本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「十九節 教会のための神の言葉」「二 神の言葉としての聖書」(その3−2)

『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「十九節 教会のための神の言葉」「二 神の言葉としての聖書」(その3−2)(76−114頁)

 

二 神の言葉としての聖書(その3−2)
(5)「われわれは、預言者と使徒たちを神の啓示についての証人として理解する」ことによって、彼らに対して、その「証人としての……機能」において、「全く特定の選び出し」(「任命」)、すなわち「われわれおよびほかのすべての者に相対しての一回的な、独一無比な立場と意味を帰した」。聖書の「形式」は、神と人間との無限の質的差異、神の聖性、神の隠蔽性・秘義性・不把握性、終末論的限界、の下で、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に基づいて授与された、人間の言語を介した人間が人間的に所有する人間の啓示の「概念の実在」(イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)として、「神の言葉の三形態」の第二の形態として、「神の言葉の三形態」の第一の形態(神の言葉、「啓示の実在」そのもの、啓示・和解、神の子、イエス・キリスト)に感謝をもって信頼し固執し連帯した預言者や使徒たちの「任命と機能」、にあるのであり、聖書の「内容」は、神の側の真実としてのみある、啓示の客観的現実性・啓示の客観的実在そのものとしての、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(性質・行為・働き・業、神の子、神の言葉、啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストに、「神の言葉の三形態」の第一の形態・「隅のかしら石」「かなめ石」(エペソ二・二〇)にあるのである。言い換えれば、預言者や使徒たちの「任命と機能」におけるイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」としての聖書――啓示の「概念の実在」(「神の言葉の三形態」の第二の形態)は、神の側の真実としてのみある客観的な「啓示の実在」そのものであるイエス・キリスト(「神の言葉の三形態」の第一の形態)を内容とする、その内容の形式なのである。バルトは、この聖書「証言の形式と内容」を、区別を包括した同一性において理解しているのである。すなわち、その「証言」(啓示の「概念の実在」)は、啓示に固有な証明能力に基づいて授与された、それゆえに不可避的におのずから「啓示の実在」そのものに感謝をもって信頼し固執し連帯する「間接的同一性」・媒介的同一性においてある、と理解しているのである。このことは、ルターの『キリスト者の自由』を読めばすぐに分かるように、ルターが、律法と福音を対立させ、不信を包括した信ではなくて、それゆえにルターの場合の信は不信とむなしさと不安と不確かさのただ中にある現在から未来に生きる言葉とはなり得ないであろうと言えるのであるが、少なくとも第一次的・第一義的に人間の側からの信仰的意志も介在させた律法から福音へという往相的一方通行的に信の上昇過程を目指すルターの信とは違って、バルトは、『福音と律法』において、律法は人間が現実的に福音を所有することができるための福音の形式、すなわち律法は福音を内容とする福音の形式である、というように理解した仕方と同じなのである。このバルトにおいては、信は、神の側の真実としてのみある、主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」において、不信を包括し止揚された信である、不信を包括した信としてあるものである――@「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の「イエスの信仰」は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである)」(『福音と律法』)、A「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、(≪聖書によれば、すなわち啓示に固有な証明能力に基づいた預言者や使徒たちの啓示認識・啓示信仰によれば、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」によれば、≫)その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力(≪信仰的意志等々≫)によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)、B「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである)(『福音と律法』)。
 このような訳であるから、この「選び出しの概念」・任命の概念について、バルトは、「啓示(≪「神の言葉の三形態」の第一の形態≫)に到達するためには」、すなわち啓示認識(啓示信仰)に到達するためには、不可避的におのずから感謝をもって「啓示の実在」そのものに信頼し固執し連帯した「預言者と使徒たち、……の待望(すること)と想起(すること)」、彼らのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(啓示の「概念の実在」、「神の言葉の三形態」の第二の形態)に信頼し固執し連帯して、それを媒介・反復することが肝要であるということを指し示したそれである、と述べている。言い換えれば、「神の言葉の三形態」の第二の形態(啓示との「間接的同一性」・媒介的同一性としての啓示の「概念の実在」)である聖書を媒介・反復することが重要である、と述べているのである。したがって、この聖書における預言者や使徒たちの「選び出し」・「抜擢」・「任命」は、「決定的に、第一に」、「神の言葉の三形態」の第三の形態である「教会自身」に対する・教会が絶えず繰り返し聖書に聞くことを通して教会となることによって教会であろうとする教会自身のための「選び出し」・「抜擢」・「任命」である、と述べている。言い換えれば、聖書は、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての啓示の実在そのものであるイエス・キリストと共に、教会の宣教における原理なのである。なぜならば、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である「聖書こそ」が、教会に宣教を義務づけているからである。したがって、「聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのである」。「『……、預言者と使徒たち、はわれわれと違って、奇蹟と教導の賜物を受けた。われわれにとってはただ、われわれに対する恵みのこの解き明しによってわれわれに伝えられていることを語ることだけが、ふさわしいのである』(Joh. Damascenus)」(77頁)。
 『神の言葉』論に即して言えば、「旧約聖書的な待望の時間」と「新約聖書的な想起の時間」との間の「成就された時間」とは、「イエスがご自分〔の生きていること〕をお示しになった」「復活のあの四〇日(使徒行伝一・三)」のことである。「新約聖書の証人たち」は、このキリスト復活の40日をおぼえる想起において、「キリストの死」と「キリストの生涯」を想起する時、「光を得」たのである。彼らは「甦えりの証人」である。そして彼らは、「既に来た方」であるイエス・キリストは「またこれから来たり給う(≪再臨し給う≫)方」であることを語るのである。「新約聖書の信仰」は、「想起の時間」である「聖霊降臨日のあとの時代」である。したがって、この「想起の時間」・聖霊降臨日以降の時間は、「成就された時間」・キリスト復活の40日ではない。しかし、その「想起の時間」は、「甦えられた方」である復活のイエスをおぼえる「想起の時間」として、必然的に「甦えられた方を待ち望む待望の時間」、再臨、終末、救贖・完成、を待望する時間であり、そのようにしてそれは、「成就された時間」(キリスト復活の40日)に参与するのである。ここで、「すべての以前と以後においても」「同一の方であり給う」イエス・キリストにおいて、未来(イエス・キリストの再臨、終末、救贖・完成)を考えること・待望することは、過去(キリストの復活)を考えること・想起することであり、過去(キリストの復活)を考えること・想起することは、未来(イエス・キリストの再臨、終末、救贖・完成)を考えること・待望することであると同時に、「成就された時間」の前の過去(キリストの十字架・死とキリストの生涯、旧約聖書的な待望の時間)を考えることでもあるのである。

 

 このような訳であるから、「神の言葉の三形態」の関係と構造、その秩序性、について認識し自覚することが重要なことなのである。「神の言葉の三形態」の第三の形態である「教会を通して……帰せられる」、聖書における選び出され抜擢され任命された預言者や使徒たちという概念(「神の言葉の三形態」の第二の形態)は、「神の言葉の三形態」の第一の形態(「啓示の実在」)であるイエス・キリストについての彼らの「言葉、証言、宣教、説教」(神の言葉の三形態」の第二の形態、啓示の「概念の実在」)において、「神ノ代理ヲツトメル」者として「託サレタ職務ヲ忠実ニ果タシ」(カルヴァン)「貫徹した」ということに基づいたそれなのである。したがって、バルト自身は、バルト論を『使徒的人間』というタイトルの下に書いた冨岡幸一郎の言うような「使徒的人間」(「神の言葉の三形態」の第二の形態における人間)では全くないのであって、現代という時代のある社会構成・支配構成・文化構成の水準のただ中で、あくまでも「神の言葉の三形態」の第三の形態である教会のひとつの機能である<教会>教義学的作業に、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性を認識し自覚しながら、誠実に専念した牧師・神学者・神学における思想家だったのである。はっきりと言おう――バルト自身は、自分自身を「使徒的人間」として、決して全く、自己認識し自己理解し自己規定してはいなかったのである。私が今まで読んできたバルトの著作の中で、バルト自身が、自分を使徒的人間として自己認識し自己理解し自己規定した内容など見たことがないのである。バルトの信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成から言って、そのようなことは全くあり得ないことなのである。しかし、冨岡の本の、バルトの自然神学論における完全な誤謬を含めてこのような完全な誤謬も、メディアや同類者や同伴者を通すことで、その根本的な誤謬に「普遍性や組織性の後光」がかぶせられて、あたかも正しいかのような形姿で、この世に流通してしまうのである。したがって、私たちは、知識人・詩人・文芸批評家・思想家である吉本隆明が述べていたように、あらゆる、知識人、メディア、神学者や牧師やキリスト教的著述家たちの、言説や知識や情報を、そのまま鵜呑みにしたり模倣したりしない方がいいのである。このことは、肝に銘じておくべきことであるだろう。

 

 聖書(「神の言葉の三形態」の第二の形態、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」)は、「神の啓示(≪「神の言葉の三形態」の第一の形態、神の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの≫)についての証言として」の「書物」である。この書物は、「神の言葉が服従を要求し、服従を見出す時に、彼らの証言の中で神の啓示が示される」という、この「限界」性・限定性(聖書の人間性)において、聖書である。聖書は、あくまでも、神の自由な恵みの決断において、神が語り給うことによって・神が啓示し給うことによって、その語り給うたこと・その啓示し給うたことを見・聞くという仕方で、その見・聞いたこと(啓示に固有な証明能力に基づいて授与された人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰)について証言された「書物」、すなわち「神の啓示についての証言として」の「書物」である。啓示に固有な証明能力に基づいて啓示されたことに対して、不可避的におのずからそれに感謝をもって「服従」するという仕方でなされた、「神の啓示についての証言として」の「書物」である。
 さて、バルトは、自分自身を、「神の言葉の三形態」の第二の形態における預言者的な使徒的な人間として、自己認識し自己理解し自己規定してはいない、ということは前述した。バルト自身、次のように述べている――「ホルスト・ステファン(Glaubenslehre 1928)」の「キリスト教信仰論の源泉の総内容としての『神の言葉』と呼んだものの内部での『段階的順序』」は、@「イスラエルの……時代から、パウロ〔の時代〕を通って、(≪「ルターを最後」とする≫)プロテスタントの基礎づけ〔の時代〕まで続いている」「預言者」という「第一の序列」(段階)、A「たとえば、古代末期のオリゲネスやアウグスティヌス、中世における聖トマスやマイステル・エックハルト、古プロテスタント主義のの時代におけるメランヒトン、ツヴィングリ、カルヴァン、……ドイツ新プロテスタント主義の時代における……シュライエルマッヘル……」のような「特定の時代にとって標準的となった多くの敬虔な人々」という「第二の序列」(段階)、B「例えば中世においては聖(!)フランチェスコ、近代においては……キールケゴール」等、ある時代の子であるが、「信仰のある側面において」、その「時代を超えている者たち」という「第三の序列」(段階)、としてあり、その原則は、「バッハ」の芸術(音楽)等も含めて「宗教的な詩人や偉大な神学者」における「生ける信仰は、……単に聖書の中だけでなく、(≪人間の恣意的独断的な判断・基準において≫)ほかのところででも出会」い、「『神の言葉』となることができる」、という点にある。したがって、ここにおいては、先に述べた「聖書の〔特別な〕選び出し」・任命という事柄は捨象されてしまうから、その「聖書の〔特別な〕選び出しについては何も語ることができないこと」になってしまう。身近な例で言えば、先に述べた冨岡によるバルトの使徒的人間化がそれである。さらに、そこにおいては、その原則の下で判断され規定された「『預言者』ルターあるいは『聖』トマスおよび『聖』フランチェスコのところで聞くことのできる神的命令」と、「使徒パウロ(≪「神の言葉の三形態」の第二の形態、啓示の「概念の実在」≫)のところで」聞くことのできる神的命令と、その使徒パウロの「特別な位置づけ」における「イエス(≪「神の言葉の三形態」の第一の形態、「啓示の実在」そのもの≫)のところで聞くことのできる神的命令」との間にある厳格な区別性、すなわち「神の言葉の三形態」の関係と構造、秩序性、は捨象され破壊されあるいは弱められて、そこには「ただ程度の差だけがある」ということになってしまうのである。言い換えれば、そこにおいては、その原則の下では、聖書は、「神の言葉の三形態」の第二の形態でなくなってしまうのである。したがって、その場合には、聖書は、教会の支配に服し、教会が自由に取り扱うことのできる対象となってしまうのである。したがってまた、そこでの「神」・「神の言葉」・「啓示」は、人間の自由な自己意識が対象化した神・神の言葉・啓示(偶像)に過ぎないものとなってしまうのである、対象化された人間の自由な自己意識そのもの――すなわち「存在者レベルの神」・啓示・フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーが正当な仕方で根本的包括的に原理的に揶揄・批判した<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返す<宗教>そのものに過ぎないものとなってしまうのである。したがって、そこでは、「神喪失と偶像崇拝」が惹き起こされるのである。(76−80頁)

 

 このような訳であるから、「神の啓示についての証言」として、「われわれがあの書物に聖書としての性格を帰する」ということは、啓示に固有な証明能力、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造、秩序性に信頼し固執し連帯して、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての「啓示の実在」そのものであるイエス・キリスト(「神の言葉の三形態」の第一の形態)と共に教会の宣教における原理である聖書(「神の言葉の三形態」の第二の形態)に、それゆえに教会に対する「批判的な基準」としての聖書に、絶えず繰り返し聞き、「預言者的――使徒的機能が出来事となって起こることを、……想起」して、それに聞き「従う」・「服従」する、それを媒介・反復する、ということなのである。この「想起」と「服従」について、バルトは、「キリスト教会(≪「神の言葉の三形態」の第三の形態≫)が……ただ聖書(≪「神の言葉の三形態」の第二の形態、人間の言語を介した人間が人間的に所有する人間のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」、啓示に固有な証明能力に基づいた啓示との「間接的同一性」・媒介的同一性≫)の中でだけ、神の言葉(≪「神の言葉の三形態」の第一の形態、イエス・キリスト、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの≫)を聞くことを期待するところの想起とそれに対応する服従……の中で、……神の至高さと結びつ」く、と述べている。また、聖書(「神の言葉の三形態」の第二の形態)の「選び出し」は、啓示(「神の言葉の三形態」の第一の形態)自身が持っている啓示に固有な証明能力に基づいたそれである。すなわち、「自分で自分を選び出す(≪神の側の真実としてのみある、完全な啓示の客観的現実性・啓示の客観的な実在・「啓示の実在」そのものが持つ≫)自己選出の力の中でのみ、聖書は選び出されることができる」。もしもそうでないならば、そこでの神・啓示は、人間自身の自由な自己意識の無限性が対象化した「存在者レベルでの神」・啓示(偶像そのもの)に過ぎないものとしかならないからである。
 バルトは、『神の言葉』論で、次のように述べている――@聖書また教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する。したがって、この啓示が教会の宣教の客観的な信仰告白と教義である三位一体論の根拠である。この三位一体論は、神論の決定的に重要な構成要素であり、「啓示の認識原理」である。したがって、「教会の宣教の批判と訂正」は、常にこの三位一体論に即して行わなければならないのである。なぜならば、この三位一体論を啓示認識の原理としない場合、すぐに神性否定のキリスト論や半神・半人キリスト論や三神論や神と人間・神学と人間学との混淆論・共働論・協働論・混合論・折衷論という<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト論・聖霊論・神論に埋没していく以外にないからである。したがって、「高等教育を受け、『天にいる神』をもはや素朴に信じることができなくなったわれわれには神学(≪知識≫)が必須です。われわれは『天にいる神』をほんとうに信じていませんが、ほんとに信じていないことを口にしてはいけないというのが、キリスト教信仰の第一の前提です」、と佐藤優が『はじめての宗教論』で書いた時、佐藤は、バルトを根本的包括的に原理的に認識し理解してはいないのであって、それゆえに佐藤はその最初から、バルトのその信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成を、根本的包括的に原理的に論じられないことは、明明白白なことなのである。したがってまた、佐藤がバルトのある一面をあるいはある部分を肯定しあるいは批判したとしても、それはいずれにしても、バルトの信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成を、根本的包括的に原理的に、肯定しあるいは批判しているのではなくて、形而上学一面的皮相的固定的抽象的空論的に肯定しあるいは批判しているだけに過ぎない、と言うことができるのである。もっと言えば、このような佐藤では、その最初から、バルトの信仰・神学・教会の宣教の<段階>を、バルトの<超自然な神学>・信仰・教会の宣教の<段階>を、根本的包括的に原理的に、止揚して、さらにその先にあるであろう信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成のよりよい<段階>へと超え出ていくことはできないことも明明白白なことなのである。なぜならば、佐藤の「宗教」・神学・信仰の<段階>は、全く、旧態依然な、<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返しているだけのそれに過ぎないものだからである。

 

 さて、「事実ただひとつ絶対的な、原則的な、破壊されることのない優位性が存在する。それは創造主としての神が、その被造物全体および例外なしにすべての個々の被造物(≪天然自然と人間的自然≫)に対して持ち給う優位性である」。この「優位性」は、「ただ聖書(「神の言葉の三形態」の第二の形態)を通して、しかも啓示証言(≪「神の言葉の三形態」の第二の形態、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」、啓示に固有な証明能力に基づいた啓示との「間接的同一性」・媒介的同一性≫)として、したがってそれ自身神の言葉(「神の言葉の三形態」の第一の形態)として読まれ、理解され、説明された聖書を通してしか、教えられない」、優位性である。この認識の場合、人は、「優位性」と劣位性、「創造主」と「被造物」、「絶対的」と「相対的」、との区別を、「思惟」、すなわち「直観と概念」において認識しているだけでなく、自分自身のものとして、その存在・その思惟・その実践において、そこを生きているところの認識、信仰である。言い換えれば、その区別性の認識は、「単なる理論……であり続けるのではなく、われわれ自身がその区別をわれわれの生をもって、われわれの実存の中で、遂行する」それなのである。なぜならば、その「絶対的なものの優位性の認識」は、あの啓示に固有な証明能力に基づく、「絶対的なものの権威」に対する「受認」であり「服従」であるからである。この、啓示に固有な証明能力に基づいて授与された啓示認識・啓示信仰における区別の受認と服従は、その現にあるがままの現実的な「われわれの現実存在」を、それと同時に、その現にあるがままの現実的な「われわれの思惟」を、滅失させてしまう「裁き」を惹き起こし、「裁き」を「実在」化させるのである。
 バルトは、『神の言葉』論で次のように述べている――イエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを認識し承認し確認するのである、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し承認し確認するのである、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを認識し承認し確認するのである。したがって、この神の側の真実としてのみあるイエス・キリストにおける啓示の場所は、<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」・「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」・「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所なのである。言い換えれば、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示の場所は、私たち人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所なのである。

 

 単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける「神の愛」は、「神ご自身の人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」(『ローマ書』)。「神の神性において、また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」(『神の人間性』)。啓示の真理によれば、人間は、自主性・無神性を本質としており、神の恩寵を嫌悪し回避する存在である。この人間に対して、神は、神の恩寵を嫌悪し回避する人間が生きるためにのみ、その死を欲し給う。しかし、人間はその神の要求(律法)に対してさえも、聞き従おうとはしない。したがって、「福音と律法の真理性」における福音の内容は、神の自由な愛によって、イエス・キリストご自身が、その神の要求に対して然りと言い、人間のために人間に代わって、人間の「神の恩寵への嫌悪と回避」に対する神の答えである刑罰(死)を、「唯一回なし遂げ給うた」(律法の成就)ところにある。すなわち、このインマヌエルの出来事は、私たち人間からは「何ら応答を期待せず・また実際に応答を見出さず」とも、「神であることを廃めず」に、何ら価値や力や資格もない「罪によって暗くなり・破れた姿」の「人間的存在を己の神的存在につけ加え、身内に取り入れ、それをご自分と分離出来ぬよう」に、「しかも混淆されぬように、統一し給うた」ということを内容としている、すなわち、「福音と律法の真理性」における福音の内容は、神の側の真実としてのみある、主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」を内容としているのである(『福音と律法』)。
 「聖書に従えば、……絶対的なものと相対的なものの併存は、(中略)われわれに対してイエス・キリストの中で啓示された万物の創造主の愛と忍耐について語ることによって、……この創造主の被造物について語ることによって」、「可能とされている」。「聖書の中で出来事として起こっていること」は、福音(神の側の真実としてのみある、「恵み深い神とその恵み」による人間の救い)を内容とする福音の形式である「神的な律法の宣言として、(≪その現にあるがままの現実的な≫)われわれの現実存在への介入」である。「聖書の中でなされている神の優位性の認識」は、神の側の真実としてのみある、「恵み深い神とその恵みによって救われた人間の共存という……思想を、創造主と被造物という思想の中で、……遂行することをゆるし、かつ命じる神的善き業についての認識」である。ここにおいては、「何も絶対化され」ることはないし、「何人も神化され」ることはない。なぜならば、単一性・神性・永遠性を本質とする、というイエス・キリストについての認識、「神の神性において」、という「神の人間性」についての認識、神の側の真実としてのみある「混淆されぬように、統一し給うた」、というあくまでも神の側の真実からする人間との共存についての認識――この啓示信仰(啓示認識)が授与された場合、人間の・人間的なものの・一切の人間的自然の「絶対化」や「神化」が惹き起こされることはないからである。したがって、もしも、人間の・人間的なものの・一切の人間的自然の「絶対化」や「神化」が惹き起こされた場合には、その事態は裁かれ・否定されるからである。このように単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト(「神の言葉の三形態」の第一の形態)における神の側の真実としてのみ「絶対的なものと相対的なものの区別がなされたこと」によって、聖書(「神の言葉の三形態」の第二の形態)は、「あとから初めて、自分勝手に絶対的なものの側に立つようになったのではなく、既に……初めから……聖書」はそこに「立っていたのであり、あの絶対的なものの側(≪「神の言葉の三形態」の第一の形態、神の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの、の側≫)から……既に語っていたのであり、まさにそのところからしてあの区別が……実際的になされたことによって……まことに、真剣に、なされうるものとなったのである」。聖書は、「一回的に、独一無比の仕方で、絶対的なものの側に立っており、それによれば聖書は確かに神の言葉」であるという「聖書原理」は、「この全く起源的な事情の、ただあとからの確認であろうとしているだけ」なのである。したがって、「聖書の人間的な言葉と神の言葉の間」には、それゆえに「被造物的実在それ自体と創造主なる神の実在の間」には、「<直接的>な同一性」は成立していないのである。したがってまた、「一方が他方に変化」することや、一方を「他方と混同」するということは決してできないことなのである。この神と人間との同一性は、「神の本質」にも、「人間の本質」にも、基づいていないのである。ここで、「人間の本質」に基づいていないとは、「聖霊は、人間精神と同一ではない」・「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」(『教義学要綱』)・聖霊によって更新された理性も聖霊ではない、からである、常に、そうあり続けるからである。また、「神の本質」に基づいていないとは、神は、聖性、隠蔽性・秘義性・不把握性、単一性・神性・永遠性、を本質としている、からである、常にそうあり続けるからである。それゆえに、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける人間性、神の人間性、は、神の言葉の受肉であって、その本質である神性の受肉ではない、また「神の神性」は神性であり続けるのであって、神の神性が神の人間性になったのではない。神においてのみ「実在であり真理」である自由、その自在であって他在としての神の自由における人間へと向かう神の他在性、すなわち神と人間との無限の質的差異の下で、「神によって特別に欲せられ、造られ、働き出された、その限り<間接的>な」、「神が人間に対してとられた決断と行為に基づいている<同一性>」(啓示に固有な証明能力、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて授与される、この啓示認識・啓示信仰)は、神の側の真実としてのみある「間接的同一性」、媒介的同一性のことである。したがって、人間が、人間の側から、恣意的独断的に、神の人間化や人間の神化を目指すことはできないのである。
 「カルヴァン」は、「キリスト(≪「神の言葉の三形態」の第一の形態、神の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの≫)の肉の中での神の現臨について語ったことを、人は、必要ナ変更ヲ加エテ、そのまままた預言者と使徒の言葉(≪「神の言葉の三形態」の第二の形態、キリストの復活を中心・基軸とした待望と想起、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」≫)の中での神の現臨に適用することができる」、と述べた。このカルヴァンの言葉は、預言者と使徒たちの言葉(「神の言葉の三形態」の第二形態、啓示の「概念の実在」)を、啓示に固有な証明能力に基づく啓示(「神の言葉の三形態」の第一形態、「啓示の実在」そのもの)との「間接的同一性」・媒介的同一性にあるものとして捉え認識し、「神の言葉の三形態」の関係と構造、秩序性、への連帯とそれを媒介・反復することの必要性を語っているのである。(80−85頁)

 

 ここでは、「神は神であることをやめ給わない」ように、「人間的なものは、人間的であることを止めはしない」のである。したがって、「神の人間性」と「預言者および使徒たちの人間性の間の人格の統一」はあり得ないことなのである。ここでも、『ローマ書』における「私が『方式』なるものをもてっているとすれば、……時間と永遠との『無限の質的差別』……、をあくまで固守した、ということである。『神は天にいまし、汝は地に在り』。私にとっては、この神とこの人間との関係、ないしはこの人間と神との関係が聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」という立場は、決して変節していないのであって、徹頭徹尾、貫徹され続けているのである。先ほど書いた、『教義学要綱』における「聖霊は、人間精神と同一ではない」・「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」という言葉も、神と人間との無限の質的差異に基づいた言明である。したがって、「神の栄光へと高められた人間性」であるイエス・キリストにおける人間性と人間の人間性も無限の質的差異においてあるものなのである。したがってまた、イエス・キリストにおける人間性は、すべてのキリスト者を含めたその現にあるがままの現実的な人間の人間性との本質的な差異性を持っているから、人間の人間性の成熟の極限に想定されるそれでもないし人間の意志的努力の極限に想定されるそれでもないのである。イエス・キリストの人間性は、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の子、神の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの)におけるそれである。したがって、バルトは、『ローマ書』において、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間「イエス・キリストにおける神の愛」は、「神ご自身の人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」、と書いたのである。したがってまた、バルトは、『神の人間性』において、「神の神性において」(前提)、「また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」と述べ、「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人は、今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」と述べたのである。このような訳であるから、『神学者カール・バルト』の訳者である蘇光正が、その「訳者あとがき」で、一面的皮相的に時系列的判断にだけ依拠して、「バルトが『聖霊』を口にする場合、それは『教会教義学』の第四巻(殊に第三部)以来ますます載然と、排他的にイエス・キリスト自身の霊的臨在またはその力をさし、したがって自然神学へのブルンナー的遡行(またはヘーゲル的哲学化)を許す『父の霊』は考えられていない」と断定的に述べているのであるが、この言い方は全くバルトの信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成を根本的包括的に原理的に認識し理解していない出鱈目な言い方なのである。バルトは、『神の人間性』において、次のように述べている――「第二の方向転換」としての「神の人間性」の「主文章」化は、「第一の方向転換」の「神の神性」の「主文章」化と「対立」関係にあるのではなく、その主文章化と副文章化とのベクトル変容は、あくまでもある時代状況に規定された言表なのである。したがって、「神の人間性」論は、ただ「神の神性において」を前提としたその神性を本質とする「神の人間性」が主文章化されたということであって、その背後に「神の神性」が保存される構造となっているのである。バルト自身、不可避的なある社会構成・支配構成・文化構成の時代状況のただ中で生き生活し喜怒哀楽し思惟し信仰し神学しているのであるから、啓示の弁証法に基づいてある時はその一方が「中心部から周辺へ、強調された主文章からさほど強調されない副文章へ」と退いたりするだけなのである。
 いずれにしても、預言者と使徒たちの人間性は、「神の栄光へと高められた人間性ではない」し、あくまでも人間の人間性でしかなから、「独立した仕方で自分だけで啓示することはできない」のであって、それゆえにあくまでも顕現された可視的な「イエス・キリスト(≪「神の言葉の三形態」の第一の形態≫)の人間性の中で起こった、起こっている(≪隠蔽性と顕現性という啓示の弁証法における≫)啓示を証しすること(≪「神の言葉の三形態」の第二の形態であること、啓示に固有な証明能力に基づいたイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」であること、啓示の「概念の実在」であること≫)ができるだけ」なのである。預言者や使徒たちは、徹頭徹尾、このことを啓示に固有な証明能力に基づいて啓示認識・啓示信仰して自覚していたのである。預言者や使徒たちは、この区別において、「啓示そのもの(≪「神の言葉の三形態」の第一の形態≫)の中で、啓示そのものと共に、立てられる」「啓示のしるし(≪「神の言葉の三形態」の第二の形態≫)として」、「直接的に、啓示そのもの(≪「神の言葉の三形態」の第一の形態≫)の中で、啓示そのものと共に、召された証人の証言(≪「神の言葉の三形態」の第二の形態、啓示の「概念の実在」≫)として」、「聖書」(≪「神の言葉の三形態」の第二の形態≫)も、ただ神においてのみ「実在であり真理」である自由な「神の決断と行為を通して導入された、人間的存在と神ご自身」との「間接的な同一性中に」、すなわち啓示に固有な証明能力に基づいて、「啓示の実在」そのもの(≪「神の言葉の三形態」の第一の形態≫)に信頼し固執し連帯してそれを介するという「間接的同一性」・媒介的同一性の中に、「立っている」のである。したがって、聖書(≪「神の言葉の三形態」の第二の形態≫)は、区別を包括した同一性(≪「神の言葉の三形態」の「隅のかしら石」・「かなめ石」として、その第一の形態≫)における「人間の言葉のしるし(≪「神の言葉の三形態」の第二の形態≫)の中での神の言葉(≪「神の言葉の三形態」の第一の形態≫)」なのである。
 「ところで第三のもの」は、すなわち「神の言葉の三形態」の第三の形態(教会の宣教)は、「神の言葉の三形態」の第一の形態(神の言葉、「啓示の実在」そのもの、イエス・キリスト)と、「神の言葉の三形態」の第二の形態(イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」、「啓示のしるし」、啓示との「間接的同一性」・媒介的同一性、聖書)、に信頼し固執し連帯して、絶えず繰り返し聖書に聞きそれを媒介・反復するという「関係の中で……存在する」ところの、客観的な信仰告白・教義である啓示の「概念の実在」・「啓示のしるし」における教会(「キリスト教会の宣教」、説教と聖礼典)のことである。私たち人間は、「神の言葉の三形態」の「第一の形態」(神の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの、イエス・キリスト、福音)を現実的に所有することができるためには、その福音を内容とする福音の形式である律法(神の要求・要請・命令)を必要とする。すなわち、啓示に固有な証明能力、イエス・キリストにおける啓示の出来事とそのキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事によって授与される啓示認識・啓示信仰を通した、「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通した、神の要求・要請・命令(律法)としての、その感謝をもった証言・証し・宣べ伝え、を必要とする。このことは、恣意的独断的にではなく、「神の言葉の三形態」の関係と構造、秩序性においてそれを媒介・反復することを通したキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、それを根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」を意味している。
 このように、私たち人間が、その「神の言葉の三形態」の「第一の形態」(神の言葉、イエス・キリスト、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの、福音)を現実的に所有することができるためには、神ご自身のその都度の自由な恵みの決断による啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に基づいた、預言者や使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(「神の言葉の三形態」の第二の形態、啓示との「間接的同一性」・媒介的同一性としての啓示の「概念の実在」)が必要なのであるが、その場合、媒介的統一性(「時の全くの厳格な相違性の中で、神の言葉は一つであり、同時的である」、すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする「イエス・キリストは、きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」)としての、第一次的・第一義的な「神の言葉の三形態」の「第一の形態」が、「隅のかしら石」・「かなめ石」・「キリスト・イエスご自身(エペソ二・二〇)」・「啓示の実在」そのもの、なのである。また、その場合、その「神の言葉の三形態」の「第一の形態」は、福音の宣教が義務づけられている・福音の宣教へと赴く教会(第三の形態)に対して、「聖書」(「神の言葉の三形態」の「第二の形態」)を授与するのである。なぜならば、教会に宣教を義務づけている聖書は、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての「啓示の実在」そのものであるイエス・キリストと共に、教会の宣教における原理だからである。したがって、教会は、想起と待望において、絶えず繰り返し、聖書に聞くことによって、教会とならなければならないのである、教会となり続けなければならないのである、なぜならば、イエス・キリストをのみ「かしら」とする・イエス・キリストにのみ信頼し固執する「まこと」の教会であることはできないからである――「個々の人間による和解の主体的実現という問題は、絶対に欠くことの出来ない問題」ではあるが、「イエス・キリストにおいて客観的に起った和解の主体的実現は、まず第一に教団において、イエス・キリストの聖霊の業として遂行される」(『カール・バルト教会教義学 和解論 T/1 「和解論の対象と問題」』)。
 ここで、「神の言葉の三形態」の第一の形態である「言葉が聖書(≪その第二の形態≫)となるということ」は、あくまでも「間接的同一性」・媒介的同一性としてのみそうであるのであって、聖書(その第二の形態)は、「言葉が肉となる(≪その第一の形態≫)ということと同一ではない。しかしまさにその一回性の中で……普遍的な意義を持つ受肉(≪「神の言葉の三形態」の第一の形態≫)は、(≪すべての人間がイエス・キリストにおける福音を現実的所有することができるために、≫)聖書(≪その第二の形態≫)となるということを、無条件的にあとに伴わなければならなかったのである」。啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に基づいてそうなのである。言い換えれば、神の言葉自身が持っている媒介的統一性に基づいてそうなのである。「神の言葉(≪単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの≫)は、それが肉となった(≪人間の歴史的形態、イエス・キリストの名、「神の言葉の三形態」の第一の形態となった≫)こと」によって、「預言者および使徒の言葉となった(≪啓示の「概念の実在」、「神の言葉の三形態」の第二の形態となった≫)」のであり、「主トシテノ彼にもともと固有である栄誉が、僕トシテノ彼らに与えられ」たのである。したがって、「神の言葉の三形態」の第二の形態である「聖書が教会(≪その第三の形態≫)を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのである」。したがってまた、教会は、@「正しい注釈」を、「最終的に……教会の教職の判決」や「間違うことはありえないものとして振る舞う歴史的――批判的学問」の「判決に、依存」してしまうことはゆるされないのである、A「福音が純粋ニ教エラレ、聖礼典が正シク執行サレルということ」がなされないままに、礼拝改革・社会的政治的実践・キリスト教教育とか、教会と国家および社会との関係とか、国際間の教会的な相互理解というような領域で、「何か真剣なことを企て遂行してゆくことができると考える」ことはゆるされないのである、B宣教の規準を、聖書と同時に、「最上の仕方で基礎づけられ、熟慮に熟慮を重ねられた人間的な判断」あるいは「哲学、道徳、政治」等におくことはゆるされないのである、C「特定の人種、民族、国民、国家の特性、利益と折り合」おうとすることはゆるされないのである、D「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求め」ようとしないで、「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストを、いっさいのものにまさって恐れ、かつ、愛すること、神を、大きな問題においても、小さな問題においても、彼がかってあり、いまあり、やがてあり給う権威のままに肯定し、是認すること、私たちの個人的、社会的生活を敢えて律して、すべての善きものを神から、神からすべての善きものを期待」しなければならないのである、E「不毛な反抗や反論を避けて」、「西でも東でも等しく通用し、西でも東でもひとしく稀であり、人々に好まれぬ福音に、無償の恩寵によって、素直に止まる」べきなのである、F「人間の公私の生活においては、絶えず新たな支配が行われるような仕組みになっている」・「国家は支配であり、文化は支配」であるから、「どのような国家形態にも、どのような文化傾向にも、無条件に『然り』と言」ってはならないのである、G「平和を維持するためにできる限りのことをしなければならない」、しかし、「このことは、平和主義者でなければならないということを意味しない。なぜならば、形而上学的一面的皮相的固定的抽象的な「平和主義は一つの絶対主義」であって、人間自身が対象化した一つの宗教的形態でしかないからである。「われわれは神には服従するが、一つの原理や理念(≪自由主義、マルクス主義、アメリカ、ソ連、中国、エリート主義、文明主義、エコロジー・その極限に想定される天然自然主義、理性主義、科学主義、感覚主義、教派、党派、学派、多元的党派主義、何々主義、等々≫)にはしない。したがって、われわれは最後の手段のために、(≪世界的動向の一面性だけを強調したグローバリズムの概念には民族国家の一国性の観点が抜け落ちているのであって、現実的には経済の世界性と民族国家の一国性という矛盾の中で、依然として一部国家支配上層の意思で動かすことができる軍事部門を持つ政治的近代国家・民族国家が存在するのであって、その限りは≫)戦争の可能性はあけておかなければならない」のである。あくまでもこの上で、バルトは、「スイス(≪自由および直接民主制と武装永世中立国のスイス、ほんとうは社会よりも国家を第一義・価値とする国家主義的社会から社会を第一義・価値とする社会主義国家への移行が国家の過渡的課題としてあるのだ、バルトが置かれた状況下での国家形態としては相対的にナチ国家よりはよりよいスイス≫)をナチズムからまもるために私は軍隊に参加」し、「両国を区分しているライン河にかかっている橋を護衛」するために、「もしもドイツのキリスト者の友人の一人が、その橋を爆破しようとしたら、私は射殺しなければならなかったであろう」、と述べたのである。「規準はただ方向を与えることしかできない。(中略)ある特定の瞬間になした決断はおそらく、もっとも重要なキリスト教の教義よりもっと重要であるかもしれない」――バルト教条主義者ではないのである、この決断をすべき時代を、バルトは、生きたのである。波風のない場所で、あるいは観念の共同性を本質とする国家の問題を事実的政治の場所で、綺麗事だけをしゃべっている、危機あるいは平穏を煽っている、知識人、メディア、神学者や牧師やキリスト教的著述家には十分な注意をした方がいいのである。なぜならば、知識人・メディアは、身近な例で言えば、法的言語や政策的言語を介して、財政赤字は政府債務残高のことであって、その赤字の責任は全面的に制度としての官僚・政治家・政府支配上層にあるにもかかわらず、その支配上層に対する徹底的な追及はしないで、その責任を消費税増税必要論で一般大衆・一般市民に転嫁することを煽るからである。したがって、かつて吉本隆明は、自らの戦争体験を自省することによって、一般大衆を戦争へと駆り立てその家族や親族や友人を死に追いやることに加担した知識人の敗北の在り方を、「国家の政策を、知識人があらゆるこじつけを駆使して(≪法的言語や政策的言語を介して≫)合理化し、それを大衆が知的に模倣し、行動では国家以上に国家を推進」し、支配(政治的国家・政治的権力)に直通していく大衆の存在様式を把握できなかった点、に置いたのである。この知識人の敗北の在り方は、現在もなお少しも変わっていないのである。このような訳であるから、もしも、人が、人間的な理性と力(意志的努力)とによって、ほんとうに、真剣に、誠実に、すべての人の幸福と戦争のない世界を追い求めとするならば、革命の究極像としてある、自らを含めた人間の<全的>成熟と法的政治的な観念の共同性を本質とする国家の無化を伴う、社会的現実的な人間の究極的総体的永続的な解放を必要とするのである。ほんとうは、このような究極像において、過渡的課題を考えなければ現実的ではないのである。究極的課題と過渡的課題とを架橋する作業が必要なのである。
 さて、バルトは、『神の言葉』論で次のように述べている――神の言葉は、「偶発的な同時性」、すなわち「特定のアノトコロデアノ時ニが、特定のココデイマ」となる、神の言葉は、「その都度、全く特定の一回的な、独一無比な」言葉である、しかしまた、神の言葉は、「神の口を通して語られて、同時的」である、このことは、神の言葉は一つであること、すなわち「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」イエス・キリストにおける連続性を意味している。この単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストの連続性における「同時性」が、「特定のアノトコロデアノ時ニが、特定のココデイマ」となる出来事の時間・空間のベクトル変容を可能とするのである。すなわち、そのイエス・キリストの「特定のアノトコロデアノ時ニ」において、バルトの「特定のココデイマ」は、預言者や使徒たちの特定の時空と交点を結び得るのである。「時の全くの厳格な相違性の中で、神の言葉は一つであり、同時的である(イエス・キリストは、きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない)」。
 このような訳であるから、聖書によって宣教を義務づけられている教会は、絶えず繰り返し、イエス・キリストに、具体的には聖書に、「神の言葉の三形態」に、信頼し固執し連帯して、それを媒介・反復しなければならないのである。イエス・キリストの教会は、牧師や神学者やキリスト教的メディア的著述家たちの恣意的独断的な言葉によって生きるのではなく、それ自身聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリス教に固有な類・歴史性)に信頼し固執して・それに聞き・それを媒介・反復することを通して、すなわち「神の言葉を通して造られ、神の言葉によって生きるのである」。教会(「神の言葉の三形態」の第三の形態)が、「本当に教会であろうと欲する時には、ちょうどイエス・キリストご自身(その第一の形態、「啓示の実在」そのもの)を見過ごしたり、通り過ごすことができないのと同じように」、聖書――すなわちその第二の形態、預言者や使徒たちのイエス・キリストについての「言葉・証言・宣教・説教」、啓示の「概念の実在」、を「見過ごしたり、通り過ごすことはできない」のである、「神の言葉の三形態」の第一の形態と第二の形態に信頼し固執し連帯しなければならないのである、第一の形態と第二の形態に絶えず繰り返し聞き・それをを媒介・反復しなければならないのである。「カルヴァンはこの認識」・この事柄を、「ナゼナラ、(≪ワレワレノ救イニカカワル≫)神ノ奥義……ハ(スデニ言ワレタトオリ)ソレ自体トシテ、マタソレ自身ノ性質ニオイテハ、見ワケルコトガデキナイカラデアル。タダワレワレハ、コレヲ神ノ御言葉ニヨッテノミ直視スルノデアル。コノ御言葉ノ真実サハ、カレノ語リタモウタトコロハ皆スデニ成就シタ、ト見ナケレバナラナイホド、ワレワレノユルガヌ確信デナケレバナラナイ」、というように定式化した。「神の言葉」が、啓示のしるしとしての「聖書(≪「神の言葉の三形態」の第二の形態≫)の中に現臨し、力を発揮する」ということは、神的な「事柄(神の言葉)」――すなわち単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリスト、「啓示の実在」そのもの(第一の形態)が、啓示の「概念の実在」(第二の形態)である人間的な「言葉(聖書)の中に現臨し、力を発揮することを意味している」のである。
 単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、啓示・和解)であるイエス・キリスト(「神の言葉の三形態」の第一の形態、「啓示の実在」そのもの)において、預言者的・使徒的人間の言葉――すなわち啓示のしるし(イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」)としての聖書(第二の形態)は、「イエス・キリストご自身と同様に、まことの神にしてまことの人間」――すなわち、神的側面と人間的側面との構造としてある「間接的同一性」・媒介的同一性として、「それ自身啓示に属しているところの啓示についての証言(≪啓示に固有な証明能力に基づいた、人間の言葉を介した啓示の「概念の実在」≫)であり、同時にまた特定の人間性をもつ歴史的な文書(≪宗教的、文学的、思想的、な文書≫)である」。この「聖書」が、「神の言葉の三形態」の第二の形態における「その現実存在の中で、……神の威厳と独一無比性を証ししている」のである。このことは、言い換えれば、人間が現実的に福音(イエス・キリスト、啓示・和解)を所有することができるために、神の言葉は、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」として、すなわち人間に向かって語られた神の自己啓示(神の自己認識・自己理解・自己規定)であるイエス・キリスト(「啓示の実在」そのもの、その第一の形態)と、また「聖書」の証言・証し(その第二の形態)および教会の客観的な信仰告白・教義(その第三の形態)としての啓示の「概念の実在」としてある、手で触れ・目で見・耳で聞くことができる可視性としてある、イエス・キリストにおける連続性としてある、ということである。『神の言葉』論に即して言えば、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」であるということである。このことは、純粋にオリジナルな信仰・神学・教会の宣教というものはない、ということを意味しているのである。したがって、バルトは、「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復すると言う仕方で、一方でキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」において「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」(『啓示・教会・神学』)つつ、他方ではある社会構成・支配構成・文化構成の時代水準のただ中で、「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(「神がすでに為した」「わたしの前にいるこの人々のために、キリストは死に、甦られた」――神、罪深きわれらと共に、すなわちイエス・キリストにおける完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和、という事柄の感謝をもった告白・証し・宣べ伝え)について認識し自覚しながら、その信仰・神学・教会の宣教を生き歩み、それに個性や時代性を刻んだのである。
 教会の宣教(説教と聖礼典)は、「それらが自ら神の言葉であることができるためには」、「聖書(「神の言葉の三形態」の第二の形態、啓示の「概念の実在」)の中での起源的な神の言葉(第一の形態、「啓示の実在」そのもの、イエス・キリスト)の範例、権威、妥当性を必要としている」、すなわち第一の形態と第二の形態に信頼し固執してそれを媒介・反復を必要としている。そして、神の言葉(「神の言葉の三形態」の第一の形態、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの、イエス・キリスト、福音)は、人間がその福音を現実的に所有することができるためには、すなわち「聖書の中で証しされている神の起源的な言葉が現実性を持」つためには、聖書(第二の形態、啓示の「概念の実在」)が、教会の宣教(第三の形態、説教と聖礼典)において「読まれ、理解され、注釈され」、「宣教」されること、が必要であるから、教会にそのことを「欲している」・要求している・命じている、のである。言い換えれば、そのような仕方でなされる、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、それと共に、その「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」を「欲している」・要求している・命じている、のである。したがって、もしも教会が、内的に「その本質から」教会ではない時、「それは、……教会があまりにも少ししか聖書の言葉のもとで生き」ていないからであり、「生きなかったからである」。言い換えれば、教会が、絶えず繰り返し正しい仕方で聖書を「読」み、「理解」し、「注釈」し、「宣教」しようとするなば、それゆえに聖書を恣意的独断的に支配しようとせず、聖書の「言葉の下で生きよう」とするならば、その時にはほんとうに教会は、「すべての民にとって、教会の壁の内部にいる人々にとってばかりでなく、また教会の壁の外部にいる人々にとっても、慰めと希望を与える場所となり、またこの世にあって、まことの尊敬をかち」とることができるし、「尊敬をかちとった」、と言うことができるのである。この時初めて、「神の言葉の三形態」の第一の形態――「啓示の実在」そのもの、神の側の真実としてのみある啓示の客観的現実性・啓示の客観的実在、イエス・キリストにおける完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和――と、第二の形態――啓示の「概念の実在」、預言者や使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」――、に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通した、イエス・キリストにおける連続性に信頼し固執し連帯した、教会の宣教(第三の形態、イエス・キリストにおける福音の告白・証し・宣べ伝え、客観的な信仰告白・教義、啓示の「概念の実在」)は、その教会の宣教における単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の子、神の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」・「キリスト教使信の中心」は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの現実的な不信・非キリスト者(教)・非知、全人間・全世界・全人類に対して完全に開かれるのである。(85−89頁)

 

(6)次に述べる「限界設定」において、「われわれは」、「教会の中で、教会と共に」、聖書は、「神の言葉の三形態」の第二の形態として、すなわち第一の形態のしるし・第一の形態の「間接的同一性」・媒介的同一性として、@「法廷」としての「優位性を持つ、ということを信じる」、A「神の啓示についての起源的な、正規の証言として、神ご自身の言葉である、ということを信じる」。
 この「限界設定」についてであるが、@の「持つ」とAの「である」ということは自由な神の「神的な処置、行為、決断」におけるそれについての「言明である」から、それは――すなわちこの「限界設定」は、人が「見渡すことができ」・「処理することができる事柄について」の「言明ではない」、人間の自由事項・決定事項についての言明ではない、という点にある。すなわち、それは、「われわれが、聖書に対して、この優位性を、神の言葉としてのこの性格を、与えることができる能力と資格を持っているということを言っているのではない」、という点にある。なぜならば、神に敵対し神に服従しないその現にあるがままの現実的な私たち人間は、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力」を一切持ってはいないからである。神の言葉は、あくまでも、その都度の神の自由な恵みの決断において、またその隠蔽と顕現において、それゆえに啓示に固有な証明能力に基づいて、「われわれのところに来」る。この神の聖性、神の隠蔽性・秘儀性・不把握性とは、私たち人間のその啓示認識が、常に終末論的限界の前に立たされているということである。したがって、神の言葉が「人間によって信じられる……出来事」・信仰の出来事は、徹頭徹尾、「人間自身の業」ではなく、「神の言葉自身」、一回的な独一無比のイエス・キリストにおける啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎにおいてのみ可能となるのである。すなわち、「言葉を与える主」は、同時に、「信仰を与える主」である。このように、神ご自身が神と私たち人間とを架橋されないならば、全く不信仰で罪に穢れたその現にあるがままの現実的な私たち人間は、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰、啓示の「概念の実在」、を持つことはできないのである。したがって、「われわれがこれらの言明をあえてなす時、この対象から既に下された神の判決に対する服従の中で、この対象から再び下されるであろう神の判決に対する用意の中で、あえてなすのである」。なぜならば、教会の宣教における語りが、牧師や神学者の語りが、キリスト者の語りが、絶えず繰り返し聖書に聞いている語りであるのか、それゆえに「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないか、ということは、神ご自身」の決定事項なのであって、私たち人間の決定事項では全くないからである。東京神学大学の実践神学者の小泉健が、「神の言葉の三形」の第一の形態(神の言葉、イエス・キリスト、「啓示の実在」そのもの)と第二の形態(啓示に固有な証明能力の基づく預言者や使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書、人間の言葉を介した人間が人間的に所有する人間の、啓示の「概念の実在」)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することなく、第一次的・第一義的にルドルフ・ボーレンの「神律的相互関係」の概念に依拠して、「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」、と直截的・断定的に聖霊や聖霊の言葉を人間の自由事項・決定事項として実体化させて述べている時、その在り方は、その最初から誤謬は必然となるのである。その場合、彼らの<実践>神学は、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」に過ぎないものとなるのである(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)。バルトは、『神の言葉』論で、単なる知識と啓示<認識>(啓示信仰)を厳密に区別して、次のように述べている――「言葉を与える主」は、同時に、「信仰を与える主」である。したがって、聖書の中で証しされている教会の宣教の課題である「啓示の実在」そのものであるイエス・キリストの出来事の宣べ伝えを目指すことのない<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返す「単なる知識」としての形而上学的な教義学は、「それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方」のものであっても、その教義学は教会の一つの機能としての「教義学としては<非学問的>」なのである。
 聖書(「神の言葉の三形態」の第二の形態、啓示の「概念の実在」)は、啓示(第一の形態、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの)の証言として、啓示のしるし・啓示との「間接的同一性」・媒介的同一性として、@「法廷」としての「優位性を持つ」、A「神の言葉である」、と言う時、「『持つ』(≪現在≫)は先ず第一に『聖書は持っていた』(想起、過去)と『聖書は持つであろう』」(待望、未来)に、また「『聖書は……である』(≪現在≫)は『聖書は……であった』(≪想起、過去≫)と『聖書は……であるであろう』」(≪待望、未来≫)に、すなわち「われわれがこの現在について何かを知り、語ることができる、想起と待望」に「分解されなければならない」。「この注釈の中でだけ、これら二つの言葉は、われわれがここで、事実知ることができるし、語ることができるところのことに対応する」。「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」し、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」である。「神が神的な自由と優越性と力の中で自ら決意し、意志し、為し給うことであるがゆえに」、神の側の真実としてのみやってくるところの「現在」、「われわれがこの現在について何かを知り、語ることができる、想起と待望」に「分解されなければならない」とは、啓示に固有な証明能力、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造、秩序性、に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することが肝要である、ということである。言い換えれば、そこにおいて、「すべての以前と以後においても」「同一の方であり給う」イエス・キリストにおいて、未来(キリストの再臨、終末、救贖・完成)を考えること・待望することは過去(キリストの復活)を考えること・想起することであり、過去(キリストの復活)を考えること・想起することは未来(キリストの再臨、終末、救贖・完成)を考えること・待望することであると同時に、「成就された時間」の前の過去(旧約聖書的な待望の時間、「キリストの死」と「キリストの生涯」)を考えることでもあるのである。この「出来事の実在と真理」には、「既に過ぎ去ってしまったもの」・「これから先未来に初めて起こるであろうもの」・「想起だけであったり」するもの・「待望だけであったりするもの」・「現在を何らかの仕方で否定してしまうすべての方法」・「現在をすべての種類の過去と未来へと解消してしまうすべての方法」、における形而上学的な一面性皮相性固定性抽象性空論性は全く「何もない」のである。言い換えれば、「聖書論と共に全教会教義学」は、「教会の宣教の説教と聖礼典は、「この出来事と真理」のまわりを「まわっている」。なぜならば、神の言葉は、「人間の現実存在の内部」・人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍・人間の感情や理性や実存や意志・理性主義や科学主義やエコロジーの極限に想定される天然自然主義や感覚主義・人間論や人間学的な哲学原理や認識論や世界観の中にはないからである
 バルトは、『神の言葉』論で次のように述べている――@アウグスティヌスやハイデッガーにおいては、「自分で時間を創造する」ことによって「時間」を持つ。しかし、彼らの時間概念は、聖書においては「『失われた』時間」・「否定された時間」・「否定的判決の時間」であり、「実在の時間」である「イエス・キリストにおける啓示の時間」から「『攻撃』された時間」である。それに対して、イエス・キリストの時間・「時間の主の時間」は、問題に満ちた非本質的な失われた「われわれの時間」の中で、「実在の成就された時間」である。ここに、「神的な」「まことの現在」まことの「過去と未来が存在する」し、「神の言葉」がある、A神の言葉は、「偶発的な同時性」、すなわち「特定のアノトコロデアノ時ニが、特定のココデイマ」となる。神の言葉は、「その都度、全く特定の一回的な、独一無比な」言葉である。しかしまた、神の言葉は、「神の口を通して語られて、同時的」である。このことは、神の言葉は一つであること、媒介的統一性を持っていること、すなわち「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(性質・行為・働き・業、神の子、神の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの)であるイエス・キリストにおける連続性を意味している。このイエス・キリストの連続性における「同時性」が、「特定のアノトコロデアノ時ニが、特定のココデイマ」となる出来事の時間・空間のベクトル変容を可能とするのである。すなわち、イエス・キリストの「特定のアノトコロデアノ時ニ」において、バルトの「特定のココデイマ」は、預言者や使徒たちの特定の時空と交点を結び得るのである。「時の全くの厳格な相違性の中で、神の言葉は一つであり、同時的である(イエス・キリストは、きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない)」。
 「われわれは……この出来事を常にただ意図する〔目指す〕ことができ、ただ注釈することができるだけである……」。(89−92頁)

 

 さて、新約聖書は、「聖書そのものの優位性(≪「法廷」性≫)と特性(≪「神の言葉」性≫)について……二つの箇所」で、「先ず旧約聖書」を対象として語っているのだが、このことは、「その原則性」と「いずれの著者の意図においても、直ちに〔聖書〕全体に対して、すなわち新約聖書の啓示証言に対しても、適用されることができる」。
 「Uテモテ三・一四−一七」でパウロはテモテに対して、「イエス・キリスト(「神の言葉の三形態」の第一の形態、神の言葉、「啓示の実在」そのもの)の中に基礎づけられ、イエス・キリストに向けられ、イエス・キリストを通して(≪イエス・キリストにおける啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて≫)現実のものである信仰へと導く力を持つことを、(≪テモテが幼い時から親しんだ≫)聖書自身(第二の形態、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」)が実証してきたということを振り返り見ながら」、すなわち想起しながら、「自分が学んで確信しているところにいつも『とどまっている』よう」に語り・「要求している」。そして、「さらに続けてパウロは、……(≪テモテが幼い時から親しんだ≫)聖書こそが、あなたに対してまた、『教え、いましめ、ただしく、義に導くのに』有益(≪「最も正確な仕方」≫)であるであろう」と「確約している」。ここでは、そのように聖書(「第二の形態、エス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」)を想起することは、キリストの復活を「真中」・中心・基軸として、キリストの再臨を待望することでもあるのである。次に、聖書は「すべて神の霊の導きによる」という命題は、「全体にとって決定的」なことであって、聖書は神の霊によって「支配されている」ということ、またそのことは「積極的に、神の霊を……呼吸」させ「認識させつつ、ということである」。このことは、「神ご自身が自由になし給うこと、神ご自身の行為および決定、としてのみ理解することができ、それゆえに、それは……われわれには解明することができない神の自由な恵み……の秘義を強調し、境界を設定(≪「限界設定」≫)すること」である。言い換えれば、神の聖性、神の隠蔽性・秘義性・不把握性ゆえに、その啓示認識・啓示信仰は、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてのみ可能であるということであり、それゆえにイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である聖書は、ある時代水準における人間の言語や知識を媒介していることは確かなことではあるが、単なる知識に基づいているのではなく、その啓示に固有な証明能力に基づく啓示認識・啓示信仰に基づいているということである。
 「考察されるべきもう一つの……Uペテロ一・一九−二一」の箇所の「すぐ前のところ(一六−一八)」には、「彼自身イエス・キリストの大いなる出来事を目撃した証人であったという事実と並べ」て、「預言の言葉」が強調して置かれている。この「預言の言葉」は、「目撃したことを思い出す」想起と「来たりつつある夜明け」の待望を念頭において、「夜が明け明星がのぼってあなた方の心の中を照らすまで暗闇に輝くともしびと呼」ばれている。この「聖書の預言」は、「聖書の預言自身をして解釈せしめ、規定せしめる時初めて、正しく読まれるし、……暗やみに輝くともしびである」。なぜならば、「聖書の中で人々」は、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第三の存在の仕方(救済)である(≪聖霊の注ぎによって≫)「『聖霊に感じて』語ったからであり、(≪それゆえに≫)『神によって』語ったからである」。このような訳であるから、信仰・神学・教会の宣教は、聖書に面して、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して、「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」のであるから、絶えず繰り返し「別の言葉で同一のことを言う」ようにしなければならないのである。

 

 「これら両方の箇所」の決定的で中心的な事柄は、「聖霊こそ」が、「聖書の中で語られていること」――すなわち「書かれていること」・「啓示されてあること」の、「本来的な創始者である」ということである。啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)は、それ自身、単一性・神性・永遠性を本質とする、徹頭徹尾、神の側の真実としてのみある、それゆえに一切の天然自然や全人間の身体と精神を介した普遍的で実践的な全自然との相互規定的な対象的活動(肉体的身体的および精神的意識的な人間の類的な活動や生活)によって全く左右されることのない、啓示の客観的現実性・啓示の客観的実在であるイエス・キリストの霊である聖霊の業なのである。『神の言葉』論によれば、聖霊において、父と子(≪神的対関係≫)は、愛に基づく完全な共存的な「交わり」(≪神的共同性≫)においてある。すなわち、単一性・神性・永遠性を本質とする聖霊(救済主)は、その共存的な「交わり」の中で、「父は子の父」・「言葉の語り手」(啓示者)であり、「子は父の子」・「語り手の言葉」(啓示)であるところの「行為」・性質・働き・業(「書かれていること」・「啓示されてあること」)である。ここに、神は愛・愛は神であることの根拠がある。「愛は神にとって、最高の法則であり、最後的な実在」である。愛は、自由がそうであったように、先ず以て神自身においてのみ「実在であり真理」である。したがって、ほんとうの意味での人間における愛の概念は、啓示に固有な証明能力に基づいて授与されるこの神の愛の啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通した自己認識・自己理解・自己規定としてやってくるのである。この聖霊は、単一性・神性・永遠性を本質とするところの、三度目の最後的な神の存在の仕方(神の第三の存在の仕方)として、神にとって最高の法則(愛)であって、その愛に基づく父の存在の仕方(神の第一の存在の仕方)と子の存在の仕方(神の第二の存在の仕方)の「交わり」であり、神と人間との「交わり」の根拠である。なぜならば、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の子、神の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける「神の愛」は、「神ご自身の人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」からである(『ローマ書』)。
 聖霊こそが、私たち人間に対して、啓示認識・啓示信仰の主観的現実化・主観的実在を可能とする。バルトは、『神の言葉』論で、次のように述べている――聖書によれば、聖霊は、私たち人間の「救済主」である。しかし、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第三の存在の仕方(性質・行為・働き・業、救済、「書かれていること」・「啓示されてあること」)である「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊は、「救済主」であるだけでなく、単一性・神性・永遠性を本質とすることにおいて、「子とともに、子の霊として、また和解者」でもあり、「父および子とともに創造主なる神」でもある。新約聖書の「イエスは主である」という「証言」は、単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストを、「事実の承認」として・「思惟の初め」として語っている。したがって、この「イエスは主である」・「子を通しての父を、父を通しての子」を信じるこの「信仰」・神との出会いであるイエス・キリストとの出会い――すなわち「信仰の出来事」は、キリストの霊である聖霊の注ぎによるのである。この信仰の出来事は、新約聖書において、「啓示の出来事の中での主観的側面」・「聖霊の注ぎ」による人間的主観に実現された神の恵みの出来事、啓示認識・啓示信仰の主観的現実化のことである。したがって、私たちは、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいた、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である聖書を通して、聖霊の注ぎにより、イエス・キリストにおける完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和についての啓示認識・啓示信仰を所有することができるのである。この救済・平和を「信仰の中で持つ」ことは、「約束として持つ」ことである。「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」。「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」(人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍)にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてのみある啓示の客観的現実性・啓示の客観的実在、「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである。
 このことを認識し確証した「預言者と使徒たちは、その啓示の証人としての機能の中で」、彼らを「遣わし、全権を与えた」方――すなわち「ヤハウェあるいはイエス・キリスト」の「代理をなしつつ、また委任を受けつつ、語っているのである」。「彼らは第二次的ナ著者(≪「神の言葉の三形態」の第二の形態、啓示の「概念の実在」、啓示との「間接的同一性」・媒介的同一性≫)として語っている」のである。言い換えれば、「遣わされた」彼らは、聖霊の注ぎによって、その現にあるがままの現実的な人間性を用いながらも、また彼らが生きたその時代水準に規定された言語や知識を用いながらも、ただ「神の言葉の三形態」の第一の形態(啓示・和解、イエス・キリスト、「啓示の実在」そのもの)にのみ信頼し固執し連帯して、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」として語った(書いた)のである。したがって、「(カルヴァンのUペテロ一・二一の注釈)ペテロガ預言者タチハ聖霊ニ感ジタト言ッテイルノハ、……正気ノ状態デナクナッタカラデハナク、……彼ラガ出シャバッテ自分自身ノ意思ヲ少シモ述ベヨウトセズ、……彼ラノ口ノ中ヲ支配シテイル聖霊ノ導キニ全ク従ッテイタカラデアル」、という注釈は「正しいと言わなければならない」のである。ここにおける「聖霊に感じて」とは、「特別な奉仕へと選ばれ、召された人間の特別な服従の行為の何ものも意味することはできない」それである。すなわち、聖霊の注ぎにより、この神の側の方からやってくる啓示の証言として語り・書くという「服従の行為」は、「一回的な、また時間的に限定されている啓示に対する彼らの関係の特殊性」――すなわち「目で見、耳で聞いた」「直接性から成り立っていた」。そして、この彼らの「服従の行為」は、現実的な人間としての「彼らの自由の中で起こった」、すなわち人間的な自然・生理――自由・意志の中で起こったそれであるから、彼らの服従はほんとうの服従であり得たのである。なぜならば、彼らは、彼らのその自由において、語る(書く)という仕方で、啓示証言へと赴くということをしなくてもよかったからである。しかし、彼ら預言者や使徒たちは、彼らのその自由において、不可避的におのずから、そうした「服従の行為」へと赴いたのである。したがって、こう言えるだろう――その現にあるがままの現実的な人間としての「彼らの自由、彼らの自己規定」は「除去されていない」、というように。すなわち、「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示(和解)に感謝を持って信頼し固執する啓示認識・啓示信仰であるから、それゆえにその時初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができるから、その「ある特定の人間」は、不可避的におのずから、「服従の行為」へと赴く、というように。この服従が彼ら預言者や使徒たちの自由の中で起こったとすれば、「彼らはそれぞれ自分の心理学的、伝記的、歴史的なもろもろの可能性の範囲内」で、すなわちその現にあるがままの現実的な人間存在における「完全な人間性をもっ」た啓示の証人として、「考え、語り、書いた」、と言うことができる。したがって、この「特別な機能を持つ」彼らの服従は、彼らが生きた、社会構成・支配構成・文化構成の時代水準に規定されたところでの「彼ら自身の生の行為」として、資質的時代的な制約等々、人間的な「限界」性・「限定」性を持ったそれなのである。なぜならば、「義トサレタ罪人」という啓示認識・啓示信仰を授与された彼らであれ、誰であれ、その現にあるがままの現実的な人間は、ある歴史的現在に生誕し、その類・歴史性のただ中で個の現存性を生き死んでいく者だからでる。

 

 さて、三位一体の神における単一性・神性・永遠性を本質とする神の第三の存在の仕方(救済)である聖霊の注ぎを受け・「霊感を受け」て、そうした「特別な奉仕へと選ばれ、召された人間の特別な服従の行為」は、「第一次的ナ権威(≪「神の言葉の三形態」の第一の形態、神の言葉、「啓示の実在」そのもの、啓示・和解、イエス・キリスト、の権威≫)のもとに、神の支配のもとに、置かれ、聖霊によって包まれ、支配され、うながされ」たそれである。したがって、聖霊の注ぎを受けて・「霊感を受けて」ということを、預言者と使徒たちの理性・思惟の働きにだけ「制限したり」、預言者的な「体験にだけ、制限」したりすることはできないのである。すなわち、「霊を受けて」・聖霊の注ぎを受けては、啓示に固有な証明能力、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の第二の形態(啓示の「概念の実在」、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書)は、第一の形態(神の言葉、「啓示の実在」そのもの、啓示・和解、イエス・キリスト)にのみ信頼し固執し連帯してそれを介した「間接的同一性」・媒介的同一性であるように、第三の形態における啓示認識・啓示信仰(説教と聖礼典としての教会の宣教、客観的な信仰告白・教義、啓示の「概念の実在」)の授与は、その第二の形態に信頼し固執し連帯して絶えず繰り返しそれに聞き・それを媒介・反復することを通してのみやってくる、という中心的な「秘義」を言い表している。聖霊は、復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である。聖霊は、「啓示への個人的な参与を保証する」。パウロにおいて、「霊にあって」とは、「救いの福音を聞き、信じるようにさせる霊」・「知恵と啓示の霊」による「神の啓示への参与」、すなわち聖霊の注ぎによる信仰の出来事における「人間の思惟、行為、語ること」を、「主観的に表示している概念」である。また、「キリストにあって」とは、「啓示の実在」そのものであるイエス・キリストにおける出来事と「全く同じ事柄を、客観的に表示している概念」である。このような訳であるから、「霊感を受けて」・聖霊の注ぎを受けてという聖書的概念は、「われわれに現在(≪失われた・否定された・否定的判決を受けた・問題に満ちた非本質的な失われた人間の時間としての現在に対する、実在の時間・実在の成就された時間である時間の主の時間、イエス・キリストにおける啓示の時間、救済史、永遠、イエス・キリストにおける完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和≫)を、われわれ自身の身に起こる出来事(啓示に固有な証明能力、啓示の出来事と信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰の授与)を、換言すれば、聖書はあの(≪法廷としての≫)優位性を持つ、聖書は神の言葉である、ということを指し示す」。この「霊感を受けて」・聖霊の注ぎを受けてという聖書的概念は、「まさに……神がその証人たちの人間性の中でなし給うことを記述している」ということを指し示している。また、この「霊感を受けて」・聖霊の注ぎを受けてという聖書的概念は、「聖書が現にあったし、現にあるであろうところのことを指し示」している。そして、ここにおいて、聖書は、想起と待望を念頭において、「現にあるところのことを指し示す」。ここにおいて、聖書は、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを指し示す、<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」・「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」・「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」ことを指し示す。ここにおいて、聖書は、私たち人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所は、単一性・神性・永遠性を本質と神の第二の存在の仕方(啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示の場所だけであることを指し示す。ここにおいて、聖書は、「自分で時間を創造する」ことによって「時間」を持つというハイデッガーやアウグスティヌスの時間は、聖書においては「『失われた』時間」・「否定された時間」・「否定的判決の時間」であり、「実在の時間」である「イエス・キリストにおける啓示の時間」から「『攻撃』された時間」である、ということを指し示す。
 バルトは、『説教の本質と実際』において、「聖霊が(あるいは別の霊であっても)言葉を吹きこむこととか、あるいは一つの構想を持っていることなどあてにしてはならない」、「説教は語ることであるが、(絶えず繰り返し、イエス・キリストに、具体的には聖書に、聞くこと、もっと言えば、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性である「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して)……一語一語準備し、書き記しておいたもののこと」である、と述べている。そして、次のように述べている――「説教者が、実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言いつくしていない(≪人間の感覚や知識を内容とする経験やさまざまな情報が不足している≫)、と考えるようなことがある限り、彼は、この信頼、信仰を持っておらず、真に信仰によって生き」ようとしていないのである。福音は、「われわれの思考や心情の中にあるのではなく、聖書の中にある」から、私たちは、「思想」、「最高の習慣、最良の見解、そのようなものいっさい」を、聖書に「聴従」することの前で、「放棄」しなければならない。その「聖書は(≪神のその都度の自由な恵みの決断による啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて≫)神の言葉となる」ところで、「聖書は神の言葉なのである」。すなわち、聖書に「聴従」するために、その神の言葉の「出来事」の運動の中において、聖書によって導かれなければならないのである。説教者にとって、「彼らに語らなければならない彼ら自身に関する真理」は、「神がすでに為した」「わたしの前にいるこの人々のために、キリストは死に、甦られた」――神、罪深きわれらと共に、ということである、「彼らの生活がイエス・キリストの中に根拠と希望」を持っているいうことである。
 「聖書は神の言葉である」と「信じるという命題」における「信じる」とは、「認識すること」、「明らかに聞くこと」、「考えること」、「統覚すること」、対象を理性・思惟・自己意識において対象的に認識すること、「それからまた語り、行為すること」、その認識した対象を告白し証し宣べ伝えること、である。この信じることは、人間の「自由な……生の行為である」。しかし、この「信じる」という人間の「自由な生の行為」は、神と人間との無限の質的差異における神、聖性としての神、隠蔽性・秘義性・不把握性としての神、それゆえにこの神との出会いであるイエス・キリストとの出会い・「イエスは主である」と信じる信仰の出来事、また「子を通しての父を、父を通しての子」を信じる「信仰の出来事」は、啓示の出来事に基づいた聖霊の注ぎによるということに「条件づけられ、規定されている自由な生の行為である」。キリストにあっての神においてのみ「実在であり真理である」自由についての啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自由の自己認識・自己理解・自己規定における「自由な生の行為」、すなわち媒介的自由における「自由な生の行為」である。この信仰の出来事が、新約聖書において、「啓示の出来事の中での主観的側面」――すなわち「聖霊の注ぎ」による人間的主観に実現された神の恵みの出来事・啓示認識・啓示信仰の主観的現実化のことである。したがって、神の側の真実としてのみある、イエス・キリストにおける完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和は、終末論的な啓示認識・啓示信仰として、聖霊の注ぎによって、神の側の方からやってくるのである。西洋近代を頂点とした進歩史観はすでに時代状況がゆるさないということを念頭に置いた上で、前回(その3−1)書いたマルクス自身の革命の究極像には正当性があるのであるが、そのためには人間の全的成熟、すなわち人間の精神の完成を含めた人間の全的更新が必要なのであるが、果たして、人間は、人類は、そこへと向かっていたであろうか、向かっているであろうか、向かっていくであろうか? 
 このような訳で、信じるということは、恣意的独断的に、「対象を自分で勝手に支配する〔式の〕認識すること、知ること、聞くこと、統覚すること、語ること、行為することではな」いのである。それは、神と人間との無限の質的差異、神の隠蔽性・秘義性・不把握性、終末論的限界、の下で、信じること、すなわち「対象によって支配された認識すること、知ること、聞くこと、統覚すること、語ること、行為することである」。このような仕方で、聖書は、「自分自身神の言葉である」という「間接的同一性」・媒介的同一性を「既に証明した」のであり、それであるから「われわれはそのことに基づいて聖書をそのようなものとして認識することができるし、認識しなければならない」のである。したがって、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」としての聖書(啓示の「概念の実在」、「神の言葉の三形態」の第二の形態)は、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての啓示の実在そのものであるイエス・キリスト(「啓示の実在」そのもの、啓示・和解、神の言葉、「神の言葉の三形態」の第一の形態)と共に、教会の宣教における原理なのである。したがってまた、「聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのである」。このことは、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に基づいた、「神の言葉そのものの事柄」である、また聖霊の注ぎによる信仰の出来事(啓示認識・啓示信仰)の事柄である。「この奇蹟」を、「われわれは自分で前提することができないのである」、自分で自由につくり出すことはことはできないのである。ただ、「われわれは(≪神のその都度の自由な恵みの決意・行為・決断に基づいて惹き起こされる啓示の出来事と信仰の出来事という≫)その奇蹟」を想起することができる、「その奇蹟」待望することができる。この奇蹟の想起と待望は、私たち人間に対して、次のことを認識させ自覚させる――すなわち、私たち人間は、「神の言葉を認識するための……いかなる能力も器官も」持っていないということ、聖書は、啓示の「しるし」として、イエス・キリストの「高められた、栄化された人間性」とは区別された、「人間的、時間的な言葉」として、「条件づけられ、制限されている」ということ、すなわち聖書は、啓示の「<直接的>な伝達の器官」ではなく、「間接的同一性」・媒介的同一性としての啓示「証言」(「神の言葉の三形態」の第二の形態――すなわち第一の形態としての「啓示の実在」そのものであるイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」)であるということ、を認識させ自覚させるのである。
 このような訳であるから、人は、一方で、聖書の言葉を、「単なる人間の言葉として読むことができるし、評価することができる」、「しかもその世界観的な、歴史的な、道徳的な内容に関してばかりでなく、またその宗教的な、神学的な内容に関しても批判にさらすことができる」、すなわち「人は聖書に躓くことができるのである」。それだけではなく、人は、他方で、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力――啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事という「奇蹟」を後景にしりぞけてしまった場合、「聖書は神の言葉である」という一面的固定的な主張や観点に依拠して、人間的な理性や意志力による信の一方通行的な往相的上昇への誘惑において「聖書に躓かざるを得ないであろう」。私たちは、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力――啓示の出来事と信仰の出来事の「奇蹟」を想起し待望する時、次のように言うことができるだけである――@「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)、A「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)。(97−101頁)

 

 バルトは、「神ト神ノ書物トハ二ツノ違ッタモノデアル」がゆえに、「単に読むことが必要であるだけでなく、また正しい注釈者と啓示者、すなわち聖霊(≪啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に基づいた、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第三の存在の仕方(救済)である聖霊の注ぎによる信仰の出来事≫)が必要であるところの書物」である、すなわち「聖霊が聖書を開示しないところ、そこでは結局、聖書は理解されないままとどまる」、「キリストを認識しない者、その者はたとえ福音を聞き、あるいは聖書を手にするとしても、福音と聖書を少しも理解しないであろう。なぜならば理解なしの福音は、決して福音ではなく、キリストを認識せずに聖書を持つことは決して聖書を持つことにならないからである」、というルターの言葉を引用している。このように聖書を理解しないのは、それは、次の理由による――すなわち、「ヨハネ自身……彼ハ霊感(≪聖霊の注ぎ≫)ヲ受ケタノデ、アルコトヲ語ッタノデアリ、霊感(≪聖霊の注ぎ≫)ナシニハ何モ語ラナカッタデアロウ。彼ハ確カニ霊感(≪聖霊の注ぎ≫)ヲ受ケタ人間デアッタガユエニ、……スベテデハナイガ、タダ人間トシテデキルコトヲ語ッタノデアル」、というアウグスティヌスの言葉にある、聖霊の注ぎによる信仰の出来事についての認識の欠如による。言い換えれば、啓示は、神の側の真実としてのみあるイエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事という、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力によって、「間違イヲ犯ス人間ヲ通シテ宣ベ伝エラレテモ、ナオ十分ナ信仰を信者ノ心ノ中ニ造リ出スコトガデキル(Fr.ブルマン)」。したがって、この「霊感」・聖霊の注ぎ、聖書の「神的無謬性」と、聖書の「人間的可謬性」との区別は、「原則的に貫徹されなければならないこと」なのである。この原則は、「古プロテスタント正統主義」における「特に聖書の明瞭サと完全サについての教えの中で、ほとんど全く看過されてしまった」。
 神の啓示と出会った預言者や使徒たちは、その時代の社会構成・支配構成・文化構成の水準のただ中で、「それぞれ自分なりの仕方で、それぞれの程度に応じて、自分たちの時代および環境の文化を身につけていたのである」。聖霊の注ぎを受けた彼らは・「彼ハ、タダ人間トシテデキルコトヲ語ッタ」のである、その時代における「世界像および人間像」に規定されながらそうしたのである。このことを、「われわれは……見過ごしたり、否定したり、また変えることはできないのである」。したがって、「もし人が根本的に語りたいと思うならば、聖書の著者の『誤謬』について語るかわりに、ただ彼らの『誤りうる可能性』について語る方がよい」のである。なぜならば、「われわれの時代の見方や知識も、結局、一般的な世界像および人間像」であって、歴史的現在における人間的自然としてのそれであって、「決して神的なものではないし」、また「ソロモン的なものでもないからである」。「それ故に、この躓きにもかかわらず(≪恣意的独断的にではなく、終末論的限界の下で、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて≫)信じることが問題」なのである。
 さらに、「われわれにとって存在している躓き」は、旧新約聖書における歴史認識の方法と信仰の問題にもある(このことは、前回のその3−1で述べた)。バルトは、『神の言葉』論で、「聖書の中で物語られているもろもろの歴史」は、史実史や神話ではなく、一般的な歴史性(「シリアの総督のクレニオ」と「聖降誕の出来事」、「ポンテオ・ピラト」と使徒信条というように、神の啓示に対してその都度ごとに、一つの年代的・時間的と地誌的・空間的・地域的との限定性において、「出来事として起こったもろもろの歴史(Gschichten)」性)を含んでいるが「ただ、(一人、あるいは何人かの)物語者が物語られた歴史に対して、多かれ少なかれ(主観を交えて脚色しており、そういう意味で)干渉し、関与する」という「歴史物語(Sage)および伝説(Legende)」の要素を持ったもの」である、と述べている。この区別の認識と自覚が必要なのである。「聖書において始めから終わりまで神の言葉」は、一般的な歴史性を含んではいるが「〔今日の歴史学の方法でひとつひとつたしかめられないところの〕」「歴史物語あるいは伝説と呼ばなければならない……形態の中で出会う」のであるが、その神の言葉を聖霊の注ぎを受けて「信じることが問題」なのである。
 さらにまた、聖書の著者たちも、不可避的に、ある社会構成・支配構成・文化構成の時代水準に規定されて生きていたのであるから、彼らが「語ることのうち、ただ単に、いくつかのことだけでなく、実にすべてのことが、宗教史的に見るならば、……多くの『平行事象』を持っているという事実を通して」、評価され、「判決がくだされ、条件づけられ、……弱められ、啓示証言としてのその性質が奪いとられ」ることはあるのである。したがって、「彼らの用語法から」、「聖書の著者たちは、ヤハウェについて、またイエス・キリストついて語っているのであって、何かほかのものについて語っているわけではないということ」を「証明することはできない」のである。すなわち、そのことは、「最後的には……ただ(≪聖霊の注ぎを受けた≫)われわれの信仰」を前提することによって「証明することができるだけ」なのである。そうした信仰を前提として、「世俗的な律法授与、歴史記述、人生の知恵、詩歌の文書」としての旧約聖書の中にも、「啓示の証言を見て取ることができる」のである。また、そうした信仰を前提として、神学体系の構成を目指さなかったパウロの神学に対して、「非常な努力を払って再構成しつつ、ある程度仮説的にひとつの見方(≪パウロにおける信仰・神学・宣教のその原理・その認識方法と概念構成≫)を持つことができる」のである。したがって、バルトが、『神の言葉』論で、「(中略)確かに受肉は中心的にして重要なものではあるが……新約聖書の本来的内容であるというふうには言ってはならないのである。(中略)それはおよそすべての他の宗教世界の神話や思弁の中にも見出されるものである。(中略)人は、聖書が語っている受肉を、ただ聖書からのみ、換言すればイエス・キリストの名からのみ……理解することができる。……神人性それ自体もまた新約聖書の内容ではない。新約聖書の内容とは、ただイエス・キリストの名だけであり、そのイエス・キリストの名がたしかにまた、そしてとりわけ、彼の神人性の真理をその名に含んでいるのである。ただまったくこの名だけが、啓示の客観的現実を言いあらわしている」、と述べた時、それは、啓示に固有な証明能力、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいた彼の信仰・神学・教会の宣教における言葉ということができるのである。さらにバルトは、聖書の著者たちは「ひとりびとり結局ただ人間トシテデキルコトを語ったのである」から、また聖書には「交錯と矛盾」があり、聖書は体系的でもないから、読む側の観点によって、「より高い段階とより低い段階の区別、中心的な言明と付随的な言明の区別」があらわれるのであるが、読者は、「用心深くふるまって、どちらかの側に味方することをしない方がよい」、と述べているのである。

 

 聖書は、啓示の「しるし」(「神の言葉の三形態」の第二の形態、人間の言葉を介した啓示の「概念の実在」、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示との「間接的同一性」・媒介的同一性)として、「人間的、時間的な言葉」として、それゆえにイエス・キリストの「高められた、栄化された人間性」とは区別されるところの、その現にあるがままの現実的な人間存在における「人間性」(バルトは、「聖書のまことの人間性」と書いている)として、「条件づけられ、制限されている」のである。神の啓示についての証言としての聖書は、その人間性(イエス・キリストの「高められた、栄化された人間性」とは区別される」人間性)においては、「イスラエル的精神の(われわれはもっとはっきり言おう)ユダヤ精神の、産物である」。この事実は、「全新約聖書についても妥当する」。このように、神の啓示についての証言(書物)としての「聖書の内容」は、「結局イスラエルの神的選び、召し、支配」、「イスラエルのメシアについての歴史および使信であり、まことのイスラエルとしての教会の基礎づけについての歴史である」。言い換えれば、このことは、次のように言うことができる――@聖書また教会の宣教において神――旧約聖書におけるヤハウェ、新約聖書における神(テオス)あるいは主(キュリオス)――は、単一性・神性・永遠性を本質とする、イエス・キリストの父(神の第一の存在の仕方、創造主としての神、父は子として「自分を自分から区別」するし自己啓示する神として自分自身が根源である)、子としてのイエス・キリスト自身(神の第二の存在の仕方、和解主としての神、父から区別された子は父が根源である)、父と子の霊である聖霊(神の第三の存在の仕方、救済主としての神、愛に基づく父と子の交わり――すなわち「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊は父と子が根源である)、であり、このような三位一体の神として自己啓示する、ここにキリストにあっての神ご自身による神の自己認識・自己理解・自己規定がある。A聖書の本来的なテーマは、「三位一体の第二」の存在の仕方である「子なる神、キリストの神性」・単一性・永遠性を問う問いの中に、「父を問う問い」と「父ト子ヨリ出ズル」聖霊を問う問いとが包括されている点にある。神は、イエス・キリストにおいて、インマヌエル――「神われらと共にいます」という神の第二の存在の仕方(性質・行為・働き・業、神の子、神の言葉、啓示・和解、「神の言葉の三形態」の第一の形態、客観的な「啓示の実在」そのもの)で、顕現・自己啓示した。このことは、単一性・神性・永遠性を本質とする「自己を覆い隠す」、隠蔽性・秘義性・不把握性、「聖性」、としての神が、その神の第二の存在の仕方において、子として「自分を自分から区別」したことを意味する。B神の言葉は、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」――すなわち人間に向かって語られた神の自己啓示としての「啓示の実在」そのものであるイエス・キリスト(教会の宣教における「先ず第一義的に優位に立つ原理」・第一次的な原理、「神の言葉の三形態」の第一の形態)と、また「聖書」の証言・証し(イエス・キリストと共に教会の宣教における「原理」、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、第二の形態)、および、教会の客観的な信仰告白・教義(教会に宣教を義務づけている聖書は、教会が絶えず繰り返し聞かなければならないところの「原理」である、第三の形態)としての啓示の「概念の実在」においてある。C啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事、それ自身聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)、に信頼し固執し連帯しなければならない。D「旧約聖書的な待望の時間」と「新約聖書的な想起の時間」との間の「成就された時間」とは、「イエスがご自分〔の生きていること〕をお示しになった」復活の「あの四〇日(使徒行伝一・三)」のことである。「新約聖書の証人たち」は、このキリスト復活の40日をおぼえる想起において、「キリストの死」と「キリストの生涯」を想起する時、「光を得」たのである。彼らは「甦えりの証人」である。そして彼らは、「既に来た方」であるイエス・キリストは「またこれから来たり給う方」であることを語る。「新約聖書の信仰」は、「想起の時間」である「聖霊降臨日のあとの時代」である。したがって、この「想起の時間」・聖霊降臨日以降の時間は、「成就された時間」・キリスト復活の40日ではない。しかし、その「想起の時間」は、「甦えられた方」・復活されたイエス・キリストをおぼえる「想起の時間」として、必然的に「甦えられた方を待ち望む待望の時間」、キリストの再臨、終末、救贖・完成を待望する時間であり、そのようにしてそれは、「成就された時間」(キリスト復活の40日)に参与する。ここで、「すべての以前と以後においても」「同一の方であり給う」イエス・キリストにおいて、未来(キリストの再臨、終末、救贖・完成)を考えること・待望することは過去(復活)を考えること・想起することであり、過去(復活)を考えること・想起することは未来(キリストの再臨、終末、救贖・完成)を考えること・待望することであると同時に、「成就された時間」の前の過去(キリストの死とキリストの生涯、旧約聖書的な待望の時間)を考えることでもある。

 

 さて、バルトは、教会、キリスト者、「すべての民族」は、啓示に固有な証明能力に基づく聖霊の注ぎによる「信仰なしには」、「ユダヤ人を通して、……自らユダヤ的な事柄にたずさわるようにと要求」する、「ある意味で、しかも最後的には決定的な意味で、自らユダヤ人になるようにと要求」する「聖書」に「躓き得るであろう」、と述べている。「ユダヤ的な書物」である聖書によれば、イスラエルの民は、「(自分たちの、生ける神に逆らう民であるが故に)事実悪しき、かたくなな民である」、「自分たちのメシヤと共に世界の救世主を拒否し、十字架につけた民として、したがって、神の啓示に決定的に反逆した民」である。「ほかのすべての民の中で生きる」、この、「ユダヤ的な血とユダヤ人種」、「ユダヤ民族」は、その「現実存在の中で、神によってなされた唯一の自然的な神証明である」。なぜならば、その「世界史の一断片(……それは反ユダヤ主義者たちによっても、自由主義者たちによっても、……気づかれなかった……)が、最も直接的に証ししていること」は、「聖書の啓示証言」についてであり、「聖書の中に証しされている神」についてだからである。「イスラエルは今日に至るまでなお、……神を拒否したところの神の民である」。この「イスラエルはわれわれに対して」、神は、「神の自由な裁量」において、「ただ裁きの中でだけ恵みを行使し給うということ……を目の前に示すのである」。この「イスラエルの現実存在」は、この「世」はこの「世」でしかないことを、教会の出自を、「思い出させてくれる」のである。「世がユダヤ的な血に対して奇異な感じをいだかされる時、……世はただ、自分が世であることを証明しているだけである」、世は自分の現実存在がイスラエルの同じそれであることを証明しているだけである。したがって、教会もそうであるならば、「教会自身が盲目で、聾で、悟りのにぶい世」と同じであることを「証明するだけである」。このような訳であるから、「非ユダヤ人は自分自身をほかならぬユダヤ人の中に再発見しなければならないのである」、ユダヤ人の中において、「自分自身の堕落した姿」を・自分自身では赦すことのできない「自分の罪」を・神だけでなく人間もという恣意的独断的な余りに人間的な自主性や自己主張や自己義認の欲救を・不信仰――無神性――真実の罪を、自己認識し自己理解し自己規定しなければならないのである。また、非ユダヤ人は、ユダヤ人の中で、「キリスト、イスラエルのメシヤを、……その方だけが、自分の堕落をいやし、罪を拭い去った方として、再認識しなければならないのである」――この再認識には、啓示に固有な証明能力に基づいて聖霊の注ぎによって授与される啓示認識・啓示信仰を必要とするのである。
 私たちは、前述した「ユダヤ的な血とユダヤ人種」、「ユダヤ民族」は、その「現実存在の中で、神によってなされた唯一の自然的な神証明である」という言葉に出会う時、すぐに滝沢克己のバルト批判を思い出す。すなわち、滝沢は、『滝沢克己著作集第一巻 カール・バルト研究』で次のように述べている――バルトの「現代におけるユダヤ民族の存在が『多くの国民の只中に神によってなされたところの唯一の自然的なる神の証明』である」という言葉は、「超自然的な神学」と矛盾することを指摘している。そして、「イエスのペルソナについて起こったことと同じような『ユダヤ人』の不当な神秘化がある」・「そこから(中略)彼の仲間や弟子たちにとって、どうしても避けがたい、『自然的神学』へのひそかな傾向が生じる」、と批判している。滝沢は、西洋近代の洗礼を受けながら、一方でアジア的日本的な自然を原理(≪天台本覚論の草木国土悉皆仏性論、山川草木悉皆仏性、のそれ、滝沢にとってイエスは、あくまでも滝沢自身が対象化した第一次的な「根本的事実」・「インマヌエルの事実」の概念に規定された限りにおいてであるが、その単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストを捨象した上での、その神の第二の存在の仕方における「まことの神」・「まことの人」である≫)として<自然神学>の<段階>でインマヌエル論を展開した哲学的神学者ということができる(拙著あるいはホームページの滝沢克己論を参照)。このことは、滝沢自身の次の言葉が証明している――「もはやいかなるキリスト者も、『聖書』や『イエス・キリスト』という名を記憶している人たちさえも、もはやこの地上のどこにも残っていないとしても、それでもなお、『神われらとともに』という事実(Faktum)にわたしたちが堅く結びつけられているということそのことは、神において永遠に決定されていることなのだ」。したがって、<自然神学>の<段階>で思惟する哲学的神学者の滝沢のバルト批判は、形而上学的一面的皮相的固定的抽象的な言葉尻をとらえた批判に過ぎないものなのである。なぜならば、「超自然な神学」者で神学における思想家でもあるバルトのその言葉は、根本的包括的に原理的に言えば、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーが正当性をもって揶揄・批判した、結局は人間中心<主義>的な、<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返しているだけの、<宗教>としての、人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」を対象とした、神と人間、神学と人間学、との混淆・共働・協働・混合・折衷に基づく人間の啓示認識、またそれに依拠した存在の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定、概念や教説や言説、では全くなくて、そうした<自然神学>の<段階>を根本的包括的に原理的に止揚してそこから超え出た、啓示に固有な証明能力、啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通した、それなのである。滝沢は、そのバルトにおける信仰・神学・教会の宣教のその原理・その認識方法と概念構成を、根本的包括的に原理的に認識し理解していないのである。したがって、滝沢のバルト批判は、根本的に包括的に原理的になされたものではないのである。すなわち、滝沢のそれは、バルトの「超自然な神学」の<段階>を根本的包括的に原理的に止揚してその<段階>を超え出たものでは全くのないのである。言い換えれば、滝沢のそれは、旧態依然とした、<自然神学>の<段階>で停滞し循環を繰り返している、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」の水準にとどまっているものに過ぎないのである。この滝沢は、「イエスの肉体に於いてインマヌエルの事実が始めて生成した」とするバルトに対して、その人間イエスの出来事・「イエス自身の言葉と行為」は、その源泉である「神われらとともにいます」という「根本的事実」・「インマヌエルの事実」から生成された「生ける徴」であって、第一次的なものではないから、バルトの「錯覚」でしかない、と言う。この語り方から私たちは、滝沢神学が、ブルトマン神学の原理的方法に基づいていることを知る。すなわち、滝沢の原理的方法は、第一次的な啓示の実在そのものである単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの、啓示の客観的現実性・啓示の客観的実在)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストと、啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を捨象してしまって、その代わりにアジア的日本的な自然原理によって対象化された「根本的事実」・「インマヌエルの事実」の概念を「第一次的なもの」に「形式変換」し、その「第一次的なもの」に従事する限りにおいて、イエス・キリストを「第二次的なもの」に形式変換する、という点にある。この事態は、まさに、人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」(偶像)の創出であり、神の人間化・神学の人間学化(哲学化)を意味するのである。このように、滝沢神学は、ブルトマン神学の原理的方法を念頭においた、バルトのインマヌエル論とマルクスの自然哲学――人間は自然の一部である。この場合、自然は、自然としての自己身体であり、他者身体であり、外界としての自然(第一次的には天然自然、人間的自然)である。人間はこの場所で、身体と精神を介した、普遍的で実践的な全自然との相互規定的な対象的活動を行う。ここに、肉体的身体的および精神的意識的な、人間の類的な活動や生活がある、というそれ――とを、世界史における古典古代の前段階においてのみ、またアフリカ的縄文的段階の次段階においてのみ、世界普遍性として成立することができたアジア的日本的な自然原理によって折衷した・混合させた<哲学的>神学なのである。すなわち、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」、人間学・学問としては成立すのであるが、教会の一つの機能である教会教義学、神学・教会の宣教としては「非学問的」なのである。このことよりも、もっと重大な問題は、滝沢のそれは、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーが正当性をもって揶揄・批判した、結局は人間中心<主義>的な、<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返しているところの、<宗教>でしかない、という点にある――「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である」・「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」・「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」・「もし君が(≪君の自由な自己意識の無限性において君が≫)無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である」 (ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ『キリスト教の本質』)、「神とはまさに、人間の(≪自由な自己意識の無限性における≫)想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」(『フォイエルバッハ全集第12巻』「宗教の本質にかんする講演 下」)。

 

 先に述べたルターの命題は、「聖書は……全線にわたって論難しうる、人間の言葉であるという理由で……正しい」。しかし、そのルターは、一方で、「信仰にとっては、神と聖書は二つのものではなく」、啓示に固有な証明能力に基づいた啓示の「概念の実在」として――すなわち啓示との「間接的同時性」・媒介的同一性(それゆえに、直接的同一性、ではない)として、「ひとつのものである」、ということに「目を向けているのである」。「われわれは、聖書は神の言葉である、と信じる」。「神のみが(≪惹き起こさせ≫)登場させることができる」この信仰の出来事は、「啓示の出来事の中での主観的側面」・「聖霊の注ぎ」による人間的主観に実現された神の恵みの出来事・啓示認識・啓示信仰の主観的現実化のことである。この時、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができるのである。「聖ナル教エハ、ソレ自身ノ力ニオイテ力強イ、ソレガ用イル道具ノ間違イニ対シテモソレヲ凌駕スルホド、力強イ。タトエ、間違イヲ犯ス人間ヲ通シテ宣ベ伝エラレテモ、ナオ十分ナ信仰ヲ信者ノ心ノ中ニ造リ出スコトガデキル」。
 聖書は、イエス・キリストにあっての神の啓示についての証言として、「ユダヤ的な書物」である。したがって、「もしもわれわれが、ユダヤ人の言語、考え方、歴史に、心を開いて接して行こうとしないならば、また……ユダヤ人と共にユダヤ人となるべく用意ができていないならば」、聖書は、ほんとうに「読まれ、理解され、説明されることができない」ことによって、「ユダヤ人の存在を通して今日まで世界史の中でなされきた自然的な神の証明に対して」、そのことを否定してしまうことになるのである。「救いはユダヤ人から来る(ヨハネ四・二二)」――この「普遍的に働く」「聖書に関して躓きうる……躓き」が「実際に取り除かれ、倒錯が克服され、われわれすべてのもの中にある反ユダヤ主義が取り除かれ、聖書の人間的な言葉、ユダヤ的な言葉、が神の言葉として聞かれ、心に受け取られるためには、言葉と信仰(≪啓示に固有な証明能力、啓示の出来事と信仰の出来事≫)の奇蹟を必要」とするのである、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の子、神の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの、啓示の客観的現実性・啓示の客観的実在)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示の出来事とそのキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事を必要とするのである。したがって、ユダヤ人問題を、「人道主義への奨励」を介した自由主義的思想でもって看過してしまうことは、反ユダヤ主義(「神ご自身によって置かれた裁き」と並べて「ユダヤ人に対してだけ尖鋭化して適用された民族理論」)と同様に、ユダヤ人問題に対して何の解決にもならないことは明らかなことなのである。
 マルクスにおいてユダヤ人問題は、逆立的に対象化された市民社会の自己意識の類的本質・共同意識・共同の幻想的形態としての政治的近代国家の問題として論じられている。ここで逆立的にとは、第一義性・価値が、観念の共同性を本質とする法・政治的近代国家の側に移行してしまうからである。したがって、このような宗教からの国家の解放(自由主義国家・政治的近代国家)は、信教の自由という観念的な法的政治的解放の問題、すなわち人間の観念的法的政治的な一面的部分的解放の問題であって、「宗教からの現実的人間の解放」、すなわち社会的現実的な人間の究極的総体的永続的解放とはならないのである。(101−109頁)

 

 いずれにしても、私たちは、神の側の真実としてのみある、「言葉と信仰の奇蹟」――すなわち、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の子、神の言葉、啓示・和解、「神の言葉の三形態」の第一の形態、「啓示の実在」そのもの、啓示の客観的現実性・啓示の客観的実在)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示の出来事とそのキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事、それに基づいて授与される人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰を必要とするのである。このようにして、「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神のその都度の自由な恵みの決断による神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰する時、「服従」と「言葉」とによって語る責任ある証人となる、のである。したがって、この出来事は、「神の言葉(≪「神の言葉の三形態」の第一の形態、「啓示の実在」そのもの、イエス・キリスト≫)が来るという出来事に基づいて初めて」惹き起こされるそれである。すなわち、「聖書の中での神の言葉が、(≪不信とむなしさと不安と不確かさの蔓延した現在のただ中で、近代以降の宗教的形態である科学主義・理性主義・感覚主義のただ中で、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍のただ中で、≫)(われわれが聖書を読めば躓くであろう)すべての躓きを貫き通して、われわれのところまで届き、そこで、われわれの信仰を初めて造り出した、その神の言葉の運動(≪「言葉と信仰の奇蹟」≫)のエネルギーによって、信仰は生きるのである」。なぜならば、私たちの「信仰は(われわれがそれを持つ時にでも)常に小さな、弱い、(非本来的であるがゆえに)不十分な信仰である」からである。その現にあるがままの現実的な人間的存在である私たちには、徹頭徹尾全面的に、神の側の真実としてのみある、主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」における、不信を包括した信が必要なのである――その現にあるがままの現実的な人間的存在である私たちには、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて完了された、私たちすべての人間の<不信>を究極的包括的総体的永遠的に止揚し・克服した<信>が必要なのである、私たちすべての人間の<罪>(人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求、人間の不信仰・無神性・真実の罪)を究極的包括的総体的永遠的に止揚し・克服した<義>が必要なのである。その現にあるがままの現実的な人間的存在である私たちには、三位一体の神として、単一性・神性・永遠性を本質とする、神の言葉自身・啓示自身が持っている、啓示に固有な証明能力に基づく、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事が必要なのである。すなわち、神の側の真実としてのみある、イエス・キリストにおける完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和が必要なのである。したがって、この聖霊の注ぎによる信仰の出来事は、その出来事に基づいて授与された人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の側における「信仰の問いに先行する、(聖書は神の言葉であるという命題の)客観的な秘義である」。

 

 このような訳で、「ただひとつの(≪単一性・神性・永遠性を本質とする≫)神の言葉(≪「啓示の実在」そのもの、啓示の客観的現実性・啓示の客観的実在、イエス・キリスト、「神の言葉の三形態」の第一の形態≫)が存在する。それは、われわれと同じ肉となった父の永遠の言葉、われわれの和解のため、(聖霊を通して彼の教会に現臨するために)再び父のみもとに行った父の永遠の言葉、である。この言葉とその現臨ということ」が、「聖書」(≪「神の言葉の三形態」の第二の形態≫)においても、「その証人たちの人間的な言葉」(≪啓示の「概念の実在」、第二の形態≫)においても、「問題なのである」。私たちが、「聖書は神の言葉である」と(≪両者を≫)「等置」する時、その時には、私たちにとって、「神ご自身においてのみ実在であり真理」である神の「自由」と「主権性」についての認識と自覚が重要なのである。「神はあくまで主体であり、主であり給う」。単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストにあっての「神(≪「神の言葉の三形態」の第一の形態、「啓示の実在」そのもの≫)」は、「また聖書(≪「神の言葉の三形態」の第二の形態、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」としての啓示の「概念の実在」、啓示との直接的同一性ではないところの「間接的同一性」・媒介的同一性≫)に対して」も、「聖書の上に立つ主であり、聖書の中で主であり給う」。このことは、教会(「神の言葉の三形態」の第三の形態)が聖書(「神の言葉の三形態」の第二の形態)に支配されているように、聖書は「神の言葉(≪「神の言葉の三形態」の第一の形態≫)に拘束されているということを意味している」。また、このことは、神の言葉、啓示・和解、啓示の実在そのものであるイエス・キリストが、教会の宣教における「先ず第一義的に優位に立つ原理」であることを意味している。したがって、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」としての啓示の「概念の実在」としての聖書は、また教会に宣教を義務づけている聖書は、この啓示と共に、教会の宣教(≪「神の言葉の三形態」の第三の形態、客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」≫)における原理なのである。したがってまた、「聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのである」。
 神の言葉・啓示の実在そのものとしてのイエス・キリストの永遠の現臨におけるイエス・キリスト、すなわち単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストは、「地上にあるわれわれ、時間の中で生きているわれわれ、にとっては隠れてい給う」。したがって、それは、イエス・キリストの「人間性のしるし」、「地上的、時間的――人間的な性質」、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態、イエスの名」、神の第二の存在の仕方(神の子、神の言葉、啓示・和解、「神の言葉の三形態」の第一の形態、「啓示の実在」そのもの)の中で、「それであるから特に彼の預言者と使徒たちの証言(≪「神の言葉の三形態」の第二の形態、預言者や使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」≫)の中で、啓示されるだけ」なのである。『神の言葉』論によれば、次のように言うことができる――聖書的証言の本来的テーマは、三位一体の第二の存在の仕方である「子なる神、キリストの神性」を問う問いの中に、「父を問う問い」と「父ト子ヨリ出ズル」聖霊を問う問いとが包括されているという点にある。神は、イエス・キリストにおいて、インマヌエル、「神われらと共にいます」という存在の仕方において、顕現・自己啓示した。このことは、単一性・神性・永遠性を本質とする、「自己を覆い隠す」・隠蔽性・秘義性・不把握性、「聖性」、としての神が、神の第二の存在の仕方において子として「自分を自分から区別」したことを意味するのである。したがって、その自己啓示は、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態、イエスの名」・神の第二の存在の仕方(神の子、神の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの)において、その「存在の本質」である単一性・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示なのである。「まさにアラワサレタ神こそが隠サレタ神」なのである。このことは、神ご自身が私たち人間に対して自己啓示されないならば、また神ご自身が神と私たち人間とを架橋されないならば、全く不信仰で罪に穢れた私たち人間は、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・概念・教義をさえ持つことはできないことを意味しているのである。(110−114頁)
 このような訳で、「キリストの永遠の現臨〔現在〕が時間の中で啓示されるようになるためには、教会の中で、教会の成員たちに対する、聖霊の、継続的な、常に新しい行為の中でその都度出来事となって起こる業を必要としている」のである・「(聖書は神の言葉であるがゆえに)教会が聖書によって生きる時、……教会は聖書の中で聖霊の働きを通してキリストが啓示されることによって生きる」のである。したがって、教会は、絶えず繰り返し、聖書に聞きながら、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく啓示認識と啓示信仰の授与を「祈り求め」なければならないのである。教会は、「自分を開いておくこと」によって、「聖書を神の言葉として読み、理解し、説明すべく用意をととのえていること」によって、そう「祈り求め」なければならないのである。ここに、教会の生の「人間的側面が成り立っている」。そして、そのように「祈り求めること」が、啓示に固有な証明能力に基づいて「成就され」、単一性・神性・永遠性を本質とする「隠れた、天的なキリストの、永遠の現臨の力によって、今、ここで神が語りたまう言葉としての聖書の存在」は、「教会の生の神的な側面」である。この「神的な側面の実在性」は、神の側の真実に属することであるから、「問いに付されることはできない」。したがって、その「神的な側面の認識の確実性も、問いに付されることはできない」。「約束の中でその確実性は、われわれに与えられるのであり、信仰の中でのその確実性は、把握されることができるのである」。「そのことが出来事となって起こるということ、約束がわれわれに向かって語りかけるということ、われわれがその約束に対して信仰の中で従順であるということ、そのことは、聖霊の業を通して常に繰り返し答えられるべき問いとして、繰り返しわれわれの前に立っている」のである。そのこのことは、「まだ勝利の教会ではなく、戦闘の教会の中にいるわれわれ」が、聖霊の注ぎによる信仰の出来事において、「聖書は神の言葉であると告白する時、仰ぎ見るところの出来事である」。この時、教会は、不可避的におのずから、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性への連帯、に基づいて、啓示認識・啓示信仰が授与されることを祈り求めながら、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、その「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」へと赴き、イエス・キリストにおける福音(イエス・キリストにおける完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和)を告白し証しし宣べ伝えていくことができるのである。また、そこにおいて、さまざまな過渡的課題と取り組むのである。