本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

拙著『全キリスト教、最後の宗教改革者カール・バルト』、バルトの読み方・分かり方(その2)

拙著の『全キリスト教、最後の宗教改革者カール・バルト』について正直言えば、内容的な推敲不足を否むことはできませんので、この記事は、この拙著<以降の論述>との関連でお読みください。

 

 橋爪大三郎・大澤真幸の対談『ふしぎなキリスト教』の「あとがき」には、「『キリスト教入門』みたいな本なら、山ほど出ている。でもあんまり、役に立たない。『信仰の立場』を後ろに隠して、どこか押しつけがましく、でもにこにこ語りかける。さもなければ、聖書学あたりの知識を、これならわかるかねと上から目線で教えをたれる。ひとびとが知りたい、一番肝腎なところが書かれていない。根本的な疑問ほど、するりと避けられてしまっている」、とあります。一キリスト者の私も、その通りであると思います。付言すれば、神学者や著述家による様々なバルト論に限定してみても、その論述者が信仰・神学・知識の一方通行的な上昇過程の場所(上目線)で、根本的な誤謬に普遍性の後光をかぶせて語っているから始末が悪いのです。また別の個所には、自由、人権、民主主義、国家という近代的な概念は、「キリスト教という宗教の産物」であり、「神のアナロジー」である。その意味でキリスト教は「世俗的な価値の起源」である、と。このことも、確かにそう言えると思います。
 しかし、橋爪の語る神やキリスト教の概念は、あくまでも神と人間・神学と人間学との混淆論・共働論を目指す自然神学的な対象化された人間の自己意識の類的本質・意味的世界・人間の管理するプログラム・「存在者レベルでの神への信仰」であるという意味での「キリスト教という宗教の産物」であり「神のアナロジー」なのです。したがってそれらのことは、一般論として語られてはならず、宗教社会学が対象としている一般的な自然神学的な神学・キリスト教と、その系譜における根本的問題を自覚し、その問題を、その神学の認識方法および概念構成において根本的に包括し止揚したバルトの「超自然な神学」・キリスト教との厳密な差異性のもとで語られなければならない事柄なのです。橋爪の理解しているキリスト教は、宗教社会学が対象としている一般的な全キリスト教であって、橋爪は、キリスト教にはそれだけでなく世界的な神学者で牧師で思想家でもあるバルトの「超自然な神学」の系譜に属する神学・キリスト教もあることに対して無自覚なのです。
 かつて吉本隆明も、自然神学の系譜に属する八木誠一の信仰・神学理解に対しては疑義を呈しました。もしも吉本が日本の神学者や著述家たちの根本的な誤謬に普遍性の後光をかぶせて語られたバルト論に接していないなら、吉本のような良質な文芸批評家・思想家ならば、バルトの一貫性のあるその「超自然な神学」の認識方法および概念構成に対してなら、なるほどと首肯するに違いないのです。
 さて、佐藤優は、『はじめての宗教論』『右巻』で、「エーバーハルト・ユンゲルをはじめとするバルト門下の優れた神学者たちは、言語哲学を取り入れています」と評価し、大木英夫の『人類の知的遺産72 バルト』については「バルトに関する日本語で書かれた概説書では、……もっとも優れている」とも述べています。自然神学の系譜に属する佐藤は、この評価を、自然神学的な立場からしているのです。そして、ユンゲルは、まさしく、典型的な近代主義的プロテスタント主義的な自然神学者なのです。
 ヘーゲル哲学の後追い知識としてのユンゲルの典型的な自然神学的な語り方は、「神学を表象の媒介のレベルから概念という高位のレベルにまで高めるという〔ヘーゲルの〕思弁的要求を何としても否定しなくてはならないようなことは、わたしにとって、神学を歴史哲学から何としても限界づけなくてはならないということと同様、二次的なことなのである」・「近代的な自由および自律の意識」の「神学的加工処理」・「アブラハム、イサク、ヤコブの神を、たといこの神が幾何学的方法によって論証可能なお方ではないにせよ、哲学者にとっても、思惟可能な神として信じるにあたいするというふうに思惟することはよいことなのである。ただ福音においてのみ言葉に言いあらわされる神を信じるとき人は哲学者であることをやめねばならないということは、よく分からない」、という点にあります。ユンゲルは、一方で哲学者のための神学を目指し、他方で近代主義的な人間の自由な自己意識の無限性と観念的法的政治的自由の概念を「神学的加工処理」をすることによって、未完の近代主義的概念の完成を空想しているのです。(引用はすべて『神の存在 バルト神学研究』)
 大木英夫は、『人類の知的遺産 バルト』で、バルトの『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』にある「人間の精神や良心や内面性だけを問題にする人は、本当に神を問題にしているのか、人間の神化を問題にしているのではないか、ということを問われなければならない」という言葉を引用し、私たち読者にそのことへの注意を喚起した神学者なのです。しかし、ユンゲルの翻訳本の「訳者あとがき」では大木は、自然神学的なユンゲル神学やキリスト教の課題を包括し止揚したバルトのその神学における思想の言葉とは全くベクトルが逆向なユンゲル神学について、「バルト後を確定した」とか、「誰もがそこを回避出来ない一つの道を決定した」とか、「これは日本の知的読者の中にも新しい論議を発火させる焦点となるかも知れない」と平然と述べているのです。それが誰であれ、「バルト後を確定」するためには、バルトのその「超自然な神学」の認識方法および概念構成を根本的に包括し止揚しなければならないもかかわらずです。ユンゲルと同じように、大木はこの思想の原則を知らないのです。
 バルトは、神の側の真実=主格的属格としての「イエスの信仰」(「イエス・キリストが信ずる信仰による神の義」)=啓示の客観的現実性=完了されたイエス・キリストにおける究極的包括的総体的永遠的救済(史)に信頼し固執しました。このバルトの主格的属格理解は、一切の近代主義や自然神学的な全キリスト教に対するアンチテーゼであり、また最後的な根本的かつ究極的な宗教改革の核となるものなのです。また、この神の側の真実=主格的属格としての「イエスの信仰」にのみ、宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」とか、全体が幸せにならなければほんとうの幸せとはならないという『よだかの星』における課題に対する唯一の解決の方途があるでしょう。この意味で、マタイやマルコにある、イエスに注いだ香油を高く売ればある一部の「貧しい人々に施すことができたのに」とベタニアの女を叱責した弟子たちの往相的な相対的・一面的・部分的・過渡的・緊急的な救済の言葉に対して、イエスは、還相的な究極的・包括的・総体的・永遠的な全人間・全世界・全人類の救済の言葉を投げかけていると言えるでしょう。バルトは確信をもって語りました。「すべての人間はキリストの実質上の兄弟である」、「キリスト者になる以前でも、彼は、(《そのあるがままで》)キリストにおける神との連続性の中にいる。ただ、彼はそのことをまだ発見(《認識》)していない」だけである。神の側の真実=主格的属格としての「イエスの信仰」(「イエス・キリストが信ずる信仰による神の義」・救済・平和)=啓示の客観的現実性こそが、不信、非キリスト者(無神論者・反神論者・他宗教者・無関心者等々)、非知、一般大衆・一般市民をそのあるがままに包括し、彼らに対してその信を完全に開くことができる根拠と言えるでしょう。すなわち、信と不信・知と非知・キリスト者と非キリスト者との空隙を埋め、両者を架橋し、両者の枠組みを完全に取り除くことができる根拠と言えるでしょう。 さて、佐藤優は、『右巻』で「究極的な救済をどう得るかという視座から宗教について考察する」と述べ、『左巻』では神学研究の本質と教会の責務は、「個々人の救済、具体的な人間の救済です。人類という抽象的なものの救済ではありません」、と尤もらしく聞こえる言葉で根本的な誤謬に普遍性の後光をかぶせて断定的に述べています。私たちは、この部分を全体とする往相的な一面的形而上学的語り方には疑問符を付した方がいいのです。なぜなら、佐藤のその語り方は、往相的な緊急的相対的過渡的救済の課題のそれであって、還相的な究極的包括的総体的永遠的救済の課題を持たないからです。言い換えれば、佐藤のそれは、往還思想なき形而上学救済理解なのです。しかし、この佐藤とは違って、身近な農民の幸福のために身も心も尽くした宮沢賢治は、往還思想において全体と個との幸福・救済を考えた優れた思想家でもありました。したがって、私たちは、賢治の根本的で良質な言葉の方に耳を傾けた方がいいに決まっているのです。
 また佐藤優は、トマスの『神学大全』とバルトの『教会教義学』を読めば神学の概略を「理解できるはず」だ、と述べています。この佐藤の語り方も、佐藤が信仰・神学・知識の課題を、往相的な信・知の上昇過程・「上から目線」でしか考えていないことの証左なのです。すなわち、佐藤もまた、その自然神学的な人間学的神学の神学領域および人間学的領域の認識方法および概念構成に往還思想を持たないのです。それに対してバルトは、「教義学は、決して信仰と、その認識のより高い段階を意味しない」、なぜなら、「最も単純な福音の宣教も、それが神のみ心である時には、最も制限されない意味で、真理の宣べ伝えであることができるし、最も単純な聞き手に対しても、この真理を完全な効力をもって、伝えてゆくことができる」、教義学者や著述家は、信仰においても、知識においても、「神がここでなし給うことに関しては、教会の誰か一人の会員よりも、よりよい状況にあるわけではない」、教義学者とは「大学」の教義学者や「著述家だけ」のことではなく、「広く一般に、今日および昨日の教義学的問いによって突き当てられ動かされる者たち」のことである、と述べています。
 佐藤優の一方通行的で一面的な部分を全体とする、宗教化され倫理化された往相的な神学・知識・「上から目線」は、必ずや次のような事態を惹き起すに違いないのです。それは、阪神・淡路大震災の時、ある牧師が「武器を持って神戸市役所かどこかに押しかけて行って、被災者の住めるような建物をすぐにつくってくれと、職員を脅かした」ことを話すために、吉本隆明にわざわざ電話をかけた事態です。その牧師の行為に対する吉本の反応――その牧師は「じぶんがやったことを得々としゃべるわけです。ぼくは、ははぁ、戦前とちっとも変っていないやと思いながら聞いていたのですが、もうすこし話がきわどくなったら言い返していた……。(中略)正義のために脅かしたのだと得々としゃべることは、ぼくらが戦争中に『お国のために』といわれたのとまったくおなじことで、そんなの、ちっともよくないよといって口争いになっていたとおもいます」、「日本というか、あるいはアジアの特質かもしれません。ラジカルな人ほど、ほかの分野の人に対してじぶんを押し付けがちです。そういう傾向がとても強い」(『「ならずもの国家」異論』)。私は、この言葉を首肯します。
 また私は、次に紹介するバルトの言葉も首肯します――「ドストエフスキーの書いたあの大審問官は、神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていたのであるが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の善意(《彼の対象化された自己意識の意味的世界・彼の管理するプログラム》)によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、最も洗練された支配行為に過ぎなかったのである。神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえどのように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう。またそのようなところには、教会は存在しないのである。そのような救いの計画と救いの方法の独断性が、神に余りに僅かしか信頼せず、人間に余りに多く信頼するという点に現われるということは、疑いない」(『啓示・教会・神学』)。
 さて、佐藤優の最も悪い語り方は、これです――「神学がなくても信仰は成立しますが、高等教育を受け、『天にいる神』をもはや素朴に信じることができなくなったわれわれ(《高等教育を受けた佐藤》)には神学(《知識》)が必須です。われわれは『天にいる神』をほんとうに信じていませんが、ほんとに信じていないことを口にしてはいけないというのが、キリスト教信仰の第一の前提です。だからこそ神学(《知識》)が不可欠なのです。神学的な操作(《非神話化等の操作》)を経ない限り、われわれは古代の世界像をもっているキリスト教を信じることはできないということです」。この語り方は、佐藤が、近代主義に抗しない著述家であることの証左なのです。なぜなら、佐藤は、近代主義的人間学を神学的思惟の原理としているからです。したがって、このブルトマンの非神話化論を模した語り方をする佐藤は、そのブルトマンの神・信仰は「存在者レベルでの神への信仰」であって、それよりは「むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がいい」と述べたハイデッガーの正当性のある根本的な批判に対して、その批判を包括し止揚する神学の認識方法および概念構成を持たないのです。
 いずれにせよ、佐藤優の高等教育を受けない者は「神学がなくても信仰は成立」すると受け取ることができる語り方は、身の程知らずのとんでもない佐藤の驕りでしかないでしょう。また、なぜ信じられないことを口にしてはいけないのでしょうか?  なぜ?振る必要があるのでしょうか? このことから、佐藤の神・神学は、その最初から近代主義に毒されてしまった佐藤の自己意識によって対象化された意味的世界に過ぎないものなのです。したがって、私たちは、神学としても人間学としても非自立的で中途半端なその佐藤の意味世界に耳を傾け聞くよりは、世界思想の水準にある吉本・フーコー・ヘーゲル・フォイエルバッハ・マルクスや、賢治・太宰・漱石・ドストエフスキー等の自立的で良質な優れた人間論や人間学の意味的世界に耳を傾けた方がいいに決まっているのです。佐藤とは違って、「超自然な神学」者で思想家でもあるバルトは、神学における往還思想において、その神学の認識方法および概念構成に、不信・非知・非キリスト者をそのあるがままに包括して次のように語っています。「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。(中略)自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、……『自分の理性や力によっては』……全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ……(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ9・24〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)。

 

 このバルトの質の良い言表の前で、質の悪い佐藤の知識人ぶった往相的発言は、完璧に色褪せてしまうでしょう。カトリック作家の小川国夫は、吉本の「あなたはキリストの復活、再臨を信じているのですか」という問いに対して、「信じています」と答えています。佐藤は、信仰的・神学的・知識的に、バルトや小川や、高等教育を受けなかった人たちよりも優れているとでも言うのでしょうか? そうとでも思っているのでしょうか?
 往相の信仰・神学・知識の人である佐藤は、バルトとキルシュバームとの対関係が日本では封印されていることを、「火宅の人、バルト」などと得々と意味ありげに述べています。しかし、神学における往還思想の持ち主のバルトは、佐藤のような人物が指摘してくるであろうことを予想していて、『福音と律法』で、罪の本質は人間の自主性・自己主張・無神性にあるのであって、「余りに性急に、余りに熱心に、念頭に置いて来た」「性的リビドー」(「『死んでいる』罪の成果の一部」)にあるのではない、という言葉を置いています。もっと言えば、ヨハネ8章の「姦通の女」においてイエスの語った、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」という、私たち人間の内面の普遍性に届く言葉を聞いて、佐藤はこの女に石を投げられるとでもいうのでしょうか? 佐藤が日本においてバルトとキルシュバームとの対関係が封印されていることを問題にするのであれば、そのことよりももっと第一義的に重要で根本的な事柄に属することで封印されていることについて語るべきでしょう。事実として、全キリスト教の最後的な根本的かつ究極的な宗教改革の核である、バルトの「イエスの信仰」の主格的属格理解について完全に封印されています。ほんとうは、この神の側の真実=啓示の客観的現実性にのみ信頼し固執する神学・キリスト教が成立しない限りは、キリスト教は、不信とむなしさと不確かさと不安が蔓延する現在から未来に生きることは決してできないでしょう。なぜなら、人間の感覚や知識を内容とする経験・経験的普遍を第一次化し、人間論や人間学の後追いをする非自立的で中途半端な自然神学的な神学・キリスト教は、神と人間・神学と人間学との混淆論・共働論に信頼し固執するそれとして、時流や時勢・人間論や人間学の盛衰に流され続けて、最終的には自然時空の中へ死語化していく以外にないからです。そうした神学・キリスト教の位相について、トゥルナイゼンは、「神自身が人間の霊魂的……歴史的な現実の構成要素となり、従ってもはや神ならぬもの……偶像となる」、この「反逆」が、「危険なわけは、……神の名において、神の呼びかけのもとに行われるからである」、と述べています。

 

 

【ユンゲルに関する記事につての追補】
 自然神学的な人間学的神学者のブルトマンが前期ハイデッガーの哲学原理を第一次化したように、やはり自然神学的な人間学的神学者のユンゲルは、へーゲル主義者として、ヘーゲル哲学を紙一重で超えるという神学における思想の課題を担うことなく、ヘーゲルにおける、他在であって自在の自由の概念および区別を包括した同一性の原理、すなわち存在と本質との統一としての「生成」概念を第一次化した。ユンゲルは「序言」で、「神の存在は生成においてある」とか、「神の存在の存在論的位置づけ」とか、「神の存在がそれにおいてあるところの生成」とか、「生成」とは「神の存在がそれにおいて在る在り方を指示している」とか、「神の存在の存在論的場も神の選びたもうたところの場である」とか、述べている。
 これらのことは、バルトの『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、根源的・起源的には、「子と霊は父とともにひとつの本質である。神的本質のこの単一性の中で子は父から、霊は父と子からであり、他方」、神の内三位一体的「父は自分自身以外の何ものからでもない」、ということである。神は、イエス・キリストにおいて、インマヌエル、すなわち「神われらと共にいます」という存在の仕方で、顕現・自己啓示したということは、単一性・神性・永遠性を存在の本質とする「自己を覆い隠す」・隠蔽性・「聖性」としての神が、その「存在の仕方」において、子として「自分を自分から区別」したことを意味する。これは、神の全き自由としての「自在性」の規定、すなわち神の「存在の本質」である単一性・神性・永遠性の規定である。神の内三位一体的「父は自分自身以外の何ものからでもない」わけであるから、父ヨリ出ズル子、父ト子ヨリ出ズル御霊、となる――このことは、区別を包括した同一性、神の自在性における生成である。自在性、すなわち単一性・神性・永遠性を存在の本質とする神は、父・子・聖霊として「ご自身との共同性の中に生きてい給う」、というように言うこともできる。また、人間へと向かう神性を本質とする神の「存在の仕方」に目を向ければ、「和解ないし啓示」は、「創造の継続」や「創造の完成」ではなく、神性を本質とする神の「存在の仕方」の差異性における「第二の存在の仕方」であるイエス・キリストの「新しい神の業」である、ということになる。それは、「神的な愛の力」・「和解の力」であって、イエス・キリストは、和解主として、創造主のあとに続いて、神の「第二の存在の仕方」において「第二の神的行為を遂行」した、と言うことになる。この神の「存在の仕方」の差異性における「創造と和解のこの順序」に、「キリスト論的に、父と子の順序、父(≪啓示者≫)と言葉(≪啓示者≫)の順序」が対応しており、「和解主としてのイエス・キリスト」は、創造主としての父に先行することはできない。もちろん、しかし、父・子は共に、その存在において単一性・神性・永遠性を本質としているから、この従属的な関係は、「存在の本質」の差異性を意味しているのではなく、人間へと向かう神の他在における「存在の仕方」の差異性を意味しているということになる。そしてまた、神の三つの存在の仕方における「存在論的場」は、「成就された時間」・「成就の時間」・「イエスがご自分〔の生きていること〕をお示しになった」「キリスト復活の40日(使徒行伝1・3)」を基軸とすれば、神性を本質とする神の第一の存在の仕方(父)の場所は、「旧約聖書的な待望の時間」の場所であり、神性を本質とする神の第二の存在の仕方(子)の場所は、「新約聖書における啓示証言の時間、新約聖書の時間、使徒の時間」の場所であり、神性を本質とする神の第三の存在の仕方(聖霊)の場所は、「聖霊降誕日」以降の時代の場所である、ということができる。
 上記の事柄を、バルトの『教会教義学 神の言葉』に即して簡潔に整理すれば、聖書でイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「失われない差異性の中」で三つの「存在の仕方」において「三度別様」に父・子・聖霊なる神であって、その「存在」は「失われない」単一性・神性・永遠性を「本質」とする「一神」・「一人の同一なる神」である。したがって、「三神」・「三の対象」・「三つの神的我」ではなく、父、子、聖霊の三つの「存在の仕方」の、単一性・神性・永遠性を「存在の本質」とする「一人の同一なる神」、すなわち「三位一体」の神である、したがってまた、単一性・神性・永遠性を「存在の本質」とする神の完全さ・自由さは、父・子・聖霊の三つの「存在の仕方」の完全さ・自由さである、と言うことができる。ユンゲルが「序言」で書いていることを分かり易く言い換えれば、このように言うことができる。
 しかし、自然神学の系譜に属する近代主義的プロテスタント主義的なユンゲルの人間学的神学には、根本的な問題がある。それは、その神学の認識方法と概念構成それ自体において、ヘーゲル哲学を紙一重で超えるという神学における思想がない、ということである。したがって、ユンゲルが「神学的加工処理」と言ってみたところで、その実質は、ヘーゲル哲学やハーバーマスの後追い知識そのものでしかない、という点にある。言い換えれば、ヘーゲル哲学やハーバーマスの後追い知識として、神学としても人間学としても中途半端で非自立的である、という点にある。「神学を表象の媒介のレベルから概念という高位のレベルにまで高めるという〔ヘーゲルの〕思弁的要求を何としても否定しなくてはならないようなことは、わたしにとって、神学を歴史哲学から何としても限界づけなくてはならないということと同様、二次的なことなのである」・「アブラハム、イサク、ヤコブの神を、たといこの神が幾何学的方法によって論証可能なお方ではないにせよ、哲学者にとっても、思惟可能な神として信じるにあたいするというふうに思惟することはよいことなのである。ただ福音においてのみ言葉に言いあらわされる神を信じるとき人は哲学者であることをやめねばならないということは、よく分からない」――このように、ユンゲルにとっては、神も神の配慮も、哲学者や知識人のためのものでなければならないわけである。まさしくユンゲルの神・信仰・神学の位相は、フォイエルバッハの宗教批判の対象そのものであり、ハイデッガーの揶揄・批判した「存在者レベルでの神への信仰」そのものである。一言でいえば、ユンゲルには、その神学の認識方法および概念構成において、ヘーゲル哲学を紙一重で超える神学における思想がないのである。
 それに対して、福音の内容そのものであり・啓示の客観的な実在そのものであるイエス・キリストの名にのみ信頼し固執する「超自然な神学」の原理・認識方法と概念構成それ自体において、正当性のある根本的なフォイエルバッハの宗教批判やハイデッガーの「存在者レベルの神への信仰」批判を含めて、一切の近代主義や自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教・キリスト教を、単純に根本的に包括し止揚してそこから超出しようとした神学における思想家・バルトは、ヘーゲル哲学を紙一重で超えていったのである。そのための単純で根本的な原理は、次のようなものである――@神と人間との無限の質的差異は、「聖書の主題であり哲学の要旨である」(『ローマ書』)。Aローマ3・22およびガラテヤ2・16等の「イエスの信仰」の属格は主格的属格として理解されるべきものである。徹頭徹尾全面的に、神の側の真実としてのみ理解されるべきものである。イエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)が一切合切であり――これが、啓示の客観的現実性である(『福音と律法』)。B「聖霊は、人間精神と同一ではない」・「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」。聖霊によって更新された理性も聖霊ではない(『教義学要綱』)C他在であって自在としての自由は、神自身においてのみ「実在であり真理」である(『教会教義学 神の言葉』)。