本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

拙著『全キリスト教、最後の宗教改革者カール・バルト』、バルトの読み方・分かり方(その8)

拙著の『全キリスト教、最後の宗教改革者カール・バルト』について正直言えば、内容的な推敲不足を否むことはできませんので、この記事は、この拙著<以降の論述>との関連でお読みください。

 

啓示の実在=イエス・キリストの名=啓示の客観的現実性、聖書の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(キリスト教に固有な類・歴史性)
 バルトの、神学における思想としての良質な三位一体論と、神性を本質とするイエス・キリストにおける「福音と律法」の「真理性」と「現実性」との同在的・構造的把握に基づいて根拠づけられた啓示の客観的現実性の認識・概念・神学・信仰を論じた『福音と律法』および『教会教義学 神の言葉』に依拠すれば、次のように言うことができます。
 先ず以て、私たち一般のキリスト者やキリスト教に興味関心のある一般の方は、バルトが次のように述べていることを知っておくことが重要だと思います。
1)「単なる知識」と「認識」とを厳密に区別しています。「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に信頼し固執する「認識」・<信仰>である。その時初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができる、というわけです。したがって、人間学的なただ「単なる知識」に過ぎないある理念・ある概念の実体化・「最高存在」・「最モ完全ナ存在」としての啓示概念は、神の言葉・啓示の「概念の実在」ではないわけです。神の言葉は、「人間の現実存在の内部」・人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍・感情や理性や実存や意志・人間論や人間学的な哲学原理や認識論や世界観の中にはないのです。なぜなら、神に敵対し神に服従しない私たち人間は、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力」を一切持ってはいないからです。神の言葉は、その都度の神自身の自由な決断において、またその隠蔽と顕現において、「われわれのところに来」る。この神の隠蔽性・神の秘義性とは、私たち人間のその啓示認識が、常に終末論的限界(《自己相対化》)の前に立たされるということです。すなわち、神の言葉は、徹頭徹尾全面的に、人間の恣意性・主観性・自由事項ではない、ということです。神と人間・神学と人間学・神の自由な決断と人間の自由な自主性や自己主張の混淆・共働はあり得ない、ということです。したがって、神の言葉が「人間によって信じられる……出来事」・信仰の出来事は、徹頭徹尾人間「自身の業」ではなく、「神の言葉自身」=啓示の出来事と「聖霊の注出」においてのみ可能となるわけです。すなわち、「言葉を与える主」は、同時に、「信仰を与える主」なわけです。したがって、聖書の中で証しされている教会の宣教の課題である啓示=イエス・キリストの出来事の宣べ伝えを目指すことのない自然神学的な「単なる知識」としての形而上学的な教義学は、「それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方」のものであっても、その教義学は「教義学としては非学問的」なわけです。
2)聖書的証言の本来的テーマは、「三位一体の第二」の存在の仕方である「子なる神、キリストの神性」を問う問いの中に、「父を問う問い」と「父ト子ヨリ出ズル」聖霊を問う問いとが包括されている点にあります。すなわち、聖書また教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示します。したがって、この啓示が教会の宣教の客観的な信仰告白と教義である三位一体論の根拠です。したがってまた、この三位一体論は、神論の決定的に重要な構成要素であり、「啓示の認識原理」であるわけです。ですから、「教会の宣教の批判と訂正」は、常にこの三位一体論に即して行わなければならない、というわけです。なぜなら、この三位一体論を啓示認識の原理にしない場合、すぐに神性否定のキリスト論や半神・半人キリスト論や三神論や神と人間・神学と人間学との混淆論・共働論という自然神学的なキリスト論・聖霊論・神論に埋没していく以外にないからです。その典型が、バルトを論じながらバルトとは全くベクトルが逆向きな思惟や神学やキリスト教を目指す、先述したボーレンやモルトマンや佐藤司郎や小泉健や滝沢克己や大木英夫や佐藤優等々なわけです。
3)神は、「存在」上・「認識」上、人間との無限の質的差異において、また自由・主権において、そしてまた神性・単一性・永遠性において、三位一体の神として自己啓示する:すなわち、自由・主権は、神自身においてのみ「実在であり真理」である、ということです。このことを、バルトは、啓示の出来事と信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示の真理として述べているのです。そして、バルトは、この啓示認識に依拠した啓示の比論を通して、人間における自由の自己認識とその概念を得るのです。「超自然な神学」・キリスト教のベクトルを持つバルトは、当然のことですが、ヘーゲル哲学とはベクトルが全く逆向きなのです。この自覚がどうして重要かと言いますと、その認識方法および概念構成の在り方が、自然神学・キリスト教と、「超自然な神学」・キリスト教との分岐点になるからです。また、私たちが、根本的な誤謬に「普遍性や組織性の後光をかぶせて語」る神学者や牧師や著述家の言葉や知識や情報を鵜呑みにしたり模倣したりしないためにです。いずれにせよ、この認識方法および概念構成によってバルトは、神と人間との無限の質的差異を揚棄してしまったヘーゲル哲学における人間の自己還帰する対自的で対他的な自由な自己意識(人間に内在する神的本質)・自己還帰する他在であって自在である自由の概念や、神と人間また神学と人間学との混淆論や共働論に基づく人間の啓示認識、それに依拠した存在の比論を通した人間の自己認識、そうした自然神学的な神学の認識方法および概念構成を根本的に批判し包括し止揚してそこから超出しているのです。したがって、この一切の近代主義・自然神学的な全キリスト教に抗するバルトの神学における思想性を理解しないままバルトを論じる場合、根本的な誤謬に普遍性の後光をかぶせて語ることになるのです。
4)神学における思想として三位一体の根本命題に即して理解すれば、父なる神は、創造主としての神です。神の「存在の本質」としての一神=神の単一性・神性・永遠性の認識を保証するのは、神と人間との無限の質的差異における「父なる名の内三位一体的特殊性の認識」、すなわち神自身においてのみ「実在であり真理」である自在性の認識・自在であって他在としての自由の認識・区別を包括した自己同一性の認識・信仰にあるます。ここでバルトが、神と人間との無限の質的差異の概念と「父なる名の内三位一体的特殊性」の概念によって、ヘーゲル哲学を紙一重で超えていることを、私たちは理解することができます。このことを理解できなければ、バルトを単純にしかし根本的そしてトータルに理解することはできません。したがって、次のように言うことができます。神と人間との無限の質的差異の下で、神の「存在の本質」は、単一性・神性・永遠性にあるから、父は子として「自分を自分から区別」するし自己啓示する神として自分自身が根源である。したがって、その区別された子は父が根源であり、愛に基づく父と子の交わりである聖霊は父と子が根源である。この神は、子の中で「創造主として、われわれの父」として自己啓示する、と。また、父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主である。同様に、神の「存在の本質」から言えば、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもある、と。イエス・キリストが父として啓示する神は、「われわれの生を、死を通して永遠の生命に導くために死を欲し給う」神です。したがって、私たち人間を永遠の生命に導くために、「ゴルゴダにおいて、イエス・キリストにあって、イエス・キリストと共に、われわれすべてのものの生命が十字架につけられた」、ということです。また、バルトは、「内被造世界での、……父という呼び名は確かに真実である」が、「非本来的なもの」であり、「神の内三位一体的父の名の力と威厳に依存」しているものとして理解されなければならない、と述べています。この認識方法および概念構成は、啓示の出来事と信仰の出来事に基づく啓示認識に依拠した啓示の比論を通したそれであって、それは、自然神学的な神学の認識方法および概念構成だけでなく、ヘーゲル哲学をも根本的に包括し止揚した「超自然な神学」・キリスト教における一貫性のある認識方法および概念構成なのです。このことは、神学における思想にとっては、どうでもいいことではなくて、根本的に重要なことなのです。なぜなら、重複して言うのですが、その認識方法および概念構成の在り方が、自然的な神学・キリスト教と、「超自然な神学」・キリスト教との分岐点になるからです。佐藤優の「高等教育を受けた者は」という場所からの嘘ぶる発言や非神話化論の模倣は、佐藤が、神学においてはもちろんのこと人間学においても思想を持たないことの証左なのです。これらのことが理解できなければ、バルトをその根本においてトータルに理解することはできないのです。
 神は、イエス・キリストにおいて、インマヌエル=「神われらと共にいます」という「存在の仕方」で、顕現・自己啓示しました。このことは、神性・単一性・永遠性を「存在の本質」とする「自己を覆い隠す」・隠蔽性・「聖性」としての神が、その「存在の仕方」において子として「自分を自分から区別」したことを意味します。このことは、神においてのみ「実在」である自己還帰する他在であって自在である神の「自由」な恵みの行為を意味しています。ここに、神と人間との無限の質的差異を揚棄してしまったヘーゲル哲学を根本的に超出するために、上記3)・4)の信仰的神学的自覚が重要性となるわけです。したがって、その自己啓示は、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態、イエスの名」・「存在の仕方」において、その「存在の本質」である単一性・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示であるわけです。このように自己啓示する神は、啓示の弁証法において「まさにアラワサレタ神こそが隠サレタ神」である、ということです。またこのことは、神自身が私たち人間に対して自己啓示されないならば、また神自身が神と私たち人間とを架橋されないならば、全く不信仰で罪に穢れた私たち人間は、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・概念・教義をさえ持つことはできないことを意味しているわけです。
 神の言葉は、三位一体論の唯一の比論としての神の言葉の実在の出来事=「神の言葉の三形態」、すなわち人間に向かって語られる神の自己啓示=イエス・キリストの名=啓示の実在そのもの=啓示の客観的現実性と、また「聖書」の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」においてあります。この啓示の「概念の実在」は、その「概念の実在」の歴史性(時間的連続性)においてあります。このことをバルトの言葉に即して言えば、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」であるということです。このことは、世界思想一般と同じように、オリジナルな神学思想というものはない、ということを意味しています。したがって「超自然な神学」者で思想家でもあるバルトは、啓示の「概念の実在」の歴史性を媒介・反復するという仕方で、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程(《客観的な信仰告白と教義》)の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」、それと連帯したのです。また一方でバルトは、その信仰・神学に、個性や時代性を刻んだのです。 「啓示の中」での体系:啓示は、神自身の自己啓示、自己認識・自己理解・自己規定として、「われわれに啓示されたイエス・キリスト」であり、父なる神に関わっています。このイエス・キリストにおける啓示は、神の言葉の三形態における「第一の形態」であり、神の言葉の直接性であり、「啓示の実在そのもの」です。それは、「すでに来たり給うた」、また「再臨し給う」イエス・キリスト自身、「イエス・キリストにおいて起こった和解」、イエス・キリストにおけるインマヌエルとしての神の言葉です。この啓示は、教会の宣教に対して「先ず第一に優位に立つ原理」です。したがって、「啓示の中」での体系は、イエス・キリストだけなわけです。したがってまた、教会の宣教・その客観的な信仰告白と教義の中での「体系」は、神の側の真実である主格的属格としての「イエスの信仰」にのみ信頼し固執するキリスト論的集中神学の認識方法および概念構成にあるわけです。また、聖書は旧・新約聖書における預言者・使徒の言葉と霊としてのイエス・キリストの出来事の証しであり証言であり、子なる神、イエス・キリストに関わっています。この聖書は、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての啓示の実在=イエス・キリストと共に、教会の宣教における原理です。なぜなら、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である「聖書こそ」が、教会に宣教を義務づけているからです。したがって、「聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならない」のです。しかし、近代以降は不可避的に、自然神学の系譜に属するキリスト教・信仰・神学・教会の宣教・神学者・牧師・著述家は、神だけでなく人間の自主性・自己主張もという神と人間・神学と人間学(時流や時勢を含む)との混淆論・共働論へと邁進していきます。それは丁度、次に引用するバルトの言葉や今から65年前にE・トゥルナイゼンによって指摘された事態そのものなわけです。「福音が、理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと、鋭さをなくした(「教会のおえら方やキリスト教的貴婦人が飾りにぶらさげる小さい十字架」に至るまでの)十字架象徴 論へと、「そこでは神はもはや何も与えず、人間はもはやなにもうけることのない」ところの、イエス・キリストはたかだか≪暗号≫にすぎず、祈りはたかだか独りごとにすぎないところの同一神秘主義へと変わって行く……」(『ヨブ(≪バルト『教会教義学和解論』の≫)』ゴルヴィツアー編・解説)、「彼岸の消尽点が画の中に移され、神自身が人間の霊魂的な、また歴史的な現実の構成要素となり、従ってもはや神ならぬもの、偶像となる。これが特に危険な反乱であり、神への『反逆』である。その危険なわけは、それが、ごうまんにも神を忘れた公然たる反抗として行われず、実に神の名において、神の呼びかけのもとに行われるからである(E・トゥルナイゼン『ドストエフスキー』国谷純一郎訳、新教出版社)。

 

 

啓示認識の可能性

 

 その方が分かり易いので、バルトの『教会教義学 神の言葉』にあるバルトのその認識方法および概念構成と、トラウプのそれとの根本的な差異性を例示してみます。
 バルトの啓示認識の可能性の問いを誤解したままバルトを批判したトラウプの啓示認識の方法に対して、逆にバルトは次のように根本的な批判を加えています。
1)啓示認識の可能性は、啓示という「認識対象の特性」から、この「対象を認識する認識概念」が、「ほかの諸対象を認識する場合」の「一般的な認識概念に照らして……最後的に決められてしまってはならず」、あくまでもその認識対象から規定されるものでなければならない。すなわち、啓示認識は、神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示の出来事(神の側の真実=イエス・キリストの名=啓示の客観的現実性)と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてのみ可能である。
2)すなわち、先述しており重複しますが、、神の側の真実 =神の自己啓示 =イエス ・キリストの出来事=啓示の実在 =神の自己認識 ・自己理解 ・自己規定 =啓示の真理 、永遠=超歴史 =啓示の時間 =救済史は 、常に 、人間が人間的に所有する人間の啓示認識 ・概念 ・教義 、人間の自己認識 ・自己理解 ・自己規定 、人間の時間 ・歴史の 、彼岸 ・外にある 。このことは、啓示自体から与えられた、私たち人間における「終末論的限界」を意味している。またこのことは、まことの神は「隠蔽性・秘義性」を本質としており、その神に対して人間の理性は「全く闇に閉ざされ」た「盲目」性を本質としている、という「神の不把握性」を意味している。この神の不把握性は、神の「存在の本質」=単一性・神性・永遠性についての「信仰命題」であり、一般的真理ではなく、啓示の真理・信仰の真理である。したがって、これらの認識は、神性を本質とするイエス・キリストの出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて初めて人間が人間的に所有することができる人間の啓示認識であり、その啓示認識に依拠した信仰の比論・関係の比論・啓示の比論を通して初めて得られる人間の自己認識・自己理解・自己規定である。ここで啓示の〈類比・比論analogia〉とは、自然神学的な啓示の主観的現実性に基づく人間の啓示認識・人間の経験的普遍の直接性に依拠した類推ではなく、啓示の客観的現実性に基づくその人間の啓示認識を媒介とした類推のことである。このバルト神学の認識方法および概念構成自体が、一方で、宗教としてのバルト〈主義〉やバルト〈学派・党派〉を、また宗教としての何々主義や学派・党派や誰々教を相対化し拒否しているのです。このように、バルトの場合は、自己相対化視座を、その信仰・その神学の認識方法および概念構成自体に持たせているのです。バルトと比較考量してみればすぐに分かることですが、神と人間・神学と人間学との混淆・共働に依拠している、あるいはまたアジア的日本的な自然思想の復古性に依拠している、自然神学の系譜に属する神学者や牧師や著述家は、哲学者や知識人のための神・信仰・神学を目指したエーバーハルト・ユンゲルにしても、哲学的・宗教的論議の知的上昇を好む教養人との対話のための「根源的事実」(世界史のアジア的段階における自然)を原理とした滝沢克己にしても、無神論との対決は「人間論と哲学的論証によって」為されるべきだと大見栄を切ったパンネンベルクにしても、「自信過剰」の半減された「神的汝をあこがれ求めている」「近代的精神」・人間的理性・思惟による新たな神との「共働者」関係の構築を目指したエーミル・ブルンナーにしても、日本におけるナショナルなもの=滅私奉公的な在り方と自らの対象化された自己意識の意味的世界である神の痛みとの混淆・折衷を目指した北森嘉蔵にしても、その他の誰々にしても、その信仰・その神学の認識方法および概念構成自体に自己相対化視座を持っていません。と言うよりも、状況論や思想を持たない彼らは、1)・2)・3)の概念を持っていないのですから、1)・2)・3)の概念に無自覚ですから、不可避的に持てません。持てないのは、必然なのです。
3)また、そうして得られた人間が人間的に所有する人間の啓示認識・概念・教義・言葉性であっても、それは、啓示の実在そのものではない。すなわち、啓示は、神の隠蔽性・秘義性、神の不把握性、終末論的限界において、人間の「言葉性に縛」られることはないのであり、逆に人間の「その言葉性の方が神に縛られている」のである。したがって、私たち人間は、「神の言葉」・「神の恵みの実在」・啓示の実在そのものの「認識を問うことはできない」のである。
4)にもかかわらず、トラウプは、啓示の「概念の実在」において「どのように人間は神の言葉を認識することができるのか」というバルトの問いを、自然神学的な常道に従って誤解し、直接的無媒介的に「どのようにわたしは、神の言葉」を「神の言葉として、また実在として、肯定することにまでくることができるのか」という問いに変じてしまったのです。すなわち、バルトは、あくまでも聖書証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」のキリスト教固有の成果や歴史性(時間的連続性)において啓示認識の可能性を論じているのにもかかわらず、トラウプは啓示の実在そのものの認識可能性を論じているのです。
 言わば、トラウプは、人間の自由な自己意識による直接的無媒介的な啓示認識・概念・教義と啓示の実在そのものとの一致の可能性について論じているのであり、啓示の実在を、人間の啓示認識・概念・教義の此岸・内に求めようとしているのです。したがってこの場合、トラウプにおける神や啓示や信仰や神学やキリスト教の位相は、フォイエルバッハの宗教批判の対象そのもの・ハイデッガーの揶揄・批判した「存在者レベルでの神への信仰」そのものでしかありません。このことが、神学における状況論や思想を持たない自然神学の系譜に属するトラウプやそれに類した神学者や牧師や著述家には理解できないのです。このようなトラウプに代表される自然神学的な啓示認識の方法に対してバルトは、カンタベリーのアンセルムス論においても批判を加えています――アンセルムスは「キリストが人間となり給うこと、キリストの贖罪死」の必然性を「理解シヨウ、理性的に論証シヨウとした」が、そのことを人は合理主義だと批判した。しかし、アンセルムスは、「教義学的な合理主義」を明確に否定している。すなわち、アンセルムスは、神学を一般的真理としてではなく、「啓示から得られた認識」・概念の実在としてのイエス・キリストの「実在から」啓示認識の可能性について考えたのである、と。言い換えれば、このことは、キリスト教固有な聖書証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」の歴史性(時間的連続性)に連帯することにおいてのみ啓示の認識可能性はある、ということです。1)から4)までの事柄をその認識方法および概念構成の根拠・原理としない場合、近代以降は特に、一切合切が、不可避的に、フォイエルバッハの宗教批判の対象そのもの・ハイデッガーの揶揄・批判した「存在者レベルでの神への信仰」そのものに埋没していく以外にありません。恣意的主観的にそうはならないと頑張って主張しても、客観的に・状況論的に・思想的に、確実にそうなっていきます。ここで私たちは、次のように言わなければならないでしょう――啓示の「真理の客観的考察などというものはない」。その真理は、「われわれが何かを考察するより先にわれわれを考察するところの客観性」であり、「考察する主観を設定する本源的な客観性である」、と。