カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

カール・バルトの生涯――カール・バルトの生涯の思想を決定づけた処女作『ローマ書』「第2版」へ向かって(その2−2)

カール・バルトの生涯
再推敲・再整理版です。

 

カール・バルトの生涯の思想を決定づけた処女作『ローマ書』「第2版」へ向かって(その2−2)
 1911年、バルトは、牧師としてザーフェンヴィル教会に赴任し、そこで、1921年まで生き・生活し・喜怒哀楽し・思惟し・牧会し・神学し・意志し・活動した。ここで、重要なことは、バルトは、このザーフェンヴィル時代に、前述した「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」「時間と永遠との『無限の質的差別』」(神と人間との無限の質的差異)の概念を確信をもって明言した処女作『ローマ書』「第2版序言」(1921年9月、35歳の時)に向かって成熟した、ということである。この「あとにはなにがくるのか? 現実と時代とがかれに強いたものが、ひとつの思想の展開としてやってくる」(吉本『カール・マルクス』)。それは、バルトにとっては、その不可避的な必然性として、先ず西欧近代における宗教改革書としての『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』の展開として、また成熟の書としての『福音と律法』の展開としてやってくる。このようなレンガを積みあげて行く作業の中から、その不可避的な必然性として、『教会教義学』を展開する作業がやってくるのである。ここでレンガを積みあげて行く作業とは、例えば、『神の人間性』に即して言えば、バルトが、「神の神性において、また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」という時、それは、神と人間との無限の質的差異(『ローマ書』「第2版序言」)の下にある「神の神性において」、(受肉は、その「言葉」の受肉であって、その「神性」の受肉ではないところの)まことの神にしてまことの人間という仕方で、すなわち「イエス・キリストの名」という仕方で、「神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」という意味なのである。したがって、バルトは、ただし書きを、すなわち神と人間との無限の質的差異の下で、「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人は、今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」という言葉を置いているのである。
 まさに、バルトは、「このザーフェンヴィル時代に……私の道の決定的な、本質的転換が起こった。この方向転換によって、私のその後の外面的な経過も決定されることになった」。バルトは、1921年10月、ザーフェンヴィル教会で「退任説教」をし、ゲッティンゲンへ向けて出発するのであるが、そのことは、バルトにとって、神学者として、また神学における思想家として、危機にあるにしても世界普遍性を持った人類史の西欧近代の段階における、総括的に言えば一切の自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教を、根本的原理的に包括し止揚し克服していく宗教改革の道へと踏み込むということを意味していた――「われわれは神を『信じ』つつ、実はわれわれ自身を義とし、享楽し、崇拝している。……われわれの敬虔は、あらゆる仕方で謙虚と感動を表しながら、実は神御自身に逆らうことをその本質とする。われわれは時間を永遠と混同する。それがわれわれの不逞である。そしてそれが、キリストを除外した場合の、すなわち復活の此岸における、ないしはわれわれが糾正されない先の、われわれの対神関係である。この場合、神自身は神と認められず、神と称するものは、実際には人間自身なのである」(『ローマ書』)、すなわち人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された対象物、すなわち「存在者レベルでの神」、偶像そのものなのである。

 

 このバルトは、「一二年間の牧師生活の間」、説教や堅信礼教育に「骨折りを惜しまなかった」。そして、バルトは、説教の準備に熱心であった――「彼は説教の準備にまる二日をかけ、『五回も初めから書き直し』」た。また、バルトは、説教において、教会員に「深い印象を与える」ために、「ただ読み上げるというのではなく、……原稿から離れて自由に話」すことができるように心がけた。しかし、彼の説教のスタイルは、まだ、近代主義神学者のスタイル、「自由主義神学者のスタイル」を保持していた。したがって、その説教の内容は、「近代神学的説教」であった。すなわち、その時にはまだ、「シュライエルマッハーを、宗教改革の天才的再興者として称賛して」いた。このザーフェンヴィル時代を、バルトは、後年になって後悔している――(1925年)「私は結局のところ、ザーフェンヴィルの牧師としてはまったくうまくやれなかったという思いが私を苦しませます」。このような自然的な信仰・神学・教会の宣教における体験の思想化を通して、後年バルトは、次のような説教論を構成した――説教の無条件的な出発点と目的は、「新約聖書において聞く啓示、和解」、イエス・キリストの死と復活の出来事の啓示、その内容である「インマルエル、神われらと共にいます」である。したがって、われわれは、「キリストからすべてのことを期待しなければならない」。このことが「終末論」である。したがってまた、「キリスト教的終末論とは、キリスト論にほかならない」。ここで説教は、「感謝と確信と共に期待の態度と行動」である。「第一の来臨(≪イエス・キリストの誕生・死と復活≫)と第二の来臨(≪終末、復活されたキリストの再臨、「完成」――『バルトとの対話』≫)との間(≪聖霊の時代≫)に、説教と、また同時にキリスト者の生活全体」とがある。説教は、説教者の自由事項や決定事項ではないのであるから、「自分自身の言葉から由来すべきではなく、どのような場合であれ、その形式と内容において」、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である「聖書への絶対的信頼に基づく、聖書講解であることの義務を負っている」。したがって、「説教者が、実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言いつくしていない(≪近代に生きる人間の感覚と知識を内容とする経験、近代的な情報が不足している≫)と考えるようなことがある限り、「彼は、この信頼、信仰を持っておらず、真に信仰によって生きようとしていない」のである。起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストの福音は、「われわれの思考や心情の中にあるのではなく」、預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」としての第二の形態の神の言葉である「聖書の中にある」から、われわれは、われわれの「思想」、「最高の習慣、最良の見解、そのようなものいっさいを、聖書に聴従することの前で、放棄しなければならない」のである。その「聖書は(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、すなわち客観的な啓示の出来事とその啓示の出来事の中での主観的側面である「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて≫)神の言葉となる」ところで、「聖書は神の言葉なのである」。言い換えれば、われわれは、聖書に「聴従」するために、起源的な第一の形態の神の言葉自身の「出来事」の自己運動の中において、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、すなわち客観的な啓示の出来事とその啓示の出来事の中での主観的側面である「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて、その第二の形態の神の言葉である「聖書によって導かれなければならない」のである。説教者にとって、「彼らに語らなければならない彼ら自身に関する真理」は、「神がすでに為した」「わたしの前にいるこの人々のために、キリストは死に、甦られた」――神、罪深きわれらと共に、ということである(『説教の本質と実際』)。

 

 生来的な自然的な理性(思惟)を自覚した人間は、「自然から区別され」た自由な人間である。この規定は、ヘーゲル的である。この理性(思惟)の使用は、「神に対する人間の使命である」、とバルトは述べている。このバルトは、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性(≪善意志≫)にあるとするような信仰である」としたカントを称賛している。この時期のバルトは、神と人間との無限の質的差異を止揚し、神の人間化あるいは人間の神化の原理を発見したヘーゲル哲学の根本的包括的な原理的な問題について、まだ認識し自覚していないのである。したがって、この時期のバルトは、フォイエルバッハによる「キリスト教批判」(宗教批判)に対しても認識し自覚していないのである。この時期のバルトは、このような状態にあったから、バルトが自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階とは決定的に異なる段階へと移行するためには、換言すれば先ず以ては『ローマ書』「第2版序言」の段階へと至るためには、まだ時間を要したのである。
 先ず以て『ローマ書』「第2版序言」の段階へと至るためには、「現実と時代」がバルトに加担しなければならなかった。それは、バルトにとって、先ず「牧会活動」への「集中」から惹き起こされた。すなわち、「私は、自分の教会の中で具体的に目撃した階級対立によって、初めて現実の生活の持つ現実の問題性に触れることになった」・「私の主な勉強は、(≪「自由神学の線にそった本来の研究の続行」ではなく、≫)〔今や〕工場法立法とか保険制度とか労働組合論といったものに向かい、私の心は、私が労働者の側に立つ態度をとったことから引き起こされた、地域の、州内部における、激しい闘争に引きこまれて行った」。バルトは、労働組合を結成せず低賃金の劣悪な労働環境における労働者に対して、「理論を教え、実際の支援によって援助し、組織的な行動に導」こうとした。次には、1912年の「父の死の床」での言葉であった――「主イエスを愛することが主要な事柄である。学問でも、教養でも、文献批評でもない。神との生きた結びつきが必要である。それを与えられるように、われわれは主なる神に祈り求めなければならない」。しかし、だからと言って、バルトが、総括的に言えば一切の自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教を根本的原理的に包括し止揚してそこから超出したわけではない。神学においてだけでなく、社会的政治的な実践においても、護教的態度や「社会主義の宗教的変容」を目指しはしなかったが、バルトは、神学的にも思想的にも未熟であった。次のようなバルト自身の言葉によって、そのことをよく知ることができる――「正しい社会主義は、今の社会主義者がやっているようなものではなく、イエスが実践したようなものである」・「イエスの人格の本来の内容は、社会・運動という二つの言葉に集約される」・したがって「神の前に通用する精神は、社会主義的精神である」・「社会主義の諸要素」は「福音の適用の重要な部分」である。バルトは、「これらの諸要求に答えるために、労働者たちを政治的に教育し、啓蒙することによって応援するという形で参加しようとした」。この時期のバルトの未熟さは、その神学においても、その思想においても、先ず第一に、先ず以て聖書に基づいて人間の「困窮」と人間の救済の方法を認識し理解しようとはしていなかったから、外部から「労働者たちを政治的に教育し、啓蒙する」という外部注入によって大衆を啓蒙しようした点にあり、またその場合、過渡的課題(往相的課題)と究極的課題(還相的課題)との思想の往還という思想的課題に対しても全く認識され自覚されていなかった点にある。したがって、社会的政治的な人間の解放の問題に関しても、この時期のバルトは、まだ、観念的な法的政治的解放の部分性(緊急的・相対的・過渡的課題)と観念の共同性を本質とする国家の無化を伴う現実的な社会的人間的な解放の全体性(究極的・総体的・永続的課題)という総体的課題における革命像に対して認識し自覚していなかったのである。この点についても、バルトがそのような状態から超出するためには、例えば『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』、『福音と律法』、『証人としてのキリスト者』等々まで待たなければならなかった――聖書における「困窮」理解は、われわれ人間が、日々瞬間瞬間、神から遠ざかり・遠ざかり続け・罪を新たな罪を犯し続けており、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求(無神性・不信仰・真実の罪)を持っており、それ故にそのような人間の救済にある、という点にある。『教会――活ける主の生ける教団』「証人としてのキリスト者」で、バルトは、次のように述べている――「人間そのもの」は、「キリストなしの人間は破滅したものだということ以外の何を、語り得るであろう」、と述べている。ここで、「破滅」したものとは、「多少破滅したものということではなくて」、徹頭徹尾全面的に、「全く破滅したものだということである」。したがって、「キリストは、われわれを、われわれのために死ぬということ以外の仕方では、救い得給わなかった。われわれは、そういうことによって救われるという以外の仕方では、救われ得ないのである」。われわれは、キリスト者でなくても、自分が現に身近に接している「食物の飢え」で困窮している具体的な一人の人や一部の人を施しや奉仕によって過渡的・緊急的・相対的に救済しようとするだろう。「人の苦しんでいるのを、われわれが実際に見る場合には、当然われわれは、助けを待ち設ける」だろう。この飢餓等で困窮している人たちを目前にして食糧を提供することは、思想にとっては過渡的な考え方・緊急の課題に属している。「しかし、ご注意願いたいが、私はかつては、宗教社会主義者であった。そして、それから離れたのである。それは、そこでは人間の困窮と人間に対する助けとが、聖書が理解しているほどには、真剣に理解されておらず、深く理解されていないということを、見るように思ったからである」(マタイ26・6−13、マルコ14・3−9)、また例えば、『カール・バルトの生涯』には、次のように書かれている――バルトの神学的実存は、それが社会的な事柄であれ政治的な事柄であれ、「かつて語った(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における「神への愛」と、その「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」という連関の中での純粋なキリストにあっての神・純粋なキリストの福音の≫)説教の一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから実践に、決断に、行動になって行った」という在り方にある、「私は……『今日の神学的実存』誌の第一号において……何も新しいことを語ろうとしたのでは ……ない。すなわち、われわれは(≪キリストにあっての≫)神と並んで、いかなる神々をも持つことはできないということ、聖書の聖霊は、教会をあらゆる真理へと導くのに十分であること、イエス・キリストの恵みは、われわれの罪の赦しとわれわれの生活の秩序にとって十分であることを語った。但し、私がまさにこのことを語ったのは、それがもはやアカデミックな理論などといった性格にはとどまりえず、むしろ、私がそういうものにしようともせず、また実際にそうしなかったのに、それが呼びかけ、要求、戦いの標語、信仰告白にならざるをえなかったという状況においてであった」、と。後に、このように自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階を根本的原理的に包括し止揚し克服した段階にまで至ったバルトは、社会的政治的実践においても、次のような水準に至ったと言うことができるのである――「マルクスの完結した体系は、……理論が彼を実践のほうへ必然的につれてゆくようにできあがっていた」、このマルクスは、「ただ労働者への実行をよびかける活動こそ重要だというもっともらしいことをいう目覚めた労働者の使徒」に対して、「はっきりした基盤のうえにたたず労働者を扇動すること(≪外部注入的に啓蒙すること≫)は、馬鹿げた使徒と、それにききいる馬鹿げたロバをつくりだすだけだ」・「無知が役にたったためしはない」、すなわち革命理論は、先に述べたように、革命の過渡的課題(最低綱領)と究極的課題(最高綱領)との往還を念頭において、その思想(理論、観念)に、絶えず繰り返し、その社会構成、その支配構成、その文明的文化的構成に現存する社会的存在の自然基底である大衆的課題と大衆像を繰り込んでいくというものでなければならない(吉本『カール・マルクス』)。

 

 バルトは、1913年3月、ネリ・ホフマンと婚姻する。
 この時期のバルトは、まだ、自然神学的な「一つの『宗教哲学』の形成という形で、さらに先に進まなければならないのではないかと自問」していた。1916年、ヘルマン・クッターと出会い、後になって彼を否定的に媒介することになるという意味で、彼に「決定的な影響」を受けた。また、バルトは、クッターを通して、社会運動と平和運動に熱心なレオンハルト・ラガツのいたグループと接触する。このクッターとラガツが、1906年にスイスの宗教社会主義運動を発足させた人物である。その機関誌は『新しい道』であった。また、その体系は、「教会は社会主義が、神の国の先行現象であるとの態度決定すべきだという理論」にあった。この体系的思考に対しては、バルトもトゥルナイゼンも反対した。しかし、このバルトは、スイスにおける社会民主主義の実現の必要性も論じている。また、バルトは、『新しい道』誌に、「資本主義の『罪悪』は神なしの世界の指標である」という見解も載せている。しかし、このバルトの人間学的見解は、恣意的であるということができる。何故ならば、それが良きものであれ・悪しきものであれ、人類史の西欧近代の段階における資本主義の発生と資本主義社会を自然史の一部としての人類史の自然史的過程における自然史的必然としての自然史的成果であると見るマルクスの、次のような思惟と語りの方が、正当性と妥当性があるからである――「私の立場は、経済的な社会構造の発展を自然史的過程として理解しようとするものであって、決して個人を社会的諸関係に責任あるものとしようとするものではない。個人は、主観的にはどんなに諸関係を超越していると考えていても、社会的には畢竟その造出物にほかならないものであるからである」(『資本論』「第1版の序文」向坂逸郎訳)。さらに言えば、ミシェル・フーコーは、次のように述べている――マルクスは資本主義の分析の際に、「労働者の貧困という問題に出くわして自然の希少のためだとか計画的な搾取のせいだとかといった、ありきたりの説明を拒」んだ。何故ならば、資本主義制度における生産は、制度的必然として、「その基本的法則によって必然的に貧困を生産せざるをえない」ものだからである。すなわち、資本主義や資本主義社会は、「何も働き手を飢えさせるために存在しているわけではないが、かといって彼らを飢えさせずに発展することもできない」ものなのである。したがって、「マルクスは搾取を告発するかわりに、生産を分析した」のである(桑田禮彰・福井憲彦・山本哲二『ミシェル・フーコー』「セックスと権力」新評論)。さらに言えば、吉本は、次のように述べている――人類史の尖端性としてある西欧近代の段階における資本主義が悪や欠陥を持っていることは、制度的必然として原理的に自明なことである。しかし、資本主義は「人類の歴史の無意識(≪自然史の一部である人類史における自然史的過程の自然史的必然≫)の生んだ……最高の出来栄えの作品」である。したがって、「資本主義が産みだした文明も文化も人類の最高の作品」である、すなわち人類史の西欧的段階における西欧文明も西欧文化も人類の尖端的な作品である。したがってまた、資本主義には「悪」と「欠陥」・搾取・貧困があるから資本主義が産みだした「文明や文化や商品も悪」で欠陥があると資本主義を批判しその文化や文明を批判しても、その「最高の作品たる根拠を揺るがすことはできない」。すなわち、その根拠を揺るがし資本主義を超えるためには、資本主義そのものとその資本主義が生み出した文明や文化や商品を包括し止揚する以外にはないのである。言い換えれば、第一に、還相的な究極的総体的永続的課題として、資本主義的段階を包括し止揚し克服するためには、資本制的生産様式(交換価値論)とは異なる新たな生産様式(新たな価値論)を構成しなければならないのである。その可能性は、世界普遍性としてある人類史の母胎・母型・原型であるアフリカ的段階にまで時間を遡及して、その段階における種々の贈与制の歴史的批判的な調査・解明に基づくその再構成にある。すなわち、民族国家の枠組みを超えた世界的規模での技術的・産業的・経済的な地域特性化に基づく贈与制の構成、等価交換的価値論を包括し止揚した高次の贈与価値論の構成にある。それができれば、経済社会構成を資本制におく西欧近代の段階を超え出て、次の段階に超出することができる。また往相的な過渡的緊急的課題としては、資本制的文化であっても、その優れた点については評価すべきであるから、創造的な批判は、それを包括し止揚してそれを超えた作品を創造する以外にはないのである(『マルクス―読みかえの方法』)。

 

 1914年8月、第一次世界大戦が勃発した。ザーフェンヴィルの住民たちも、「多数『国境警備』に召集された」。バルトも、「何回か、夜間に小銃で武装して『村の警備』」にあたった。この時、バルトの「ドイツにおける先生たちのほとんど全部」を含めて、「九三人のドイツの知識人」は、皇帝ヴィルヘルム二世とその首相ベートマン=ホルヴェークの戦争政策への支持を表明した点にあった。この戦争イデオロギーへの「倫理的屈伏によって、彼らの聖書釈義や教義学」、「倫理学」や「説教の世界全体」が根底から崩されることになった。このことを契機に、「バルトの批判は、……十九世紀の神学全体にまで及ぶようになり、ついにシュライエルマッハーにまで達した」。また、「ドイツ社会民主党」も、「戦争イデオロギーに屈服した」。しかし、バルトは、その社会民主党に対する「批判を行った」が、1915年入党することになる。何故ならば、その当時のバルトは、聖書啓示証言に信頼し固執し固着し連帯した自らの神学の原理、自らの神学の認識方法と概念構成それ自体によって、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教を、まだなお払拭できずにいたために、「大戦勃発後、キリスト教と社会主義のどちらも、『改革』を必要としており、……『真のキリスト者は社会主義者にならなければならない』……真の社会主義者はキリスト者でなければならない」、と考えていたからである。

 

 バルトは、1915年11月15日、「バーゼルで『戦争の時代と神の国』と題して講演を行った」。この講演は、処女作『ローマ書』「第2版序言」の思想へと向かって成熟していく萌芽、と言うことができる。何故ならば、その講演は、「人間的な改革の試み」や「世俗内の領域」からは、「なにも新しいものは期待し得ない」ということを、確信をもって認識し自覚したものだったからである――神とは全く異なる人間の「世界は(≪あくまでも人間の≫)世界である。しかし(≪徹頭徹尾、神と人間との無限の質的差異の下で、あくまでも≫)神は神である」。処女作『ローマ書』「第2版序言」の思想へと向かって成熟していくバルトの思惟と語りは、聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯したところでの神の側の真実としてある事柄を尋ね求めていくことを通して為されている。しかし、バルトは、「政治的牧師というものを、どのような形にせよ、たとい社会主義的なものであっても、誤りだと考えていた」が、一方で、神と人間とのあるいは神学と人間学との「混淆」、「混合」、「共働」、「協働」において、当時はまだ社会主義を「現に働いている」「神の国の……しるしの一つ」と考えていたし、この彼は「人間として、また市民としては……社会主義の側に立っていた」。しかし、1916年の説教において、「神学する姿勢に対する根底的な転換」を果たした。それは、「神は神であることを承認すること」・「神について語ることの原理的な困難さの認識は、すでにそれだけで神についての正当な認識である」という確信と自覚である。この根底的な転換と並行して、バルトは、「ますます宗教社会主義のグループから遠ざかって行った」。

 

 1916年、バルトは、「神学のABCを改めて学び直す」試み、具体的には「旧・新約聖書を講読し、注解することからやり直す試み」により、「見よ、聖書の各書がわれわれに向かって語り始めたのである――しかも、当時の近代神学学派(≪自由神学学派、総括的に言えば自然神学学派≫)の中で聖書が語るのを聞かねばならないとわれわれが考えていたのとは、まったく違った形で語り始めた」のである。バルトは、「ローマ書と取り組」み、「読みに読み、書きに書いた」。それは、「博士論文」としてでもなく、売る目的のためでもなく、「ただ自分のために書いた」。言語の自己表出性にだけ寄り添って、自己解放のために書いた。しかし、このことは、「われわれの敵対者たち(≪総括的に言えば自然神学者たちあるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教者たち≫)からパウロを奪いかえすために」書くようにして書いたということを意味していた。このことは、神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける救済と平和を、人々に告白し・証しし・宣べ伝えることになるであろう。その時、「使徒パウロが……聖書の証言の真理性と明証性への導き手となった」。ここで、バルトは、シュライエルマッハーからも、マールブルク時代の教師たちからも、ラガツと宗教社会主義からも、ようやく離反することになる。このように、バルトは、先ず以ては「神学のABCを改めて学び直す」試み、すなわち「旧・新約聖書を講読し、注解することからやり直す試み」から『ローマ書』第一版へと向かう道を歩み出し、「初めて大声で」、「もはやシュライエルマッハーを信頼することはできないと、……語った」。このことは、一言でいえば、聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯した自らの神学の原理、自らの神学の認識方法と概念構成それ自体で、総括的に言えば一切の自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の巣窟である神と人間との無限の質的差異を止揚して、人間の神化あるいは神の人間化の原理を発見したヘーゲル哲学を包括し止揚し克服していくことを意味していた。このためには、先ず以て、人間の側からする神との「混淆」論、神との「共働」・「協働」論、「神人協力説」の根拠となる、換言すれば自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の根拠となるローマ3・22およびガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」の属格に対する伝統的なルターの目的格的属格理解(イエス・キリストを信じる信仰という目的格的属格理解)を、聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯して包括し止揚し克服しなければならない。すなわち、先ず以て、徹頭徹尾、先行する神の側の真実としてある主格的属格理解として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)という立場において、伝統的なルターの目的格的属格理解を包括し止揚し克服しなければならない。このためには、バルトにとっては、『ローマ書』「第2版序言」を経由し、『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』を経由し、『福音と律法』まで待たなければならなかった――この時間累積を必要とした。

 

 1917年の講演『聖書における新しい世界』では、バルトは、「聖書においては、『歴史』ではなく、道徳でもなく、宗教でもなく、一つのまったく『新しい世界』」が、「神についての人間の正しい思想ではなく、人間についての神の正しい思想」が、「姿を現わした」、と述べた。このバルトは、社会的問題に関しては、労働組合の結成に主要な関心を持っていたが、1917年の末には、彼は「直接宗教社会主義運動から脱退した」。また、1917年のロシア革命の問題点について、バルトは、◎プロレタリア独裁は階級制廃止と矛盾する(何故ならば、その概念は、プロレタリア階級概念よりも規模の大きい社会的存在の自然基底である大衆概念を包括していないからである)、◎前衛・職業革命家による独裁・一党独裁は中央集権化を惹き起こす(何故ならば、それは、現実的な社会を第一義性・価値性とする社会主義の構成を目指さず、国家を第一義性・価値性とする国家主義的社会主義を目指すものに過ぎないからである)、◎民主主義の持つ欠陥は民主主義の廃止によっては改善されない(何故ならば、民主主義を包括し止揚するという仕方でしか、次のよりよい段階へと移行することはできないから。それ故に、擬制民主主義としての議会制民主主義は、観念の共同性を本質とする国家の無化という究極的課題を念頭に置きながら、国家(政府)を国民にどこまでも開いていく憲法規定の構成にある)、と述べている。1919年の講演『キリスト教的生活』においては、「神の国の絶対他者性」が明確化された――神と人間との無限の質的差異の下で、「神の国は神の国である。われわれは、神的なもののアナロギアから人間的現実への移行というものをどれだけラディカルに考えても十分だとはいえない」・「新しいエルサレルは、新しいスイスとか革命によって実現される未来国家などとは、なんの関係もない。むしろ新しいエルサレムは、(≪全き自由の神の、その神の側の真実としてあるものとして≫)その時が来ると、神の偉大な自由によって地上に到来するのである」。この神の自由の概念は、『教会教義学 神の言葉』および『教会教義学 神論』において、「自由」、「主権」は、「神ご自身においてのみ実在であり真理である」という概念規定を得る、また神の自由の概念は、「自己自身である神の自由」としての「自存性の概念(≪自由の概念の積極的側面≫)」と、神とは異なるものによって為される「すべての条件づけからの神の自由」としての「独立性の概念(≪自由の概念の消極的側面≫)」との総体性・全体性において定義される。

 

 1918年の講演『社会におけるキリスト者』で、バルトは、「キリスト御自身つまり神の国」は、「あらゆる既成のものに先立つように、あらゆる革命にも先立つ革命である」と述べて、キリストを、「宗教社会主義」に、「社会民主主義」に、「絶対平和主義」に、「教養ある人たちの自由主義」等人間の「お好み次第に世俗化すること」に対して、「否定をつきつけ」た。後の『教会教義学 神の言葉』においては、一切の近代主義、近代主義的神学あるいは自由主義的神学、総括的に言えば一切の自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教に対する思想的武器は、神と人間との無限の質的差異の概念であり、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち「キリストの永遠のまことの神性の告白」であると述べられている。

 

 1920年、バルトは、さらにまた『ローマ書』「第1版」「において展開した考え方を、さまざまな観点から」、「集中的研究によって新しく批判的に再検討」した。何故ならば、当時バルトは、「コリント第U」の連続説教において、『ローマ書』における「ユニバーサリスト的見解に反して」、まだキルケゴール的な単独者の概念や啓示の弁証を展開していたからである――「光は喜びを与えるとともに目をくらませる。風は、爽快にするとともに寒さにふるえ上がらせる」・「神関係は自由な関係である。それは、前もってすべての人にかかわるのではなく、先ず第一に単独者にのみかかわる」。この時には、バルトにとって、シュライエルマッハーはすでに破綻した役立たずの神学者でしかなかった。ハルナックもそうでしかなかった。その中で、バルトは、キルケゴールの神と人間との無限の質的差異という概念(「方式」)だけは、最後の最後まで、ずっと一貫して手離すことはしなかったが、キルケゴール的な単独者の概念を払拭していく。例えば、次の引用がそれである――「個々の人間による和解の主体的実現という問題は、絶対に欠くことの出来ない問題」ではあるが、「イエス・キリストにおいて客観的に起った和解の主体的実現は、まず第一に教団において、イエス・キリストの聖霊の業として遂行される」、と述べている。このことは、バルトが個と教団との関係において、神学的な共同性価値論に立っていることを意味している(『カール・バルト教会教義学 和解論T/1』)。また、バルトは確信をもって、「すべての人間はキリストの実質上の兄弟である」、「キリスト者になる以前でも、彼は、キリストにおける神との連続性の中にいる。ただ、彼はそのことをまだ発見(≪認識し自覚≫)していない」だけである、と述べている(ゴッドシー編『バルトとの対話』)。

 

 バルトは、『ローマ書』「第2版」を「根本的に新しく書き直す決心を」し、1920年の秋から1921年の夏までに完成させた。そして、その本は、1922年に出版された(しかし、『ローマ書』「第二版序言」は、1921年9月、35歳の時に書かれている)。トゥルナイゼンは、「日ましに出来上がって行く原稿の初めから終わりまで」深くかかわり協力した。それは、共同作業といってもよかった。トゥルナイゼンは、「内容を深め、説明をより明快にし、意味を鮮明にする数多くの書き込み」をした。バルトは、その「ほとんどすべてを、そのまま受け入れた」。そして、神と人間との無限の質的差異を「方式」とした『ローマ書』「第2版」からは、「汎神論的色彩(≪総括的に言えば、自然神学的色彩≫)は消え」たのである。このことは、「超自然な神学」、換言すれば<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階へと移行して行く第一歩でもあった。この第2版は、「十九世紀とその世紀末の神学より優れた神学を導入する」という試みであり、「前世紀の自由主義神学と、積極主義神学が神をもはや神として承認していない」ことに対する「徹底的批判」であった。「聖書の主題」は、「われわれが学んできた文献批評的釈義や信仰的釈義に反して」、「人間の宗教や宗教的道徳」ではなく、またへーゲルの言う人間に内在する神的本質というような「人間自身の隠れた神性でもなく」、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする内的・内在的な三位一体の「神の神性であった」――「神! われわれは、この言葉によってなにを言っているのか知らない。信仰者は、われわれがそれを知らないことを知っている」。すなわち、「聖書の主題」は、自然としての自己身体および性としての他者身体ならびに宇宙をふくめた外界としての自然としての全「自然の世界に対立するだけでなく、(≪自己意識・理性・思惟を生来的に自然的に備えた人間の≫)精神の世界にも対立する神の自主性と独自性、つまり、特に人間に対する関係における神のまったく独自な存在と力と主導権である」。内的・内在的な三位一体の神は、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神であり給う。それに対して、「神に敵対し神に服従しない」われわれ人間は、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、「肉であって、それ故に神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」のである。したがって、われわれは、このキリストにあっての神を、イエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現されたキリストにあっての啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で初めて与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を通してのみ認識させられ承認させられ確認させられるのである(Tコリント13・8以下)。

 

 さて、バルトにおける弁証法的な眼は、バルトの思想的な資質ともいえる――「学校と宿屋と工場と教会と墓場、そして最後にすべての家家は、それぞれの形で、いかに人びとが喜んで生きたいと願っているかを語っている。しかしわたしたちの美しい故郷にも、すべての屋根の下、すべての道、すべての人の心の中にも、天国と地獄の間の大きな激しい戦いが荒れ狂っている」、「われわれ人間は、二つの世界の間の放浪者である。この世界では故郷を喪失し、あの世界ではまだ定着する家を持たない。しかしまさにこのような放浪者として、われわれはキリストにおいて神の子なのである」。この思惟と語りは、『教会教義学 神の言葉』においては、次のような思惟と語りとなる――「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべ てのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」。すなわち、「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」・古い時間は、復活へと向かっている。このキリストの復活(「成就された時間」・新しい世)は、「福音と律法の真理性」と「福音と律法の現実性」の総体性・全体性におけるそれであり、「新しい世」・新しい時間のはじまりである。したがって、われわれは、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を通して、「敗北者であるわれわれ人間の失われた非本来的な 古い時間」・古い世は、「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」(「成就された時間」)である「あの四十日(使徒行伝1・3)」としてのキリストの復活における「神の勝利の行為」によって包括され止揚され「克服されてそこにある」ということを認識し信仰することができる、承認し確認することができる。また同時に、その「神の勝利の行為」は、「敗北者もまた依然としてそこにいるところの勝利の行為である」ということを認識し信仰することができる、承認し確認することができる。したがって、復活されたキリストと復活されたキリストの再臨との間の聖霊の時代に生かされているわれわれは、復活されたキリストを想起しつつ、同時に終末(救贖、復活されたキリストの再臨、「完成」――『バルトとの対話』)を待望しなければならないのである、換言すれば終末(救贖、復活されたキリストの再臨、「完成」)を待望しつつ、同時に復活されたキリストを想起しなければならないのである。