本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』(イエス・キリスト――その7 啓示の秘義)

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』(イエス・キリスト――その7 啓示の秘義)キリスト論の問題(239−259頁)

 

 

 イエス・キリストにおける「神の啓示の秘義」――すなわち、「まことの神にしてまことの人間であるイエス・キリスト」という命題・定式は、
ア)イエス・キリストの「甦えり」・復活において啓示された、「神の永遠の言葉が、ご自身と一つとなるために、人間的本質と存在を選び、きよめわかち、取り上げたということ」――すなわち、「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給う……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! ……しかるに、(≪主格的属格としての「イエスの信仰」においてイエス・キリストご自身が、≫)この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ」・このインマヌエルの出来事は、私たち人間からは「何ら応答を期待せず・また実際に応答を見出さず」とも、「神であることを廃めず」に、何ら価値や力や資格もない「罪によって暗くなり・破れた姿」の「人間的存在を己の神的存在につけ加え、身内に取り入れ、それをご自分と分離出来ぬよう」に、「しかも混淆されぬように、統一し給うた」ということ(『福音と律法』)――と、
イ)神性を本質とする、「まことの神およびまことの人間」である、神の言葉・神の子・神の第二の存在の仕方(性質・行為・働き)としての「イエス・キリスト」が「神によって人間に語りかけられた和解の言葉」である――すなわち、「神の神性において(≪神の「存在の本質」において≫)、また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性も(≪神の第二の「存在の仕方」・「神の子」・「神の言葉」も≫)われわれに出会う」(『神の人間性』)」、ということから成り立っている。そして、
ウ)この啓示の秘義の「しるし」は、「彼が聖霊によってみごもり、処女マリアより生まれ給うた」という「彼の出生の奇蹟である」。(239頁)

 

 

(1)啓示の客観的可能性を問う問いに対する答えは、「厳密に、本来的」には、「旧約聖書的待望および新約聖書的想起の対象」――すなわち、「成就の待望」と「成就の想起」の対象としての「神がわれわれのために持ち給う時間」・「成就された時間」・「キリスト復活40日」(使徒行伝1・3)・「甦えりの出来事と甦えり使信」としての啓示の客観的実在にある。それは、三位一体論の唯一の啓示の類比としての「神の言葉の三形態」の内の、啓示の実在そのものである、「成就された時間」・「キリスト復活40日」・「甦えりの出来事と甦えり使信」としての「新約聖書において聞く啓示、和解」のこと――すなわち、イエス・キリストの死と復活の出来事の啓示のこと、その内容である「インマヌエル、神われらと共にいます」ということ、である。したがって、バルトは、この第一次的な「啓示とともに、聖書およびキリスト教の宣教は立ちもすれば倒れもする」し、それゆえにまた、教会の一つの機能である教義学も「立ちもすれば倒れもする」、と語るのである。その啓示の実在そのものであるイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、具体的には、聖書の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義――すなわち、啓示の「概念の実在」(キリスト教に固有な類・歴史性)における神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する。したがって、この啓示が、教会の宣教の客観的な信仰告白と教義である三位一体論の根拠である。この三位一体論は、神論の決定的に重要な構成要素であり、「啓示の認識原理」である。したがってまた、教会の一つの機能である教義学が、この「認識原理」に基づいて、「自分を原則的にキリスト論として理解しない時、そしてまた理解させることができない時、その教義学は必ずや何らかの疎遠な力の支配のもとにおちいっているのであり、その時それは確かに既に、教会教義学としてのその性格を失」う、とバルトは語るのである。そして、バルトは、この場所において、「われわれは、概念の特別な意味でのキリスト論の領域に足を踏み入れることになる」、と述べている。
 この「甦えりの出来事(歴史)」・「キリスト復活」の出来事(顕現、高挙、啓示、和解)と「切り離せない仕方で結びついているのは」、「近づいたみ国のしるしおよび啓示」・「イエスの甦えりの告知」における、キリストの十字架(死)でもって終わる「受難の歴史」、「それに先行するイエスの生涯全体の歴史」――すなわち、「神が人間となる」、「自分を空しくすること、受難、卑下」は、「神性の放棄」や「減少」を意味するのではなく、神性・「神的姿の隠蔽」、「覆い隠し」を意味している――である。(239−241頁)

 

(2)バルトは、「近代において教会教義学が、すべてを荒廃させてしまう自然神学の侵入のもとで崩壊し」てしまったが、この<自然神学>の侵入による崩壊は、「既に、正統主義の時代に、いや、部分的には既に中世のスコラ哲学の中で、そして教会教父たちのところで、……はじまってい」た、と述べている。彼らは、「ヨハネ1・14をもはや本当には理解することができなかった」・近代主義を骨肉にまで受け入れた教会の一つの機能である教義学は、「むしろ」、第一戒とキリストの啓示を第一次化するのではなくて、人間的なもの・人間的自然一般を第一次化する形で、「マタイ6・24で述べられている」「二人の主人に兼ね仕え」ることをはじめた。それは、私たち人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所は、神性を本質とするまことの神でありまことの人間であるイエス・キリストにおける啓示の場所だけである、ということを認識し自覚しなかったからである。したがって、そうした彼らは、「『今日まさにこのマールブルク(≪ブルトマン、ブルトマン学派≫)では、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」とハイデッガーに揶揄され・批判されようとも、その揶揄・批判の中にある神学における思想の課題を認識せず・自覚せず・無視して、またそれと同じように、フォイエルバッハやマルクスやフーコー等の正当性のある根本的な批判をも認識せず・自覚せず・無視して、近代以降の宗教的形態である科学主義や神学よりも優越する尖端的世界思想としての人間学の哲学原理や認識論や世界観等に即自的に埋没していった。そして、その対極にあるのが、例えばエコロジー神学であり、そのエコロジー神学の極限的形態が天然自然主義的神学である。この神学の根本的誤謬は、自然史の一部である人類史の自然史的過程(文明史的過程)は、その先が天国か地獄かは分からないとしても進歩・発展を基調としており、停滞させたり・退行させたり・逆行させたりすることはできないということに対する無知にある。分かり易くするために何度も述べるのであるが、このことを、マルクスは、「私の立場は、経済的な社会構造の発展を自然史的過程として理解しようとするものであって、決して個人を社会的諸関係に責任あるものとしようとするものではない。個人は、主観的にはどんなに諸関係を超越していると考えていても、社会的には畢竟その造出物にほかならないものであるからである」、というように述べている(『資本論』)。また、このことを、ミシェル・フーコーは、「マルクスは資本主義の分析の際」に、「労働者の貧困という問題に出くわして自然の希少のためだとか計画的な搾取のせいだとかといった、ありきたりの説明を拒」んだ。なぜならば、資本制生産は、その制度的必然・「その基本的法則によって必然的に貧困を生産せざるをえない」ものだからである。すなわち、資本制は、「何も働き手を飢えさせるために存在しているわけではないが、かといって彼らを飢えさせずに発展することもできない」ものなのである。したがって、「マルクスは搾取を告発するかわりに、生産を分析した」のである、というように述べている(『ミシェル・フーコー』「セックスと権力」)。

 

 いずれにしても、近代主義的プロテスタント主義的な信仰・神学・教会の宣教が、啓示に固有な証明能力に信頼し固執せず、「キリストの永遠のまことの神性の告白」を信用しない場合、それは、その原理、その認識方法および概念構成が、人間論一般や人間学的な哲学原理や認識論や世界観等を第一次化しているからであり、それゆえに私たちの身体性に依拠した「視覚的錯覚」に陥っているからであり、人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍、その存在の類比に依拠しているからである。しかし、その場合、和解に関して言えば、「赦す神」が人間に内在しなければならないことになり、その原理、その認識方法と概念構成自体が、<自然神学>的な思弁でしかないものなのである。そのような原理、そのような認識方法と概念構成においては、イエス・キリストは、「下からの半神」・「超人」・人間の「最深の本質」・「最高の理想」・キリスト教的実存の範型・社会的奉仕活動の範型・事実的な政治的実践の範型等の単なる「空虚な概念」でしかなくなってしまう。したがって、ほんとうは、「キリストの神性についての教義」こそが、一切の近代主義・<自然神学>的な信仰・神学・教会の宣教およびヘーゲル哲学に抗することができ、またそれらを包括し止揚してそれから超出できる、神学における思想的「武器」なのである。すなわち、その教義こそが、「神的啓示と人間的な信仰の間」における<自然神学>的な神と人間・神学と人間学との混淆論・共働論を、その「幻想性」を、その「形而上学」性を、その一面性を、その独断性を、打破できる、教義学的な、神学における思想的な「武器」なのである。このことに自覚的でない、シュライエルマッハーの「浪漫主義的な歴史理解」と「キリスト中心的な努力」との混淆神学、リッチュルの「カント的な形而上学」と「キリスト中心的な努力」との混淆神学は、神学としても人間学としても非自立的で中途半端で役立たずの<自然神学>そのものでしかないのである。また、現在で言えば、ボーレンの聖霊論的説教論も、それに依拠して彼の「聖霊論的出発」は、「神学の優位性を否定することなく」「人間学的局面(≪人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍も含む――この場合、存在の類比も含む≫)にもその位置を正しく与える」と述べていた神学者・佐藤司郎の見解も、同じく「神学の優位性を確保しつつ、人間学(≪人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍も含む――この場合、存在の類比も含む≫)を正当に評価する位置を与え得るもの」と述べていた神学者・小泉健の見解も、全く以て、状況論なき思想なきその停滞した<中世的>思考における、とんでもない<時代錯誤>と<根本的誤謬>のただ中にあるものである。(241・242頁)

 

(3)このことは(1)で扱ったことであるが、バルトは、教会教義学が「教会的になる」ためには、「特別なキリスト論」、「イエス・キリストの位格」についての、「明瞭」な「教説」を必要とする、すなわち明瞭な「三位一体論的――キリスト論的認識」・教説を必要とする、と述べている。それは、第一に、内容的には「イエス・キリストの中で神と人間が一つになり給うた」というキリストの「両性」についての明瞭な認識と教説であり、形式的には「イエス・キリストが処女マリヤから生まれ給うた」という「クリスマスの奇跡」についての明瞭な認識と教説である。これら二つの主題について考察するための基本的な事柄は、次の点にある。(242・243頁)

 

ア)キリストが<神性>を本質とするとは、彼は、神自身においてのみ「実在であり真理」である自由な「自己を覆い隠す」・「隠蔽」性・「聖性」の「神から由来する」ということである。したがって、この神・父は、子(その第二の存在の仕方)として「自分を自分から区別」するし、そのような仕方で自己啓示(顕現)する神として自分自身が根源である。このように、自己啓示する神は、その啓示の弁証法において、「まさにアラワサレタ神こそが隠サレタ神」・隠蔽性と顕現性における神である――バルトは、「M・グリューネヴァルトによって描かれたイゼンハイムの祭壇の主要」な「画像の対象」について、教会は、「恵みとまことに満ちた父のひとり子の栄光を見ている……。しかし、その<神性>性は隠されており、ただ(≪その神性性を≫)間接的に見ているだけである」。すなわち「直接的」には「その人間性」における「幼児イエス」を見ている、というように論じている。教会は、このような仕方で、神をキリストにおいて「信じ、また認識する」。啓示信仰は、徹頭徹尾、人間の恣意性や自由事項となる出来事ではないのであって、あくまでの神の自由な決断による啓示に固有な証明能力に基づいて、初めて啓示認識として成立する出来事であり、そしてその啓示認識は啓示信仰との<同在>としてある出来事である(248頁)。このことは、神自身が私たち人間に対して自己啓示されないならば、また神自身が神と私たち人間とを架橋されないならば、全く不信仰で罪に穢れた私たち人間は、また「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力」を一切持ってはいない私たち人間は、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰をさえ持つことはできないということを意味している。このようなわけであるから、私たち人間は、あくまでも啓示に固有な証明能力――すなわち、神の自己啓示であるイエス・キリストにおける啓示の出来事(「啓示の客観的実在」・啓示の客観的現実性)と聖霊の注ぎによる信仰の出来事(神から授与される啓示の主観的現実化の出来事)――に基づいて初めて啓示認識・啓示信仰を授与されるのであるが、と同時に、そのことによって、神と人間との無限の質的差異と神の不把握性と終末論的限界をも認識させられ自覚させられるのである。啓示自体から自己相対化視座を授与されるのである。したがって、その信仰・神学・教会の宣教が、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神」自身の決定事項であって、決して私たち人間の決定事項ではない、ということを認識させられ・自覚させられるのである。

 

 したがって、ルドルフ・ボーレンの「神律的相互関係」の概念に依拠して、「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」、と直截的・独断的・一面的に聖霊や聖霊の言葉を恣意的に人間の自由事項にして実体化させて述べている<自然神学>者・小泉健の言葉は、全く、根本的な誤謬に普遍性や組織性の後光をかぶせて語られたものでしかないのである。したがってまた、小泉の依拠したボーレン自身も<自然神学>者として総括できるのである。いずれにしても、バルト自身は、どんな時・どんな場合においても、その信仰・神学・教会の宣教のその原理・その認識方法と概念構成それ自体に、自己相対化視座を持っているのである。したがって、バルト自身と関わるという場合、ほんとうは、私のようなバルト者はあり得ても、バルト<主義>者や、バルト読みのバルト知らずにもかかわらず出鱈目なバルト論を展開しているバルト<主義>者や、第一戒やイエス・キリストの啓示の「事柄に疎遠な副次的な中心を立て」て、人間自身の経験的普遍や、人間論や、人間学的な哲学原理・認識論・世界観等や、天然自然や人間的自然や、人間的契機を「第一次化」し媒介させる<自然神学>(『ルドルフ・ブルトマン』)の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教はあり得ないのである。聖書は、旧・新約聖書における預言者・使徒の言葉と霊としてのイエス・キリストの出来事の証しであり証言であり、子なる神、イエス・キリストに関わる。この聖書は、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての啓示の実在そのものであるイエス・キリストと共に、教会の宣教における原理」である。なぜならば、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である「聖書こそ」が、教会に宣教を義務づけているからである。したがって、「聖書が教会を支配する」のであって、教会(牧師・上層部)や神学者やキリスト教的なメディア的著述家が神の言葉・聖霊・「聖書を支配してはならない」のである。

 

イ)さて、キリストの「両性」の命題――すなわち、キリストにおいて「神性と人間性が一つである」という命題は、「イエス・キリストにおける神の啓示の秘義を言い表している」。新約聖書の証言・証しは、「徹頭徹尾」「そこから由来して」いる。したがって、この証言・証しに基づいた教説も、「徹頭徹尾」「そこから由来して」いる。したがってまた、「人は……(≪その条件を≫)出発点として〔言いかえつつ〕述べることができるだけである」。このことは、啓示は啓示に固有な証明能力を持っているから、啓示認識・概念・教義は、「既に福音記者と使徒たち自身のところで措定されているのを見るような仕方で、措定しなければならない」、ということを意味している。言い換えれば、「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」のであり、その場合、「解釈する」とは「別の言葉で同一のことを言うこと」である、ということを意味している。しかし、このような最善最良の「教義学」も、その「教会的な教義」・教説も、「啓示自身からの命令」を「完全に一義的に」「厳守」することはできないから、啓示の実在は、常に、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・教説の、彼岸・外に、あるし、そうあり続ける。これらの事柄に、キリスト論の「目標」と「限界」――この「限界」概念は、まことの神は「隠蔽性・秘義性」を本質としており、その神に対して人間の理性は「全く闇に閉ざされ」た「盲目」性を本質としている、という「神の不把握性」を意味している。この神の不把握性は、神の「存在の本質」であるその単一性・神性・永遠性についての「信仰命題」であり、一般的真理ではなく、啓示の真理・信仰の真理である、ということを意味している。このことは、私たち人間における終末論的限界を意味している。(243−245頁)

 

 キリストにおいて「神性と人間性が一つである」という彼の「両性」の秘義は、「三位一体の秘義につぐ最高の秘義である」・「ソレ故ソレハ人間ノ理性デモッテハ教エラレ、受ケ入レラレルコトハデキナイ。ナゼナラバソノコトヲ確実に保証スルヨウナソレノ完全な実例ナドハ自然全体ノ中ニ存在シナイカラデアル。……ムシロソレハ神ノミ旨ニヨリ、聖書ニヨッテ教エラレ、確証サレ、信仰ノ目デモッテ受ケ入レラレナケレバナラナイ(ニッサのグレゴリオス)」(248頁)。したがって、「まことの神にしてまことの人」なるイエス・キリスは、「聖霊ニヨッテ宿り処女マリヤヨリ生まれ」の「言いかえ」である。このように、古代教会のキリスト論の主要命題は、キリストの<神性>性の秘義を保持している。そこから「出発」している。なぜならば、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」からであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」であるからである。このことは、思想一般がそうであるように、オリジナルな神学思想というものはないからである。したがって、古代教会は、啓示の秘義を「自ら自由に処理することができるとは考えなかった」。古代教会は、そのキリスト論――キリストの<神性>と<人性>という啓示の秘義から出発した。したがってまた、キリストの<神性>だけでなく、その<人性>の側面である「肉におけるキリストの啓示」は、牧会書簡のTテモテ3・16におけるように、それは、「ただ単に事実的だけでなく、信仰告白としても、教会の『大いなる礼拝の秘義〔信心の奥義〕』」としてあった。キリストの「両性」の命題は、「仮現論的偏見」や「エビオン主義的偏見」に対して、単純に根本的に包括的に抗することができる、啓示の「概念の実在」(キリスト教に固有な類・歴史性)としてある事柄である。

 

ウ)したがって、バルトは、次のように述べている――キリストの両性についての、カルケドン会議で「解決をみた」「定式」は、啓示の秘義を解消してしまおうとすることを意味してはいない。古代教会の「努力全体」・意図に基づくキリストの「両性」の教説は、啓示の秘義を「守る術」・教会的教義的な「武器」なのであって、それゆえに、彼らは、そこからの「出発」したのである。したがって、神学者として、神学における思想家として、牧師として、近代以降の現代を生きたバルトも、「神の言葉の三形態」に信頼し固執して、「キリストの神性についての教義」こそが、一切の近代主義・自然神学的な信仰・神学・教会の宣教に抗することができ、またそれらを根本的に包括し止揚してそれから超出できる神学における思想的「武器」である、と述べたのである。しかし、そのバルトが、古代教会のキリスト論にある「そのほかの点」での「過ち」と言うとき、それは、「理性的霊魂と肉体とからなる真の人間」という規定にあるだろう(259頁)。なぜならば、バルトは、神と人間との無限の質的差異において、「神の神性において」(神の「存在の本質」において)、「また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性も」(神の第二の「存在の仕方」・「神の子」・「神の言葉」も)、「われわれに出会う」(『神の人間性』)と述べているからであり、また「聖霊は、人間精神と同一ではない」・「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」・聖霊によって更新された人間の理性も、聖霊そのものではない(『カール・バルト著作集10』「教義学要綱」)、と述べているからである。

 

 さて、滝沢克己の場合、世界史のアジア的段階の日本における神人論のそれであるのか、あるいは天台本覚論の草木国土悉皆仏性論のそれであるのかは別として、滝沢にとってもイエスは、あくまでも滝沢の哲学的神学における第一次的な「根本的事実」の概念に規定された限りにおいてであるが、「まことの神」・「まことの人」である。しかし、すべての近代主義者のように滝沢は、イエス・キリストの「存在の本質」である<神性>性を揚棄してしまった(『滝沢克己著作集第一巻 カール・バルト研究』創言社)。そして、滝沢のインマヌエル論に共鳴する八木誠一は、「イエスは別段自分を超人間的存在として自覚していたわけではなく、『人の子』語句でもって人間存在の根底を語り続けた」「ただの人であり、ただの人として自らを自覚し、ただの人の真実のあり方を告げた」と独断的断定的に述べて、イエスに本来的な人間存在の在り方・範型を見る彼は、滝沢と同じように、イエス・キリストの「存在の本質」である<神性>性を揚棄するだけでなく、さらにイエス・キリストの「存在の仕方」・神の子・神の言葉性をも揚棄してしまった。イエスは、まさしく、八木自身の対象化された自己意識そのものとして、彼によって「管理されるプログラム」に従って、「ただの人」にされてしまったのである(八木誠一『イエス』清水書院)。確か、この八木の後者の認識に対して、滝沢は、1982年の南山大学主催滝沢克己講演会後の討論会において、自分との差異性を指摘して述べていたと思う。

 

 このように、バルトの、神学における思想の課題は、その信仰・神学・教会の宣教の、その原理、その認識方法と概念構成それ自体によって、一切の近代主義、一切の<自然神学>・<自然神学的なもの>を単純に根本的に包括的に止揚して、そこから超出していくところにあった、と言うことができる。近代以降においては、自明的に、哲学(人間学)は神学の「婢」というような中世的思考は全く成立しないのであるから、<自然神学>としての、人間学的な哲学的原理・認識論・世界観に依拠した、あるいは時流や時勢に依拠した、あるいはまた天然自然や人間的自然に依拠した、人間学的神学・哲学的神学は、徹頭徹尾、非自立的で中途半端な、人間学の「後追い知識」や人間学の「婢」としかならないのである。すなわち、信仰・神学・教会の宣教の自立を考えることは、その信仰・神学・教会の宣教の、その原理、その認識方法と概念構成それ自体において、<自立>しない限りは、それらは非自立的で中途半端な役立たずなものとしかならないのであって、正当性のある根本的な宗教批判を展開したフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーやフーコーに対して異議申し立てを行うことは決してできないのである。

 

エ)古代教会のキリスト論に対して、それは「主知主義であるという非難」を行った代表者は、J・G・ヘンデルであり、またその19世紀および20世紀における後継者であるA・リッチュルおよびその学派の「歴史家……A・v・ハルナック」である。18世紀のヘンデルは、次のように述べている――古代教会のキリスト論は、「ギリシャ的な僧侶の妄想」とその「僧侶くさい言葉」に基づいて、「理性」的に定義できないことを定義したものである・それは、「スコラ的なへ理屈」である・プロテスタント教会は、それらと「何らかかわりがない」・「パウロおよびすべての福音記者が、キリストはわれわれと同じようなひとりの人間であり給うた、と語る時」・「すべての使徒が、最も困難な戦いを戦い、キリストを模倣しつつ徳の道の上で主にしたがうようにわれわれを義務づけている時」、「すべて」のキリスト者や神学者にとって、「人間キリストは、……雲の上の仙人ではなく、……地上における模範なのである」・「この模範、地上における最も純粋な人間の姿、を歴史的に展開し、道徳的に言い表わしている書物はすべて、福音的な書物なのである」。ここで「非難」は、「教会教父、スコラ学者、宗教改革後の正統主義者たち」のキリストの「両性」(「マコトノ人ニシテマコトノ神」)というキリスト教に固有な類・歴史性に対する「非難」である。いわば、ヘンデルは、このキリスト教に固有な類・歴史性としてある啓示の「概念の実在」に連帯しない、と主張しているのである。しかし、人は誰であれ、歴史性――現存性、類――個を不可避的に生きなければならないのであるから、ヘンデルが、自分はキリスト教に固有な類・歴史性としてある啓示の「概念の実在」に連帯しないという彼の場合、もう一方の類・歴史性としてある人間論的人間学的な道徳主義に連帯しようとした、と言うことができるのである。バルトは、この「非難」を「形式的な非難」と述べている。

 

 このヘンデルに対して、バルトの立場は、明瞭・明確、確信的である。例えば、バルトにおける聖書の歴史認識の方法に例をとれば、次のように言うことができる――@歴史主義は、人間精神が生み出したものを問題とする限り、「啓示を問おうとしない」で人間精神の自己理解を第一次・第一義として「聖書の中でも神話を問う」ことをする。しかし、「啓示の証言としての聖書の理解」と、「神話の証言としての聖書の理解」は、相互排除の関係にある。したがって、聖書記事を歴史物語とみなし、聖書記事の「一般的な歴史性(Geschitlichkeit)を問題化すること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃しない」。しかし、聖書記事を「神話として受けとること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃する」。なぜならば、啓示は、人間的人間学的な「歴史の枠に、はめ込まれてしまうような歴史的出来事ではない」からである。したがって、聖書の歴史認識の方法は、その歴史を、「一般的な歴史性」を含んではいるが史実史ではない歴史物語・古譚として受けとる点にある。A「中立的な観察者」として「聖書の中に証しされている啓示の『史実的な(historisch)』確かさを問う問い」は、「聖書にとっては全く縁遠いもの」であり、「聖書の証言の対象にとって」異質なものである。しかし、その聖書的証言に対して、それを「聞くもの、見る者、信じる者」――すなわち、人間の恣意性や自由事項においてではなく、啓示に固有な証明能力に基づいて啓示認識・啓示信仰を授与された者である「非中立的な観察者」にとっては、啓示・聖書・教会の宣教の中に「同時に啓示の秘義があったし、あり続けた」。したがって、その非中立的な観察者だけが、聖書の中の歴史について、「史実的」には「全く何も確かめられない」ということ知らされたし、「啓示の出来事にとって重要でないものだけ」・「啓示とは別の何かだけ」しか確認できないということを知らされた。B聖書の中の歴史は歴史物語あるいは古譚であって、そのような「神と人間との間に起こったもろもろの歴史」は、「神的な側面」からは、常に、人間が人間的に所有する人間の一般的な歴史認識・概念の、彼岸・外にあるものである。すなわち、聖書証言の報知における歴史(Gschichte)・「特殊な歴史〔的出来事〕」については、いかなる「『史実的な(historisch)』判断」認識・概念もあり得ないのである。C史実的に正しい内容が重要なのではなく、重要なことは、聖書が、「シリアの総督のクレニオ」と「聖降誕の出来事」、「ポンテオ・ピラト」と使徒信条というように、神の啓示に対してその都度ごとに、一つの年代的・時間的と地誌的・空間的・地域的との限定性において、「出来事として起こったもろもろの歴史(Gschichten)」について語っているという点にある。

 

 「新約聖書のキリスト証言を通してたてられた問い」――すなわち、キリストの「両性」という啓示の秘義の告白は、それを、「ただ一度だけでも自ら見てとったもの、にとっては……重み」を持った「意識的」な「鋭さの表現以外の何ものでもなかった」。「史的イエス」の偏見や「仮現論的な偏見」や「エビオン主義的な偏見」によって「混乱させられないで」新約聖書を読めば、啓示に固有な証明能力に基づいて、「パウロとヨハネが<イエス>はキリストである」という命題をたてた時、また「共観福音書記者たちが、イエスは<キリスト>である」という命題をたてた時、それは、彼らにとって、キリスト論の重荷を担ったところの、「重み」を持った「意識的」な「鋭さの表現以外の何ものでもなかった」、ということを知ることができる。このような訳であるから、キリストの「両性」という啓示の秘義の告白に対する、「主知主義」という「非難」は、全く正当性を欠いたものでしかないのである。したがって、ヘンデルの「非難」は、「傍観者」的な「非難」でしかなかった。また、このヘンデルの道徳主義的理解の単純さは、「聖書」に基づくことをしない恣意的独断的な人間理解の単純さと一面性に起因している、と言うことができる。人間は、理性的に生きているだけでないように、道徳主義的に生きているわけではない。人間の内面世界は、たえず、法を破り、道徳を破っている、破り続けている。人間の「真実の罪」の問題からいえば、人間は、絶えず神から遠ざかり遠ざかり続けている・罪を新たな罪を犯し続けている。人間は、愛憎の情念の世界も生きているし、人間性だけでなく動物性も生きている――イエスは身を起して言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った(ヨハネ8章)。(248−250頁)

 

オ)ヘンデルやリッチュルは、キリストを「地上における最も純粋な人間の姿」として、「何らかの名目上救いになるといわれている倫理学の図式にしたがって、模範として表示」すること(「模範キリスト論」・道徳主義)をキリスト論の課題としていたが、古代教会のキリスト論はそのようなことを課題とはしていなかった。古代教会は、「ただ倫理的にだけ」キリストに興味をいだくことはしなかった。また、「救いについてもっていた古代教会のキリスト論の概念は人間の肉体〔物体〕も包含しており、その希望は身体の甦えりを含んでいた……」。そしてまた、古代教会のキリスト論は、「神の性質」を、「道徳律法を与えるもの、あるいは保証するものとして……考えなかった」。神の「存在の本質」である単一性・神性・永遠性について考えた古代教会のキリスト論は、内面的なものと外面的なもの、からだと精神としての人間の現実存在、倫理的な問題と肉体的な問題のことを考えた……」。すなわち、古代教会のキリスト論は、根本的包括的に「神と神的な救いについて」見・考えた。すなわち、「決定的なこと」は、古代教会のキリスト論は、「近代的な批判者たちのように」、一面的独断的に「精神的――道徳的」・「精神主義――道徳主義」的・「倫理的に興味を感じていたわけでもなく、物体〔物理〕的に興味を感じたわけではなかった」。いわば、古代教会のキリスト論は、「単純」に「包括的」に、キリストを、新約聖書における証言・証しその「ままの姿で」――すなわち、「全人的な人間の主」・そのからだと精神の「現実存在」に永遠の「生命をもたらすもの」・その人間存在の「和解主として」、見・理解した。したがって、古代教会のキリスト論は、それが持つ「危険や欠点にもかかわらず、健康であった」。また、古代教会のキリスト論は、キリストの「人性」について語った時、「単一性と全体性の中でのこの人間存在」について告白したのである。そしてまた、古代教会のキリスト論は、キリストの「神性」について語った時、それは「その単一性と全体性の中での神的存在」について告白したのである。このことを、バルトは、『神の人間性』において、単純に根本的に包括的に、「神の神性において(≪神の「存在の本質」としての単一性・神性・永遠性において≫)、また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性も(≪神性を本質とする神の第二の「存在の仕方」・神の子・神の言葉も≫)われわれに出会う」、と表現したのである。「人がその信仰(≪古代教会のキリスト論の信仰≫)」を、……グノーシスに似た単なる真理とみなす」時、それは、「視覚的な錯覚」・人間の経験的普遍・存在の類比、に基づいている。

 

 バルトは、「単なる知識」と「認識」とを厳密に区別している。「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る「責任ある証人」となる場合、すなわち啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に信頼し固執する啓示「認識」・啓示信仰である。その時初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができる。したがって、人間学的なただ「単なる知識」に過ぎないある理念・ある概念の実体化・「最高存在」・「最モ完全ナ存在」としての啓示概念は、神の言葉・啓示の「概念の実在」ではない。このように、神の言葉は、「人間の現実存在の内部」にはないのである。一切の<近代主義>の超克・<自然神学>的な信仰・神学・教会の宣教の超克という重荷を担った、これまで述べてきた重く真剣なバルトの表現は、一切の<近代主義>・一切の<自然神学>的な信仰・神学・教会の宣教に抗する・それらを超克する、彼の神学における思想の言葉である。したがって、バルトのそれは、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」者や、それに類する牧師や馬鹿げた似非使徒やメディア的著述家におけるような、自分の職業維持のためのノルマ的営為や表現、また商業主義にのったメディア受けするための時流や時勢的表現、そしてまた軽薄な明るさに基づく戯言ではないのである。教会の宣教、説教、神学が、もしそうでないならば、私たちは、神学としても人間学としても非自立的で中途半端なそうした説教や言葉や言説に耳を傾けるよりは、むしろ純粋な人間学的領域に属する吉本やフーコーやヘーゲルやフォイエルバッハやマルクス等々や、太宰や漱石や賢治やドストエフスキー等々の言葉や言説に耳を傾けた方がいいに決まっているのである。なぜならば、実際的に、確実に、その方が、人間や世界の本質を指し示してくれるし、人間的な慰安も励ましも喜びも心の響き合いも心の豊かさも十分に享受できるからである。(251−253頁)

 

カ)古代教会のキリスト論を「主知主義」だと「非難」し・「自然主義だと中傷した」近代のキリスト論は、古代教会のキリスト論とは「まったく別の何ものかを語ろうとしている」、とバルトは述べている。すなわち、近代主義的キリスト論は、「マコトノ神ニシテマコトノ人間」という定式で語られていることを語ろうとはしていない。キリストを、人間の「理性」性の媒介的現実性(本質の「最高の現象」)として、あるいは人間の「道徳」性の媒介的現実性(本質の「最高の現象」)として、考え・語ろうとしている。したがって、その場合、「キリスト教的思惟と語りの始まりはキリスト自身の中にあるのではなく」、人間自身の自己意識の中に、人間に内在する神的本質の中に、人間の経験的普遍の中に、人間自身の「判断能力の中に」、あるいは「われわれ自身の体験能力の中に、ある」、ということになる。近代主義的なキリスト論は、近代の宗教的形態である科学主義、理性主義、人間中心主義に対して、またその対極にあるエコロジーやその極限にある天然自然主義に対して、そしてまた人間学的な哲学原理や認識論や世界観等に対して、そしてまた人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍に対して、「おそれてしりごみ」し・いつも後追い的で・追従的に「謙遜」である分だけ、自然的なものを含む「イエスのからだをもっての甦り」や処女からの生誕の奇蹟に対して「全くの説明なし」の、素直な告白や証しや宣べ伝えができず、「精神主義的な道徳主義」の過ち・根本的な誤謬と陥穽に陥ってしまった。したがって、近代主義的なキリスト論は、「新約聖書のキリスト証言の秘義」・啓示の秘義を揚棄してしまって、人間一般における「道徳的な判断と宗教体験の似かよった告知として示される限りにおいて、聖書の使信を受け入れ」、人間の「悟性あるいは良心、あるいは感情の中に既に持っている神概念から」、人間は「聖書のキリスト」についての「『価値判断』あるは『価値感情』にまで到達」し、その「価値判断」・「価値感情」を通して、その存在の類比を通して、「キリストに対して」、「精神主義」的・「道徳主義」的な「賓辞を与える」。したがってまた、その場合、そのキリスト(論)は、それを規定した人間自身の対象化された自己意識の類的本質・意味的世界・存在者そのもの・その人間自身が「管理するプログラム」そのものである――「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である」・「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」・「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である」(L・フォイエルバッハ『キリスト教の本質』)。このような訳であるから、近代主義的キリスト論は、結局は、こうした正統性のある根本的なキリスト教批判を、また仮現論的・エビオン主義的キリスト論の問題を、神学における思想の課題として、その信仰・神学・教会の宣教の、その原理、その認識方法と概念構成それ自体によって、単純に根本的に包括的に止揚して、そこから超出していく「真剣」さも・「重さ」も・「辛抱強さ」も持っていないし・持とうとはしないのである。(254・257頁)

 

キ)以上のことから、「われわれが教会的に意味深く、正当である唯一の道」である「預言者的――使徒的啓示証言を通して、啓示の出来事としてのイエス・キリストへと導かれたのであれば、『まことの神にしてまことの人間であるイエス・キリスト』という命題」は、「そこから」・「さらにひきつづいてのすべての考察が出発しなければならない前提」である。「自己を覆い隠す」・「隠蔽」性・「聖性」の神は、イエス・キリストにおいて、インマヌエル――すなわち、「神われらと共にいます」という存在の仕方で、顕現・自己啓示した。そして、この神の自己啓示は、「日付をつけることができる」時間の只中の「出来事として」、『われわれと等しいひとりの人間』イエスの現実存在」、すなわちナザレのイエスという「人間の歴史的形態、イエスの名」、そうした神の第二の「存在の仕方」において、その「存在の本質」である単一性・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示である。この啓示の秘義に、キリスト論の場所がある。したがって、キリスト論は、啓示の秘義に「固執しなければならない」。古代教会のキリスト論は、「そのほかの点で……過ちを犯していたとしても」、啓示の秘義に信頼し固執して、その啓示の秘義を揚棄してしまうという根本的な「誤謬を犯さなかった」。したがってまた、彼らは、「仮現論的な道」や「エビオン主義的な道」にある根本的な誤謬と陥穽に陥ることがなかった。(258・259頁)