本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「十九節 教会のための神の言葉」「二 神の言葉としての聖書」(その3−3)

『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「十九節 教会のための神の言葉」「二 神の言葉としての聖書」(その3−3)(114−160頁)

 

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしておりますが、引用の不備や誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)

 

 

十九節 教会のための神の言葉

 

「教会のための神の言葉」について、バルトは、次のような定式化を行っている――
「神の言葉(≪客観的な「啓示の実在」そのもの、「イエス・キリストの名」、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストの死と復活における啓示の出来事、啓示・和解、ローマ3・22およびガラテヤ2・16等における神の側の真実としてのみある主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」――イエス・キリストが信じる信仰、客観的実在としての神の義そのもの、イエス・キリストにおける<完了>された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性である「神の言葉の三形態」の第一の形態、それゆえに先ず以て第一次的・「第一義的に優位に立つ原理」≫)は聖書(≪「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」を通して授与された人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰に基づくイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」としての啓示の「概念の実在」、「神の言葉の三形態」の第二の形態、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての「啓示の実在」そのものであるイエス・キリスト共に「教会の宣教の原理」≫)の中での神自身である。なぜならば神は、主として昔モーセおよび預言者たちに、福音記者および使徒たちに語られた後、神がそれらのものによって書かれた言葉(≪聖書、「神の言葉の三形態」の第二の形態≫)を通して、同じひとりの主としてその教会(≪教会の客観的な、信仰告白・教会的宣言および教義・福音主義的教説としての啓示の「概念の実在」、「神の言葉の三形態」の第三の形態≫)に語りかけてい給うからである。聖書は、それが教会に対して聖霊を通し(≪イエス・キリストにおける啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与という「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」を通して≫)、神の啓示についての証言となったし、神の啓示についての証言となるであろう間に(≪ことによって――このindemを、井上良雄ならこのように「……することによって」と訳すであろうから、この吉永の「……する間に」という訳し方には何か彼の特別なこだわりがあるに違いない、しかし、私たちは、この吉永の翻訳の偉業に感謝しつつも、ただこの教会教義学の、瑣末な、重箱の隅を突っつく的な、馬鹿馬鹿しくてつまらない作業に時間を費やすることは止めて、それゆえに「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」・教会の宣教やそれに類する神学・教会の宣教におけるような形而上学的一面的皮相的固定的抽象的空論的な理解を目指すのは止めて、あくまでも現在から未来に生きる言葉を探し求めて、根本的包括的な原理的な理解を獲得していくことにのみ専念する)、聖であり、神の言葉である」(3頁)。

 

 

「二 神の言葉としての聖書」(その3−3)
 聖性、単一性・神性・永遠性を本質とする「神の言葉としての……イエス・キリストの永遠の現臨の中では、イエス・キリストは、地上にある……時間の中で生きているわれわれ、にとっては隠れてい給う」のであるから、それゆえに啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に基づいて、「ただ(≪啓示・和解という神の第二の存在の仕方における、それゆえに知覚的な「神の言葉の三形態」の第一の形態における≫)彼の人間性のしるしの中で、それであるから特に彼の預言者と使徒たちの証言(≪その現にあるがままの現実的な人間存在における人間が人間的に所有する人間の、人間の言葉を介した、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である聖書、知覚的な「神の言葉の三形態」の第二の形態≫)の中で、啓示されるだけ」なのである(112頁)。聖書によれば、聖霊は、私たち人間の「救済主」である。しかし、聖霊は、「救済主」であるだけではない。単一性・神性・永遠性を本質とする聖霊は、「子とともに、子の霊として、また和解者」でもあり、また、「父および子とともに創造主なる神」でもある。新約聖書の「イエスは主である」という「証言」は、単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストを、「事実の承認」として・「思惟の初め」として語っている。したがって、この「イエスは主である」・「子を通しての父を、父を通しての子」ということを信じるこの「信仰」、キリストにあっての神との出会いであるイエス・キリストとの出会い、「信仰の出来事」、は、キリストの霊である聖霊の注ぎによる以外にはないのである。このような訳であるから、この信仰の出来事は、新約聖書において、「啓示の出来事の中での主観的側面」・「聖霊の注ぎ」による人間的主観に実現された神の恵みの出来事、キリストにあっての神のその都度の自由な恵みの決断によってやってくる啓示認識・啓示信仰の授与の出来事のことなのである。すなわち、私たちは、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、イエス・キリストにおける<完了>された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的救済・平和について認識し信仰することができるのである。このように、救済・平和を「信仰の中で持つ」ことは、「約束として持つ」ことである――「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」、「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」、この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である、新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」(人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍)にとっては<いまだ>であるが、神の側の真実としてのみある啓示の客観的現実性・啓示の客観的実在、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(性質・行為・働き・業、神の子、神の言葉、啓示・和解、「神の言葉の三形態」の第一の形態、「啓示の実在」そのもの)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいては、それゆえにその「成就と執行」・「永遠的実在」としては、<すでに>ということである。

 

 神の言葉は、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての、知覚的な、「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)、すなわち「神の恵みの自由な行為」・神の自由な恵みの決断による神の自己啓示である単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト(神の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの、「神の言葉の三形態」の第一の形態)と、また「聖書」(啓示に固有な証明能力に基づいて授与されたイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」、「神の言葉の三形態」の第二の形態)およびその第一の形態と第二の形態に信頼し固執し連帯してそれを絶えず繰り返し媒介・反復することを通して教会となることによって教会であろうとする教会(教会の宣教における客観的な信仰告白・教義・教説、啓示の「概念の実在」、「神の言葉の三形態」の第三の形態)、換言すればこの「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性、においてあるのであるから、「Uテモテ三・一六およびUペテロ一・二〇以下」の、教会における聖書の霊感説の吟味は、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力ということに基づいて、それゆえにそれ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性ということに基づいて、なされなければならないのである。したがって、この秩序性において、聖霊と聖書の間の「単一性の実在全体が力を奮う」場合、すなわち啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事が惹き起こされる場合、それは、キリストにあっての「神の恵みの自由な行為」・決断なのである。言い換えれば、その出来事は、あくまでも、その都度の神の自由な恵みの決断によってやって来る出来事であるから、人間の側の身体的苦行や感情や意識や意志を介在させた「体験」としてはやってこないのである。先ず以て、このことは、聖書の霊感説の吟味の必然的な「基準」である。
 このことの根拠は、次の点にある。
@「Uコリント三・四−一八」で、パウロは、「イエス・キリストの啓示の証言としての旧約聖書」を、「文字」・「書かれたものとして」、「しかも聖であり、救いに必要な書かれたものとして」、「理解されることを望んでいる……」。したがって、パウロは、「旧約聖書から聖書としての資格を剥奪する」ためではなくて、ユダヤ会堂において「霊なしに受け取られ、読まれた(≪旧約≫)聖書に反対して語」っている」のである。したがってまた、パウロは、「新しい契約に仕える資格」――すなわち「文字」に仕える資格を包括し止揚した・克服した「霊に仕える資格」、に生きている。このパウロは、「出エジプト三四章を注釈」し、「文字」・「書かれたものそれ自体」は、聖霊の注ぎなしでは・聖霊の働きなしでは、「生命に導くのに役立たないばかりか、かえって死に導く」ということを実証している。なぜならば、聖霊の注ぎ・聖霊の働きなしには、聖書は、「あくまでもおおわれたままである」からである。したがって、ユダヤ会堂で聖書が朗読される場合、そこには「神的な仕方で記述されているものがそこにあ」り、「読む人もそこにいる」のであるが、「彼らの心にはおおいがかぶさっている」のである。「父ト子ヨリ出ズル御霊」なしに・「霊なしに受け取」ろうとしている「彼らの心はかたくなにされており」、それゆえに彼らにとっては、啓示・和解に「開かれた書物」は、「閉じられた書物」でしかないのである。「トーラー、すなわち全旧約正典、の神人的発生についてのタルムード的、アレキサンドリア的ユダヤ教の理論を知っていた」であろうパウロが、「神を通しての聖書の特別な霊感」を「肯定した時」、「そのことは、(≪単一性・神性・永遠性を本質とする神の第三の存在の仕方である≫)聖霊の働きを通してなされる同じ神の現在的な証言についての彼の見方との関連の中でなされている」。すなわち、この「覆い」は、啓示・和解そのものである単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて「取り除かれる」。したがって、聖書を神の言葉として聞くことができるためには、「その方の現在」、主の霊、キリストの霊である聖霊の注ぎ・聖霊の働きを必要とするのである、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事を必要とするのである、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会」(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)における「単なる知識」ではなく、啓示「認識」・啓示「信仰」を必要とするのである。『教会教義学 神の言葉』論に依拠して言えば、次のように言うことができる――「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に感謝を持って信頼し固執する啓示「認識」・啓示「信仰」である。その時初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができる。したがって、「すべての大学社会」における人間学的なあるいは神学としても人間学としても非自立的で中途半端な人間学的神学・神学的人間学における、ただ「単なる知識」に過ぎないある理念・ある概念の実体化・「最高存在」・「最モ完全ナ存在」としての啓示概念は、人間的自然としての知の一形態に過ぎないのであって、啓示の「概念の実在」ではないのである。神の言葉(聖性、隠蔽性・秘義性・不把握性、単一性・神性・永遠性、を本質とする、神の第二の存在の仕方、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの)は、「人間の現実存在の内部」、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍、人間論、人間学的な哲学原理・認識論・世界観、の中にはないのである。なぜならば、神に敵対し神に服従しない私たち人間は、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力」を一切持ってはいないからである。したがって、神の言葉は、その都度の神の自由な恵みの決断において、その隠蔽性と顕現性において、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、「われわれのところに来」るのである。この神の隠蔽性・秘義性・不把握性とは、私たち人間のその啓示認識が、常に終末論的限界(自己相対化)の前に立たされるということである。したがってまた、私たちキリスト者が、覆いを取り除かれて、人間の言葉を介したイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である聖書(「神の言葉の三形態」の第二の形態、啓示の「概念の実在」)を神の言葉(「神の言葉の三形態」の第一の形態、「啓示の実在」そのもの)として聞くことができる時、それゆえにその現にあるがままの現実的な人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰を授与される時、そこのとは、その現にあるがままの現実的な人間である「われわれに固有な能力に基づいて起こることではなく、霊である主から」、「霊の主から」、起こることなのである。啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に基づいて、神のその都度の自由な恵みの決断に基づいて、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して、起こることなのである。
 このような訳であるから、「聖書そのものの神聖性と救いに役立つ性質は、準備的なもの」であって、「この準備的なものの成就と完成」を教会自身が「自分の手で造り出すこと」は決してできないのである。したがって、前述したことについての認識と自覚を欠いた「キリスト教会は、世やユダヤ会堂と同じように、ただ裁きの下にあるだけ」なのである。そのような教会は、人を、終末論的限界の下であれ、正しい啓示認識・啓示信仰へと導くことはその最初からできないのである。したがって、「ただ自分の断罪と出会うことができるだけであるところで」教会が「生命を見出す」時、そのことは、「聖霊の恵み」によることなのであり、それゆえに「そのことが出来事として起こることに対してまさに神だけがほめたたえられることができるところの出来事」なのである。

 

A「Tコリント二・六−一六」によれば、パウロは、自分が、「神の霊」の注ぎ・導きによって、「神が私たちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定められておられた」、「またこの世の支配者たちによって見損われ、それ故に、十字架につけられた」、「それ自体、人間が目で見たことがなく、耳で聞いたことがなく、人の心に思い浮かばなかった」、「『隠された神の知恵』(≪「イエス・キリストの中で起こった神の啓示」・「神的な恵みの行為」≫)を語っていることを自覚している」。それだけでなく、パウロは、自分が、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてその「恵みの行為」を啓示認識・啓示信仰させられたパウロは、その恵みの行為を・福音を、「言葉に出して述べることができ、言葉に出して述べることがゆるされていると信じるのである」、「この世の知恵」(単なる知識)についてではなく、先ず以て、第一義的に、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、啓示・和解、「神の言葉の三形態」の第一の形態、「啓示の実在」そのもの)であるイエス・キリストにおける啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与された啓示認識・啓示信仰について語っている、ということを確信しているのである。したがって、福音そのものであるイエス・キリストの死と復活の出来事が自分たちと「世に対して語らなければならなぬ一切事中の唯一のこと」・「もろもろの誡命中の誡命」(福音を内容とする福音の形式である神の律法・命令・要求・要請)として認識し自覚させられた、パウロは、おのずから、その福音をすべての人たちが現実的に所有することができるために、「われわれの生命がキリストと共に保管されている」ということ、イエス・キリストが私たちの「召命・義認・聖化」「浄化・聖化・更新の原理」であるということ、についての、説明ではなく、告白・証し・宣べ伝えへと向かうのである。「人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用いて、霊の言葉でもってあの霊の実在を解釈しつつ」、その告白・証し・宣べ伝えへと向かうのである。「人間的な事柄」は、「人間的な霊」――例えば理性を用いて論理的合理的体系的に認識することができる。しかし、その現にあるがままの現実的な人間存在における人間が「神的な事柄を認識」するためには、「神の霊」の注ぎ・聖霊の導きを必要とするのである、すなわち聖霊により「更新された理性」(この「更新された理性」も、聖霊と同一ではない)を必要とするのである――「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)。
 このバルトの信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成は、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーにおける根本的包括的な原理的な宗教批判を、根本的包括的に原理的に止揚し・克服したそれなのである。言い換えれば、<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成を、根本的包括的に原理的に止揚し・克服したそれなのである。なぜならば、ハイデッガーが、<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返すブルトマン(その学派)に対して、「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、(≪対他的でもあり対自的でもある人間の自由な自己意識の無限性・類的機能・類的活動、人間自身、が対象化した≫)『いわゆる存在者レベルでの神(≪偶像≫)への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」、というように揶揄・批判したことは、全く正当性があることだからである(木田元『ハイデッガーの思想』)。この正当性のある根本的包括的な原理的な宗教批判を、根本的包括的に原理的に止揚し・克服するところに、神学における思想の課題があるのである。言い換えれば、私たちは、そのことに自覚的でない場合、<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返す、それゆえに根本的包括的な原理的な誤謬に「普遍性や組織性の後光をかぶせて語」る(吉本隆明『カール・マルクス』)、ごまんといる神学者や牧師やキリスト教的メディア的著述家たち自身が対象化した単なる「存在者レベルでの神」(偶像)を、その神の名と呼びかけによる企てを、信奉しているだけの信奉者に過ぎなくなる可能性があるのであるのである。したがって、バルトは、次のように言うのである――◎「あらゆるキリスト者の生が、意識するにせよ、しないにせよ、やはりひとつの証しである」限り、「教会とその信仰を基礎づけている神の言葉から、提起される」「真理問題はあらゆるキリスト者に向けられている。この証しにおいてこの真理問題に対する責任を負う限り、いかなるキリスト者も彼自身がまた、神学者としても召されている」(『福音主義神学入門』)、◎「教授でないものも、牧師でないものも、彼らの教授や牧師の神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、共同の責任」を負っている(『啓示・教会・神学』)、◎「教義学は、決して信仰と、その認識のより高い段階を意味しない」。なぜなら、「最も単純な福音の宣教も、それが神のみ心である時には、最も制限されない意味で、真理の宣べ伝えであることができるし、最も単純な聞き手に対しても、この真理を完全な効力をもって、伝えてゆくことができる」、「教義学者は、信仰者としても、知識を持つ者としても、神がここでなし給うことに関しては、教会の誰か一人の会員よりも、よりよい状況にあるわけではない」。教義学者とは「ただ単に教義学を専攻する大学教員や著述家だけ」のことではなく、「広く一般に、今日および昨日の教義学的問いによって突き当てられ動かされる者たち」のことである(『教会教義学 神の言葉』)、と。 
 さて、バルトは、パウロが「(……旧約聖書の第三部を含めての)リアルな霊感、しかも逐語霊感を考慮に入れていなかった、と受け取ることはできないであろう」、それゆえに「Uテモテ三・一六の『神の霊感を受けて』をパウロが書いたのではないと……疑いをかけることはできないであろう」、と述べている。「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。パウロにとって第一義的に重要な事柄は、「主の思い」である、「神の隠された知恵」・「神の知恵の啓示という恵みの行為」である。したがって、パウロは、「自分が〔それについて〕述べている言葉」は、その存在・その思惟・その実践を強いてくる「神の恵みの行為の<証人>として記述している」言葉であって、人間学的対象としての「歴史的な証拠文書としての価値」性を持つことを第一義として記述した言葉ではない、という仕方で記述しているのである。言い換えれば、パウロは、バルト『教会教義学 神の言葉』論に引き寄せて言えば、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二存在の仕方(啓示・和解)であるイエス・キリストにおける啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎ・聖霊の導きによる信仰の出来事に基づいて授与された、その現にあるがままの現実的な人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰、ということ、それと同時的同在的に授与されるその啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定、ということ、について述べているのである。なぜならば、パウロは、「自然の人」、すなわち「生まれながらの人間」は、その生まれながらの身体性・肉体性――精神性・意識性における人間は、その人間の「理性や力」は、その人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍は、「霊の働きに基づいて神の恵みの行為について語られたことを受け入れないことを知っている」からである。パウロは、単一性・神性・永遠性を本質とする「霊を通して啓示された神の恵みの行為から、霊によって教えられ、霊を通して語るように力を与えられた使徒」(「霊の人」、「『キリストの思い』を持つ者」、「神の言葉の三形態」の第二の形態に属する人)である。したがって、その使徒(「神の言葉の三形態」の第二の形態)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して啓示認識・啓示信仰を授与された「聞き手」(「霊の人」)も、その現にあるがままの現実的な人間的存在において惹き起こされた、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事の「奇蹟に属している」人である、啓示の秘義のしるしに属している人である。したがって、その使徒(「神の言葉の三形態」の第一の形態に感謝を持って信頼し固執し連帯した、「神の言葉の三形態」の第二の形態、聖書、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して啓示認識・啓示信仰を授与された「聞き手」(「霊の人」)の共同性は、「教会」・「教団」となることができるであろう、ということである。この厳格な意味において、ここでは、聞き手の・その共同性の「決断」が問われるのである。言い換えれば、そこでは、「わたしたちはキリストの思いを持っている(Tコリント二・一六)」「使徒に向かい合って」、この使徒(「神の言葉の三形態」の第二の形態、書、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」)に信頼し固執し連帯して、絶えず繰り返しそれを媒介・反復することを通して教会となることによって教会であろうと決断するのか、それとも「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯することを決断しないで、神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求も、という神と人間との共働・協働・混合・折衷を決断するのか、あるいは神学だけでなく、神学としても人間学としても非自立的で中途半端な形而上学的一面的固定的抽象的空論的な人間学的神学・神学的人間学も、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍・情報や人間論や人間学的な哲学原理・認識論・世界観も、という共働・協働・混合・折衷を決断するのか、が問われるのである。

 

 @とAに即して言えば、「啓示の証人の機能……の本質」は、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に基づいた、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)の第一の形態(自由な神の恵みの行為による神の秘義の自己開示・自己啓示、イエス・キリストの名、「啓示の実在」そのもの)に感謝を持って信頼し固執し連帯した第二の形態(その現にあるがままの現実的な人間存在における使徒の、「人間的な証言としての……形態」、啓示の「概念の実在」)に第三の形態が信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを繰り返して行く、というそのキリスト教に固有な類・歴史性の累積にある。この「全体性の中でのこの自己開示が、預言者および使徒の言葉の霊感である」。この「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性の厳格な意味で、バルト自身は、使徒(「神の言葉の三形態」の第二の形態、イエス・キリストについての証言・証しとしての啓示の「概念の実在」)を生きたのではなく、使徒的生を生きたのではなく、あくまでも私たちと同じように「神の言葉の三形態」の第三の形態を生きたのである。『使徒的人間――カール・バルト』を書いた冨岡幸一郎の論理が出鱈目で皮相的で頓珍漢なのは、この認識が抜け落ちているからである。丁度、冨岡の高校の倫理レベルでのバルトの自然神学論も一面的皮相的で頓珍漢であったように。言い換えれば、冨岡もまた、バルトを根本的包括的に原理的に理解しないままバルトを論じていたのである。このような訳であるから、私たちは、バルト自身も吉本隆明も述べているように、神学者や牧師やキリスト教的メディア的著述家や知識人やメディアの知識や情報をそのまま鵜呑みにしたり模倣したりすることをやめなければならないのである。
 啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に基づいて、「神の秘義の自己開示(≪「神の言葉の三形態」の第一の形態、「啓示の実在」そのもの≫)」が、終末論的限界の下で、「(今度はまた人間的な証言としてのその形態の中で)」(「神の言葉の三形態」の第二の形態、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」の中で)、「さらに続いて進んでゆ」くのである、「神の言葉の三形態」の第三の形態へと累積されていくのである。すなわち、この第二の形態・「証言そのものを造り出した同じ霊が」(単一性・神性・永遠性を本質とする神の第三の存在の仕方である聖霊が)、「人間に対し、聞き手および読み手」、この信仰共同体・共同性に対し、「その真理についての証言を与える」のである(118・119頁)。ここに、「神の言葉の三形態」の関係と構造、秩序性、があるのである。バルトは、『教会教義学 神の言葉』論で、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」である、と述べているのは、このことなのである。言い換えれば、オリジナルな教義や教説はない、ということである、オリジナルな神学者や牧師やキリスト教的メディア的著述家はいない、ということである。したがって、バルトは、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」たのである。バルトは、この啓示の主観的可能性としての不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性である「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯しつつ、一方で、その信仰・神学・教会の宣教に、個性や時代性を刻んだのである。なぜならば、人は、誰であれ、自分の意志とは全く無関係に、不可避的なある歴史的現在に生誕し、その類・歴史性――個・現存性の関係と構造を生きて死んでいく以外にないからである。「歴史とは個々の世代(≪個体的自己の成果の世代的総和≫)の継起にほかならず、これら世代のいずれもがこれに先行するすべての世代からゆずられた材料、資本、生産力(≪あるいは、性・夫婦・家族、言語≫)を利用(≪媒介・反復≫)する」(マルクス/エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』)。

 

聖書霊感説について――
@「古代教会の文書」における聖書霊感説の特徴は、「語られ……書かれた預言者的――使徒的言葉そのものが発生した際の聖霊の働き」に対する「集中」と「制限」にある。パウロの聖書霊感説は、聖霊の導きによる、「神の言葉の三形態」の第一の形態(自由な神の恵みの行為である神の秘義の自己開示・自己啓示、すなわち神の自己認識・自己理解・自己規定、啓示・和解、イエス・キリストの名、「啓示の実在」そのもの)に感謝を持って信頼し固執し連帯する第二の形態(その現にあるがままの現実的な人間存在における使徒の、「人間的な証言としての……形態」、啓示の「概念の実在」)としてあった、すなわちそれ自身が聖霊の業である「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性、においてあった。したがって、聖霊の注ぎ・導きなしに啓示をその「証言の中で見渡し得るもの」としてしまう場合、神の聖性、神の隠蔽性・秘義性・不把握性を捨象してしまうことになる、神と人間との無限の質的差異を捨象してしまうことになる、人間の恣意や独断によって単一性・神性・永遠性を本質とする神の第三の存在の仕方(性質・行為・働き・業、救済、「啓示の出来事の中での主観的側面」――人間的主観に実現される神の恵みの出来事、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与)である聖霊の働きの半減化が行われる、聖霊だけでなく人間的理性もという共働・協働・混合・折衷が行われる。その場合、神を「その不把握性にもかかわらず把握できるものに、そのすべての強調された超自然性にもかかわらず自然的なものに、それを確かに聖霊に帰してはいるが、……結局人がいつでも考慮に入れることのできるひとつの要素」にしてしまうことになる。モルトマンは、「終末論的」な「将来的なものの力」としての「御霊」の概念によって、「終末論」と「歴史」とを結びつけようとした。ルドルフ・ボーレンやそのエピゴーネンの佐藤司郎や小泉健は、「聖霊論的出発」の概念によって、神学と人間学を混合しようとした、聖書(「神の言葉の三形態」の第二形態、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」)だけでなく、「人間の経験」を要請し混合しようとした。このように、その場合、必然的に、その最初から、<自然神学>の<段階>へと埋没していくことになる。
 ルドルフ・ブルトマンも、<自然神学>の<段階>へと埋没していった。「新約聖書の釈義に役立つ新しい哲学的な鍵」を、前期ハイデッガーの哲学原理に見出したブルトマンは、不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性である、第一次的な啓示の実在そのもの(「神の言葉の三形態」の第一の形態)、聖書の証言・証し(「神の言葉の三形態」の第二の形態、啓示の「概念の実在」)、教会の客観的な信仰告白・教義(「神の言葉の三形態」の第三の形態、啓示の「概念の実在」)、としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性、に信頼し固執し連帯しないで、逆に前期ハイデッガーの哲学原理によって対象化された「存在者レベルでの神」(偶像)・その神の啓示を第一次的なものとし、この第一次的なものに従事することにおいてのみ、「イエス・キリストについてのケーリュグマ」・「宣教する」ことによって伝えられた宣教内容・新約聖書の使信の内容・イエス・キリストの出来事を知らせた宣教や説教を第二次的なものとしたのである。したがって、ブルトマンにとっては、イエス・キリストの十字架処刑も、イエス・キリストの死人からの甦り・復活も、「ケーリュグマと信仰の認識基礎命題ではなく」、単なる「説明文」に過ぎないものとなったのである。したがってまた、ハイデッガーが、ブルトマン(その学派)に対して、「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」、と述べたことは根本的包括的に原理的に正当性があることなのである。結局、ブルトマンたちは、後期ハイデッガーの「転回」によって、ハイデッガー自身によって足をすくわれてしまったのである。言い換えれば、その時、完全に、自然時空に死語化してしまったのである。したがって、現在でも生きているとすれば、それは、<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返しているだけの、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」、「すべての大学社会の神学」・人間学的神学・神学的人間学の中で、あくまでも死語化した形態においてのみ生きているだけなのである。

 

A「既に古代において、聖書の著者たちが霊感を受けた際の聖霊の働き」について、その「ひとつひとつの言葉(の概念の文法的な意味)にまで及んでいる」と強調されている。そのように、聖書霊感説を強調したのは、「アレキサンドリヤのクレメンスの『ギリシャ人への勧告』の中に見出す」ことができる。そこには、「マタイ五・一八」に依拠して、「聖書の一点一画とすべての線は、(そのように一〇〇年後にナジアンゾスのグレゴリアスは書いている)霊の非常な正確さの中で表現されており、書く人の最も細かな表現に至るまで意味なくしてなされているのではないし、意味なくしてわれわれのところまで保存されてきたのではない」、と述べられている。

 

 言語を、文法的規範と概念との構造である「表現された言語」としてではなく、その表出過程(心的過程)と表現との構造として理解すれば、「聖書的証人たち」の「霊感」は、神の自己開示(自己啓示、「神の言葉の三形態」の第一の形態、イエス・キリストの名、「啓示の実在」そのもの)、と、その現にあるがままの現実的な人間存在における預言者・使徒たち(「神の言葉の三形態」の第二の形態、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」)の証言における表出過程(心的過程)と表現の構造、との関係として理解すれば、「聖書的証人たち」の「霊感」は、自由な神の恵みの決断による啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事が起こっているその預言者・使徒たちの表出過程(心的過程)においては、「リアルな霊感としてだけでなく、……まことに逐語霊感として理解されてよいし、理解されなければならない」。しかし、自己意識の対自的意識と対他的意識、言語の自己表出と指示表出の構造(表現者の表出過程・心的過程)、としてある現実的意識の外化である言語表現、それは対他的意識(実践的意識)の外化であるが、その「表現された言語」について、その表現された結果としての「言葉が霊感を受けた状態を保っている」ということについて語ることはできない。と言うのは、「パウロは『言葉が霊感を受けた状態を保っていること』についてはいずれにしても語らなかった」からである(121頁)。なぜならば、人間自身が対象化した「表現された言語」(人間的自然)は、すなわちこの場合、預言者や使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」は、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与された、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰(啓示の「概念の実在」)であって、決して全く、「神」・「啓示の実在」そのものではないからである。したがって、「言葉が霊感を受けた状態を保っていること」については、「教会の領域においても語られてはならない」ことなのである。

 

B「(イレニウスが)聖書の完全性を、聖書は神ノ言葉(≪啓示の出来事≫)トソノ霊(≪聖霊の注ぎ・導きによる信仰の出来事≫)ニヨッテ記述サレタものである」と述べたことを支持しなければならないが、しかし、「グレゴリウスが聖書における神の言葉の人間性」、その現にあるがままの現実的な人間存在における「聖書の人間的な著者たち」を、後景にしりぞけてしまうことを「欲した時、そのことは明らかに行き過ぎ」なのである。なぜならば、その場合、聖書霊感説が、一方通行的に「結局仮現論の方向にそれてしまう」からである。人が、「人間の言葉を神の言葉そのものとして安定化させ」・みなし・固定化させてしまう時、また人間の言葉に対して「神の言葉に関する保証を得ることを」欲する時、その場合には、「現臨する神の言葉の現臨の自由の秘義が、失われてしまった」し失われてしまうのである。このような訳で、実践神学者の小泉健のように、ボーレンの「神律的相互関係」の概念に依拠して、人間(小泉)の恣意性と独断性において、直接的に神(聖霊)と人間(牧師)を混淆・混合・協働・折衷させて、「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」、と直截的・断定的に聖霊や聖霊の言葉を実体化させて述べることはできないのである。小泉には、神のその都度の自由な恵みの決断による、啓示の出来事と信仰の出来事に基づく人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与、という事柄が全く欠如しているのである。すべてが、小泉(人間)の自由事項・決定事項にされてしまっているのである。したがって、小泉の神や聖霊は、彼自身が対象化した、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーが正当性を持って根本的包括的に原理的に揶揄・批判した「存在者レベルでの神」(偶像)・宗教そのものでしかないものなのである。

 

 さて、「既に古代教会の霊感説の線の中には、啓示概念全体のある種の素朴な世俗化が存在していた」。言い換えれば、神の言葉は、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)、すなわち「啓示の実在」そのもの(「神の言葉の三形態」の第一の形態)であるイエス・キリストと、また「聖書」の証言・証し(「神の言葉の三形態」の第二の形態)および教会の客観的な信仰告白・教義(「神の言葉の三形態」の第三の形態)としての啓示の「概念の実在」においてある。したがって、聖書は、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての「啓示の実在」そのものであるイエス・キリストと共に、教会の宣教における原理であり、またイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である聖書こそが、教会に宣教を義務づけているのであるから、「聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのである」。それにもかかわらず、教会が、この「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性、に信頼し固執し連帯するのではなく、すなわち「あの三位一体の神の啓示からここで今日われわれの心を照らす照明に至るまで途切れずに続くあの秘義の系列(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性≫)の中に編み入れられる代わりに」、例えばトマス・アクィナスのように、「ひとつの世界観の枠の中に……編み込まれている」のを見るのである、「世俗化が存在している」のを見るのである。言い換えれば、聖書論が、「中立的に確かめ、中立的に考察できる」・「ほかの宗教の基礎となる文書の発生の現象でもあり得る」「自然現象および歴史現象……の記述という性格を持つようになったということ」が、「今や霊感についての教会の教えとして一般的となり、標準的となった」のを見るのである。

 

C「一六世紀に起こったこと」は、「教会の宗教改革」であった。すなわち、その時、教会の中で、聖書が「再び力を奮い、支配するようにな」った。このことは、「聖書自体に対応した聖書についての、特に聖書の霊感についての、教説」に関っていた。「宗教改革者たちは、聖書の霊感についての命題……しかも聖書の逐語霊感についての命題」を、「神は聖書の著者である」あるいは「聖書の著者たちに向かってなされた口授という思想を用いて」、認識し信仰し自分のものとした。すなわち、宗教改革者たちは、「より原則的な真剣さをもって、教会が神の言葉としての聖書に身をかがめて服従することを」、それゆえに「聖書の権威を、宣べ伝えようとした」のである。宗教改革者たちは、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての「啓示の実在」そのものである単一性・神性・永遠性を本質とする神の内の存在の仕方(神の言葉、神の子、啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト(「神の言葉の三形態」の第一の形態)と共に、教会に宣教を義務づけている聖書(「神の言葉の三形態」の第二の形態、イエス・キリストのついての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」)は、教会(「神の言葉の三形態」の第三の形態、客観的な信仰告白・教義)の宣教における原理」である、というように認識し信仰し自覚したのである。言い換えれば、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、その都度の神ご自身の自由な恵みの決断による啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造、秩序性、を強調したのである。
 「ルター」は、聖書の権威について、次のように述べている――「徹頭徹尾全部を信じるか、何も信じないかそのどちらかである。聖霊は自分を分離させたり分割させることをしない。それだからある部分だけは真実に、ほかの部分は偽りの仕方で、教え、信じこませるようなことはしない……」。また、「カルヴァン」は、「聖書の権威は、神御自身ノ生ケル御声ガ、アタカモソコデ聞カレルカノヨウニ天カラ注ガレタということ、聖書ノ著者ハ神デアルトイウコト……シタガッテ、聖書ノ最上ノ証明ハ、イズレノ場合ニオイテモ、ソノウチニ語リタモウ神御自身カラ取ラレルベキデアル」ことが認識され、ワレワレハソレガ(≪聖性、隠蔽性・秘義性・不把握性、不可視性、を本質とする神を、神と人間との無限の質的差異の下で、終末論的限界の下で、人が知覚できるように、それ自身聖霊(単一性・神性・永遠性を本質とする神の第三の存在の仕方、救済主)の業である啓示の主観的可能性としての、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」――単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方である和解主イエス・キリスト、すなわち「啓示の実在」そのものと、そのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」としての聖書、すなわち啓示に固有な証明能力に基づいて授与された、その現にあるがままの現実的な人間存在における人間が人間の言葉を介して人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰としての啓示の「概念の実在」、が≫)……神御自身ノ御口カラ、人間ノ奉仕ノ務メヲ通シテ、ワレワレニ注ガレテ来タモノデアルコトヲ(≪認識し・信仰し≫)、イヨイヨ固ク心ニキメル(≪そのことに信頼し固執し連帯する≫)ところで、初めて認識される……」、と述べている。「Uテモテ三・一六以下についてのカルヴァンの説教」において、「神を聖書の著者と呼ぶ呼び名が繰り返し出て来る」。「同じ個所の注釈」で、カルヴァンは、「神ガワレワレニ向カッテ語リ給ウタコトヲワレワレガ知ッテオリ、預言者タチガ自分カラシテ語ラズ、ムシロ聖霊ノ器官トシテ彼ラガ宣ベ伝エルヨウ天カラ委託サレタモノダケヲ語ッタトイウコトニツイテ完全ニ確信シテイルコト、ソノコトガ、ワレワレノ宗教ヲホカノ宗教カラ区別シテイル原理デアル。聖書ヲ読ンデ益ヲ受ケヨウト思ウ者ハ誰デモ先ズ、律法ト預言者ハ人間ノ好ミニマカセテ生ミ出サレタ教エデハナク、実ニ聖霊ニヨッテ口授サレタモノデアルコトヲ明確ナ原理トシテ受ケ入レナケレバナラナイ」、と述べている。
 このように、宗教改革者たちは、「聖書の霊感」を「神の聖霊を通しての霊感として」理解し語った。すなわち、「摩訶不思議」な霊や「別の霊」として理解し語らなかった。啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、単一性・神性・永遠性を本質とする、イエス・キリストにおける啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰の授与、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性、における「聖霊を通しての霊感として」理解し語ったのである。「聖書的証人たち(≪イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」、「神の言葉の三形態」の第二の形態≫)が彼らの証言の最高度に<特別な内容>(≪「啓示の実在」そのものであるイエス・キリスト、「神の言葉」そのもの、それゆえに「神の言葉の三形態」の第一の形態≫)に対して持っている関係に基づいて」、「聖書の霊感」を、「神の聖霊を通しての霊感として」理解し語ったのである。なぜならば、聖書は、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの、「神の言葉の三形態」の第一の形態)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」を内容としているからである。「聖書はキリスト(≪イエス・キリストの名≫)以外のものを知ろうと欲しないし、またキリスト(≪イエス・キリストの名≫)以外のものをわれわれに示さない(ルター)」。「復活から……全聖書はその光を受け取る」。『神の言葉』論に即して言えば、「旧約聖書的な待望の時間」と「新約聖書的な想起の時間」との間の「成就された時間」とは、「イエスがご自分〔の生きていること〕をお示しになった」復活の「あの四〇日(使徒行伝一・三)」のことである。「新約聖書の証人たち」は、このキリスト復活の四〇日をおぼえる想起において、「キリストの死」と「キリストの生涯」を想起する時、「光を得」たのである。彼らは「甦えりの証人」である。そして彼らは、「既に来た方」であるイエス・キリストは「またこれから来たり給う方」であることを語る。「新約聖書の信仰」は、「想起の時間」である「聖霊降臨日のあとの時代」である。したがって、この「想起の時間」・聖霊降臨日以降の時間は、「成就された時間」・キリスト復活の四〇日ではない。しかし、その「想起の時間」は、「甦えられた方」・復活のイエスをおぼえる「想起の時間」として、必然的に「甦えられた方を待ち望む待望の時間」、終末、再臨、救贖・完成、を待望する時間であり、そのようにしてそれは、「成就された時間」(キリスト復活の四〇日)に参与する。ここで、「すべての以前と以後においても」「同一の方であり給う」イエス・キリストにおいて、未来(終末、再臨、救贖・完成)を考えること・待望することは過去(復活)を考えること・想起することであり、過去(復活)を考えること・想起することは未来(終末、再臨、救贖・完成)を考えること・待望することであると同時に、「成就された時間」の前の過去、「キリストの死」と「キリストの生涯」、「旧約聖書的な待望の時間」、を考えることでもあるのである。「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」。すなわち、「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」は、復活へと向かっている。このキリストの復活・成就された時間は、「新しい世」のはじまりである。私たちは、この啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される啓示認識・啓示信仰において、敗北者である「われわれ人間の失われた非本来的な古い時間」は、「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」(成就された時間)であるキリストの復活における神の「勝利の行為」によって、神の側の真実としては<すでに>究極的包括的総体的永遠的に止揚され・克服されて「そこにある」ことを認識し信仰することができるのである。また、同時的同在的に、その勝利の行為は、終末、再臨、救贖・完成、の待望において、「敗北者もまた依然としてそこにいるところの勝利の行為」であることを認識し信仰することができる。聖書によれば、聖霊は、私たち人間の「救済主」である。しかし、聖霊は、「救済主」であるだけでなく、その存在の本質である単一性・神性・永遠性においては、「子とともに、子の霊として、また和解者」でもあり、また、「父および子とともに創造主なる神」でもあるのである。新約聖書の「イエスは主である」という「証言」は、単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストを、「事実の承認」として・「思惟の初め」として語っている。したがって、この「イエスは主である」・「子を通しての父を、父を通しての子」を信じるこの信仰――神との出会いであるイエス・キリストとの出会いである「信仰の出来事」は、聖霊の注ぎによるのである。この信仰の出来事は、新約聖書において、「啓示の出来事の中での主観的側面」・「聖霊の注ぎ」による人間的主観に実現された、人間的主観に授与された、神の恵みの出来事、すなわち啓示認識・啓示信仰の主観的現実化のことである。このような訳で、、私たちは、この啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてのみ、神の側の真実としてのみある、イエス・キリストにおける<完了>された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和を認識し信仰することができるのである。また、この救済・平和を「信仰の中で持つ」ことは、「約束として持つ」ことである。「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」。「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」(人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍)にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてのみある啓示の客観的現実性・啓示の客観的実在、「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである。

 

 「石ガ墓ノ入口カラ取リ除カレタ後、アノ最高ノ神秘ガ現ワレ、人間トナッタキリスト、三ニシテ一ナル神、ワレワレノタメニ苦シミヲ受ケ給ウタガ、永遠ニ生キテ支配シ給ウキリスト、ガ現ワレタ後、聖書ノ中デ隠レテ残ッテイルモットモ立派ナモノハ何デアルカ。……キリストヲ聖書カラ取ッテシマウトソノアト、汝ハ聖書ノ中ニ何ヲ見出スデアロウカ(ルター)」。ここにおいては、「聖書の霊感についての教えは、われわれが自分で把握することができない秘義についての教えとして、……人を救う神的秘義の教え」として、「再建」されている。なぜならば、「キリストは、理解しつくすことができない……学びつくすことができない」、「彼ハ神デアリ給ウ」・「神ハ理解ヲ絶シタ方(ルター)」だからである、しかし「われわれはここ(≪この地上・この世で、その現にあるがままの現実的な人間存在として≫)生きるものだからである」。「キリストが誰であり何であるかを正しく知り、理解するため学びつくすことはできない。なぜならば、彼はまことの、永遠の、全能の神であり給い、しかも死ぬべき性質をご自分の身に負われ、死に至るまで、最高の服従と謙遜を示されたからである。それ故彼はご自分でこう言われる。『わたしは柔和にして心ひくいものである』」。また、「カルヴァンも、次のことを知っている、聖書ハ、ソコニ(≪単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、神の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの、である≫)キリストヲ見イダストイウ意図ノモトニ、読マナケレバナラナイ。(中略)神の言葉を語りあるいは書くことへの装備としての聖書の著者たちの霊感に対して、彼らの心に注ぎ入れられた(≪啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく≫)確カナ確信が<先行>している。ナゼナラバツネニ神ハゴ自身ノ言葉ニヨッテ確カナ信仰ヲツクリ出サレタカラデアル。聖書的著者たちの霊感についてのわれわれの認識も起源的に、本来的に、(その上に彼ら自身立っていた)この基礎の上に基づいていなければならないことは、明らかである」。このように、宗教改革者たちにおいては、「霊感を受けた言葉(≪聖書、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」、「神の言葉の三形態」の第二の形態≫)を問う問いは、……言葉に霊感を与え、言葉を支配する事柄(Sache)を問う問いであった」、すなわち「神の言葉の三形態」の第一の形態(単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、神の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間、イエス・キリスト)を問う問いであった。言い換えれば、宗教改革者たちにとって「逐語的に霊感を受けた聖書(≪「神の言葉の三形態」の第二の形態≫)こそ決して、いかなる意味でも啓示された神託の書」ではなく、「それの対象(≪「神の言葉の三形態」の第一の形態、神の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの、イエス・キリスト≫)から……またそれの対象を目がけて、この対象に従いつつ、解釈されるべき証言、啓示証言(≪「神の言葉の三形態」の第二の形態、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」≫)、であった」。
 宗教改革者たちは、聖書霊感との関連において、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰に基づく人間の言葉を介した人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性の「再建」を目指したのである。すなわち、宗教改革者たちは、「霊感を受けて書かれた聖書の言葉はただ、聖書の言葉の中で生起した霊の業が再び生起し、さらに続いていくということを通して、換言すれば、それの聞き手あるいは読み手に対しても霊の業(≪キリストの霊である、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第三の存在の仕方、すなわち救済主としての聖霊の注ぎ≫)が出来事となって起こるということを通してだけ、認識されることができる……」、と言うのである、「どうして神はご自分を通してのほか(≪すなわち、啓示に固有な証明能力、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事、を通してのほか≫)認識されることを欲し給うであろうか」、と言うのである、「タダ霊ダケガ聖書ヲ正シク、神ニ従ッテ理解スル。ソウデナケレバ彼ラガ理解シテモ本当ニハ理解シナイ。異端者の本質は何であるかということはここのところからしてよく理解できる。異端者トハ、聖書ヲ、聖霊ガ命ジ給ウ意味トハ違ウ意味デ説明スル者ノコトデアル(ルター)」、と言うのである、「ここでもあそこでも、ただ神だけが神のために証しすることができる、タダ神ダケガゴ自身ニツイテ適当ナ証人デアル――先ず第一に、ゴ自身ノ言葉ノ中デ、それからまた、人間ノ心ノ中デ。そのまさにあそことこことでご自分を証しし給う神が(≪単一性・神性・永遠性を本質とする、「父ト子ヨリ生ズル御霊」・聖霊≫)霊である。(≪したがって、≫)こことあそこで別な霊なのではなく、こことあそこで同一なる霊であり給う。預言者タチ(≪や使徒たち≫)ノ口ヲ通シテ語リ給ウタソノ同ジ神ガ、ワレワレノ心ヲ貫カレナケレバナラナイ(カルヴァン)」、と言うのである。したがって、その現にあるがままの現実的な人間存在における「聖書的著者たちの人間の言葉」は、その同じ単一性・神性・永遠性を本質とする「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊の注ぎ・聖霊の導きによってのみ「神の言葉として認識」することができる。しかし、この場合、その現にあるがままの現実的な人間存在におけるそれが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身」の決定事項なのであって、私たち人間の決定事項ではないのである。したがって、私たちの信仰・神学・教会の宣教は、終末論的限界の下で、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基」づいて成立しているのである。このような訳であるから、東京神学大学の実践神学者・小泉健が、聖霊や聖霊が与える言葉を人間の自由事項・決定事項としてしまって、聖霊や聖霊が与える言葉を、ルドルフ・ボーレンンの「神律的相互関係」の概念に依拠して、「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」、と直截的・断定的に述べたことは、その最初から根本的包括的な原理的な誤謬に陥ったものに過ぎないのである。言い換えれば、小泉の言うその聖霊や聖霊が授与する言葉は、まさしくハイデッガーが根本的包括的に原理的に揶揄・批判したように、小泉自身あるいはそれをそのまま鵜呑みにしたり模倣したリしてしまった牧師自身の対象化した「存在者レベルでの神」・聖霊・聖霊の言葉(偶像)に過ぎないものなのである。
 <聖書>霊感について、預言者や使徒たち(「神の言葉の三形態」の第二の形態、啓示に固有な証明能力に基づくイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」)における「起源的な霊感の尊厳の行為」は、「その中で甦えられた主キリスト(≪復活のキリスト≫)が主に属する者たちをしてご自身の神的霊にあずからせ給うた」ところにある。したがって、「神の言葉の三形態」の第三の形態に属する「われわれ自身に与えられるようになる霊感の……尊厳の行為」は、その起源的な「第一の尊厳の行為の継続でしかない」のである。言い換えれば、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通した時間累積なのである。したがってまた、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」としての聖書(「神の言葉の三形態」の第二の形態)は、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての啓示の実在そのものであるイエス・キリスト(「神の言葉の三形態」の第一の形態)と共に、信仰・神学・教会の宣教における原理なのであり、それゆえに「聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのである」、神学者・牧師・キリスト教的メディア的著述家等が聖書を支配してはならないのである。「主ハ御自身ノ御言葉ト御霊ノ確カサヲ、相互ノ結合ニヨッテ密着サセタモウタ。……御言葉ヘノ全キ恐レ敬イガワレワレノ魂ノウチニ根ヲオロスノハ、御霊ガワレワレニ働キカケテ、ワレワレニ神ノ御顔ヲマトモニ見ツメサセル時デアリ、……ワレワレガ何ラ幻覚ニマドワサレル恐レナシニ、御霊(≪聖霊の注ぎ・導き≫)ヲ受ケイレルノハ、御霊ヲソノ御姿(イマゴ)、スナワチ、ソノ御言葉(≪啓示≫)ニオイテ(≪啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事において≫)認識スル(≪信仰する≫)時デアル。……神ガカツテ御言葉ヲソレノ力ヲモッテ配分シタモウタノハ(≪――神の言葉は、それ自身が聖霊の業である、啓示の主観的可能性としての、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」、すなわち「啓示の実在」そのものである単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストと、「聖書」の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」、の関係と構造・秩序性、においてある――≫)、御言葉ノ効力アル確証ニヨッテ、御自身ノ御ワザヲ仕上ゲタモウタメデアル(カルヴァン『キリスト教綱要』)」。

 

 このように、ルターとカルヴァンの聖書霊感説は、「神をほめたたえる讃美であり、しかも神の自由な恵みをほめたたえる讃美である」。このルターとカルヴァンにとって、「聖書は神の言葉であるという命題」は、その絶対主権性の中で神の言葉が、イエス・キリストにおいて、「われわれのために肉となり、言葉の受肉の証人としての預言者と使徒たちの証しの中でわれわれのためにまた人間的な言葉となるために、身をおとされたところの……絶対主権性の認識の展開である」。啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力の展開である、単一性・神性・永遠性を本質とする、イエス・キリストにおける啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく人間の言葉を介した人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与の展開である、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性、の展開である。したがって、その命題は、「教会が決して手放すことことのできない聖書についてのまことの命題である」。『神の言葉』論に即して言えば、次のように整理することができる――「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に感謝をもって信頼し固執し連帯する啓示認識・啓示信仰である。その時初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができる。したがって、人間学的なただ「単なる知識」に過ぎないある理念・ある概念の実体化・「最高存在」・「最モ完全ナ存在」としての啓示概念は、啓示の「概念の実在」ではない。なぜならば、神の言葉は、「人間の現実存在の内部」・人間の感覚と知識を内容とする経験普遍・人間の感情や理性や実存や意志・人間論や人間学的な哲学原理や認識論や世界観の中にはないからである、また神に敵対し神に服従しない私たち人間は、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力」を一切持ってはいないからである。神の言葉は、その都度の神ご自身の自由な恵みの決断において、またその隠蔽と顕現において、「われわれのところに来」る。この神の隠蔽性・秘儀性・不把握性とは、私たち人間のその啓示認識が、常に終末論的限界の前に立たされているということである。したがって、神の言葉が「人間によって信じられる……出来事」、信仰の出来事は、徹頭徹尾人間「自身の業」ではなく、「神の言葉自身」・啓示自身、啓示の出来事と聖霊の注ぎにおいてのみ可能となるのである。すなわち、「言葉を与える主」は、同時に、聖霊の注ぎによって「信仰を与える主」である。したがって、聖書の中で証しされている教会の宣教の課題である啓示・和解、すなわちイエス・キリストにおける死と復活の出来事の宣べ伝えを目指すことのない<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返しているだけの「単なる知識」としての形而上学的一面的皮相的抽象的空論的な教義学は、「それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方」のものであっても、その教義学は教会の一つの機能である「教義学としては非学問的」なのである。

 

 しかし、「宗教改革後の時代」は、「聖書は神の言葉である」という命題に基づいて進んで行く歩みを「やめてしまった」。言い換えれば、「必然的に」、「神の言葉の絶対主権性を否定することへと、導いて行くほかない」歩みへと向かって行った。すなわち、教会の宣教(「神の言葉の三形態」の第三の形態)は、教会の一つの機能である教義学・神学は、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての「神の言葉の三形態」の第一の形態であるイエス・キリスト(「啓示の実在」そのもの)と共に、教会の宣教における原理である「神の言葉の三形態」の第二の形態である聖書(イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」)に、すなわち「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性、信頼し固執し連帯する歩みを捨て去っていく歩みへと向かって行った、あるいはその「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性を「否定することへと、導いて行くほかない」歩みへと向かって行った。「人は、……いわゆる正統主義と共に始まり、一七〇〇年頃可見的になって来る、起源的な宗教改革的プロテスタント主義がいわゆる新プロテスタント主義に向かって展開して行く過程」を、「人間の<罪>および<義認>に関して、また神の裁きと神の恵みに関して、認識が徐々に不確実になってゆく」過程として、「特徴づけ」ることができる。総括的に言えば、「啓示の問題に関して、……直接的な、自然神学の合流がいわば踝(くびす)を接して後に続いたのである」。例えば、『ナイン!――エーミル・ブルンナーに対する答え』でバルトは、カルヴァンは「天地万物からする神認識とキリストの中での神認識との二つの神認識について語った」が、人間自身の神との「共働者」論を展開したブルンナーとは違って、啓示に対するまたキリストの中での新生活に対する「結合点を見出していない」、すなわち「聖書以外にさらに聖書を補う別な啓示の根源を、理性や歴史や自然の中に何とかして求め」、それらに独自性を与えて、「後から追加的に『何らかの仕方で』……発言せしめる」ことをしていない、カルヴァンの認識のベクトルは、「人間には啓示なくしても」、「人間自身が本来持っていて、そして啓示の中で言わば甦って来る」人間に内在する「人間性」・「理性や応答責任性や決断能力」・「啓示能力」・「言語能力」・「言語受容能力」・「呼びかけられうる能力」があるとするブルンナーのそれとは違って、「天地万物の中における神認識」について、「キリストの中における神認識そのもの」において可能であるとする、それである、と述べている。また、バルトは、『神の言葉』論で、ブルンナーの目指している神学的課題が、「理性的思惟の絶対化」・「理性万能の妄想と理性の孤立の中」で、「神的汝をあこがれ求めている理性を解放する」ことにあり、「神的汝をあこがれ求めている」「自信過剰」の半減された「近代的精神」・人間的理性・思惟を救抜することで、その人間自身と神との「共働者」関係の再構築を目指した、と述べている。言い換えれば、ブルンナーは、神だけでなく、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求も、存在の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定の欲求も、求めたのである。
 このような展開と同時に、「厳格に超自然主義的な」「聖書霊感の理解(≪形而上学的一面的皮相的固定的抽象的空論的な聖書無謬・逐語無謬の命題≫)に関しての硬化……が対応した」。聖性、隠蔽性・秘義性・不把握性、を本質とする神は、イエス・キリストにおいて、インマヌエル、「神われらと共にいます」という神の第二の存在の仕方(啓示・和解)で、顕現・自己啓示した。このことは、単一性・神性・永遠性を本質とする「自己を覆い隠す」・隠蔽性・秘義性・不把握性・「聖性」としての自在であって他在でもある自由な神が、人間のために、その恵みの決断・行為において、すなわちその神の第二の存在の仕方(神の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの、イエス・キリスト)において子として「自分を自分から区別」したことを意味する。したがって、その自己啓示は、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態、イエス・キリストの名」(決してその神性の受肉ではない、あくまでもその言葉の受肉である)、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の子、神の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間)、において、その「存在の本質」である単一性・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示である。このように自己啓示する神は、啓示の弁証法において「まさにアラワサレタ神こそが隠サレタ神」である。このことは、神ご自身が私たち人間に対して自己啓示されないならば、また神ご自身が、啓示に固有な証明能力、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、神と私たち人間とを架橋されないならば、全く不信仰で罪に穢れた、その現にあるがままの現実的な人間存在における私たち人間は、人間の言葉を介した人間が人間的に所有する人間の啓示認識・概念・教義をさえ持つことはできないことを意味している。したがって、イエス・キリスト(「啓示の実在」そのもの、「神の言葉の三形態」の第一の形態)についての「言葉、証言、宣教、説教」としての聖書(啓示の「概念の実在」、「神の言葉の三形態」の第二の形態)も、神と人間との無限の質的差異の下で、終末論的限界の下で、そのような神的側面と人間的側面の関係と構造・秩序性に規定されているのである。したがってまた、その認識と自覚を持たない、その裏返された「世俗化の過程の指数」である形而上学的一面的皮相的固定的抽象的空論的な聖書無謬説における「厳格に超自然主義的な」「聖書霊感の理解の命題」は、逆に、科学主義、歴史主義、理性主義を宗教的形態として持つ近代主義の成熟に規定された、すなわちそうした近代主義的な人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍に規定された、その近代主義的プロテスタント主義における信仰・神学・教会の宣教に対して、「視覚的な錯覚」に基づいた「キリストの永遠のまことの神性の告白」を信用しない「キリストの神性」否定の歩みを用意したのである。すなわち、聖書は啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰の授与に基づいているのであるが、一方でその現にあるがままの現実的な人間存在における聖書の著者たちは、「注釈スルニシテモ、本ヲ書クニシテモ」、その著者の人間的理性と人間的言葉を用いてそうしたということを捨象し除外してしまったところの、正統主義における「厳格に超自然主義的な」「聖書霊感の理解の命題」は、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰という「神の自由な恵みについての命題」をも捨象し除外してしまうことになったために、近代主義的プロテスタント主義によって、その「神の自由な恵みについての命題」を、「人間の自由処理のもとに置かれた聖書の自然についての命題(≪「歴史的考察」対象としての聖書、「歴史的証拠文書」としての聖書≫)へと変えられ」てしまった。この極限に想定されるのが、滝沢克己のインマヌエル論に共鳴するアジア的形態における近代主義的プロテスタント主義に依拠した八木誠一の、「イエスは別段自分を超人間的存在として自覚していたわけではなく、『人の子』語句でもって人間存在の根底を語り続けた」「ただの人であり、ただの人として自らを自覚し、ただの人の真実のあり方を告げた」、という語り方なのである。ここでは、単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストが否定されているだけでなく、その神の第二の存在における言葉の受肉ということも否定されてしまっているのである(『イエス』)。こういう語り方に対して、吉本隆明は、次のように述べている――「……〈奇跡〉(中略)たとえば、お前は癒された、立てといったら癩患者が立ち上がった……。これは自分流(≪文芸批評あるいは思想≫)の言葉でいえば、比喩なんです。比喩の言葉というのは、あるばあいにはストレートな真実の言葉よりもっと真実を語るということがありうるわけで、これを実在論に還元してしまうと、田川健三はそうだとおもいますが、こんなのでたらめじゃないか、こういういいかげんなことを書いてる本だという以外にないわけです。しかし言葉としての聖書というのは、信仰の書として読んでも、文学書として読んでも、あるいは思想の書として読んでも、どんな読み方をしょうと人間をのめり込ませる力があるとすれば、これは叡知じゃないとこういうことは言えないという言葉が、そのなかに散らばっているからです。たとえばイエスが、『鶏が三度なく前に私を否むだろう』と言うと、ペテロはそのとおりなっちゃったみたいなエピソードをとっても、人間の〈悪〉というのが徹底的にわかっていないとだめだし、心というのがわかっていないとだめだし、同時にこれはすごい言葉なんだというのがなければ、やっぱり感ずるということはないとおもうんです」(『<非知>へ――<信>の構造 対話編 吉本× 末次 滝沢克己をめぐって』)。ここが、「すべての大学社会」における単なる学者・人間学的神学者・神学的人間学者(一方通行的な知的上昇を目指す往相過程のみに生きる知識人)と人間学における思想家(知の往還過程を生きる知識人)との違いなのである。太宰治は、『正義と微笑』で、「聖書を読みたくなって来た。こんな、たまらなく、いらいらそている時には、聖書に限るようである。他の本が、みな無味乾燥でひとつも頭に入ってこない時でも、聖書の言葉だけは、胸にひびく。本当に、たいしたものだ」、と述べている時、太宰のこの言葉は、私の心に響いてくる。すなわち、私にとって、八木の言葉は、心に響かず、無味乾燥な言葉として後景へ退いて行くのである。それだからといって、「聖書の、……よりよい理解へと立ち返る」ことを神学における思想の課題として設定するとすれば、「啓蒙思想およびそれに続いた」展開に対してだけでなく、やはり人間中心主義的な人間の自由裁量における表明にしか過ぎない「正統主義の……超自然主義的な形式」をも、総括的に言えばそれらすべての<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返している信仰・神学・教会の宣教を、「根〔底〕」的に、根本的包括的に原理的に、あの、徹頭徹尾、神の自由な恵みの決断・行為による神の自己啓示、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される終末論的限界の下での人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性、に信頼し固執し連帯する、すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにのみ感謝を持って信頼し固執する、信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成それ自体において、止揚し克服しなければならないのである。

 

 ここで、バルトの言う<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・教会の宣教の原理について総括的に述べれば、それは、神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求も、神の側の真実としてのみある啓示・和解だけでなく人間の側の構想・企ても、という混淆・共働・協働・混合・折衷<論>にある、と言うことができる。その極限に想定されるのがヘーゲルの哲学原理である。したがって、バルトは、『ヘーゲル』で次のように述べている――@「ヘーゲルの哲学的手法に対して」、「受け入れ難く耐え難い」「最も重大でかつ決定的なもの」は、「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」、「神の自由を認識していないという事態」にある、ヘーゲル哲学のその認識方法および概念構成は、神と人間との無限の質的差異の揚棄に基づいた人間中心主義的な存在の比論にある。「われわれは、シュライエルマッハー以外の他の人々の所でも、……〔この〕ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇するであろう」、Aヘーゲル哲学を支えているのは、自己、人間の対自的で対他的な――自由な自己意識の無限性・類的機能・類的活動、への信頼としての「自信自恃の哲学」であり、「人間の時代」の哲学である。その原理は、自由な自己意識の無限性の原理、区別を包括した同一性の原理、思惟と思惟されたものとの等価性の原理において、「彼の思惟が思惟したもの(≪対象≫)の中に彼の思惟が完全に現存」(対象的意識の段階として)し、「彼の思惟の中に彼の思惟に思惟されたもの(≪内在化された対象≫)が完全に現存」(自己意識の段階として)するという原理である。したがって、自己意識の思惟と思惟されたもの・対象化されたそれは、自己還帰して等価となる。このように、思惟に思惟を重ねて具体的普遍の頂へと高次化する思惟は、自然から超出した精神であるから、その頂を極めた「精神は、また精神自体としては神と全く同一である」。この原理を支えているものが、無限と有限との統一としての「究極的同一性」である。この「究極的同一性」において、「神の理性」のその属格理解における理性は、人間の理性が神を思惟する理性から、神の理性が思惟する理性に転化され、人間の理性の思惟は、神の理性の思惟と等価性を持つことになる。この事態は、人間の神化・神の人間化、神と人間との無限の質的差異の揚棄を意味する、と。また、バルトは、『啓示・教会・神学』で次のように述べている――「ドストエフスキーの書いたあの大審問官は、神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていたのであるが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の善意(≪彼自身が対象化した「存在者レベルでの神」・偶像に基づく善意、それゆえに彼自身が支配し管理するその神の名と呼びかけによる構想と企て≫)によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、最も洗練された支配行為に過ぎなかったのである。神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえどのように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう。またそのようなところには、教会は存在しないのである。そのような救いの計画と救いの方法の独断性が、神に余りに僅かしか信頼せず、人間に余りに多く信頼するという点に現われるということは、疑いない」、と。
 例えば、バルトは、次のように述べている――歴史主義は、人間精神が生み出したものを問題とする限り、「啓示を問おうとしない」で人間精神の自己理解を第一義として「聖書の中でも神話を問う」ことをする、しかし、「啓示の証言としての聖書の理解」と、「神話の証言としての聖書の理解」は、相互排除の関係にある、したがって、聖書記事を歴史物語とみなし、聖書記事の「一般的な歴史性(Geschitlichkeit)を問題化すること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃しない」、しかし、聖書記事を「神話として受けとること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃する」、なぜならば、啓示は、人間的人間学的な「歴史の枠に、はめ込まれてしまうような歴史的出来事ではない」からである。シュライエルマッハーは、人間学的に「教会とは、『ただ自由な人間的行為(≪対自的で対他的な人間の自由な自己意識の無限性≫)を通して発生し、またただそのような自由な人間的行為を通して存続することのできる共同体』であり、『敬虔性と関連した共同体』である」と規定した。また、シュライエルマッハーおいては、信仰も、人間実存の歴史的存在の一つの在り方として理解された。神学における「近代主義的思惟は、人間が、誰かによる呼びかけを受けることなしに、(中略)人間がじぶんを相手に自分だけでひとりごとを言っているのを聞く。それ故、近代主義にとっては、宣教は、『教会』と呼ばれる人間的な共同体の一つの必然的な生の表現」となる。シュライエルマッハー等近代主義者は、人間の「精神的な促進〔霊的な奨励〕のために、自分と彼らに共通な宝庫からくみ取りつつ、この宝庫をさらに豊かにするために」、人間の自由な自己意識の無限性・類的活動に信頼し固執して、自分自身の恣意的で独断的な構想と企て・「自分自身の歴史」と「現在の解釈」を表現しようとする。すなわち、「自己表現としての宣教」を企てる。このような、人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」(偶像)とその神の名と呼びかけるよる恣意的独断的な人間自身の構想と企ての量産に対して、フォイエルバッハは、正当にも次のように、根本的包括的な原理的な批判をしている――◎「人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である。人間は思惟する、すなわち人間は会話をする、人間は自分自身と話をする。動物は自分以外の他の個体がいなければ類の機能をひとつもはたすことはできない、しかし人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかという類的機能……を果たすことができる、◎「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である」、◎「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である」・「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」・「(中略)神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」(『キリスト教の本質』)、◎「神とはまさに、人間(≪対自的で対他的な人間の自由な自己意識の無限性≫)の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」(『宗教の本質にかんする講演』)。
 なぜ、<自然神学>の<段階>を根本的包括的に原理的に止揚し克服することが神学における思想の課題かと言えば、それは、ヘーゲル哲学が登場して以降は、ほんとうの信仰・神学・教会の宣教を目指すならば、ほんとうのキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」とその神への愛を根拠とする「神の讃美」としての「隣人愛」を目指すならば、その正当性のある根本的包括的な原理的なフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの宗教批判(キリスト教批判)を、神と人間との無限の質的差異の下で、終末論的限界の下で、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)、に信頼し固執し連帯した自らの信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成それ自体で、根本的包括的に原理的に止揚してそれを克服しなければならないからである、「神の言葉の三形態」において時間累積しなければならないからである、あくまでもそうする仕方で個性や時代性を刻まなければならないからである。したがって、その神学における思想の課題を認識してその課題を自覚的に扱わない場合は、結局は、神学としても人間学としても非自立的で中途半端な、ごまんといる、ある神学者や牧師やキリスト教的メディア的著述家たち自身が対象化した「存在者レベルでの神」(偶像)、その神の名と呼びかけによる構想・企て、の量産としかならないのであって、それらはすべて、<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返す系譜に属する水準にあるものとして、総括することができるのである。

 

参考として:〔バルトが、近代主義や<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・教会の宣教を根本的包括的に原理的に止揚し克服した、その信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・認識方法と概念構成は、次の点にある――@「時間と永遠との『無限の質的差別』」・神と人間との無限の質的差異が「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」(『ローマ書』)、神は聖性・隠蔽性・秘義性・不把握性を本質とする、それゆえに常に人間は終末論的限界の下に置かれている、Aローマ3・22およびガラテヤ2・16等の神の側の真実としてのみある主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」、すなわち「イエス・キリストが信じる信仰」により授与される神の義そのもの・(『福音と律法』)――「われわれは、われわれの主としてのイエス・キリストに固執することにより、またイエス・キリストがわれわれのかしらであるということに固執することにより、(中略)この主とかしらのもとで、またこの主とかしらとともに、……これからは神の義、神の子の義、神自身の義をまとっている者として生きることを許される」(『ローマ書新解』)、多元的党派主義によってではなく、この主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」という事柄に感謝を持って信頼し固執した信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成それ自体で、根本的包括的に原理的に、信と不信、キリスト者(教)と非キリスト者(教)、知と非知、との枠組みを取り除き、両者を架橋するところに、すなわち信・キリスト者(教)・知を、その現にあるがままの不信・非キリスト者(教)・非知に対して完全に開くことに、神学における思想の課題がある。バルトにとって、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいては、個と共同性は逆立し対立するのではなく、正立し平和なのであり、その単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの、啓示の客観的現実性、啓示の客観的実在、完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」・「キリスト教使信の中心」は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの不信・非キリスト者(教)・非知、全人間・全世界・全人類に対して完全に開かれているのである(『カール・バルト教会教義学 和解論 T/1 和解論の対象と問題』)。このことは、神学における思想の課題を認識し自覚することなく、神だけでなく人間も、人間の自主性や自己主張や構想・企て(自己義認)も、という<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返す、そしてその根拠となっている、イエス・キリストにおける神の側の真実にのみ感謝を持って信頼し固執しないで、直接的な人間的契機・人間の主観的契機にも信頼し固執する、「イエス・キリストの信仰」を目的格的属格として理解してそこに立脚する信仰・神学・教会の宣教においては、その最初から不可能なことなのである。その代表がルターである。ルターは、『キリスト者の自由』で次のように述べている――律法と福音を対立させて、まずは「罪人を怖れさせ、その罪を暴露して、痛悔し且つ回心させるためには、誡めを説教すべきである」、しかしそれだけではいけないので、その次に「他の言、すなわち恩恵の呼びかけを説教して、信仰を教えるべき」である、「かようなときにはじめて他の言、すなわち神からの約束の告知が現われて、そして語る」、「さらばキリストを信じなさい」、「あなたが信じるならこれを得られるし、信じないなら得られない」、この直接的な人間的契機を強調した<自然神学>的な神との「共働」の下で信へと往相的に上昇していく一方通行的な信・神学・教会の宣教においては、信と不信、キリスト者と非キリスト者(教)、知と非知とを架橋することはできないのである、信・キリスト者(教)・知を、その現にあるがままの不信・非キリスト者(教)・非知に対して、完全に開くことはできないのである。私たち自身、「義トサレタ罪人」として、事実、信にある不信を生きている――「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』」その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)。エキュメニカル運動の概念をバルトに適用するとするならば、それは、前述したような点にバルトにおけるそれがあるのであって、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるとことの」大学社会の神学者・佐藤司郎たちの言うような、形而上学的一面的皮相的固定的抽象的なキリスト教会一致促進や諸宗教間対話等に狭く閉じられたそれでは全くないのである。B「聖霊は、人間精神と同一ではない」・「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」・聖霊によって更新された理性も聖霊ではない(『教義学要綱』)、Cアンセルムスは「キリストが人間となり給うこと、キリストの贖罪死」の必然性を「理解シヨウ、理性的に論証シヨウとした」が、そのことを人は合理主義だと批判した・しかし、アンセルムスは、「教義学的な合理主義」を明確に否定している、すなわち、アンセルムスは、神学を一般的真理としてではなく、「啓示から得られた認識」について、それゆえに啓示に固有な証明能力、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性、に信頼し固執した、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示・和解)であるイエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事、に基づいて授与される啓示認識について、考えたのである(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)、したがって、啓示に固有な証明能力、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与されるその現にあるがままの現実的な人間存在における人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性である「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通すこと、を捨象した・除外した・後景に退かせた、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」・それに依拠した神学者・牧師・キリスト教的メディア的著述家の信仰・神学・教会の宣教は(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)は、まさに<自然神学>の<段階>で停滞し循環するそれとして総括できるのである、D「啓示は歴史の賓辞ではない」・「歴史が啓示の賓辞である」、すなわち、人間の歴史(時間・有限)は、「神的自由の行為」としての啓示(啓示の時間・永遠)となることはできない、言い換えれば、神の側の真実としてのみある、神の自己啓示(神の自己認識・自己理解・自己規定)、啓示の客観的実在、啓示の真理、啓示の時間、超歴史、救済史、永遠、は、常に、人間が人間的に所有する人間の、啓示認識・教義・教説、人間の自己認識・自己理解・自己規定、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍、人間論、人間学的な哲学原理・認識論・世界観、歴史、時間、有限、の、<彼岸・外>にある、<彼岸・外>にあり続ける、したがって、両者の混淆・共働・協働・混合・折衷は、本質的にあり得ないのである(『教会教義学 神の言葉』論)、E「神の神性において、また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」・「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人は、今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」・「第二の方向転換」としての「神の人間性」の「主文章」化は、「第一の方向転換」の「神の神性」の「主文章」化と「対立」関係にあるのではなく、その主文章化と副文章化とのベクトル変容は、あくまでもある時代状況に規定された言表なのである、なぜならば、バルトは不可避的なある社会構成・支配構成・文化構成の時代状況のただ中で生き生活し喜怒哀楽し思惟し信仰し神学し教会の宣教をしているのであるから、啓示の弁証法に基づいてある時はその一方が「中心部から周辺へ、強調された主文章からさほど強調されない副文章へ」と退いたりするだけなのである、したがってまた、「神の人間性」論は、ただ「神の神性において」、その神性を本質とする「神の人間性」が主文章化されたということであって、その背後に「神の神性」が保存される構造となっているのである(『神の人間性』)、F「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである(『福音と律法』)、Gイエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを認識し承認し確認する、したがって私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し承認し確認する、すなわち「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを認識し承認し確認する、したがってまた、神の側の真実としてのみある単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示・和解)であるイエス・キリストにおける啓示の場所は、近代主義や<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」・「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」・「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所である、すなわち私たち人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所は、単一性・神性・永遠性を本質とするまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示の場所だけである(『教会教義学 神の言葉』論および『ヨブ』)、したがって、イエス・キリストにおける啓示の場所は、人間の類的な活動や生活を、すなわち自然の一部としての人間の身体と精神を介した普遍的で実践的な全自然(自己身体・他者身体・環界としての自然)との相互規定的な対象的活動における成果(自然の人間化、非有機的身体化、人間的自然)を、正当性のあるフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの根本的包括的な原理的な宗教批判を、ヒッグス粒子の発見やiPS細胞やニュートリノの研究成果等を、人間的世俗的真理として正直に受け取ることができる場所なのである、H教会の客観的な信仰告白と教義である三位一体論の根拠としての神の啓示は、旧約聖書におけるヤハウェ・新約聖書における神(テオス)あるいは主(キュリオス)ご自身の自己啓示のことである、すなわち、聖書また教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する、したがって、この啓示が教会の宣教の客観的な信仰告白と教義である三位一体論の根拠である、この三位一体論は、神論の決定的に重要な構成要素であり、「啓示の認識原理」である、したがってまた、「教会の宣教の批判と訂正」は、常にこの三位一体論に即して行わなければならないのである、なぜならば、この三位一体論を啓示認識の原理としない場合、すぐに<神性>否定のキリスト論や半神・半人キリスト論や三神論や神と人間・神学と人間学との混淆論・共働論・協働論・混合論・折衷論という近代主義や<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返す、キリスト論・聖霊論・神論に、信仰・神学・教会の宣教に、埋没していく以外にないからである(『教会教義学 神の言葉』論)、したがって、「神学がなくても信仰は成立しますが、高等教育を受け、『天にいる神』をもはや素朴に信じることができなくなったわれわれには神学が必須です。われわれは『天にいる神』をほんとうに信じていませんが、ほんとに信じていないことを口にしてはいけないというのが、キリスト教信仰の第一の前提です」と、神学における思想の課題を認識し自覚もしないで、恣意的独断的に「はじめての宗教論」で書いた佐藤優が、神論など論じられるわけがないのである。なぜならば、佐藤の場合、その最初から誤謬は必然だからである。したがって、佐藤は、ただ、非自立的に、その誤謬にメディア的組織性の後光をかぶせて語るのである、I近代主義的プロテスタント主義的な信仰・神学・教会の宣教が、「キリストの永遠のまことの神性の告白」を信用しない場合、それは、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍・「視覚的錯覚」・存在の類比に依拠しているからである、この場合、和解に関して言えば、「赦す神」が人間に内在しなければならないことになり、その認識自体が<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返している認識でしかなくなってしまう、そのような認識の在り方においては、イエス・キリストは、「下からの半神」・「超人」・人間の「最深の本質」・「最高の理想」・キリスト教的人間的実存の範型・社会的政治的実践の範型等の単なる「空虚な概念」でしかなくなってしまう、したがって、「キリストの神性についての教義」・思想こそが、近代主義や<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返しているだけの信仰・神学・教会の宣教に抗することができる神学における思想的な武器なのである。受肉は、言葉の受肉であって、神性の受肉ではない。この単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在(性質・行為・働き・業、神の子、神の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの、啓示の客観的実在そのもの)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストという教義こそが、「神的啓示と人間的な信仰の間」における神と人間・神学と人間学との混淆論・共働論・協働論・混合論・折衷論を、その「幻想性」を、その「形而上学」性を打破でき、根本的包括的に原理的に止揚し克服できる神学における思想的武器なのである。
 単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストは、「啓示の出来事においてはじめて神の子」「神の言葉」となるのではなく、「父を啓示するもの」(啓示)、そして「われわれを父と和解させるもの」(和解)として、「神の子」・神の言葉・神の第二の存在の仕方なのである。すなわち、その啓示と和解(神の第二の存在の仕方)が「キリストの神性」の根拠ではなくて、単一性・神性・永遠性を本質とする「キリストの神性」が「啓示と和解を生じさせる」のである。ここに一切合財があるのであって、「赦す神」はたとえその人がまことの人間であっても人間に内在することは決してないのである。このイエス・キリストは、教会の客観的な信仰告白・教義における「一切の思惟、洞察、解釈、省察の前提」である。したがって、教会の「教義」は、「人間的な教育的な威厳」はあるとしても、「いかなる神的な威厳」も持ってはいないのである。すなわち、教会(「神の言葉の三形態」の第三の形態)は、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に、それゆえにその第一の形態に、具体的には第二の形態に、信頼し固執し連帯して、絶えず繰り返しそれを媒介・反復することを通して教会となることによって教会であろうとしなければならないのである。
 キリスト教は、確かに、党派性を基軸として、すなわち教派や教理や思想傾向や学派等を基軸として、分類できるのであるが、その分類の仕方は根本的包括的な原理的な分類の仕方ではない。言い換えれば、キリスト教の根本的包括的な原理的な分類の仕方は、近代以降の宗教的形態としての科学<主義>や歴史<主義>や理性<主義>や感覚<主義>の信奉者たちを含めて、神学者・牧師・キリスト教的メディア的著述家たち、等々の人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」(偶像)およびその神の名と呼びかけによる啓示概念や構想や企てや思惟や実践、へと向かう<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返す系譜に属するそれか、それとも正当性のあるフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの根本的包括的な原理的な宗教批判の対象そのものである<自然神学>の<段階>にある信仰・神学・教会の宣教を根本的包括的に原理的に止揚し克服して、新たな<段階>に移行した信仰・神学・教会の宣教の系譜に属するそれか、によるのである。この時、キリスト教を、また神学者・牧師・キリスト教的メディア的著述家たちのその主張を、トータルに、根本的包括的に原理的に、見極めることができるのである。
 吉永正義は、『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』の「あとがき」で、「聖書のザッヘに視線を向け続けるよう助けるものは、神学というより、あくまで宣教であるだろう」、と書いているのであるが、それは違うので、「聖書のザッヘに視線を向け続けるよう助けるものは」、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性、であるから、教会は、それに信頼し固執し連帯して、常に、絶えず繰り返し、それを媒介・反復しなければならないのである。教会は教会の宣教の「規準としての聖書」(「神の言葉の三形態」の第二の形態、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」)・「聖書の自由な力」に支配されていなければならないのである。なぜならば、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての「啓示の実在」そのものであるイエス・キリスト(「神の言葉の三形態」の第一の形態)と共に、教会の宣教(「神の言葉の三形態」の第三の形態)における原理である聖書(「神の言葉の三形態」の第二の形態)を支配する教会の宣教がごまんと存在するからである。このような訳であるから、教会の宣教は、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に適った説教と聖礼典を行っているかどうかを、具体的には聖書を規準として絶えず繰り返し、自己吟味し・的確に「批判し、訂正」していかなければならないのである。したがって、バルトは、次のように述べたのである――◎「あらゆるキリスト者の生が、意識するにせよ、しないにせよ、やはりひとつの証しである」限り、「教会とその信仰を基礎づけている神の言葉から、提起される」「真理問題はあらゆるキリスト者に向けられている。この証しにおいてこの真理問題に対する責任を負う限り、いかなるキリスト者も彼自身がまた、神学者としても召されている」(『福音主義神学入門』)、◎「教授でないものも、牧師でないものも、彼らの教授や牧師の神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、共同の責任」を負っている(『啓示・教会・神学』)、◎「教義学は、決して信仰と、その認識のより高い段階を意味しない」、なぜなら、「最も単純な福音の宣教も、それが神のみ心である時には、最も制限されない意味で、真理の宣べ伝えであることができるし、最も単純な聞き手に対しても、この真理を完全な効力をもって、伝えてゆくことができる」、「教義学者は、信仰者としても、知識を持つ者としても、神がここでなし給うことに関しては、教会の誰か一人の会員よりも、よりよい状況にあるわけではない」、教義学者とは「ただ単に教義学を専攻する大学教員や著述家だけ」のことではなく、「広く一般に、今日および昨日の教義学的問いによって突き当てられ動かされる者たち」のことである(『教会教義学 神の言葉』論)、◎「正しい注釈」は、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての「啓示の実在」そのものであるイエス・キリスト(「神の言葉の三形態」の第一の形態、神の言葉そのもの、「啓示の実在」そのもの、啓示の客観的実在)に、具体的にはイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」としての聖書(「神の言葉の三形態」の第二の形態、啓示の「概念の実在」)に基づいていなければならない、なぜならば、「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」からである、「解釈する」とは、「別の言葉で同一のことを言うこと」だからである、また、「正しい注釈」を、「最終的に……教会の教職の判決に、……間違うことはありえないものとして振る舞う歴史的――批判的学問の判決に、依存させてしま」ってはならない、言い換えれば、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯して、それを絶えず繰り返し媒介・反復する、ということを、信仰・神学・教会の宣教における原理・認識方法と概念構成としなければならない、また「福音が純粋ニ教エラレ、聖礼典が正シク執行サレルということ」がなされないままに、礼拝改革・社会的政治的実践・キリスト教教育とか、教会と国家および社会との関係とか、国際間の教会的な相互理解というような領域で、「何か真剣なことを企て遂行してゆくことができると考え」てはならない、また宣教の規準を、聖書と同時に、「最上の仕方で基礎づけられ、熟慮に熟慮を重ねられた人間的な判断」あるいは「哲学、道徳、政治」等に置いてはならない、「特定の人種、民族、国民、国家の特性、利益と折り合」おうとしてはならない、ある「社会構成」・「支配構成」・「文化構成」、ある「社会機構あるいは経済機構」の「保持」・「廃止」に貢献しようとしてはならない、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの、啓示の客観的実在)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにのみ感謝を持って信頼し固執して、それゆえにそのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(聖書、啓示の「概念の実在」)に信頼し固執し連帯して、それ以外のすべてから自由でなければならない

 

 聖霊の注ぎ・働きによる「証言ハ、……聖書ノ中デ聖書ト最モ密接ニ関連シツツ、ソノ証言ハ求メラレナケレバナラナイ。ソレデアルカラ言葉(≪啓示の出来事≫)ト聖霊ノ行為(≪聖霊の注ぎによる信仰の出来事≫)ハヒトツノ範疇ニ属スルモノデアル。確カニ証言ハワレワレノ知性ヲ照シ出スガ、ソノ際知性ニ対シテ知解スル能力ガユルサレ、納得ガ与エラレルノデアル」――この事柄が、「教会の宣教に際して、(中略)……まことの……霊的な確実性」である。「しかし人は、今やますます」、これとは違った確実性を、すなわち「神的な確実性ではなく人間的な確実性を、信仰のみによる確実性ではなく業による確実性を欲した。この移り変わりのしるしの中で、一七世紀の正統主義の霊感説は発生した」。この正統主義の超自然主義的な形式、その体系化の「意図」は、次の点にある――それは、@世俗的な超自然主義的な形式に基づく要請にある。すなわちそれは、A聖書は、「われわれに対し、聖ナル、誤ルコトノナイ歴史を提供しなければならない……すべての部分にわたって、現にわれわれの前にある言葉および文字のままですべて、確認できる、手でつかみうる神的真理を表現していなければならない……そういうものとして哲学や数学の公理と並んでそれと同じ形式的な威厳を持つことが一目瞭然と分かる公理を集めた書物でなければならない」、という人間的な要請・要求にある。したがって、聖書が、Bこの世俗的人間的な要請・要求を「満たさ」ない場合には、「全く無縁慮に(≪聖書を≫)非難し、(≪聖書に対して≫)不信感、懐疑論、無神論をもっておどしてもよいと信じた」点にある。この一七世紀の正統主義の聖書霊感説の誤謬は、「神の言葉の現在化は(≪啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰の授与、「キリストの秘義」と「聖霊の秘義」に基づく啓示認識・啓示信仰の授与は≫)ただ神自身の自由な恵みの決断と行為」によって成り立っているという認識を、また「われわれが神の言葉の現在化にあずかる参与はただ神の言葉の永遠的な現在を想起し待望することから成り立つことができるだけであるという認識」を、捨象し除外してしまった点にある。言い換えれば、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復する、という認識方法と概念構成を持たない点にある。バルトは、『教会教義学 神の言葉』論で次のように述べている――神の言葉は、「偶発的な同時性」、すなわち「特定のアノトコロデアノ時ニが、特定のココデイマ」となる。神の言葉は、「その都度、全く特定の一回的な、独一無比な」言葉である。しかしまた、神の言葉は、「神の口を通して語られて、同時的」である。このことは、神の言葉は一つであること、すなわち「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示・和解)であるイエス・キリストにおける連続性を意味している。言い換えれば、このことは、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における時間累積を意味している。このイエス・キリストの連続性における「同時性」が、「特定のアノトコロデアノ時ニが、特定のココデイマ」となる出来事の時間・空間のベクトル変容を可能とするのである。すなわち、そのイエス・キリストの「特定のアノトコロデアノ時ニ」において、バルトの「特定のココデイマ」は、預言者や使徒たちの特定の時空と交点を結び得るのである。「時の全くの厳格な相違性の中で、神の言葉は一つであり、同時的である(イエス・キリストは、きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない)」、「すべての以前と以後においても」「同一の方であり給う」イエス・キリストにおいて、未来(終末、再臨、救贖・完成)を考えること・待望することは過去(成就された時間としてのキリストの復活)を考えること・想起することであり、過去(成就された時間としてのキリストの復活)を考えること・想起することは未来(終末、再臨、救贖・完成)を考えること・待望することであると同時に、キリストの復活・「成就された時間」の前の過去(イエス・キリストの死と生涯、旧約聖書的な待望の時間)を考えることでもある。『ローマ書』では、次のように述べられている――「パウロはその時代の子としてその時代の人々に語った。けれどもこの事実よりはるかに重要な事柄は、いま一つの事実、すなわち彼は神の国の預言者ならびに使徒としてあらゆる時代のあらゆる人々に語っている、ということである。(中略)聖書の精神は永遠の精神なのである。かつての重大問題は今日もなお重大問題であり、今日の重大問題で単なる偶然や気まぐれでない事柄は、またかつての重大問題と直結している」。「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」である。
 いずれにしても、一七世紀の正統主義の聖書霊感説によって、「キリストの秘義なしに、また聖霊の秘義なしに」、ローマにいる教皇とは違って「全く彼の注解者の手中に握られてしまった」、「自由な、霊的な力も持たず、……人間的な力の道具となってしまった」『紙の教皇』」の中で、聖書は、啓示に固有な証明能力に基づく、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)における第二の形態(イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」)ではなくなり、それゆえに人間が自由に処理できる対象にされ、「歴史的な相対主義……に門戸を開」き、多元的党派主義の下で、「ほかの宗教の正典」、「そもそも人間の霊〔精神〕が造り出した多くのもの」と同列化され、世俗化されてしまった。このようにして、「神学の中に、教会の中に」、信仰の中に、「その歴史的な相対主義は一瞬のためらいもなく入って来たのである」。この一七世紀の正統主義の聖書霊感説の誤謬の展開は、「それ以後ずっと……それ以後の世代全体に対して、神学者の間の、教会の中の、無数の人々に対して」、「ルターやカルヴァンの傍を、特にパウロの傍を、素通りしてしまう」契機を与えたことによって、聖書は神の言葉であるという命題のまことの、霊的な、聖書的な、宗教改革的な意味を見る目をふさいでしまった」のである。すなわち、「ここでキリスト(≪啓示の出来事≫)に目をとめ……、あそこで聖霊(≪聖霊の注ぎによる信仰の出来事≫)に目をとめる……、それと共に神の絶対主権性と自由な恵みに目をとめる」ところで、それゆえにそれ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯するところで、聖書は神の言葉であるという命題を理解しようとしなかったがために、聖書は、「文書そのもの」、「その歴史的――文学的な状態……に目をとめる見方へと狭められて行った……」。「人が聖書を、ある特定の歴史の文書として、……特定の歴史の精神として解釈しはじめた時、……それぞれ違った仕方で、一八世紀の合理主義者たち、ヘルダー、シュライエルマッヘル、そして一九世紀の保守主義的および自由主義的な学派が、リッチュルおよび宗教史学派に至るまで、試みたように、ある特定の歴史の文書として、……聖書の精神をこの特定の歴史の精神として解釈しはじめた時」、それは「観点の新しい拡大ではなかった」、それは、<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返すだけのそれでしかなかった。彼らが、「歴史的――文学的に研究されるべき」「歴史の資料」とみなした聖書のその「歴史の中で……神の言葉を認識すると信じた時、……(聖書の人間性に対して目をつぶろうとした)昔の人々の仮現論からは逃れることはできたが」、逆にそれは、「エビオン主義に陥ってしま」うことでもあった。

 

 

 バルトは、「今、進み行くべき道、また避けなければならない……道に注意を向け」ながら、「聖書の霊感」――すなわち聖書が「『神の霊によるものであること』について」、それゆえに聖書は「神の言葉であるという命題について、特に言葉という概念から……主題的に明らかにする」、と述べている。
(1)「『神の言葉』について語る」者は、「神の言葉を語るのである」。すなわち、このように語る者は、神の言葉を、人間自身の自由事項・決定事項として語ることができないことを認識し自覚した者として語るのである。言い換えれば、神の言葉――イエス・キリスト、啓示の実在、この啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼し固執して語るのである。したがって、その者は、神の聖性、神の隠蔽性・秘義性・不把握性、終末論的限界、を認識し自覚しながら語るのである。したがってまた、その者は、その語りが「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身」の決定事項なのであって、私たち人間の決定事項ではないということ、それゆえに、その者は、その語りが「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基」づいて成立しているということ、このことを認識し自覚しながら語るのである。「まさに、われわれが聖書(≪「神の言葉の三形態」の第二の形態、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」≫)を神の言葉(「神の言葉の三形態」の第一の形態、神の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの、イエス・キリスト)として持つこと」によってこそ、「われわれが聖書の証言(≪「神の言葉の三形態」の第二の形態≫)を取り上げること」によってこそ、「われわれは聖書の主(≪「神の言葉の三形態」の第一の形態≫)を思い出すように、聖書の主(≪「神の言葉の三形態」の第一の形態≫)ご自身に、ほまれを帰するように召されている」のである。言い換えれば、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としてのイエス・キリスト、(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを絶えず繰り返し媒介・反復するように召されているのである。その「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して、キリスト教に固有な類・歴史性の時間累積をするように召されているのである。このような訳であるから、聖書の主(「神の言葉の三形態」の第一の形態)の「絶対主権性を承認し尊崇することでもって、聖書の霊感の認識、神の言葉としての聖書の性格の認識、は繰り返し始まらなければならない……」。

 

(2)「『神の言葉』について語る」者は、「神の業のことを語るのである」。したがって、その者は、神の「自由な決断に基づいている神の自由な行動であるところの〔ひとつの〕出来事(≪「〔神の言葉の〕現臨の出来事」≫)を見ているのである」。「神の言葉が永遠から永遠にわたって存在するということ」は、その神の言葉が、「われわれにとって、われわれに対して、……ほかのことが起こる場合とは根本的に違った仕方で出来事(≪「〔神の言葉の〕現臨の出来事」≫)として起こるということである」。このような「見方を取ること」を、「聖書こそが、われわれに対して……命じるのである」、命じているのである。また、「聖書(≪「神の言葉の三形態」の第二の形態、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示に固有な証明能力、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与された啓示の「概念の実在」≫)こそが、われわれに対して……一度ですべてにわたって力を奮う仕方で起こった神の行為(≪「神の言葉の三形態」の第一の形態、神の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの、イエス・キリスト≫)を思い出させるのである」。したがって、「われわれは……聖書がわれわれに向かって語るところの<神の言葉>……を、われわれによって待望されるべき<神の行為>として理解する」のである。聖書の性格を神の言葉として認識するということ――すなわち聖書の霊感について認識するということは、「われわれが聖書の中に約束されている神の言葉に対して」、その神の言葉を「聞くであろう時、われわれの生の中で、また全世界の生の中で、出来事となって起こるであろうこと」を、「進んで身に受けようとしている」ことである。言い換えれば、このことは、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復する、ということである。

 

(3)「『神の言葉』について語る」者は、「神の奇蹟〔のこと〕を語るのである」。「聖書の現実存在そのもの」は、神の言葉、「イエス・キリストにあっての神の行為」(死と復活の出来事、啓示・和解、インマヌエル)について語ることによって、「ほかのすべての出来事に対して終止符を打ち、一連の新しい出来事を開始させる実在としての神の恵み」について語っている。『教会教義学 神の言葉』論に即して言えば、「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」、「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」は、復活へと向かっている、このキリストの復活・成就された時間は、「新しい世」のはじまりである。この啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、敗北者である「われわれ人間の失われた非本来的な古い時間」は、「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」(成就された時間)であるキリストの復活における神の「勝利の行為」によって究極的包括的総体的永遠的に止揚され・克服されて「そこにある」ことを啓示認識・啓示信仰することができる、また、その啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して、その勝利の行為は、「敗北者もまた依然としてそこにいるところの勝利の行為」であることを認識し信仰することができる。「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」・「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」(『福音と律法』)。このような訳であるから、「神の言葉の内容……神の言葉の実在そのものが……出来事となって起こることに対して、われわれは何の権利主張も、何の力も持っておらず、ただわれわれに対して恵み深くあり給うことが神のみ心にかなうということに基づいて、われわれ」は、感謝を持って「喜んで身に起こらしめるだけ」なのである。この出来事は、聖書(「神の言葉の三形態」の第二の形態、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与されたイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」)における神の言葉(「神の言葉の三形態」の第一の形態、イエス・キリスト、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの)に対して、「奇蹟を待ち望む」のと同じ仕方で「出会って行くこと」である。「他方、たとえそれがどんなに敬虔な、どんなに考え深い際知豊かな、また首尾一貫した仕方」のものであっても、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することをしないで、聖書における神の言葉を、人間が支配する仕方で恣意的独断的にあるいは敬虔的に「珍奇な性質にしてしまうならば」、すなわち「単なる知識」に過ぎないある理念・「最高存在」・「最モ完全ナ存在」・「存在者レベルでの神」(神学者や牧師やキリスト教的メディア的著述家たち自身が対象化した偶像)の言葉にしてしまうならば、「聖書は神の言葉であるという命題をまさに否定することになる」し、「聖書の本当の権威と威厳をまさに破壊してしまう」ことになるのである。

 

(4)しかし、「われわれが、聖書は神の言葉であるという時」に、「奇蹟について語るのであれば」、「われわれは、聖書の形態(≪「神の言葉の三形態」の第二の形態、啓示の「概念の実在」≫)の人間性」・人間的側面および「われわれが、聖書に関してなしうる」「(≪例えば、聖書的証言のイエス・キリストの復活に対する、人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍に依拠したあるいは近代以降の宗教的形態である科学主義に依拠した≫)躓きの可能性を、直接的にも間接的にも否定すること」はできない。聖書の預言者や使徒たちは、その「証人」としての「務めや機能」においても、その証言を「書き下ろす行為」においても、「われわれすべての者と同様」、歴史的な、その現にあるがままの現実的な人間存在として、その「行為」において「罪深い」、その「語られ、書かれた言葉」において「誤りうる、また事実誤るところの人間であった」のである。したがって、「彼らが復活の証人となるよう召され、聖霊を受けるという奇蹟が彼らの身に起こったのであれば」、歴史的な、その現にあるがままの現実的な人間存在として、そうした「限界を除去することなしに」、それゆえに「彼らの人間的な自由を十分に用いつつ」、「彼ら自身の身に起こったのである」。この論述だけからでも、バルトを「現実の人間を考慮しない(『神はすべてであって人間は無である!』)」(『バルト自伝』)と揶揄した「評論」家たち(神学者・牧師・キリスト教的メディア的著述家たち)の評論がいかに頓珍漢で出鱈目な戯言でしかないかを知ることができるであろう。バルトは、バーゼル刑務所における説教『主を見た時 ヨハネ』で、イエス・キリストの復活の出来事について、すなわち「ただ単に考えや夢の中にではなく、何か精神的にではなく、身体的に見、聞き、つかまえることできる形」における弟子への顕現の出来事について、「どのようにして……起こりえたか、また起こったか、……私はあなたがたと同じように、その理由を知らない。それは(≪人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍に依拠して考えれば≫)人が信じないようなことだと言う以外に、単純な言い方はほかに存在しない。事実、当時でさえも、解き明かすことは愚か、書き記すことや説明することはできなかった」・「イエスの復活は、徹頭徹尾神の業であって、そのようなものとして、最高度に良くなされたが、しかし最高度に理解し難いもの」なのである、したがって、「当時でさえも、ただ(≪啓示に固有な証明能力、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて≫)認識(≪信仰≫)され、告白され、証しされ、宣べ伝えることができた」だけである、と述べている。「足なえが立って歩くということ、盲人が見、死人が生きかえらされるということ、罪深い、過ちを犯す人間がそのような者として神の言葉を語るということ、そのことが、聖書は神の言葉であると語る時に、われわれが語っている奇蹟である」。すなわち、「聖書は神の言葉である」という命題の認識には、「全線にわたって存在している躓きが、神の言葉の力(≪啓示に固有な証明能力、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいた人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与≫)を通して除去されるという出来事の承認……が含まれている」のである。このような訳で、「奇蹟の真理」は、啓示に固有な証明能力、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して、「神の恵みの奇蹟」を通して、「誤りうる人間が誤りうる人間の言葉で神の言葉を語っている」という点にあるのであるから、それゆえにこの点に「聖書の威厳と権威」は基礎づけられているのであるから、「神の言葉を誤ることのない聖書的な人間の言葉に解釈し曲げてしまうことや聖書的な人間の言葉を誤ることのない神の言葉に解釈し曲げてしまうことはすべて」、根本的に誤謬なのである。したがって、そうすることは、「ご自分の人間性の中でご自分の栄光をあらわすために神ご自身がキリストにあって人間となり給うた恵み……の最高絶対性に対する反抗」となるのである。「人間についての聖書の証言に従えば」、聖書の著者たちは、「どの言葉においても誤りえたし、どの言葉においても実際に誤りを犯したが、……同時にその聖書の同じ証言に従えば、ただ恵みによってのみ、義とされ、聖とされ、まさにこの彼らの誤りうる、実際に誤る人間の言葉でもって神の言葉を語った」のである。

 

(5)聖書そのものは、「神の言葉の三形態」の第二の形態として、啓示の主観的可能性であるから、聖書の中での神の言葉の現臨は、神のその都度の「自由な」、恵みの「神的な決断」によって、すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする神の第三の存在の仕方(救済)である聖霊の注ぎによって、その「書物の中で、書物と共に、起こるのである」。「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストの「特定のアノトコロデアノ時ニ」において、「特定のココデイマ」は、預言者や使徒たちの特定の時空と交点を結び得るのである。聖書が、「神の言葉として現臨するということが出来事となって起こるのである」。この出来事は、「把握しがたい仕方」のそれであり、「永遠の言葉の現在であり、永遠の言葉を待望し、想起することにとって欠くことができない本質であり」――「すべての以前と以後においても」「同一の方であり給う」イエス・キリストにおいて、未来(終末、再臨、救贖・完成)を考えること・待望することは過去(キリストの復活)を考えること・想起することであり、過去(キリストの復活)を考えること・想起することは未来(終末、再臨、救贖・完成)を考えること・待望することであると同時に、「成就された時間」の前の過去(イエス・キリストの死と生涯、旧約聖書的な待望の時間)を考えることでもある――、「ちょうどイエス・キリストの受肉と甦えり(≪キリストの復活40日、成就された時間≫)が(≪実在の成就された時間として、時間の主の時間として、イエス・キリストの啓示の時間として、≫)時間の真中として時間を基礎づけているように」、「われわれの(問題に満ちた非本来的な失われた・否定的判決を受けた)時間を基礎づけているのである」。この出来事において、「実際に、誤りうる人間の言葉」は、「神ご自身によって奉仕へと取り上げられ用いられる抜擢のゆえに、神の言葉なのである」。

 

(6)前述した出来事において、聖書が神の言葉として「自分自身を実証する」ことは、神の言葉自身の自由な決断による。すなわち、その都度の神の自由な恵みの決断による、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に基づいて、「人間に対して自己を伝達」・啓示する、という仕方で実証する。したがって、聖書と関連した「教会の生」において問題は、「神のこの決断と行為が、……一度ですべてにわたって力を奮う仕方でイエス・キリストの中で起こった神の行為」が、啓示に固有な証明能力において、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事において、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性において、「現在となる」出来事が惹き起こされるということに、神の言葉として現臨する出来事となるということに、神の時間(有限な人間には把握されない・把握できない、成就された時間であるイエス・キリストの復活を基軸とした想起と待望においてのみ把握される神の時間)としての「神の言葉の永遠的現臨の出来事」が惹き起こされるということに、永遠の言葉が現在化するということに、すなわち預言者や使徒たち「聖書的人間の言葉(≪「神の言葉の三形態」の第二の形態、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」≫)が神の言葉(「神の言葉の三形態」の第一の形態、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの)として確認される」出来事(啓示認識・啓示信仰の授与)が惹き起こされるということに、ある。この「神の言葉の現臨」は、「人間的な可能性の領域には属して」おらず、その都度の「われわれに対する神の決断」・自由な恵みの決断による事柄であるから、「神の言葉の現臨をそれとして意識」した個としての人間の身体を介した「体験」としてはやってこないのである。神の言葉の現臨の出来事は、徹頭徹尾、その都度の神の自由な恵みの決断によることであるから、「ましてやこの神の言葉の現臨をほかの者に向かって提示することは、人間的な可能性の領域には属していない」のである。あくまでも、その都度の神の自由な恵みの決断、啓示に固有な証明能力、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいた、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通した、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与の出来事としてやってくる。「われわれは聖書を通して感謝および希望へと呼び出されることができ、呼び出されるべきである」。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」・人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてのみある啓示の客観的実在・啓示の客観的現実性、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストの死と復活の出来事、イエス・キリストにおける<完了>された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和、「成就と執行」、「永遠的実在」、として<すでに>ということである。ここで、救済を「信仰の中で持つ」ことは、「約束として持つ」ことである。「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」。「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である。「われわれは……われわれの信仰を、それが神の前でのわれわれの義認である限り、その永遠の形態の中で知ることができず、常に……信仰から信仰への(ローマ一・一七)歩み、として知ることができるだけである」――「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)。したがって、「われわれは聖書の証言を問いつつ、聖書を学ぶことができるし、学ぶべきである」が、「最後の言葉」として、切望の言葉として、「われわれはそのような(中略)出来事が実際に生起」し、聖書の「証言」が実在として「われわれに対しても贈り与えられることを……祈るべきである」・祈り続けるべきである。したがってまた、神の側の真実としてのみある、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力は、「聖書のすべての人間的な言葉が含みを持っている誤りうる性質、それらの歴史的および自然科学的誤謬、それらの神学的矛盾、それらの伝承の不確実性、特にそのユダヤ主義……の全くの誤りやすさ」をすべて包括し克服してしまうのである。
 バルトに言わせれば、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性、を信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成としないで、人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍や人間論や人間学的な哲学原理・認識論・世界観やある主義との共働・協働・混合・折衷を目指した「何らかの抽象を以て始められ、何らかの空論に終わるところ」「すべての大学社会の神学」・神学者(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)、それに依拠した教会の宣教・牧師・キリスト教的メディア的著述家、は、その最初から、その最初からと言うのは、その原理・その認識方法と概念構成それ自体においてその最初から、<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返しているだけの信仰・神学・教会の宣教の陥穽に陥ることは、客観的に、必然なことなのである。このことは、権力を実体化する反体制を標榜する者が、その法的言語や政策的言語や組織論や権力論において、観念の共同性を本質とする政治的国家・政治的権力(体制)に加担していくのと同じことなのである。「教会の存在と現状が、……福音から考え・行動し・処理されているということを語っていないならば、教会の説教も福音宣教も虚しいものとなるであろう。教会みずからが、……その行為と態度によって、自己の内なる政治をこの使信に合わせてゆくこと(≪政治的国家・政治的権力を無化していくこと、自己の内なる政治を無化していくこと≫)を全然考えないとしたならば、どうして世は、王とその御国の使信を信ずるであろうか」(『キリスト者共同体と市民共同体』)、「(中略)キリスト者は、政治生活において神の正義が人間によって誤認され・蹂躙される場合にも、神の正義は、……天地の一切の力が与えられているイエスの苦しみのゆえに、優越しているということを確信している。悪しき矮小なピラトが、結局は無駄骨折をするというように、配慮がなされているのである。その場合、キリスト者が、どうして、ピラト(≪一切の政治的国家・政治的権力≫)のともがらと成ることができようか」 (『教義学要綱』)――イエス・キリストにのみ信頼し固執したバルトは、その神の側の真実として<完了>された救済と平和の場所において、政治的国家・政治的権力の問題を不可避な過渡的問題として捉えると同時に、究極的課題としてはその政治的国家・政治的権力、「自己の内なる政治」の無化を構造化させているのである。すなわち、バルトは、終末、再臨、救贖・完成においては、政治的国家・政治的権力も無化されてしまうという観点を持っているのである。それに対して、権力を実体的に考え、革命の過渡的課題と究極的課題も持たず、ヒトラー暗殺計画企ての権力闘争へと向かったボンヘッファーは、バルトも述べていたように「彼らは夢想家」だったのである。彼らの権力闘争は、全く、質の良いものではなかった。理論だけでなく実践も、言葉だけでなく行為も、という形而上学的一面的固定的抽象的な在り方は駄目なのであって、理論それ自体がおのずから実践へと向かわしめる水準を持っていないと駄目なのである。それに対して、バルトの場合は、恩寵が「告知」・「証し」・「宣教」される時、「私は私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものだ」、イエス・キリストにのみ固着せよ、というイエス・キリストにおける福音にのみ感謝をもって信頼し固執する「かつて語った説教の一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから実践に、決断に、行動になって行った」という在り方にある。マルクスの場合も、「マルクスの完結した体系(≪自然哲学、経済学、観念あるいは幻想の共同性としての共同宗教・法・政治的国家≫)は、当時も(そしていまも)よく理解されていなかったが、理論がかれを実践のほうへ必然的につれてゆくようにできあがっていた」(吉本隆明『カール・マルクス』)。このことは、信仰・神学・教会の宣教においても同じことなのであって、それゆえにそのような信仰・神学・教会の宣教の原理・認識方法と概念構成が必要なのである。

 

(7)その現にあるがままの現実的な人間存在における「教会と教会の成員としてのわれわれ自身の具体的な生」において、「われわれが聖書の霊感について語る」時、「あるいはわれわれが聖書は神の言葉であると告白する時」、聖書的証言の「テキストそのものが語り、証しすることを欲している。読まれ、聞かれることを欲している。このテキストの中で、このテキストを通して」、神の言葉は「語り、証しし、読まれ、聞かれることを欲している……」のである。すなわち、神の言葉は、人が、聖書的証言のテキストから「離れて」このテキストを「征服」し支配する仕方で、またその人間の自主性・自己主張の欲救のために・その人間自身の構想や企てのためにこのテキストを恣意的独断的に曲解する仕方で、そしてまたその根本的包括的な原理的な誤謬に教会等の組織性の後光をかぶせて「語り、証しし、読まれ、聞かれることを欲して」はいないのである。「今神が人間に向かって語られるならば、その時神は今実際に、この具体的な人間であるところの言葉」、啓示に固有な証明能力に基づく、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(聖書、啓示の「概念の実在」、「神の言葉の三形態」の第二の形態)を介して「語り給うのである」。このことは、「逐語霊感の概念のよき、必然的な権利である」。「逐語的に霊感を受けた状態なるものは存在しないとしても、……事柄(ザッヘ)は言葉から切り離されることはでき」ない。このことは、知覚的具体的な「聖書の言葉の……形態」において神の言葉を聞くということである。言い換えれば、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯する、ということである。このような訳であるから、逐語霊感は、聖書の言葉が、「その言語的、歴史的、神学的性格において、人間の言葉として、誤りえないものであるということを」意味しないのである。すなわち、逐語霊感は、「誤りうる、実際に誤りを犯す人間の言葉が今やそのようなものとして神によって奉仕の中に取り上げられ、その人間的な誤りやすさにもかかわらず、それとして受け取られ聞かれるべきである、ということ」なのである。このことは、神の言葉は、三位一体論の唯一の啓示の類比としての、知覚的な、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)、すなわち神の自由な恵みの決断によって人間に向かってなされた神の自己啓示である単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト(神の言葉、神の子、「啓示の実在」そのもの、啓示の客観的実在、「神の言葉の三形態」の第一の形態)と、また聖書(啓示に固有な証明能力に基づいて授与された、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、その現にあるがままの現実的な人間存在における人間が人間的に所有する人間の、人間の言葉を介した啓示の「概念の実在」、「神の言葉の三形態」の第二の形態)および教会(第一の形態と第二の形態に信頼し固執し連帯した客観的な信仰告白・教義・教説、啓示の「概念の実在」、「神の言葉の三形態」の第三の形態)の関係と構造・秩序性においてあるから、それに信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することが必要であることを意味している。したがって、教会・その成員は、あくまでもそういう仕方で、その「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯して時間累積していくことが必要なのである。このような訳であるから、「われわれがただ単に、……委任を受けた者と彼の言葉を持つばかりでなく、われわれがただ単に聖書のテキストを持つばかりでなく」、その「テキストの中で」、その「テキストを通して、神の言葉を持つということ、そのことについてはわれわれは神に任せておけばよいのである」。
 次に、「われわれ自身の現在の中での神の言葉の現臨の出来事が問題である」。「神の言葉の現臨をそれとして意識」した人間の身体を介した「体験が問題なのではない」。なぜならば、神の言葉の現臨は、人間の側からするその意識性や意志性等によって左右することはできないし、また「われわれがなしたり、予見することもできないもの」であって、あくまでもその都度の神の自由な恵みの決断によるものだからである。すなわち、その都度の「自由な、神ご自身の現臨として、われわれの過去と未来を決定(≪イエス・キリストの時間・「時間の主の時間は、「われわれの時間」の中で、「実在の成就された時間」であって、そこに、「まことの現在」・「過去と未来が存在する」し「神の言葉」がある≫)し、われわれの想起(≪キリストの復活≫)を感謝として、われわれの待望(キリストの再臨、終末、救贖・完成≫)を希望として規定するところの神の言葉の現臨が問題である」。したがって、「われわれは、聖書のテキストに対して、感謝および希望の態度をとるよう堅く、……義務づけられている」のである。「すべての以前と以後においても」「同一の方であり給う」イエス・キリストにおいて、未来(キリストの再臨、終末、救贖・完成)を考えること・待望することは過去(キリストの復活)を考えること・想起することであり、過去(キリストの復活)を考えること・想起することは未来(キリストの再臨、終末、救贖・完成)を考えること・待望することであると同時に、「成就された時間」の前の過去(キリストの死・生涯、旧約聖書的な待望の時間)を考えることでもある。その「感謝と希望の中に捕えられつつ、われわれは、聖書のテキストの人間性を、それであるからその誤りやすさを……直視しなければならない」。言い換えれば、聖書的証言の「テキストをしてその現在あるがままの姿の中でわれわれに向かって語らしめ、しかも本文の言いまわしと文脈の中でそのまま終わりまで語らせなければならない」・「預言者と使徒たちが、彼らがあそこであの当時語ったところのことを、今日ここで再び、今われわれ自身に向かって語りかけることを認めなければならない」。この聖書のテキストの「戸は、ただ内部からしてだけ開かれることができる」。すなわち、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与の戸は、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に基づいて、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して、開かれる。「主よ、主よと呼ぶことが問題なのではなく、神の恵みと真理(≪「これこそが聖書の霊感である」≫)を認識」し信仰することを切望することが肝要なことなのである。したがって、「われわれは、中に入れてもらえることを切に願いつつ、(≪絶えず繰り返し≫)この戸を叩き続け」なければならないのである。
 このような訳であるから、「聖書の霊感を信じる信仰は、教会および教会の肢である成員たちの具体的な生が実際に聖書の注釈によって支配されている生であるということと共に立ちもすれば、倒れもする」のである。言い換えれば、「教会および教会の肢である成員たちの具体的な生」は、啓示に固有な証明能力、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰の授与を切望する、それ自身が聖霊の業である知覚的な啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)の第一の形態――「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての「啓示の実在」そのものであるイエス・キリストと共に、教会の宣教の原理である聖書――イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、その現にあるがままの現実的な人間存在における人間が人間的に所有する人間の言葉を介した啓示の「概念の実在」に、信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通したところの「聖書の注釈に支配されている生であるということと共に立」つことができる生、ということである。

 

(8)聖書の霊感は、「それを信じるわれわれの信仰」においても、それを「神の賜物として、神の業として、理解」し認識する時においても、「消失してしまうわけではない……」。なぜならば、聖書の霊感は、「神の恵みと真理」(神の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの、啓示の客観的実在、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、「神の言葉の三形態」の第一の形態)のことだからである。このことは、聖書の霊感を、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力として、その都度の神の自由な恵みの決断による啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰の授与として、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性として、認識し理解することを意味している。
 その歴史的な、その現にあるがままの現実的な人間存在、その「神の言葉の三形態」の第三の形態である「教会とその成員としてのわれわれの具体的な生」において、「預言者と使徒たちの人間的言葉(≪「神の言葉の三形態」の第二の形態、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教、啓示の「概念の実在」≫)の中で神の言葉(≪「神の言葉の三形態」の第一の形態、イエス・キリスト、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの≫)が現在となる」こと、すなわち神の言葉の現臨の出来事が起こることは、「啓示そのもの(≪「神の言葉の三形態」の第一の形態≫)の一回的な主要な出来事の繰り返し(≪神のその都度の自由な恵みの決断、「神の賜物」、「神の業……奇蹟」、「神の言葉の三形態」の第一の形態、啓示そのものに固有な証明能力、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事、に基づく繰り返し≫)、副次的な延長、継続」として、認識し理解することを意味している。この認識・理解も、それが啓示認識・啓示信仰の授与における人間の理性と言葉を介したそれである限り、聖書の霊感の「客観性」については「十分に満足されることできない」。したがって、この「聖書の霊感は最後的には結局われわれ自身の判断、感じ、評価の事柄であるかのように、解釈される危険」を持っているのである。したがってまた、「聖書の霊感の客観性は明らかにただ、われわれがそれを満足させようとすることをやめることでもって、満足させることができる」。すなわち、「神の教会を基礎づけ、保持するに当たって」の「聖書の霊感」を通しての「神の行動」は、今までもこれからもさまざまな、人間の主義や主張に対して、「人間の主観性の出現、発生に対して、繰り返し勝利をもって自分を貫徹させるに十分なほど客観的であるということ」を「信じ、信頼することで」、「(≪聖書の霊感の客観性を≫)満足させることができる……」。この「聖書の霊感を信じるということ」は、「神の言葉の三形態」の第二の形態である「聖書の証言に基づいて、聖書の証言に対応しつつ」、それゆえにそれ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯して、その啓示に固有な証明能力に基づく時間累積に信頼し固執し連帯して、キリストにあっての「神を信じるということである」。したがって、バルトは、『教会教義学 神の言葉』論で、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」である、と述べたのである。言い換えれば、聖書の霊感の客観性は、知覚的な、啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)の連続性(啓示に固有な証明能力に基づく時間累積)を「信じ、信頼することでもって、満足させることができる」のである。「聖書は神の言葉であるということは偶然や、歴史の経過、あるいはわれわれ自身の勝手な恣意にまかせられていない。……それは、アブラハム、イサク、ヤコブノ神、三位一体の神……に、まかせられているのである」。この総括は、「聖書論においてその内容が正しく理解されているところでは、……純粋に形式的な性質の告白」である。したがって、聖書は神の言葉であるとして「認識されるためには」、聖書は、「神の言葉」として認識されていることを欲するという「論理の循環」における、「真理の円環」がある。この円環は、「教会とその成員」を「拘束」する円環であるが、「われわれの自由の円環でもある」。なぜならば、この「円環」の場所において「教会とその成員」は、私たち人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」し、また近代主義や<自然神学>的<段階>で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」・「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」・「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」ことが見渡すことができるからである。
 「聖書の神的な権威」は、「教会の権威によって保証されることなしに、知られ信じられうるか」という「ローマ・カトリック側の敵対者たち」からの問いかけに対して、「カルヴァン『綱要』」は、次のように答えている――「ワレワレハ、昔ノ預言者オヨビ使徒ノ聖典オヨビ新約聖書ガ、真ノ神ノ言葉デアリ、ソレ自身デ十分ナ権威ヲ持チ、人間ニヨリ(≪教会により≫)権威を持ツモノデナイコトヲ信ジ、告白スル。ナゼナラバ、神自ラ、父祖、預言者、使徒ニ語リ給イ、マタ、今日聖書ニヨッテ、ワレワレニ語ッテイ給ウカラデアル」。「唯一の根拠が自らを措定し、認識され、承認された」ことによって、「それは教会の根拠となった」。言い換えれば、教会の根拠は、啓示に固有な証明能力、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性、に信頼し固執し連帯するところにあるのである。すなわち、それは、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての啓示の実在そのものであるイエス・キリスト(「神の言葉の三形態」の第一の形態、神の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの、啓示の客観的実在)に、具体的には教会の宣教における原理である聖書(イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」)に、信頼し固執し連帯するところにあるのである。
 このような訳であるから、この時、神学における思想家バルトは、『教会教義学 神の言葉』論で、現在から未来に生きる言葉でもって、次の立場に立脚していることを述べているのである――(≪私たちは単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示、この≫)一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(≪教派・学派・思想傾向・さまざまな主義や主張・党派的多元主義・時流や時勢・ある社会的政治的実践等≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」、と。吉本隆明も、「対立する双方に真理があるというような俗説(≪多元主義、多元的党派主義等≫)が、世界史的に流布され、流通している」中で、自らの立場において、両者を包括し「止揚しなければならないということが思想的な問題」である(『思想の基準をめぐって』)、と述べた。このことは、信と不信、キリスト者(教)と非キリスト者(教)、知と非知、という両者の枠組みを取り除き両者を架橋するところに思想の課題がある、ということと同じである。すなわち、信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成それ自体で、その両者の枠組みを取り除き両者を架橋するところに、信仰・神学・教会の宣教における思想の課題があるのである。バルトは、次のように述べている――「神はご自身との共同性の中に生きてい給う。そして神は人間との共同性の中に生きてい給う。そして人間は他人との共同性の中で生きている。共同性ということが、人間が神に似ていることの根拠だ。……教会なきところではイエスはキリストであり給わない。教会は永遠よりえらばれたものだ。そして、キリストは、その頭としてありつづけ給う。……個々人と共同体の対立は近代的な対立であって、新約聖書のものではない。……新約聖書の「体」の概念はこの対立を超えたものだ(『バルトとの対話』)。バルトにとって、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいては、個と共同性は逆立し対立するのではなく、正立し平和なのである。それだけではなく、そのイエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」・「キリスト教使信の中心」は、神の側の真実としてある客観的実在・客観的現実性としてのそのイエス・キリストにおける<完了>された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの現実的な人間存在における不信・非キリスト者(教)・非知、全人間・全世界・全人類に対して完全に開かれているのである(『カール・バルト教会教義学 和解論 T/1 和解論の対象と問題』)。

 

 「一六世紀は、……聖書に従属していた教会の権威を肯定したように」、聖書(啓示に固有な証明能力に基づく「神の言葉の三形態」の第二の形態、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」)の権威の「唯一の根拠」である啓示の実在そのものである単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト(「神の言葉の三形態」の第一の形態)に従属していた。しかし、一方で、「一六世紀」は、啓示は啓示に固有な証明能力を持っているのであるから、「啓示は例証されようとせず、解釈されること(≪「別の言葉で同一のことを言うこと」≫)を欲する」のであるが、「例証する弁証論を知ってい」て、それを「肯定さえしていた」のである。したがって、「カルヴァン(『綱要』)」も、限定性を設定した上ではあったのだが、そのような「人間的観点」から、「聖書ノ信憑性ヲ確立スルタメニ人間理性ノ達シウル限度内デ十分確カナ証明ガナサレル」、と述べた。ただ、「カルヴァン」は、そのような人間的観点からの「論証をワレワレノ弱サヲ支エルタメノ第二義的ナ手段と呼んで」、そのような人間的観点を「信仰の基礎づけとみなし、力を奮わせようとすることに対しては警告している」。「信ジナイ者ラニ、聖書ハ神ノ言葉デアルトイウコトヲ証明シヨウトスル人ハ、無分別ナコトヲシテイルノデアル。ナゼナラ、ソノコトハ信ジナイナラバ、認識デキナイカラデアル」。なぜならば、そのことは、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰の授与を必要とするからである。したがって、聖書は神の言葉であるという「判断はいかなる人間的な判断でもなく、……それは(≪向こう側から、神の側から、啓示の側から、その啓示に固有な証明能力に基づいて、その都度の神の自由な恵みの決断によって、やって来る≫)神的な判断である。またただそのようなものとしてだけ、それはわれわれによって受け取られ、信じられることができる。シタガッテ、ワレワレハ御霊ノ力ニ照ラサレテ、聖書ハ神カラノモノデアルト信ジ、ワレワレノ判断ヤ他人ノ判断ニヨラズ……ワレワレノ判断トワレワレノ才能トヲソレニ従ワセルノデアル」。カルヴァンのこの後者の限界づけについて、自らの神学を「すこぶる宗教改革的」であり、「全くカルヴァンの思想に近い」・神の像の形式的側面に関する思想と「『ほとんど全く』同じ」と主張したブルンナーに対して、バルトは、『ナイン!―エーミル・ブルンナーに対する答え』において、次のように批判を加えている――@カルヴァンは、「天地万物からする神認識とキリストの中での神認識との二つの神認識について語った」が、ブルンナーとは違って、啓示に対するまたキリストの中での新生活に対する「結合点を見出していない」、すなわち「聖書以外にさらに聖書を補う別な啓示の根源を、理性や歴史や自然の中に何とかして求め」、それらに独自性を与えて、「後から追加的に『何らかの仕方で』……発言せしめる」ことをしていない、Aカルヴァンの認識のベクトルは、ブルンナーとは違って、「天地万物の中における神認識」は、「キリストの中における神認識そのもの」において可能であるとする。また、『教会教義学 神の言葉』論においては、バルトは、ブルンナーの目指している神学的課題は、「理性的思惟の絶対化〔絶対主義〕」「理性万能の妄想と理性の孤立の中」で、「神的汝をあこがれ求めている理性を解放する」ことにあって、それは、「神的汝をあこがれ求めている」、「自信過剰」の半減された抑制された「近代的精神」・人間的理性・思惟(人間)と神との新たな「共働者」関係・混合関係・折衷関係の構築を目指すものであるから首肯できないとして、批判を加えている。

 

 「一七世紀の終わりにおける事情」は、カルヴァンのあの人間的観点からする「例証する弁証論」を含めた理解における「聖霊ノ内的証示」の概念は、「全く後退し、消失してしまわなければならなかった」。近代において、リッチュルは、「聖霊ノ証シ」の概念について、「聖霊ノ証シノ中では自我は客体(≪なぜならば、啓示認識・啓示信仰は、神の自由な恵みの決断によって、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、向こう側、神の側からやってくるから≫)として」存在するから、「形式的には結局体験(≪「神の言葉の現臨をそれとして意識」した意志した人間個体の身体を介した体験≫)の概念とは全く別なものである」という「正しい理解を持ちつつ」も、彼は、「この概念を『役に立たないもの』だ」として後景に退けてしまった。
 バルトは、「われわれは、『聖霊を通して』と言う時、われわれに向かって身を向けられる自由な、恵み深い行為の中での神を通して、ということを言っているのである」・それゆえに、聖書論においても、「われわれ自身に栄誉を帰するのではなく、神に栄誉を帰することでもって満足するということを言っているのである」、と述べている。「聖霊によって」、イエス・キリストは、「その人間性から言えば……処女マリアより生まれるために……みごもられた」のである、「聖霊を通して」、イエス・キリストは、「その人間性から言えば……聖餐の中に救いの力を持って現臨し給う」のである、「聖霊を通して、イエス・キリストの人間性の証人たちは同時にまたその永遠の神性の証人となったし、そのような証人であるのである」。したがって、バルトは、神の言葉は、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業である、知覚的な、啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)として存在している、と言うのである。すなわち、神の言葉は、自在であって他在としての自由な神の恵みの決断によって、人間に向かって語られた神の自己啓示である単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト(「神の言葉の三形態」の第一の形態、神の子、神の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの、啓示の客観的実在)と、また「聖書」(「神の言葉の三形態」の第二の形態、啓示に固有な証明能力に基づくイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」)および教会(「神の言葉の三形態」の第三の形態、第一の形態、具体的には第二の形態、に絶えず繰り返し聞くことによって教会となる、その教会の宣教における客観的な信仰告白・教義、啓示の「概念の実在」)、との関係と構造・秩序性において存在する、と言うのである。啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与、その啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定、ということを言うのである。したがって、バルトは、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」たのである。また、一方で、ある社会構成・支配構成・文化構成の時代水準のただ中で生き生活し喜怒哀楽し信仰し神学し教会の宣教をしたバルトは、その信仰・神学・教会の宣教に、個性や時代性を刻んだのである。
 D.Fr.シュトラウスは、「ハイム・アルシュテッド」が「聖書ノ権威ト確実性ハスベテ、聖霊ノ証言ニヨッテモッテカカッテイル」と書いたことに対して、「それでは誰がこの証言の神性について証しするのか。ただ、その証言自身が証しするのか、換言すれば、何人もそれを証ししないか、それとも、感情であれ思惟であれ、とにかく人間の精神の中の何かあるものであるかそのいずれかである。ここにプロテスタント思想体系のアキレス腱がある」と批判したのだが、その批判は、「確かに正しかった」、とバルトは述べている。しかし、「シュトラウスは、……プロテスタントの思想体系なるものは存在しないということ」、「プロテスタントの教会と神学はこの最も弱い点においてこそ」・それゆえにその「告白」と「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯した「信仰告白」の現存という「その全き、不滅の強さを持っている」がゆえに、「プロテスタントの教会と教えはシュトラウスの問いを……心から喜んで……受け取るであろう」ということ、を見過ごしていた、ともバルトは述べている。このバルトの現在から未来に生きる言葉は、神学における思想の課題を認識し自覚した言葉なのである。因みに、ルドルフ・ボーレンの「神律的相互関係」の概念に依拠して、「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」、と聖霊や聖霊の言葉を実体化させて述べていた、神学における思想の課題を認識し自覚していない中世的思考に停滞した形而上学一面的皮相的抽象的な論述の仕方をする小泉健は、シュトラウスのような問いに対して、あるいはフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの揶揄・批判に対して、バルトのような現在から未来に生きる答え方の言葉を持たないだろうし・持てないであろう。(114−160頁)