意識と同一化されてしまっているのである。この場合、その主張は、まさに人間自身教会自身が対象化した「存在者レベルでの神」(偶像)崇拝における宗教的なそれとして、フォイエルバッハやハイデッガーがその本質に届く言葉で行った根本的包括的な原理的な宗教批判・揶揄の対象そのものでしかないものなのである。したがって、バルトは、神と人間との無限の質的差異の一貫性の下で、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性の下で、それゆえに終末論的限界の下で、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第一の形態・具体的にはその第二の形態である「聖書への絶対的信頼」に基づく「聖書講解であることの義務」を負っているという説教論を展開し、「聖霊が(あるいは別の霊であっても)言葉を吹きこむこととか、あるいは一つの構想を持っていることなどあてにしてはならない」・「説教は語ることであるが、……一語一語準備し、書き記しておいたもののこと」であると、また「説教者が、実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言いつくしていない(≪人間の感覚や知識を内容とする経験普遍・現在的情報が不足している≫)、と考えるようなことがある限り、彼」は、「聖書への絶対的信頼」、「信仰を持っておらず、真に信仰によって生き」ようとしていないのであると、またイエス・キリストにおける福音は「われわれの思考や心情の中にあるのではなく、聖書の中にある」から、私たちは、「思想」、「最高の習慣、最良の見解、そのようなものいっさい」を、聖書に「聴従」することの前で、「放棄」しなければならないのであると、またその「聖書は神の言葉となる」ところで、「聖書は神の言葉なのである」、したがって、聖書に「聴従」するために、神のその都度の自由な恵みの決断に基づく客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事において、その神の言葉の「出来事」の運動の中において、聖書によって導かれなければならないのであると、また説教者にとって、「彼らに語らなければならない彼ら自身に関する真理」は、「神がすでに為した」「わたしの前にいるこの人々のために、キリストは死に、甦られた」――神、罪深きわれらと共に、ということなのであると、述べたのである(『説教の本質と実際』)。このことを、あの神学者・説教者・著述家たちは、誰も理解できないのである。バルトは、ここでも、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーによる現実性と妥当性のあるその本質に届く言葉で行われた根本的包括的な原理的な宗教批判に対して、その根本的包括的な原理的な宗教批判を、その信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・認識方法と概念構成それ自体で止揚し克服しているのである。このことを、総括的に言えば、<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返す神学者や牧師やキリスト教的著述家等々たちは、全く理解することができないのである。
 このような訳で、「神の権威に聞き従うということ」は、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における、「逆転」・転倒不可能な「服従関係の性格と同時に、また選択と決断の性格を持っている」ということなのである。言い換えれば、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すところの「自主性」――すなわち「服従」、「心からの」「決断と選択」ということなのである。したがって、「神の権威に聞き従うということ」は、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すことを後景へ退け排除してしまうところの恣意的独断的な人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求に基づいた「服従関係の性格」、「選択と決断の性格」を意味してはいないのである。このように、「神に対する服従は……受動的であると同様にまた自発的であり、ただ単に無条件的な服従であるばかりでなく、……心からの服従であるということの中で……まことの服従」である。したがって、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性において、「自由」は、「権威」に対する「必然的な、服従の主観的規定」なのである。言い換えれば、教会(その成員)が、「神の権威に聞き従うということ」――すなわち「先ず第一義的」な「直接的な、絶対的な、内容的な」「権威」としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第一の形態に・具体的にはその第二の形態に聞き従うということは、そしてその「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すということは、「自由の領域」における「必然的な、服従の主観的規定」なのである。したがって、バルトは、「自由の領域」において、「正しい注釈」を、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての客観的な「啓示の実在」そのものであるイエス・キリストに、具体的にはその<直接的>な最初の第一の啓示の「概念の実在」である預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」としての聖書に連帯しそれを反復することを通して行うのである。それゆえにバルトは、「自由の領域」において、「正しい注釈」を、「最終的に……教会の教職の判決に、……間違うことはありえないものとして振る舞う歴史的――批判的学問の判決に、依存させてしまう」ことをしないのである。また、バルトは、「自由の領域」において、「福音が純粋ニ教エラレ、聖礼典が正シク執行サレルということ」がなされないままに、礼拝改革・社会的政治的実践・キリスト教教育とか、教会と国家および社会との関係とか、国際間の教会的な相互理解というような領域で、「何か真剣なことを企て遂行してゆくことができると考える」ことをしないのである。また、バルトは、「自由の領域」において、教会の宣教の法廷・審判者・規準を、聖書と同時に、「最上の仕方で基礎づけられ、熟慮に熟慮を重ねられた人間的な判断」あるいは「哲学、道徳、政治」に置かないのである。また、バルトは、「自由の領域」において、「特定の人種、民族、国民、国家の特性、利益に折り合」おうとはしないのである。また、バルトは、「自由の領域」において、ある「社会機構、あるいは経済機構」、あるいは支配機構の「保持」・「廃止」に貢献しようとしないのである。また、バルトは、「自由の領域」において、「どのような国家形態にも、どのような文化傾向にも、無条件に『然り』とは言わないのである。このような訳で、バルトは、形而上学的一面的皮相的相対的固定的抽象的空論的な「部分認識のままであり続ける」、また部分を「全体であるかのように、体系化」・全体化する「神学的部分認識」が、「世界観的――政治的に硬直してしまった領域の中にいるのではないかどうかよく注意しなければならない……」、と述べたのである。なぜならば、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性を後景に退けて排除してしまったそのような神学的部分認識は、「神学的真理としてのその性格と力を失ってしまうだけ」でなく、「それがキリスト教的な認識の全体……として代表され、提示された場合には、それは神の秘義の中に基礎づけられたのではな」いところの、「人間的なわがまま勝手さなの中に基礎づけられた一面性」によって、啓示の「真理の承認と勝利を妨げ、妨害する」ことになるからである。言い換えれば、そのような神学的部分認識は、神と人間との無限の質的差異、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性、それゆえに終末論的限界、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、聖書の中で働く聖霊自身の証しの力、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)、に対する認識と自覚を、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯してそれをと反復するという運動過程を、欠如させてしまっているのである。したがって、そのような神学的部分認識は、その最初から、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーがその本質に届く言葉で行った根本的包括的な原理的な宗教批判(キリスト教批判)の対象そのものでしかないのである。
 「教会の成員として、(≪制限され限界づけられた、間接的・相対的・形式的な、人間的教会的な≫)権威を承認し、尊重するということは、神を愛し返すこと、したがって……共に負うべき責任を、……進んで引き受けようとし、実際の責任を引き受ける用意ができていることを意味する」・「キリスト信者は、神の愛によって生かされ、神を愛し返す実在の人間である。まさに屈服させられる」ことによってこそ、「身を起こし、身を起こされる」ことによってこそ「屈服させられる人間である」・「教会の中では単に支配するだけであるとか強制するだけということはあり得ないがゆえに、教会の中に本当に支配することと強制することがあるのであり、まさにそれだからこそ教会の中に(≪制限され限界づけられた、間接的・相対的・形式的な、人間的教会的な≫)権威があり、その中に(≪制限され限界づけられた、間接的・相対的・形式的な、人間的教会的な≫)自由があるのである」。なぜならば、教会(その成員)自身は、「直接的な、絶対的な、内容的な」自由としての、その規準・法廷・審判者としての、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての、イエス・キリストに・具体的にはその預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である聖書に、「支配」されているからである。言い換えれば、教会(その成員)の自由は、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指しキリスト教に固有な類の時間累積の責任を果たして行くということ、すなわち「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを通してキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、その「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――すなわち「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、換言すれば福音を内容とする福音の形式である律法、神の命令・要請・要求、イエス・キリストの死と復活の出来事、インマヌエル、イエス・キリストにおける福音の「告白」・「証し」・「宣べ伝え」ということ、それゆえに、マタイ26・6−13、マルコ14・3−9にあるように、自分が現に身近に接している「食物の飢え」等々で困窮している具体的な一人の人や一部の人を施しや奉仕によって緊急的・相対的に救済しようとする課題は、<信>や<知>にとって一方通行的な一面的部分的皮相的な往相的な過渡的課題に属しているそれでしかないから、先ず以て第一義的に、究極的包括的総体的永遠的な救済・平和の課題に属しているところのイエス・キリストの死と復活の出来事、インマヌエル、イエス・キリストにおける福音の「告白」・「証し」・「宣べ伝え」ということ、にあるのである。
 このような訳で、「今日」的な「福音主義的教会と神学……の生と課題」は、「教会の存在と務めにとって(聖書と宗教改革から見て)今日満足を与えることができないところの……新プロテスタント主義」・近代主義的プロテスタント主義・神学的自由主義(総括的には、信仰・神学・教会の宣教において、神の人間化・人間の神化、神学の人間学化・人間学の神学化、を志向し目指す<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返す教会の宣教と神学)との「対決」にあるのである。このことを踏まえたうえで、バルトは、すでに前期の『ローマ書』で、「神は天にいまし、汝は地に在り」・この「時間(≪人間の時間、歴史、人間の自己認識・自己理解・自己規定≫)と永遠(≪啓示の時間、救済史、神の自己認識・自己理解・自己規定≫)との『無限の質的差別』」が「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」と述べたのである。このバルトは、前期の『ローマ書』との一貫した連続性において、『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』では、次のように述べている――@「神に対する関係(≪神と人間との無限の質的差異≫)があらゆる点で、原理的に?倒不可能な関係だということ――そのことについて、人々は、フォイエルバッハ(≪その宗教批判・キリスト教批判≫)を有効に防御するためには確信を持っていなければならない……」。このようにバルトが述べたのは、フォイエルバッハが、「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である」・「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」・「(中略)神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』」、と<自然神学>の<段階>で循環と停滞を繰り返している宗教としてのキリスト教(その信仰・神学・教会の宣教)をその本質に届く言葉で根本的包括的に原理的に批判しているから、その現実性と妥当性のあるキリスト教の本質に対する批判を、その信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成それ自体で、根本的包括的に原理的に止揚し克服するためなのである。このことも、神学者・牧師・著述家たちには全く理解できないのである。いずれにしても、このようにバルトは、神と人間との無限の質的差異の認識と自覚が、<自然神学>の<段階>で循環と停滞を繰り返すキリスト教(その信仰・神学・教会の宣教)を止揚し克服することができる信仰・神学・教会の宣教における思想的武器である、と述べているのである。言い換えれば、バルトは、それが、<自然神学>の<段階>で循環と停滞を繰り返す観念の共同性を本質とする共同宗教としてのキリスト教の最後的形態である近代国家、政治的近代国家、民族国家の死滅とともに死滅するキリスト教を止揚し克服することができる信仰・神学・教会の宣教における思想的武器である、と述べているのである、A神の人間化、人間の神化、「……神と人間を同一視する神学(中略)『人間の中なる神について』の議論(≪人間の対他的で対自的な<自由>な自己意識の類的本質を神化、価値化、第一義化、絶対化する議論≫)が根絶されない限り、フォイエルバッハを批判する理由は、われわれにはない。われわれは、かれ(ローマ・カトリック主義、近代主義的プロテスタント主義、神学的自由主義等々)と共に『その世紀の忠実な子』なのである」、B「(≪神と人間との無限の質的差異を後景へ退け排除してしまった、神の人間化、人間の神化、神と人間との混淆論・混合論・共働論・協働論・折衷論を志向し目指す、人間の自由な自己意識の無限性によって対象化された神・偶像・その啓示、その偶像の名と呼びかけによる人間自身教会自身が支配し管理する奉仕や救いや平和の企て、その偶像崇拝における信仰・神学・教会の宣教は、≫)……独立的に現われ活動する神的実体として(中略)(≪それには≫)あらゆることが可能であり、(中略)(≪またそれは、≫)人を義とする……、……愛と善き業を生み出す…、罪や死にも打ち勝ち、人を救う。(≪その人間の≫)信仰と神とは(≪混淆論・混合論・共働論・協働論・折衷論的に≫)『一団』をなし、(≪その人間の≫)信仰」は、『心の信頼(≪神化された・価値化された・第一義化された、人間の対他的で対自的な自由な自己意識の類的本質に対する信頼・信仰≫)として!』神と偽神の両方を作り、ときには(ただ『われわれ自身の内部において』だけであるが)『神性の創造者』と呼ばれるということもあり得る。さらに重要なのは、……受肉説とそれに関連した事柄である。フォイエルバッハは、このキリスト教の教説を『神は人となり、人は神となる』という定式で簡明に表現し(≪たが、それは≫)……とくにルター的なキリスト論および聖餐論を前提とする場合には、まったく不可能とか無意味とかいうことはできない(≪現実性と妥当性を持ったその本質に届く根本的包括的な原理的なキリスト教批判を構成している≫)。(≪それは≫)……、神性を天上に求めず地上に求め人間の中に――人間イエスの中に求めることを教え、またかれにとっては聖餐式のパンは高く挙げられたイエスの栄光化された<からだ>であらねばならなかった(中略)。(中略)これらすべてのことは、……天と地・神と人間を?倒する可能性を意味しており」、神と人間との無限の質的差異を、それゆえに聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性を、それゆえに終末論的限界を、後景へ退け排除してしまった「聖書<絶対>主義」のように、「終末論的限界を忘れる可能性を意味している。(中略)ルターと初期ルター派の人々が、天を襲うようなキリスト論を説いて、その後継者たちを、たえず出現する思弁的・人間学的帰結に対しての一種の危険状態・無防備状態の中に置き去りにしたことは疑いない(≪そのような信仰・神学・教会の宣教における原理・認識方法と概念構成になってしまうところの聖書理解は、総括的に言えば、ローマ書3・22およびガラテヤ2・16等の「イエス・キリストの信仰」の属格の目的格的属格理解にあるのである。近代以降において、『福音と律法』において、このことに気づいたのは、ただひとり――カール・バルトだけだったのである。もちろん、ルターの場合は、過渡期における時代的制約性の中で、この目的格的属格理解を行ったということができる。しかし、近代以降のキリスト教(その信仰・神学・教会の宣教)においては、そこを生きる教会(その成員)においては、ましてや現在を生きる教会(その成員)においては、そういう言い逃れや詭弁は全くゆるされてはいないのである。なぜならば、近代以降におけるキリスト教教会(その成員、その信仰・神学・教会の宣教)は、自由の原理を掲げて神の人間化・人間の神化の原理を発見したヘーゲルや、彼を否定したフォイエルバッハや彼を否定的に媒介したマルクス等によって、その目的格的属格理解においては、神と人間との無限の質的差異、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性、それゆえに終末論的限界、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊自身の証しの力、等々を後景へ退け排除してしまうということを十分に想定することができるし、それゆえに神と人間との混淆論・混合論・共働論・協働論・折衷論へと至ることが自明なこととしてあるというも認識し自覚することができるからである。いずれにしても、この目的格的属格理解は、政治的近代国家を頂く「私利」・「私意」を精神とする現実的な市民社会生活において対他的で対自的な自由な自己意識の無限性を持った個別的私的恣意的な人間自身の側からする人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求に根拠を与えたのである、それゆえに神の人間化・人間の神化、神と人間との混淆・混合・共働・協働・折衷に根拠を与えたのである≫)」。したがって、「神に対する関係(≪神と人間との無限の質的差異≫)があらゆる点で、原理的に?倒不可能な関係だということ――そのことについて、人々は、フォイエルバッハを有効に防御するためには確信を持っていなければならない……」のである。また、「ルターと初期ルター派の人々」の「天を襲うようなキリスト論」は、バルトの『福音と律法』によれば、ローマ3・22、ガラテヤ2・16等にある「イエス・キリストの信仰」の属格の<目的格的>属格理解(イエス・キリストを信ずる信仰)に根拠があるのである。ヘーゲルによって発見された人間の対他的で対自的な自由な自己意識の無限性に根拠づけられた、神の人間化、人間の神化、神の側の真実だけでなく人間の側の真実も、神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求も、という神と人間との混淆・折衷・混合・共働・協働にあるのである。確かに、ルターは、ヘーゲルによって発見され意識された自覚された人間の対他的で対自的な自由な自己意識の無限性に依拠した近代主義的プロテスタント主義・神学的自由主義とは違って、自らの信仰体験と時代的制約性に規定されて、そうした人間的契機の直接性を容認し温存させたのである。したがって、そのルターは、律法と福音を対立させ、まずは「罪人を怖れさせ、その罪を暴露して、痛悔し且つ回心させるためには、誡めを説教すべきである」。しかしそれだけではいけないので、その次に「他の言、すなわち恩恵の呼びかけを説教して、信仰を教えるべき」である。「かようなときにはじめて他の言、すなわち神からの約束の告知が現われて、そして語る」。「さらばキリストを信じなさい」。「あなたが信じるならこれを得られるし、信じないなら得られない」(『キリスト者の自由』)。このように、神の側の真実にのみ、換言すればローマ3・22、ガラテヤ2・16等にある「イエス・キリストの信仰」の属格を主格的属格(イエス・キリストご自身が信ずる信仰)として理解(啓示認識・啓示信仰)することをしなかったルターは、神と人間との共働を志向し目指したのだが、それゆえにそのルターの信は、信を一面的一方通行的に上昇していく往相過程は持っていても、不信へと下降した不信を包括した信としての還相過程を持たないのである、すなわち信と不信の枠組みを取り除いて信と不信を架橋する信を持たないのである。言い換えれば、神の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある、主格的属格としての「イエス・キリストの信仰(単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストご自身が信ずる信仰)に根拠づけられた不信を包括し止揚し克服した信を持たないのである。したがって、ルターの信の場合は、人間の、神との共働の下における、一面的一方通行的に信へと上昇していく<往相的>な信であったのである。したがってまた、その往相的な信は、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという神との共働を志向し目指すところの人間的な「巨大な欺瞞」を惹き起こす信でもあったのである。すなわち、それは、「神の要求」を人間的な「自分自身の要求」に、「自分で満足させ得る要求」に変えて、「神的な『汝は斯くなすであろう』を変じて」、「人間的な余りに人間的な『汝は斯くなすべし』」をつくり上げる信であったのである。まさに、道徳化倫理化世俗化へと向かう信であったのである。しかし、ほんとうは、聖書によって宣教を義務づけられている教会(その成員)にとって、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」は、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを通してキリストにあって神を尋ね求める「神への愛」と、その「神への愛」に根拠づけられた「神の讃美」としての「隣人愛」(福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すなわちイエス・キリストの死と復活の出来事、「われわれの経験と感性」にとって<いまだ>であり、神の側の真実としてのみある啓示の客観的現実性・啓示の客観的実在・「成就と執行」・「永遠的実在」として<すでに>という終末論的な、イエス・キリストにおける<完了>された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和、の告白・証し・宣べ伝え)を志向し目指す、ということなのである。したがって、バルトは、ローマ3・22、ガラテヤ2・16等にある「イエス・キリストの信仰」の属格を、主格的属格(単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストご自身が信ずる信仰)として理解(啓示認識・啓示信仰)したのである、イエス・キリストにおける神の側の真実にのみ感謝を持って信頼し固執したのである(『福音と律法』)。したがって、バルトは、次のように述べたのである――「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだということである> )』」(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、(≪神の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある≫)われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)・「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)。したがってまた、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊自身の証しの力、に基づいたそれ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性におけるその第一の形態(神の全き自由の恵みの決断による神の自己啓示、神の自己認識・自己理解・自己規定、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、神の子、神の言葉、啓示・和解、まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、<完了>された個体的自己としての全人間・全世界・全人間の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和、客観的な「啓示の実在」そのもの)の場所は、人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを、個体的自己としての全人間・全世界・全人類のその生誕から死までのすべてを、見渡せる場所であり、「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受けとることができる」場所であり、それゆえに、あらゆる党派、教派、学派、思想傾向、ある社会構成・支配構成・文明的――文化的構成、時流や時勢、社会的政治的な言説や運動から対象的になって距離をとり、それらを対象的に扱える場所であり、それゆえにまた、<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返すところのすべての信仰・神学・教会の宣教における福音が、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」・「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」・「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」ことが、すべて見渡せる場所なのである。このバルトと同じようにカンタベリーのアンセルムスは、信と不信の枠組みを取り除き、信と不信を架橋するところの、不信を包括し止揚し克服した信、という往還の言葉を持っていた――「いかなる人間もほかの者に教えることができないことを教えることができ、また繰り返し教えるであろうことを信頼していた客観的な根拠」、すなわち「信仰の対象そのものの客観的根拠」の「力強さを念頭において」、「非キリスト者をキリスト者として、不信者を信者として語りかけ」、「信者と不信者の間の深淵を超え」出て、「彼が自分を不信者たちに対して不信者たちと同類の者としておき、不信者たちを自分と同類の者として受けとる」ことができたというように(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)。この「客観的根拠」の概念は、神の側の真実としてのみある啓示の客観的現実性・客観的実在(神の言葉、イエス・キリスト)、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、単一性・神性・永遠性を本質とするキリストの霊である聖霊自身の証しの力、に信頼し固執する啓示認識・啓示信仰に基づいたそれである、と言うことができる。
 前述した事柄に根拠づけられた「神学的権威および教会的権威の実在と概念」を「再発見」・再認識・再自覚することによってのみ、人は、「神的権威および教会的権威を問う」ということを全くしないところの、「理性の絶対主義」、人間の対他的で対自的な自由な自己意識の類的本質の神化・価値化・第一義化・絶対化、人間的な「自然法」や「民族法」、国家を第一義化・価値化し前提・固定する国家主義、人間自身教会自身が支配し管理する奉仕・救済・平和の企て、「大規模な世界改良の偉大な計画」、「その時代の人間中のさまざまな敗残者に対」する「博愛的配慮……教育的配慮」、「ある種の正義」、ある種の世界観等々を律法(神の命令・要求・要請)の目標とする「神学的自由主義」を、党派としてのローマ・カトリック主義や近代主義的プロテスタント主義を、根本的包括的に原理的に止揚し克服できるのである。したがって、「われわれは、そのような世俗的な権威の宣言からは、ちょうど世俗的な自由主義の新しい宣言から何も期待していないのと同じように、何も期待しない……」。したがって、国家を第一義化・価値化しそれを前提し固定する、東西国家、東西イデオロギー・権力、ナチズム、全体主義、スターリニズム、修正資本主義、アメリカにおけるキリスト教も加担した新保守主義と結びついた小さな政府を目指す新自由主義、経済的自由至上主義、至上市場主義経済化、それゆえに政治的近代国家・民族国家を第一義化・価値化し前提・固定して論じる、その反体制的な政策的言語と法的言語を介して結局は政治的近代国家・民族国家に加担して体制化してしまう、日本キリスト教団の「平和への祈り」やカトリックの「抗議声明」・宗教界・市民団体・労組・法曹界・平和団体・メディア界等々、に対しても全く、何も評価しないし、何も期待しない、また何も評価できないし、何も期待できない。また、「ロシア(≪地域ロシア≫)における共産主義的所有の形態は、それ自身、(≪自然史の一部である人類史の自然史的過程における≫)諸発展の全系列を経過した、前古代的な型(≪すなわち人類史のアジア的段階≫)のもっとも近代的な形態である」・「もしもロシアが世界において孤立しているとしたら、ロシアは、西ヨーロッパが原始共同社会の存在以来現状にいたるまでの長い一連の発展を経過してはじめて獲得した経済的征服を、独力でつくりあげなければならないであろう。(中略)しかし、……、ロシアは、近代の歴史的環境の中に存在し、より高い文化と時を同じくしており、資本主義的生産の支配している世界の市場と結合している。そこで、この生産様式の肯定的成果をわがものにすることによって、ロシアは、その農村共同体のいまなお前古代的である形態(≪断続性と連続性における人類史のアフリカ的段階の次の段階であるアジア的段階の肯定的成果としての相互扶助意識の社会構成≫)を破壊しないで、それを発展させ変形することができる」(『資本主義的生産に先行する諸形態』)という事柄も理解できずに、相互扶助的であった終身雇用制と年功序列型賃金体系においてそれゆえに定年後の年金生活において安定していた日本の社会を無理やり破壊してしまった無能な政治家・小泉純一郎や無能な経済学者・竹中平蔵や制度としての官僚・政治家等々、に対しても全く、何も評価しないし、何も期待しない、また何も評価できないし、何も期待できない。したがって、「われわれはことによるとそこから与えられるであろうすべての賛同や助力に対して断固としてお断りする」・拒否する。したがって、「われわれは、(≪そのような≫)議論と情熱を、何ら用いない……」。したがってまた、「われわれは、教会的な議論と情熱」を、あのような「議論と情熱」の「武器として提供することを、全くしない……」。「今日決定的な国家哲学が……一七八九年(≪フランス革命≫)と一八四八年(≪ウィーン体制の崩壊≫)の精神の中で、またマルクス主義の中で、人類の敵と戦わなければならないという意見……である時、その点でそれは正しいかもしれないし、正しくないかもしれない。しかし福音が偽りの自由についての教説と相対して立っている対立は、いずれにしてもそのような対立ではないのである」。言い換えれば、その最初から、本質的に、イエス・キリストにおける「福音の側から……近代的な国家哲学も攻撃されている」のである、近代的な国家哲学も「否定の」「否定的判決」の対象そのものなのである。自由主義国家、政治的近代国家、民族国家、「近代的国家哲学(≪における観念的法的政治的な自由の「教説」、観念的法的政治的な平等の概念≫)も、(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第一の形態であるイエス・キリストにおける≫)福音(≪具体的にはその第二の形態である聖書≫)を通して否定」されているのである、「否定的判決」を受けているのである。徹頭徹尾、イエス・キリストにおける福音と、法的政治的近代国家的における「自由」・平等・「公平」・「正義」・平和とを同一化することは決してできないのである。したがって、「注意せよ!」――「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求め」ようとしないで、「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストを、いっさいのものにまさって恐れ、かつ、愛すること、神を、大きな問題においても、小さな問題においても、彼がかってあり、いまあり、やがてあり給う権威のままに肯定し、是認すること、私たちの個人的、社会的生活を敢えて律して、すべての善きものを神から、神からすべての善きものを期待」するべきである、ということに。「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すまことの教会(その成員)は、意識されたあるいは意識されない観念の共同性を介して・政治的合理性の形態を介して「人間の公私の生活においては、絶えず新たな支配が行われるような仕組みになっている」から、また「国家は支配であり、文化は支配」であり、関係は支配であるから、「どのような国家形態にも、どのような文化傾向」にも、どのような関係性にも、「無条件に『然り』とは言わぬ」のである。「われわれが最も激しく非難する全体的、非人間的強制にしても、遠い昔から西方の自称自由社会や自由国家にもほかの形で出没した」のである。白人進出以前の2万年前から先住する、征服併合された被支配民である北米インディアンに対するキリスト教徒であるイングランド系移民の征服併合の在り方は「全体的、非人間的」ではなかったと言えるだろうか。したがって、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すまことの教会(その成員)は、反体制を標榜しながら結局は政策的言語や法的言語を介して政治的近代国家に加担して体制化していくことをしない自由さの中で、不可避的な契機があれば、「西の獅子に全力をあげて抵抗」するように、「東の獅子」に対しても全力をあげて「抵抗」するのである。したがってまた、国家の死滅は終末論的信仰における聖書の究極像としてあるということを認識し自覚しているまことの教会(その成員)は、次の事柄に対して自覚的なのである――「平和を維持するためにできる限りのことをしなければならない」・しかし「このことは、……平和主義者でなければならないということを意味しない。平和主義は一つの絶対主義だ(すべての主義のように)」・抽象的一面的固定的空論的な教条主義的平和主義者では全くないところの「われわれは神には服従するが、一つの原理や理念にはしない」・それゆえに「われわれは最後の手段のために、(≪政治的近代国家、民族国家が存在する限り≫)戦争の可能性はあけておかなければならない」、ということに対して自覚的なのである。教会(その成員)の「正当性、背水の陣、潔白の良心は……教会が党派的にならず、世俗的な対立に相対して福音の優位性を保つということ……を通して条件づけられている」のである。言い換えれば、教会(その成員)は、常に、神と人間との無限の質的差異の認識と自覚の下で、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指しキリスト教に固有な類の時間累積を行っていくということが第一義的に重要なことなのである。したがって、教会(その成員)の「正当な戦い」は、「新プロテスタント主義」との戦いであれ、近代国家・非近代国家との戦いであれ、「一面的に」、ある世俗的「『権威に味方して』の戦い」とはならないのである。すなわち、例えば、新正統主義に立脚した「新プロテスタント主義」に対する戦いとはならないのである、マルクス主義的国家に立脚した自由主義国家に対する戦いとはならないのである、政治的近代国家・民族国家を第一義化・価値化してそれを前提・固定した戦いとはならないのである、佐藤優のような権威としての天皇と権力としての国家という国家形態に立脚した現存する<日本>国家体制に対する戦いとはならないのである。「宗教改革は、それが一般的な対立、すなわち教皇、スコラ哲学、中世に対する対立、をそのまま自分の立場にし、その対立を利用したところでは、換言すれば、自分自身を一面的にこの対立の中で理解し、表現していったところでは、到るところ霊的に役に立たないものとなり、途方にくれ、到るところ緩和な、あるいは粗野な熱狂主義になってしまった……」のである。ここで、信仰・神学・教会の宣教においても、党派性の止揚が重要な問題なのである。佐藤優のように党派性・党派主義・党派的多元主義を前提し固定してしまったら、一切が「バカ話し」としかならないのである。例えば、佐藤の<エリート主義>も党派主義なのである。なぜならば、社会的存在の自然基底としての非エリートを主人公とする物語の構想を持った、エリートと非エリートとの枠組み取り除いた、エリートと非エリートとを架橋する<思想>が皆無だからである。したがって、バルトは、『教会教義学 神の言葉』で、次のように述べたのである(再度、引用したい)――「(≪単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和、であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、この≫)一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(≪教派、学派、思想傾向、ある社会構成・支配構成・文明的――文化的構成、時流や時勢、社会的政治的な言説や運動≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」。神と人間との無限の質的差異の下で、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性の下で、それゆえに終末論的限界の下で、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、単一性・神性・永遠性を本質とするキリストの霊である聖霊自身の証しの力、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指しキリスト教に固有な類の時間累積を行うところに、その第三の形態である教会における「権威と……自由」はあるのである、「神学的権威および教会的権威の実在と概念」はあるのである。「神の啓示は言葉にあっての神の啓示である(≪啓示の客観的側面、客観的な啓示の出来事≫)と同時に、また霊を通しての神の啓示(≪啓示の主観的側面、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与≫)である」から、「教会と神学」において、「言葉にあっての神の啓示」ということからその神の啓示に対する「いかなる主観主義の体系」というものが「不可能」なように、「霊を通しての神の啓示」ということからその神の啓示に対するいかなる「客観主義の体系」というものも不可能なのである。言い換えれば、その啓示の弁証法、その啓示の構造性・共時性、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊自身の証しの力、客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事、に基づく、終末論的限界の下での、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与、という認識と自覚が重要なのである。客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、単一性・神性・永遠性を本質とするキリストの霊である聖霊自身の証しの力、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを通した、客観的な啓示の出来事と神ご自身のその都度の自由な恵みの決断による聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてのみ、終末論的限界の下での啓示認識・啓示信仰は可能となるのである。このように、「ここでも、あそこでも、ただ神の意志だけが問題」なのである、すなわち「人間的な自由な概念に対して神的な権威が対置されている」のであるが、このことは「すべての人間的な権威概念が神の自由を通して限界」づけられ・制限づけられていることを「指し示している」のである。言い換えれば、神においてのみ「実在であり真理」である神の自由に対する啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比として「人間的な自由」の概念、教会(その成員)における自由の概念は成立しているのである。このような仕方で、教会における「権威と……自由」はあるのである。また、バルトと同じように、やはり党派性の止揚を目指した詩人・文芸批評家・思想家の吉本隆明は、次のように述べている――「対立する双方に真理があるというような俗説(≪党派性・党派主義・党派的思想・党派的共同性・党派的多元主義≫)が、世界史的に流布され、流通している」中で、自らの立場において、両者を包括し「止揚しなければならないということが思想的な問題」である(『思想の規準をめぐって』)。
 さて、バルトは、『教会教義学 神の言葉』で、「キリストの神性についての教義」こそが、「キリストの永遠のまことの神性の告白」こそが、「神的啓示と人間的な信仰の間」における、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍、人間論、人間学的な哲学原理・認識論・世界観に依拠した「新プロテスタント主義」・近代主義的プロテスタント主義・神学的自由主義、総括的に言えば<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返す教会の宣教と神学を、根本的包括的に原理的に止揚し克服することができるそれである、と述べている、換言すれば<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返す教会の宣教と神学における、その「幻想性」を、その「形而上学」性を、止揚し打破し克服できる信仰・神学・教会の宣教における思想的武器である、と述べている。したがって、バルトにとってだけでなく私にとっても、イエス・キリストは、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の子、神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、その死と復活において<完了>された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和そのもの)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストなのである。また、このイエス・キリストは、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における第一の形態である。したがって、このイエス・キリストは、「まことの教会」の宣教における「先ず第一義的に優位に立つ原理」である。したがってまた、このイエス・キリストによって唯一回的特別に召され任命された現実的な人間存在としての預言者および使徒たちの<直接的>なイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、換言すれば「直接的な、絶対的な、内容的な権威」を授与され装備している、<直接的>な「最初」の「第一」の啓示の「概念の実在」である聖書は、「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における第二の形態であり、その第三の形態である教会の宣教の原理であり、教会に宣教を義務づけている教会の宣教の「規準」・「法廷」・「審判者」である。このような関係と構造・秩序性から、「聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのである」。また、このような訳で、終末論的限界を生きる現存する教会(その成員)は、常に、絶えず繰り返し、神語り給うゆえに神語り給うことを聞かなければならないのである、具体的には聖書に聞かなければならないのである。その場合、神と人間との無限の質的差異の下で、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性の下で、それゆえに終末論的限界の下で、それゆえに教会(その成員)の宣教における語りが「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるのか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、(≪徹頭徹尾≫)神ご自身」の決定事項であるという下で、それゆえに啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力の下で、キリストの霊である聖霊自身の証しの力の下で、それゆえに「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」・「解釈する」とは「別の言葉で同一のことを言うこと」であるという下で、それゆえにそれ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性(神のその都度の自由な恵みの決断による、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与の可能性、啓示認識・啓示信仰の主観的現実化の可能性)としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復する(人は誰であれ、不可避的にある歴史的現存性のただ中に生誕し、その類・歴史性――個・現存性を生き死んで行くことが確かである限り、ある個性、時代性、断続性、差異性だけでなく、類、歴史性、連続性、共通性を生きるのであるが、一方で教会(その成員)はキリスト教に固有な類・歴史性・連続性・共通性と同時に、その個性・時代性・断続性・差異性を生きる)下で、そうしなければならないのである。この場合にのみ、初めて、教会(その成員)は、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーのその本質に届く根本的包括的な原理的な宗教批判(キリスト教批判)を、根本的包括的に原理的に止揚し克服することができるのである。したがって、前期ハイデッガーの哲学原理に依拠したブルトマンの新約聖書の「非神話化」論やヘーゲル主義的なモルトマンの神学的三段階的進歩史観や人間の経験の尊重を主張したルドルフ・ボーデンの聖霊論的説教論等々、人間の理性・感情・意志、人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍、人間論、人間学的な哲学原理・認識論・世界観に依拠した場合には、あるいは神と人間・神学と人間学とを混淆化・混合化した場合には、<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返す「安っぽい」「無神論」以下の人間自身教会自身が対象化した「存在者レベルでの神」(偶像)崇拝としてのキリスト教として、その信仰・神学・教会の宣教は、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーのその本質に届く根本的包括的な原理的な宗教批判(キリスト教批判)の対象そのものとなる以外にないのである。このことに対する認識と自覚を持っていたのは、キリスト教界においてはやはりバルトだけだったのである。言い換えれば、近代以降のキリスト教界においてバルトだけが、終末論的限界の下で、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指しキリスト教に固有な類の時間累積を果たすと共に、個性や時代性を刻んだのである。このような訳で、バルトは、「神は天にいまし、人間は地上にいるということ、神は支配し給い、人間は聞き従わなければならないということ、神の言葉は人間に対する全体的な要求を意味しているということ、これら単純な真理に、われわれはもう一度全く新たに習熟することを学ばなければならなかった」、と述べたのである。言い換えれば、次のような前期の著作である『ローマ書』にある事柄が重要なのである――「私が『方式』なるものをもっているとすれば、……時間と永遠との『無限の質的差別』……、をあくまで固守した、ということである。『神は天にいまし、汝は地に在り』。私にとっては、この神とこの人間との関係、ないしはこの人間と神との関係が聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」(ここで、バルトは、「神学的権威」の「実在と概念」を「再発見」・再認識しているのである。この認識と自覚は、後期バルトにも一貫性を持って保持されているのである。したがって、前期バルトと後期バルトとを分けることが「通説」だと主張する主張は、本質的に間違っているのであり、それゆえにその「通説」を前提し固定してバルトを論じたならば、やはり「バカ話し」としかならないのである)・「パウロはその時代の子としてその時代の人々に語った。けれどもこの事実よりはるかに重要な事柄は、いま一つの事実、すなわち彼は神の国の預言者ならびに使徒としてあらゆる時代のあらゆる人々に語っている、ということである。(中略)聖書の精神は永遠の精神なのである。かつての重大問題は今日もなお重大問題であり、今日の重大問題で単なる偶然や気まぐれでない事柄は、またかつての重大問題と直結している」 (ここで、バルトは、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指しキリスト教に固有な類の時間累積を行うという事柄に、その第一の形態・具体的にはその第二の形態によって根拠づけられ授与されるところの「間接的・相対的・形式的な」「教会的権威の実在と概念」を「再発見」・再認識しているのである。この認識と自覚は、後期バルトにも一貫性を持って保持されているのである)。このような訳で、ここでも、バルトは前期バルトと後期バルトに分けて論じることが通説だと主張するバルト読みのバルト知らずのバルト解説書は、お話にならないそれであって、それゆえにその通俗的な通説なるものを前提し固定してしまってバルトを解説した場合にはバルトを根本的包括的に原理的に理解することは決してできないのである。言い換えれば、そのような通俗的な通説は、バルトの極少部分を拡大鏡にかけて全体化して形而上学的一面的皮相的固定的抽象的空論的な解説でしかないから、全く質の悪い、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」者、それに類する牧師や著述家たち等の間でだけ通用するそれでしかないものなのである。先ず以て彼らは、キリスト教に固有な類・歴史性を全く理解していないのと同じように、人は誰も、不可避的に歴史的現存性のただ中に生誕し、その類・歴史性――個・現存性を生き死んで行くということについても、全く認識し自覚していないのである、そのことについて全く理解できていないのである。したがって、そのような解説書は、本質的に間違った解説になっているから、信用しない方がいいのである、そのまま鵜呑みにしたり模倣したりしない方がいいのである。このことは、ハイデッガーのブルトマン(その学派、そのエピゴーネン)に対する揶揄・批判のことを考えてみればすぐに分かることである――前期ハイデッガーの哲学原理に依拠して有頂天になってしまい、後期に、その存在、その現前性、その被制作性、その被企投性、その言語、そのシンボル体系、その不可避な類・歴史性を認識し自覚することで、前期における人間的現実存在(思索者・詩作者)の自由なその思考、その現存性、その時間化(差異化)と存在了解、その企投性、の限界性を認識し自覚した、その前期と後期との総体を生きたハイデッガーから、人間自身教会自身が対象化した「いわゆる存在者レベルでの神」(偶像)「信仰」を「受け入れる」よりは、「むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい」と「揶揄」・批判されたブルトマン(その学派、そのエピゴーネン)のことを考えてみればすぐに分かることである。神学者ブルトマンの神学は、人間学(ハイデッガー)の方から「揶揄」されたのである。なぜならば、ブルトマンの神学は、非自立的で中途半端な、ただ単なる人間学の後追い知識、人間学的神学に過ぎなかったからである。
 さて、「自由」・「主権」は「神ご自身においてのみ実在であり真理」であるから、第一義的な「直接的な、絶対的な、内容的な自由」は、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態、すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二存在の仕方(神の言葉、神の子、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストに、具体的にはその第二の形態、すなわちそのイエス・キリストによって唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての直接的な最初の第一の「言葉、証言、宣教、説教」(直接的な最初の第一の啓示の「概念の実在」)としての聖書に、あると言うことができる。単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の「神がその啓示の中で、み子であられるのと同様に聖霊であり給うように、……聖書の中での神の言葉は、……言葉であるのと同様に霊である」。第一義的な「直接的な、絶対的な、内容的な権威」としての「み子(≪神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの≫)がただ霊(≪神ご自身のその都度の自由な恵みの決断によるキリストの霊である聖霊の注ぎ≫)を通してだけ、啓示されるようになることができる(≪啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊自身の証しの力、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性において、終末論的限界の下で、客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰は可能となる≫)ように、権威は必然的に自由を通して、自由は必然的に権威を通して、解釈されなければならない……」。このような訳で、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態である教会における「権威」・「自由」は、「神の言葉の賓辞として」存在することができるだけなのである。したがって、それは、「主辞から照らし出される……照らし出しの中でだけ」、すなわち啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通してだけ「理解」することができるのである。
 このような訳で、「われわれは(≪形而上学一面的固定的抽象的空論的な≫)自由を念頭に置いて」、すなわち「権威について語るよりも自由について語る方がよりプロテスタント的なことである」と主張して、そうした一面的皮相的な人間主義的「自由の原理」を、「カトリック主義に対する」「プロテスタント的な答え」であるとすることに対しては、ローマ・カトリック主義に対してと同じように、十分に「用心」しなければならないのである。宗教としての両派は、党派・党派主義・党派的多元主義の立場に立っているから、当然にも、あの党派的なプロテスタントの側からする「民衆扇動的な護教論」に対しては、「ローマ・カトリックの側から」そうした「宗教改革の教会」は「自由の原理を軽率に肯定することによって堕落して異端化し、宗派になってしまわざるをえなかった」という党派的な議論が返されたのである。したがって、人は、近代主義的プロテスタント主義における、「宗教改革者たちの関心は最後的な根底において」は、教会の「正しい」「考察と判断」を行い得る根拠を人間「各個人の良心と理性」に「置くことであり」、それゆえに「宗教改革者たちは敬虔主義、啓蒙主義、観念論の先駆者であった」という「扇動的な言い方」に対しては、十分に「用心」しなければならないのである。そうした著述家たちの「扇動的な言い方」を、決して、そのまま鵜呑みにしたり模倣したりしない方がいいのである。なぜならば、厳格な意味での宗教改革者たちは、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における「神的な権威……教会的な権威」ではないところの一切の権威に対して、「すべてのものの自由な主人であり、何ものにも隷属しないキリスト者の自由を宣べ伝えた」ことは、「本当」のことだからである。その証拠に、ルターは、「後代のすべての自由主義……の起源」にまで「遡ることができる……熱狂主義……の中に教皇主義の中で見て取ったのと同じ宿敵を見て取」っていたのである。と同時に、その「キリスト者の自由」における「キリスト者は(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯しそれを反復することを通したキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、その「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」、すなわち福音を内容とする福音の形式としての律法・神の命令である福音の内容の告白・証し・宣べ伝え、という仕方において≫)すべてのものの下僕であり、すべてのものに隷属している」ということを認識し自覚しているのである。したがって、この「キリスト者ノ自由」は、「直接に、排他独占的に神と結びつけられた魂の……内的な独立性」ではないし、それゆえに人間の自由な自己意識の無限性・理性・思惟ではないし、それゆえに「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」ところのそれではないし、それゆえに人間自身が対象化した「存在者レベルでの神(≪偶像≫)への信仰」におけるそれではないのである。言い換えれば、近代主義的プロテスタント主義は、党派的・党派主義的・党派的多元主義的な、宗教としての、それゆえに偶像崇拝としての、世俗組織的な教会自身が支配し管理する「教皇無謬性」(ローマ・カトリック主義)に対立したところの、それゆえに逆の、党派的・党派主義的・党派的多元主義的な、宗教としての、それゆえに偶像崇拝としての、人間自身の自己意識が支配し管理する恣意的自由における無謬性論である。「ローマ・カトリック主義は神の言葉の権威に対する反逆であり、聖書正典に対する反逆であり、また教父およびすべてのまことの信仰告白に対する反逆である……」。この事態は、「カトリック主義が人間的な恣意に対して」、人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍に依拠した「存在の類比」の適用によって、「自分が適当と思うところに従って勝手に神の言葉と関わって行く新しい場所と新しい形式を造り出」すことによって、惹き起こされたことである。人間の自由な自己意識の無限性に依拠した近代主義的プロテスタント主義も同類なのである。神と人間との無限の質的差異、「自由」・「主権」は「神ご自身においてのみ実在であり真理」である――このことを認識(啓示認識・啓示信仰)し自覚したバルトは、ローマ・カトリック主義と同じように<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返す近代主義的プロテスタント主義の信仰・神学・教会の宣教を志向し目指すすべての者たちのように、宗教改革者たちは「近代的な自由(≪人間の対自的で対他的な自由な自己意識・理性・思惟の無限性の原理≫)の……父祖」・起源であった、と「ほめそやすこと」は決してできないのである。実際的にも、「宗教改革の教会はその起源において」、その「本質において」、「自由な人間的個人」を「万物の標準」とはしていないのである。神と人間との無限の質的差異を後景へ退け排除してしまったところの、「教会と啓示の単一性についての教説」(啓示と教会との等価性・同一性の主張)に基づいて「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における人間的「教会的な権威についての見方を破壊してしまった……カトリック主義に対して」、また「自由な人間的個人」を「標準」とする近代主義的プロテスタント主義に対して、宗教改革的な教会(その成員)は、「先ず第一に」、神と人間との無限の質的差異の下で、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における、その第一の形態に・具体的にはその第二の形態に限界づけられ制限づけられた人間的教会的な「権威を擁護し、それから初めて」、そのような仕方で限界づけられ制限づけられた人間的教会的な「自由を擁護」しなければならないのである。言い換えれば、「先ず第一に」、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第一の形態・具体的にはその第二の形態の「直接的な、絶対的な、内容的な権威」および「自由」を「擁護し、それから初めて」、そのような仕方で限界づけられ制限づけられた人間的教会的な「間接的・相対的・形式的な権威」を、そして「それから初めて」、そのような仕方で限界づけられ制限づけられた人間的教会的な「自由」を擁護しなければならないのである。したがって、宗教改革的な教会(その成員)は、神と人間との無限の質的差異、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性、それゆえに終末論的限界、の下で、それゆえにまた客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、単一性・神性・永遠性を本質とするキリストの霊である聖霊自身の証しの力、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを反復することを通した「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指しキリスト教に固有な類の時間累積を行うのである、こういう仕方でキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、その「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(福音を内容とする福音の形式である律法、神の命令・要求・要請、福音の内容の告白・証し・宣べ伝え)を志向し目指すのである。人間的教会的組織的権威と人間的個人の自由という違いはあっても、一面的に固定された「教皇主義」と同類の「新プロテスタント主義の父であった……熱狂主義者や人文主義者たちを相手に戦った」ところの、宗教改革者たちにとっては、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における「直接的な、絶対的な、内容的な」「神の権威」・具体的には「聖書の権威」が、それに依拠した人間的教会的な「間接的・相対的・形式的な」「信仰告白の権威」が、その権威に依拠した自由が、肝要な事柄であった。ここに、「自由な人間的個人」を「万物の標準」とする「新プロテスタント主義が自分では持っていると思っているが実際には持っていない」ところの「まさに(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における「直接的な、絶対的な、内容的な」「神の権威」・具体的には「聖書の権威」、それに根拠づけられ限界づけられ制限づけられた人間的教会的な「間接的・相対的・形式的な」「信仰告白の権威」に信頼し固執し連帯した福音主義的≫)教会の中での自由」があるのである。ここに、「勝利に満ちた真理」、「キリスト者の自由についての使信」があるのである。したがって、「エラスムスやカールシュタット、あるいは後にはセルヴェトスやセバスチャン・フランクのような人」が、「キリスト者のまことの自由について」、「自分と結びつけて深刻に受けとってとっているのをわれわれがみるあの悲劇的なこと」・「さらに後に新プロテスタント主義全体の中で、人間が自らの本質と体験の深みを最後的実在および最高の律法として真剣に受けとったあのしかつめらしい態度」は、「神の子供たちの福音的な、まことの自由と何の関わり」もないことなのである。「絶対化された権威」(権威<主義>)と「絶対化された自由原理」(自由<主義>)は、その「権威原理」において同根なのである。これらローマ・カトリック主義と新プロテスタント主義(総括的に言えば、神の側の真実だけでなく、人間自身・教会自身によって「絶対化された権威」と「絶対化された自由原理」に依拠した人間自身・教会自身が支配し管理する人間自身・教会自身の自主性・自己主張・自己義認・奉仕や救いや平和の企ての欲求もという<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・教会の宣教)においては、「いかなるまことの権威もないのと同様に、いかなるまことの自由もなく、ただわがまま勝手な傲慢と同じようにわがまま勝手な絶望の間であちこち動と反動の動きを繰り返すだけ」なのである。したがって、バルトは、『ヘーゲル』で、次のように述べたのである――ヘーゲル哲学を支えているのは、自己への信頼としての「自信自恃の哲学」であり、近代以降の「人間の時代」の哲学である。その原理は、人間の対自的で対他的な自由な自己意識・理性・思惟の無限性の原理、区別を包括した同一性の原理、思惟と思惟されたものとの等価性の原理において、思惟に思惟を重ねて具体的普遍の頂へと高次化する思惟は、自然から超出した自由の精神であるから、その頂を極めた「精神は、また精神自体としては神と全く同一である」。これを支えているものが、無限と有限との統一としての「究極的同一性」である。この「究極的同一性」において、「神の理性」のその属格理解における理性は、人間の理性が神を思惟する理性から、神の理性が思惟する理性に転化され、人間の理性の思惟は、神の理性の思惟と等価性を持つことになる。言い換えれば、人間自身による、人間の神化、神の人間化である。ヘーゲルは、この原理、自体的展開過程と自己増殖過程を持つ観念の無限な自然過程を発見したのである。マルクス主義者とは違って、唯物論的ではあっても唯物<主義>者ではなかった、それゆえに経済社会構成を重視したが経済<決定>論者ではなかったマルクスが、『資本論』において、「ヘーゲルにとっては、思惟過程が現実的なるものの造物主」・「現実的なるものは、思惟過程の外的現象」である、と述べたことは、このことである。いずれにしても、バルトは、ヘーゲルにおけるその神・啓示は、人間自身の自己意識が「捕えた虜囚」でしかないものとなってしまうから(人間自身が対象化したそれでしかなくなってしまうから)、「受け入れ難く耐え難い」と述べたのである。したがって、バルトにとって「ヘーゲルの哲学的手法に対して」「受け入れ難く耐え難い」「最も重大でかつ決定的なもの」は、「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」、「神の自由を認識していないという事態」にあったのである。この「ヘーゲルの哲学的手法」について、「われわれは、シュライエルマッハー以外の他の人々(≪モルトマン、ブルトマン、エーバーハルト・ユンゲル、滝沢克己、八木誠一、バルトルート・クラッパート、パンネンベルク、ルドルフ・ボーレン、北森嘉蔵、大木英夫、神学者たち、牧師たち、キリスト教的著述家たち等々≫)の所でも、……〔この〕ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇する」のである。また、バルトは、『教会教義学 神の言葉』で、次のように述べている――シュライエルマッハーは、人間学的に「教会とは、『ただ自由な人間的行為を通して発生し、またただそのような自由な人間的行為を通して存続することのできる共同体』であり、『敬虔性と関連した共同体』である」と言う。またシュライエルマッハーおいては、信仰も、人間実存の歴史的存在の一つの在り方として理解される。神学における「近代主義的思惟は、人間が、誰かによる呼びかけを受けることなしに、(中略)人間がじぶんを相手に自分だけでひとりごとを言っているのを聞く。それ故、近代主義にとっては、宣教は、『教会』と呼ばれる人間的な共同体の一つの必然的な生の表現」となる。このように、シュライエルマッハー等近代主義者は、人間の「精神的な促進〔霊的な奨励〕のために、自分と彼らに共通な宝庫からくみ取りつつ、この宝庫をさらに豊かにするために」、人間の対自的で対他的な自由な自己意識の無限性に依拠して、「自分自身の歴史」と「現在の解釈」を表現しようとするのである。すなわち、「自己表現としての宣教」を企てる。部分を拡大鏡にかけて全体化しようとするのである。フォイエルバッハは、『キリスト教の本質』で次のように述べている――「人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である。人間は思惟する、すなわち人間は会話をする、人間は自分自身と話をする。動物は自分以外の他の個体がいなければ類の機能をひとつもはたすことはできない、しかし人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかという類的機能……を果たすことができる」・「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である」。このような訳で、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを反復することを通して「唯一ノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指す「福音主義的教会」と、事実的に党派的・党派主義的・党派的多元主義的な「ローマ・カトック主義」的教会および近代主義的プロテスタント主義的教会との「対話の再開」と「唯一ノ、聖ナル、公同ノ教会を望み見る共通の展望にまでくることができる」のは、前述した場所においてのみなのである。「われわれは(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを通して「唯一ノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指しキリスト教に固有な類の時間累積の責任を果たすところの、第三の形態としての≫)教会の中での自由……換言すれば神の言葉の自由と取り組まなければならない。よく理解せよ」――このようなまことの「教会(「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態)の中には」、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるところの、「直接的な、絶対的な、内容的な」「権威」および「自由」である第一の形態・具体的には第二の形態から「贈り与えられた、……命じられた……、必然的な」、「間接的・相対的・形式的な」、神の「言葉の下での(≪人間的教会的な≫)権威と同様に」、神の「言葉の下での(≪人間的教会的な≫)自由が存在するということ」を。したがって、この人間的教会的な「権威」および「自由」は、「神の言葉」自身が「権威と自由を自分自身の中に持っており」、それゆえに「自分自身を通して行使するゆえに」(その都度の神ご自身の全き自由における恵みの決断によって行使するゆえに)、神語り給う故に神語り給うことを聞かれるところ、すなわち三位一体論の唯一の啓示の類比である神の言葉の実在の出来事であるそれ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを通して「唯一ノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指しキリスト教に固有な類の時間累積の責任を果たすところで「神の言葉が聞かれるところ」、そのまことの「教会の中に」、「類が類を呼び出す」ことによって、「間接的・相対的・形式的な」、人間的教会的な「権威」および「自由も存在するのである」。したがってまた、この人間的教会的な「権威」(≪人間自身教会自身に対する、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての・教会の宣教の「規準」・「法廷」・「審判者」としてのその第一の形態・具体的にはその第二の形態からする「命令、標準、指導、導き」≫)および「自由」(≪人間自身教会自身の、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第一の形態・具体的にはその第二の形態に連帯してそれを反復することを通して「唯一ノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すという「選びと決断、……決心と規定」、人間自身教会自身の自己認識・自己理解・自己規定≫)は、神の言葉(「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第一の形態・具体的にはその第二の形態)を「離れた」「権威」および「自由ではなく、言葉なしの、言葉に逆らう自由ではなく、……ただ言葉の下」での「権威」および「自由でだけあることができる」それなのである。このような訳で、「彼らの中で、彼らのために、神の言葉はその自由を持っている」とは、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神(「自由」・「主権」は、単一性・神性・永遠性を本質とする神ご自身においてのみ「実在であり真理」であるところの「永遠のロゴスそのもの」)の不把握性、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、単一性・神性・永遠性を本質とするキリストの霊である聖霊自身の証しの力、客観的な啓示の出来事(「具体的に肉となった神の言葉」、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、神の子、神の言葉、「主辞」としての単一性・神性・永遠性を本質とする、まことの神にして、「賓辞」としてのナザレのイエスという人間の歴史的形態・人間的性質を持った、まことの人間、イエス・キリスト、啓示・和解、<具体的>にはそのイエス・キリストによって唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちの直接的なイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、「その書物性の中で同時に霊であり、生命である……運動」としての聖書、直接的な最初の第一の啓示の「概念の実在」、「人間によって信じられ、証しされた神の言葉」――このような客観的な啓示の出来事)と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを通した、終末論的限界(なぜならば、「何もかも合点が行」き・「誰に彼も合点が行く」のは、キリストの再臨、終末、救贖・完成の時においてのみだからである)の下での、人間が人間的に所有する人間(教会、その成員)の啓示認識・啓示信仰の授与、ということなのである。そして、この啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して初めて、人間自身教会自身の自己認識・自己理解・自己規定が授与されるということなのである。このような訳で、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与は、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを通して「唯一ノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すことを後景へ退け排除してしまうところの、世俗組織的な教会、人間の自己意識・理性・思惟、,人間の感情、人間の意志、人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍、人間論、人間学的な哲学原理・認識論・世界観によっては、本質的に不可能なのである。したがって、もしも可能だとするならば、その場合それは、人間自身教会自身が対象化した「存在者レベルでの神」(偶像)に過ぎないものなのであり、その神(偶像)の名と呼びかけによる人間自身教会自身が支配し管理する奉仕と救いと平和の企てにしか過ぎないものなのである。
 「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを通して、「神の言葉が人間によって信じられ、証しされるところ、そこではこれらの人間はただ単に神の言葉の支配の下に置かれ、神の言葉に服従するだけでなく、同時に」、これらの「人間は、神の言葉の支配の下に置かれ、神の言葉に服従する」ことによって、「また神の言葉の自由にあずかるのである」。ここに立脚する教会(その成員)は、「最初の者として」・「神の言葉を信じ、証しした」預言者および使徒たち――すなわち「神の言葉に従い、服従した」ことによって、「神の言葉の自由にあずかるようになった」預言者および使徒たちのキリスト教に固有な類の時間累積(歴史性)の「系列に属している」と同時に、それゆえに「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第三の形態にある者として、その第一の形態である「(神の言葉そのものに固有な)直接的、絶対的、内容的な自由を持った神ご自身の言葉」の「担い手」としてのその第二の形態(「預言者および使徒」、「聖書の言葉」)の自由に支配されているのである。この時、次のことを認識し確認することができるのである――@「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神ご自身の全き自由な恵みの決断によって、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に感謝を持って信頼し固執する啓示認識・啓示信仰なのである。その時初めて、神の言葉は、その人間に対して「実在」となり、またその人間も人間的にそれを「実在として理解」することができるのである、Aイエス・キリストが、人間に対して、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第二の形態である聖書およびそれに連帯してそれを反復することを通して「唯一ノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すその第三の形態である教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを認識し承認し確認するのである。したがって、その啓示認識・啓示信仰を授与された人間は、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し承認し確認するのである。言い換えれば、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪裁き、否定的判決≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを認識し承認し確認するのである。したがって、この単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、神の子、啓示・和解、客観的な啓示の実在そのもの、イエス・キリストの死と復活の出来事において<完了>された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和、啓示の客観的現実性・客観的実在)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示の場所は、すべての人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所なのである。このような訳で、このイエス・キリストにおける啓示の場所は、その信仰・神学・教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」・「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」・「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所なのである、人間自身教会自身が恣意的独断的に対象化した「存在者レベルでの神」(偶像)の名と呼びかけによる人間自身教会自身が支配し管理する奉仕や救いや平和の企てを見抜くことができる場所なのである。神と人間との無限の質的差異の下で、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性の下で、それゆえに<神そのもの・客観的な啓示の実在そのもの・啓示の時間・救済史は、常に、天然自然を含めて人間的自然・人間が人間的に所有する人間の啓示認識・人間の時間・歴史の、「彼岸」・「外」にある>下で、それゆえに終末論的限界の下で、このイエス・キリストにおける啓示の場所は、人間によって対象化された自然・<人間化>された自然・<人間的>自然そのもの――すなわち、例えば科学や技術の進歩発達およびその知識の増大ならびに感覚の拡大・高度化や生活の利便性の向上は、自然史の一部である人類史の自然史的過程における自然史的必然に属する事柄であり、停滞したり逆行したりすることはあり得ない<人間>によって対象化された自然・<人間化>された自然・<人間的>自然そのものとして、ヒッグス粒子の発見やiPS細胞の研究成果等々を、人間的世俗的真理として正直に受け取ることができる場所なのである。このように、このイエス・キリストにおける啓示の場所においては、神だけでなく・神の側の真実だけでなく、人間も・人間的成果(物質的精神的なそれ、人間的自然)も、という、二元論的な「バカ話し」をしなくてもいいのである。
 「そのような訳でわれわれは先ず第一」、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第一の形態である「イエス・キリストに対する」、その第二の形態である「預言者と使徒たちの関係」は、神と人間との無限の質的差異の下における、「逆転」・転倒不可能な「服従関係の性格」と同時に、また「選択と決断の性格」を持っている」と「主張する」。したがって、それは、恣意的独断的な人間の自主性・自己主張に基づいた「服従関係の性格」、「選択と決断の性格」を持っていない、と「主張する」。この関係性は、この「関係……の中」で、「イエス・キリストもこれらの人間の中に真に向かい合う相手を持ち給い、その中でこれらの人間はイエス・キリストに相対して責任を持ったし、その中でイエス・キリストは、彼らが彼に対し自分の信仰を捧げ、証言をなした」ことによって、「彼らによって選ばれ、その中で彼らはイエス・キリストに向かって決断した関係……であった」というそれである。このような訳で、「服従こそが自由である」。また、このような訳で、教会(その成員)における服従に根拠づけられた自由は、「ただイエス・キリストの優越した自由に基づいてだけ、出来事として起こった自由」として、その啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通した「使徒と預言者たちの自由」と「服従」の在り方に対する連帯と反復にある、と言うことができるのである。このようにして、教会(その成員)は、「服従関係の性格」と同時に、また「選択と決断の性格」についての自己認識・自己理解・自己規定を得るのである。言い換えれば、ここでも、教会(その成員)における、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを通して「唯一ノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指しキリスト教に固有な類の時間累積の責任を果たしていくという「服従」と「自由」が述べられている。さらに、単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストにより唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちと主なるイエス・キリストとの関係は、「啓示そのものが一回的であるのと同じように、一回的な関係である」から、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における「間接的な」その第三の形態である「教会・その成員の現実存在」は、その「直接的な」「最初の」「第一の」その第二の形態である「預言者および使徒たちの現実存在を意味しない」のである。「預言者と使徒たち……とイエス・キリストとの出会いの直接性」における「直接的、絶対的、内容的な自由、イエスの弟子たちがキリストの後に従う随従」は、唯一回的特別なそれであるから、「繰り返され得ないもの」なのである。「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第二の形態である聖書における預言者および使徒たちの「信仰と証言の自由の中で、彼ら」が、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊自身の証しの力、客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事という神の言葉の「出来事」の運動における三位一体論の唯一の啓示の類比である神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第一の形態である「イエス・キリストご自身の自由を<模写的>に証しする」ことによって、「同時に彼らの言葉を通して基礎づけられた(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第三の形態である≫)教会の中」で、預言者および使徒たちは、「人間的な信仰と人間的な証言が含みを持っているすべての自由を<原像的>に証しする証人」なのである。このような、客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して初めて授与される人間自身教会自身の自己認識・自己理解・自己規定の仕方が肝要なことなのである。
 「われわれが教会の中での権威について語る」だけでなく、「教会の中での自由についても語らなければならない」ということは、教会(その成員)が恣意的独断的に「第二の原理(≪教皇の無謬性、啓示と教会の同一化、人間学的な哲学原理・認識論・世界観、人間論、人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍、人間の自由な自己意識の無限性≫)を聖書と並べて」構成し、「聖書と並ぶその第二の声に対してもまた聴従を要求する」ということを意味しているのでは決してなく、それは、人間的「教会(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第三の形態≫)の中で聞かれるべき唯一の聖書(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第二の形態、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての客観的な「啓示の実在」そのものであるイエス・キリストと共に、教会に宣教を義務づけている教会の宣教の「原理」・規準・審判者・法廷である≫)が、権威の原理および声として聞かれるべきであるのと同様にまた自由の原理および声としても聞かれるべきである」、ということを意味しているのである。なぜならば、「聖書(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第二の形態)は事実……分けられない仕方で両方のもの、神の言葉(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第一の形態≫)として権威(≪単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストの自由な恵みの「決断と選択」によって、唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちの、「服従」の「選択と決断」という自由における、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、そのキリストの霊である聖霊自身の証しの力、に基づいたイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、直接的な最初の第一の啓示の「概念の実在」、単一性・神性・永遠性を本質とする「先ず第一義的に優位に立つ」イエス・キリストと共に「直接的な、絶対的な、内容的な権威」≫)を、また神の言葉についての人間的な証言として自由(≪「直接的な、絶対的な、内容的な自由」≫)を持っており、その場合自由もまた下から、聖書的人間の人間性から、由来しておらず、……権威の場合と同様、上から(それを通してこれら人間が信仰および証言へと呼びさまされた)神の言葉(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第一の形態≫)から、由来している」、からである。神と人間との無限の質的差異の下で、預言者および使徒たち(「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第二の形態、直接的な最初の第一の聖書的証人)は、「神の言葉(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第一の形態)を証ししているがゆえに、彼らは(≪「直接的な、絶対的な、内容的な」≫)権威を与えられ、権威を持って装備されているのであり、彼らはそのことを人間としてなすべきであるがゆえに、直接的な最初の第一の聖書的証人の彼らは(≪「直接的な、絶対的な、内容的な」≫)自由を与えられて、自由を持って装備されている」のである。この逆では決してないのである。したがって、教会(「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第三の形態、その成員)は、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性のその第一の形態・具体的にはその第二の形態に信頼し固執してそれを反復することを通して「唯一ノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指しキリスト教に固有な類の時間累積の責任を果たして行く時、換言すれば、「服従」の「選択と決断」をする時、「間接的・相対的・形式的な」、「権威」と共に、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを反復することを通してキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、それを根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、イエス・キリストにおける福音の告白・証し・宣べ伝え、を志向し目指す「自由」を授与される、のである。なぜならば、「神ご自身においてのみ実在であり真理」であるその全き自由の恵みの決断における、啓示自身が持っているけ啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊自身による証しの力、によって「その書物性の中で同時に霊であり、生命である……運動」を持っている「聖書そのもの」が、「事実」、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを反復することを通して「唯一ノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指しキリスト教に固有な類の時間累積の責任を果たして行く「教会によって、教会の中で、ただそのようなものとして実際に聞かれ、取り上げられることができるだけである生きて行動する存在、自分から語って来る主体」だからである。このことは、教会(その成員)が、「聖書の中で生起している神の言葉の運動に屈服し、従うということ、それと共にわれわれ自身が動かされ、自分自身の信仰および証言の中で運動の中に引き入れられるということ」なのである。聖書は「その書物性の中で同時に霊であり、生命である……運動」であるとは、その「概念の包括的な、より深い意味で、働き給う神ご自身の霊であり、生命である」ということである。なぜならば、神の言葉は、それ自身がキリストの霊である聖霊の業であるところの、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における、その第一の形態――単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の子、神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、その第二の形態――「その書物性の中で同時に霊であり、生命である」運動を持っている「聖書」(単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストにより唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、直接的な最初の第一の啓示の「概念の実在」)、その第三の形態――「教会」・「教会の宣教」(「神の言葉の三形態」におけるその第一の形態・具体的にはその第二の形態に信頼し固執し連帯してそれを反復することを通して「唯一ノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指しキリスト教に固有な類の時間累積の責任を果たして行く教会の客観的な信仰告白・教義、間接的な啓示の「概念の実在」)、すなわちこのような仕方でキリスト教に固有な類・歴史性(時間累積)として存在しているからである。