本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「二十節 教会の中での権威」「一 言葉の権威」(その3−1)

『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「二十節 教会の中での権威」「一 言葉の権威」(その3−1)(161−173頁)

 

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしておりますが、引用の不備や誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)

 

 

二十節 教会の中での権威
「教会の中での権威」について、バルトは、次のような定式化を行っている――
「直接的な、絶対的な、内容的な権威を教会は、自分自身が持っているとは主張せず、ただ神の言葉(≪「神の言葉の三形態」の第一の形態、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、啓示・和解そのもの、神の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある<完了>された救済・平和そのもの、「啓示の実在」そのもの≫)としての聖書(≪「神の言葉の三形態」の第二の形態、預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」≫)だけが持っていると主張する。しかしまさに、聖書の中での神の権威ある言葉に対する服従こそが次のことを通して――教会(≪「神の言葉の三形態」の第三の形態、すなわち不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯した第三の形態、そういう仕方における教会の客観的な信仰告白・教義、啓示の「概念の実在」≫)の中で共に聖書の証しを受け入れると告白する者たちが、聖書の証言を注釈し適用するに際して、互いに相手の言うことを進んで聞こうとし、また相手の言うことを聞こうと用意ができているであろうということを通して(≪すなわち、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということ、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」であるということ、「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」・「解釈する」とは「別の言葉で同一のことを言うこと」であるから、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性である不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性、に信頼し固執し連帯するということを通して≫)――客観的に規定されている。教会(≪「神の言葉の三形態」の第三の形態≫)の中での権威は、(教会がその中に基礎づけられているところの)聖書(≪「神の言葉の三形態」の第二の形態≫)の権威を通して、間接的な、相対的な、形式的な権威として限界づけられている」(161頁)。

 

 この定式は、次のように言い換えることができる――
 啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事――すなわち、客観的な啓示の出来事とその「啓示の出来事の中での主観的側面」、すなわち聖霊の注ぎによる人間的主観に実現された神の恵みの出来事、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与――、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性、におけるその第一の形態(単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、客観的な「啓示の実在」そのもの)は、教会の宣教における「先ず第一義的に優位に立つ原理」である。また、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に基づいて、その「神の言葉の三形態」の第一の形態に感謝を持って信頼し固執し連帯した第二の形態(預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」、聖書)は、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての客観的な「啓示の実在」そのものである「イエス・キリストと共に、教会の宣教における原理である」。したがって、「神の言葉の三形態」の第二の形態である「聖書が教会(≪「神の言葉の三形態」の第三の形態、教会の客観的な信仰告白・教義、啓示の「概念の実在」≫)を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのである」。したがってまた、教会は、教会の宣教の「規準としての聖書の性格」・「聖書の自由な力」に対して、それを、決して、人間自身・教会自身(牧師、神学者、キリスト教的メディア的著述家、成員)の恣意的独断的な自由事項・決定事項・裁量事項としてはならないのである。なぜならば、もしもそうしたならば、聖書的な、神、イエス・キリスト、聖霊、神の言葉、啓示・和解、救済・平和、「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯したキリストにあって神を尋ね求める神への愛、この神への愛を根拠とした神の賛美としての隣人愛を、人間自身・教会自身(牧師、神学者、キリスト教的メディア的著述家、成員)が、恣意的独断的に対象化した<偶像>としての「存在者レベルでの神」、イエス・キリスト、聖霊、に、その<偶像>としての神の名と呼び掛けによる人間自身・教会自身(牧師、神学者、キリスト教的メディア的著述家、成員)が恣意的独断的に支配し管理する、啓示・和解、救済・平和、神への愛、神の賛美としての隣人愛、に、計画・奉仕(社会的、政治的、文化的、なそれ)に、過ぎないものに変質させてしまうからである。

 

一 言葉の権威(その3−1)
 「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯した『教会教義学 神の言葉』論によれば、その都度における神の自由な恵みの決断による「神の語り、行為、秘義」である神の言葉(啓示)は、すなわち「神の言葉の三形態」の第一の形態(単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの)は、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基いて初めて「聞かれ」・「信じられる」事柄であるから、人間の意識や教会に内在的に存在している実体ではないし、人間的な「証明を必要としない」。
 啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に基づいた預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(啓示の「概念の実在」)としての「神の言葉の三形態」の第二形態である聖書は、「教会に対して」、「また教会を通して世に対して」、「神の啓示、イエス・キリスト、神の言葉を証しする」のであるが、その聖書の証しする「力」は、「聖霊の証しの力」、まさに啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力なのである。「それであるから聖書の証言は、聖霊の証言である。聖霊こそ、聖書の対象が持っている力である」。「聖霊を通してだけ」、聖書は、「教会に対して」、「また教会を通して世に対して」、「神の啓示、イエス・キリスト、神の言葉を証しする」。このようにして、「聖書はイエス・キリストを現在のものとし、自ら、神の言葉を語る」。したがって、「神が語るのを聞こうと望む者」は、その都度の神の自由な恵みの決断による聖霊の注ぎによって、「聖書に聞かなければならない」のである。「これこそ……福音主義的な聖書原理であって、啓示の証しと伝達に関して語られなければならないところの普遍的なこと、根本的なこと、それ自身において確実なこと、である」。(161・162頁)

 

 「教会にとって」、「教会を通しての世にとって」、「どのようにして、聖書の証言が聖霊の証しの力の中で聞かれ、取り上げられるようになるのという問い」は、「どのようにして、三位一体の神の啓示が遂行されるようになるのか」、すなわちどのようにして啓示認識・啓示信仰は可能なのか、という「根本的な問いと類比的な関係を持っている」。この場合、後者の問いに対しては、客観的な啓示の出来事(啓示の出来事の中での客観的側面)と聖霊の注ぎによる信仰の出来事(啓示の出来事の中での主観的側面、聖霊の注ぎによる人間的主観に実現された神の恵みの出来事、啓示認識・啓示信仰の授与)に基づく三位一体の神の啓示の遂行、啓示認識・啓示信仰の授与、と答えなければならないのであるが、「聖書の中での神の言葉、に従う服従に関」する後者の問いに対しては、神の言葉は、それ自身が聖霊の業である三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」、すなわち人間向かって語られた神の自己啓示である客観的な「啓示の実在」そのものとしてのイエス・キリストと、また予言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」としての啓示の「概念の実在」(これに信頼し固執し連帯した教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」)において客観的に存在するから、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯すること、と答えなければならないのである。言い換えれば、そのようにしてのみ、「聖書の中での啓示証言の実在を理解することができる。すなわち、聖書の中で実在となる可能性の中で啓示証言の実在を、概念でもって把握することが、できるのである」。この可能性は、「先ず第一に、本来的に、聖書そのものが教会の中で持っている権威と自由」によっている。預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である「聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのである」。このように「聖書が教会の中で権威と自由」を持つことによって、「聖書は教会に(≪相対的な≫)権威と自由を貸し与える」。したがって、この相対的な教会の権威と自由は、教会の恣意的独断的なそれでは全くなくて、あくまでも教会が「聖書の中での神の言葉、に従う服従」におけるそれなのである。「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯するところにおけるそれなのである。なぜならば、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に基づく、聖霊の証しの力において、「聖書は〔現に〕神の言葉であり、自分自身をそのようなものとして認識すべく与える」から、「発生的に」そうなのである。(162−164頁)

 

 教会の中での権威についての教説は、「教会の中にひとつの法廷〔権威の座〕」が「存在」しているということ、そしてその法廷が「教会の根拠と本質に対してもっとも近い関係に立って」いるということ、また「教会の歴史的および事柄的な起源に対してより多く参与している」ということ、それゆえに教会は絶えず繰り返し、その法廷に「集中的に聞」き「標準的なものとして注意」を払うことを「欲している」。すなわち、その教説は、教会(牧師、神学者、キリスト教的メディア的著述家、成員)が、それ自身聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯することを「欲している」、ということである。「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての客観的な「啓示の実在」そのものであるイエス・キリスト(「神の言葉の三形態」の第一の形態)と共に、預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、宣教」(啓示の「概念の実在」、「神の言葉の三形態」の第二の形態)としての聖書は、教会の宣教(「神の言葉の三形態」の第三の形態、説教と聖礼典)の原理である。したがって、これに信頼し固執し連帯した教会(その客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」)は、「神の言葉の三形態」の第三の形態なのである。「聖書は教会の中でそのような権威である」。そのようなものとして、「聖書こそ」が、教会に宣教を義務づけている、そして「聖書こそ」が、教会の宣教の的確な「批判」・「訂正」の規準である。また、一般的な意味において聖書は、「歴史的に最古のものとして示すことのできる、教会の発生の、その限り教会の根拠と本質の、文書」である。したがって、ここにおいて聖書は、「時間的、歴史的、人間的」な文書であり、それゆえに聖書は、「常にそのようなものとしても評価されることを欲しているし、評価されなければならない」(167頁)。しかし、教会の宣教のベクトルの後者への偏向は、すなわち「人間にあまりに信頼」し、「神にあまりに信頼」しないことによって成立している宗教的共同体・宗教的共同性としての教会(牧師、神学者、キリスト教的メディア的著述家、成員)は、教会の権威・「規準としての聖書の性格」・「聖書の自由な力」を希薄化させ喪失させるから、教会の宣教の原理を、人間論、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍、人間学的な哲学原理・認識論・世界観、人間自身・教会自身が対象化したさまざまな「存在者レベルでの神」(偶像)、その神の名と呼びかけによる人間自身・教会自身が支配し管理するさまざまな隣人愛・計画・奉仕、に置くことになるのである。なぜならば、彼らは、「神の啓示そのも(≪「神の言葉の三形態」の第一の形態、神の言葉、啓示・和解、イエス・キリスト、客観的な「啓示の実在」そのもの≫)のが聖書の証言(≪「神の言葉の三形態」の第二の形態、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」≫)の中で現臨することを欲しており、また現臨することができるという約束」を、すなわち啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力を、「聖霊の証しの能力」を、「認識根拠」としていないからである。言い換えれば、その場合、その教会の宣教(説教と聖礼典)は、神の側の真実としてのみある、それゆに客観的実在・客観的現実性としてある、イエス・キリストにおける<完了>された救済・平和、啓示の客観的実在・啓示の客観的現実性、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、聖霊の証しの力、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性、に信頼し固執し連帯しないそれなのである、それゆえに人間自身・教会自身(牧師、神学者、キリスト教的メディア的著述家、成員)が対象化した「存在者レベルでの神」(偶像)・その神の名と呼びかけるによる人間自身・教会自身が支配し管理する隣人愛・計画・奉仕に憑依した<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・教会の宣教に過ぎないそれなのである。まさにフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーが正当に根本的包括的に原理的に批判した、さまざまな人間教のそれに過ぎないものなのである。なぜならば、彼らは、信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成それ自体に、聖書的な、神と人間との無限の質的差異、聖性・隠蔽性・秘義性を本質とする神の不把握性、終末論的限界、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求、人間の無神性・不信仰・真実の罪、という概念を持たないからである。
 このような事態の常態化の根拠について、バルトは『教会教義学 神の言葉』論で次のように述べている――@「正しい注釈」を、教会の宣教における「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(性質・行為・働き・業、神の言葉・神の子、啓示・和解、「神の言葉の三形態」の第一の形態、客観的な「啓示の実在」そのもの)であるイエス・キリストに、そしてそれと共に教会に宣教を義務づけている教会の宣教の原理である聖書(預言者や使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、「神の言葉の三形態」の第二の形態、啓示の「概念の実在」)に基づくことをしないところにある、A「正しい注釈」を、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯するところに尋ね求めないで、「最終的に」、恣意的独断的な「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「教会の教職の判決に、……間違うことはありえないものとして振る舞う歴史的――批判的学問の判決に、依存させてしまう」ところにある、B「福音が純粋ニ教エラレ、聖礼典が正シク執行サレルということ」がなされないままに、礼拝改革・社会的政治的実践・キリスト教教育とか、教会と国家および社会との関係とか、国際間の教会的な相互理解というような領域で、「何か真剣なことを企て遂行してゆくことができると考える」ところにある。C教会の宣教(説教と聖礼典)の規準は聖書にあるにもかかわらず、教会の宣教の規準を、聖書と同時に、「最上の仕方で基礎づけられ、熟慮に熟慮を重ねられた人間的な判断」あるいは「哲学、道徳、政治」等々におくところにある、D「特定の人種、民族、国民、国家の特性、利益と折り合」おうとするところにある、Eある社会構成・支配構成・文化構成、ある「社会機構、あるいは経済機構の保持」・「廃止」に貢献しようとするところにある。
 来住英俊というカトリックの神父(?)が、教会の宣教を、「宣教A(イエスの御名を知らせる)」と「宣教B(社会の福音化)」とに分けて前者は後者に比べて低調であると『福音と世界 11月号』(立読版?)に書いていた記事を読んだのだが、そのように人間自身・「教会自身の努力と意志の遂行」に還元することは、すなわち人間の緊急的・相対的・部分的な政治的・観念的解放と観念の共同性を本質とする国家の無化を伴う人間の究極的・総体的・永続的な社会的・現実的解放という構造的構想も持たないままにそのように人間自身・「教会自身の努力と意志の遂行」に還元することは、すなわち啓示を人間自身の・自分自身の・教会自身の自由事項とすることは、<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・教会の宣教として、必然的に、次のような事態を惹き起こすにに違いないのである――@「ドストエフスキーの書いたあの大審問官は、神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていたのであるが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の善意(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯したキリストにあっての神を尋ね求める神への愛と、それを根拠とした神の賛美としての隣人愛、すなわち啓示・和解としてのイエス・キリストの証し・宣べ伝え、への集中ではなく、人間自身・教会自身が対象化した「存在したレベルでの神」・偶像、その神の名と呼びかけによる人間自身・教会自身が支配し管理する隣人愛・計画・奉仕への集中≫)によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、最も洗練された支配行為に過ぎなかったのである。神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえどのように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう。またそのようなところには、教会は存在しないのである。そのような救いの計画と救いの方法の独断性が、神に余りに僅かしか信頼せず、人間に余りに多く信頼するという点に現われるということは、疑いない」(『啓示・教会・神学』)。A歴史主義は、人間精神が生み出したものを問題とする限り、「啓示を問おうとしない」で人間精神の自己理解を第一義として「聖書の中でも神話を問う」ことをする。しかし、「啓示の証言としての聖書の理解」と、「神話の証言としての聖書の理解」は、相互排除の関係にある。したがって、聖書記事を歴史物語とみなし、聖書記事の「一般的な歴史性(Geschitlichkeit)を問題化すること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃しない」。しかし、聖書記事を「神話として受けとること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃する」。なぜならば、啓示は、人間学的な「歴史の枠に、はめ込まれてしまうような歴史的出来事ではない」からである。したがって、聖書の歴史認識の方法は、その歴史を、「一般的な歴史性」を含んではいるが史実史ではない歴史物語・古譚として受けとる点にある。B阪神・淡路大震災の時、ある牧師が「武器を持って神戸市役所かどこかに押しかけて行って、被災者の住めるような建物をすぐにつくってくれと、職員を脅かした」ことを話すために、吉本隆明にわざわざ電話をかけたその行為に対して吉本は、その牧師は「じぶんがやったことを得々としゃべるわけです。ぼくは、ははぁ、戦前とちっとも変っていないやと思いながら聞いていた……。(中略)正義のために脅かしたのだと得々としゃべることは、ぼくらが戦争中に『お国のために』といわれたのとまったくおなじことで、そんなの、ちっともよくない」、「日本というか、あるいはアジアの特質かもしれません。ラジカルな人ほど、ほかの分野の人に対してじぶんを押し付けがちです。そういう傾向がとても強い」、と述べている(『「ならずもの国家」異論』)。それだけではない、「宣教B(社会の福音化)」について言えば、例えば、現存する教会的な意識されたそうした人間的精神性よりも、人類史の原型・母系・母胎であるアフリカ的・縄文的<段階>における自然な人間の精神性の方が福音的である、と言うことができるのである。この点で、ヘーゲルの歴史哲学を読んでいるだけは間違うのである。自然な、アイヌの精神性について述べているイザベラ・バードの『日本奥地紀行』や北米先住民のインディアンの精神性について述べている野村達郎の『民族で読むアメリカ』を読むと、そのことをよく理解することができる。例えば、アイヌの場合は次のようである――@彼らが使っている煙草入れや煙管入れを2ドル半で買いたいと言うと、「それらは一ドル一〇セントの値打ちしかないから、その値段で売りたい」と言った。儲けることはアイヌ人の「ならわし」ではなかった。A「ある一軒の家が焼け落ちた」場合には、村の男たちが総出でその家を建て直すことを「ならわし」としていた。B明治期の日本人たちを「見て感じるのは堕落しているという印象である」。「わが西洋の大都会に何千という堕落した大衆がいる――彼らはキリスト教徒として生れ、洗礼を受け、クリスチャン・ネーム名をもらい、最後には聖なる墓地に葬られるが、アイヌ人の方がずっと高度で、ずっとりっぱな生活を送っている」。C彼らは雨宿りを頼むと、どんな貧乏な家でも、一番よい席を提供してくれる。D彼らには互いに殺し合う激しい争乱の伝統がない。すなわち、軍事部門を立ち上げようとする意志・国家形成の意志をもたない。E彼らは善悪・道徳の観念、高度な宗教をもたないが、誠実、高貴、立派な生活を送っている。総体として「アイヌ人は純潔であり、他人に対して親切であり、正直で崇敬の念が厚く、老人に対して思いやりがある」。例えば、北米インディアンの場合は次のようである――@長老たちによる合議制による社会で、国家形成を目指さず、部族共同体あるいは部族連合にとどまる平和な種族であった。B独立革命以前のイングランド系移民である「コロニスト」(植民者)や「セトラー」(定住者)は、インディアンや同国人の死体を食すくらいに飢餓や疫病の流行等の困難を極めた植民であったが、インディアンはそうした彼らに対して平和的で親切であった。現存する意識された教会的な精神性よりも、自然なアイヌやインディアンの精神性の方が福音的なのである。
 このような訳であるから、「教会の本来的な服従」は、徹頭徹尾、教会が、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて啓示認識・啓示信仰を授与され(啓示の受領者とされ)、それ自身聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯するところにあるのである。宗教ではないところの・宗教的共同体ではないところの・宗教的共同性ではないところの教会は、すなわち聖書に信頼し固執し連帯することを通してイエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執する「イエス・キリストの教会」は、「その存在、根拠、本質を構成している」「神の言葉」(啓示・和解)に、具体的には聖書に絶えず繰り返し聞く、「服従関係の中に立っている……」。この「服従関係には、……特定の単一性の中で属し合っているが、しかしこの単一性の中でまた特定の仕方で区別されたふたりの〔相手となる〕仲間」が、しかも「そのうち……ただ一方のものだけ」が、すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストだけが「命令し、他方のものはこの命令に服従しなければ」ならない・「ただまさに服従するだけである」ところの、「ふたりの仲間が属している」。旧約聖書においても、新約聖書においても、聖書の証人たちは、すなわち預言者および使徒たちは、「啓示の受領者」として、この服従関係の中に立っていた。彼らは、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊という三位一体の神における、啓示の客観的実在・啓示の客観的現実性・「啓示の実在」そのものである、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示・和解)であるイエス・キリストを「先ず第一義的」な・第一次的な原理としていたのである。そのイエス・キリストにのみ、感謝を持って信頼し固執していたのである。このような訳であるから、<自然神学>の<段階>を超え得る信仰・神学・教会の宣教を尋ね求める私にとって、先ず以て第一義的に重要な事柄は、バルトではなく、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストなのである。そしてそれから、このイエス・キリストとの関係で、カール・バルトが重要であり、吉本隆明等々が重要なのである。まさにこの意味において、私は、「法然にだまされて、念仏して地獄におちたからとて、すこしも後悔はしない」と唯円に述べ、機縁による一念義に生きた親鸞のように、私の信仰・神学・教会の宣教については、終末論的限界の下で、徹頭徹尾全面的にバルトの信仰・神学・教会の宣教に依拠するのである。こういう仕方で、私は、「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)に連帯するのである。また一方で、私は、この意味において、人間論的人間学的領域においては、吉本隆明等々の知識や思想(その在り方)に依拠するのである。(164−170頁)

 

 預言者および使徒たちは、「彼らに対して(≪啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に基づいて≫)啓示が命令的に出会うがゆえに」、そしてそのように「出会う」ことによって、「彼らが啓示に対して服従するようになる」、そしてそのように「服従するようになる」ことによって、「彼らは啓示の受領者となるし、啓示の受領者である……」。「神の言葉の三形態」の第一の形態(神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの)に「聞き従うものとして彼らは預言者および使徒たちである」、「神の言葉の三形態」の第二の形態(イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」)である。このように「聞き従うものとして彼らは聖霊を持つ」、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与された啓示認識・啓示信仰を持つ。このように「聞き従うものとして、彼らはまた、ほかの者たちに相対して、生成しつつある教会および世に相対して、キリストの証人として任命され、委任を与えられ」た。なぜならば、人が福音を現実的に所有するためには、福音を内容とする福音の形式である律法(神の命令・要求・要請)が必要だからである。したがって、「われわれの生命が」、神の側の真実としてのみある、それゆえに客観的実在・客観的現実性としてある、「十字架につけられ甦り給うたイエス・キリスト」と共に・その<完了>された救済・平和と共に、「保管されている」というこの事柄が、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のことである」(『福音と律法』)。したがってまた、イエス・キリストの教会は、「この服従関係の繰り返し」においてのみ「存在することができる」。「イエス・キリストの教会の現実存在」は、「ちょうど使徒と預言者たちが彼らの主に聞き従ったように」、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に基づいて、それゆえに聖霊の証しの力に基づいて、神の言葉(啓示・和解)に「聞き従」うことが「起こるということと共にたちも倒れもする」のである。
 「神の言葉の受肉」、「聖霊の注ぎ」、「キリストの死によって人間が神と和解させられ和解」、「キリストの甦りの中でのその啓示」、「キリスト復活の四十日」、が一回的であるのと同じように、「預言者および使徒たちと彼らの主の間の服従関係」は、「一回的な服従関係」である。キリストの再臨の時までは、「教会の時間、われわれの時間は、(預言者および使徒たちの時間とは)別な時間である」。したがって、バルトは、バルトの自然神学論を高校の倫理レベルの知識で軽薄に出鱈目に述べていた富岡幸一郎の言うような「使徒」ではないし、「使徒的人間」でもないのである(171頁)。イエス・キリストの教会は、「文字通りただ一度だけ」、すなわち「預言者と使徒たち自身の中で、正確にとるならば、〔そこで〕使徒たちが自分たちの目の前で、預言者たちの成就されるのを見た復活日の後の四十日の中で、存在した」・「四十日の約束」――すなわち「あなたがたは、わたしの証人となるであろう、また、見よ、わたしはいつもあなたがたと共にいるであろう……はまことである」。イエス・キリスト(神の言葉、「神の言葉の三形態」の第一の形態、客観的な「啓示の実在」そのもの)が「復活の四十日」において「預言者と使徒たち(≪「神の言葉の三形態」の第二の形態≫)自身のためにいましたように、われわれ(≪「神の言葉の三形態」の第三の形態≫)のためにいますということ」、「聖書(≪「神の言葉の三形態」の第二の形態、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」≫)が教会(≪「神の言葉の三形態」の第二の形態に信頼し固執し連帯した第三の形態、客観的な信仰告白・教義、啓示の「概念の実在」≫)のための神の言葉」としてあるということ、は「まことである」。このことを、バルトは、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、それゆえに聖霊の証しの力、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性を念頭において述べているのである。したがって、教会は、「聖書の傍ら通り過ごして直接神に、キリストに、聖霊に訴え出ようとすることはできない」のである。(170−173頁)

 

 最後に、バルトは、次のように述べている――神の言葉は、「偶発的な同時性」、すなわち「特定のアノトコロデアノ時ニが、特定のココデイマ」となる。神の言葉は、「その都度、全く特定の一回的な、独一無比な」言葉である。しかしまた、神の言葉は、「神の口を通して語られて、同時的」である。このことは、神の言葉は一つであること、すなわち「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける連続性を意味している。この単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストの連続性における「同時性」が、「特定のアノトコロデアノ時ニが、特定のココデイマ」となる出来事の時間・空間のベクトル変容を可能とするのである。すなわち、そのイエス・キリストの「特定のアノトコロデアノ時ニ」において、バルトの「特定のココデイマ」は、預言者や使徒たちの特定の時空と交点を結び得るのである。「時の全くの厳格な相違性の中で、神の言葉は一つであり、同時的である(イエス・キリストは、きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない)」(『教会教義学 神の言葉』論)。「パウロはその時代の子としてその時代の人々に語った。けれどもこの事実よりはるかに重要な事柄は、いま一つの事実、すなわち彼は神の国の預言者ならびに使徒としてあらゆる時代のあらゆる人々に語っている、ということである。(中略)聖書の精神は永遠の精神なのである。かつての重大問題は今日もなお重大問題であり、今日の重大問題で単なる偶然や気まぐれでない事柄は、またかつての重大問題と直結している (『ローマ書』)。