『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「二十節 教会の中での権威」「一 言葉の権威」(その3−3)
カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「二十節 教会の中での権威」「一 言葉の権威」(その3−3)(224−248頁)
一 言葉の権威(その3−3)
神の側の真実としてのみある、「先ず第一義的に優位に立つ」客観的な「啓示の実在」そのものであるイエス・キリスト(「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態、神と人間との無限の質的差異における言葉の受肉であって神性の受肉ではないところの単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、神の言葉、啓示・和解)と共に、教会の宣教における原理である聖書(「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態、預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される人間の言語を介した人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰、啓示の「概念の実在」)――この「聖書こそ」が、教会に宣教を義務づけているのであるから、「聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのである」。言い換えれば、教会(「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態、説教と聖礼典における教会の宣教)は、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯して、それゆえにイエス・キリストにおける完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和にのみ感謝を持って信頼し固執して、それゆえにまた具体的には聖書を規準・法廷として絶えず繰り返し自己吟味しつつ的確に自らを「批判し訂正」していくことによって教会となる道を歩み続けなければならないのである。この時、初めて、教会のその信仰・その神学・その宣教は、ハイデッガーが「それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』」と揶揄・批判した人間自身・教会自身が恣意的独断的に対象化した「存在者レベルでの神」崇拝・偶像崇拝とその偶像の名と呼びかけるよる人間自身・教会自身が支配し管理する救いの企てを根本的包括的に原理的に止揚することができるのであり、そこから超え出ていくことがでのである。ここに、「福音主義的な決断」の本質と意味があるのである。ここには、「(聖書の中で証しされている)啓示の中での神の言葉が自分自身を」、啓示の時間そのもの(イエス・キリストの時間そのもの)と「その旧約聖書および新約聖書的証人たちの時間」に対してだけでなく、「イエス・キリストの教会の場の中でのすべての時間に対して……、また教会の口を通してすべての時間(≪人間の、世、社会、世界、歴史≫)に対して現臨することを欲しており、現臨するようになるであろう」という「福音主義的な信仰告白」、神のその都度の自由な恵みの決断における「繰り返し現実となる(神の言葉の)現臨」という「福音主義的な信仰告白」、すなわち啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力・聖霊の証しの力に対する、感謝を持った信頼と固執がある。したがって、「福音主義的な「告白」・「決断」において、教会は、次のように告白する――イエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを認識し承認し確認する・私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し承認し確認する・「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを認識し承認し確認する・私たち人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡すことができる場所、それゆえに「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所は、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト啓示の場所だけである、具体的には最初の第一のその「啓示のしるし」である聖書(預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)だけである。したがってまた、それ以外の「決断」・「告白」をするならば、すなわちカトリック主義的あるいは新プロテスタント主義的な「告白」・「決断」をするならば、人間が、人間の対自的で対他的な自由な自己意識の類的活動、身体と精神を介した普遍的で実践的な全自然との相互規定的な対象的活動(身体的精神的な人間の類的活動・生活)、を意識・自覚して以降は、教会が人間的教会的必要から実体化されるや否や、すぐに、必然的に、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーが揶揄・批判した人間自身・教会自身が恣意的独断的に対象化した「存在者レベルでの神」崇拝・偶像崇拝、その偶像の名と呼びかけによる人間自身・教会自身が支配し管理する救いの企てへと向かうほかはない、宗教的共同体・宗教的共同性へと埋没し堕落していかざるを得ない。この事態は、人間的本質と時代が強いてくるものであるから、そのことに自覚的でない場合には、カルトだけでなくカトリック(教会、成員、聖職者、神学者、著作家)であろうがプロテスタント(教会、成員、牧師、神学者、著作家)であろうがその事態から逃れることは全くできな事柄なのである。
前段の福音主義的な「告白」・「決断」は、第一に、「場所的な次元でも、時間的な次元でも、存在する教会的な交わりの実在に対する告白」、すなわち「教会が教会を成り立たしめている」「信仰における、宣教における単一性」、ということを含んでいる、すなわち「神の言葉の現在の証人たちは、彼らに先行する(同じ言葉の)証人たちを振り返り見ること、……見なければならないということ、そこでは先ず聞くことなしに語られることはなく、そこではすべての語りは父たちと兄弟たちに対して応答していくことであり、……これらの父たちおよび兄弟たちに対して特定の権威、秩序から言って優先し、そのようなものとして尊重されなければならない神の言葉の証人としての権利、が認められる」ということを含んでいる、そのような、「聖徒の交わりを告白する告白」、「特定の意味で権威ある(神の言葉の)伝承……秩序から言って優先する人間的な形態」と「取り組まなければなら」ないということを含んでいる。言い換えれば、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯することを通した、「信仰における、宣教における単一性」、ということを含んでいる。したがって、バルトは、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」である、と述べたのである。このことは、オリジナルな信仰・神学・教会の宣教というものはない、ということを意味している。したがって、バルトは、一方で、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯して、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」たのである(『啓示・教会・神学』)。また他方で、バルトは、そうする仕方で、その信仰・神学・教会の宣教に、個性や時代性を刻んだのである。
福音主義的な「告白」・「決断」は、第二に、現存する教会の証言が、「現在的な神の言葉の証言である限り」、それゆえにその証言が「神の言葉の伝承に対してあのように応答しつつ、神の言葉の伝承が持っている特定の権威を承認しつつ、起こる限り」、いわばその証言が、あくまでも客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯したそれである限りにおいて、「それ自体ある特定の権威を持っているという告白」を含んでいる。このような仕方で、「教会自身がその応答責任性の中で語る」ことによって、その「教会が語ることを聞く者たちの事柄となる……応答責任性……が発生してくる」。すなわち、その場合、恣意的独断的な人間的教会的必要からで全くはないところの、徹頭徹尾「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯することを通したキリストにあっての神を尋ね求める神への愛と、その「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」が発生してくるのである。
このような訳で、あの「告白」・「決断」は、福音主義的な道へと向かうことを選ぶ分岐となる。したがって、逆に言えば、あの「告白」・「決断」に立脚しない「告白」・「決断」をする場合には、いわばイエス・キリストにおける神の側の真実だけでなく人間の自主性・自己主張も、神だけでなく人間も、という「と(und)」の道の「告白」・「決断」――すなわち神だけでなく、人間の対自的で対他的な自由な自己意識の類的活動も、普遍的で実践的な全自然との相互規定的な対象的活動における人間の身体的精神的な類的活動も(この場合、近代以降においては、信仰・神学・教会の宣教は、人間の感覚と知識を内容とした経験的普遍・人間論・人間学の後追い知識として、それらの婢として、神学としても人間学としても非自立的で中途半端な経験論的・人間論的・人間学的な信仰・神学・教会の宣教となる)という「と(und)」の道の「告白」・「決断」をする場合には、人間自身・教会自身が対象化した「存在者レベルでの神」崇拝・偶像崇拝となるところの<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返す「カトリック主義および新プロテスタント主義」等へと向かうことを選ぶことを意味するのである。
さて、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態の「教会の中にはひとつの権威……が存在する」――すなわち、それは、教会の宣教における「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト(「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態、客観的な「啓示の実在」そのもの)の存在にある。それと「同時に教会を上から支配するひとつの権威、が存在する」――すなわち、それは、教会に宣教を義務づけている「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての「啓示の実在」そのものであるイエス・キリストと共に、教会の宣教における原理である聖書(「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態、預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、最初の第一の「啓示のしるし」であると同時に最初の第一の「権威のしるし」、客観的な人間が人間的に所有する人間の啓示の「概念の実在」)が存在する。したがって、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯する教会は、聖書の権威・自由・支配に信頼し固執し連帯する。したがってまた、教会は、自らを、客観的な「啓示の実在」そのものであるイエス・キリストと預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」としての聖書の権威」と同一視してはならないのである。このように、厳格な「対立と区別」・差異性において、教会の権威は「基礎づけ」られているし、また「限界づけ」られているのである。このことに対する「服従(≪認識と自覚≫)の行為の中で教会は、それが現にあるところのものであり、教会(エクレシア)である」。したがって、「カトリック主義および新プロテスタント主義」におけるように、教会が、「自らこの服従から身を引いてしまう時、身を引いてしまう限り、教会ではないのである」。したがってまた、その場合、その教会が、「どのような大群衆をその中に擁し、どのように優れた個人をその中に擁していても教会は存在しない」のである、「またそれが、もっとも豊かな生命を示し、国家と社会において、どのように尊敬されようとも教会は存在しない」のである(『啓示・教会・神学』)。すなわち、「教会は、自分自身の権威(≪恣意的独断的な自己支配の権威≫)に従う時、服従から身を引いてしまっている」のである、言い換えれば、教会が「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯しない時、その教会は、「服従から身を引いてしまっている」のである。「被造物的領域の中での自己支配は、ただ、神のこの特権(≪神の自己支配、言い換えれば、自在であって他在・対自的であって対他的、すなわち自由・支配は、神においてのみ「実在であり真理」である、自己支配は「神の偉大なる特権である」≫)の横領は、……被造物の不服従を意味することができるだけ」なのである――「ドストエフスキーの書いたあの大審問官は、神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていたのであるが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の善意(≪彼が対象化した「存在者レベルでの神」・偶像の名と呼びかけによる彼自身が支配し管理する救いの企て、における善意≫)によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、最も洗練された支配行為に過ぎなかったのである。神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえどのように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう。またそのようなところには、教会は存在しないのである。そのような救いの計画と救いの方法の独断性が、神に余りに僅かしか信頼せず、人間に余りに多く信頼するという点に現われるということは、疑いない(カール・バルト『啓示・教会・神学』)。このような訳で、「教会のそのような自己支配こそ」、すなわち「被造物の不服従」こそ、「カトリック主義と新プロテスタント主義の明らかにされた本質なのである」、「自分自身を啓示と同一視する教会的な教職」が、また「全く同じように誤ることがないものとして公言して憚らない人間的な自己意識と歴史意識の法廷が、いずれにしても教会自身」が、「最後の言葉(それにその同じ教会が聞き従っていると言いふらしている最後の言葉)を語る限り、そのような自己支配こそが、カトリック主義と新プロテスタント主義の明らかにされた本質なのである」。教会は、キリストにあっての神への「服従を拒む」ことによって、具体的には教会が聖書の権威・自由・支配の下にあり続けることを拒むことによって、すなわち総括的に言えば、教会が「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯しないことによって、すなわち「自分自身を神と等しいもの」とすることによって、神と人間、啓示と教職の認識、啓示と近代的人間の自己意識・歴史意識、との同一視・混淆・混合によって、「教会であることをやめる」のである。この時、教会は、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯することによって基礎づけられている「自分自身の権威」と自分自身にある「限界性」を喪失してしまうのである。したがって、この時、教会は、「もはや聖徒の交わりであることはできない」のである。なぜならば、その時、教会は、人間的教会的必要から恣意的独断的に、絶えず繰り返しなされるべき「教会の宣教の批判と訂正」の規準・法廷である「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における第一の形態(イエス・キリスト)に、具体的にはその最初の第一の「しるし」である第二の形態(聖書)に、信頼し固執し連帯することを止めてしまって、それゆえに教会(人間)を神の立場に置いてしまって、それゆえにまた教会の宣教における規準・法廷(自己相対化視座)を後景に退けてしまって、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯することにおける「聖徒の交わり」を喪失しているからである。またなぜならば、その時、教会は、人間自身・教会自身が対象化した「存在者レベルでの神」崇拝・偶像崇拝とその偶像の名と呼びかけによる人間自身・教会自身が支配し管理する救いの企てに埋没しているからである。ほんとうは、「ただイエス・キリストだけが、父および聖霊と共に教会の中で神的な栄光と権威を持ち給うことができる。被造物が創造主なしに存在」できないように、「教会はイエス・キリストなしに存在すること」はできない。したがって、この教会の存在の「栄光と権威」は、「イエス・キリストの栄光と権威の中に、……基礎づけられている」のである。したがってまた、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性において、その教会の存在の「栄光と権威」は、「イエス・キリストの栄光と権威」によって「限界づけられて」いるのである。すなわち、神の側の真実としてのみある客観的な「イエス・キリストの栄光と権威」こそが、それによって限界づけられた教会の存在の「栄光と権威」の根拠である。聖書また教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する。この三位一体論は、神論の決定的に重要な構成要素であり、「啓示の認識原理」である。したがって、「教会の宣教の批判と訂正」は、常にこの三位一体論に即して行わなければならないのである。なぜならば、この三位一体論を啓示認識の原理としない場合、すぐに神性否定のキリスト論や半神・半人キリスト論や三神論に埋没していく以外にないからである。この三位一体の神の自己啓示としての神の言葉(神の第二の存在の仕方、啓示・和解)は、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、そしてそれ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性において存在しているから、教会が教会となることによって教会であるためには、教会は、絶えず繰り返し、その「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯し続けなければならないのである。このような訳で、教会は、人間的教会的必要から恣意的独断的に、実体化することはできないのである。人間的教会的必要から恣意的独断的に実体化されたそのような教会は、人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」崇拝・偶像崇拝を行う宗教共同体・宗教共同性(単なる宗教法人)に過ぎないものなのである。すなわち、そのような教会は、イエス・キリストを主・頭とする教会ではあり得ないのである。
「教会の栄光と権威は……かつて受肉(≪言葉の受肉であって、神性の受肉ではない≫)」において、その「人間的性質は言葉の永遠的な神性の〔ひとつの〕賓辞であり、それ故、神性はヨハネ一・十四によれば肉の中で見て取られるべきであったように……イエス・キリストの神的栄光と権威の〔ひとつの〕賓辞である……。……神の主権と権威はいかなる意味でも教会の賓辞となることない……」のである。ちょうど、「啓示は歴史の賓辞ではない」・「歴史が啓示の賓辞である」ように。また、ちょうど、神の自己啓示、神の自己認識・自己理解・自己規定、啓示の実在、啓示の真理、啓示の時間、永遠、超歴史、救済史、は、常に、人間の自己認識・自己理解・自己規定、人間の啓示認識・啓示の「概念の実在」、人間の真理・世俗的真理、人間の時間、歴史、の外・彼岸、にあるように、あり続けるように。したがって、ほんとうは、教会自身が、「言葉の伝承、啓示、イエス・キリスト自身であるという主張をかかげる」ことはできない、「自己賞賛」したり「自己推薦」したりすることはあり得ない、「自ら直接的な、内容的な、絶対的な権威を持っており、そのような権威であるという主張にまでつき進むこと」はあり得ない。このような訳で、ほんとうは、教会は、「永遠的なイエス・キリストを認識しつつ」、すなわちキリストの神性を認識(信仰)しつつ、「イエス・キリストとの交わりの中でこそ、教会は……創造主が被造物と違い、天的なかしらがその地上的なからだと違う無限の相違性の中で、イエス・キリストが教会の中にい給い、教会がイエス・キリストの中にあるということ……でもって満足する……。まさにこの立場の中でこそ教会はイエス・キリストの祝福を想起し、イエス・キリストの祝福を待望する」。このように、「繰り返し信仰の起源と対象に身を向けるこの謙虚さこそが、カトリック主義の決断および新プロテスタント主義の決断と区別された福音主義の決断と本質である」。このことを、『神の人間性』の言葉に引き寄せて言えば、次のように言うことができる――「神の神性において」、「また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」・「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人(≪カトリック主義および新プロテスタント主義に立脚した、成員・聖職者・牧師・神学者・キリスト教的メディア的著述家たち≫)は、今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」。
しかしながら、福音主義的な決断と本質にある「教会の道」も、その人間的側面から言えば、常に、「感謝しつつ受けとることから自分勝手に所有しようとする意志へと、神の神的権威を承認することから自分自身の神的権威を主張することへと、服従から自己支配へと」急変する「詭弁」を弄する危険にさらされている。言い換えれば、人間が人間的なこの詭弁を弄するただ中で、あの福音主義的な決断の出来事は起こっている。このことは、神の側の真実においてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態、イエスの名」・神の第二の存在の仕方において、その存在の本質である単一性・神性・永遠性の認識と信仰を要求する自己啓示する神は、「まさにアラワサレタ神こそが隠サレタ神」であるから、すなわち聖性・隠蔽性・秘義性・不把握性を本質とする神であるから、その神ご自身が私たち人間に対して自己啓示されないならば、またその神ご自身が神と私たち人間とを架橋されないならば、全く不信仰で罪に穢れた私たち人間は、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰・概念・教義をさえ持つことはできない、ということを意味している。したがって、福音主義的な決断(の出来事)は、「恵みに対する」、人間の側における「子供のような純真」さに根拠があるのではない。なぜならば、それは、「感謝していない反抗に基づいている」からである・「感謝していない反抗」を<媒介>しているからである、「イエス・キリストから距離を隔てていることに中に、(イエス・キリストを通して……除去されたはずの)人間が神から遠く離れた状態の中に、わがまま勝手にあくまで踏みとどまろうとすること」を媒介しているからである。言い換えれば、その福音主義的な決断(の出来事)は、神の側の真実としてのみある、それゆえに究極的包括的総体的永遠的な客観的現実性・客観的実在としてある、主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」(ローマ書3・22およびガラテヤ書2・16等)における、不信を包括した信、不信を根本的包括的に原理的に止揚した・克服した信、に基づいているからである。このような訳で、あの「急変を具体的に阻止し、不可能とするところの」「教会に対して具体的に課せられている必然性」――すなわち、「教会自身の権威とキリストの間にある……対立と区別」・無限の質的差異の中に、それゆえに「教会の権威がキリストの権威に従う服従の中に、あくまで踏みとどまらなければならない必然性」は、具体的には、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における教会・教会の宣教に対する最初の第一の「啓示のしるし」――すなわち「聖書の事実」の認識と自覚、絶えず繰り返し聖書に聴従するところの行為、にある。言い換えれば、それは、教会が、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯する服従行為にある。この服従行為は、「わがまま勝手な振る舞いではないのである」。啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、「イエス・キリストの聖霊の力と生命」、「イエス・キリストの言葉はその聖書的証人たちの言葉、イエス・キリストご自身がその予言者および使徒たちの口に置き給うた言葉であって、これは教会が持っている……語るべき持っている言葉と取り違えられたり、混ぜ合わされたりすることはできない」、混淆・混合されたりすることはできない。単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストは、「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」。このような訳で、「イエス・キリストの言葉」は、具体的には人間的な「予言者的――使徒的言葉の形態(≪「イエス・キリストご自身の実在の一回性全体の中で」「召され、任命された」、そして「イエス・キリストご自身がその予言者および使徒たちの口に置き給うた」イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、教会に宣教を義務づけている教会の宣教の原理である特別な啓示の「概念の実在」、最初の第一の「啓示のしるし」および「権威のしるし」、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態、聖書≫)の中で」、預言者的――使徒的形態(聖書)において、「すべての時代の教会自身の人間的な言葉に対して」、「相対して立っている」のである。同じように、「イエス・キリストの権威は……イエス・キリストがご自分の言葉をその予言者と使徒たちに委任し、委託し給うた」ことによって、「イエス・キリストが彼らをご自分の教会を建てる岩となし給うた」ことによって、「具体的な権威」であるのだが、この「イエス・キリストの権威は教会の権威に相対して立っている」のである。このような訳で、バルトは、「使徒」でも「使徒的」でも全くないのである。したがって、大学知識人の富岡幸一郎の書いた『使徒的人間――カール・バルト』論は、その使徒概念や自然神学論等全く根本的包括的な誤謬にメディア的<組織性>の後光をかぶせて語られた軽薄で出鱈目な本・知識でしかないものなのである。同じように、、日本キリスト教団立東京神学大学の大学知識人の小泉健のルドルフ・ボーレンの「神律的相互関係」の概念に依拠した聖霊や聖霊の言葉を実体化させた聖霊論的説教論も、軽薄で出鱈目な恣意的独断的な説教論でしかないものなのである。「預言者および使徒の言葉としてのイエス・キリストの言葉の形態(≪聖書≫)……の中でだけすべての時代の教会(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第一の形態に・具体的にはその第二の形態に信頼し固執し連帯した教会の客観的な信仰告白・教義、啓示の「概念の実在」、としての教会≫)が啓示を受けとることができるし、自ら啓示の担い手をなることができる」。「教会は……ただ…予言者と使徒、の言葉を繰り返しつつ、自分自身と世に向かって語ることができるだけである」。「われわれの生命がキリストと共に保管されている」こと、「神がすでに為した」完了した「わたしの前にいるこの人々のために、キリストは死に、甦り給うた」・インマヌエルということ、「彼らの生活がイエス・キリストの中に根拠と希望を持つ」ということ――この事柄が、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らなければならない一切事中の唯一のこと」である。また、教会はエペソニ・二〇、三・五によれば、ただ、……使徒と預言者の土台の上にたてられることができるだけであって、決して……教会がイエス・キリストに結びつく直接的な結びつき、教会がイエス・キリストの霊によって直接的に生きることは存在しない」のである。言い換えれば、教会は、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯することこそが、「教会がイエス・キリストに結びつく直接的な結びつきであり、教会がイエス・キリストの霊によって直接的に生きる教会の生である」。教会には、この媒介性が存在するのである。教会の存在は「イエス・キリストご自身の存在」に根拠を持つのであるが、具体的には「イエス・キリストご自身の存在」の「具体的な形態」であるところの、啓示そのものと共に授与された最初の第一の「啓示のしるし」である預言者および使徒たちの存在(そのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、その服従、その生)に根拠を持つのであるから、教会は、その「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯しなければならないのである。
16世紀において宗教改革が行ったことは、教会の宣教における「教会の言葉および権威」は、「すべての時代にわたって」、常に、聖書的証人たち・預言者および使徒たちの「言葉および権威」(教会の宣教における原理としてのそれ、教会の宣教における規準・法廷としてのそれ)と「直面させられて」おり、それゆえに教会は、具体的には「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態の最初の第一の「しるし」である第二形態の聖書を、原理として、規準・法廷として、教会の宣教について、絶えず繰り返し、自己吟味し、的確に「批判し、訂正」していく歩みに基づく、ということを認識させ自覚させた点にある。啓示そのものと共に授与された最初の第一の「啓示のしるし」としての「書物の形態、文字の形態」(客観的対象性)を持っている「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態である聖書は、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態である「教会の霊の中で、力の中で、生命の中で消え失せ、消滅してしまわないように」、「具体的な権威として」、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性を「守っている」のである。この客観的対象性を持つ「書物性こそ」が、第一の「最初の(≪啓示の≫)しるしが、それなしには必ずやさらされているであろう恣意や偶然に対して守ってくれる」客観的な「防御物なのである」。聖書、「書物が開かれ、文字が語るならば、書物が読まれ、文字が理解されるならば、その時、……まさにそれと共に預言者と使徒たちが、そして彼らの中で彼らが証ししているところの方が」現臨し、「教会に対して生けるものとして出会うために、立ちあがるのである」。もちろん、「書物および文字が教会の中で権威であるのではなく、むしろ書物および文字を通して聞かれるようになる人間たちの声」――すなわち預言者および使徒たちの声(「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態、聖書、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」)、そしてそれら預言者および使徒たちの「声の中で、かつて彼らに語るように命じ給うた方の声」――すなわちイエス・キリストの声(「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態、神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの)、が「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態である「教会の中で権威である」。啓示そのものと共に最初の第一の「啓示のしるし」である聖書に対して「誤謬と誤解の可能性がいつもあるのであるが、しかし結局……その書物性の故に、このしるしそのものによって自分自身真理へと呼び戻させる可能性、……誤謬と誤解の中に落ち込んでしまった教会の宗教改革の可能性も、そこに存在し続けるのである」。このように、16世紀において、「人は預言者と使徒たちの証言の中に、……教会が再び、この証言を通して更新されるべく開かれるようになった……この証言の書物性の中に、特別に感謝をもって受け取られるべき(教会を支配する)摂理の賜物を見て取った……」。宗教改革における「聖書ニツイテ」の「原則的な宣言の主題と表題」は、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に対する認識と自覚にあるのである。教会が、ほんとうに、「イエス・キリストを見たいと思うなら」ば、教会は、「彼の第一のしるし」に、最初の「啓示のしるし」に、預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(聖書)に、「それと同時にまたしるしのしるしに」(「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるその第一の形態と具体的には第二の形態に信頼し固執し連帯したその第三の形態である教会の客観的な信仰告白・教義に)、また「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯したバルトの信仰・神学・教会の宣教(ここに聖徒の交わりはあるから、私自身は、このような連帯性に連帯したと思い連帯している)に、「頼り」聞く以外にはないのである。しかし、近代以降は、多くの現存する、教会は、人は、「一般に神、……イエスと聖霊を、……それだけでなく預言者――使徒的証言を」、人間自身・教会自身の支配と管理の下に置き、「しかもそれらのものの神的権威の名」と呼びかけの下で、「それらのものの神的権威を飾りに用いつつ実際は教会の権威(≪人間の権威≫)を最高の王座に座らせる」ことをするのである。こうした事態に対して、客観的な「聖書という形態の中で神は、またイエス・キリストと聖霊は、そのような変形に対し逆らい給う」のである、「また予言者と使徒たちはそのような変形に対し逆らう」のである。教会が「聖書を解釈し適用」し、「語る」こと「すべてに対して」、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態に感謝を持って信頼し固執し連帯した第二の形態である「聖書そのもの」は、すなわち最初の第一の「啓示のしるし」である「聖書そのものは(≪その権威と自由と支配において≫)自主的に、独立的に相対して立っているのであり、繰り返し他の新しい、(聖書から見て)もっとよい読者を見出し」、そのような「読者の中に、……きわめて広範囲にわたって自己支配に陥っている教会のただ中においても、なお服従を見出すことができる」のである。したがって、このような「聖書への決断こそ」が、「あらゆる時代に、……教会の主ご自身による、主ご自身によって定められた預言者的――使徒的証言の媒介を通してなされる教会の改革への決断を意味している」のである。
このような訳で、次のような場合は、「教会は生きてはいないのである」――「保守思想と進歩思想は、教会という領域の中で展開され、また動と反動の動きの中で互いに交替しつつ起こる……。……カトリック主義と新プロテスタント主義の間の党派的争い、あるいはカトリック内部の党派的争いとしては、実在論者と唯名論者、司教主義者と教皇主義者、ベネディクト派とジェスイット派の争い、さらに新プロテスタント主義内部での党派的争いとしては、正統主義者と敬虔主義者の間の争い、『積極主義者』と『自由主義者』の間の争いのようなものは、常に起こる……。またそのような運動の中であたかも教会が生きているかのような欺瞞的な外観を呈するということがあり得る……」。しかし、「そのような緊張の内部運動の中」では、「教会は生きてはいないのである」。なぜならば、それらの党派性、それらの党派主義、それらの党派的共同性、それらの党派的多元主義、それらの党派的知識人、の水準は、総括的に言えば、キリスト教における・その信における・その教会の宣教における思想の課題を全く認識し自覚し持たないところの、それゆえにそれ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯しないところの、それゆえにまた人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍、人間論、人間学的な哲学原理・認識論・世界観、との混淆・混合・折衷を目指すところの、人間学の後追い知識とならざるを得ないところの、形而上学的一面的皮相的固定的抽象的な、人間学的神学(・信仰・教会の宣教)として、人間学としても神学としても非自立的で中途半端な<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返す水準に過ぎないものだからである。言い換えれば、人間自身・教会自身が対象化した「存在者レベルでの神」崇拝・偶像崇拝、その偶像の名と呼びかけによる人間自身・教会自身が支配し管理する救いの企てを目指している、それに過ぎない水準のものだからである。すなわち、そこにおいては、「結局ただ、いろいろな人間的原理の、ごく世俗的な」・通俗的な「対立が問題になっているにすぎない」。言い換えれば、彼らには、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に対する認識と自覚が全く欠如しているのである。私たちは、ほんとうは、神の言葉、啓示・和解、イエス・キリストの名、この「ひとつの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(学派、教派、分派、思想傾向、時流や時勢、社会構成・支配構成・文化構成)に仕えなければならないことはない……。ひとつの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別なひとつの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」(『教会教義学 神の言葉』論)。「対立する双方に真理があるというような俗説が、世界史的に流布され、流通している」中で、自らの立場において、両者を包括し「止揚しなければならないということが思想的な問題」である(吉本隆明『思想の基準をめぐって』)。
「福音主義的決断の最終的な、積極的意義」は、次の点にある――神の言葉は、具体的には聖書(啓示の最初の第一の「しるし」、預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)において存在する、この「聖書は教会の中でのイエス・キリストの権威である」、「本来的に、また積極的に、決定的に、ただイエス・キリストの中でのみ秩序から言って優先する直接的、内容的、絶対的な権威」である啓示そのもの・その客観的な「啓示の実在」そのものと共に授与された「直接的な、内容的な、絶対的な」啓示の最初の第一の「しるしの権威」である聖書は、「教会の中でのイエス・キリストの権威である」、したがって、教会は、さまざまな「心配や困窮、問題を、いつどこにおいても決して自分で始末をつけなければならないことはないのであり、また、……自分で自分を支配しよう」とする「不可能な課題」を「自らに課す必要もないのである」。言い換えれば、教会は、教会的人間的な必要から、教会自身・人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」崇拝・偶像崇拝を生み出す必要はないし・決して生み出してはいけないのである、その偶像の名と呼びかけによる教会自身・人間自身が支配し管理する救いの構想・企ては必要ではないし・決してそのようなさまざまな構想・企てはしてはならないのである。教会は、ほんとうは、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯することを通して、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、その神への愛を根拠とする「神の讃美」としての「隣人愛」を目指さなければならないのである。ここで「隣人愛」とは、福音を内容とする福音の形式としての神の要求・要請・命令(律法)のことである。すなわち、それは、福音を内容とする律法(神の要求・要請・命令)がなければ、私たち人間は現実的に福音を所有することができないのであるから、そしてこの律法は本来的には「生命に導くもの」・「神の恩寵を証しするもの」であるから、現存するこの私のために、全人間・全世界・全人類のために、「十字架につけられ甦り給うたイエス・キリスト」(インマヌエル)についての「告白」・「証し」・「宣べ伝え」にあるのである。すなわち、それは、無媒介的な直接的な、キリスト教的愛の奉仕のことではないのである。近代以降は特に、意識されたキリスト教的愛の奉仕は、人類史的視点(世界史的視点)から言えば、人類史の原型・母型としてのアフリカ的段階あるいは縄文的段階における自然的なそれよりも劣るのである。イザベラ・バードは、『日本奥地紀行』で、アイヌ人について次のように述べている――@彼らが使っている煙草入れや煙管入れを2ドル半で買いたいと言うと、「それらは一ドル一〇セントの値打ちしかないから、その値段で売りたい」と言った。儲けることはアイヌ人の「ならわし」ではなかった、A「ある一軒の家が焼け落ちた」場合には、村の男たちが総出でその家を建て直すことを「ならわし」としていた、B明治期の日本人たちを「見て感じるのは堕落しているという印象である」。「わが西洋の大都会に何千という堕落した大衆がいる――彼らはキリスト教徒として生れ、洗礼を受け、クリスチャン・ネーム名をもらい、最後には聖なる墓地に葬られるが、アイヌ人の方がずっと高度で、ずっとりっぱな生活を送っている」、C彼らは雨宿りを頼むと、どんな貧乏な家でも、一番よい席を提供してくれる、D彼らには互いに殺し合う激しい争乱の伝統がない。すなわち、軍事部門を立ち上げようとする意志・国家形成の意志をもたない、E彼らは善悪・道徳の観念、高度な宗教をもたないが、誠実、高貴、立派な生活を送っている、E総体として「アイヌ人は純潔であり、他人に対して親切であり、正直で崇敬の念が厚く、老人に対して思いやりがある」。いずれにしても、あのようにして、教会は、「教会の主」イエス・キリストが、その予言者と使徒たちの「証言(≪聖書≫)の中で教会のただ中にい給うことを感謝をもって確認する」ところの「告白」を持って、神の「言葉の下」で、具体的には「聖書の下」で、聖書を「規準」・「法廷」として、「生きることがゆるされるし、生きることができる」のである。言い換えれば、教会は、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯することを通して、「生きることがゆるされるし、生きることができる」のである。したがって、それ以外の仕方においては、教会は、「ただ、死ぬことができるだけ」である。このような訳で、「死から教会を救いだす救出」は、「カトリック主義的決断」や「新プロテスタント主義的決断」にはないのであって、「福音主義的決断」にあるのである、「福音主義的決断を下す」ことによってそのことを「証しするところ」にある。