本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

拙著『全キリスト教、最後の宗教改革者カール・バルト』、バルトの読み方・分かり方(その4)

拙著の『全キリスト教、最後の宗教改革者カール・バルト』について正直言えば、内容的な推敲不足を否むことはできませんので、この記事は、この拙著<以降の論述>との関連でお読みください。

 

 バルトは、自然神学的な神学群に属するアウグスティヌス、中世スコラ哲学の「キリスト啓示・自然啓示二元論」、「中世末期の人間の行為義認論」、ルターを含めて「それにプロテストはしたがその自然神学をその根本において止揚できなかった宗教改革者」、「宣教は人間の側に『結合点』を求めなくてはならず、また『結合点』を前提しうる」としたブルンナー等(『バルトの生涯』)を、その神学の認識方法および概念構成において、根本的に批判し包括し止揚し、「超自然な神学」へと超出しました。アウグスティヌスやルターには時代的制約があってやむを得なかった、ということができるでしょう。しかし、近代以降の時代状況が強いる神学・キリスト教の課題は、そうした自然神学的な信仰・神学・教会の宣教を包括し止揚して、そこから超出するところにあります。そうでなければ、不信とむなしさと不確かさと不安が蔓延した現在から未来に生きることは決してできないのです。このことを、ただバルトだけが、全キリスト教において、唯一、自覚したのです。近代以降において、バルトだけが、全キリスト教の根本的かつ究極的な宗教改革を目指したのです。そして、聖書から得られたその核となる認識(信仰)・概念が、ローマ書やガラテヤ書等にある「イエスの信仰」の属格(所有格)の、「イエス・キリストが信ずる信仰による神の義」・救済(史)という主格的属格理解のそれ(神の側の真実のみ、イエス・キリストの名のみ、啓示の客観的現実性のみ)なのです(『福音と律法』)。したがって、バルトの場合、自然神学的な神と人間・神学と人間学の混淆・共働を目指す「イエス・キリストを信ずる信仰による神の義」という旧来訳聖書や新共同訳聖書の目的格的属格理解(神だけでなく人間の自主性・自己主張も、イエス・キリストだけでなく人間の管理するプログラムも、啓示の主観的現実性)とは全くベクトルが異なっているのです。このバルトの立場が何故「超自然な神学」かと言えば、自然神学的な認識方法および概念構成を、その神学の認識方法および概念構成において根本的に包括し止揚して、そこから「超出」しているからです。
 富岡は、バルト神学の中心的主題が、「イエス・キリストの出来事に排他的に集中すること」・「キリストにおいて啓示された神への集中」・「キリスト論的集中」にあると述べています。それは、その通りなのです。しかし、その概念の根拠となるバルトにおける「イエスの信仰」の主格的属格理解については、述べてはいないのです。このことは、富岡が、自然神学的な目的格的属格理解にあることの証左なのです。このとき、富岡は、根本的誤謬・概念的矛盾の中でバルトを論じているのです。なぜなら、バルトは、「超自然な神学」者で思想家だからです。いわば、大学教員・文芸批評家ということで、その根本的な「誤謬に普遍性の後光をかぶせて語」られた言説(根本的誤謬・概念的矛盾)がそのまま流通してしまっているのです。それも、瑣末な誤謬ではなく、根本的な誤謬や概念的矛盾がなのです。このとき、吉本隆明が述べているように、私たちは、知識人や著述家の発言・言説・知識やメディア情報を、「そのまま鵜呑みにしたり模倣したりしない」方がいい、ということを実感し知ることができます。ほんとうに、「そのまま鵜呑みにしたり模倣したりしない」方がいいのです。このことは、生活領域に関わることでも実感し認識することができます。、財政赤字は政府債務残高のことであって、その赤字の責任は全面的に制度としての官僚・政治家・政府支配上層にあるにもかかわらず、知識人・メディアは、その支配上層に対する徹底的な追及はしないで、その責任を消費税増税必要論で一般大衆・一般市民に転嫁することに加担しました。そしてまた、そうした消費税増税は本末転倒もはなはだしい、と最も正当性のある発言をしていた名古屋市長の河村たかしをも片隅に追いやってしまいました。これらの事態は、知識人やメディアのベクトルが、大多数の被支配としての一般大衆・一般市民の全体の幸福に向いていないことの証左なのです。支配の側の制度としての官僚(法の支配の下での法による行政に基づく政治的国家の職能団体)・政治家・資本家は、諸個人の現実的な家族や市民社会の生活過程を決して第一義とはしません。なぜなら、彼らは、市民社会内部の官僚制・個別的な職業的人間の職能団体・部分的共同意志を媒介とするからです。言い換えれば、支配(法・政治的国家)の本質は、大多数の被支配者としての一般大衆・一般市民を逆立した鏡とする観念の共同性・共同の幻想・共同の錯覚にあります。なぜなら、ほんとうは第一義性・価値は、法・政治的国家を疎外したこちら側にあるにもかかわらず、第一義性・価値を自らが疎外した法・政治的国家の側に移行させてしまっているからです。
 富岡は、自然神学とは「人間が生まれながらにもつ理性によって神の存在を捕えることができるという考え方」であると説明し、具体的にはトマス・アクィナスの神学がその典型であって、トマスは「アリストテレスの哲学を神学にもちこむことで、人間の理性では自然的に神を認識することはできず、神の啓示と恩寵によらなければ、神を知ることはできないというアウグスティヌス的な信仰理解をこえようとした」と述べています。通俗的には、その通りです。しかし、バルトは、通俗的な学者ではありません。世界的な神学者で思想家でもあるのです。バルトは、富岡とは違って、次のように述べています――「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰である」とした「カントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」(『カント』)。
 アウグスティヌスは「超自然な神学」者で思想家でもあるバルトにとって、自然神学の系譜に属する神学者です。『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、こうです――「存在するものそのもの」・「その純然たる造られた存在」に依拠したアウグスティヌスの「造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」という語り方に対して、そのような三位一体の跡は、「世界に対して超越する創造神の跡」として理解することはできない。なぜなら、それは、ただ単なる人間の自由な自己意識によって対象化された人間自身の自己認識、すなわち人間自身の「内在的に理解」された「宇宙の諸規定・人間的な現実存在の諸規定」・「単なる宇宙論や人間論」でしかないからである。また、そのような三位一体論は、人間自身に基づく「人間の世界理解の、最後的には人間の自己理解」・「神話」、すなわち自然神学的な人間の神化・神の人間化・神学の人間学化・人間学的神学の位相にあるものである。
 神と人間・神学と人間学との混淆論・共働論に基づく自然神学的な人間の啓示認識、それに依拠した存在の比論を通した人間の自己認識を目指す神学・キリスト教は、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼しない」。したがって、バルトは、次のように述べています――「神学をただ啓示の中にのみ基礎づけ」るために、聖書に依拠した神学・教会の宣教は、「罪深い曲がった人間」の「究極的な限界性」・終末論的限界を自覚した人間の言語を前提として、「三位一体を、世界から説明しようと欲」しないで、むしろ逆に、「世界を三位一体から説明せんと欲」する、と。すなわちバルトは、イエス・キリストにおける啓示の出来事と、人間精神とは同一ではない聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく啓示認識、その啓示認識に依拠した啓示の比論を通した人間の自己認識を目指しているのです。
 アウグスティヌスとバルトとの根本的な差異性は、前者においては「被造物ノ中デノ三位一体ノ跡」というように語られ、後者においては「三位一体ノ中デノ被造物ノ跡」というように語られる点にあります。「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」、「解釈する」とは、「別の言葉で同一のことを言うこと」である、とバルトは述べています。このバルトの「超自然な神学」においては、@その神学の認識方法および概念構成自体に、人間が人間的に所有する人間の啓示認識を自己相対化する視座を持っている。A啓示の実在は、常に、人間の啓示認識・概念・教義の彼岸・外にあることに対して自覚的である。B神性を本質とする「イエスの信仰」の主格的属格理解に基づくキリスト論的集中において、絶えず繰り返し自己吟味し自己反省する。なぜなら、どのような「教義学」も、「教会的な教義」も、「啓示自身からの命令」を「完全に一義的に」「厳守」することはできないからである。C「二人の主に兼ね仕える」、自然神学的な神と人間・神学と人間学との混淆論・共働論は、根本的に包括し止揚されている。
 『神の国』で神は「時間ノ創造者マタ決定者」と呼び、『告白』では「過去、現在、未来は精神の中にあって、ほかのどこにあるのでもない」と述べているアウグスティヌスの後者の在り方に、バルトは自然神学的な時間認識・概念をみました。また、バルトは、@自然神学的な「自分で時間を創造」し持つとしたアウグスティヌスやハイデッガーの時間概念は、聖書においては、「実在の時間」である「イエス・キリストにおける啓示の時間」から「攻撃」された「失われた」「否定的判決の時間」であると述べ、A人間的現実存在は時間性であり(時間化)・その時間性が存在を規定する(存在了解)とした前期ハイデッガーは、「時間から対象性をはぎとって、時間を人間の現実存在の存在形式として理解」し、不可避な歴史性・類(被企投性・現前性・被制作性)を前提とせず、個が、自覚的に「自分自身を実現してゆく」・「自分の最も固有な」「存在可能性に向かおうとする『先行的な決意性』」(企投性)に生き時間化する時、自然時間や歴史的時間ではない、個の現存性、自分自身の時間、自分自身の未来・過去・現在を創造し持つことができる、と考えたと述べています。