カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

カール・バルトの生涯(12−1)――カール・バルトの生涯の思想を決定づけた処女作『ローマ書』「第2版」へ向かって(その2−1)

カール・バルトの生涯
再推敲・再整理版です。

 

エーバハルト・ブッシュ『カール・バルトの生涯』小川圭冶訳、新教出版社、1989年に基づく

 

はじめに
 ブッシュは、「はじめに」で、表出と表現あるいは創造と享受という言語表現の言語の指示表出性あるいは享受の側面に依拠して、「バルトの生涯のさまざまな段階の中でどの段階が決定的な、最も重要な段階であるかという問いは、……問う者の関心やそれぞれの時代の精神によって違った答えが与えられるであろう」、と述べている。したがって、「ある人たちは、……ドイツ教会闘争へのバルトの参加が彼の伝記を解く鍵である」・「ある人たちは……弁証法神学の『青春時代』がその鍵である」・「ある人たちは……ザーヘンヴィル時代の活動にその鍵がある」等々とするだろう、と述べている。このブッシュの言葉だけに目をとめると、その総体像におけるバルトのある一面だけを切り取ってあるいはある一面だけを拡大鏡にかけて全体化して、バルトを論じることになってしまうだろう。確かに、言語表現の享受の側面に依拠して言えば、百人百様の享受の仕方があると言うことができる。しかし、ブッシュは、また一方で、表出と表現あるいは創造と享受という言語表現の言語の自己表出性あるいは創造の側面に依拠して、バルトのその生涯におけるそれぞれの段階は、それぞれの「固有の重要性をもち、……それぞれの固有の認識を伴って」いるし、バルトのそのそれぞれの段階の「固有な重要性」と「固有な認識」を持っているとしても、それは、「相関性と連続性をもつ」とも述べている。このことも、確かなことであると言うことができる。
 詩人であり文芸批評家であり思想家でもある吉本隆明は、『言語にとって美とはなにか』の中で、次のように述べている――「ひとつの作品は、ひとりの作家をもっている。ある個性的な、もっとも類を拒絶した(≪固有な≫)中心的な思想をどこかに秘しているひとりの作家を。そして、ひとりの作家は、かれにとってもっとも必然的な環境や生活をもち、その生活、その環境は中心的なところで一回かぎりの、かれだけしか体験したことのない核(≪固有性≫)をかくしている。まだあるのだ。あるひとつの生活、ひとつの環境は、もっとも必然的にある時代、ひとつの社会、そしてある支配の形態のなかに在り、その中心的な部分は、けっして他の時代、他の社会、他の支配からはうかがうことのできない秘められた(≪固有な≫)時代性の殻をもつ」・「このようにして、ある時代、ある社会、ある支配形態の下でのひとつの作品は、たんに異なった時代のちがった社会の他の作品にたいしてばかりでなく、同じ時代、同じ社会、同じ支配の下での他の作品にたいして決定的に異質な中心(≪固有性≫)をもっている。そればかりでなく、おなじひとりの作家にとってさえ、あるひとつの作品は、べつのひとつの作品とまったく異なっている(≪まったく異なった固有性を持っている≫)・「言語の指示表出の中心がこれに対応する。言語の指示意識(≪自己意識の対他的意識、言語の指示表出、現実的人間との関係の意識としての実践的意識≫)は外皮では対他的な関係にありながら中心で孤立している」、「しかし、これにたいしては、おなじ論拠からまったく相反する結論にたっすることもできる。つまり、あるひとつの作品は、たんに同じ時代のおなじ社会のおなじ個性がうんだ作品にたいしてではなく、異なった時代の異なった社会の異なった個性にたいして決定的な類似性や共通性(≪連続性≫)の中心をもっているというように。この類似性や共通性(≪連続性≫)の中心は、言語の自己表出(≪自己意識の対自的意識、言語の自己表出、他者からは窺い知ることのできない人間的意識≫)の歴史として時間的な連続性をなすとかんがえられる」・この「言語の自己表出性は、外皮では対他的な関係を拒絶しながらその中心では連帯している(≪例えば、吉本が、『万葉集』の中の柿本人麻呂の詩歌「近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ」を、現代という現在に現存する「ぼくが最もいい詩のひとつだとおもう」と評価する時、吉本は言語の自己表出性に関わっているのである≫)」・「影響という意味を本質的に使うならば、いままでのべた両端はたとえば次のような言葉で支配される」・それは、言語の指示表出性に依拠した「人は人に影響を与えることもできず、また人から影響を受けることもできない」(太宰治「或る実験報告」)という語りと言語の自己表出性に依拠した「もともとオリジナルな文人なぞは、在りはしないのだ。真にこの名に値する人々は世に知られていないばかりでなく、知ろうとしても知り得ない。しかし、わしはオリジナルな文人だぞ! という顔をする人間はある」という語りである。例えば、マルクス/エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』の次のような言葉を参照されたし――「歴史とは個々の世代(≪個体的自己の成果の世代的総和≫)の継起にほかならず、これら世代のいずれもがこれに先行するすべての世代からゆずられた材料、資本、生産力(≪言語、性・家族≫)を利用(≪媒介、反復≫)」。また例えば、先行する西欧哲学を包括し止揚するという仕方で構成されたヘーゲルの哲学<体系>を超えるためには、ヘーゲルのその哲学<原理>を包括し止揚する以外には方法はない。この時、その新しい段階に移行した思想(観念)は、オリジナルな思想(観念)ではない、ヘーゲルの思想(観念)を<否定的>に媒介させた(<否定的>に時間累積させた)思想(観念)である。
 前述したように、第三の形態に属する全く人間的な教会の成員であるバルトの場合も、徹頭徹尾、内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち神の側の真実としてあるその死と復活の出来事における主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了そのもの(『福音と律法』)、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの(『ローマ書新解』)、成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(平和)そのもの――この「一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(≪ある、学派、教派、思想傾向、文明的文化的傾向、主義、社会的政治的な言説や運動等≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」という立場で(『教会教義学 神の言葉』)、それ故に徹頭徹尾、聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯するという仕方(「聖書への絶対的信頼」という仕方――『説教の本質と実際』)で、それまでの神学をあるいは総括的に言えばそれまでの自然神学を包括し止揚し克服するという仕方で(すなわち、<否定的>に媒介させるという仕方で、<否定的>に時間累積させるという仕方で)、その個・現存性と類・歴史性の交点を生き生活し喜怒哀楽し思想し神学し意志するという仕方で、教会の宣教にとって最善最良の<非>自然神学をあるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教を構成したのである。ここで重要なことは、バルトのその総体像を認識し理解するためには、先ず以ては、処女作の概念を所有した上で、バルトの処女作の確定を行わなければならない、という点にある。吉本は、『カール・マルクス』の中で、「処女作」の概念について、次のように述べている――「マルクスの思想体系は、二十代の半ばすぎ、1843年から44年にかけて完成したすがたをとっている。これは、『ユダヤ人問題によせて』、『ヘーゲル法哲学批判』、『経済学と哲学とにかんする手稿』によって象徴させることができる。もしも個人の生涯の思想が、処女作にむかって成熟し、本質的にそこですべての芽がでそろうものとすれば、これらはマルクスの真の意味での処女作であり、かれは、生涯これをこえることはなかったといっていい」。この原則に即して言うならば、バルトにとっての処女作は、『ローマ書』「第二版序言」(1921年9月、35歳の時)であると言うことができる(このことについては、<バルトの処女作の確定と『ローマ書』「第二版序言」の神と人間との無限の質的差異>に詳しい)。また、バルトのそのそれぞれの段階の「固有な重要性」と「固有な認識」は、その「相関性と連続性をもつ」について言えば、このことについても、<バルトは晩年、「近代神学」・「近代主義神学」に「回帰」したという『カール・バルト――ウィキペディア(Wikipedia)』の執筆者の思惟と語りは、客観的に正しいのだろうか?>において、詳しく論じている。また、吉本は、前述した書の中で、「千年に一度しかあらわれない巨匠マルクス」と、「市井の片隅に生まれ、そだち、子を生み、生活し、老いて死ぬといった生涯をくりかえした」「無数の大衆」との「価値はまったくおなじ」であって、歴史は、その等価性を「ひとつの<時代>性(≪ひとつの類、個体的自己としての成果の世代的総和≫)として抽出する」。したがって、巨匠とは、世界をトータルに認識するという幻想(観念、知識、思想)領域において、「意識の行為」としての知識、思想を、個々の時代性を超えて歴史の中に(人間の類の時間性としての歴史性の中に)時間累積させた者のことである、と述べている。このことを、先に述べた日本の詩歌に引き寄せて言えば、「ぼくが最もいい詩のひとつだとおもう」と現代を現存した吉本に評価させた柿本人麻呂の詩歌は、その個々の時代性を超えてその詩歌の歴史性に時間累積させたそれであると言うことができるのである。

 

 さて、神と人間との無限の質的差異の下にある神とは全く異なる人間の時間である人間の歴史(人間の個の自己史と人間の類の歴史、現存性と歴史性としての歴史)は、「神的自由の行為」としての啓示となることはできないから、「福音の歴史の正しい考察」――すなわち具体的には聖書の正しい歴史認識の方法は、「啓示は歴史の賓辞ではない」、「歴史が啓示の賓辞である」という点にあり、それ故に「神の時間」、「イエス・キリストにおける啓示の時間」、「救済」史、「永遠」は、<常に>、人間が人間的に所有する「人間の時間」、「人間の歴史」の、「外」・「彼岸」にある(『教会教義学 神の言葉』)事柄であり、この事柄に関わるバルトの関わり方としての<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教は、換言すれば例えば神の側の真実としてある主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)という立場に基づいてルターの目的格的属格理解と「律法と福音」という理解を包括し止揚し克服したバルトの「福音と律法」という理解は、客観的なその正当性とその妥当性とをもって評価するならば、バルトのそれは、キリスト教に固有な類の時間性である歴史性に時間累積させたそれであると言うことができるのである、それ故に未来に生き得る水準を獲得したそれであると言うことができるのである。徹頭徹尾「イエス・キリストの名」にのみ感謝をもって信頼し固執し固着したキリスト教界のバルトも、客観的なその正当性と妥当性とをもって評価するならば、キリスト教に固有な類と歴史性における「千年に一度しかあらわれない巨匠」であると言うことができるのである。このような訳で、第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会に属する者として、バルト自身は、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)に、換言すればキリスト教に固有な類と歴史に信頼し固執し固着し連帯することによって、そしてそういう仕方で純粋なキリストにあっての神・純粋なキリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式として律法)という連関の中で、教会の宣教にとって最善最良の神学を構成したことによって、そのキリスト教に固有な類の歴史性に時間累積させた者であると言うことができる――「パウロはその時代の子としてその時代の人々に語った。けれどもこの事実よりはるかに重要な事柄は、……彼は神の国の預言者ならびに使徒として」、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち「啓示の実在」そのもの、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト自身におけるその連続性において、「あらゆる時代のあらゆる人々に語っている、ということである」・「わたしは専ら歴史的なものの裏に聖書の精神を洞察しようと心がけた。聖書の精神は永遠の精神なのである。かつての重大問題は今日もなお重大問題であり、今日の重大問題で単なる偶然や気まぐれでない事柄は、またかつての重大問題と直結している」(『ローマ書』「第1版序言」)。第二の形態の神の言葉に属するパウロは、「啓示の実在」そのものであるイエス・キリスト自身――すなわち第一の形態の神の言葉を起源とするキリスト教に固有な類と歴史性において、その神の言葉を、個々の時代性を超えて歴史の中に(人間の類の時間性としての歴史性の中に)時間累積させているのである。したがって、パウロに連帯した第三の形態の神の言葉に属するバルトは、「わたしは専ら歴史的なものの裏に聖書の精神を洞察しようと心がけた」、その「聖書の精神は永遠の精神なのである」、それ故に「かつての重大問題は今日もなお重大問題であり、今日の重大問題で単なる偶然や気まぐれでない事柄は、またかつての重大問題と直結している」と述べたのである。

 

カール・バルトの生涯の思想を決定づけた処女作『ローマ書』「第2版」へ向かって(その2−1)
 ブッシュの時系列的な叙述から、われわれは、『ローマ書』「第2版序言」へと向かってのバルトの神学者としての歩みが、1901年から1902年(15、16歳)までの牧師ロバート・エッシュバッハーによる堅信礼準備教育への参加にはじまっていることを知る。そこにおいて、バルトは、第一に「ヘッケルらの唯物主義に対する弁証と反論」、第二にイエスの生と死と復活の意義、第三に「クッターやラガツよりはるかに前」に提起された「社会問題」への関わり、「社会生活に関する福音の要求」の「適用」が重要な現実的問題であることを教え与えられ。それから、そこにおいて、説教や牧会への考慮からではないが、神学者になる決意をしている。
 1904年9月に「化学や物理学などでは……やっと2の成績」であったが大学入学資格試験に合格した。そして、同年10月に神学部に学生登録をする。ただ、「ベルンの神学教師たち」の講義は、バルトに「なんらかの形で……訴えかけるもの」を持っていなかったから、彼にとって、その講義は「気乗り」しないものであったし、そこでの知識は「無味乾燥」なものでしかなかった。このベルンでの体験を、バルトは、次のように述べている――◎「歴史批評学派の初期の形態を当時すでに徹底的に経験してしまった」から、その後の「後継者たちの主張」は、「非神話化」のすべてのものよりも「はるかに強いタバコ」であったが、「多少神経にさわるというくらい」であって、「もはや私の体内に浸透したり、私の心を打ったりすること」はなかった、◎学生時代のバルトを「本当に感動させた最初の書物は、カントの『実践理性批判』だった」から、「古い正統主義に反対して」「心に思い描くようなこと」、また「神の道」の「はじまり」と「目標」は「カント」にあるという主張も、「すべて会得してしまった」、と。したがって、ここでの体験の思想化は、後に、例えばアウグスティヌスもトマスもルターもシュライエルマッハーもブルトマン等も、またローマ・カトリック主義的キリスト教や近代主義的プロテスタント主義的キリスト教やアジア的日本的な自然思想の復古性に依拠した近代主義的プロテスタント主義的キリスト教も、そのすべては自然神学の段階で停滞と循環を繰り返すキリスト教でしかないという認識に結実していった――「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰である」とした「カントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」(『カール・バルト著作集12』「カント」)。バルトは、「世界のなかにも世界の外にも、善意志を除けば何一つよいものはない、……善意志とは真理であり、私の生における神的なもの」であるという自然神学的なカントの「明快な知識」の在り方によって、「福音とは単純なものである」・「神の真理とは数多くの命題や意見や推測の、入り組んだ、むずかしい構築物ではなくて、どんな子供にもわかるような単純で、明快な知識である」ということを発見した。このことは、後に、神の側の真実としてある、その死と復活の出来事における主格的属格として理解された「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了そのもの、「神の義、神の子の義・神自身の義」そのもの、すなわち成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(平和の概念はこの救済概念に包括されている)そのものである「イエス・キリストの名」(『教会教義学 神の言葉』)という単純で、明快な神学的知識に結実していった――「単純なものの正しい認識」を、「さらに深く、さらに明瞭に、さらに確実にすることが私の目標となった」。
 1906年10月、バルトは、ヘブライ語には「苦労した」が、「哲学と宗教史と教会史と聖書学の知識を十分備えていること」が必要とされる神学初級試験に「第一級」の「優秀な成績でパス」した。そして、バルトは、本当はマールブルクに行きたかったが、ベルリーンに行くことになった。ベルリーンでバルトは、「古代の教理は……福音の地盤の上になったギリシャ精神の一つの自己表現である」というハルナックの講義を傾聴した。バルトの、最終的な、自由主義神学者ハルナックとの訣別と、ハルナックとの根本的な差異性については、「バルトと自由主義神学者アドルフ・フォン・ハルナックとの論争」ですでに論じているので、ここでは省略する。また、ベルリーンでバルトは、カントの『実践理性批判』と『純粋理性批判』の「『徹底的研究から』、シュライエルマッハーに出会」い、この時期においては彼から対象的になって距離をとることができずに、「全面的に、見境ノナイ信頼デ信用する」ことになった。バルトの、最終的な、近代主義的プロテスタント主義者シュライエルマッハーとの決別と、彼に対する根本的包括的な原理的な批判は、「シュライエルマッハーからリッチェルに至る神学における神の言葉」において論じているので、ここでは省略する(また、『シュライエルマッハー選集への後書』、すなわち邦訳J・ファングマイヤー『神学者カール・バルト』「シュライエルマッハーとわたし」も論じた<バルトは晩年、本当に「近代神学」・「近代主義神学」(自然神学)へ「回帰」したのだろうか?>にも詳しい)。ただ、要約して述べれば、次の通りである――ヘーゲルにおいては、哲学は「本質的にキリスト教の正統的教義と一致する」。この時、「キリスト教のもろもろの根本真理」は、その「哲学によって維持され保管されることになる」。何故ならば、ヘーゲル哲学において啓示は、「意識に対して存在するものすべてのものが、意識にとって一つの対象となる時のような仕方において現われる」からである(『カール・バルト著作集12』「ヘーゲル」)。この時、まさに次のような事態が惹き起こされるのである――「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識」であり、「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した」ものであり、それ故に「この対象(≪人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された対象物、すなわち「存在者レベルでの神」、その神の啓示としての対象≫)に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』」ものとなる(ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ『キリスト教の本質』)。言い換えれば、シュライエルマッハーにおいては、キリストにあっての神、その啓示は、人間自身の自己意識が「捕えた虜囚」でしかないものとなってしまうのである。したがって、バルトにとって「ヘーゲルの哲学的手法に対して」、「受け入れ難く耐え難い」「最も重大でかつ決定的なもの」は、人間中心主義的な「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」・「神の自由を認識していないという事態」にあったのである。人間の神化あるいは神の人間化の原理(神と人間との無限の質的差異を止揚し捨象する原理――この原理を教会論的なキリスト教的人間に引き寄せて言えば、ローマ3・22およびガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」の属格の目的格的属格理解、人間の側からする神との「混淆」論、また神に先行したあるいは神と並行した「神人協力説」)を発見したこの「ヘーゲルの強力な痕跡」を、「われわれは、シュライエルマッハー以外の他の人々の所」でも見出すことができるのである(『カール・バルト著作集12』「ヘーゲル」)。したがって、このような位相にあったシュライエルマッハーは、人間学的に「教会とは、『ただ自由な人間的行為を通して発生し、またただそのような自由な人間的行為を通して存続することのできる共同体』であり、『敬虔性と関連した共同体』である」と言うのである。また、シュライエルマッハーおいては、「信仰も、人間実存の歴史的存在の一つの在り方として理解される」。神学における「近代主義的思惟(≪総括的に言えば、自然神学的思惟≫)は、人間が、誰かによる呼びかけを受けることなしに、(中略)人間がじぶんを相手に自分だけでひとりごとを言っているのを聞く」。この思惟と語りに対して、根本的包括的な原理的な批判を為したのフォイエルバッハである――「人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である。人間は思惟する、すなわち人間は会話をする、人間は自分自身と話をする。動物は自分以外の他の個体がいなければ類の機能をひとつもはたすことはできない、しかし人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかという類的機能……を果たすことができる」・それ故に、「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性(≪対象化された理性≫)であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情(≪対象化された感情≫)である」(フォイエルバッハ『キリスト教の本質』)。したがって、「近代主義にとっては、宣教は、『教会』と呼ばれる人間的な共同体の一つの必然的な生の表現」となる。言い換えれば、シュライエルマッハー等近代主義者は、自由主義的・近代主義的人間、神学者、牧師は、人間の「精神的な促進のために、自分と彼らに共通な宝庫からくみ取りつつ、この宝庫をさらに豊かにするために」、人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的活動(無限性)における意味的世界、物語り的世界、「自分自身の歴史」と「現在の解釈」を表現しようとするのである。すなわち、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された対象物、すなわち「存在者レベルでの神」(偶像)、その神の啓示、その神の救いと平和の方法と企てとしての「自己表現としての宣教」を企てるのである。これらは、バルトの根本的包括的な原理的なシュライエルマッハー批判である(『教会教義学 神の言葉』)。したがって、バルトは、「自由主義神学やその他の悪しき神学に対抗するための最良の薬」は、「そのような神学から遠ざけようとする」ところにあるのではなく、「そういう神学を大きなバケツで汲み上げてみさせる」ところにある、と述べている。言い換えれば、「最良の薬」は、聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯する自分の立場において、<否定的>に媒介するという点に、聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯する自分の立場において、それらを根本的原理的に包括し止揚し克服するという点にある、と述べている。バルト自身は、「ずっとのちになって」であるが、1907年に出会ったクリストフ・ブルームハルトを契機として、「独自の力で自由主義のよどみの中から脱出した」、と述べている。すなわち、総括的に言えば自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教を、バルトは、多元論的にあるいは多元主義的に「対立する双方に真理があるというような俗説が、世界史的に流布され、流通している」中で、あくまでも先行する神の側の真実としてある主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)としての「イエス・キリストの名」にのみ感謝をもって信頼し固執し固着するという自分の立場において、それ故に具体的には聖書的啓示証言(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)に信頼し固執し固着し連帯するという自分の立場において、根本的原理的に包括し止揚し克服しようとしたのである。

 

 さて、バルトは、1907年4月に再びベルン大学に入学する。そこで、レージィ・ミュンガーという少女と出会い初恋を体験する。しかし、彼らの両親たちは、「親しくすることにも、婚約にも反対した」ため、1910年レージィと別れた――「私は、この少女を――彼女は1925年に亡くなったのですが――決して忘れることはできませんでした」・「彼女は思い出の中では『なんども繰り返し現れ、もの問いたげに、しかし親しみをこめて、愛らしく立っていたのです』」。この感情を押し殺した理性的なバルトの語り方にもう少しだけ言葉を付け加えるとすれば、バルトにとって、この少女は、世界の中でもっとも美しいもっとも可愛い少女であったに違いないから、この少女の喪失は、人間存在に関わるすべての世界の崩壊に匹敵するほどの体験であったに違いないちがいないということである。老いてからもバルトは、あの日あの時の少女の仕ぐさや表情や言葉を、ときどき思い出していたに違いない。

 

 1908年、バルトは、マールブルクに移った。そこで、バルトは、カント主義者であり初期シュライエルマッハーに依拠していたヴィルヘルム・ヘルマンの講演『われわれに対する神の啓示』を聞くと共に、レオンハルト・ラガツの「神は今日、社会主義において人間と出会う」というテーゼを聞いた。しかし、バルトは、ヘルマンを「うのみにすること」なく、ヘルマンの「キリスト中心主義」だけを受けとめた。ヘルマンの「神学は、古い自由主義神学からも、しかしまたあらゆる正統主義とあらゆる積極主義からも、確かに区別されるものでした。われわれも、この両側の神学に深い軽蔑の念をいだいていました。左に対しても右に対しても、われわれは自由だと感じていましたし、この両者の対立を超えて」、「狭い道を歩み始めていたのです」。この実感と認識の萌芽を持ちつつも、バルトは、「シュライエルマッハーとリッチュルの示唆を受けて、キリスト教とは、一方で歴史批評的に研究されるべき歴史上の現象であると共に、他方では優れて道徳的な性格をもった内面的体験の事柄であると解釈」していた。したがって、バルトは、近代学派のマルティン・ラーデが責任編集する『キリスト教世界』にもどっぷりとつかってその編集助手となって働いた――「私の学生生活の最後の時期に、私は当時の近代神学を信頼に満ちて承認することで、私の同時代の者のだれにも劣らなかった」。したがってまた、バルトは、「カントとシュライエルマッハーの綿密な研究によって……神学の基礎を確立しよう」としていた。そして、このマールブルクでバルトは、牧師資格最終試験に「第二級の成績で合格」するとともに、ルドルフ・ブルトマンと知り合い、また「今日まで友人(≪学生会ツォーフィンギアで知り合っていた≫)であり、今後も友人でありつづけるであろう」エドゥアルト・トゥルナイゼンとヴィルヘルム・レーヴとも出会った。トゥルナイゼンによれば、当時バルトは、ドイツ人大家のヘルマンよりも、「エルンスト・トレルチから、強い印象を受けていた」、と述べている。いずれにしても、彼らは、私的な勉強会や読書会や討論会において、話題の中心をトレルチに置いていた。その中でバルトは、「宗教的個人主義と歴史的相対主義」ということを主調音としていた近代神学の「自覚的支持者」であったと同時に、トレルチに対して、「のちに気づくように」彼の「信仰論は、果てしのない、とりとめのない無駄話に終わってしまいそう」なものでしかない、という実感と認識と自覚の萌芽をも併せ持っていた。この実感と認識と自覚の萌芽を持っていたバルトは、1915年頃のことであろうか、神学における思想家にはいつかやってくるであろう不可避的な「超自然な神学」、<非>自然な神学へのベクトル変容の必要性と重要性に対する確かな実感と認識と自覚を持つことになる――「『キリスト教世界』誌にかかわった私の年月のおかげで」、「シュライエルマッハー時代の末期の空気と精神を十分に呼吸し、それに対して若き日の全面的な信頼を捧げたからこそ、それから7年後に、彼の時代はほんとうに終わったのだという発見をなしえたのでした」。逝去した年の思惟と語りである(『シュライエルマッハー選集』「シュライエルマッハー選集への後書」、邦訳はJ・ファングマイヤー『神学者カール・バルト』「シュライエルマッハーとわたし 1968年」)によれば、「わたしは、事柄そのものにおいて、シュライエルマッハーと一致できないのだということを明言した(中略)わたしがシュライエルマッハーを今までに理解した限り、自分は、彼のそれとは全く違った道(≪「超自然な神学」の道、<非>自然な神学の道≫)に踏みこみ、それをあゆんでいかなければならないと思ったし、今もそう思っているのである」。

 

 さて、バルトは、1909年にジュネーヴの州教会所属のドイツ語教会の副牧師に就任した。バルトは、このジュネーヴの人々にも、「宗教的個人主義と歴史的相対主義」を啓蒙し押しつけていた――「私がジュネーヴの人たちに……押しつけたあらゆる歴史主義と個人主義については、あとからはずかしい思いにとらわれずにはおれませんでした」・「私は当時信仰と歴史に関するかなり大きな論文を発表したが、これは今にして思えば、印刷されなかった方がよかった」。いずれにしても、このジュネーヴの教会でもバルトは、「学問的」で「自由主義的」な「説教の準備に非常な努力を傾注し、……説教を一語一語注意してていねいに準備した」。したがって、バルトは、例えば「神を認識しうるより先に、まず自分自身を認識しなければなりません」・「ゲーテの『ファウスト』は疑いもなく真のプロテスタント」である、という説教も行った。また、「神とは何か、またわれわれが何になるべきかがわれわれに明らかになるならば、その場合にはわれわれは信じているのであり、われわれが自由な、喜びに満ちた人間になるために必要な確証と根拠づけとを持つのである」、ということも「復活節随想」で述べた。そしてまた、バルトは、『キリスト教信仰と歴史』においては、自由主義的な恣意的自由の中で、「わがまま勝手に」「カントとシュライエルマッハーをくりかえして引用し、ゲーテとシラーまで保証人として言及」し、「パウロと並んでアジアのアシジのフランチェスコとボールデンシュヴィング、ミケランジェロとベートーベンに至るまで『啓示の源泉』だと主張した」。ここで、この時期のバルトにおける神やその啓示は、まさしく人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された対象物、すなわち「存在者レベルでの神」でしかなかったし、その神の啓示でしかなった。まさに、ここで、われわれは、「シュライエルマッハー以外の他の人々の所」、この時期のバルトにも、人間中心主義的な「ヘーゲルの強力な痕跡」を見出すのである。

 

 1911年にバルトは、「大きな影響」を与えられた「二つの出来事」に遭遇する。第一の出来事は、学生運動指導者の「ジョン・モットがジュネーヴに来たことである」。バルトは、モットの持つ「福音の宣教、人類はイエスのため、イエスは人類のため、というメロディ」に「深い感動」を覚えた。それからバルトに「ショックを与えた」第二の出来事は、「数千人のジュネーヴ市民が、連邦政府のギャンブル禁止に反対して」、「休むことのない口笛と叫び声と怒号」をもって行われた「デモ」と、「無思想」な「国の指導者たち」の「宗教に敬意を抱いているが」、宗教によって「わずらわ」されるのは「御免だ、という発言」であった。したがって、バルトは、両者から対象的になって距離をとった上で、ほんとうは「アルコール中毒、拝金主義、リベルタン主義」に本質的な問題があるという考え方から、ギャンブル禁止に対しては、賛成する立場をとった。そして、この出来事によって、バルトは、「徹底的な否定によって(≪最後的には、神の側の真実としてある≫)神の国の現実性を明らかにすること、これが今<教会>が何よりも先ず為すべきことである」ということを学んだ。この年に、バルトは、「最初の年の彼の堅信礼教育の生徒の一人であった」ネリ・ホフマンと婚約した。また同年にバルトは、それは自然神学的な「宗教の本質である精神の実践的高揚」とは関わりはないものという考え方から、形而上学は「神学にとって稔りのない、しかも危険な企てである」と述べて、『神学における形而上学の再登場』と「批判的に対決」した。そしてまた、バルトは、「お互いの無関心と至高の存在に対する無関心とから、相互の、また共同の探求が生まれるにちがいない。……すなわちキリスト教の共同体(教会)が、本当に成立するにちがいない」、という説教も行っている。この説教の思惟と語りからは、「至高の存在」という自然神学的な概念を温存させながらも、「至高の存在に対する無関心」という思惟と語りにおいて、自然神学の段階から超出していこうとしている萌芽も感じ取ることができる。いずれにしても、われわれは、これまでの叙述からだけでも、バルトのそれぞれの歩みが、徐々にではあれ、総括的に言えば一切の自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教に対する根本的包括的な原理的な批判を構成できる、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」「時間と永遠との『無限の質的差別』」(神と人間との無限の質的差異)の概念を確信をもって明言した処女作『ローマ書』「第2版序言」へと向かっている、ということを知るのである。