本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

拙著『全キリスト教、最後の宗教改革者カール・バルト』、バルトの読み方・分かり方(その5)

拙著の『全キリスト教、最後の宗教改革者カール・バルト』について正直言えば、内容的な推敲不足を否むことはできませんので、この記事は、この拙著<以降の論述>との関連でお読みください。

 

 バルトは、
1)『ヘーゲル』においては、神と人間との無限の質的差異を揚棄してしまったヘーゲルの根本的問題を、
2)『福音と律法』・『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』においては、自然神学的なローマ・カトリック主義、近代主義的プロテスタント主義、ルターの宗教改革やシュライエルマッハーやブルトマン等、アジア的日本的な自然思想の復古性に依拠した滝沢克己や日本人神父における神・神学・教会の宣教に対する正当性のある根本的なフォイエルバッハの宗教批判およびハイデッガーの批判した「存在者レベルでの神への信仰」を、
包括し止揚してそこから超出しました。なぜなら、そうした根本的問題を自覚し、その問題を自らの神学の認識方法および概念構成において包括し止揚しなければ、不信とむなしさと不確かさと不安が蔓延した現在から未来に生きる神学・教会の宣教とはなり得ないからです。吉本は、「対立する双方に真理があるというような俗説が、世界史的に流布され、流通している」中で、自らの立場において、両者を包括し「止揚しなければならないということが思想的な問題」であると述べていますが、バルトは神学領域においてそうしたのです。このバルトの担った近代主義や自然神学が有する神学における思想の課題が、自然神学的な「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「大学社会の神学」者やそれに類する牧師や著述家には分からないわけです。

 

 

ルターにおける「福音と律法」理解とバルトにおけるそれ
 ルターは、『キリスト者の自由』で次のように述べています――律法と福音を対立させ、まずは「罪人を怖れさせ 、その罪を暴露して 、痛悔し且つ回心させるためには、誡めを説教すべきである」。しかしそれだけではいけないので、その次に「他の言、すなわち恩恵の呼びかけを説教して、信仰を教えるべき」である。「かようなときにはじめて他の言、すなわち神からの約束の告知が現われて、そして語る」。「さらばキリストを信じなさい」。「あなたが信じるならこれを得られるし 、信じないなら得られない」。この自然神学的な神との共働の下で信へと往相的に上昇していく一方通行的な信仰・神学においては、信と不信、キリスト者と非キリスト者、知と非知とを架橋することはできないのです。すなわち、その信・神学(知識)・キリスト教(キリスト者)は、信を、そのあるがままの不信・非神学(非知識)・非キリスト教(非キリスト者・反神論者・無神論者・無関心者)に対して完全に開くことはできないのです。言い換えれば、そのあるがままの全人間・全世界・全人類を、イエス・キリストにおける救済・平和の連続性に包括することはできないのです。不信とむなしさと不確かさと不安が蔓延している現在から未来に生きることができないのです。したがって、ほんとうは、ルターの場合は時代的制約があって止むを得なかったと言えますが、近代以降の時代状況が強いる全キリスト教・信仰・神学・教会の宣教の思想的課題は、そうした自然神学的な信仰・神学・教会の宣教を包括し止揚してそこから超出するところにあるのです。そのことを、ただバルトだけが、全キリスト教において、唯一、自覚したのです。バルトだけが、全キリスト教の最後的な根本的かつ究極的な宗教改革を目指したのです。このことも、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「大学社会の神学」者やそれに類する牧師や著述家には分からないわけです。
 さて、ルターには、自然神学的な神学の常として、一方通行的に上昇する信の言葉はあっても、その信から再び意識的に不信にまで下降し、不信をそのあるがままに包括し、両者の空隙を埋め、両者を架橋し、両者の枠組みを取り除き、信を不信に完全に開く、信における還相の言葉がないのです。またルターの場合、神との「共働者」を目指すために、その神・信仰・神学は、フォイエルバッハの正当性のある根本的なキリスト教批判の対象そのものとなってしまうのです。なぜなら、ルターの場合は、律法によって人間の破れと痛悔・人間の無能力を「学び且つ経験」する、という人間的契機の直接性を先行・第一次化させるからです。このルターの律法における破れと痛悔は、対象化された身体的体験のそれにせよ・意識内経験のそれにせよ何にせよ、対象化された人間の自己意識の意味的世界と言えるでしょう。そしてそれに続いて、「かようなときにはじめて他の言、すなわち神からの約束の告知が現われて、そして語る」。「(中略)さらばキリストを信じなさい」となります。しかし、この場合も、神との「共働者」論が登場し、「あなたが」「律法ノ成就者ヲ信ジル限リニオイテ」・「あなたが信じるならこれ(〔恩恵と義と自由〕)を得られる」し、「信じないなら得られない」と述べて、その神学の認識方法および概念構成において、不信・非キリスト者をそのあるがままに包括することができないのです。言い換えれば、信・キリスト者・神学(知識)を、そのあるがままの不信・非キリスト者・非神学(非知識)に対して完全に開くことできないのです。
 もう少し言えば、ルターは律法における破れと痛悔とを契機とするわけですが、律法を知らなくても、律法によって「怖れさせ」られ「その罪を暴露」されなくても、人間の内面の普遍性に届く言葉はあるのです。すなわち、自分の罪を意識させられ・自覚させられる言葉はありますし、心に響く言葉はあるのです。次に引用するイエスの言葉がそれです。「イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女(《姦通の女》)に石を投げなさい。」(中略)これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」(ヨハネ8・7―9)。フォイエルバッハの宗教批判の対象としての、自然神学的なルターの信仰論と受肉論について、バルトは、『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』で、次のように述べています。「(《神と人間との無限の質的差異を揚棄してしまった、神と人間との混淆論・共働論において、人間の自己意識によって対象化された神・信仰・神学は》)、……独立的に現われ活動する神的実体として(中略)(《それには》)あらゆることが可能であり、(中略)(《またそれは》)、人を義とする……、……愛と善き業を生み出す…、罪や死にも打ち勝ち、人を救う。(《その》)信仰と神とは『一団』をなし、信仰は(心の信頼として!)神と偽神の両方を作り、ときには(ただ「われわれ自身の内部において」だけであるが)「神性の創造者」と呼ばれるということもあり得る。さらに重要なのは、……受肉説とそれに関連した事柄である。フォイエルバッハは、このキリスト教の教説を『神は人となり、人は神となる』という定式で簡明に表現し(《たが、それは》)……とくにルター的なキリスト論および聖餐論を前提とする場合には、まったく不可能とか無意味とかいうことはできない。……、神性を天上に求めず地上に求め人間の中に―人間イエスの中に求めることを教え、またかれにとっては聖餐式のパンは高く挙げられたイエスの栄光化されたからだであらねばならなかった(中略)。(中略)これらすべてのことは、……天と地・神と人間を?倒する可能性を意味しており、終末論的限界を忘れる可能性を意味している。(中略)ルターと初期ルター派の人々が、天を襲うようなキリスト論を説いて、その後継者たちを、たえず出現する思弁的・人間学的帰結に対しての一種の危険状態・無防備状態の中に置き去りにしたことは疑いない。神に対する関係があらゆる点で、原理的に?倒不可能な関係だということ――そのことについて、人々は、フォイエルバッハを有効に防御するためには確信を持っていなければならない……」(『カール・バルト著作集4』「ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ」井上良雄訳、新教出版)、「……神と人間を同一視する神学(中略)「人間の中なる神について」の議論が根絶されない限り、フォイエルバッハを批判する理由は、われわれにはない。われわれは、かれと共に「その世紀の忠実な子」なのである」(前掲書)。

 

 神と人間との無限の質的差異、イエス・キリストの神性性(「存在の本質」)を揚棄してしまったところで信仰を得た近代主義的な人間の自由な自己意識の類的本質は、不可避的に、「神的実体」や「神性の創造者」となり、人間の神化・神の人間化・神学の人間学化を生じさせてしまうわけです。フォイエルバッハにとって、そうしたキリスト教・神・神学の本質は、対象化された人間の自己意識の類的本質・意味的世界でしかないものなのです。この全キリスト教・全宗教に対する批判は、正当性のある根本的な批判でもあるわけですから、この批判を、その神学の認識方法および概念構成において包括し止揚してそこから超出していくところに、近代以降における全キリスト教・信仰・神学・教会の宣教における思想の課題はあるわけです。このことを、唯一、バルトだけが自覚したわけです。フォイエルバッハのキリスト教批判は、こうです。「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である。(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である。(中略)神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」(引用はすべて、L・フォイエルバッハ『キリスト教の本質 上・下』船山信一訳、岩波書店)。

 

 このフォイエルバッハのキリスト教批判・宗教批判を包括し止揚したバルトのその神学の認識方法および概念構成においては、次の三点の自覚が踏襲されています。1)それは、ヘーゲル哲学に対する根本的な批判ともなる事柄ですが、神と人間との無限の質的差異の自覚です。バルトは、そのことを、『ローマ書』で簡潔に言い表しています――私が「方式」なるものをもてっているとすれば、……時間と永遠との「無限の質的差別」……、をあくまで固守した、ということである。「神は天にいまし、汝は地に在り」。私にとっては、この神とこの人間との関係、ないしはこの人間と神との関係が聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である。
2)終末論的限界の自覚です。
3)人間に内在する神的本質・「人間の中なる神」(人間の自由な自己意識の無限性、人間の自己意識によって対象化された神・存在者・意味的世界・理念・ユートピア・プログラム・社会的政治的構想)と、神・イエス・キリストにおける啓示との無限の質的差異の自覚です。
 その神学の認識方法および概念構成において、これらの自覚が必要であることは、次の例示を考えればすぐに理解できます。倉松功は、『ルターとバルト』で次のように述べています――バルトは、律法と福音という伝統的な順序で語るルターに対して、その順序は「福音と律法」の「現実性」の場所においては正しいのであるが、「教説の全体を、方向づける」「福音と律法の真理性」の場所においては先ず「福音と律法」という順序で語られなければ、「神の律法」・「神の福音」について語ることにはならない、と批判をしています(バルトの『福音と律法』論については、拙著では述べていますが、ここでは省きます)。それに対して倉松は、ルターの『キリスト者の自由』の二つの命題の検討に基づいて、ルターは「福音(キリスト)からのみ理解した『律法と福音』しか語りえなかった、どう検討しても反対のしようがないと筆者には思われる」、と述べて、「われわれの結論」でもあるとして次の言葉を載せています――「『ルターによれば文明の建設と発展は理性・知能の課題であり、全人類の課題であり、特定の宗教の特権ではない。ルターの二つの統治の区別は、かれの文明論の恒常的基礎である。その区別が人間の責任と活動の分野を自由にしている。(中略)被造物的・生物的現実……の中にわれわれに直接出逢う当為の要求が自然に存在する。その要求こそ心に記された理性の基本的規範である。ルターによれば、こうした文明の体系は全体として、神律的側面と相対的に自律的な側面とを持っている。神律的というのは、文明を担う諸力は神の恒常的創造者としての活動であるという意味……相対的に自律的だというのは、神の創造者としての働きは人間理性によって把握されるからであり、理性に基づく、人間の神との共働の行為は自発的に形成されるからである』」。
 この尤もらしく聞こえるこの言説に対して、私たちはすぐに疑問が湧いてきます。相対的にしろ「神の創造者としての働きは人間理性によって把握される」とするならば、何が神の働きによるもので、何が神の働きによるものではないのか? 「当為の要求が自然に存在」・「その要求こそ心に記された理性の基本的規範」と言うけれども、何がそれであり、何がそれではないのか? 百人百様の恣意的規範が存在するのではないか? 遅延させることはできても停滞させ停止させたり逆行させたりできない科学・技術や文明の発達は自然史的必然であるとすれば、人間の責任と自由は、遅延させることであるのか、エコロジーを標榜・促進することであるのか、科学主義を標榜・促進することであるのか、貧困格差の問題が民族国家の支配上層の責任の問題であるのなら、彼らを引きずりおろさなければならないのではないのか、またどのような革命論を構築すべきであるのか、何一つ根本的に明確に述べられていないのです。このような往相的な信や知に上昇していくだけの一方通行的な還相的課題を持たない倉松の神学では、それらの問いに対して根本的かつ究極的に何も答えることはできないでしょう。これでは、その人間学的神学における神学も人間学も、全く役立たずのものでしかないと言えるでしょう。
 上記の三点を自覚したバルトの語り方は、根本的で究極的です。バルトは、例えば、究極的な平和を希求し語る場合も、主格的属格としての「イエスの信仰」としてのイエス・キリストにおける救済(史)から語ります。人間の困窮からの解放も、その救済(史)から語ります。バルトにとっては、イエス・キリストにおけるその救済(史)こそが、平和や一切の困窮等からの究極的包括的総体的永遠的救済の根拠なのです。したがって、バルトは、人間的な過渡的・緊急的・相対的・意志的努力は必要だとしても、終末論的限界において、その人間的試みが成功するとは少しも考えていないように語ります。のである。バルトは「神の人間性」において、人間自身の「素晴らしさ」を語るのですが、人間の感情・理性・意志・実存・構想等を含めた人間的自然や人間的能力や人間的試みの根本的かつ究極的な限界性をも語ります。また、「神の人間性」という概念と、その「神の人間性」から与えられた人間の人間性との無限の質的差異についても語ります。すなわち、人間における労働や性・夫婦・家族や理性や感情や意志や実存や言語によって対象化された文明や文化等の人間的自然(人間の人間性)の一切は、「神の人間性」ではないということを語ります。

 

ルターとバルトの根本的かつ究極的な差異
 クラッパートは、『和解と希望 告白教会の伝統と現在における神学』でバルトとルターの差異について、次のように述べています
1)バルトの理解では、律法は福音を内容とする形式であり、「契約神学的に、契約の約束が時間的に戒めに先立っている」が、ルターの理解では、「福音と律法とを厳密に区別」して、「救済論的」に、「罪ノ赦シノ」「契約の約束の方が『罪ヲ宣告スル律法』よりも質的に優位にある」とし、ここに、バルトとルターにおける「神学的出発の相違」点がある。ルターにおいては、救済論的な「赦シノ約束」は、「キリスト論的な『律法ノ成就』を根拠としており、この『律法ノ成就』の後に続いて起こる」とし、それに続いて「ワレワレが律法ノ成就者ヲ信ジル限リニオイテ」、「約束」は「起こる」、と述べています。結局は、クラッパートを含めてるルターは、自然神学的な「イエスの信仰」の目的格的属格理解に立脚した神との「共働者」を目指しているのです。しかし、世界的な神学者で牧師で思想家でもあるバルトのその認識方法および概念構成を根本的に批判し包括し止揚できないために、次のように結論付けてしまうのです。
2)バルトの「福音を律法に先立てることは、ルターの律法と福音の前後関係を排除するのではなく、正当な仕方で内に含んでいる」というように、両者の根本的な差異について全く論じられないのです。これでは何も言わないのと同じであって、橋爪大三郎に「『信仰の立場』を後ろに隠して、どこか押しつけがましく、でもにこにこ語りかける。さもなければ、聖書学あたりの知識を、これならわかるかねと上から目線で教えをたれる。ひとびとが知りたい、一番肝腎なところが書かれていない。根本的な疑問ほど、するりと避けられてしまっている」、と書かれても仕方がないのです。
 ほんとうは、「福音と律法」理解について両者には根本的かつ究極的な差異があるのです。その差異は、「イエスの信仰」の属格理解の差異、すなわち「超自然な神学」者で思想家でもあるバルトの主格的属格理解と、ルターの目的格的属格理解との差異にあります。言い換えれば、神の側の真実にのみ信頼し固執するバルトにおける啓示の客観的現実性と、神との「共働者」を目指すルターにおける啓示の主観的現実性との差異にあります。ここで注意すべきことは、このルターにおける啓示の主観的現実性の概念は、神の自由な恵の行為としての聖霊の注ぎによる啓示認識の主観的現実化の概念とは全く違うものである、という点です。すなわちそれは、対象化された人間の自己意識の類的本質・フォイエルバッハの宗教批判の対象そのもの・ハイデッガーの批判した「存在者レベルでの神への信仰」そのものの位相にある、という点なのです。人間の自由な自己意識の無限性(ヘーゲル哲学における人間に内在する神的本質)を自覚した近代以降は、特に、そのことに自覚的でない場合は、不可避的に、そうなっていきます。