本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』(イエス・キリスト――その6 想起の時間)

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』(イエス・キリスト――その6 想起の時間 202−238頁)

 

 

 この「想起の時間」は、先ず以て、次のように言うことができる。

 

@「新約聖書の信仰は、……キリストとわれわれ自身がひとつでありつつしかも区別されることの中で遂行される。(中略)……それは、キリストご自身の現実存在の一種の延長といったものではない。そうではなくて、それ」は、<神性>を本質とするがゆえに「きのうも、今日も、いつまでもかわることがない」「キリストを信じる信仰である」。このことを、バルトの、その信仰・神学の原理、その認識方法と概念構成に即して言えば、新約聖書の信仰は、<主格的属格>としての「イエスの信仰」における<神性>を本質とするイエス・キリストを信じる信仰、ということである。ここで、<主格的属格>としての「イエスの信仰」におけるイエス・キリストを信じる信仰は、イエス・キリストの啓示の内容である「インマヌエル」――神は、イエス・キリストの十字架・「死と復活」において、罪深き私たち人間と、「はじめの時から終わりの時まで、昨日も今日もいつまでも共にい給う」、ということにのみ信頼し固執する素直な感謝の応答・告白・証し・宣べ伝えのことである。このことが、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」である。言い換えれば、この<主格的属格>としての「イエスの信仰」――神の側の真実のみ、「福音と律法」の「真理性」と「現実性」の同在そのもの、啓示の客観的現実性そのもの――におけるイエス・キリストをのみ信ぜよ、というこのことが、神の律法(神の人間に対する要求)である。律法は、本質的にはこの福音を内容とする福音の形式であるから、そして人間はただの罪深き人間でしかないのであるから、イエス・キリストを模倣することでは全くないし、また、イエス・キリストが信じたように信ずるということでも全くないのである。すなわち、それは、「福音の中核」であるイエス・キリストが、既に「律法を満たし・すべての誡めを遵守し給うたという事実」から考えられなければならないから、そのイエス・キリストにのみ信頼し固執する素直な感謝の応答・告白・証し・宣べ伝えにあるのである。ここにおいては、ルターに強烈に存在したところの、人間が「律法に対して全体的に不従順であるという事実」における人間に生ずる「生の不安」は、「克服された……慰められた……癒された不安、望みと喜びの確かな岸によって取りかこまれた不安にすぎない」。このことは終末論的限界と啓示の弁証法において語られており、それは、「生の不安」がなくなるということではなくて、イエス・キリストにおいて包括し止揚された・「克服された」・「慰められた」・「癒された」・「望みと喜び」の確かさに取り囲まれた「不安」ということである(『福音と律法』)。<目的格的属格>としての「イエスの信仰」は神と人間との「共働」を目ざすものであるから、そのような啓示認識・啓示信仰の場合、あのルターに強烈に存在したところの「生の不安」は、「神の要求」を、人間的な「自分自身の要求」に、「自分で満足させ得る要求」に変えて、「神的な『汝は斯くなすであろう』を変じて」、「人間的な余りに人間的な『汝は斯くなすべし』」をつくり上げることになる。すなわち、そのような神に対する「熱心さの無知」に依拠した信仰・神学・教会の宣教・キリスト教は、神だけでなく人間の自主性・自己主張も、また人間の欲求・関与も、イエス・キリストにおける完了された救済・平和だけでなく人間自身の対象化された自己意識の意味的世界である救済や平和・人間の管理するプログラムも、という<自然神学>(前回の「<自然神学>とは何か」を参照)における根本的な誤謬と陥穽に<必然的>に陥っていく以外にないのである。(233−235頁)

 

Aキリスト復活の40日(使徒行伝1・3)――すなわち「成就された時間」・「啓示そのもの」と、聖霊降臨日以降の使徒的時代(「使徒とその教会」の時代)――すなわち「想起の時間」・「啓示の状態」・「啓示されてあること」とは異なっている。前者は、<神性>を本質とするがゆえに「きのうも、今日も、いつまでもかわることがない」啓示の実在そのものとしてのキリストのことであるが、後者は、神と人間との無限の質的差異に下で、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰において「キリスト者の中で生き給い」、「キリスト教信仰の対象であり続ける」キリスト自身のことである(233・234頁)。すなわち、後者は、啓示認識・啓示信仰における聖書の証言・証しとしての啓示の「概念の実在」のことである。ここで、「想起の時間」は、復活のキリスト・「キリスト復活の40日」・「成就された時間」を想起する時間のことであるが、「必然的に甦られた方」・復活のキリストを待ち望む「待望」(キリストの再臨、終末・救贖・完成)の時間として、「成就された時間」・復活のキリストに参与する。このように、新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」(人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍)にとっての<いまだ>であり、神の側の真実である啓示の客観的現実性、「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである。したがって、救済を「信仰の中で持つ」ことは、「約束として持つ」ことである。「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって」、「患難と試練のただ中に」あって、「永遠の生命を信じる」。「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この「信仰の確実性」は、終末論的な「希望の確実性」である。

 

B新約聖書的な「待望」(再臨、終末・救贖・完成)におけるキリストは、「想起の対象」としての「成就された時間」・復活のキリストのことであるが、旧約聖書の中で「待望されているメシア」は新約聖書的な「想起の対象」としてのキリストではない。しかし、一方で、その区別(「変化」)は、神の「存在の仕方」における差異性であって、「神の存在の本質」における差異性ではない。すなわち、神の「存在の本質」である単一性・神性・永遠性においては、「待望の時間」である旧約聖書おける「待望」は、「きのうも、今日も、いつまでもかわることがない」<神性>を本質とするイエス・キリスの連続性においてある。このことは、次のように言うこともできる――三位一体の根本命題に即して理解すれば、「和解ないし啓示」は、「創造の継続」や「創造の完成」ではない。この意味は、「和解ないし啓示」は、神の「存在の仕方」の差異性における「第二の存在の仕方」であるイエス・キリストの「新しい神の業」である、ということである。それは、「神的な愛の力」・「和解の力」である。イエス・キリストは、和解主として、創造主のあとに続いて、神の「第二の存在の仕方」において「第二の神的行為を遂行」したのである。この神の「存在の仕方」の差異性における「創造と和解のこの順序」に、「キリスト論的に、父と子の順序、父(≪啓示者≫)と言葉(≪啓示≫)の順序」が対応しており、「和解主としてのイエス・キリスト」は、創造主・父に先行することはできない。しかし、父・子は共にその「存在」において単一性・神性・永遠性を本質としているから、この従属的な関係は、「存在の本質」の差異性を意味しているのではなく、「存在の仕方」の差異性を意味しているのである、と(『教会教義学 神の言葉』)。

 

C洗礼者ヨハネの説教が果たした「機能」は、次の点にある――ヨハネのそれは、共観福音書によれば、第一に、「悔い改め」の説教と「近づいた裁き」の「述べ伝え」において「旧約聖書的」で、預言者と見なされる」(マタイ21・26)・そして「典型的に預言者の死を遂げる」(マタイ11・3)。またそれは、第二に、「主の道をそなえるために、主の前に先立ち行く使者、呼ばわる者の声、と呼ばれている(マルコ1・2以下、およびその並行記事)」。イエスはヨハネを「預言者よりも大いなる者と呼び給う(マタイ11・9)」。すなわち、「旧約聖書的意味とは全く別な意味での『証人』である」。「聖霊がイエスに降るのを目撃した証人である」ことによって、彼は、「イエスを待ち望んでいる人々の群れからぬきん出ている(ヨハネ1・32)。(中略)洗礼者ヨハネは将来を指し示す者である、『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである(ヨハネ1・15、27、30)』」。「わたしはこのかたを知らなかった(ヨハネ1・32,33)」。この洗礼者ヨハネが、「いまや実際にキリストを知っている」(「自分に固有な知覚能力に基づいてではないが」)・「イエスのことを既に来たり給うた方として指し示している、『見よ、神の小羊』(ヨハネ1・29、36)」。そしてまた、それは、第三に、その「ヨハネの人格」において、預言者の「証言の対象であるキリスト」と使徒の<それ>とは「区別」されている。「律法ト福音トノ間ニヨハネガ立ッテイテ、仲介ノ役割ヲ果タシ、両方ニ関連ヲモッテイル(カルヴァン)」。「それであるからヨハネ」は、「旧約と新約の間に置かれている」。なぜならば、ヨハネは、「律法と福音、死と祝福、文字と霊、罪と義を宣べ伝えるからである(ルター)」。したがって、「もしも人が新約聖書……の想起の対象と旧約聖書的待望の対象とを切り離そうとするならば(中略)まずこの人物を新約聖書の証言から削除してしまわなければならないであろう」。(233−238頁) 

 

Dここで、時間とは、「独一無比な、一回的な仕方で」、「既に出来事として起こった啓示から……由来している歴史」・神が「持ち給う」「われわれのための時間」・イエス・キリストの時間・「時間の主の時間」・「実在の時間」・啓示の時間のことである。また、ここで、「成就された時間」(キリスト復活の四〇日)の以前の時間が旧約聖書的な「キリストの誕生前ノ時間」とそのまま一致しないように、その「成就された時間」は、終末・救贖・完成という「まことの未来」・「後に続く時間を持っている」のであるが、それは、「キリスト降誕後ノ時間」と一致しない。しかし、その歴史は、「きのうも、今日も、いつまでもかわることがない」<神性>を本質とするイエス・キリスにおいて、「成就された時間」に連帯し関連している(202頁)。
 「新約聖書的な歴史、福音記者と使徒たちの宣教の歴史が、啓示の中にその始まりを持っているということ」は、「躓きの可能性がある」ことを意味する。すなわち、その「躓き」・根本的な誤謬は、教会が、その「正しい注釈」を、
◎啓示に固有な証明能力に、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての啓示に、そしてその証し・証言・証人としての聖書に基づくことをしないところにある、
◎人間的理性や思惟や感情や意志や実存や、人間学的な哲学原理や認識論や世界観や、人間の恣意的な欲求・自己主張による「イエスの独創的な、宗教的人格」化や、「原始キリスト教の敬虔性と生活態度」や、「大衆や時代の傾向と手をたずさえ」た「ある種の正義」や、「大規模な世界改良の偉大な計画」や、「熱心」な「博愛的配慮……教育的配慮」や、「歴史的な価値判断」・「嗜好の判断」や、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍に依拠した存在の類比や、を第一次化して、不可避的な啓示の「概念の実在」(キリスト教に固有な類・歴史性)に信頼し固執し連帯しないところにある、
◎「最終的に……教会の教職の判決に、……間違うことはありえないものとして振る舞う歴史的――批判的学問の判決に、依存させてしまう」ところにある。 

 

 さて、新約聖書は、その「中で文書化されている宗教」に、人間の恣意的な欲求・自主性・自己主張、人間の理性・思惟・感情・意志・実存、人間学的な哲学原理・認識論・世界観、人間の「価値判断」・「嗜好の判断」によって、「味方」され、また「支持」されることを欲していない。そういう「主張もかかげていない」。新約聖書は、啓示に固有な証明能力に基づいた「証言として聞かれるべきことを主張している」・「想起の証言として聞かれるべきことを主張している」。新約聖書は、神自身の自由な決断による、<神性>を本質としたイエス・キリストにおける啓示の出来事(啓示の客観的現実性)と聖霊の注ぎによる信仰の出来事(啓示の主観的現実化)に基づいた人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与と現存を主張している。その啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間自身の自己認識・自己理解・自己規定を主張している――「われわれは、新約聖書の啓示主張に関しても、イエス・キリストご自身に頼るように――すなわち、〔その中で〕彼が聞くことと服従の聖霊を、彼が与えようと欲するものに与え給うところの(≪神自身のその都度の自由な≫)主権的行為に頼るように――指示されているのである。福音記者たちと使徒たちはただ、イエス・キリストの言葉の僕であるにすぎない。彼らは彼らの言葉でもって、イエス・キリストにとって代わることはできない。彼らの言葉の中で、イエス・キリストの啓示が真理であるということは、ただイエス・キリストご自身を通してだけ基礎づけられ、証明されるのである」。そうでない場合は、それは、正当性のある根本的な、フォイエルバッハの宗教批判の対象そのものである人間の対象化された自己意識の意味的世界としての<自然神学>的な神・啓示・信仰に過ぎないものになってしまうし、ハイデッガーが揶揄・批判したそうした<自然神学>的な「存在者レベルでの神」・その神への「信仰」に過ぎないものになってしまうのである。
 「福音記者たちと使徒たちはただ、イエス・キリストの言葉の僕であるにすぎぎない。彼らは彼らの言葉でもって、イエス・キリストにとって代わることはできない」――このバルトの言葉は、「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である」・「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」・「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』」(『キリスト教の本質』)、というフォイエルバッハの正当性のある根本的なキリスト教批判(宗教批判)を包括し止揚した、バルトの神学における思想の言葉なのである。したがって、このバルトの言葉は、ブルトマンの、その信仰・神学の原理、その認識方法と概念構成に対して、根本的に批判を加えた言葉でもあるのである。「ブルトマンの仕事の中心に、新約聖書をひとつの使信(≪ケーリュグマ―「宣教する」ことによって伝えられた宣教内容=新約聖書の使信の内容=イエス・キリストの出来事を知らせた内容、宣教、説教≫)の記録として理解しようとする意図がある……。(中略)理解する者がその使信を自分自身に向けられたものとして聞き取ることによってのみ、また解釈者として、みずからその伝達者となることによってのみ、(中略)彼ら(新約聖書の記者たち)を理解すること自体が、すでに信仰であり、彼らを釈義すること自体が、すでに説教である」(『ルドルフ・ブルトマン』)。このように、ブルトマンは、前期ハイデッガーの哲学的原理によって対象化された人間の自己意識の意味的世界である啓示・存在者・存在者レベルでの神を第一次化すること自体が、自己自身の「非本来的存在から本来的存在への」・「過ぎゆく存在から将来の存在への移行の歴史」であり、信仰であり、説教であるとする<自然神学>的な啓示の主観的現実性に依拠したのである。ブルトマンの実存論的聖書解釈にとって、聖書記事は、そして新約聖書の使信そのものも、その表象形式の神話も、人間の自己理解の表明であり、それは、不信・非本来性から信・本来性への実存的移行の表明であり、言語によって対象化された実存の表明、すなわち聖書記者たちの実存的主張であるから、そのように「理解し、解明」されなければならないのである。ここに、ブルトマンの聖書解釈における前期ハイデッガー哲学に基づく「絶対」的規準としての「先行的理解」・「解釈学的原理」がある。このブルトマン(その学派)に対して、ハイデッガーは、当然にも、正当性のある根本的な揶揄・批判を加えている――「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」(木田元『ハイデッガーの思想』)。(202−206頁) 

 

(1)――
 「新約聖書は旧約聖書と同様に、人間に対する神の自由な行為を通して基礎づけられ、人間に対する神の自由な行為から成り立っているところの神と人間の共存について証ししている証言である」(206頁)。
 新約聖書の命題の一切の出自は、「神の自由な行為」としての「神が人間となり給う」た・「言葉が肉となった」、というインマヌエルの出来事にある。すなわち、「これこそ新約聖書の秘義であるのであるが」(215頁)、「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ロマ3・22、ガラテヤ2・16等の「イエスの信仰」は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである」(『福音と律法』)――これである。このことが、「福音と律法の真理性」の内容である。イエス・キリストの十字架・「死と復活」――この出来事は、「福音と律法」の「真理性」と「現実性」との同在であり、啓示の客観的現実性である。「神が人間と結ばれた契約(神がアブラハム、モーセ、ダビデと結ばれたその契約)」は、「これまで人間自身が決して実行しなかったこと、イスラエルも決してしなかったこと、を人間としてなすために、すなわち神の恵みを受けとり、神の律法を成就するために、神が人間となり給うた」という「ただそのことの中でだけ実在であり、しかもそのこと中では全面的に、決定的に実在である」・このことこそが、「神がイエス・キリスト」において、「人間として自らなし給うたことである」・したがって、その出来事において、「イエス・キリストにあって神の国が近づいたのである」・新約聖書にとっては、「成就された時間」・復活のキリストこそが、「想起の対象」・「主辞」なのである。この神の側の真実において、旧約聖書的な形式と問いは、その内容と答えとを、得たのである(207頁)。

 

 このことの例証――旧約聖書は、「〔そのひとつの〕契約を、ただ多くの契約についての証言を通して予言しているだけである」が、新約聖書は、「ただひとつの契約」・「神の自由な、徹頭徹尾一回的な」「イエス・キリストの名」をのみ証言・証ししている。新約聖書は、このイエス・キリストの死と復活によって完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的救済・平和を「想起の対象」としてしている。また、新約聖書は、この「まことの神でありまことの人間であるイエス・キリスト……を万物の目標および終わりとして待ち望む」(208頁)。共同性に価値をおくヘーゲルは、神自身にとって「最高に必要であり必然的であるのは教団」であって、「教団の精神であることによって初めて神は精神となり神となることができる」、と述べている。それに対して、バルトは、「個々の人間による和解の主体的実現という問題は、絶対に欠くことの出来ない問題」ではあるが、「イエス・キリストにおいて客観的に起った和解の主体的実現は、まず第一に教団において、イエス・キリストの聖霊の業として遂行される」と述べている。このことは、バルトが個と教団との関係において、神学的な共同性価値論に立っていることを意味している。この場合、バルトは、神学における思想において、ヘーゲルを紙一重で超えなければならないから、バルトのその共同性価値論は、現実的な個や家族や社会から逆立的に疎外された観念の共同性である国家共同性価値論とは全く異なったものでなければならない。また、それは、ヘーゲルのような客観的精神の弁証法的展開の果てに想定される哲学的な国家共同性価値論とは全く異なっていなければならない。したがって、バルトは、まず「神の霊と人間の精神の全面的な区別」が強調されなければならない、そして、その「啓示の主体的現実」化を、「人間の業としてではなく、まさに神の霊の行為としてとらえることによって、聖霊を、神の似姿の『唯一の現実』として、人間の『恩寵に敵対する態度』に立ち向かって戦うものとして、実存を超えたところにある神の子としての身分の創造者として理解」しなければならない、その上で、「(聖霊と密接に関連して)記されている」、「真理の柱、真理の基礎」とは、「神の教団」・「イエス・キリストの教団」・「使徒ヨリノ唯一ノ聖ナル公同教会」のことであって、「イエス・キリストと個人的関係を持つ」その「肢々」としての「一人一人のキリスト者」・「キリスト者個人」のことではない、と述べたのである(『ヘーゲル』および『カール・バルト教会教義学 和解論T/1』)。それだけでなく、バルトは、「神はご自身との共同性の中に生きてい給う。そして神は人間との共同性の中に生きてい給う。そして人間は他人との共同性の中で生きている。共同性ということが、人間が神に似ていることの根拠だ。……教会なきところではイエスはキリストであり給わない。教会は永遠よりえらばれたものだ。そして、キリストは、その頭としてありつづけ給う(≪したがって、事実としての実際的な教会は、神的側面と人間的側面との構造としてある≫)。……個々人と共同体の対立は近代的な対立であって、新約聖書のものではない。……新約聖書の「体」の概念はこの対立を超えたものだ、と述べたのである(『バルトとの対話』)。

 

 新約聖書において、先ず以て、「契約はキリストにあってペテロのため、ヨハネのため、パウロのため、コリントおよびローマにある教会のために、既に結ばれたのである」。したがって、新約聖書は、人間の自己意識によって対象化された存在者・神・啓示へと心を向けさせようとするのではなくて、「神の自由な、徹頭徹尾一回的な」<既に結ばれた>唯一無比な契約へと、「ひとりの仲保者キリストへと」、「そのようにして神へと、召」し、「心を向けさせ」ようとするのである。したがってまた、新約聖書においては、「神の人」・「契約の道具」・「多種多様な役職は存在しない」のである。「福音記者と使徒たちは、せいぜいのところ間接的に、キリストの証人と呼ばれるだけである」。ただ、それらは、全く何等の「優位性」も有しないという意味において、旧約聖書の「王たち、祭司たち、預言者たちのすべての機能」は、特別な「奉仕」職という形で、「キリストの教会〔そのもの〕に移行」したのである。したがって、それら役職相互間に「優越性」の度合の差異が全くないのと同じように、それらの役職者と大多数の役職なき会員との間にも「優越性」の度合の差異は全くないのである。すなわち、キリストの教会の役職は、「奉仕」職ではあっても「優越」職では全くないのである。なぜならば、「もろもろの仲保者はもはや存在しないから」である。このようなわけであるから、「もしも人が、……キリストを」、インマヌエルとしてのイエス・キリストを、「単なるしるし、表象、単なる証人として理解するならば、旧約聖書をユダヤ教的に受けとる受けとり方の段階に逆もどりしてしまうことになる」・退行的復古的にユダヤ教的段階へと逆戻りしてしまうことになるのである。ちょうど、人類史のアジア的段階における自然原理に退行・復古した滝沢克己の哲学的神学のように。またちょうど、人類史のアジア的段階における7,8世紀を起源とする天皇制に退行・復古した佐藤優の天皇教的キリスト教のように。そしてまたちょうど、状況論なき思想なきルドルフ・ボーレンや佐藤司郎や小泉健の停滞した中世的思考に退行・復古した聖霊論的説教論における人間学的神学のように……。バルトの信仰・神学の原理に即して言えば、彼らのそれらはすべて、<本質的>には、<自然神学>の系譜に属するそれとして総括できるのである。
 新約聖書における「想起の対象の証言」は、旧約聖書的「待望証言の確認」である。新約聖書において、インマヌエルとしての、<神性>を本質とする・「神的な仕方」で、唯一無比の「仲保者として行動し給う」、イエス・キリストは、「道であり、真理であり、生命である」・「イスラエルの王たちとは違って……ご自分の正しさでもって神の正しさを、ご自分の力でもって神の力を行使し給う」・「イスラエルの祭司たちと違って……罪をゆるし、神と人間の和解を造り出し給う」・「イスラエルの預言者たちと違って……主の言葉そのものを自ら語り給う、……自ら……主の言葉であり給う」。新約聖書の「福音記者と使徒たちのうち誰も」、このインマヌエルとしてのイエス・キリストを、「正にイスラエルのメシヤとして以外の仕方で理解したものはいなかった」。決して、「反ユダヤ主義的な意味」では理解しなかった。したがって、彼らにとっては、旧約聖書的な待望の対象と新約聖書的な想起の対象は「合致」していた。彼らにとって、「キリストがイスラエルによって拒否されたということ」が、「彼こそまさに来るべき方であり、彼の十字架こそ、そこで新しい時間が基礎づけられるとともに、また古い時間が成就された出来事であるということ」を、「裏づける完全な確証であった」。したがってまた、彼らは、この「新約聖書的な思惟と語り」の「謎」に対して、<神性>を本質とするイエス・キリストは、「十字架につけられ、そして甦えり給うたということ以外のほかの答えを与えることができなかった」。(208−211頁)

 

 

(2)――
 「新約聖書は旧約聖書と同様、隠れた神の啓示についての証言である」。すなわち、新約聖書は、「全旧約聖書によって待望された神の啓示」を、「その選ばれた民によって神の子が拒否され十字架につけられること」についての証言である。したがって、旧約聖書的な「神の隠れ」・隠蔽は、その新約聖書的証言であるイエス・キリストの誕生・死と復活において「明らかになる」・顕現する(211頁)。
 新約聖書は、キリストの十字架において、「この世の様(ローマ12・2)」――この世のもろもろの「力」と「権威」、「自然、歴史、文化の神性」性が「剥奪」され、「墓に葬り」去られ、「克服された」ことを証言している。キリストの死と復活は、「古き世」の終わりと「新しい世」のはじまりを意味している。私たちは、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰において、そしてその啓示の弁証法において、敗北者である「われわれ人間の失われた非本来的な古い時間」は、「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」としての成就の時間であるキリストの復活における神の「勝利の行為」によって包括され止揚され・克服されて「そこにある」ことを認識することができる。また、その勝利の行為は、「敗北者もまた依然としてそこにいるところの勝利の行為」であることを認識することができる(『教会教義学 神の言葉』)。「新約聖書を理解するためには」、このイエス・キリストの啓示の場所において、「ヨブと伝道者、そして詩篇の作者」の「問題」、「神に相対している人間の苦難の問題、を知らなければならない」。したがって、このイエス・キリストの啓示の場所においては、私たちが、綿々として尽きない「古き世に対して戦う際の武具」は、第一義的には、「人道主義や、寛容さや、……文化謳歌主義」や、民族国家の強力化や、国家を第一義とする国家社会主義や、日本では竹中・小泉路線がそれであったが、アメリカにおけるキリスト教も加担した新保守主義と結びついた小さな政府を目指す新自由主義――すなわち、国家を第一義(価値)とする経済的自由至上主義・至上市場主義経済主義や、国家共同性の第一義化(価値化)や、エリート主義や、進歩主義(文明主義)や、天然自然主義、「楽天主義」や、「調和」主義等々ではなくて、「エペソ人への手紙六章にしるされている純粋に霊的な武具」である。したってまた、このイエス・キリストの啓示の場所においては、「旧約聖書の中に出てくる苦しむものたちの疑い、嘆き、抗弁、祈願」は、あたかもそのようなものが全く存在していなかったかのように」、「パウロにおいてもヨハネにおいても、そのほかどの新約聖書の書物の中ででも、沈黙してしまう」し、「苦しむ預言者や神の僕の〔あの一連の〕継続はあり得ない」し、「あの救いを求める叫び、あの抗議、あの懐疑はもはやあり得ない」のである。これらのことは、新約聖書における旧約聖書からの「変化」である。「キリストの弟子たちが苦しまなければならないということ、また主の教会も苦しまなければならないということ、そのことはただここで、キリストとの関連の中で、重要なのであって、それだけでは取るに足りないこと」なのである。したがって、例外的なステパノの殉教についても、その本質はその「行為」にあるのではなくイエス・キリストに対する信頼と固執の「言葉」にあるのであって(『証人としてのキリスト者』)、新約聖書の「通則」は、「秘義に満ちた仕方で働いている規律」における「パウロの殉教もペテロの殉教もヨハネの殉教も述べられていないという事実の中」にある。したがってまた、「……殉教列伝は、旧約聖書的な伝統、いや、ユダヤ会堂的な伝統」の「継承」であって、「決して新約聖書的な伝統を継承しているわけではない」のである。(212−215頁)

 

 「苦難の問題に対する新約聖書の解答」は、「ひとりのものがすべてのもののために死んだということである」。このことから、旧約聖書的な神の「隠れ」・隠蔽は、新約聖書においても、「罪と刑罰という二重の実在〔現実〕から成り立っている」。すなわち、「キリストの十字架の中で原始キリスト教会は、神に対して犯した人間の罪の秘義と罪深い人間に対し神の刑罰が下される〔刑罰の遂行の〕秘義を見て取った」のである。キリストの十字架において、すなわち「ゴルゴタの丘の上で直接」、「ユダヤ人と異邦人が力を合わせて」「神に対して罪が犯され、その同じ場所で神が自ら罪の刑罰を身に受け給う」ことによって、人間の欲求・自主性・自己主張・無神性・真実の罪が、明らかにされ、罪深い「人間に対する告訴は徹底的となり、全体に及ぶものとなる」・「内的必然性を得てくる」。言い換えれば、「罪――刑罰の問題」は、「決してイスラエルの特殊問題ではなかった」ということが、明らかにされる。また、「イスラエルの民は罪人の集まりでしかない来るべき教会のため〔に代わって座をしめているところ〕の代理人でしかなかったことが明らかに」される。神は、「すべての人をあわれむために」、「すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである(ローマ11・32)」。このように、新約聖書においては、神の「隠れ」は、隠蔽と顕現という啓示の弁証法においてある。すなわち、新約聖書においては、キリストの「受難、苦しみ」、「十字架」・「死」は、「キリストの甦りの実在」・「復活日」・復活のキリストという包括的観点から、啓示の弁証法において思惟され語られている――「甦えりの出来事はキリストの出来事の、……第二の段階ではなく、……(≪包括的な≫) 第二の次元(ヨハネ1・14)」の顕現化である。甦えり・キリストの復活は、「イスラエルによって拒否され、ピラトによって十字架につけられた方」の「死人の中からの甦えり」の出来事のことであり、「肉となった方、ご自分の身を低くされた方、十字架につけられた方が啓示される出来事である」。「甦りの出来事」・復活のキリストという包括的観点において、「十字架の言葉」(「キリストの受難」)は「啓示の力」・「神の隠れの力」である。新約聖書の証言において、「神の隠れ」は、キリストの復活において包括的に認識(信仰)されている(218頁)――新約聖書における神の隠れ、キリストの受難は、「キリストはすべての苦しみに打ち勝って甦えり給うた、われわれは皆そのことを喜ぶ、キリストはわれわれの慰めとなり給うた」という出来事を通して、「くまなく照らし出され、語り出し、まことの『十字架の言葉』(Tコリント1・18)となったのである」(220頁)。

 

 <自然神学>的な啓示認識に依拠した人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍を通した存在の類比においては、キリストの復活に対する素直な告白や証しや宣べ伝えはあり得ないことである。それとは違って、バルトは、バーゼルの刑務所で、イエス・キリストの復活の出来事について、次のように説教をしたのである――「ただ単に考えや夢の中にではなく、何か精神的にではなく、身体的に見、聞き、つかまえることできる形」における弟子への顕現の出来事、すなわち復活の出来事について、そのことが、「どのようにして……起こりえたか、また起こったか、……私はあなたがたと同じように、その理由を知らない。それは(≪人間の感覚と知識を内容とする経験に依拠して考えれば≫)人が信じないようなことだと言う以外に、単純な言い方はほかに存在しない。事実、当時でさえも、解き明かすことは愚か、書き記すことや説明することはできなかった」。「概念的に心に思い浮かべること」はできなかった(220頁)。「イエスの復活は、徹頭徹尾神の業であって、そのようなものとして、最高度に良くなされたが、しかし最高度に理解し難いもの」なのである。したがって、「当時でさえも、ただ認識(≪信仰≫)され、告白され、証しされ、宣べ伝えることができた」だけである。すなわちは、私たちは、そのことについて、説明することは全くできず、ただ、あくまでも、その啓示の出来事と信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰において、素直な「告白」・「証し」・「宣べ伝え」を行うことができるだけなのである。バルト自身は、福音は「魂と体、天と地、内的と外的いのちのため」にある、私たちは、身体的存在と理性的存在という全体的人間を考えなければならない、救贖は全的人間のそれであるから、身体的復活である、と述べている。このバルトの語りは、<自然神学>的な啓示認識に依拠した人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍に依拠した存在の類比を通したそれでないことは、一目瞭然である。このように、バルトにおいても、復活の出来事は、全く説明なしの、素直な告白や証しや宣べ伝えなのである(『カール・バルト著作集17 説教集<下>』「主を見た時 ヨハネ」および『バルトとの対話』)。吉本隆明の「あなたはキリストの復活、再臨を信じているのですか」という問いに対して、即座に、「信じています」と答えたカトリック作家の小川国夫についても、私たちは、<自然神学>的な認識・信仰から超出した場所から言葉を発していることを知ることができるのである。
 アウグスティヌスやハイデッガーにおいては、「自分で時間を創造する」ことによって「時間」を持つ。しかし、彼らの時間概念は、聖書においては「『失われた』時間」・「否定された時間」・「否定的判決の時間」であり、「実在の時間」である「イエス・キリストにおける啓示の時間」から「『攻撃』された時間」である。それに対して、イエス・キリストの時間・「時間の主の時間」は、問題に満ちた非本質的な失われた「われわれの時間」の中で、「実在の成就された時間」である。ここに、「まことの現在」まことの「過去と未来が存在する」し、「神の言葉」がある。すなわち、アウグスティヌスやハイデッガーには、イエス・キリストにおける啓示の時間・時間そのもの・実在の時間についての認識・概念が欠けている。「『神はご自身を啓示し給う』という命題」は、「『神はわれわれのための時間を持ち給う』という命題」と同じ意味である。この啓示の時間は、神の側の真実としてのみあるから、人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍に依拠した存在の類比によっては認識することはできないので、「啓示そのものによって教えられなければ」その一部分でさえ認識することはできないのである。したがって、私たちは、啓示の出来事と信仰の出来事に基づく人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰において、すなわちイエス・キリストの出来事を「神の啓示として理解」する時初めて、イエス・キリストの現臨の出来事であるイエス・キリストにおける啓示の時間は、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時」に生起した「われわれのための神の時間」であることを認識し理解することができるのである。「旧約聖書的な待望の時間」と「新約聖書的な想起の時間」との間の「成就された時間」とは、「イエスがご自分〔の生きていること〕をお示しになった」復活の「あの四〇日(使徒行伝一・三)」のことである。「新約聖書の証人たち」・使徒たちは、このキリスト復活の40日をおぼえる想起において、「キリストの死」・十字架と「キリストの生涯」を想起する時、「甦えりの力」・「啓示の力」として、「光を得」たのである(225・226頁)。彼らは、預言者たちとは違って、「甦えりの証人」である(221・226頁)。そして彼らは、「既に来た方」(イエス・キリスト)は「またこれから来たり給う方」であることを語る。「新約聖書の信仰」は、「想起の時間」である「聖霊降臨日のあとの時代」である。したがって、この「想起の時間」・聖霊降臨日以降の時間は、「成就された時間」・キリスト復活の40日ではない。しかし、その「想起の時間」は、「甦えられた方」・復活のイエスをおぼえる「想起の時間」として、必然的に「甦えられた方を待ち望む待望の時間」、再臨、終末・救贖・完成を待望する時間であり、そのようにしてそれは、「成就された時間」(キリスト復活の40日)に参与する。ここで、「すべての以前と以後においても」「同一の方であり給う」イエス・キリストにおいて、未来(再臨、終末・救贖・完成)を考えること・待望することは過去(「成就された時間」、復活のキリスト)を考えること・想起することであり、過去(「成就された時間」、復活のキリスト)を考えること・想起することは未来(再臨、終末・救贖・完成)を考えること・待望することであると同時に、「成就された時間」の前の過去(旧約聖書的待望の時間・待望の旧約聖書的時間・旧約聖書的証言の時間、「キリストの生涯」と「キリストの死」・十字架)を考えることでもあるのである(『教会教義学 神の言葉』)。

 

 「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」。すなわち、「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」は、復活へと向かっている。このキリストの復活・成就の時間は、「福音と律法」の「真理性」と「現実性」の構造・同在におけるそれであり、「新しい世」のはじまりである。私たちは、その啓示の出来事と信仰の出来事に基づく啓示認識において、敗北者である「われわれ人間の失われた非本来的な古い時間」は、「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」――すなわち「成就された時間」・キリストの復活における神の「勝利の行為」によって包括され止揚され・克服されて「そこにある」ことを認識し信仰することができる。また、その勝利の行為は、「敗北者もまた依然としてそこにいるところの勝利の行為」であることを認識し信仰することができる(『教会教義学 神の言葉』)。言い換えれば、イエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配」の下で存在していることを認識し・信仰する。また、イエス・キリストの啓示の出来事における「真理性」と「現実性」の構造・同在としてある「神の言葉の具体的な内容である福音と律法」が、「人間を捕えて放さないこと」を認識し・信仰する。したがって、私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として把握する。すなわち、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを確認する。したがってまた、そのイエス・キリストにおける啓示の場所は、<自然神学>的な信仰・神学・教会の宣教・キリスト教における<福音>が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」・「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」・「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所であることを確認する。それだけでなく、「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受けとることができる」場所であることを確認する。すなわち、私たち人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せる場所であることを確認する。したがって、その場所は、ヒッグス粒子の発見やiPS細胞の研究成果(人間的自然の一切)をも正直に受けとることができる場所なのである。

 

 「新約聖書の証言を聞く人間」は、「キリストが古い世との戦いを実際に戦い給うたのであり、人はキリストと共に信仰の中で既に新しい世に生きているのである」から、「この世はキリストの死の中で過ぎ去った世であり、それの神々や偶像はもはや何の力も持っていないということを信じ、知るように召されている」。ここに、この世に対する戦いの根拠・原理・原動力があるのである(222頁)。したがって、<自然神学>的な信仰・神学・教会の宣教において、この神だけでなく、人間も・人間の欲求も・人間の自己主張も・人間の管理するプログラムも、というように人間が「うぬぼれの中で」神との「共働」を考える場合、それらは、すべて「神の名において、神の呼びかけのもとに行われる」(トゥルナイゼン)「独断的な」「支配行為」へと邁進し埋没していく以外にないのである――@「ドストエフスキーの書いたあの大審問官は、神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていた。のであるが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の善意(≪単なる、彼の対象化された自己意識の意味的世界・彼の管理するプログラムに過ぎない≫)によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、最も洗練された支配行為に過ぎなかったのである。神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえどのように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう。またそのようなところには、教会は存在しないのである。そのような救いの計画と救いの方法の独断性が、神に余りに僅かしか信頼せず、人間に余りに多く信頼するという点に現われるということは、疑いない(『啓示・教会・神学』)。A阪神・淡路大震災の時、ある牧師が「武器を持って神戸市役所かどこかに押しかけて行って、被災者の住めるような建物をすぐにつくってくれと、職員を脅かした」ことを話すために、吉本にわざわざ電話をかけた事態である。その行為に対して吉本は、その牧師は「じぶんがやったことを得々としゃべるわけです。ぼくは、ははぁ、戦前とちっとも変っていないやと思いながら聞いていた……。(中略)正義のために脅かしたのだと得々としゃべることは、ぼくらが戦争中に『お国のために』といわれたのとまったくおなじことで、そんなの、ちっともよくない」、「日本というか、あるいはアジアの特質かもしれません。ラジカルな人ほど、ほかの分野の人に対してじぶんを押し付けがちです。そういう傾向がとても強い」というように、独断的な「正義」の名における<支配行為>について述べている(『「ならずもの国家」異論』)。(216−224頁)

 

 

(3)――
 私たちは、バルトのこれらの語りから、やはり、彼が、神学における思想の課題である、一切の近代主義・一切の<自然神学>の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教・キリスト教を包括し止揚して、そこから超出していこうとしていることを知ることができる。この3もそうである。そうしたバルトの語りは、新約聖書の「キリスト論を絶望的な仕方で……哲学に解消してしまう」、<自然神学>的な「仮現論」への根本的な批判を構成しているし、また、バルトのそれは、新約聖書をただ単なる「一個の……伝承でしかない」ものにしてしまう、<自然神学>的な「エビオン主義」への根本的な批判をも構成しているのである。
 「(≪新約聖書は、「キリストはまことに、肉体をもって甦えり給い、そのような方として彼の弟子たちに現われ、彼らと語り、彼らの間で行動し給うた」という「甦えりの歴史」・「成就された時間」・復活のキリストを「想起」している証言であるけれども、その≫)新約聖書は旧約聖書と同様、……神は人間に対して、来たりつつある神として現在的あり給う啓示(≪「通則」としての、復活のキリストの再臨、救贖・完成の「待望」という終末論的な啓示≫)……についての証言である」。しかし、その「通則」には「一つの偉大な例外」があって、そしてその「例外こそが(≪その≫)通則を確証しているのである」、それは、「終末論的に語」られていないところの「四福音書が述べている甦えりの歴史、ならびにTコリント一五章の中でパウロが述べている甦えりの歴史」である。新約聖書におけるその「甦えりの歴史」・出来事の証言は、終末論的にではなく、「時間の中での神の永遠的な現在」を語っている(224・225頁)。このキリストの復活の出来事は、宗教的形態が科学<主義>へと移行した近代においては特に、人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍に依拠して言えば、「人が信じないようなことだと言う以外」にないことである。マルコ16・8の三人の女たちも、「人には何も言わなかった。恐ろしかったからである」。したがって、この歴史・出来事は、「それが述べられている際の具体性の中でそのまま、聞かれ信じられることができる……だけである」(227頁)。すなわち、その歴史・出来事は、説明ではなく、啓示の出来事と信仰の出来事に基づく素直な「告白」・「証し」・「宣べ伝え」として存在している。 新約聖書において、この「甦えりの歴史」・「成就された時間」・キリストの復活の出来事は、「決して過去となることができない」(「決して過ぎ去り行くことに服していない存在」)・「またいかなる未来をも必要としていない時間、……神の……純粋な現在の時間」(「いかなる生成も必要としない存在」)である(226・228頁)。しかし、その「時間の中での神の永遠的な現在」は、「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」イエス・キリストの連続性において、インマヌエル――神は、罪深き私たち人間と「はじめの時から終わりの時まで、昨日も今日もいつまでも共にい給う」――そのものであるイエス・キリストの連続性において、それは、終末論的な「待望」の対象、すなわち復活のキリストの再臨、終末・救贖・完成に対する「待望」でもある。新約聖書の証言における、この「時間の中での神の永遠的な現在」、「甦えりの歴史」・「成就された時間」・復活のキリストは、「独一無比」な、「それこそがすべてのそのほかのことを基礎づけ、結びつけている〔本来的な〕想起」の対象である(227頁)。

 

 このように、神の啓示は、「甦えりの歴史」と、「甦えりの使信の可能性」である。したがって、「甦えりの歴史」・「成就された時間」・復活のキリストにおいて「来たり給うたメシアを思い出す想起についての証言である新約聖書の証言は、……来りつつあるキリストを待ち望む待望の証言」・復活のキリストの再臨、終末・救贖・完成を待望する証言でもある。このようにまた、新約聖書の証言における「時間の中での神の永遠的な現在」、「復活日」(「あの四十日の内容」)・「甦えりの歴史」・「成就された時間」・復活のキリスト――徹頭徹尾、神の側の真実、主格的属格としての「イエスの信仰」、キリストの中にのみ現臨している・キリストにのみある「希望ノ中ニ隠サレテイル」、イエス・キリストにおける「完了」された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的救済・平和、「福音と律法」の「真理性」と「現実性」の同在性、啓示の客観的現実性そのもの――に対する「想起」(そのために、『福音と律法』によれば、イエス・キリストは、彼にのみ信頼し固執することができる「生命の御霊」・「力と愛と慎みとの霊を与え給う」)は、「すべてのそのほかの想起と同じ」ような、「過ぎ去った出来事を思い起こす想起」・「回想」では全くないのである。「この時間(≪「甦えりの歴史」・復活のキリスト≫)の想起は同時にまた、この同じ時間の待望(≪復活のキリストの再臨の待望、「希望」、終末・救贖・完成に対する待望、「希望」≫)でなければならない」。この復活のキリストを「想起」することにおいて、新約聖書は、「徹頭徹尾終末論的に方向づけられ、終末論的に意図された使信」である――「その純粋な現在〔現臨〕の中でのこの神がソノママ、また来りつつある神として啓示され、信じられ、知られるのである」。ここにおいて、復活のキリストを想起することは、その生涯、十字架・死と共に、「旧約聖書」を考えることでもあるのである。すなわち、ここにおいて、「なぜキリストの教会が自分のことを、直ちに会堂の正当な相続人として認識しなければならなかったということ……を特別によく理解する」。そして、旧約聖書的待望と預言がキリストによって成就されたという認識と確認において、旧約聖書を「正典」としたキリストの教会は、「あの自明性をもって待望と預言の書物を自分のものとして読み、主張しなければならなかった」。「われわれは、アブラハムトと違って、現ワサレ、現在的デアルキリストを知っている。しかもそのキリストをわれわれはアブラハムとともにまた待ち望んでいる」。(228−233頁)。

 

 バルトは、こう述べている――神の言葉は、「偶発的な同時性」、すなわち「特定のアノトコロデアノ時ニが、特定のココデイマ」となる。神の言葉は、「その都度、全く特定の一回的な、独一無比な」言葉である。しかしまた、神の言葉は、「神の口を通して語られて、同時的」である。このことは、神の言葉は一つであること、すなわち「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」イエス・キリストにおける連続性を意味している。この神性を本質とするイエス・キリストの連続性における「同時性」が、「特定のアノトコロデアノ時ニが、特定のココデイマ」となる出来事の時間・空間のベクトル変容を可能とするのである。すなわち、そのイエス・キリストの「特定のアノトコロデアノ時ニ」において、バルトの「特定のココデイマ」は、預言者や使徒たちの特定の時空と交点を結び得るのである。「時の全くの厳格な相違性の中で、神の言葉は一つであり、同時的である(イエス・キリストは、きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない)」。言い換えれば、そこにおいて、バルトの現存性は、聖書証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(キリスト教に固有な類・歴史性)に連帯するのである。この場所で、バルトは、現在から未来に生きる言葉について、「パウロはその時代の子としてその時代の人々に語った。けれどもこの事実よりはるかに重要な事柄は、いま一つの事実、すなわち彼は神の国の預言者ならびに使徒としてあらゆる時代のあらゆる人々に語っている、ということである。(中略)聖書の精神は永遠の精神なのである。かつての重大問題は今日もなお重大問題であり、今日の重大問題で単なる偶然や気まぐれでない事柄は、またかつての重大問題と直結している」、と述べたのである(『教会教義学 神の言葉』および『カール・バルト著作集14』「ローマ書」)。