本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

拙著『全キリスト教、最後の宗教改革者カール・バルト』、バルトの読み方・分かり方(その3)

拙著の『全キリスト教、最後の宗教改革者カール・バルト』について正直言えば、内容的な推敲不足を否むことはできませんので、この記事は、この拙著<以降の論述>との関連でお読みください。

 

 私には、バルトに師事した滝沢克己は、西洋近代の洗礼を受けながら、一方でアジア的日本的な自然を原理として自然神学的なインマヌエル論を展開した哲学的神学者であるように思えます。そして、その哲学的神学の位相は、次に引用する言葉に尽きると言っていいと思います。「もはやいかなるキリスト者も、「聖書」や「イエス・キリスト」という名を記憶している人たちさえも、もは
 やこの地上のどこにも残っていないとしても、それでもなお、『神われらとともに』という事実(Faktum)にわたしたちが堅く結びつけられているということそのことは、神において永遠に決定されていることなのだ」(『滝沢克己著作集 第二巻 カール・バルト研究』創言社)。

 

 したがって、滝沢は、「イエスの肉体に於いてインマヌエルの事実が始めて生成した」とするバルトに対して、その人間イエスの出来事・「イエス自身の言葉と行為」は、その源泉である「神われらとともにいます」という「根本的事実」・「インマヌエルの事実」から生成された「生ける徴」であって、第一次的なものではないから、バルトの「錯覚」でしかない、と述べています。この語り方から私たちは、滝沢神学が、ブルトマン神学の原理的方法に基づいていることを知ることができます。すなわち、滝沢の原理的方法は、第一次的な啓示の実在そのものである神性を本質とするイエス・キリストと、キリスト教固有の聖書の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としてあるイエス・キリストにおける啓示の「概念の実在」と、その「概念の実在」の歴史性(時間的連続性)を揚棄してしまって、滝沢の自己意識によって対象化されたアジア的日本的な自然を原理とした「根本的事実」・「インマヌエルの事実」の概念を「第一次的なもの」に「形式変換」し、その「第一次的なもの」に従事する限りにおいて、イエス・キリストを「第二次的なもの」に形式変換する、という点にあります。この事態は、神の人間化・神学の人間学(哲学)化・滝沢教化を意味します。いずれにせよ、滝沢の「インマヌエルの事実」の概念は、バルトとは違って、神性を本質とする まことの神でありまことの人間であるイエス・キリストの名ではないので、未だ区別や分節化がされていない未分化のままの総合や自然や宇宙の概念と呼んでもいいものなのです。滝沢は、アジア的日本的な自然原理に依拠したために、マルクスのように自然と呼ばずに、そうした自然あるいは宇宙を「根本的事実」・「インマヌエルの事実」として概念規定したのです。いずれにせよ、滝沢の「インマヌエルの事実」の概念は、未だ区別や分節化がされていない未分化のまま一切が包摂された総合状態・無規定の状態・形や色もない「無」性状態・一切の区別や規定性や分節化の源泉でもあるところの自然や宇宙の概念と同質のものなのです。人は、この意味での自然あるいは宇宙としての「根本的事実」において、神と共にある、と滝沢は言うのです。したがって、滝沢の「インマヌエルの事実」の概念は、その原理に興味関心のある教養人には開かれていても、その原理に自覚的ではない・興味関心のない、そのあるがままの不信や非キリスト者や非知に対して開くことはできないのです。言い換えれば、滝沢は、神学的・哲学的・知識的な上昇の果てに辿り着く知的世界・意味的世界を目指す往相的課題は持っているのですが、そのあるがままの不信・非知・全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的救済や平和という還相的課題を持たないのです。
 このように滝沢神学は、ブルトマン神学の原理的方法を念頭においた、バルトのインマヌエル論とマルクスの自然哲学とを、世界史における古典古代の前段階・アフリカ的縄文的段階の次段階のアジア的日本的な自然原理によって折衷した哲学的神学・滝沢教なのです。したがって、バルトは「イエスの肉体を神秘化し神格化してしまった」・そのバルトの友人たちは「バルトの陥った迷信に倣ってイエスと聖書とを『信仰』したに過ぎなかった。従って、そこからはただ暗い狂熱と戯言のような『神学』のほかには何一つ生まれ出る筈はなかった」、と述べた滝沢自身が、その自分自身の自然神学的な言葉によって復讐されなければならないのです。また、滝沢は、バルトの「現代におけるユダヤ民族の存在が『多くの国民の只中に神によってなされたところの唯一の自然的なる神の証明』である」という言葉は、「超自然的な神学」と矛盾することを指摘しています。そして、「イエスのペルソナについて起こったことと同じような『ユダヤ人』の不当な神秘化がある」・「そこから(中略)彼の仲間や弟子たちにとって、どうしても避けがたい、『自然的神学』へのひそかな傾向が生じる」と批判しています。自然神学者そのものであるこの滝沢の批判は、皮相的な言葉尻をとらえた批判に過ぎないものです。なぜなら、「超自然な神学」者で思想家でもあるバルトのその言葉は、根本的に言えば、自然神学的な神と人間・神学と人間学との混淆論・共働論に基づく啓示の恣意的主観的現実性としての人間の啓示認識・概念、それに依拠した存在の比論を通した人間の自己認識・概念ではなくて、神と人間・啓示の実在と人間の啓示認識との無限の質的差異、またキリスト教固有の啓示の「概念の実在」の歴史性との連帯における、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいた人間の啓示認識・概念、それに依拠した啓示の比論を通した人間の自己認識・概念であるからです。この自然神学を紙一重で超える思想(その神学の認識方法および概念構成)が、自然神学的な滝沢神学にはないのです。
 さて、八木誠一は、「イエスは別段自分を超人間的存在として自覚していたわけではなく、『人の子』語句でもって人間存在の根底を語り続けた」「ただの人であり、ただの人として自らを自覚し、ただの人の真実のあり方を告げた」と断定的に述べ、イエスに本来的な人間存在の在り方・範型を見ています。この八木は、滝沢と同じように、イエス・キリストの「存在の本質」である神性性を揚棄するだけでなく、さらにイエス・キリストの「存在の仕方」・神の子・神の言葉性も揚棄してしまって、滝沢のインマヌエル論に同調しています(1982年の南山大学主催滝沢講演後討論会)。イエスは、まさしく、八木自身の自己意識によって対象化された意味的世界・八木の「管理」する「プログラム」に従って、「ただの人」にされてしまったのです。この場合、私たちは、神学としても人間学としても非自立的で中途半端な八木の人間学的神学における言葉に聞くよりも、むしろ純粋な人間学的領域に属する吉本やフーコーやヘーゲルやフォイエルバッハやマルクス等々や、太宰や漱石や賢治やドストエフスキー等々の言葉や言説に耳を傾けた方がいいに決まっているのです。なぜなら、実際的に、確実に、その方が人間や世界の本質を指し示してくれるし、人間的な慰安も励ましも喜びも心の響き合いも心の豊かさも享受できるからです。
 したがって、バルトも述べているように、「危険なことはわれわれがある哲学を学んで、それから神学の勉強を始め、そしてわれわれの頭にある哲学の法則に従わせようとすることだ。われわれは哲学を一つの道具として用いることはできる。しかし、もしヘーゲルやハイデッガーあるいはアリストテレスを絶対化するならば、聖書を聞き損なうこと」になってしまいます。また、A「人は、また全く別なもろもろの啓示概念、おそらくは普遍的な啓示概念、を問うことができる」が、その場合、「人は教義学の課題を、手をつけずに放置しておくこと」になってしまいます。したがって、B「われわれは聖書および宣教によれば、イエス・キリストの父であり、イエス・キリスト自身であり、この父と子の霊であるところの神、その神の啓示の概念」、すなわち聖書の証言・証しおよび教会の宣教の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」、その歴史性(時間的連続性)と取り組まなければならないのです。(バルトの引用は、ほとんど場合『教会教義学 神の言葉』に依拠しています)
 ローマ・カトリック主義的神学は、もともと自然神学的であって、それが日本に輸入されると、おそらく日本人神父はそうだと思うのですが、すぐにその自然神学がアジア的日本的な自然思想によってアジア的日本的な変容を受けるに違いないと思います。滝沢の哲学的神学の位相も、それなのです。アジア的概念について、私たちもなるほどと首肯できる考察をヘーゲルは行っています。
「精神は東洋から昇り始めると言ってよい。しかし、主観は人格としてではなく、客観的な実体的なもの(《自然》)の中に没入しているのである。(中略)没精神的な状態(中略)最高の境地は意識のないことだからである。(中略)その意味で人間は、そこでは自然によって規定されている。(中略)このように東洋的主観は何ものにも依存しないという長所をもつ。なぜとって、一切皆空だからである(ヘーゲル『哲学史序論―哲学と哲学史』武市健人訳、岩波書店)、「人間もおのれを空しくすればブラフマンの境地に達することができ、そこでは有限な人間とブラフマン(宇宙の原理)の区別がなく、梵我一如となってあらゆる個別が消滅する。(中略)意識が対象なき意識になっている(ヘーゲル『法哲学講義』長谷川宏訳、作品社)、「(中略)中国の哲学とエレア哲学とスピノザの哲学が、おなじ一を原理とするといっても、肝心なのは一の内容がどうなのかです。一が抽象的な一か具体的な一か、精神的な一に達するほど具体的にとらえられているかどうか、そこに根本的なちがいがあるので、それを無視して三つの哲学を同列にあつかうのは、みずから、抽象的な一しか知らないこと、哲学の関心がどこにあるかを知らないまま哲学について判断をくだしていることを、証明するようなものです(ヘーゲル『歴史哲学講義 上』長谷川宏訳、岩波書店)。

 

 私たちは、前から二つの引用を、滝沢の「根本的事実」の概念と重ね合わせることができるでしょう。一番後の引用は、「一を原理とする」中国哲学とギリシャ哲学と西洋哲学との人類史的段階における差異の自覚の必要性が述べられているでしょう。すなわち、自然からの超出の度合=自由度=精神の発達度の差異性の自覚の必要性が述べられているでしょう。
 ヘーゲルや吉本だけでなくフーコーも、私たちがなるほどと首肯できる考察を行っています。それは、禅とキリスト教の精神性の差異についての発言をみるとよく分かります。「禅はキリスト教の神秘主義とは全く違うものだ(中略)キリスト教の精神性と、それに結びついた技術においてきわめて印象深いのは(中略)いや増す個別化が探究されているということです。個々人の魂の奥底にあるものを、その個人に把握させようとするのです。『おまえが何者であるのか、私に語れ』――これこそがキリスト教の精神性なのです。禅においては、精神性にまつわる一切の技術は、逆に個人を非個別化する―個性を破る傾向があるように思えます(M・フーコー『思考集成 VII』「フーコーと禅」佐藤清靖訳、筑摩書房)。

 

 フーコーのこの世界認識の方法は、内部と外部とから世界を眺め把握できる構造になっています。「個別化」と「非個別化」(全体化)という把握は、首肯できるものです。現在は横へと拡散し衰退しているとはいえ、アジア的日本的な特徴は、共同体至上意識がいつも個体性を超えていくところに想定できるからです。フーコーは、普遍性(哲学・思想・革命・人間・社会の概念)の誕生の場であった「西欧の危機」を念頭において、禅思想を、その内部とアジアの外部としての西欧から「禅においては、精神性にまつわる一切の技術は、逆に個人を非個別化する―個性を破る傾向がある」と把握しています。しかし、臨済禅の僧は、外部の観点を持たないまま、そのアジア的日本的な禅思想の直接的な言葉で、「からだと心とが一つになるという体験、自分とそとの世界とが一つになるという体験、それは世界的に普遍なものですね。禅が国際性を持ち世界性を持つということは、その点からも十分わかるわけですね」、と述べています。言い換えれば、その僧には、「精神と自然との直接的な統一の段階」というものは、世界史のアジア的段階においてのみ、世界普遍性を持ち得たという外部からの把握ができ得ていないのです。