本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「二十節 教会の中での権威」「二 言葉のもとでの権威」(その4−2)

『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「二十節 教会の中での権威」「二 言葉のもとでの権威」(その4−2)(283−316頁)

 

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしておりますが、引用の不備や誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)

 

 

二十節 教会の中での権威
「教会の中での権威」について、バルトは、次のような定式化を行っている――

 

「直接的な、絶対的な、内容的な権威(≪――「秩序的に……イエス・キリストの中でのみ……優先する」ところの「本来的に、また積極的に、決定的に、ただ直接的、内容的、絶対的な権威」である客観的な「啓示の実在」そのものと共にイエス・キリストにおいて授与された「直接的な、内容的な、絶対的な」最初の第一の啓示の「しるしの権威」は、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態である預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」としての啓示の「概念の実在」である聖書「だけが、……持つことができる」――≫)を教会は、自分自身が持っているとは主張せず、ただ神の言葉(≪――「神の言葉の三形態」の第一の形態、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、啓示・和解そのもの、神の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある<完了>された救済・平和そのもの、客観的な「啓示の実在」そのもの、それゆえに教会の宣教における「先ず第一義的に優位に立つ原理」――≫)としての聖書(≪――「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態、「イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊としての聖霊」としての三位一体の神の自由な恵みの決断によって一回的特別にその職に召され任命された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、三位一体の神のその第二の存在の仕方としての神の言葉の、啓示・和解の、啓示の実在の出来事における最初の第一の啓示のしるし、教会に宣教を義務づけている最初の第一の啓示の「概念の実在」、それゆえに客観的な「啓示の実在」そのものであるイエス・キリストと共に教会の宣教の原理、それゆえにまた聖書こそがその「権威と自由」において教会の宣教を支配し的確に批判し訂正していく規準・法廷である――≫)だけが持っていると主張する。しかしまさに、聖書の中での神の権威ある言葉に対する服従こそが次のことを通して――教会(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態、すなわちそれ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての、それゆえに不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯した、教会の客観的な信仰告白・教義、啓示の「概念の実在」≫)の中で共に聖書の証しを受け入れると告白する者たちが、聖書の証言を注釈し適用するに際して、互いに相手の言うことを進んで聞こうとし、また相手の言うことを聞こうと用意ができているであろうということを通して(≪「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということ、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」であるということ、このことに対する認識と自覚の授与を通して、「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」・「解釈する」とは「別の言葉で同一のことを言うこと」であるから、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯することに対する認識と自覚の授与を通して≫)――客観的に規定されている。教会(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態≫)の中での権威は、(教会がその中に基礎づけられているところの)聖書(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態≫)の権威を通して、間接的な、相対的な、形式的な権威として限界づけられている(≪教会は、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態としてのイエス・キリストに、それゆえに具体的には「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態としての聖書に、絶えず繰り返し聞くことによってのみ、すなわち啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、聖霊の証しの力、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性の授与、客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与、というこの出来事の運動の中に置かれることによってのみ・置くことによってのみ、教会となることができる。このように、教会の権威は、限界づけられた間接的・相対的・形式的な権威であることができるだけである≫)」(161頁)。

 

 この定式は、次のように言い換えることができる――
 啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、聖霊の証しの力、客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事――客観的な啓示の出来事とその「啓示の出来事の中での主観的側面」、すなわち聖霊の注ぎによる人間的主観に実現された神の恵みの出来事、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与――、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性、におけるその第一の形態(単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、客観的な「啓示の実在」そのもの)は、教会の宣教における「先ず第一義的に優位に立つ原理」である。具体的には、その第二の形態(預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、最初の第一の啓示の「概念の実在」、最初の第一の「啓示のしるし」、聖書)は、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての客観的な「啓示の実在」そのものである「イエス・キリストと共に、教会の宣教における原理である」から、「聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのである」。したがって、教会は、教会の宣教に対する法廷・「規準としての聖書の性格」・「聖書の自由な力」を、教会自身・人間自身(牧師、神学者、キリスト教的メディア的著述家、成員)の恣意的独断的な自由事項・決定事項・裁量事項として取り扱ってはならないのである。なぜならば、もしもそうしたならば、そこでの神、キリスト、聖霊、啓示・和解、救済・平和、神への愛、神の賛美としての隣人愛の実質は、教会自身・人間自身(牧師、神学者、キリスト教的メディア的著述家、成員)が、恣意的独断的に対象化した「存在者レベルでの神」崇拝・偶像崇拝、その神(偶像)の名と呼び掛けによる教会自身・人間自身(牧師、神学者、キリスト教的メディア的著述家、成員)が支配し管理する救済・平和の企て・隣人愛・奉仕(社会的、政治的、文化的、なそれ)に過ぎないものとなるからである。

 

二 言葉のもとでの権威(その4−2)
 「教会的な権威は霊的な権威である」。このことは、「明確に確定され」た「教会法」も、「形而上史学的な歴史の科学」としての歴史的――批判的な学問も、「教会的権威の一覧表を造って」「固定させ」た神学も、「教会的な権威」・「教会的な信仰告白」および教義・教会の「選択」および「決断」の「規準」・「法廷」・「審判者」とはなり得ないのであって、あくまでもその「規準」・「法廷」・「審判者」は、「神の言葉」(単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリスト、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの)と、すなわち具体的には「聖書」(最初の第一の、啓示の「概念の実在」、啓示のしるし、神の自由な恵みの決断によって一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)である、ということを意味している。したがって、教会法や歴史的――批判的な学問等の人間的な教会的なそれらすべては、神の言葉・すなわち具体的には聖書と「等置」することは決してできない、ということを意味している。聖書は、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての客観的な「啓示の実在」そのものであるイエス・キリスト(神の言葉、啓示・和解)と共に、教会の宣教における原理(「規準」・「法廷」・「審判者」)である。なぜならば、預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である「聖書こそ」が、教会に宣教を義務づけているからである。したがって、「聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのである」。したがってまた、教会は、教会の宣教、教会の信仰告白・証言・教義の、「審判者」としての「法廷」としての「規準としての聖書の性格」・「聖書の自由な力」を、教会的・人間的必要から後景へ退けてしまってはならないのである、捨象してしまってはならないのである。このような訳で、バルトは、「厳格に」、「神学的には」、次のような二つの「課題」がある、と述べたのである――(1)「教会があり、生きるところではどこででも」、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第一の形態・すなわち具体的にはその第二の形態に信頼し固執し連帯して、それを媒介・反復することを通したところにのみ人間的な「教会的権威があり、教会的権威がなければならない……」。したがって、終末論的限界の下で、そのような人間的な「教会的な権威における教会の教師」として、それゆえにあくまでも制限され限界づけられた中において、例えば人間的なアウグスティヌスやアンセルムスやルターやカルヴァンが、その教説が、私たちに与えられている。(2)そのような「教会的権威は、それが特定の歴史的な形態を取って既に存在するという前提のもとで、そのようなものとして尊重されなければならない」――すなわち、それは、教会(その宣教、その信仰告白・証し・教義)が、不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性である「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯して、それを媒介・反復することを通した限り、その特定の歴史的な形態を取って存在するものとして尊重されなければならない。バルトは、この第二の課題について、次のように述べている。

 

(ア)前回、論述済み
 バルトは、先ず以て、「今日、ここでの教会」と「あの時、あそこでの教会の間に、聖書正典に関して、(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯して、それを媒介・反復することを通した≫)信仰告白の一致が成り立っているということ……を前提とする」、と述べている。なぜならば、教会的・人間的必要から恣意的独断的に実体化された教会ではなく、絶えず繰り返し、「神語り給う故に神語り給う」こと(神の言葉、啓示・和解、イエス・キリスト)に聴従することによって、すなわち具体的には聖書(最初の第一の、啓示のしるし・啓示の「概念の実在」、預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)に聴従することによって、まことの教会となろうとする教会は、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第一の形態・具体的にはその第二の形態に信頼し固執し連帯して、それを媒介・反復することを通した、次のような連続性を持つからである――すなわち、神の言葉(啓示・和解、イエス・キリストの名、客観的な「啓示の実在」そのもの)は、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)において存在するからである。このような訳で、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯した教会は、「今日、ここでの教会」と「あの時、あそこでの教会」との間に、「聖書正典に関して、信仰告白の一致が成り立っている」のである。このことは、聖性・隠蔽性・秘義性を本質とする神の不把握性の下にある、すなわち終末論的限界の下にある、ところの教会(その成員)が、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯して、それを媒介・反復することを通して、聖書正典を「確立させることこそ」が、すなわち絶えず繰り返し、「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯して、それを媒介・反復することを通して、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と・その「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――すなわち神の側の真実としてのみあるイエス・キリストにおける<完了された>全人間・全世界・全人類の根本的究極的総体的永遠的な救済・平和の告白・証し・宣べ伝えこそが、「教会的な信仰告白の基本的な行為であり、それと共にまた教会的な権威の基本的な樹立」であるということを意味している。「教会全体がなすすべての宣教、教え、決断の行為」(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯したその第三の形態のそれ≫)に対して、「原理的に〔秩序からいって〕優先するイエス・キリストにあっての神の啓示(≪その第一の形態、神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの≫)についての預言者的――使徒的証言(≪その第二の形態、文書化された聖書、最初の第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、最初の第一の啓示の「概念の実在」≫)が存在するということ」――このことは、「啓示そのもの(≪神の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性≫)の中で、啓示そのものと共に、現実のこととして措定されている」、ということを意味している。言い換えれば、「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストの連続性において、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事において、すなわち「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性において、それゆえにそれに信頼し固執し連帯して、それを媒介・反復することを通した「信仰告白の一致」において、客観的対象性を持って存在している、ということを意味している。したがって、バルト自身は、この事柄に基づいて、「エキュメニカルな教会会議」を志向したのであり、それゆえに次のように考えたのである――単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」・「キリスト教使信の中心」は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの不信・非キリスト者(教)・非知、全人間・全世界・全人類に対して完全に開かれている、と(『カール・バルト教会教義学 和解論 T/1 和解論の対象と問題』)。したがってまた、バルトは、党派的多元主義あるいは教派的多元主義に基づく対話路線および皮相的な調停的混合的折衷的政治的な一致を目指す「エキュメニカルな教会会議」を評価することは決してしはしないのである。したがってまた、「東西キリスト教界を抱えるウクライナをめぐり欧米とロシアの対立が深まる中」での東西教界の10世紀ぶりのキューバでの会談(ロシア正教会のキリル総主教とローマ法王フランシスコとの会談)、という今年2月6日の新聞記事を読んですぐに私が感じたことは、その会談は、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し・固執し連帯して、それを媒介・反復することを通して、信仰告白の一致を目指す会談ではないところの、それゆえに教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの不信・非キリスト者(教)・非知、全人間・全世界・全人類に対して完全に開かれている、単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」・「キリスト教使信の中心」、神の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある、<完了された>イエス・キリストにおける救済・平和、の告白・証し・宣べ伝えを目指す会談ではないところの、余りに国際的な政治的緊張の緩和という政治的な会談に過ぎないものである、ということであった。会議の対象がたとえ政治的緊張緩和であるとしても、イエス・キリストを主・頭とするキリスト教界として会談を行おとするのであれば、やはり不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性である「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯する仕方で行う必要があるだろう。しかし、そうではなくて、キューバ会議をあくまでも国家論・革命論等の政治的会談として行おうとするのであれば、過渡的課題としては、直接民主制・国民投票制の拡大によって法的政治的近代国家・民族国家を国民(大多数の被支配)にどこまでも開いて行く方途について会議することが必要であるし、それと同時に、究極的課題としては、法的政治的近代国家・民族国家を無化して行く方途について、それゆえに人間の法的政治的部分的過渡的な観念的解放ではなく、人間の社会的総体的永続的な現実的解放の方途について、会談することが必要なのである。なぜならば、一部国家支配上層の意思で動かすことができる軍事部門を有する観念の共同性を本質とする法的政治的近代国家・民族国家を無化しない限りは、人間の社会的総体的な現実的解放はあり得ないし、また戦争廃絶も不可能であるし、それゆえに平和な国際社会の実現も不可能だからである。現存する世界は、経済の世界性と民族国家の一国性を単位として動いているのである。バルトは、次のように述べている――単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける救済・平和を、「信仰の中で持つ」ことは、「約束として持つ」ことである。「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」。「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」(人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍)にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてのみある啓示の客観的現実性・客観的実在、「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである。(283・284頁)

 

(イ)「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯して、それを媒介・反復することを通した信仰・神学・教会の宣教(その存在・その思惟・その実践)を目指したバルトは、一方で、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」それと連帯したのである、そうした仕方で、絶えず繰り返し、「神への愛」としてのキリストにあっての神を尋ね求めたのである(『啓示・教会・神学』)。また他方で、バルトは、その信仰・神学・教会の宣教に、個性や時代性を刻んだのである。すなわち、バルトは、その総体を生きたのである。したがって、人は、バルトを、形而上学的一面的皮相的固定的抽象的に、それゆえに通俗的に、前期バルトと後期バルトというように二元論的に分離して論じることは決してできないのである。したがってまた、そのような二元論的バルト論は、人が歴史性・類――現存性・個の不可避性を生きる者であるという認識・理解・自覚を欠如させたそれであって、それゆえにそのバルト論は、その最初から、錯誤性と誤謬に「普遍性や組織性の後光をかぶせて語」ったバルト論に過ぎないものなのである。

 

 さて、現存する教会は、「彼ら自身の時代の教会および後の時代の教会」に対する、アウグスティヌスやルターやカルヴァン等「聖書の特別な注釈家および宣教者」を持っている、教会的な教師を持っている。「その事実性の前提のもとで神学的に解明されることができるだけ」の、「『教会教父』が存在するし、これらの教会教父たちの特定の教会的な権威が存在する……」。ここで、教会教父は、客観的対象性をもつ、「注目すべき教会の肢である成員……のことである」――「使徒タチノ後、聖ナル教会ハソノヨウナ植エル者、水ソソグ者、建テル者、牧者、養ウ者ノ故ニ成長シタ(アウグスティヌス)」。「ローマ・カトリックの教えによれば、「単なる『教会著述家』」のことではなく、『高齢、生活の清さ、教えの純粋さ、教会的な承認を通した傑出した』」、換言すれば「教会的な伝承の源泉の一つを形造っている」、「教会的な過去に属する著述家』のことである」。ローマ・カトリックの場合、「さらに彼らのうちから、……また後代の神学者のうちから」、「教皇の宣言を通して」、「再度『教会教師』がぬきん出させられ」た――「アウグスティヌス、グレゴリウス一世――アタナシウス、……カンタベリーのアンセルムス、トマス・アクィナス……」がそれである。「教皇の宣言を通して」というこの事態は、「神学的な」、<悪しき>「階級制と第二の啓示源泉」を承認する教会共同性の成立を意味している。この事態は、近代的な新プロテスタント主義においても起こったし、現在でもなお依然として起こっている。
 宗教改革は、この<悪しき>「神学的な階級制と第二の啓示源泉……を、当然のことながら承認しなかった」。すなわち、人間的な教会「教父ノ一致」に、その「個人の権威」に、「無批判的に服従してしまうことについては」、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯して、それを媒介・反復することを通した信仰・神学・教会の宣教を目指す「福音主義教会と聖書原理」に立脚した宗教改革は、承認しなかったのである。しかし、宗教改革が、最初から最後までその「福音主義教会と聖書原理」に立脚することを徹底しなかったその分、宗教改革者も、「神学的な階級制と第二の啓示源泉」という<悪しき>認識・理解を残存させてしまったのである。このことは、宗教改革者(ルターおよびカルヴァン)と「特にアウグスティヌス」との関係性から「容易に証拠立てることができる」――彼らは、「聖書を説明し、解釈した聖なる教父たちと古代の教師たちが、この規準から離れなかった場合には、われわれは彼らを単に聖書の解釈者としてだけでなく、神がそれによって語り、み業をなし給うた選ばれた器として認め、尊敬しよう」、と主張したのである。すなわち、彼らは、「われわれは彼らを」、そして彼らの教説を、それゆえに「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第三の形態を、イエス・キリストによって一回的に特別に召され任命された使徒たちと<等価>として認め、尊敬しよう、最初の第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」と<等価>として認め、尊敬しよう、最初の第一の啓示の「概念の実在」と<等価>として認め、尊敬しよう、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第二の形態と<等価>として認め、尊敬しよう、と主張したのである。このように、彼らは、時代的制約性に規定されて、宗教改革者の中にも、「神学的な階級制と第二の啓示源泉」という<悪しき>認識・理解が残存していたのである。したがって、近代以降、現存する教会にとって、現在から未来に生きる言葉を発するためには、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯して、それを媒介・反復することを通した信仰・神学・教会の宣教(その存在・その思惟・その実践)を目指すことが、最重要の事柄としてあるのである。なぜならば、そのことに自覚的でない場合、「ルターの翻訳」の宗教化・権威化・倫理化、すなわち絶対化が起こるし、ルターがプロテスタントにおける「新しい教父」として・「選ばれた器」として、またルターの教説が「第二の啓示源泉」として倫理化・権威化・絶対化されてしまうからである。その事例――「ルターハ彼ノ神学ヲ先験的ニ持ッテイタ、スナワチ天カラノ啓示ニヨッテ持ッテイタ(ミカエル・ネアンダー……一五六七年)」、「アンドレアス・ファブリキウス」は、ルターを「ドイツの預言者およびエリヤとして、パウロおよび洗礼者ヨハネのような傑物としてほめそやしている」、「ウイッテンベルクのかまどの上に『神の言葉とルターの教えは過ぎ去ることがない』と書かれている」、カルヴァンの『キリスト教綱要』については、「ドンナ時代モ、キリストノ時代以後、コノ書物ノヨウナ書物ヲ生ンダ時代ハナカッタ」と「歌」われている。ここには、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯した教会ではなく、ローマ・カトリック教会と同じように、人間自身・教会自身が対象化した「存在者レベルでの神」(偶像)を崇拝する、宗教としての、「ルターの学派の中での、あるいはカルヴァンの学派の中での教会」を垣間見ることができる。言い換えれば、「十八世紀初頭に至るまで」、ルターやカルヴァン、「また彼らの仲間のうちの多くの者はそれぞれの仕方でこれらふたりの者と並んで、……『聖書の博士として』、それと共に教会の霊的な指導者……として」、「彼らに対して与えられるべき権威をはるかに超えた」・それ以上の「ひとつの権威……を所有し、行使したのである」。しかし、ただ「(≪「ある種の国民的尊崇の的」、「良心の自由の使徒」、「宗教的人格」、「ドイツ的人間」、という評価を受けたルターとは違って、>)彼の人格と生涯の印象にそれほど基づいて」いないカルヴァンは、それゆえに「人間をほめそやすすべての人間的な名誉に対する神学的な嫌悪の情ということ」からだけでなく、先ず以て「事柄と取り組んでの努力の中で」、「教会を自分の教えを通して、……聖書そのものへと導きゆき、教会を事柄に……結びつける」ことを目指した彼は、「教会の教師であった」ということができる。したがって、ハイダンは『キリスト教神学綱要』で、「〔カルヴァン〕ダケガ公ニ説教スルコトヲ教エル」と述た。したがってまた、バルトは、『ナイン!――エーミル・ブルンナーに対する答え』において、@カルヴァンは、「天地万物からする神認識とキリストの中での神認識との二つの神認識について語った」が、ブルンナーとは違って、啓示に対するまたキリストの中での新生活に対する「結合点を見出していない」。すなわち、「聖書以外にさらに聖書を補う別な啓示の根源」を、「第二の啓示源泉」を、「理性や歴史や自然の中に何とかして求め」、それらに独自性を与えて、「後から追加的に『何らかの仕方で』……発言せしめる」ことをしていない、Aカルヴァンの認識のベクトルは、ブルンナーとは違って、「天地万物の中における神認識」は、「キリストの中における神認識そのもの」において可能であるとする、と述べている。いずれにしても、、「ルターの学派の中での、あるいはカルヴァンの学派の中での教会」においては、人間的な言葉が、神の言葉と<等置>されているのである、神の言葉と<等価>とされているのである。人間的必要・教会的必要から、人間の神化が、神の人間化が、惹き起こされているのである。神と人間との無限の質的差異についての認識と自覚が、後景へと退かされ捨象されているのである。私たちは、この時、「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である」・「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」・「(中略)神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」、というフォイエルバッハのキリスト教批判の言葉を、現実性と妥当性を持った言葉として聞くことができるのである。したがって、私たちは、この時、この現実性と妥当性を持ったキリスト教批判の言葉に対して、その根本的包括的な原理的なキリスト教批判を、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯した自らの信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成それ自体において、根本的包括的に原理的に止揚して、そこから超え出ていくことが、自らのその信仰・神学・教会の宣教における思想の課題であることを認識し自覚するのである。しかし、この信仰・神学・教会の宣教における思想の課題を認識し理解し自覚することができなかった教会(その成員)は、それゆえに「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯して、それを媒介・反復することを通した信仰・神学・教会の宣教を目指さなかった教会(その成員)は、「十八世紀以来、宗教改革的な信仰告白の権威と共に」、「また福音主義的聖書原理の有効妥当性と共に、したがって聖書的な啓示証言の神的権威と共に」、「また宗教改革者たちの教会的権威」も、「福音主義教会の中で、まず色あせ、次いで消滅するにいたった」のである。 (283−289頁)

 

 前回述べたように、「われわれ自身が、正しい仕方で語ることができるためには、……先ず第一に」、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯して、それを媒介・反復することを通した、今ここに現存する「教会(≪その宣教≫)の語ることを……聞いていなければならない」、また、その今ここに現存する教会に先行するそうした「教会(≪その宣教≫)の語ることを……聞いていなければならない」、そして教会の宣教の規準・法廷・審判者であるその第一の形態に・具体的にはその第二の形態にまで遡及して聞かなければならない、その第一の形態に・具体的にはその第二の形態に絶えず繰り返し「聞いていなければならない」。言い換えれば、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯して、それを媒介・反復することを通した、今ここに現存する「教会の中にいるほかの者たち、年上の者たちの語ることを、聞いていなければならない」、その今ここに現存する「教会の中にいるほかの者たち、年上の者たち」に先行するそうした「教会の中にいるほかの者たち、年上の者たちの語ることを、聞いていなければならない」、そして教会の宣教の規準・法廷・審判者であるその第一の形態に・具体的には第二の形態に、絶えず繰り返し聞かなければならない・「聞いていなければならない」。このような仕方で、教会(その宣教)は、「決して神的な権威を持ってではなく」、あの秩序性に制限され限界づけられた「人間的な権威を持って」、「これらの文書は聖書正典に属しており、あれらの文書は聖書正典に属していない」という「信仰告白をなした」のである。また、このような仕方で、聖書<正典>の確定作業過程に関して「教会がこの奉仕を果たしつつわれわれに語ることは(≪聖書正典に関しての教会の「指し示し」・「決断」におけるそれは≫)権威(≪さらに「より良い教示が与えられるまで」の制限され限界づけられた「標準的なもの」としての人間的な権威≫)をもっているのである」。したがって、さらに「より良い(≪正典に関する≫)教示が与えられるまで」は、「付加も削除も」することなしに、現存する「文書の収集として」現存する聖書正典に、キリストにあっての「神の啓示についての証言を尋ね求めなければならない」のである。「われわれ」(教会とその成員)は、イエス・キリストについての証言を、「ただ、それの自己証言の力」、すなわち客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、聖霊の証しの力、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性、「それであるから聖霊の権威によって、見出すだけ」なのである。この場所で、「われわれ」(教会とその成員)は、終末論的限界の下で――というのは、神は聖性・秘義性・隠蔽性を本質としており、人は神の不把握性の下に置かれているから、また人は本質的に誤謬や過ちを犯す弱さを生きているのであるから、そのことを自覚しつつ、教会の宣教に対する「規準」・「法廷」・「審判者」としての聖書(最初の第一の、啓示のしるし・啓示の「概念の実在」)に聞きそれを受け取ることを通してのみ、聖書に信頼し固執し連帯して、それを媒介・反復することによってのみ、キリストにあっての神を尋ね求めていくことができるだけなのである。このような訳で、聖書<聖典>は、先ず以ては、「教会的な聖典」として存在しているのである。
 「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第二の形態である聖書は、「その神的権威の中で、教会の中でのそれぞれの世代に対して、……(≪前述した意味での≫)正典という形態の中で、その限り……(≪前述した意味での教会における≫)人間的な権威をもって、(≪前述した意味での教会における≫)先行する教会の権威をもって、語」るのである。言い換えれば、教会(その成員)は、先ず以て第一義的にイエス・キリストにのみ・具体的には「われわれが教会の中にいる時」の「神的教師」である、最初の第一の啓示の「概念の実在」(啓示のしるし)である「聖書だけ」に、そしてそれに信頼し固執し連帯した、すなわち「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性によって制限され限界づけられた「年長の、より経験に富んだ生徒仲間(≪「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯した教会において「単に息子であるというだけでなく、……父でもある」ところの「教会の教師」としてのそれ≫)に」、先行する教会の客観的な信仰告白・証言・教義に、「教えられようと用意していることなしに」は、それゆえにそれらに信頼し固執し連帯することなしには、神の言葉、啓示・和解、イエス・キリストにおける救済・平和、について教えられることはないのである。この啓示認識・啓示信仰は、神の自由な恵みの決断による啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事という、そうした「出来事として起こり得ることであって」、教会自身が・人間自身が、教会的必要・人間的必要から、恣意的独断的に実体化させることはできない事柄なのである。したがって、先ず以ては、「教会が……、そして……教会の肢としての……われわれが聖書の中での神の言葉を聞くということ」が最重要の事柄なのである。なぜならば、総括的に言えば、神の言葉は、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)という形態において存在しているからである。このような訳で、オリジナルな信仰・神学・教会の宣教というものは、あり得ないのである。このことは、人間の存在様式としてもそうなのである――「歴史とは個々の世代(≪個体的自己の成果の世代的総和≫)の継起にほかならず、これら世代のいずれもがこれに先行するすべての世代からゆずられた材料、資本、生産力(≪言語、性・家族≫)を利用(≪媒介・反復≫)する」(マルクス/エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』)。誰であれ、人は、歴史性・類――現存性・個を生きるのである。おそらくは、<後期>ハイデッガーは、この歴史性・類の不可避性にも気づいたのである、そのことを自覚したのである、それゆえにその総体的な関係と構造を認識したのである。しかし、前期ハイデッガーの哲学原理を第一次化しそれに依拠したルドルフ・ブルトマンは、すなわち人間学の後追い神学に過ぎなかった人間学的神学者の彼は、また形而上学的一面的皮相的固定的抽象的な大学社会の神学者の彼は、そのことに気づかなかったのである、そのことを認識し理解し自覚しなかったのである。
 さて、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯する「福音主義的聖書原理を適用」した「宗教改革者たちの聖書主義」とは違って、その「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯しない新プロテスタント主義における、人間の対自的で対他的な自由な自己意識の類的活動に依拠した「近代的聖書主義」は、「反伝統主義」に立脚していたから、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯することを拒絶したのである。したがって、「近代的聖書主義」者たちは、ちょうど近代において人間の「理性、感情、経験、歴史」を「絶対主権性」として「神学の原理にまで高めた」人間学的神学者あるいは神学的人間学者者たちのように、「今や、(≪人間の自由な自己意識の無限性において、恣意的にあるいは独断的に、≫)最高に自分独自の目をもって読まれ、最高に独裁的に理解され、注釈された」「聖書そのもの、を欲」したのである。このような仕方で、彼らは、自己表現としての聖書理解を、自己表現としての聖書注釈を、目指したのである。このように、人間の対自的で対他的な自由な自己意識の類的活動に依拠した新プロテスタント主義における「近代的聖書主義」は、結局は、神と人間との無限の質的差異を、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性を、それゆえに終末論的限界を、恣意的独断的に後景に退け捨象した近代的な「聖書絶対主義」のことであって、それゆえにそこでの神は、神の言葉は、啓示は、啓示・和解は、まさしく人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」(偶像)、その偶像の言葉、その偶像の啓示、その偶像の啓示・和解でしかないものなのである。事実的に、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯したところの「教父たちおよび教会の伝承を無視して」「反伝統主義」を主張した新プロテスタント主義における「近代的聖書主義」者の中において、「自分が属している時代の精神および哲学に対して、特に自分自身のお気に入りの宗教的な理念に対して」、無媒介的に「直接聖書に訴え出る」ことによって、「本当に聖書をして語らせていると言い切れるほど」、信仰的・神学的・宣教的に自立した近代的な「聖書主義者」は、「いまだかって……一人もいなかったのである」。すなわち、彼らのそれは、人間学の後追い知識として、必ずや、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍、人間論、人間学的な哲学原理・認識論・世界観、に憑依されてしまうのである。すなわち、新プロテスタント主義における近代的な「聖書主義者」(近代的な「聖書絶対主義」)とは、次のような者たちのことなのである――@「人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である。人間は思惟する、すなわち人間は会話をする、人間は自分自身と話をする。動物は自分以外の他の個体がいなければ類の機能をひとつもはたすことはできない、しかし人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかという類的機能……を果たすことができる」・「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である(ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ『キリスト教の本質 上』)、A「神とはまさに、(≪人間の自由な自己意識の無限性における≫)人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない。(ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ『宗教の本質にかんする講演 下』)。
 「われわれの教会は、自分が神の言葉(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第一の形態・具体的にはその第二の形態≫)を通して改革された教会であって、決してルターとカルヴァンを通して改革されたわけでないことを知っているとしても、われわれの教会の宗教改革は結局、自分に対して与えられたルターとカルヴァンの証言(≪彼らの、世代の証言・「世代の働き」≫)を通して起こったものである」。なぜならば、先述したように、先ず以ては、イエス・キリストだけが・具体的にはその最初の第一の啓示のしるし(啓示の「概念の実在」)である「聖書だけ」が、「われわれが教会の中にいる時」の「神的教師」であるのだが、それだけでなく、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性によって制限され限界づけられた「年長の、より経験に富んだ生徒仲間(≪「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯した教会において「単に息子であるというだけでなく、……父でもある」ところの、その第三の形態における「教会の教師」としてのそれ≫)に」、先行する教会の客観的な信仰告白・証言・教義に、「教えられようと用意していることなしに」は、それらに信頼し固執し連帯することなしには、イエス・キリストにおける・具体的には聖書における福音について教えられることはない、からである。
 「純粋な新プロテスタント主義は宗教改革との訣別を意味する」。したがって、「もしも十九世紀において福音主義の教会と神学が実際に、シュライエルマッヘルの宗教についての講話と信仰論の基礎の上にたてられたとすれば、その時には福音主義の教会と神学は確かに純粋に新プロテスタント主義的なものとなった」に違いないのである。「しかしながら、教会は極めて賢明にも、あれほど深く新プロテスタント的な疾患にかかっていたにもかかわらず、……(≪ヘーゲル主義的な、それゆえにフォイエルバッハの宗教批判の対象そのものとしての≫)シュライエルマッヘルの上に自分を基礎づけはしなかった」のである。このように、宗教改革以降において、「人は実際は、広い範囲にわたって、宗教改革者たちとは全く別な道を進んで行ったのであるが、それにもかかわらず(中略)……自分を宗教改革者たちの最も忠実な後継者として吹聴すること」までは「断念しようとはしなかった」のである。その「必然的な随伴現象」は、「ルター・ルネッサンスとそれからそれに対応するカルヴァン・ルネッサンス」である。しかし、その場合、彼らは、教会とそのひとつの機能としての神学は、そして現存する教会と神学も、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯して、それを媒介・反復することを通した、その信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成それ自体において、シュライエルマッヘルや新プロテスタント主義を、根本的包括的に原理的に止揚して、そこから超え出ていくことは、しなかったし、できなかったのである。もっと根の問題について言えば、彼らは、そうした信仰・神学・教会の宣教における思想の課題を全く認識し自覚していなかったのである、全く認識し自覚していないのである。バルトだけが、そのことを認識し自覚し取り扱ったのである。いずれにしても、「さらにより良い教示が与えられるまでは」、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯して、それを媒介・反復した、彼らの「証言」・彼ら「世代の働き」も「学んでゆくべき契機」としなければならないのである。この延長線上に、例えばローマ3・22等の「イエス・キリストの信仰」の属格理解について、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯したところでの、しかしながら時代的制約性に規定されて近代以降の現在から未来に生きることができなかったしでき得ないところのルターの<目的格的>属格理解(イエス・キリストを信ずる信仰)に対する、近代以降のただ中を生きた現在から未来に生きることができたしでき得るところのバルトの<主格的>属格理解(神の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてあるイエス・キリストが信ずる信仰)があるのである。なぜならば、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯したところで、現在における大多数の被支配としての民衆にある不信とむなしさと不確かさと不安を、根本的包括的に原理的に止揚して・克服していくところに、信仰・神学・教会の宣教における思想の課題があるからである。まさに、バルトの「イエス・キリストの信仰」の主格的属格理解は、現在から未来に生きることができるものなのである――「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)。
 人間的な「宗教改革者たちの(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯して「神の言葉を正しく注釈したが故」の≫)権威と並んで教会の中でほかの教師たちの権威」を考察の対象とするとき、第一義的な問題は、聖性・秘義性・隠蔽性を本質する神の不把握性と終末論的限界の認識と自覚の下で、彼が「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯して、それを媒介・反復することを通して、絶えず繰り返し、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、その「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」――すなわち、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、啓示・和解、神の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある、<完了>された救済・平和、インマヌエル)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストについての告白・証し・宣べ伝えを目指しているかどうかということが決定的なことなのである。このように、バルトにおいては、ボンヘッファーの神学的実存におけるようなあるいは『福音と世界』にあったような、言葉と行為、理論と実践、「宣教A」と「宣教B」、という二元論・二元論的発想は、根本的包括的に原理的に止揚し・克服されているのである。「キリスト者の鋭い感覚と深い理解、……聖化が教会を建てるのではなく、ただ神の言葉だけが教会を建てる」のである。キリスト者の彼のそれが「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身」の決定事項なのであって、教会自身・人間自身の決定事項ではないのである。「教会は、人間が神に聞くというこの一事によって――神が人間に語り給うゆえに聞き、神が人間に語り給うことを聞くというこの一事によって、基礎づけられ、支えられているのである。(中略)このことが起こるところ、そこではたとえ二人三人の集まりであっても、またこの二人三人が決して選り抜きの人でなくても、また高い水準にさえ達していなくても、またむしろ人間の屑に属する者であるようなことがあっても、教会は存在する」・「(≪したがって、そうでない場合は≫)、どのような大群衆をその中に擁し、どのように優れた個人をその中に擁していても教会は存在しない。またそれが、もっとも豊かな生命を示し、国家と社会において、どのように尊敬されようとも教会は存在しない」のである(『啓示・教会・神学』)。
 「アタナシウスおよびアウグスティヌスのような人は宗教改革者にとっても、……(≪宗教改革の≫)教父であったし、彼らの生涯が意味していた戦いと業績は……ほかならぬ宗教改革的な信仰告白の前提であった……われわれも彼らの語ることに耳を傾けるならば、そのことはよいことであろう」。なぜならば、例えば、「教父タチノ意見ノ一致というローマ・カトリック的な標準」も、それが「聖書の正しい注釈としてあらかじめ宗教改革を証ししていた限り」においては、それは、福音主義の教会・神学にとっても、「本当にイエス・キリストのひとつの教会」・神学であるために、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯した、またその秩序性によって制限され限定づけられた、人間的な「権威」としてあるからである。しかし、一方で、例えばアウグスティヌスのように、「トリエント〔公会議〕後のカトリック主義の教父でありえたし、実際そのような教父となった限り」においては、アクグスティヌス等「彼らが語ることは聞かれるべきでないということを……付け加えなければならない……」のである。言い換えれば、「どの場合でも」、「宗教改革と宗教改革者の権威」、「それ以前の教父たちのうちのどのものの権威をも留保なしに承認すること」・「選択」することはできないのである。そのような「留保」性、制限性・限界性の認識と自覚は必要なことなのである。倫理化し絶対化してはならないのである。したがって、「トリエント公会議後のカトリックの神学者および新プロテスタント主義」、「また近代カトリックの教え、および新プロテスタント主義の教え」が、もしも、彼らが「自らそう欲しようと欲しまいと、とにかく」「本当にイエス・キリストのひとつの教会」・神学であろうと欲して、それゆえに「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯して、それを媒介・反復することを通して「福音主義的な真理を表現し、厳密に教えることができ……」、そこに「聖書の正しい注釈、それとともに宗教改革の信仰告白の証しが存在」するならば、あくまでも「留保」を持った上で、「それは聞かれなければならない……」。しかし、私の知る限りにおいてであるが、私は、そういうものに出会ったためしはないのである。神と人間あるいは神学と人間学、との調停・混合・折衷、調停神学・混合神学・折衷神学にしか、総括的に言えば人間学の後追い知識としての非自立的で中途半端な人間学的神学あるいは神学的人間学にしか、余りにも人間主義的な党派的組織構成のキリスト教界にしか、出会ったためしはないのである。(290―306頁)

 

 私たちは、あの社会構成・支配構成・文明――文化構成の時代水準のただ中で生き生活し喜怒哀楽し思考し意志した<作家>ドストエフスキーの『罪と罰』におけるマルメラードフの告白に、聖書的な終末論的信仰を、終末論的限界を、「正しい聖書注釈」を、感受し認識することができる。しかし、彼は「教会の教師」とはなり得ない。なぜならば、「質的に……即興演奏家や独唱家ではない」ところの「教会の教師になるためには」、彼が「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性を認識し自覚して、それゆえにそれに信頼し固執し連帯して、絶えず繰り返しキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」とそれを根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(先ず以て、イエス・キリストにおける福音の告白・証し・宣べ伝え)の「課題を絶えず念頭」に置いていなければならないからである、「彼に先行する教会全体、および彼にとって未来的である教会全体、に対して弁明をなし、証しをして行くという課題を絶えず念頭」に置いていなければならないからである。言い換えれば、「教会の教師」は、「ただ単に」、「神と共に、……聖書と共に、……宗教改革者たちの著述と共に、ひとりぼっちでいたのではなく」、「神と共に、聖書と共に、宗教改革者たちの著述と共」に、「全教会に相対して立って」いる者が、すなわち「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯して、それを媒介・反復する者が、「またただ単に自分自身で独語を語」り、「選ばれた範囲の者だけに語りかけるのではなく」、自らが確信を持った「責任のある」明確な言葉で「再び全教会に向かってあえて語るし、語る能力のある者……だけがふさわしいのである」。宗教改革者たちの「特徴」は、この「後方に向かってと前方に向かっての……普遍性」にある。「このことはまた、正統主義の教父たちの証言の特徴でもあった」。しかし、それに対して、そのことは、「近代の神学にとっては、広い範囲にわたって欠けてい」た。「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性において、終末論的限界の下で、現存する教会の現在から、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」とそれを根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、イエス・キリストの死と復活の告白・証し・宣べ伝え)を、「教会自身と世」の未来に向かって語ることは、その第一の形態・具体的にはその第二の形態にまで遡及して考え・その事柄を語ることである、また現存する教会の現在から、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第一の形態・具体的にはその第二の形態にまで遡及して考え・その事柄を語ることは、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」とそれを根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、イエス・キリストの死と復活の告白・証し・宣べ伝え)を「教会自身と世」の未来に向かって語ることである。これが、現存する教会・成員(その第三の形態)の現在的課題、現在を止揚し克服する課題の方途である。このことは、次の事柄と類比的である――「すべての以前と以後においても」「同一の方であり給う」イエス・キリストにおいて、未来(終末、キリストの再臨、救贖・完成)を考えること・待望することは過去(キリストの復活、神の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある、それゆえにまた徹頭徹尾・全く人間の介在を必要としない、<完了>された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和)を考えること・想起することであり、過去(キリストの復活)を考えること・想起することは未来(終末、キリストの再臨、救贖・完成)を考えること・待望することであると同時に、「成就された時間」(キリストの復活40日――使徒行伝1・3)の前の過去を考えることでもある。
 例えばルターやカルヴァンのように、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯した「教会の教師」は、「聖書の注釈においてわれわれに対して今日、われわれに関係してくる何かを語るべく持っている者のことである」。しかし、そうであるからと言って、教会の教師の権威は、「実際ただ、間接的な、形式的な、相対的な権威であることができるだけである」。このような「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯した「教会の……教師の権威が含みを持っている実際的な意義と意味深さ」は、「彼の証言」(その第三の形態におけるそれ)が、「預言者と使徒の証言」(その第二の形態のそれ)を、「ほんの少しでも駆逐したり」、それに「取って代わろう欲すること」を決してしてはいないという点にあるのである。教会的な権威における教会の教師は、「生徒たちを自分にではなく」、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第一の形態に・具体的にはその第二の形態に「さし向け、頼らしめ、拘束する」ところの「聖書の人間的な博士」として存在するのである。したがって、「もしも教師」が、「自分自身を売り込み、押しつけていくとするならば、そのこと」は、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性の「侵害を意味する」ことになるし、それゆえに神の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰の授与を阻害することにもなるのである。したがってまた、人は、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯しない、余りに人間的な党派主義的および権威主義的な組織性をもつ「ルター主義」あるいは「カルヴァン主義」には、「形而上史学的な歴史の科学」に依拠した「歴史主義」に対すると同じように、「尊敬と忠実さを示すべく義務」を、最初から最後まで全く負ってはいないのである。そのような「『ルター主義』という権威」や「『カルヴァン主義』という権威」を承認するか承認しないかという問題は、知識構成や組織構成における党派性の止揚の問題に関わることであって、「教会の教師の教会的な権威を承認することとは何のかかわりもないこと」なのである。言い換えれば、それら「『ルター主義』という権威」(ルター崇拝)や「『カルヴァン主義』という権威」(カルヴァン崇拝)は、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯しないところの、人間的必要・教会的必要から、人間自身・教会自身が恣意的独断的に対象化した「存在者レベルでの神」(偶像)崇拝に過ぎないものなのである、「ガラテヤ四・八以下、コロサイ二・八、二〇以下であれほど厳禁されている天使崇拝」に過ぎないものなのである。すなわち、それは、「(教会をして教会たらしめるところの)霊とまことをもっての神礼拝を結局、駆逐してしま」うものなのである。それの行きつく果ては、ルターやカルヴァンを啓示の「第一級の認識源泉」とする「自然神学」への埋没である、「自然神学」での停滞と循環である、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯するところにおいて絶えず繰り返しより良い「教示」を受けてなされるべき宗教改革からの逸脱である。「人が自然神学にただ小指だけでも与えるならば、自然神学は腕をつかみ、やがて必ずや全体を捕えようとする」のである。「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯しないままに、ルドルフ・ボーレンに依拠した神学者の佐藤司郎や小泉健が、自然神学を根本的包括的に原理的に止揚し克服しないままに、それゆえに人間論や人間学の後追い知識に過ぎないにもかかわらず、哲学は神学の婢であるという中世的思考に停滞して、「聖霊論的出発」は「神学の優位性を否定することなく」あるいは「神学の優位性を確保しつつ」、「人間学的局面にもその位置を正しく与える」あるいは「人間学を正当に評価する位置を与え得る」と述べた時、神学と人間学との調停神学・混合神学・折衷神学を目指す彼らの頭と心は、その隅々まで、自然神学に侵されていたのである。このような事例を挙げるだけでも分かるように、教会の教師・「宗教改革者たち自身」は、近代以降においては、近代的主義的な教会においては、「長い間」、「教会の潜伏的な教師」として後景に退けられた状態にあったのである。
 「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯した「教会の実際の教師は、自分ひとりで、自分に向かって、語ったのではなく、むしろその時代の教会のために、教会に向かって語ったのである」。「人は聖書(「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第二の形態)の生徒であり、同時にまた第二の教師(教会的な権威における教会の教師、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第三の形態のそれ)の人格と思想体系の生徒であることはできない。もしそのようなことになれば、教会は、それと同時に教会の学校は、崩壊してしまうことになる」(≪なぜならば、両者は、等価ではないからである。両者は、等置することができないからである≫)。したがって、「生徒たち」は、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯しない教師に対しては、「徹底的に用心しなければならない」し、また根本的包括的な原理的な誤謬に、「普遍性」やメディア的大学社会的「組織性」の「後光をかぶせて語ろうとする」大学神学者(知識人)およびメディア的著述家の神学や知識やメディア情報に対しては、それをそのまま鵜呑みにしたり模倣したりしてはいけないのである。
 このような訳で、「例えばルターの中に……英雄、学者、詩人、神学的な天才等を見て取り、高く評価すること」ができるとしても、「この種の評価だけでは、……彼を教会の教師として承認すること」はできないのである。言い換えれば、「われわれが彼を教会の教師として愛しているとするならば、その時にはわれわれ」は、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯した「彼が語ることを聞く」ことによって、「教会が語ることを聞くのである」、「彼が教える教示(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第三の形態のそれ≫)を、聖書そのもの(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第二の形態≫)の中で、……進んで身に受ける」のである。「その時われわれ」は、「彼が教える教示」(「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第三の形態のそれ)を、「聖書(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第二の形態≫)に照らしてはからなければならないのと同様」に、先行する教会(「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第三の形態)に連帯した「彼と同時代の教会の信仰告白に照らしてはからなければならない」のである。明確に選択と決断ができない場合においては、「われわれは……これこれの教師を標準として理解し、判断するのではなく」、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯した「すべての教師を、聖書(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第二の形態≫)および信仰告白(「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第三の形態のそれ)を標準(≪規準、法廷、審判者≫)にして理解し、判断しなければならない」のである。その場合には、このような「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯した、「批判的な立場」が「原則的」なこととなるのである、批判的に媒介することが「原則的」なこととなるのである、すなわち「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯して、それを媒介・反復することを通して、包括し止揚することが「原則的」なこととなるのである――「われわれは決して、その教師が引いた線をそのままおうむ返しに繰り返すことはできないであろう。むしろわれわれはその線を、(その教師を通してわれわれに語ってきた)聖書および信仰告白に対するわれわれ自身の責任の下で、……線をひき延ばし、継続させなければならないであろう」。「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯した、現在から未来に生きる、断続性と連続性の構造としての新たな「段階」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)の構成を目指さなければならないのである。「今日、宗教改革者たちの権威の再発見と再承認が問題であるべき時に……十七世紀の正統主義の単なる復古主義的な繰り返しが問題であり得ないのと同様に……ルターあるいはカルヴァンの教えを単に復古主義的に繰り返すことが問題ではあり得ない」のである。「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯した先行する教会に連帯する「今日の教会は、そのように、彼らが語ることを聞かなければならない。その時そのことは、彼らの教えの歴史的な形態とは違った線を行き、彼らの教えの歴史的な形態と衝突することを意味することができる」。すなわち、そのような仕方で、教会(教会的な権威における教会の教師)は、不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性に連帯しながら(――なぜならば、神の側の真実としてのみある、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第一の形態である客観的な「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」からである、そして「解釈する」とは、「別の言葉で同一のことを言うこと」だからである――)、一方でその時代性と個性を刻むことができるのである。教会(その成員)は、その総体を生きるのである。
 このような訳で、「教師の教会的な権威の積極的な意味は、教会が、その教師の現実存在の中に」・その教師の教説の中に、それが「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯したものである限りにおいて、その秩序性における制約性・限界づけの下で、「ローマ六・一七でそう呼ばれている」「教えの模範」(「教えの基準」・「教えの規範」)の「しるし」・「模写」であり、「またそのようなしるしおよび模写として……正当な、必然的な機能を持っている」という点にあるのである、そのような仕方で「教会の人間的な指導が事実となって起こった」という点にあるのである。また、このような訳で、「教会の中には数多くの教師が存在しているのであるが、すべての教師が教会の教師であるべく召されているわけでは」ないのである。言い換えれば、人は、「教会的――神学的」に、「階級制度」を実体化することはできないのである。したがって、ほんとうは、「どんなに高い特権を賦与された司教職の現実存在も、……意味を持」たないのである。したがってまた、キリスト者は、次のような「共同の責任」を負っているのである――@「あらゆるキリスト者の生が、意識するにせよ、しないにせよ、やはりひとつの証しである」限り、「教会とその信仰を基礎づけている神の言葉から、提起される」「真理問題はあらゆるキリスト者に向けられている。この証しにおいてこの真理問題に対する責任を負う限り、いかなるキリスト者も彼自身がまた、神学者としても召されている」(『福音主義神学入門』)、A「教授でないものも、牧師でないものも、彼らの教授や牧師の神学が悪しき神学でなく、良き神あるということに対して、共同の責任」を負っている(『啓示・教会・神学』)、B教会の一つの機能である「教義学は、決して信仰と、その認識のより高い段階を意味しない」。なぜならば、「最も単純な福音の宣教も、それが神のみ心である時には、最も制限されない意味で、真理の宣べ伝えであることができるし、最も単純な聞き手に対しても、この真理を完全な効力をもって、伝えてゆくことができる」からである。したがって、「教義学者は、信仰者としても、知識を持つ者としても、神がここでなし給うことに関しては、教会の誰か一人の会員よりも、よりよい状況にあるわけではない」。教義学者とは「ただ単に教義学を専攻する大学教員や著述家だけ」のことではなく、「広く一般に、今日および昨日の教義学的問いによって突き当てられ動かされる者たち」のことである(『教会教義学 神の言葉』論)。
 このような訳で、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯して、それを媒介・反復することを通した(≪そのアウグスティヌスやアンセルムスやルターやカルヴァンのような≫)教会の教師だけが、「教会の教師であるべく召されている」者である。彼ら教会の教師の教えは、「教えの模範」(「教えの基準」・「教えの規範」)の「しるし」・「模写」であり得るのである――「イエス・キリスト、換言すれば(≪具体的には≫)聖書そのものだけが、そうであり得る教えの模範」であるから、それに信頼し固執し連帯して、それに絶えず繰り返し聞き続ける(媒介・反復し続ける)教会の教師こそが、その「教えの模範」の「しるし」であり「模写」となり得るのである。したがって、安易な道へと逃亡していく場合、すなわち人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍の尊重(その典型――ルドルフ・ボーレン、彼に依拠する小泉健や佐藤司郎)へと、人間学的な哲学原理・認識論・世界観等の後追い知識(その典型――シュライエルマッハーやルドルフ・ブルトマン)等へと、逃亡していく場合、そうした彼らは(その神学・知識)は、その最初から、「教会の教師」、「教えの模範」の「しるし」・「模写」とはなり得ないのである。なぜならば、そこにおける神、啓示・和解は、それら人間自身・教会自身が対象化した「存在者レベルでの神」(偶像)であり、その偶像の啓示であり、その偶像の名と呼びかけによる人間自身・教会自身が支配し管理する救済・平和でしかないものだからである。したがって、このような教会的現状を、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯していくことにおいて、その信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成それ自体で、根本的包括的に原理的に止揚し克服していくことが、近代以降の、現在から未来に生きる、その信仰・神学・教会の宣教における思想の課題なのである。
 啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、聖霊の証しの力、その都度の神の自由な恵みの決断によって惹き起こされる客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与、それ自身が聖霊の業である三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯するところで、「まさに出来事として起こり、事実となり、教会自身によって承認され、(≪潜在的なそれを含めて≫)知られた指導者としての、教会の教師の現実存在は、(それ自身、イエス・キリストの派遣および委任として理解される限り)」、「階級制度」における「司教職」とは全く違って、すなわち「階級制度」における「司教職」にとっては「避けられない、カリスマ的賜物が与えられているかどうか」ということには全く「依存しない」ところで、「本来的な、最後的には唯一の、(イエス・キリストを通しての、換言すれば、聖書を通しての)教会の指導を表示し、具体的に明らかにし、厳格に教えてゆく力……を持っている」のである。このような「表示、具象化、厳格な教えを、教会は繰り返し必要としている……」。このような「教会的な教師の権威は、まさに霊的な権威として、まことの『教えの模範』の模写およびしるしとしてのその制限された性格の中で、……人間的に現実の、効果を持つ権威であって、決して虚構の権威ではない」のである。「それは教会の正典(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第二の形態、最初の第一の啓示のしるし≫)および信仰告白(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第三の形態のそれ≫)と共に、特に教える教会の内部での、具体的な教育的しつけ……をして行くことができる現実の効果的な権威なのである」。このような仕方におけるバルト自身の信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成に対しては、ハイデッガーも、ブルトマン(その学派)に対して行ったような「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」という現実性と妥当性を持った根本的包括的な原理的な揶揄・批判をなすことは決してできないのである。 (306―316頁)