『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「二十節 教会の中での権威」「二 言葉のもとでの権威」(その4−4)

『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「二十節 教会の中での権威」「二 言葉のもとでの権威」(その4−4)(356−396頁)

 

二 言葉のもとでの権威(その4−4)
 ある社会構成・支配構成・文明的――文化的構成の時代水準のただ中を生きる人間的側面を持った教会の「信仰告白の必然的な公開性」の「形式と内容」に関する「標準」は、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯しそれを反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同の教会」を志向し目指すところの、その教会の<客観的>な「信仰告白」および教義が、あくまでも、「神の言葉の三形態」の第一の形態・具体的には第二の形態に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通した<第三の形態>における啓示の「概念の実在」でしかない、という点にある。したがって、その教会の<客観的>な「信仰告白」および教義は、次の事柄を十分に認識し自覚している、という点にある――「『神は天にいまし、汝は地に在り』……この神とこの人間との関係……が聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」(『ローマ書』)。このバルトは、この<前期>の『ローマ書』に対して、<後期>の『神の人間性』においては、「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人は、今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」というように、神と人間との無限の質的差異(キリスト教に固有な類・歴史性)の認識と自覚を、その世界性普遍性共通性連続性において、「別の言葉で同一のこと」を述べているのである。このことを、<前期>バルトと<後期>バルトに通俗的に分断してしまう形而上学的皮相的一面的固定的抽象的通俗的な「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの大学社会」の学者たち、それに類する者たち、著述家たちには理解することができないのである。したがって、彼らは、ハイデッガー自身によるところの、その<前期>ハイデッガーの哲学原理に依拠して有頂天になっていたブルトマン(その学派)に対する根本的包括的な原理的な揶揄・批判も理解することができないのである。このようにバルトは、個の現存性、地域性特殊性時代性断続性を生きただけでなく、不可避的な類の歴史性、世界性普遍性共通性連続性も生きたのである、すなわちその総体を生きたのである。言い換えれば、教会の<客観的>な「信仰告白」および教義は、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、聖霊自身の証しの力に基づいて、神と人間との無限の質的差異(『ローマ書』)の下で、聖性・隠蔽性・秘義性を本質とする神の不把握性(『教会教義学 神の言葉』)の下で、それゆえに終末論的限界(前掲書)の下で、あくまでも「神の言葉の三形態」の第一の形態・具体的には第二の形態に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通した第三の形態における啓示の「概念の実在」でしかない、という点にある。
 このような訳で、一方で、教会の「信仰告白は簡潔に、命題の形で表現されており、また、特別の神学的な技術の知識なしにも原則的に教会の中にいるすべての者にとって理解できる言葉で語られなければならない」ものであるが、他方で、「ひどく専門的な用語で表現されている非常に特別な決断が、……その当時はすべてのものへの呼びかけを意味していた」ということもある。また、「その当時においてばかりでなく、今日に至るまで……教会の生命と死」に関わる「古代教会のある条款」を、「長い間、人」は、「不必要な底荷とみな」すという「失敗」を犯したことを内省しつつ、一方で、「ひどく専門的な用語で表現されている非常に特別な決断」も、「いつの日にか生き返ることがありうるということを……考慮に入れていなければならない」。例えば、信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成が、「キリストの永遠のまことの神性の告白」、「キリストの神性についての教義」を啓示認識・啓示信仰として信用しない場合、それは、神の側の真実、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、聖霊自身の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される終末論的限界の下での人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰に立脚し属しているのではなくて、それゆえに「上から」の「啓示の類比」・「信仰の類比」・「関係の類比」に立脚し属しているのではなくて、その場合それは、人間の側の真実、第一義的・第一次的に人間の自主性・自己主張、人間学的な哲学原理・認識論・世界観、人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍に立脚し属しているからであり、それゆえに「下から」の「存在の類比」、人間的自然、人間的契機の直接性に立脚し属しているからである。バルト自身は、例えば、バーゼル刑務所で、「ただ単に考えや夢の中にではなく、何か精神的にではなく、身体的に見、聞き、つかまえることのできる形」における弟子たちへの顕現(イエス・キリストの復活)の出来事について、次のように説教を行っている――復活の出来事が「どのようにして……起こりえたか、また起こったか、……私はあなたがたと同じように、その理由を知らない。それは(≪人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍に依拠して考えれば≫)人が(≪正直に、キリスト者の私も、私たちも誰であれ≫)信じないようなことだと言う以外に、単純な言い方はほかに存在しない。事実、当時でさえも、解き明かすことは愚か、書き記すことや説明することはできなかった」・「イエスの復活は、(≪神の側の真実として≫)徹頭徹尾神の業であって、そのようなものとして、最高度に良くなされたが、しかし最高度に理解し難いもの」なのである・したがって、このイエス・キリストの復活の出来事は、説明ではなく、「当時でさえも、ただ認識(≪信仰、神のその都度の自由な恵みの決断による啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与された、啓示認識・啓示信仰において信仰、すなわち不信を包括し止揚し克服した信において信仰≫)され、告白され、証しされ、宣べ伝えることができた」だけである。したがってまた、バルト自身は、福音は「魂と体、天と地、内的と外的いのちのため」にあるのであり、身体的存在と理性的存在という全体的人間を考えなければならない、それゆえにキリストの再臨・終末、救贖・完成は全的人間のそれであるから、身体的復活である、と述べている。このように、バルト自身においても、イエス・キリストの復活の出来事は、全く説明なしの、素直な告白や証しや宣べ伝えなのである。このバルトは、当然にも、『教会教義学 神の言葉』において、「キリストの神性についての教義」こそが、「キリストの永遠のまことの神性の告白」こそが、「神的啓示と人間的な信仰の間」におけるその「幻想性」を、その「形而上学」性を打破できる信仰・神学・教会の宣教における<思想的武器>である、と述べている。「形而上史学的な歴史の科学」の信奉者であるところの、近代<主義>者たち、近代主義的プロテスタント主義的な信仰・神学・教会の宣教等々には、このことが理解できないのである。
 「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態(単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、神の言葉、啓示・和解であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト)・具体的には第二の形態(イエス・キリストによって唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」としての聖書)は、教会自身と世の「規準」・「法廷」・「審判者」であるから、その第一の形態・具体的には第二の形態に信頼し固執し連帯してそれを反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同の教会」を志向し目指す第三の形態としての教会の客観的な信仰告白は、教会自身およびこの世に対する・「全世界の思惟、語り、生に対する」、「公開性」「公共性」を持った「裁き」を喚起するものでなければならない。したがって、「まことの信仰告白」は、「ほかの」信仰告白・信仰的宣言に対して、「彼ら自身の聖書理解が正しいかどうかを吟味する」「規準」・「法廷」・「審判者」、換言すれば教会自身、この世、「全世界の思惟、語り、生に対する裁きを意味しているところの聖書」が、「存在していることについて、はっきりと気づくようにと要求する」。したがって、それは、政治的近代国家、民族国家を前提し固定した法制的中枢としての憲法規定に「気づくようにと要求する」ものではないのである。なぜならば、「神の言葉の三形態」に連帯してそれを反復することを通したそれは、個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和を、神の側の真実としてのみあるイエス・キリストにおける<完了>されたそれとして、それゆえに<客観的>現実性・<客観的>実在としてあるそれとして、それは、政治的近代国家、民族国家自体を無化してしまうものだからである――「教会の存在と現状が、……福音から考え・行動し・処理されているということを語っていないならば、教会の説教も福音宣教も虚しいものとなるであろう。教会みずからが、……その行為と態度によって、自己の内なる政治をこの使信に合わせてゆくこと(≪一切の政治的権力、一切の政治的合理性の形態、を無化していくこと≫)を全然考えないとしたならば、どうして世は、王とその御国の使信を信ずるであろうか」(『教会と国家 キリスト者共同体と市民共同体』)・「キリスト者は、政治生活において神の正義が人間によって誤認され・蹂躙される場合にも、神の正義は、……天地の一切の力が与えられているイエスの苦しみのゆえに、優越しているということを確信している。悪しき矮小なピラトが、結局は無駄骨折をするというように、配慮がなされているのである。その場合、キリスト者が、どうして、ピラト(≪一切の政治的権力、一切の政治的合理性の形態、擬制民主主義に基づく政治的近代国家・民族国家≫)のともがらと成ることができようか」 (『教義学要綱』)。したがって、国家論・革命論における過渡的――究極的課題について認識し自覚しないままに、昨年提示された日本キリスト教団の「祈り」やカトリックの「抗議声明」は、信仰的宣言としても、国家論・革命論としても、お話にならないものであり、それゆえにそれは、そうした政策的言語や法的言語によってあるいはそうした行動よって、現存する政治的近代国家・民族国家に加担していくものに過ぎないのである、反体制を標榜しながら体制に加担していくものに過ぎないのである。このような訳で、「まことの信仰告白」は、教会自身、この世、全世界を、「聖書の裁きの座の前へと連れ出す」、公開性・公共性にあるのである。したがって、それは、教会自身、この世、全世界に対して、「必然的に圧力を与えるもの」なのである。また、それは、「まことの信仰告白」は、「教会および世に対して……生命と死の主としてまことに知識と力をもち給う方によって(彼らの前提に対応しているのとは)全く違う仕方で決定が下されうるであろうということ……を明言しつつ」、「教会および世」を「おびやかす」ものなのである。言い換えれば、それは、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを「要求する」ものなのである。すなわち、それは、神が語り給うたが故に神が語り給うたことに「服する」ように、「神の判決に服するように」、具体的には教会自身と世の「規準」・「法廷」・「審判者」である聖書の「裁き」に「服する」ようにと「要求する」ものなのである。なぜならば、聖書において人間の時間は、「失われた非本来的な古い時間」・「否定された時間」・「否定的判決の時間」であり、「実在の時間」である「イエス・キリストにおける啓示の時間」から「『攻撃』された時間」だからである。聖書の啓示の真理によれば、キリスト者を含めて人間は、自主性・自己主張・無神性を本質としており、神の恩寵を嫌悪し回避する存在なのである。「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の『イエスの信仰』は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである)」(『福音と律法』)。したがって、不信とむなしさと不安と喜怒哀楽を生きる現にあるがままの私たち人間の「人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の<終極>として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ない」のである(前掲書)。したがってまた、「教会が完成された教会でなく、天と地が新しくなっておらず、イエス・キリストの中で基礎づけられた神と人間の関係の新しい秩序がイエス・キリストご自身によって直接完遂されていない限りは」、誰であれ私たちは人間は、キリストの再臨までの間の終末論的限界の下で、次のように告白し証しし宣べ伝えることしかできないのである――@「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう(≪その願いに対する、神のその都度の自由な決断による、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事を通してのみであろう≫)」(『福音主義神学入門』)、A「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ―そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)。B不信とむなしさと不安と喜怒哀楽を生きる現にあるがままの私たち人間の「人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、……確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」(前掲書)。
 ここで、もう一度、「戦後70 年にあたって平和を求める祈り」(日本キリスト教団 第39総会期第3回常議員会 2015年7月14日 可決)について考えてみよう。カトリックの「抗議声明」もそうなのだが、この「祈り」は、政治的近代国家、民族国家を前提し固定して、「日本は、多くの憲法学者が憲法違反と指摘して……いるにもかかわらず、集団的自衛権の行使容認を閣議決定し、そのための安全保障法案を国会で議決しようとしています」というように語っている。しかし、その表面的には反体制的な祈りにおける語りは、国家論・革命論の過渡的――究極的課題を認識し自覚していないから、そのような政策的言語や法的言語を介して体制に加担しているに過ぎないものなのである。なぜならば、観念の共同性を本質とする、共同宗教から解放された信教の自由が保障された政教分離の近代国家、共同宗教の最後的形態観念である近代国家、政治的近代国家、民族国家は、共同宗教の最後的形態・尖端的形態として、その国家を前提し固定した共同宗教としての信仰的宣言(その政策的言語や法的言語)を包摂してしまうことができる水準をもっているからである。バルトは、前述したような「信仰告白スル」・「信仰告白」・「信仰告白者という概念」と「自分を迫害し、圧迫しようとした異教的な世の力……と争った、苦痛で危険で、誘惑的な、それでいて結局」は、「神の言葉の三形態」に連帯してそれを反復することを通した「ヒトツノ、聖ナル、公同の教会」を志向し目指す(キリスト教に固有な類の時間累積を目指す)「約束に満ちた」「昔の教会的な関連性……の前に立って」、「信仰告白スル」とは、「この戦いの困苦を、しかしまたこの戦いの約束を、自分のものとして受け取ることを意味している」、と述べている。「この戦いには多くの形」があり、その信仰告白が「公開性」「公共性」を持つ時、「信仰告白者の生命を奪う」・「その外的自由を奪う」という「劇的な出来事の中で自分自身を確証」することが要求されることがあるのだが、信仰告白は、その場合に「初めて真剣となってくるのではない」のである。したがって、ステパノの殉教の本質は、その苦難の「行為」にあるのではなく、イエス・キリストにおける福音にのみ感謝をもって信頼し固執して、その福音(イエス・キリストの死と復活、啓示・和解、インマヌエル)を告白し証しし宣べ伝える「言葉」にあるように(『証人としてのキリスト者』)、ステパノのその言葉は、言葉だけでなく行為もという二元論における言葉ではなく、啓示の弁証法における言葉であって、それゆえにその言葉はその背後に行為を合わせ持っているのであって、それゆえにその言葉自体が必然的に行為へと連れて出していくところの言葉であるように、教会の<客観的>な信仰告白(「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態の啓示の「概念の実在」)の「真剣」さ・「決断」性・内容の是非は、「神の言葉の三形態」に連帯してそれを反復することを通してキリスト教に固有な類を時間累積させていく「ヒトツノ、聖ナル、公同の教会」に対する志向性を持った言葉(この言葉は<必然的>に行為へと連れ出して行く)にあるのである。したがって、信仰告白の「公開性」「公共性」を「奪おうとする」試み、すなわち「信仰告白を沈黙させようとする最悪の試みは、(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを通した「ヒトツノ、聖ナル、公同の教会」を志向し目指さないところの、≫)信仰告白それ自身の地盤の上で、換言すれば、その精神的、霊的な地盤の上で、不可能にしてしまおうとする試み」にある。その「最悪の試み」は、社会構成・支配構成・文明的――文化的構成の時代水準のただ中に現存する教会の信仰・神学・宣教の「環境が、すべての種類の信仰告白に対してとっくの昔に感覚が麻痺し……無感覚となって、(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すべき「感覚が麻痺し、……無感覚となって」、≫)信仰告白の然りと否に対して初めから聞く耳を持たず」、信仰告白の領域において、「真理問題が……死んでしまい」、あるいは「仮死状態に陥り」、それゆえに「真理問題」から強いられる「決断への関心を……根絶」されて、「極めて安価な仕方で活動する宗教的な企て」を志向していくそれである――@「ドストエフスキーの書いたあの大審問官は、神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていたのであるが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の善意(≪人間自身・教会自身が対象化した偶像としての「存在者レベルでの神」、その神の名と呼びかけによる人間自身・教会自身が支配し管理する救いと平和の計画・企て≫)によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、最も洗練された支配行為に過ぎなかったのである。神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえどのように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう。またそのようなところには、教会は存在しないのである。そのような救いの計画と救いの方法の独断性が、神に余りに僅かしか信頼せず、人間に余りに多く信頼するという点に現われるということは、疑いない」(『啓示・教会・神学』)、A「彼岸の消尽点が画の中に移され、神自身が人間の霊魂的な、また歴史的な現実の構成要素となり、従ってもはや神ならぬもの、偶像となる(≪偶像としての神の名と呼びかけによる、ヘーゲル主義的なモルトマンの神学的三段階的進歩史観のように≫)。これが特に危険な反乱であり、神への『反逆』である。その危険なわけは、それが、ごうまんにも神を忘れた公然たる反抗として行われず、実に神の名において、神の呼びかけのもとに行われるからである」(E・トゥルナイゼン『ドストエフスキー』)。次に、その「最悪の試み」は、「信仰告白に対して友好的な承認と寛容が与えられ」、信仰告白を、「教会の中でのグループ、思想方向、党派の決断を表明したものとして、あるいは自分自身ただグループ、思想方向、党派として理解され、……承認された教会の原理宣言として」、それゆえに「何らかの宗教的和議……協定を通して、保証され、……制限され……根本において骨抜きにされ」てしまうところのそれである。さらに「最悪の試み」「悪魔の最大の奸計」は、「誰かある者あるいは何人かの者」が、直接的に承認の「決断」をせず、それゆえに表面的にだけ「直接に、反対せずに」、「信仰告白が受け入れられ、肯定され、教会の中での(……世の中での)指導者たちが、……また大衆が、信仰告白を自分のものとする、あるいは少なくとも公式には自分の立場とするということの中に何らかの利益を見て取り、そこで急に関係ができてきて、自余の教会の側から、……また自余の世の側からも、ある仕方で枠にはめられ」るその枠組みと、その枠組みの中で「その信仰告白は……『攻撃され』ないし、それどころか……全く新しい教会的、世的な栄誉を……与え」られる前提を得るところのそれである、それゆえにその場合その試みは、「国家と社会、学校と大学も……信仰告白が語っているのと同じことを語」るようになり、教会自身と世、全世界の「裁き」としての聖書に連帯すべき信仰告白を「形骸化」させてしまうのである、その試みは、教会自身と世、全世界の「裁き」としての聖書に連帯すべき信仰告白を「初めから実りのないもの」としてしまうのである、そして最後的に、教会自身と世、全世界の「裁き」としての聖書に連帯すべき信仰告白は、「国家と社会」、「大学と学校」、世自身、世俗性に「凌駕」されてしまうのである。それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同の教会」を志向し目指すことをしないところの、それゆえに政治的近代国家、民族国家を前提し固定して、「日本は、多くの憲法学者が憲法違反と指摘して……いるにもかかわらず、集団的自衛権の行使容認を閣議決定し、そのための安全保障法案を国会で議決しようとしています」というように市民的常識、通俗性に依拠して語る「祈り」(日本キリスト教団の信仰的宣言)は、教会自身、世、全世界に対する、聖書の「裁き」に連帯しないところの、まさに「最も悪しき」「悪魔の最大の奸計」に憑依された単なる宣言、と言うことができるのである。
 教会の信仰・神学・宣教において、神学における思想家バルトだけが、このような事態をよく認識し自覚していたのである。したがって、バルトは、次のように述べたのである――@イエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを認識し承認し確認する。したがって私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し承認し確認する。すなわち、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪裁き≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけであることを認識し承認し確認する。言い換えれば、私たち人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また教会自身・「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所は、そのイエス・キリストにおける啓示の場所だけであることを認識し承認し確認する(『教会教義学 神の言葉』)、A「国家の自余の部分に福音主義を伝えていくことを、……断念した」と共に「彼らの信仰告白の伝道的な性格を、断念した」アウクスブルク信仰告白の徹底的に批判すべき側面を念頭に置きつつ、「私は、福音宣教から独立し、それと接触しない、『自己決定の権利』を国家に与えている、いまわしいルター派の教説をこれまで決して承認しようとはしなかった。(中略)私の神学的思惟は、神の主権と、キリスト教の使信全体の終末論的性格と、キリスト教会の唯一の課題としての純粋な福音の宣教の強調に中心があり、またそれにこれまで中心をおいてきた」(『バルト自伝』)、B「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての客観的な「啓示の実在」そのものであるイエス・キリストと共に「教会の宣教の原理」である、「規準としての聖書の性格」・「聖書の自由な力」を喪失させた信仰・神学・教会の宣教においては、「福音が純粋ニ教エラレ、聖礼典が正シク執行サレルということ」がなされないままに、礼拝改革・社会的政治的実践・キリスト教教育とか、教会と国家および社会との関係とか、国際間の教会的な相互理解というような領域で、「何か真剣なことを企て遂行してゆくことができると考える」のだが、そのことを決して首肯することはできない(『教会教義学 神の言葉』)、換言すれば、宣教の規準を、聖書と同時に、「最上の仕方で基礎づけられ、熟慮に熟慮を重ねられた人間的な判断」・教会的な判断あるいは「哲学、道徳、政治」等に置くこと、「特定の人種、民族、国民、国家の特性、利益と折り合」おうとすること、また、ある「社会機構、あるいは経済機構の保持」・「廃止」に貢献しようとすること、を決して首肯することはできない(前掲書)。このような訳で、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯したバルトは、次のように述べたのである――@「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストを、いっさいのものにまさって恐れ、かつ、愛すること、神を、大きな問題においても、小さな問題においても、彼がかってあり、いまあり、やがてあり給う権威のままに肯定し、是認すること、私たちの個人的、社会的生活を敢えて律して、すべての善きものを神から、神からすべての善きものを期待」するべきである(『共産主義世界における福音の宣教、ハーメルとバルト』)、A「西の獅子に全力をあげて抵抗しないような人びとは、決して東の獅子にも抵抗しえないし、また事実、抵抗しない」(前掲書)、B「不毛な反抗や反論を避けて」、「西でも東でも等しく通用し、西でも東でもひとしく稀であり、人々に好まれぬ福音に、無償の恩寵によって、素直に止まる」べきである(同書)、C「われわれは平和を維持するためにできる限りのことをしなければならない」。しかし、「このことは、われわれは平和主義者でなければならないということを意味しない。平和主義は一つの絶対主義だ(すべての主義のように)。われわれは神には服従するが、一つの原理や理念にはしない。したがって、われわれは最後の手段のために、(≪近代国家、政治的近代国家、民族国家が存在する限り≫)戦争の可能性はあけておかなければならない」(『バルトとの対話』)、D「人間の公私の生活においては、絶えず新たな支配が行われるような仕組みになっている」・「国家は支配であり、文化は支配」である。したがって、「どのような国家形態にも、どのような文化傾向にも、無条件に『然り』とは言わぬ」(『啓示・教会・神学』)、E「われわれが最も激しく非難する全体的、非人間的強制にしても、遠い昔から西方の自称自由社会や自由国家にもほかの形で出没した……」(『バルト自伝』)。
 このような訳で、「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯して、それを媒介・反復することを通して時間累積させていくことを志向し目指したバルトは、決して、近代国家、政治的近代国家、民族国家を前提し固定して、語りはしないのである・語ってはいないのである。人間学的領域のマルクスも吉本隆明もミシェル・フーコーも、エマニュエル・トッドやそのトッドに「聞いた」朝日新聞の論説主幹のように決して近代国家、政治的近代国家、民族国家を前提し固定して語りはしないのであって・語ってはいないのであって、それゆえにそれは全く止揚されるべき克服されるべき対象として語っているのであって、それゆえにまたそれぞれに差異はあれ、観念の共同性を本質とする国家の起源の問題、政治的合理性の形態の問題、国家の過渡的――究極的課題を念頭において語っているのである。またもちろん、彼らは、現存する、大多数の被支配の一般大衆に閉じられている制度でしかない、間接民主主義、議会制民主主義、それゆえに擬制民主主義を前提し固定して語ってもいないのである。なぜならば、例えば、先ず以ては、過渡的課題として、大多数の被支配としての一般大衆に閉じられた現存する国家をどこまでも開いて行くことが、それゆえにその一般大衆に関わる重要法案に対する、直接民主制、国民投票制の導入と拡大をしていくことが必要だからである。
 さて、先述したような「まことの信仰告白」から「身を避けようとする……根本的な形式」は、教会自身、世、全世界に対する「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通した「ヒトツノ、聖ナル、公同の教会」を志向し目指す類的連続性を持つところの、「呼びかけ、問いかけ、攻撃としての……性格を否定して」、世俗的通俗的一般的な「理論および文章」・社会的政治的「宣言」であろうとするところにあるのである。言い換えれば、その「根本的な形式」は、福音の言葉が必然的に行為へと向かわせるという啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、聖霊自身の証しの力、具体的には聖書の持つ証しの力に依拠するのではなくて、福音の言葉だけでなく、人間の自主性・自己主張も、人間自身が支配し管理する社会的政治的実践も、そうした言葉あるいは理論だけでなくそうした行為あるいは実践もという二元論的立場に依拠しているところにある、例えば、昨年の日本キリスト教団の「祈り」やカトリックの「抗議声明」のように。その「祈り」・「抗議声明」における近代国家、政治的近代国家、民族国家を前提し固定した政策的・法的言語を介した余りに人間的な教会の信仰的宣言は、たとえそれが反体制を標榜したそれであっても、その宣言の全部が、すべての観念の共同性を包摂したその最高水準にある観念の共同性を本質とする近代国家、政治的近代国家、民族国家、すなわち体制の側に包摂されてしまうものでしかないのである。したがって、近代国家、政治的近代国家、民族国家を前提し固定した論議は、たとえそれが大学の学者のそれであろうが、メディア的著述家のそれであろうが、誰のそれであろうが、「バカ話し」になってしまうのである。なぜならば、近代国家、政治的近代国家、民族国家から対象的になって距離をとらずに、それを前提し固定した在り方は、すべての観念の共同性を包摂したその最高水準にある観念の共同性を本質とする近代国家、政治的近代国家、民族国家と同じ土俵で相撲をとることと同じであるから、それは、その国家の側に必然的に包摂され敗北するに決まっているからである。なぜならば、共同宗教としての<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・教会の宣教は、人間自身・教会自身が対象化した「存在者レベルでの神」(偶像)を、その神(偶像)の名と呼びかけによる人間自身・教会自身が支配し管理するさまざまな企てを、第一義性・価値性として崇拝するそれとして、その最後的形態が、近代国家、政治的近代国家、民族国家だからである。
 前述したような「熱心さ」における信仰告白、信仰的宣言は、「まことの信仰告白」の「内在的な性格と超越的な性格」を――すなわち「神の言葉の三形態」に連帯してそれを反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すという性格を、それゆえに教会自身、世、全世界に対する「呼びかけ、問いかけ、攻撃(≪「信仰告白の必然的な公開性」・「信仰告白の公共性」≫)」という「性格」を「否定」したそれとして、人間自身・教会自身が支配し管理する「自分自身の主導権」において、そしてそのような「言葉と行為」において、政治的近代国家、党派的権力等「まわりの世界の主導権に対する関係の中で」、政策的言語や法的言語を介することで結局は、政治的近代国家、民族国家に、その体制に「凌駕」されてしまうそれでしかないものなのである。したがって、彼らのそれは、結局は体制への加担の言葉や行為として、「信仰告白の必然的な公開性」・「信仰告白の公共性」を喪失し、「全く願わしくないものとなってしま」う以外にないのである。なぜならば、彼らは、ただ、時流や時勢、世俗性、から孤立することを恐れるからである。再度述べれば、ほんとうは、政治的近代国家、民族国家を決して前提し固定しないところで、それゆえに政策的言語や法的言語に依拠しないところで、バルトが述べた「キリスト者は、政治生活において神の正義が人間によって誤認され・蹂躙される場合にも、神の正義は、……天地の一切の力が与えられているイエスの苦しみのゆえに、優越しているということを確信している。悪しき矮小なピラトが、結局は無駄骨折をするというように、配慮がなされているのである。その場合、キリスト者が、どうして、ピラト(≪一切の政治的権力、一切の政治的合理性の形態、擬制民主主義に基づく政治的近代国家・民族国家≫)のともがらと成ることができようか 」(『教義学要綱』)というこの言葉の方にこそ、あの「信仰告白の必然的な公開性」・「信仰告白の公共性」があるのである。このことは、国家論・革命論においても言えることなのである。このような訳で、現在を止揚する課題を認識し自覚しないところの、国家論・革命論の過渡的――究極的課題を認識し自覚しないところの、現存する政治的近代国家、民族国家を前提し固定して語ることが現実的であると考える学者やメディア的著述家等の現実<主義>者の論議は、「バカ話し」としかならないのである。「信仰告白の必然的な公開性」・「信仰告白の公共性」を「意志」し「実際的」実践的に志向し目指さない「信仰告白」は、「いかにそのものが理論および文章構成として神聖にして犯すべからざるものとしてそこに立っていようと、……それの内在的な性格を保持しようとする熱心さがいかに大きいものであろうと……それ自体既に信仰告白の否定」なのである。言い換えれば、それは、教会自身、世、全世界に対する「呼びかけ、問いかけ、攻撃(≪「信仰告白の必然的な公開性」・「信仰告白の公共性」≫)としての……性格を否定」した、それゆえに「〔ふぬけな〕害のない」、箸にも棒にもかからない、然りでも否でもない、非自立的で中途半端なものでしかないものなのである。したがって、それは、教会自身(その成員)、世、全世界を、「聖書と神の裁きの座の前に引っ張ってゆき、それと共に(≪自分自身の「前提」の是非を問うて≫)決断するよう迫ってこない」それである。「その時には、信仰告白そのものは単なる紙切れとなってしま」うのである。
 このような訳で、「信仰告白の必然的な公開性」・「信仰告白の公共性」は、「教会と世のただ中でにおいて、呼びかけ、問いかけ、攻撃としてのその超越的な性格の敢為と責任性を身をもって、それであるから彼らの実践的な態度の中で身をもって具現化し、信仰告白が言葉であることを、彼らの現実存在の中で表現」し、「そのことでもって信仰告白の宣言を実際になして行く信仰告白者がいる」、「ということの中で……出来事となって起こる」ところのそれである。この「信仰告白の必然的な公開性」・「信仰告白の公共性」は、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)に連帯してそれを反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指す中で出来事となって起こるのであり、それゆえにそれは、教会自身、世、全世界に対する「呼びかけ、問いかけ、攻撃としての……性格」を持つのであり、それゆえにまたその信仰告白の言葉は「抵抗」(行為、実践)へと必然的に連れ出すのであり、それゆえにまたそれは、「本来的に、信仰告白の存続」(キリスト教に固有な類の時間累積、歴史性)となるのである。そうでない場合は、その信仰告白は、「遅かれ早かれ、……理論および文章構成としても信じるに値しないものとなり、それ自身において崩壊し、時代遅れとなってしまう」のである。言い換えれば、そうでない場合は、その信仰告白は、自然時空に死語化していく以外にはないのである。また、そうでない場合には、教会は、「大敗北」を招くのであり、「今もそう」なるのである。したがって、「神の言葉の三形態」に連帯してそれを反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同の教会」を志向し目指すところの、教会自身、世、全世界に対する「呼びかけ、問いかけ、攻撃としての……性格」を持つ、換言すればそうした公開性・公共性を持つ教会の「まことの信仰告白」は、すなわち世俗的通俗的には「最も取るに足らない、最も僅かな抵抗、……そのような抵抗」は、「信仰告白の存続を意味」しているのであり、……それと共に」、その信仰告白は、その「勝利を通して教会の新しい生命が、出来事となって起こるであろうという約束を持っている」ものなのである。また、それは、「死んだ、あるいは仮死状態にある真理問題を再びよみがえらせ」、人間自身・教会自身が支配し管理する世俗的通俗的な一切の「安価な解決」に対して、「仮面をはぐ力を持っている」のである。また、それは、「まこと」のそれであるがゆえに、「まさに人が(≪その世俗性通俗性が≫)それに対して暴力に訴えなければならないと考え」行動したことに対して、「結局は、勝利をおさめたのである」・勝利をおさめるのである。また、それは、「必ずしも英雄的な、熱情的な信仰の告白でなくても」よかったのであり、「いかなる特別な業や業績、……内的な資格や性質を必要としない」のである。しかし、また、それは、神と人間との無限の質的差異の下で、「神を恐れる恐れが人間を恐れる恐れよりも少しばかり大きいということを……必要としている」のである。したがって、それは、「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すところで、教会自身、世、全世界に対する「呼びかけ、問いかけ、攻撃としての……性格」を持った、換言すればそうした「公開性・「公共性」を持った「信仰告白を定式化して表現」することであるが、それと同時に、それは、そうした「まこと」の信仰告白を「繰り返し……宣言するということ……を必要としている」のである、キリスト教に固有な類の時間累積、歴史性を必要としているのである。
 さて、前述したような「まことの信仰告白」は、人間的「教会的な権威を持っている」。すなわち、それは、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第三の形態としての「教会の中にあって、(≪「神の言葉の三形態」に連帯しそれを反復することを通したところの≫)秀でた仕方で聞こえてくる父祖たちと兄弟たちの声として秀でた仕方で聞かれることがゆるされるし、聞かれなければならないということである」。このような仕方においてしか、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第三の形態としての教会の「公開性」・「公共性」を持った、「拘束的な、義務を負わせる」、教会の<客観的>な信仰告白および教義(第三の形態における啓示の「概念の実在」)はないのである。教会が「まことの教会」として「現実に生きるところ、そこでは実際の教会的な信仰告白が……秀でた意味で聞かれる」とは、このことである。「あの時の教会と今の教会の間の連続性、あそこの教会とここでの教会の間の関連性」における「教会的な信仰告白が……出来事となって起こ」るとは、このことである。したがって、「実際の教会的な信仰告白」が、このような仕方で、「この秀でた意味で聞かれないところでは」、その教会は、「まことの教会」として「実際に生きてはいないのである」。このように、教会における「まことの信仰告白」は、「場所」性、「時間」性(その固有な時間性、時代性)、「事柄」性に「制限」・規定されているのだが、一方で、「あの時の教会と今の教会の間の中断されない連続性(≪キリスト教に固有な、時間的連続性、歴史性≫)が、あそこでの教会とここでの教会の間の中断されない関連性(≪キリスト教に固有な、普遍性共通性、類≫)が、存在しているのである」。「人はこれら両方の方向において……教会的な信仰告白を聞くのであり、……特定の制限の中で、特定の仕方において、聖書の注釈と適用の歴史にあずかるのであり」、それゆえに現存する教会は、それに連帯しそれを反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すという「特定の仕方で応答してゆくべき責任を持っているのである」。このような「教会的な信仰告白の権威」は、「霊的な権威、換言すれば、聖書の正しい注釈としてその性格の中に基礎づけられ、そのようなものとして自分自身を基礎づけて行く権威」であるから、それゆえに「それに対して教会法」は、「何も付け加えること」も「何も取り除」くことも「できない」のである。それは、「教会と教会の間にある事実的な連続性と事実的な関連性の内部で、それ自身の重みのゆえに、告白となった認識のゆえに」、換言すれば、それは、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、聖霊自身の証しの力、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)に根拠づけられた「信仰告白そのもの」が、「決定する」のである。このような訳で、内在的には、「古代教会の三位一体教義(三八〇年、ローマ国家教会のためユスティニアヌス法典に編み入れられた)」は、「グラティアヌス、ヴァレンティアヌス、テオドシウス帝の勅令を通しその三位一体教義に与えられた権威によって生きたわけでは」決してないのである。また、「アウクスブルク信仰告白はただ単に、それに対して一五五五年の宗教的和議を通してルター派領域に与えられた権威によって生きたわけではなかった」のである。また、「信仰告白は、その教会法的な確定が政治的な力とは無関係に、ただ教会そのものの自由な決断を通して発生したところでも、そのような確定を通してそれに与えられた権威によって生きたのではない」のである。したがって、三位一体論・三位一体教義は、旧約聖書における「ヤハウェ」、新約聖書における「神(テオス)あるいは主(キュリオス)自身の自己啓示」として、それ自身に基礎づけられた「権威」を持つのである。すなわち、それは、それ自身が三位一体論の唯一の啓示の類比としての、またそれ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性において、それゆえに聖書また教会の宣教において、神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示するところの、キリストにあっての神に根拠づけられているのである。ここに、「まことの信仰告白」の「霊的な権威」はあるのである。したがって、それは、「教会法を伴って、あるいは教会法なしに、常に繰り返し」、「霊的な権威として聞かれる」のである。したがってまた、三位一体論は、「啓示の認識原理」として、「神論の決定的に重要な構成要素」として、「教会の宣教の批判と訂正」の「規準」・「法廷」・「審判者」として聞かれるのである、聞かれなければならないのである。
 前述したような、人間自身・教会自身の自主性・自己主張によって対象化された宗教(偶像崇拝)としての教会ではないところの、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯してそれを媒介・反復するところの教会が現存するところ、「そこではその教会」は、「まことの信仰告白」に対する「責任によって規定された教会」であり、「その限りその教会」は、「信仰告白的な教会……である」。なぜならば、その「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを通した「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指す<客観的>な信仰告白自身が強いる「拘束的な、義務」を認識し自覚した「まことの信仰告白」を告白する教会は、教会自身、世、全世界に対する「呼びかけ、問いかけ、攻撃としての……性格」を持った、換言すればそうした「公開性」・「公共性」を持った「信仰告白を定式化して表現」すると同時に、そうした「まこと」の信仰告白を、「神の言葉の三形態」に連帯してそれを反復することを通して「繰り返し……宣言」し続けるからである。したがって、この教会の「まことの信仰告白」は、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性から逸脱することはしないのである。「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態である教会の「信仰告白はいかなる意味においても聖書(≪単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、神の言葉、啓示・和解、客観的な啓示の実在そのもの、であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストによって唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、最初の・第一の啓示の「概念の実在」≫)と肩を並べることはできず、それであるから聖書の神的権威、教会の宣教の源泉および標準としての聖書の性格、を自分のものとして主張することはできない」し・「主張すること」はしないのである。言い換えれば、「聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのである」。「ただ神の前での責任(≪具体的には、神と人間との無限の質的差異の下で、終末論的限界の下で、聖書を教会の宣教の「規準」・「法廷」・「審判者」として認識し自覚すること≫)だけが、そこで問題である」。すなわち、教会の認識・信仰・告白・証し・宣べ伝えが、「キリスト教的語りの正しい内容と認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身」の決定事項なのであって、人間自身・教会自身の決定事項ではないという認識と自覚が、重要なのである。ハイデッガーがブルトマン神学の果てに想定されるのは「安っぽい無神論」以下のものでしかないと揶揄・批判した時、その揶揄・批判は、ブルトマン神学の場合、その神もその啓示も、結局は、人間自身(ブルトマン自身)が対象化した「存在者レベルでの神」(偶像)としかならないし、その偶像の啓示としかならないという指摘にあったのだが、バルトは『ルドルフ・ブルとマン』において、次のように根本的包括的な原理的な批判をしている。その一例を挙げてみる――<ブルトマン>は「神話的世界像と神話的人間像」は時代の経過とともに、「われわれの前から消え去ってしま」うし、私たちの「眼前存在」・現前性は「近代的な世界像、人間像」にあるから、「神話形式のままでは、新約聖書の言表」、すなわち「語られた内容の表現」は理解できないから、それは「非神話化されなければならない」、と語る。それに対して、<バルト>は、こう語るのである。「聖書註解者」は、「だれに対して」、「誠実と真実をささげるべきなのか?」・「責任的応答をなすべき」なのか? 「同時代の人たちの思考の前提に対してか?」・「そこから形成された理解の規準に対してか?」。否である。私たちは、十字架につけられ、復活したイエス・キリストにおける私たちの「実存という場所」において、私たちの「信仰より以前にも、信仰なしでも、……不信仰に抗して」も、私たちのために「生きて、われわれを支配」し、私たちを「愛し給う」イエス・キリストを、その啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、聖霊自身の証しの力、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを反復することを通して「認識し、持つことができることを示すということ以外の何が問題となるのだろうか?」。もちろん、キリスト者であれ、それがその現にあるがままの人間的存在である限りは、不信とむなしさと不安と喜怒哀楽のただ中を生き生活しているのである。自己身体を座とする対自的で対他的な自由な自己意識を介して思考しているのである。しかし、「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・告白し・証しし・宣べ伝える責任ある証人となる場合、すなわち啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に感謝を持って信頼し固執し連帯する啓示認識・啓示信仰である。その時初めて、神の言葉は、すなわちイエス・キリストは、私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができるのである。したがって、人間学的なただ「単なる知識」に過ぎないある理念・ある概念の実体化・「最高存在」・「最モ完全ナ存在」としての啓示概念は、神の言葉の「概念の実在」・啓示の「概念の実在」ではないのである。このような訳で、聖性・隠蔽性・秘義性を本質とする神の言葉(それゆえに、神の不把握性の下での、終末論的限界の下での、神の言葉)は、「人間の現実存在の内部」、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍、人間の感情や理性や実存や意志、人間学的な哲学原理や認識論や世界観の中にはないのである。
 このような訳で、教会の<客観的>な「まことの信仰告白」(「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の啓示の「概念の実在」)は、「聖書の第一の注解」であるから、「聖書の第一の注解として読まれることを欲している」のである。したがって、それは、聖書と等価ではないから、「聖書そのものに取って代わることはできない」のである。したがってまた、それは、そのように「読まれ」・「聞かれることを欲している」のだが、聖書の「唯一の注解」ではない。それは、「注解の系列の中」での「先詠者あるいは主要証人」である。歴史主義は、人間精神が生み出したものを問題とする限り、「啓示を問おうとしない」で人間精神の自己理解を第一義として「聖書の中でも神話を問う」ことをする。しかし、「啓示の証言としての聖書の理解」と、「神話の証言としての聖書の理解」は、相互排除の関係にある。「神話の証言としての聖書の理解」を目指す「歴史的――批評的神学の体系」が、「使徒信条やハイデルベルク信仰問答と比べて」、「神話の証言としての聖書」に対して「近親性」を抱き、そうした「先入見をもって、聞かれるべきであると……考え」時、彼らは、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における聖書の証言を「神話」として受け取り注解するという「迷信」・迷妄性の陥穽に陥ったのである。言い換えれば、宗教としての「形而上史学的な歴史の科学」の信奉者の彼らは、人間学の後追い知識人(知識)として、ブルトマンと同じように、人が個・現存性――類・歴史性を生きるということ、現存する教会(その成員)が「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性を生きるということ、このことについて全く認識し自覚していなかったのである。また、「聖書的なテキストと教会的な信仰告白の……どちらを選んだらよいのかという選択の問題」は、先ず以て「われわれは決定的にテキストへと指し向けられ、テキストに結びつけられているのであって、注釈へと指し向けられ、注釈に結びつけられているわけではない」という点にある。言い換えれば、「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における、第三の形態(教会、注釈)をではなく、第二の形態(聖書、テキスト)を「優先」し「選択」すべきなのである。そうでない場合は、必然的に、人間自身・教会自身が対象化した「存在者レベルでの神」(偶像)の、その偶像の啓示の、その偶像の名と呼びかけによる人間自身・教会自身が支配し管理する「安っぽい」企ての、陥穽に陥っていく以外にないのである、現在から未来に生きる言葉を与えられることなく、ただ暗い闇の中に停滞する以外にないのである。
 その現にあるがままの現存する教会(その成員)が、「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性を生きるという時、教会(その成員)の<客観的>な信仰告白は、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性の中で「信仰告白的に規定されながら」、現在的課題、現在を止揚し克服する課題の「道に……足を踏み入れる」ことが強いられるのである。したがって、昨年の、近代国家、政治的近代国家、民族国家を前提し固定したところの日本キリスト教団の「祈り」やカトリックの「抗議声明」は、「まことの信仰告白」、信仰的宣言とはなり得ないのである。なぜならば、それらは、教会自身、世、全世界、政治的近代国家・民族国家に対する「呼びかけ、問いかけ、攻撃としての……性格」を持った、換言すれば「公開性・「公共性」を持った「信仰告白」ではないからである。また、なぜならば、それらは、国家論・革命論的に、その過渡的――究極的課題も提示せず、それゆえに根本的究極的な、戦争廃絶の構想を、民族国家の揚棄に基づく世界的平和の構想を、提示してはいないからである。「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態である教会の<客観的>な「信仰告白そのもの」は、「抽象的ナ仕方デキリスト教信仰の表現であるわけではなく」、その戦いの対象である特殊性・固有性・時代性を持つ「異端に対立する」「個々の具体的な決断を遂行している」「信仰の戦いの道具」であるから、「聖書注解の道しるべとする」ことはできるのだが、「教会の宣教の主題」とすることはできないのである。「教会の宣教の主題」は、あくまでも、「神の言葉の三形態」の第一の形態、神の言葉、啓示・和解、イエス・キリスト、具体的にはその第二の形態である聖書(イエス・キリストによって唯一過的に特別に召され任命された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)にある。それは、あくまでも、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反服することを通してキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、その「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」――福音を内容とする福音の形式としての律法(神の命令・要求・要請)、すなわちイエス・キリストの死と復活、その福音の告白・証し・宣べ伝え――にあるのである。したがって、自然史の一部としての人類史の自然史的過程という観点を持たず、また人間が理性だけで生きているという形而上学的一面的固定的抽象的な観点に依拠して、「ルターによれば、……文明の体系は全体として、神律的側面と相対的に自律的な側面とを持っている。神律的というのは、文明を担う諸力は神の恒常的創造者としての活動であるという意味……相対的に自律的だというのは、神の創造者としての働きは人間理性によって把握されるからであり、理性に基づく、人間の神との共働の行為は自発的に形成されるからである』」(『ルターとバルト』)という神学者・倉橋功の二元論的な神と人間との「共働」論、また『福音と世界』(無料版)にあったカトリックの二元論的な「宣教A」と「宣教B」という宣教論は、人間自身・教会自身が恣意的独断的に対象化したそれでしかないものなのである。「よく理解せよ」・「今や信仰告白はそのまま、あらゆる事情のもとでわれわれに相対して置かれた対向者……となる……」、「ただ聖書を通して拘束されている」「われわれ自身の思惟と語り……だけが」、その「地平線のこちら側、……地平線の内部において、問題である」、「ただ聖書を通して拘束されている」「われわれ自身の思惟と語り」の場所は、「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを通した、「昔の教会の三位一体的な証言と、そのみ言葉の中での神の支配と神の自由な恵みについての宗教改革的な証言を通して規定された」「教会の場所」なのである、したがって、この場所においては、「ただ単にわれわれ自身が語るだけでなく、また父祖たちと兄弟たちも語るのである」、「教会的な信仰告白」が現存するのである、このようにして、外在的な「教会堂……の場所の中で起こること」は、「『教会』が満ち溢れる力の中にあるにしろ弱さの中にあるにしろ、忠実であるにしろ堕落しているにしろ」、「われわれ自身の聖書注釈と聖書の適用が責任として厳粛に表現される」「『教会』となった信仰告白……の現臨の中で起こっている」のであり、それゆえにそれは、「われわれを……(≪「神の言葉の三形態」に連帯してそれを反復することを通した「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すところの、キリスト教に固有な<客観的>な信仰告白および教義を時間累積させる教会であったのか・教会であるのか、あるいはそうではない教会であったのか・教会であるのかという≫)教会史と直面させる」ことになるのである。したがって、教会史も、二つの系譜に総括することができるのである。すなわち、今まで何度も述べたように、ここでも、<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返す系譜に属するところの信仰・神学・教会の宣教におけるそれと、バルトの、<自然神学>の<段階>を根本的包括的に原理的に止揚し克服した系譜に属するところの信仰・神学・教会の宣教におけるそれ、というように総括することができるのである。
 さて、教会的な「まことの信仰告白」は、「直接あるいは間接的に……今日に至るまで」、「その発生の時以来特有な……教会を特徴づけるている声として……引き続いて語」っているのであり、それゆえにそれは、「われわれの言葉に対して暗黙のうちに……自分の言葉を対置することをやめないのである」。人は歴史的現存性に強いられてしか生きられないのであるから、現存する教会(成員)・「われわれが(≪普遍性連続性を持つと同時に固有性時代性を持つまことの≫)信仰告白」に対して、「(≪具体的に聖書に連帯しそれを反復することを通して、「批判的に信仰告白を解釈する」という仕方で≫)自由に相対して立つと同じように」、全く「自由に」、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、聖霊自身の証しの力に基づいて、「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを通した「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指す「まことの信仰告白」は、「われわれに相対して立」ち、その「霊的な権威」を「認識」させ、「尊重」させる仕方で、「最も雄弁に語ってくるのである」。このような訳で、「正しくも、あるいは不正にも」、「われわれがどのような仕方で……信仰告白に相対して立つとしても、それは依然として教会の中での父祖とたちと兄弟たちの声である(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯してそれを媒介・反復することを通している≫)がゆえに、……信仰告白が行使するするところの霊的な権威である」。したがって、「われわれがこの向かい合いを意識しており、われわれ自身の自由をこの向かい合いの中でだけ、ただこの地平線の内部でだけ、実行に移すことを甘受するということ……が、信仰告白の権威を霊的に尊重すること」なのである。ここに、「まことの信仰告白」の「責任」性がある。ここに立脚してバルトは、『教会教義学 神の言葉』で、近代主義的プロテスタント主義的神学におけるその信仰・神学・教会の宣教が、「キリストの永遠のまことの神性の告白」を信用しない場合、それは、その原理・その認識方法と概念構成が、身体性に依拠した「視覚的錯覚」、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍、存在の比論に依拠しているから、というように述べている。この場合、バルトが述べているように、和解に関して言えば、「赦す神」が人間に内在しなければならないことになり、その認識自体が<自然神学>的な「思弁」でしかないものとなるのである。したがって、そこでの神は、逆に、人間自身・教会自身が対象化した「存在者レベルでの神」(偶像)でしかないものとなるのである。そのような認識方法と概念構成においては、イエス・キリストは、「下からの半神」、「超人」、人間の「最深の本質」・「最高の理想」、キリスト教的実存の範型、社会的奉仕活動の範型、政治的実践の範型等の単なる「空虚な概念」でしかなくなってしまうのである。
 前述したように、教会の<客観的>な「まことの信仰告白」および教義は、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性の第三の形態におけるそれとして、それは、決して「啓示」と同一・等価ではないし、また決して「教会の宣教の教えの法則、あるいは内容」ではないのである。したがって、決して、「聖書の神的権威に侮辱を加える」ところの「教会と啓示を等置するローマ・カトリック主義の内在神学」を首肯することはできないのである。言い換えれば、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における、普遍性連続性を持つと同時に固有性時代性を持つ教会の<客観的>なまことの信仰告白および教義のその普遍性連続性の源泉は、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、聖霊自身の証しの力、にあるのである。したがって、それは、神と人間との無限の質的差異、聖性・隠蔽性・秘義性を本質とする神の不把握性、それゆえに終末論的限界、の下にある現にあるがままの人間の、不信のただ中にあって「制限され、誤りうる人間」の、その「人間的な言葉そのものの力」にあるのでは、決してないのである。したがってまた、「神の言葉の三形態」に連帯してそれを反復することを通した教会の<客観的>なまことの信仰告白および教義(第三の形態における啓示の「概念の実在」)は、「神の言葉の聖霊に対する服従の文書であり、それ故神の言葉の力と支配の道具」なのである。この意味においてのみ、その制限性・限界性においてのみ、それは人間的教会的な「権威」を持つのである。このような仕方で、「聖霊ご自身が行動し、働き給うのである」。このようにして、教会の<客観的>なまことの信仰告白および教義は普遍性連続性を持つのであるが、それと同時にそれは、固有性時代性も持っている。「アリウス、あるいはネストリオスの命題……に対」する「古代教会のキリスト論的教義」は、固有性と時代性をもっている。しかし、その「古代教会のキリスト論的教義」・「キリストの神性の教義」こそは、近代以降の、「キリストの永遠のまことの神性の告白」を信用しない近代主義的プロテスタント主義的神学におけるその信仰・神学・教会の宣教に対して、「神的啓示と人間的な信仰の間」におけるその「幻想性」・その「形而上学」性を、その人間自身・教会自身が対象化した「存在者レベルでの神」(偶像)性を打破できる信仰・神学・教会の宣教における思想的な「武器」なのである。このような訳で、「神の言葉の三形態」に連帯してそれを反復することを通した「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すところの「教義の中で前提され、語られている命題」は、「現在的な意味を持って」いるのである。すなわち、キリスト教に固有な類の時間類生、歴史性を持っているのである。
 さて、<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返している信仰・神学・教会の宣教を、原理的に・根本的包括的に規定するとすれば、それは、バルトの『カント』の中にある次のような言葉であるだろう――「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰である」とした「カントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」、これである。「十九世紀においてリッチュル学派」が、「古代教会の教義」の持つ固有性時代性と普遍性連続性との構造性・共時性を認識し理解することができずに、「古代教会の教義が持っていたギリシャ哲学的思惟の背景をそれとして」取り出し、それを拡大鏡にかけて、その教義の「正体を暴露することができると言いふらした時」、また「自分たちが持っている『敬虔さ』、道徳性、考え方」を、「三位一体的――キリスト論的教義の意味を……相対化」することに置いた時、「そのことは……事柄」的に「古代教会の異端と……正確に一致しており」、それゆえにその真意は、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを通した「古代教会」が形成した「(神、キリスト、聖霊に関する)思惟と教え」(「教義の存在」)に対して、人間自身・教会自身が支配し管理することができる「自由な道を造り出そうとする」点にあったのである。したがって、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを後景に退けてしまいそれを捨象しようとしたリッチュルによれば、「イエス・キリストは、……われわれの価値判断に基づいて神の子であることが分かった偉大な人間であった」、「ハルナックによれば昔の教義は福音の地盤の上でギリシャ的精神が自分を表現していった自己表示」であった。八木誠一によれば、イエス・キリストは、「人間存在の根底を語り続けた」「ただの人であり、ただの人として自らを自覚し、ただの人の真実のあり方を告げた」人間であった。滝沢克己によれば、イエス・キリストは、人類史のアジア的段階における自然原理によって対象化された「根本的事実」・「インマヌエルの事実」から生成された「生ける徴」であった。佐藤優によれば、天皇の<権威>は信じる対象ではあっても、「高等教育を受けた」佐藤には、「天にいる神」は信じる対象ではなかったし、それゆえに「高等教育を受けた」佐藤には、<三位一体論>を信じてはいないということを「口にしてはいけないというのが、キリスト教信仰の第一の前提」であった。個体的自己としての全人間・全世界・全人類の過渡的――究極的な救済・平和の課題を認識し自覚せず、トータルな世界認識・歴史認識の方法を持たず、国家論・革命論の過渡的――究極的課題を持たず、社会構成・支配構成・文明的――文化的構成の時代水準によって変容する大多数の被支配としての大衆像とその大衆的課題を認識し自覚もせず、何が現在的課題であり現在を止揚する課題であるのかを認識し自覚をせず、さらに近代国家、政治的近代国家、民族国家から対象的になって距離をとらないままに、それゆえに「バカ話し」としかならない近代国家、政治的近代国家、民族国家を前提し固定した上で、「聖書原理および義認論よりももっと重要なのは」と大言壮語して、それは、「社会問題や民族の問題、戦争の問題、婦人問題」、政治問題、エコロジーの問題等々に対する「キリスト教的解答である」、とさまざまな「人は語った」のであった、「福音の敵」は、「業による義」ではなく、「ただ名前だけキリスト教と呼ばれる大衆の無関心と世俗主義」である、と「人は語った」。しかし、ほんとうは、その自らが倫理化道徳化した世俗主義における宗教としての「業による義」を目指す「福音」理解が問題なのである。ここで問題は、自己欺瞞に満ちた、ただ上昇していくだけの往相的な信の言葉と行為が問題なのである。親鸞は、「称名をとなえ至心に信心」できず、「即座に救われ浄土へ往」けない、あるいはこの現世に多くの未練や執着があって速やかに浄土へ往きたいと思えないし思わない庶民的現実像と庶民的課題とを自らの浄土教理(そのような庶民像と庶民的課題をという現実的契機を繰り込んだところの、自己身体を座とする観念・知識)に繰り込んで、一念義によっても救済されるという思想を構成したのである。言い換えれば、還相的な課題は、偶然的に出会った個別の衆生を助けるという往相的な過渡的相対的緊急的救済にはないのであって、煩悩や生老病死等々で困窮し疲弊する「一切の衆生」の救済という還相的な究極的総体的永続的救済にあるのである。このように、親鸞は、上昇する教理の自然的往相的な宗教的学問的知識的言葉ではなく、そうした非日常、すなわち一方通行的に上昇するだけの信や知識、から、再び日常へ、不信や非知へ、と下降したところで答えていくことを、すなわち教理の意識的還相的な思想の言葉で答えていくことを眼目としたのである。したがって、親鸞は、「善」の自覚よりも「悪」の自覚の方が阿弥陀仏による救済に近づきやすいように、「知」よりも「愚」、すなわち「南無阿弥陀仏」の称名念仏の方が阿弥陀仏による衆生の究極的総体的永続的救済に近づきやすい、と意識的還相的に思想したのである。この親鸞は、聖人、宗教者、知識人、善人、誰であろうと、現実的な戦争とか愛憎問題とか利害対立とかの不可避的な「機縁」さえあれば、自分が意志しなくとも、人一人だけでなく多数の人を殺し得るという究極的観点(還相的観点)において、自己欺瞞に満ちた市民的観点・市民的常識(往相的観点)から超出したのである。バルトは、『福音と律法』で、次のように述べている――真実の罪とは、人間の「自主性」、「恩寵に対するわれわれの拒否と神に対するわれわれの『自己主張』」のことであり、人間にある「無神性」のことである。神は「福音と律法」の賜物を、こうした罪人である人間の手に「にもかかわらず」与えるのだが、この「消極的な意味」とは何か? 主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」――イエス・キリストが信ずる信仰による神の義にのみ信頼し固着せよ、という福音の形式である律法(神の「誡め・要求・要請」)に対して、人は、自己義認の欲求・自主性・自己主張を手放すことはできない。したがって、人は、福音の形式である律法を聞く時、「律法を悪用する」「罪の法則」によって「善きものを反対物に変」えるという人間的な「巨大な欺瞞」を惹き起すのである。このようになる根拠は、人間が、義認の唯一の根拠である「イエス・キリストが信ずる信仰による神の義」を、すなわちイエス・キリストが「律法の終わりとなられた方」であることを聞かず認識せず承認せず、人間的な実在と人間的な可能性へと偏向して、神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認・自己聖化の欲求も、という神との「共働」を求め続けるところにあるのである。その場合人間は、「神の要求」を、人間的な「自分自身の要求」に、「自分で満足させ得る要求」に変えて、「神的な『汝は斯くなすであろう』を変じて」、「人間的な余りに人間的な『汝は斯くなすべし』」をつくり上げるのである。このような神に対する「熱心さの無知」は、人間の自主性・自己主張・自己義認・自己聖化の欲求に基づいており、「神の要求」を、人間によって恣意的に曲解された「十誡・預言者の言葉・ソロモンの処世上の知恵・山上の垂訓また使徒の報告」に過ぎないものへと変えてしまうのである。この時、人間のその存在・その思惟・その実践は、「罪」に「勝利を収め」させる熱心さ・「不従順」・「虚偽」となる。なぜならば、その「無数の儀文」は、「偶像崇拝」・「神冒?」を生じさせるからである。すなわち、ある者は「盲目的に」仕事へと没頭し、ある者は「人目をひくような簡素さと寡欲さに沈潜する」、ある者は「その時代の人間中の様々な敗残者に対して、熱心に博愛的配慮……教育的配慮を行う」、ある者は「大規模な世界改良の偉大な計画」に邁進する、ある者は「大衆や時代の傾向と手をたずさえて、ある種の正義」に邁進する。「まことに空の空なるかな、である。これらすべてのことが、一体何だろうか」。このバルトの言葉は、倫理道徳の言葉ではない。神学における還相過程からの思想の言葉である。「人はよく注意せよ」――そうした人間の自主性・自己主張・自己義認・自己聖化の欲求は、換言すれば「社会問題や民族の問題、戦争の問題、婦人問題」、政治問題、エコロジーの問題等々に対する「キリスト教的解答」の欲求は、「その背後に、宗教改革が信仰告白をなしたまさにあの宿敵」が、「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを後景へと退け捨象してしまったところで、「教会の中に再び忍び込んでこようとしている」「新しい形態」なのである、キリスト教の倫理化道徳化・世俗化への誘惑なのである。したがって、教会の<客観的>なまことの信仰告白および教義(「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態の啓示の「概念の実在」)については、知識主義・「グノーシスに対する教会の戦いの文書」である「使徒信条」の「ワレハ天地ノ造リ主、父ナル全能ノ神ヲ信ズ、ワレハソノ独リ子、ワレラノ主イエス・キリストヲ信ズ、という言い方でもって門戸を閉ざしてしまう方がいつも、至るところで適切」なのである。このことは、通俗的な寛容・非寛容の問題ではなく、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼してそれを反復することを通した啓示認識・啓示信仰として、言い切るべき問題である。なぜならば、人間の自主性・自己主張・自己義認・自己聖化の欲求は、換言すれば「社会問題や民族の問題、戦争の問題、婦人問題」、政治問題、エコロジーの問題等々に対する「キリスト教的解答」の欲求は、決して「啓示」(神の言葉、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト)と同一・等価ではないからである。それ以前の問題として、そのような時勢や時流あるいは人間学に依拠した、人間自身・教会自身が企てるキリスト教的な愛の奉仕やキリスト教的な救いと平和の試みよりも、人類史のアフリカ的段階・縄文的段階における自然的な生活や精神の在り方の方が優れていることは自明なこととして存在しているのである(例えば、『日本奥地紀行』および『民族読むアメリカ』)。「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを通したキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、それを根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(イエス・キリストの死と復活、その福音の告白・証し・宣べ伝え)が、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」なのである。先ず以て、第一義的に、最重要なことは、次の事柄にあるだろう――イエス・キリストにおいては、個と共同性は逆立し対立するのではなく、正立し平和であるということ、それだけではなく、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、啓示・和解)であるまことの神にしてまことに人間イエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」・「キリスト教使信の中心」は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの不信・非キリスト者(教)・非知、個体的自己としての全人間・全世界・全人類に対して完全に開かれているということ、イエス・キリストにおける<完了>された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和、これである。啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、聖霊自身の証しの力、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における第一の形態(神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの)である。具体的には、その最初の第一の啓示のしるし、啓示の「概念の実在」、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの)であるイエス・キリストによって唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」としての聖書、すなわち「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態である。教会の<客観的>な信仰告白が、人間的「教会的な権威を持」ち、また人間的「教会的な権威であることができるのは、……先ず、決定的には」、人間的「教会的な信仰告白の本文ではなく、その場所、時間、歴史に拘束された形式ではなく」(その固有性差異性・時代性断続性ではなく)、「その諸命題の中で、ただそのような形態の中でだけ実在であり、認識することのできる……方向性である」。言い換えれば、教会の<客観的>な信仰告白がそうあることができるのは、それが、「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを通した、その第三の形態(「ヒトツノ、聖ナル、公同の教会」を志向し目指すそれ)における啓示の「概念の実在」として認識することのできる、その普遍性共通性・歴史性連続性である。「あの当時の、あそこでの教会の信仰告白がそれの命題をもって、今日、ここでの教会に相対して立つ」ことによって、その教会の<客観的>な信仰告白は、「今日、ここでの教会に対してその信仰を問う」、「今日、ここでの教会が聖書を注釈し適用する際の仕方が服従の性格を持っているかかどうかを問う」、「ちょうどすべての異端の関連性……単一性が存在するように、また信仰の関連性と単一性も存在するのである」、それゆえに教会の<客観的>な信仰告白は、「われわれの注意をこの信仰の単一性に向けさせようとして語りかけてくるのである」。したがって、教会(その成員)が、その<客観的>な「信仰の単一性に自分の身を置」くことによって、「われわれは信仰告白の権威を尊重するのである」。したがってまた、このようにして教会(その成員)は、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同の教会」を志向し目指すことによって、さまざまに提示された人間的教会的な「その個々の命題、あるいは多く命題に対して批判的に相対して立たなければならない」のである。その場合、「批判的に」とは、終末論的限界の下で、「われわれが、指し示された方向に向かって進みながら、それ故、信仰告白の権威を尊重しながら、ほかの命題」を、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同の教会」を志向し目指すところのまことの「信仰告白自身の命題」へと包括し止揚し克服していくということである。言い換えれば、そのことは、終末論的限界の下で、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態である教会の<客観的>な信仰告白および教義(キリスト教に固有な類)の時間累積を意味する。このようにして、もしも教会(その成員)が、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同の教会」という「方向を指し示され」、ローマ3・22、ガラテヤ2・16等の「イエス・キリストの信仰」の属格を、バルトのように主格的属格として認識し理解することができたならば、その時には、徹頭徹尾全面的に、一切の天然自然・一切の人間的自然には左右されないところの、神の側の真実にのみ根拠づけられた、それゆえに啓示の客観的現実性・啓示の客観的実在にのみ根拠づけられた、その<主格的>属格理解は、共同宗教としてのキリスト教における世俗化の極みである、それゆえにその共同宗教の最後的形態・尖端的形態としての近代国家、政治的近代国家、民族国家の死滅と共に死滅するであろう共同宗教としての<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・教会の宣教、すなわち「イエス・キリストの信仰」の属格を<目的格的>属格として理解して、神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認・自己聖化もという神と人間との共働・混合を目指す<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返す共同宗教、そうした共同宗教としてのローマ・カトリック主義や近代主義的プロテスタント主義等々における信仰・神学・教会の宣教、を根本的包括的に原理的に止揚し克服して、現在から未来に生きる「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを通した「ヒトツノ、聖ナル、公同の教会」を志向し目指する信仰・神学・教会の宣教を惹き起こすであろう。このような訳で、教会の<客観的>な「まことの信仰告白」が、「『歴史的に』(≪固有性差異性・断続性時代性において≫)読まれた場合には持っていないが」、それが、その普遍性共通性・連続性歴史性において「読まれた場合」には、それは「教会的現在に向かい合って立つもの、教会的現在の地平線となる」ことによって、それは「ヒトツノ、聖ナル、公同の教会」という「方向」へと「必然的に……意味の高まりと尖鋭化をもって読まれる」ことになるのである。このように、恣意的独断的主観的にでは決してなく、<客観的>な啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを通した「まことの信仰告白」の諸「命題」は、「われわれに対して、信仰の一致に向かう方向を指示」するのである。「信仰告白の招き」は、「われわれの取り組みの対象」、すなわち、啓示の真理において、人間が現実的に福音を所有することができるために、人間に対して<客観的>対象性として措定された、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)である。「信仰告白に対して抗弁しなければならないと考える者は、その者は信仰告白の命題に対して抗弁せよ」・「信仰告白を包括的に解釈すべきだと考える……者は信仰告白の命題を解釈せよ」・そして、「そのこと」を、「信仰告白がわれわれに指し示している聖書に対する服従の中でせよ」、「神の言葉の三形態」に連帯してそれを反復することを通した「ヒトツノ、聖ナル、公同の教会」への志向性において、まことの「信仰告白そのものがわれわれに対して要求しようとしている方向にそって進む」ことによって、「せよ」。なぜならば、その場合にのみ、教会の信仰告白および教義は、終末論的限界の下で、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態(教会)の<客観的>な啓示の「概念の実在」となることができるからである。このように、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを通したならば、その場合には、「すべての批判と解釈にもかかわらず、すべての批判と解釈の中で、確認される一致、の中に身を置いている」ことになるのである。すなわち、その場合には、神の自己啓示を通して、具体的には聖書を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となっているのである、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起されているのである、神の言葉が私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」しているのである。したがって、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性を後景へと退け捨象してしまって、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍、人間学的な哲学原理・認識論・世界観、時流や時勢の直接性を介在させることを志向する場合には、「神の言葉の三形態」に連帯してそれを反復(「再認識」、「別の言葉で同一のことを言うこと」、キリスト教に固有な類の時間累積)することを通した「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すところの「教義の命題」が、「それとしてもはや聞かれず、もはや具体的な言葉を語ることができず」に停滞してしまうのであり、それゆえに、その場合には、<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返す果てとして、人間の経験的普遍が、人間論が、人間学的な哲学原理・認識論・世界観が、思想傾向が、時流や時勢が、第一義化・第一次化していくことになるのである。バルトは、『説教の本質と実際』で、次のように述べている――説教の無条件的な出発点と目的は、「新約聖書において聞く啓示、和解」、イエス・キリストの死と復活の出来事における啓示、その内容である「インマルエル、神われらと共にいます」である。したがって、「キリストからすべてのことを期待しなければならない」。このことが「終末論」である。したがってまた、「キリスト教的終末論とは、キリスト論にほかならない」。ここで説教は、「感謝と確信と共に期待の態度と行動」である。「第一の来臨(≪誕生・死と復活≫)と第二の来臨(≪終末、キリストの再臨、完成・救贖≫)との間(≪聖霊の時代≫)に、説教と、また同時にキリスト者の生活全体」とがある。説教は、説教者の恣意的独断的な自由事項や独占事項ではないのであるから、自分自身の言葉から由来すべきではなく、どのような場合であれ、その形式と内容において、「聖書への絶対的信頼」に基づく、「聖書講解であることの義務」を負っている。すなわち、「神の言葉の三形態」に連帯してそれを反復する義務を負っている。したがって、「説教者が、実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言いつくしていない(≪人間の経験的普遍、人間学的成果、思想傾向、時流や時勢、が必要≫)、と考えるようなことがある限り、彼は、この信頼、信仰を持っておらず、真に信仰によって生き」ようとしていないのである。福音は、「われわれの思考や心情の中にあるのではなく、聖書の中にある」から、私たちは、「思想」、「最高の習慣、最良の見解、そのようなものいっさい」を、聖書に「聴従」することの前で、「放棄」しなければならない。また、『ローマ書』では次のように述べている――「パウロはその時代の子としてその時代の人々に語った。けれどもこの事実よりはるかに重要な事柄は、いま一つの事実、すなわち彼は神の国の預言者ならびに使徒としてあらゆる時代のあらゆる人々に語っている、ということである。(中略)聖書の精神は永遠の精神なのである。かつての重大問題は今日もなお重大問題であり、今日の重大問題で単なる偶然や気まぐれでない事柄は、またかつての重大問題と直結している」。したがって、「われわれ」は、近代の一つの宗教的形態である科学<主義>者や「形而上史学的な歴史の科学」の信奉者ではない者として、終末論的限界の下で、次のように言えるだろう――「あそこであの当時語られたことは、……それ自身の、変わらない形態の中で同時に、……今日、ここでも語られること、……われわれの洞察に従って……語られうるところの最も明確な、最も明らかなことであるであろう。そのようにして……われわれの側で信仰の一致を指し示すために、われわれは、それに反対する決定的な理由がない限り、喜んで、あの当時あそこで語られたのと同じことを語るであろう。それであるからわれわれは教義」の「方向」性だけでなく、その「特別な信仰を堅くとって離さないであろう。……そのようにして……教義」は、「われわれに対し」て、「批判的な力を保持し、われわれが教義を肯定した際の意味と理解が教義そのものによって訂正されることができる可能性、父祖と兄弟たちの……信仰がわれわれ自身の信仰に対してこれまで以上に語ることを持っているという可能性、が開かれ続けるのである」。ここに、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、聖霊自身の証しの力、に基づいた「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを通した「ヒトツノ、聖ナル、公同の教会」を志向し目指す、キリスト教に固有な類の時間累積、歴史性があるのである。ここで、「われわれは……われわれの考察の最後の点に来る。それは」、聖性・隠蔽性・秘義性を本質とする神の不把握性の下での、それゆえに終末論的限界の下での、「信仰告白の権威」は、人間的「教会的な権威として決して絶対的な権威ではなく、……相対的な権威であり」、それゆえにその「信仰告白の権威を尊重する尊重の仕方は絶対的なものではあり得ず、ただ相対的なものでしかあり得ないということである」。もしも、例えば、「ローマ・カトリック主義」のように、人間的教会的な「教義」も「聖書そのものと同じ啓示証言である」、啓示と等価である、と主張するならば、それは人間自身・教会自身が対象化した「存在者レベルでの神」(偶像)崇拝、その偶像の「啓示」崇拝でしかないのである。この場合、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの現実性と妥当性のある根本的包括的な原理的な宗教批判を、教会の信仰・神学・宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成そのものによって、根本的包括的に原理的に止揚して、その批判を克服することはできないのである。また、例えば、人間学的な前期ハイデッガーの哲学原理に依拠して人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」(偶像)の「啓示」を第一次的なものとして、この第一次的なものに従事ことにおいてのみ「イエス・キリストについてのケーリュグマ」・「宣教する」ことによって伝えられた宣教内容、新約聖書の使信の内容、イエス・キリストの出来事を知らせた宣教や説教を第二次的なものとしたブルトマン神学も、「ローマ・カトリック主義」と同じ水準に停滞したものにすぎないのである。総括的にえば、それらは、人間自身・教会自身が対象化した「存在者レベルでの神」(偶像)とその偶像の「啓示」を志向し目指すところの、<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返しているだけのものなのである。このような訳で、<完成>された「誤ることのない信仰告白」および教義は、教会が、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態、すなわち「自分のかしらと永遠に結びつけられたからだとして、その主に対して」、その主「自身の永遠的な完成の中で捧げるであろう讃美」におけるそれなのである。「それであるからそれは、終末論的概念……である」、キリストの再臨、個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和、完成・救贖の概念におけるそれなのである。したがって、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを通したところの、「われわれが教義として知っていること」は、「決して最後的な言葉ではあり得ず」、あくまでも、限界づけられたものとして、また「原則的に誤りうるもの」として、それゆえに絶えず繰り返し「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを通してキリストにあっての神に「祝福され、きよめられもの」を志向し目指さなければならないところの、終末論的限界の下でのそれなのである。したがって、聖性・隠蔽性・秘義性を本質とする神の不把握性、それゆえに終末論的限界、を認識し自覚していないところで、大言壮語する、人間自身・教会自身の言葉に、それゆえに聖職者・知識人・神学者・牧師・神父・著述家の言葉に、真実があるわけでは決してなく、作家・ドストエフスキーの作品『罪と罰』の中のマルメラードフの次のような言葉に、真実はあるのである――「ただ万人を憐み、万人万物を解する神様ばかりが、われわれを憐んで下さる」、「神さまは万人を裁いて、万人を赦され」、「最後の日にやって来て」、「……われわれに、御手を伸ばされる。その時こそ何もかも合点が行く!……誰も彼も合点が行く」。「主よ、汝の王国の来たらんことを」。したがって、教会(その成員)は、常に、「いつの時にか神の言葉を通して」、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性を通して、「もっとよく教えられ、もっとよく認識(≪啓示認識・啓示信仰≫)し、……もっとよく告白する可能性……に対して自分を開いて」いなければならないのである。このような、教会が「自分たちの……すべての信仰告白が持つ……暫時性について……はっきりと言葉に出して語ったのは、特に十六世紀における改革派教会であった」。その場合、「人は古代の教会の信条に対してただ……ソレラハ神ノ言葉ニ一致スルカラデアル(フランス信条、一五五九年、五条)という留保……のもとでだけ告白する」のである。このことは、「すべての宗教改革の教会の教説の、聖書のみが神的権威を持つという認識(≪啓示認識・啓示信仰≫)から当然おこってくる前提であった」。しかし、「必ずしも常に」、その前提が踏襲されたわけではなかった。「ルター派の領域において」だけでなく、「別な形において全プロテスタント主義」において、「神の言葉と人間の言葉の間にひかれた線を実際に消し去ったり、除去しよう」としたりして、それゆえに神と人間との無限の質的差異を「消し去ったり、除去しよう」としたりして、それゆえにまた「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを「消し去ったり、除去しよう」としたりして、「宗教改革は原則的に放棄されて」しまうという「過ち」が犯されたのである。「この脈絡においてルター主義」は、「特にアウクスブルク信仰告白について」言えば、それは、「聖書原理を理論的に……代表したにもかかわらず」、一方で「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性を「消し去ったり、除去しよう」としたりして、「実際的には自分自身を……第二の啓示の源泉へと高め、……ルターの人物と並んで……また自分の信仰告白をそのようなものとして取り扱うことを自分にゆるしてしまう」という過ちを犯したのである。
 このような訳で、「まことの信仰告白」に対する人間的教会的な「権威」を「承認」するとしても、「神的な不可謬性」を人間的「教会的な信仰告白に……認めることはできない」から、「すべての教会的な信仰告白」は、終末論的限界の下での、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同の教会」を志向し目指すことによって、「もっとよく教えられ、もっとよく認識(≪啓示認識・啓示信仰≫)し、……もっとよく告白」して、キリスト教に固有な類を時間累積させていく過程における「段階としてだけ理解」することができるのである。この、「父祖たちや兄弟たちと違ったふうに語」ることを「必然的なこととして正当化するに足るだけの重要な契機」、そうした不可避的な「契機」に強いられて、「もっとよく教えられ、もっとよく認識(≪啓示認識・啓示信仰≫)し、……もっとよく告白」するという「新しい、変更された(≪人間的教会的な≫)信仰告白」は、あくまでも、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを通して、「聖書の中にある神の言葉を認識しつつ、……語らなければならない……」のである。その場合、それは、「最後的な、人間的な確信の中で、最後的な、人間的な必然性から由来してこなければならない……」のである。例えば、それは、「ルターがシュマルカルデン条項を念頭に置いて語ったように語られ」たそれである――「これは、わたしが立たなければならず、神のみ心であるならば、死に至るまで立ちたいと望んでいる信仰箇条であり、その中では何も変えたり、譲歩するものがないことを知っている信仰箇条である」・「(義認論を念頭に置いて)たとえ天と地が滅び、永続しないすべてのものが滅びうせようと、この信仰箇条から何も引き去ったり譲歩することはできない。なぜならば聖ペテロが使徒行伝四条で語っているように、われわれが救われることのできる名はそのほかには与えられていないからである。またその方の傷によってわれわれはいやされたのである。この信仰箇条に、われわれが教皇、悪魔、世に反対して教え、生きるすべてのものがよってもって立っているのである。それ故われわれはそれについて確信していなければならない。そうでないとすべては失われ、結局教皇、悪魔、およびすべてがわれわれに対して勝利をおさめ、権利を保持することになろう」。
 この意味において、ほんとうは、バルトだけが認識し自覚し確信していた「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯してそれを反復することを通した「ヒトツノ、聖ナル、公同の教会」を志向し目指す「まことの信仰告白」が、すなわちローマ3・22、ガラテヤ2・16等の「イエス・キリストの信仰」の属格を、神の側の真実としてのみある、それゆえに<客観的>現実性・<客観的>実在としてある、「イエス・キリストが信じる信仰」と<主格的>属格として認識し理解する(啓示認識・啓示信仰する)「まことの信仰告白」が、「必然的なこととして正当化するに足るだけの重要な契機」を持って、それゆえに不可避的な「契機」を持って、来るであろう――いや、ほんとうは、バルト自身が『福音と律法』で論じたように、すでに来ているのである。それは、現在を止揚し克服して、現在から未来に生きるところの「まことの信仰告白」と言うことができる。