本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』「神の言葉の受肉――イエス・キリスト(その5 待望の時間)

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』「神の言葉の受肉――イエス・キリスト(その5 待望の時間144−201頁)バルトの神学における思想性を、イメージし易くするために、また理解し易くするために、そしてまたはじめて読まれる方においてもそうであるために、かつて述べたことを再掲している箇所がありますので、どうしても、長くなってしまいます。ご容赦ください。

 

 バルトは、「イエス・キリストは待望されたものとして既に旧約聖書の時代に啓示されてい給うという命題」を、「ここでもわれわれはごく単純に、……われわれに対してあらかじめ考えられ、あらかじめ語られている真理のあとに続いて考え、語るように呼び出されている」、と述べている(159頁)。なぜならば、この旧約聖書における啓示の待望は、「神の将来であるところの将来」としての「預言」であるから――それゆえに、その啓示認識・啓示信仰・「決断」には、神のその都度の自由な決断に基づく、啓示の出来事と信仰の出来事を必要とするのであるが――、人間の哲学的原理や認識論や世界観や歴史学や人間の経験的普遍や「実験と論理を手掛かりにして吟味され(≪認識され≫)るべき予告ではない」からである。したがってバルトは、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」、すなわち人間に向かって語られた神の自己啓示であるイエス・キリストにおける啓示の出来事(啓示の実在そのもの)、また「聖書」の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)に連帯しながら、一方で現実と時代に強いられてその個性と時代性を刻んでいくことを、その神学の原理、その神学の認識方法と概念構成としたのである(『教会教義学 神の言葉』および『啓示・教会・神学』)。しかし、神と人間との無限の質的差異を揚棄し、その神学の原理およびその認識方法と概念構成それ自体に自己相対化視座を持たないところの、人間中心主義的、内面主義的、主観主義的な、神と人間との混淆・「共働」を目指す自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教・キリスト教は、「われわれに対してあらかじめ考えられ、あらかじめ語られている真理」を看過し・「拒否」し・破棄してしまって、恣意的な曲解へと向かってしまうのである。したがって、その場合、その言説は、その最初から「誤謬は必然」となるのである。したがってまた、その場合、その言説は、現実や時代の状況がそれを許す限りにおいてではあるが、それらが根本的な誤謬にみちた馬鹿げた出鱈目な言説やペテンであっても、それらに「普遍性や組織性の後光をかぶせ」られて、社会的に流通してしまうのである(199・200頁)。そうした自然神学的な信仰・神学・教会の宣教・キリスト教は、必ずや、次のような事態を惹き起こすのである――@「神自身が人間の霊魂的な、また歴史的な現実の構成要素」とされ、「従ってもはや神ならぬもの、偶像」とされる。このことが「特に危険な反乱であり、神への『反逆』である」。「その危険なわけは、それが、傲慢にも神を忘れた公然たる反抗として行われず、実に神の名において、神の呼びかけのもとに行われるからである」(E・トゥルナイゼン『ドストエフスキー』)。A「ドストエフスキーの書いたあの大審問官は、神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていたのであるが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の善意(≪彼の対象化された自己意識としての彼自身が管理するプログラム≫)によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、最も洗練された支配行為に過ぎなかったのである。神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえどのように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう。またそのようなところには、教会は存在しないのである」(カール・バルト『啓示・教会・神学』)。それらに対して、神性を本質とする「イエス・キリストを信じる教会」――イエス・キリストを頭とする、神的側面と人間的側面を構造とするそれ――は、その人間的側面において、その啓示に固有な証明能力に基づいて、また神の隠蔽性と終末論的限界の下で、「決断」的に、「まさに啓示が語るような具合に語る」ことができるだけであることを、認識し自覚しているのである(200・201頁)。したがって、その教会は、その告白や証しや宣べ伝えが「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神」自身の決定事項なのであって、私たち人間の決定事項ではない、ということをも認識し自覚しているのである。またその教会は、神に対する、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』という人間的態度」の重要性をも認識し自覚しているのである(『教会教義学 神の言葉』)。したがってまた、「教会が啓示を認識し、啓示によって生きる時」、「そのことは、パウロがローマ11章20節以下で述べているように、値なしに与えられる全くの恵み」なのである、ということも認識し自覚しているのである。なぜならば、そうでない場合には、人間的側面としての教会は、すぐに、イエス・キリストを「待望する中で恵みを受けていたことを」、見・理解しようとすれば見・理解することができるにもかかわらず、「見よう(≪・理解しよう≫)としない」、「心のかたくなな」「会堂」と同じ形姿となることを認識し自覚しているからである(201頁)。

 

 さて、不信とむなしさと不安と不確かさの蔓延した現代・現在から未来に生きる信仰・神学・教会の宣教の言葉を「神の言葉の三形態」に基づいて探求し追究するという神学における思想の課題を担ったバルトにとっては、旧約聖書における「待望の時間」は、「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」、単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストにおける連続性において考えられている。しかも、それは、そのイエス・キリストの<復活>を中心・核・原理として考えられている。ここで、「成就された時間の以前の時間」は、「成就された時間」・キリストの復活から考えるべき事柄であって、「キリスト降誕前」の時間を意味していない(144頁)。なぜならば、「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」からである。すなわち、「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」は、復活へと向かっているからである。このキリストの復活・「成就の時間」(使徒行伝1・3におけるキリスト復活の40日)は、「福音と律法」の「真理性」と「現実性」の総体性としてある啓示の客観的現実性――神の側の真実としてのみある客観的現実性である。すなわち、それは、全人間・全世界・全人類の、イエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)・平和のことであり、「新しい世」のはじまりである(『教会教義学 神の言葉』)。このバルトの立場を、全く不信仰であり不信仰であり続けている・全く神から遠ざかり遠ざかり続けている・全く罪を新たな罪を犯し続けている私は、私自身の信仰体験を思想化する場所で、全面的に首肯する。なぜならば、ほんとうは、この啓示の客観的現実性という場所を授与され・その場所を保持し・その場所に立脚しない限り、この私自身、全人間・全世界・全人類は、現在においてだけでなく、現在から未来にも決して生きることはできないからである。すなわち、その場所にしか、不信とむなしさと不安と不確かさの蔓延した只中において、そうした現在を包括し止揚して、現在と未来を架橋できる信仰・神学における思想の場所はあり得ないからである。

 

 いずれにせよ、「待望の時間」は、「時間の中で出来事として起こっている特定の歴史の時間」、すなわち旧約聖書の時間(「啓示の待望についての証言の時間」)およびその時間の「最後的な継続……目標」としてのイエス・キリストの十字架(死)以前の時間のことである。したがって、ここにおいても、「まことの待望」の時間と「まことの想起」の時間の統一としての「成就された時間」は、「未来的なもの」と「過去的なもの」を包括した「現在的」なものとしてあるという点で、区別・差異を包括した同一性(統一性・本質)である。すなわち相違しながら「ひとつである」(144・145頁)。しかし、ここで注意すべき点は、バルトは、ヘーゲルのように区別・差異・対立を包括した純粋な同一性(統一性・本質)、言い換えれば区別・差異・対立は、その本質の媒介的現実性である、という人間学的概念を原理とはしていない、ということである。言わば、「神の言葉の三形態」に基づいたバルトは、神学における思想において、ヘーゲルを紙一重で超えている、ということである。すなわち、バルトは、「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」、単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストにおける連続性を、そしてイエス・キリストの<甦えり・復活>・「成就された時間」を、その信仰・神学の中心・核・原理としている、ということである、その信仰・神学の認識方法と概念構成としている、ということである。バルトは、神学における<思想>において、自由・主権は、神自身においてのみ「実在であり真理」(『教会教義学 神の言葉』)であるという概念によってヘーゲルの自由の概念を紙一重で超えたように、ここでもヘーゲルを紙一重で超えているのである。したがって、バルトは、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところ」の「すべての大学社会の神学」や、ルターの信仰論・受肉説や、「神学を表象の媒介のレベルから概念という高位のレベルにまで高めるという〔ヘーゲルの〕思弁的要求を何としても否定しなくてはならないようなことは、わたしにとって、神学を歴史哲学から何としても限界づけなくてはならないということと同様、二次的なことなのである」と述べたヘーゲル主義者・エーバーハルト・ユンゲルを、『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』等の書物において単純にしかし根本的に批判しているのである、その自然神学的立場から根本的に超出しているのである。ここでもうひとつ注意すべき点は、バルトは、その信仰・神学の原理およびその認識方法と概念構成それ自体でヘーゲル哲学を紙一重で超えながらも、前述した区別・差異・対立を包括した純粋な同一性(本質)という概念を捨象してしまうのではなく、あくまでも神性を本質とするイエス・キリストの啓示の場所において、「神の言葉の三形態」に固執する場所において、保存しているということである。言い換えれば、イエス・キリストの<復活>を中心・核・原理とした「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」、単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストの啓示は、区別・差異(「失われない差異性」)を包括した純粋な同一性(統一性・本質)として考えられている。このバルトの神学における思想の在り方は、ヘーゲル哲学を否定的に媒介して自らの哲学体系を構築したマルクスが、ヘーゲルの媒介性一般の概念を保存したのと同じである。こうした神学における思想を構築した神学者としては、バルト以外にはカンタベリーのアンセルムスがいる。日本には概ねその1世紀後に活躍し、信と不信を架橋した浄土真宗の思想家の親鸞がいた。神学における思想家であるバルトだけが、アンセルムスのその思想性を見出したのである――「いかなる人間もほかの者に教えることができないことを教えることができ、また繰り返し教えるであろうことを信頼していた客観的な根拠」、すなわち「信仰の対象そのものの客観的根拠」の「力強さを念頭において」、「非キリスト者をキリスト者として、不信者を信者として語りかけ」、「信者と不信者の間の深淵を超え」出て、「彼が自分を不信者たちに対して不信者たちと同類の者としておき、不信者たちを自分と同類の者として受けとる」ことができた(『カール・バルト著作集8』「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」)。それは、現在でも生き得る、未来にも生きる、アンセルムスにおける信仰・神学における思想の言葉・還相の言葉である。そして、その「客観的根拠」は、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、イエス・キリストにおける「啓示の客観的現実性」のことである。

 

 旧約聖書の時間の、他の時間に対する特異性は、その旧約聖書における啓示の時間が、啓示の「まことの待望の証言」・「待望された啓示」である、という点にある。したがって、その特異性は、「歴史的な判断の問題」となるイスラエルの歴史的特殊性や宗教史的特異性を意味していない、「古代近東(オリエント)の敬虔性の世界の内部でのそのほかのものの間での、注目に値する〔ひとつの〕現象」を意味していない(145・146頁)。なぜならば、「聖書の主題であり哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異から言って、人間の歴史は、決して「神的自由な行為」としての啓示(の時間)となることはできないからであり、聖書における神の啓示は「歴史の賓辞」ではなく、「歴史が啓示の賓辞」であるからである。したがって、キリストの誕生・死と復活の宣教における「福音の歴史の正しい考察」・正しい歴史認識の方法は、「啓示は歴史の賓辞ではない」、「歴史が啓示の賓辞である」という点にある(『教会教義学 神の言葉』)。また、この「啓示そのもの」も・啓示の「まことの待望」も隠蔽性をその本質としているから、その啓示に固有な証明能力によらなければ、その啓示を、啓示認識・啓示信仰として人間的にも所有することはできない。バルトは、その啓示に固有な証明能力を、神性を本質とするイエス・キリストの啓示の出来事(啓示の実在そのもの・啓示の客観的現実性)――またその「聖書」の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(不可避的なキリスト教に固有な類・時間累積としての歴史性)――と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰に見出したのである(151頁における、Tペテロ1・10−12についてのバルトの言及)。また、バルトは、人間自身の自己認識・自己理解・自己規定――例えば、ヘーゲルの対他的で対自的な自由な自己意識の無限性の認識・概念や他在であって自在という自由の認識・概念等々――も、神自身の自己認識・自己理解・自己規定、すなわち神の自己啓示であるイエス・キリストにおける啓示の出来事と信仰の出来事に基づく啓示認識に依拠した関係の類比・信仰の類比を通して初めて得られるそれである、と述べたのである。したがって、バルトは、「人間が人間自身の力によって、自然的な能力・その悟性・その感情に応じて」、また人間の経験的普遍や人間学的な哲学的原理・認識論・世界観を通して即自的無媒介的に「認識しうるもの、それは精々、最高の実在・絶対的存在のようなもの・絶対に自由な力の精髄・一切事物を超越する存在の精髄であろう。このような絶対最高の存在・このような究極最深のもの・このような『物自体』は、神とは何の関りもない」、と述べたのである (『カール・バルト著作集10』「教義学要綱」)。この段落の結論として述べるべき重要なことは、先述したように、「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」のであるから、旧約聖書における啓示の時間は、「イエス・キリストの甦えりの力」そのものを通した「イエス・キリストの十字架の死」そのものが、すなわち神性を本質とするイエス・キリストの十字架・死と復活そのものが、「成就された時間」そのものが、「まことの待望の証言」・「待望された啓示」であるという命題を「証明する」、ということである(147頁)。

 

 旧約聖書における啓示は、神性を本質とするイエス・キリストの十字架・死を包括した復活(「成就された時間」、キリストの復活40日間)を待望する啓示(「待望の時間」)であるという事実についての再吟味――
ア)あるがままの新約聖書は、「歴史的に言えば徹頭徹尾ヘレニズム的な精神運動の文書の〔ひとつの〕集大成」である。しかし、新約聖書の著者たちの証言の特異性は、そこにはないのであって、彼らの「特別な証言」の特異性は、彼らのキリストについての「宣教、教え、物語描写」が、「イスラエルの歴史の〔本来的な、まことの〕真理……会堂の中で読まれていた聖書の成就」そのものである、という啓示認識・啓示信仰にある。すなわち、彼らのそれは、新約聖書の中に「証しされているキリストの啓示が、旧約聖書の中で待望されている啓示と同じであるという同一性」の認識・信仰・「証言」を「前提」としているだけでなく、その啓示認識・啓示信仰・「証言」そのものがその「主題と実体」を形成している、という点にある。言い換えれば、キリストの啓示は、すなわち旧約聖書における「待望の歴史」・時間と「一つである単一性」――イエス・キリストの<復活>を中心・核・原理とした、「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」、単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストにおける連続性(「まことの歴史性」)――は、「新約聖書の宣教、教え、物語描写の、到るところに均等にでてくる、自明な前提であるということである」。その例証――「ギリシャ的な」ヨハネ福音書によれば、「弟子たちはイエスの中に、モーセが律法の中に記しており、預言者たちもしるしていた(1・41、45)ところの、イスラエルのメシヤを見出し」ていた。先ず、「イエスご自身ほとんど躓きをあたえるほどはっきりと、『救いはユダヤ人から来る』(4・22)と語って」いる。「また逆」、「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している」が、「聖書は、わたし(≪イエスご自身≫)について証し」しているものとして主張される。そして、「あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである」という言葉で、「モーセのことが、イエスにさからうユダヤ人たちを訴えるものとして述べられている」(5・45−47)。「まさにヨハネにしたがってこそ、イエスは、アブラハムについて」、「(≪あななたちの父祖の≫)彼はわたしのこの日を見ようと楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ」(8・56)。イザヤは「イエスの栄光を見」て、「イエスについて語った」。しかし、「かたくなにされた」心のユダヤ人たちは、それゆえにその啓示に聞けない・聞かないユダヤ人たちは、それゆえにまたイエスが「身を隠された」(啓示の隠蔽)ために、不信仰のまま停滞することになる(12・37−41)。したがって、その彼らは、「実に神の名において、神の呼びかけのもとに」神への「反逆」を行い続けることになるのである。

 

イ)福音記者ヨハネは、「洗礼者ヨハネの姿」において、「一方においてイエスご自身の言葉と業が、他方においてイエスについての新約聖書的・使徒的証言」が、「旧約聖書の証言」の「実行」と「表現」そのものとして、それらを「体系的」に「結び」つけた。また、「二世紀から宗教改革、および宗教改革によって規定された十七世紀の正統主義にいたるまでの」「昔の教会」にとって、「キリストはまた旧約聖書の中でも啓示されているという認識」は、「自明的な命題」であった。その旧約聖書と新約聖書の「本質的な同一性についての認識」、すなわち「旧約聖書のなかでもイエス・キリストが啓示されていることについての認識を、最も大胆率直に代表したものの一人は、イレナエウスである」。また、アウグスティヌスは「新約ノ中デ旧約ハ現ワサレル」と述べた。宗教改革の時代にカルヴァンは、「古代教会にとって自明的であったこと」として、洗礼者ヨハネは「両方のこと、約束と成就を宣べ伝える、そのようにして旧約聖書的預言者であると同時に、また新約聖書的証人である」・「父祖たちは、ワレワレト同一ノ嗣業ニアズカルモノデアリ、同一ノ仲保者ノ恵ミニヨッテ共通ノ救イヲ待チ望ムモノであった」、と述べている。「さらにまたまさに(マルキオンのお気に入りの著者である)ルカにおいてこそ、マリヤの讃歌の中で福音の要約として」、「主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルをお助けくださいました。わたしの父祖アブラハムとその子孫とをとこしえにあわれむと約束なさったとおりに」・「主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる」、ということが語られている(1・54以下および72)。使徒行伝3・20以下のペテロの説教によれば、「イエス・キリストの生涯の日だけでなく、またその再臨とともに始まる、あらかじめ告げ知らされている救いを完成する、したがって啓示からみてまだ来ていない未来の『生気を与える慰めの時』も、神が聖なる予言者たちの口をとおして、昔から預言しておられた万物更新の時である」。これらすべての啓示認識・啓示信仰・証言・啓示の「概念の実在」は、啓示に固有な証明能力に基づいたそれとして、述べられている。永遠なる・「聖なる福音」は、「神みずから、はじめに、楽園において啓示し、次に、聖き先祖たちと預言者によって宣べ伝えさせ、犠牲、律法、その他の儀式によって、象(かたど)らせ、最後には、その愛するみ子によって、成就された」それであるから、旧約と新約の相違は、「実体的ノ相違ではなく、……むしろ〔神ガソノ教理ヲ配置シタモウタ〕『処理法』」の相違である。いずれにせよ、「律法と福音という視点」の下で、旧約聖書と新約聖書の根本的な差異性を真剣に考察しなかった「古プロテスタント主義の領域」においては、上記の命題が踏襲されていた。ルターもそうであった――「われわれは共通の信仰とキリストの故に」、「新約聖書は旧約聖書の啓示以上の何ものでもない」ゆえに、「われわれは、父祖たちがそのことを信じた時に、まだ生きていなかったにもかかわらず、それを信じた。また逆に、父祖たちは、われわれの時代に生きておらず、われわれだけがそのことをするにもかかわらず、しかもキリストの語ることを聞き、キリストを見、信じるであろうと語り、〔そのように〕行動するであろう」。なお、「福音と律法」理解の差異は、その信仰・神学・教会の宣教・キリスト教に、決定的な、根本的究極的な差異性を惹き起こすことについてはすでに論じているのであるが、ここで少しだけ書いておこう。その決定的な、根本的究極的な差異性は、次に述べるような、ロマ3・22やガラテヤ2・16等の「イエスの信仰」における属格、その属格理解の差異として現われる。

 

@「イエスの信仰」の属格を、<目的格的>属格として理解する信仰・神学・教会の宣教・キリスト教の位相――
 これは、神と人間との「共働」あるいは「混淆」を目指す「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」というように<目的格的>属格として理解し、それを自らの信仰・神学の原理およびその認識方法と概念構成とする位相にあるものである。ここで、神の義は、「イエス・キリストを信じることにより、信じる者に与えられる神の義」のことである。それは、信じる者という概念にさまざまな<人間的>契機の直接性を介在させるそれである。「そこには(≪信じる者においては≫)何の差別もない」と言われている。しかし、ほんとうのところは、この立場が成立できたのは、西洋近代を頂点とする進歩史観が成立し得た人類史的段階までであること――現在は、そうしたヘーゲル的・マルクス的な進歩史観は成立でき得ないのである。したがって、吉本隆明もミシェル・フーコーも、マルクスの読み替えを思想的課題として持ったのである――は、状況論的にも思想的にも自明なことである。神学における思想家のバルトだけが、そのことを自覚したのである。いずれにせよ、その神の義は、不信・無神性・自主性と自己主張の欲求・真実の罪を本質とする人間を、また現にあるがままの不信・非知・非キリスト者(教)を、包括し止揚し克服する位相にはないものなのである。したがって、その神の義は、不信とむなしさと不安と不確かさの蔓延した現在を止揚し克服して、現在から未来に超出していく信仰・神学における思想の言葉・還相の言葉を本質的に持つことができないし、それであるからその言葉を持てない位相のものなのである。したがってまた、そこでの信じる者は、状況論も神学における思想の課題も本質的に持てないし・持たないのである。また一方通行的な一面的な皮相的な形而上学的な信の上昇過程の場所しか持てないし・持たないのである、常に自分を信の立場においてのみ思惟し・発言することになるのである。それだけではなく、そこにおいて信じる者は、状況論も信仰・神学における思想の課題も本質的に持てないし・持たないから、そこにおいては、その人間の恣意性によって、根本的な誤謬に「普遍性や組織性の後光をかぶせ」られて、さまざまな馬鹿げた似非使徒や、出鱈目な言説や、ペテン等が生み出されてしまうのである。だから、皮相的にではあるが、橋爪大三郎に正当性のある語り方で「『信仰の立場』を後ろに隠して、どこか押しつけがましく」、「上から目線で教えをたれる」と言われてしまうのである。
 さて、そこでは、意識的にか無意識的にか、「神の言葉の三形態」は後景に退けられ、人間的契機や人間の経験的普遍や人間学的な哲学原理・認識論・世界観が第一次化されていく。「終末」と「歴史」、「救済史と普遍史」、「特殊と普遍」の交叉・混淆・「共働」における神学的な三段階的進歩史観に依拠したモルトマンや、人間学や人間の経験的普遍の尊重論に依拠した聖霊論的説教論のボーレンや、前期ハイデッガーの哲学原理を第一次化したブルトマン等々が、その典型である。そこでの神、啓示、信仰、神学を、フォイエルバッハは、対象化された人間の自己意識の類的本質でしかない、と正当性のある根本的な批判をしたし、また、ハイデッガーは、それらを、「存在者レベルの神」・その神への「信仰」でしかない、と正当性のある根本的な揶揄・批判をしたのである。ほんとうは、自らの信仰・神学の原理およびその認識方法と概念構成それ自体において、彼らの批判を根本的に包括し止揚していくところに、信仰・神学における<近代の超克>という思想の課題があり、現在を止揚する思想の課題があり、現在から未来に生きる思想の課題があるにもかからず、「イエスの信仰」の目的格的属格理解に立脚する自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教・キリスト教は、そのことを全く認識し自覚していないのである。否、その信仰・神学の原理およびその認識方法と概念構成それ自体が自然神学的であるがゆえに、彼らには、本質的に、その神学における思想の課題を自覚的に扱うことができないのである。そうした位相の信仰・神学・教会の宣教・キリスト教であるところの、ローマ・カトリック主義、近代主義的プロテスタント主義、アジア的日本的な自然思想の復古性退行性に依拠した近代主義的プロテスタント主義等を、そして当然にもそうしたものには退行的復古的な土俗的キリスト教もキリスト教的カルト集団も含まれるのであるが、バルトは、それらを、自然神学の系譜に属する神学として総括したのである。

 

A「イエスの信仰」の属格を、<主格的>属格として理解する信仰・神学・教会の宣教・キリスト教の位相――
 これは、徹頭徹尾、神の側の真実としてのみある神性を本質とする「イエス・キリストが信ずる信仰による神の義」として<主格的>属格として理解し、それを自らの信仰・神学の原理およびその認識方法と概念構成とする位相にあるものである。ここで、神の義は、イエス・キリストが信ずる信仰により、すべての者に与えられる神の義のことである。それは、徹頭徹尾、神の側の真実としてのみあるそれである――「私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだということである>(ガラテヤ2・19以下)」・「自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」というそれである(『福音と律法』)。すなわち、その神の義は、すべての人間存在の本質としてある不信・無神性・自主性と自己主張の欲求・真実の罪を包括し止揚し克服したそれであるから、それは、何らの差別もなしに、すべての者に与えられるものである」。この神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示の場所は、私たち人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所なのである。不信・非知・非キリスト者(教)を究極的包括的総体的永遠的に包括し止揚して、信・知・キリスト者(教)と不信・非知・非キリスト者(教)を架橋したところの、そのイエス・キリストの啓示の場所は、信・知・キリスト者(教)を、現にあるがままの不信・非知・非キリスト者(教)に対して、すでに完全に開かれた場所であるから・完全に開くことができる場所なのである。そして、そのイエス・キリストの啓示の場所は、不信とむなしさと不安と不確かさの蔓延した只中において、前述した信仰・神学における思想の課題を扱うことができる場所であり、現在を止揚して、現在から未来に生きることができる場所なのである、前述した神学における思想の課題を、正直に真剣に受けとめて自覚的に扱うことができる場所なのである。バルトは、一切の自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教・キリスト教を、「イエスの信仰」の<主格的>属格理解(彼の啓示認識・啓示信仰・「決断」)に信頼し固執した自らの信仰・神学の原理およびその認識方法と概念構成において根本的に包括し止揚して、そこから超出したのである。したがって、バルトは、その自分の立場を、「超自然な神学」と規定したのである。(148−159頁)

 

 さて、シュライエルマッハーは、ユダヤ教とキリスト教との間には「特別な歴史的関係」があるから旧約聖書は新約聖書の「補助書物」としたが、彼は「旧約聖書がキリスト教会の正典から遠ざけられてしまう」のを望んでいた。ハルナックは、旧約聖書を「健徳的」な書として「有益」性はあるが、その書から「キリスト〔教〕的なことを……読みとることができない」から、「キリスト教会の聖書正典」に属していないとした。このハルナックの見解に対して、旧約聖書学は、その「十八世紀から現代に至るまでの……業績全体にてらしてみて、反駁されているとみなすことはできない」、とバルトは述べている。それらの見解に対して、旧約聖書的学問が根本的な反駁を行うことができるためには、ユダヤ教とキリスト教の間の「歴史的関係」を問題にしても駄目なのであって、またその「共属性」や「同質性」の概念化にあるのでもなくて、「どんなに立派な歴史的研究の成果も結局、真剣な意味で旧約および新約聖書の間での本質的な関連性を理解することの代用となることはできない」(W・アイヒロット)のであるから、「むしろ二つのいわゆる宗教の区別を相対化する、……(≪「成就された時間」・キリストの復活を中心・核・原理とした≫)啓示の単一性」の「認識および再認識」に「主要な課題」がある、とバルトは述べている。言い換えれば、根本的な反駁は、神性を本質とするイエス・キリストを原理としない限り無理なのである。「イエス・キリストは待望されたものとして既に旧約聖書の時代に啓示されてい給うという命題」、すなわち「旧約聖書の啓示と新約聖書の啓示が、待望と成就の関係の中で、一つである単一性を見てとること」について、私たちは、「われわれに対してあらかじめ考えられ、あらかじめ語られている真理のあとに続いて考え、語るように呼び出されている」から、啓示に固有な証明能力に基づく「神の言葉の三形態」、イエス・キリストにおける啓示の実在と、その啓示の「概念の実在」(キリスト教に固有な類・歴史性)に連帯しつつ、次のように説明することができる。(159−162頁)
1)新約聖書の啓示と同じように、旧約聖書の啓示は、「決定的に、自由に、徹頭徹尾一回的な具体的な神の行為」・態度・神の自己啓示についての証言である。したがって、それは、人間の自己意識によって対象化された人間的自然としての客観的な対象性のことではない・「存在者レベルでの神」の啓示のことではない、人間によって「理念的に基礎づけられた神の啓示されてあること」・教義・知識ではない。神の啓示は、「旧約聖書の中では終始」、神自身のその都度における「神的な行為の主権的自由の中で」、それゆえに個人(個)と共同体(共同性)の対立や天然自然や人間的自然は全く後景に退かせられたところでの、「〔ひとつの〕民」――その「民の代表として」の「特定の個々の人間に対して」、「実際に生起」した「神の態度のこと」である。旧約聖書の中では、この神の行為・態度・神の自己啓示――すなわち「神的決断のこの今」は、「決定的に、自由に、徹頭徹尾一回的な具体的な神の行為」として、「神によって始められ、可能にされ、導かれたエジプトからの脱出」の遂行の契約のことであり、「律法授与の中で宣言され……シナイ山での契約の犠牲の中で保証された契約」のことである。この契約が、「民族的な統一体としてのイスラエルを造り出すのである、……この契約……においてのみ旧約聖書の証言はこの民に対して、……関心を寄せているのである」。イスラエルは、「第一に……集められたもの」であり「教団であって」、「それからかかるものとして……民である」。したがって、あくまでも神の側の真実における主権的な自由な行為としての契約は、「民族精神や民族的な自己意識」によって、「民族宗教の教義の言葉に……翻訳されはしない」のである。言い換えれば、そのように翻訳しないことが、「神によって命じられていること」であり、「契約の遵守」となるということである。すなわち、神を人間化すべきではないし、人間を神化すべきではないし、神と人間との混淆や共働を目指すべきではないのである。
 契約は、旧約聖書において、民の契約破棄に対して、神がその「罪を罰するとともにまた」その「罪を赦し給う」・「つねにまた祝福し給う」という「神のいつくしみ」・恵みであり、また民が神の民・神の僕として、律法(民に対する神の要求)・「神の命令を守る」こと・「民が神のみ名を崇める」ということである。この「旧約聖書の中で証しされている契約が、神の啓示」である。なぜならば、それは、イエス・キリストの<復活>(「成就された時間」)を中心・核・原理として考えられている、「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」、単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストにおける連続性(「まことの歴史性」)において、「イエス・キリストの啓示を待ち望む待望(≪「待望の時間」≫)であるからである」。したがって、イエス・キリストは、「前歴史、旧約聖書的契約、の内容であり主題である」。
 旧約聖書の契約の特徴は、「多くの契約……に分けられる」という点にある。シナイ契約以前に、「ノアとの契約」そして「イスラエルの選びを基礎づけている、アブラハムとの契約」がある。すなわち、「既に原始の時代から、イスラエルの選びは現在的な実在」である。さらに、申命記的契約がある、預言者エレミヤやエゼキエルや第二イザヤもとでの「未来の救済の時の契約」がある、「ダビデおよびその家と結ばれた特別な契約」がある、「祭司の家系であるレビと結ばれた契約」がある。しかし、「旧約聖書の契約がイエス・キリストに対して持っている関係は」、本質的には「特定の人間的な『道具』」を必要としない。すなわち、旧約聖書における神の啓示――「同一の方向と秩序をもった唯一の契約」、すなわち「旧約聖書の証言が終始……言おうとしており、根源的な、中心的な、本来的なものとして理解し、証ししようとしている」契約は、「ただ神と人間の間の本来的な契約としてのイエス・キリストの啓示の待望(≪「待望の時間」≫)……だけ」である。
 しかし、旧約聖書の契約は、「主要な意味で本質的」に、自由・主権における神に導かれながら、「神のみ名の啓示の受領者……律法の宣教者……エジプトからカナンの国境へと民を導いた……指導者」モーセ、また「原始の時代に、あらかじめ、まだ生まれていない、そのすべての子孫の世代と結ばれた神との契約の、最初の、唯ひとりの人間的な相手」・「われわれの父」アブラハム、「勝利の担い手」ダビデ、「栄光の担い手」ソロモン、第二イザヤにおいて「〔イスラエルの〕民ともろもろの民に対して勝利と栄光の中でではなく、むしろ、卑賤と苦しみの中で神のみ心を宣べ伝える」「終わりの時の、名をあげられていない『神の僕』」、という「特定の人間的な『道具』」、すなわち「人間的な言葉と行為でもって、創造し支配する神の言葉の徴を立てるという仕方で、神の代理者」・「神――民」関係を「仲介する徴的な要因の現実存在」・「神の人」を持っていた。さらに、その「神の人」の「徴的な機能の間に」、士師たち、「後には王たち」――民の外面的な歴史の指導における、政治的性格としての王というよりも、むしろ「イスラエルの唯一の王であり給う神」の代表として「最も厳格な意味で聖礼典の執行」的性格としての王――、祭司たち、預言者たち、を持っていた。ここで、そうした人は「すべてただ」、神の「神的な行為の道具でしかない」のである。したがって、旧約聖書の契約は、このような「特別な規定の中で」、イエス・キリストを「内容」・「主題」としている――「神は人間の姿を取りつつ啓示されるであろう。人は、……唯一の預言者、祭司、王と係わりを持たなければならないであろう」・そして、その啓示の告白・証し・宣べ伝え・「指し示し」が「行使されるであろう」。すなわち、それは、イエス・キリストの啓示を待望する神の啓示である。
 バルトは、旧約聖書的な啓示が新約聖書的な啓示とひとつである単一性、しかもこのひとつであることの中でまた違っている相違性についての要約として、ヘブル人への手紙1・1を引用している――「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが……」。このことを、根本的に理解するためには、バルトの『教会教義学 神の言葉』「三位一体論」を必要とするのである――聖書でイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「失われない差異性の中」で三つの「存在の仕方」(性質・行為・働き)において「三度別様」に父・子・聖霊なる神であって、その「存在」は「失われない」単一性・神性・永遠性を「本質」とする「一神」・「一人の同一なる神」である。したがって、「三神」・「三の対象」・「三つの神的我」ではなく、父、子、聖霊の三つの「存在の仕方」の、単一性・神性・永遠性を「存在の本質」とする「一人の同一なる神」、すなわち「三位一体」の神である。したがってまた、単一性・神性・永遠性を「存在の本質」とする神の完全さ・自由さは、父・子・聖霊の三つの「存在の仕方」の完全さ・自由さなのである。「われわれに出会う神」である父、子、聖霊の三つの「存在の仕方」は、「啓示者、啓示、啓示されてあること」、「神の聖(≪隠蔽≫)、あわれみ(≪顕現≫)、愛(≪父・隠蔽と子・顕現の愛に基づく交わり≫」、「聖金曜日、復活日、聖霊降誕日」、「創造主なる神、和解主なる神、救済者なる神」の三つの「存在の仕方」に対応している。この神は、「隠蔽」と「顕現」において、またその都度の自由な決断において、「人間に対して自己を伝達」・「告げ知らせ」・啓示する。バルトは、この「三度別様」の「三つ」を、「他との関係なしにそれ自身で存在している」近代的な「個体」と区別させるために、「人格の名で呼ぶことを避け」て、「存在の仕方」と呼んだのである(エーバハルト・ブッシュ『バルト神学入門』)。イエス・キリストにおける「和解ないし啓示」は、「創造の継続」や「創造の完成」ではない。この意味は、「和解ないし啓示」は、神の「存在の仕方」の差異性における「第二の存在の仕方」であるイエス・キリストの「新しい神の業」である、ということである。それは、「神的な愛の力」・「和解の力」である。イエス・キリストは、和解主として、創造主のあとに続いて、神の「第二の存在の仕方」において「第二の神的行為を遂行」したのである。この神の「存在の仕方」の差異性における「創造と和解のこの順序」に、「キリスト論的に、父と子の順序、父(≪啓示者≫)と子・神の言葉(≪啓示≫)の順序」が対応しており、「和解主としてのイエス・キリスト」は、創造主としての父に先行することはできない。しかし、父・子は共に神自身のその「存在」において単一性・神性・永遠性を本質としているから、この従属的な関係は、「存在の本質」における差異性を意味しているのではなく、「存在の仕方」における差異性を意味しているのである(『教会教義学 神の言葉』)。(162−170頁)

 

2)新約聖書の啓示と同じように、旧約聖書の啓示は、「神がご自身を啓示される」ことによって、「ご自分が隠れた神であることを実証し給う」という啓示についての証言である。バルトは、「人の子」語句について次のように述べている――「人々は人の子(あるいはわたし)は誰であると言っているか」(マタイ16・13)と聞かれ、ペテロ(教会の信仰告白)は「あなたは生ける神の子キリストです」と答えた。「メシヤの名」に対する「『人の子』というイエスの自己称号」は、「(覆いをとるのではなくて)覆い隠す働きをする要素として、理解する方がよい」。また「逆に使徒行伝10・36でケリグマが直ちに、すべての者の主なるイエス・キリストという主張で始められている時、それはメシヤの秘義を解き明かしつつ述べている」というように理解した方がいい。受肉・「神が人間となる」・「僕の姿」・「自分を空しくすること、受難、卑下」は、「神性の放棄」や神性の「減少」を意味するのではなく、「神的姿の隠蔽」・「覆い隠し」を意味している、と(『教会教義学 神の言葉』)。バルトのこの理解の仕方は、啓示の真理と信仰の真理に基づいた啓示の弁証法における神の隠蔽性と顕現性(の二重構造)を意味している。
 さて、イスラエルの歴史は、神の隠蔽性の只中で、その「イスラエルの歴史の主題」である「第一および第二の誡命(≪への忠実と服従・排他独占性の原理≫)を携え」たヨシュアと士師たちの時代からサムエルの時代にいたるまでイスラエルに対して立てられた「問い」・二者択一の形式で提出された倫理(善悪の判断)、賛成か反対か、服従か反抗か、神の契約に対する忠実と服従による「神の現臨、指導、助け」かその神に対する反抗としてしか行うことができない「パレスチナ在住の民」との「自然的」・「人道的」な平和的共存か――民の自然感性や生活感性から言えば、ほんとうは、その土地の「自然、歴史、文化の中に溶け込んで住」みたかった・生き生活したかったに違いない――、ということを考慮する時「よく理解することができる」。神への忠実さ、すなわち第一・第二の誡命への忠実・服従と、「他の種類の忠実さは折り合えないのである」。なぜならば、イスラエルの神から授与された第一・第二の誡命への忠実・服従は、「回りの世界の神々を、……最も深いもの、最上のもの、最も生命あるもの、……もろもろの絶対的関係と思われているものを、おしなべて否定しなければならなかった」からである。旧約聖書の「全くただヤーヴェの関心事だけに対して気を配った」預言者たちが、イスラエルの民に欲したことは、「民族であるという資格を犠牲にして」でも、ただひたすら「神の民」であり続けることであった。そして、その彼ら自身は、神の隠れ・隠蔽性の中で、個人的に「最も多く苦しまなければならない」者であった。これらのことは、不信・無神性・自主性と自己主張への欲求・真実の罪を本質とする人間の現実存在から言って、その最初から、イスラエルの民であれ、キリスト者であれ、誰であれ、人間にとっては全く不可能であることを指し示している。したがって、そこには、ただ、イスラエルを含めて、人間に対する、全人間・全世界・全人類に対する、神による神の「裁き」しかあり得ない。しかし、その裁きが目指すところのことは、徹頭徹尾、神の側の真実としてのみあるところでの、主格的属格としての「イエスの信仰」を通した、言わばイエス・キリストの十字架・死と復活の出来事を通した、全人間・全世界・全人類の全く新しい「更新」でなければならない、全人間・全世界・全人類の、イエスキリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)・平和でなければならない。したがって、そのことは、次のような出来事だけを意味しているだろう――「イスラエルの歴史は、成就された時間の中での世界の裁きを宣べ伝えることを意図している。それは成就された時間を待望する時間である。……それは成就された時間を待望する時間であるが故に、それ自身啓示の時である」(174頁)。言い換えれば、「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」。すなわち、「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」は、復活へと向かっている。このキリストの復活・「成就の時間」(啓示の客観的現実性)は、「新しい世」のはじまりである。私たちは、その啓示の出来事と信仰の出来事に基づく啓示認識において、敗北者である「われわれ人間の失われた非本来的な古い時間」は、「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」、成就の時間であるキリストの復活における神の「勝利の行為」によって包括され止揚され・克服されて「そこにある」ことを認識し信仰することができる。また、その勝利の行為は、「敗北者もまた依然としてそこにいるところの勝利の行為」であることを、キリストの再臨を「待望」しつつ認識し信仰することができる(『教会教義学 神の言葉』)。
 神の隠蔽性の中で、「全くただヤーヴェの関心事だけに対して気を配った」預言者たちが、個人的に「最も多く苦しまなければなら」なかったように、ヨブと伝道者によれば、義人も、神の隠れ・神の隠蔽性の前で嘆き苦しむのである。神の隠蔽性の中で、「神を恐れ、神に仕えることは全く無益ではないのか、人間がなすことができるすべては、よしんば最上の、最も賢い、最も従順な生活においても全く空しいのではないか」という義人の問いに対して、「すべての人間的な答えが持つ力と慰めは」、それがただ「人間的な答え」でしかなく、全き神による全き答えではないがゆえに、慰めや励ましとはならずに、嘆き苦しみも解消することなく、「挫折してしまう」のである。しかし、イスラエルの神は、「その最も忠実な」義人に対して、すなわち「神ご自身が彼らに向かって語り給うた」ゆえに、「神ご自身が語り給うた」ことを聞いた義人に対してこそ、隠れた神として、義人の「最悪の敵の業の中にかくれていますのである」。隠蔽性と顕現性においてあるその神の「隠れ」の中で、義人は、嘆き苦しむのである。したがって、その義人にとって、ほんとうは、「神を認識し、恐れることは空しくないのである」。
 さて、「苦しむイエラエル、苦しむ預言者、苦しむ義人は、キリストではない」。すなわち、全人間・全世界・全人類の「古きもの」は、人間的な特定の民や諸個人によって、全く新しく更新されることは決してないのである。全く新しく更新されるためには、「キリストの理念ではなく、実在の、歴史的なキリスト、あのポンテオ・ピラトノモトデ苦シミヲ受ケタ」、神性を本質とするイエス・キリストの唯一無比な一回的な十字架・死と復活を必要とするのである。そして、「十字架にかかり給うキリスト」は、結局「苦しむイエラエル、苦しむ預言者、苦しむ義人」であった限りにおいて、神は、彼らに、「無駄に苦しみを受けさせ給う」たのではなかった、ということを意味している。旧約聖書は、恵みとして証しされた「神の裁きの秘義」において、「この裁きのもとに立つ人間の苦悩だけ」でなく、「この裁きを自ら自分の身に受け取り、負い給うた神ご自身の苦しみを証ししている。それは、イエス・キリストを待ち望む待望を証ししている。それは、……ベツレヘムの馬小屋での、ゴルゴタの十字架上での、神の隠れの前奏であり序曲であるものを証ししている」(180頁)。
 イスラエルの歴史の事実は、「神との契約」・「神との出会いの中で」、いつも神から遠ざかり・遠ざかり続け、罪を新たな罪を犯し続ける、「絶えざる誤解、絶えざる恣意、絶えざる反逆の歴史」にある。その根拠は、「隠れた神の支配」神の隠蔽性における、不可避的な「酷しい現実」における生・生活にある。その中で、その隠蔽性に耐えられずに、「金の子牛を造って拝」むという反逆が行われる。また、「神が契約を結び、保たれる際相手にされるものは、純粋な、正しい、道徳的な人間ではない。それはむしろ違反者であり、繰り返し違反者として自分を示すところの人間である」。旧約聖書の歴史記述に登場する「最大の英雄たち……モーセやダビデ」も、「預言者たち」……も……その例外ではない」。ましてや神との関係において自己自身を「罪人」――「何かあるひとつの『悪』」、「不徳」、「不道徳」、におけるそれではない――として深く洞察した「旧約聖書の第三部に出てくる『義人』」は、「自分たちはそのような通則に服していないなどと最も主張しない者である」。神と契約を結んでいる人間、神との契約の中に神によって移された人間は罪人でなければならな」い。「兄エサウを出し抜くようにして選ばれ者となったヤコブは、……全く問題的な人物でなければならない」。「反抗」を押し進めたヨブや「懐疑」を押し進めた伝道者、「『義人たち』こそ、神の告訴と裁きのもとに立たなければならない」。この反抗・対立の中で、神は人間に対して、「その思いは、天が地よりも高いように、人間の思いよりも遥かに高いところの」隠れ・隠蔽性の中で、神聖性の中で、「現にあるがままのものとして自分を示すようようにと、要求され」、そのことによって「罪人」としての人間を「明るみに出されるのである」。この意味で、「イスラエルの罪は、……神的隠れの人間的側面」としてある。ただ、旧約聖書の中では、「罪そのものが秘義」、「契約を破るという秘義」としてある。この「契約の地盤の上で」、イエスは、「エルサレムに上って行かなければならなかった」・「十字架につけられねばならなかった」。それに対して、人間は、自分のほんとうの姿を、すなわち神との関係における「罪人」としての自分のほんとうの姿を、自己暴露しなければならなかった。祭司長と律法学者たちと民は、「杓子定規に伝統に従いつつ、……実際になしたところのことをなさなければならなかった」。弟子たちは、「イエスを見捨てて逃げなければならなかった」。ペテロは、「主を否定しなければならなかった」。ユダは、「主を裏切らなければならなかった」。この時、「旧約聖書の中での出来事は、……この観点においても、イエス・キリストの啓示の待望、預言である」。そこには、「既に、聖徒の交わり、罪の赦し、肉の甦えり、永遠の生命があった」。すなわち、「父祖たちは……全くキリストを持った。よく理解せよ、ここでもまた、ひとつのキリスト理念ではなく、むしろ肉となった言葉、現実の歴史的なキリストを持ったのである」・「〔そのことは〕ただ聖金曜日から……だけ、しかも聖降誕日と復活日から……明るく照らし出された聖金曜日から……だけ、そのように言われることができる」。新約聖書の証人たちにとっては、旧約聖書は、「和解なし」の「抽象的な」「会堂」的なそれではなく、また「史的な、学問的な」それでもなく、「信仰と啓示の焦眉の、生命にかかわる」それであって、新約聖書のイエス・キリストを、「旧約聖書的待望の成就」として啓示認識し・啓示信仰し・そう理解したのである。したがって、私たち人間は、全人間・全世界・全人類のイエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)・啓示の客観的現実性に基づいて初めて、恣意的にではなく客観的に、自分のほんとうの姿を、すなわち不信・無神性・自主性と自己主張への欲求・真実の罪を本質とする人間の現実存在を、正直に認識し理解し自覚できるのである。この問題も、バルトにおいては、『福音と律法』において詳論されている。この書についてはすでに述べているので、ここでは省略する。(171−187頁)

 

3)新約聖書の啓示と同じように、旧約聖書の啓示は、神の人間に対する「終末論的な」「来りつつある神として現在的であるところの啓示」についての証言である。旧約聖書的証言は、新約聖書から、「神の契約と神の隠れについての証言としても」、イエス・キリストを待望する証言(「預言」)である。「近代以前の教会の神学」は、「一面的」・「部分的」に旧約聖書の中での「顕現的な預言」と取り組んだ。17世紀後半において改革派の教会やルター派の教会で支配的であった「旧約聖書が新約聖書とひとつである単一性を証明しようとする努力は、その歴史的な視点と方法が(既にカルヴァン自身の歴史的な視点と方法がそうであったように)かなり疑わしいものであった」契約神学の問題点は、「≪「神の言葉の三形態」における啓示の「概念の実在」(キリスト教に固有な類・歴史性)に連帯するところで神学的に自立した≫明瞭さを曇らす外在的な歴史哲学的思惟の混入」にあった。この場合、「昔の場合においても近代においても」、「最上の意図を以てしてもただ、旧約聖書の悲しい空疎化でしか」なくなってしまう。したがって、バルトは、「神の契約と神の隠れについての旧約聖書の証言の中での事実(換言すれば、型通りの『預言』を度外視して)待望として認識できるところのものを前面に打ち出したのである」。
 旧約聖書は、終末論的な待望の証言である。なぜならば、旧約聖書の証言においては、@人間と結ばれた神の契約は、その契約の実現に向かって進行する運動(過程)であり、A「神の隠れも、それとともに神の啓示も、旧約聖書の中で証しされている出来事そのものの彼岸においてはじめて、未来的なものとしての出来事となって起こる」からである。聖書に依拠したバルトの終末論の理解は、何度も述べるのであるが、次のようなものである――@救済を「信仰の中で持つ」ことは、「約束として持つ」ことである。「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」。「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法(顕現性と隠蔽性の二重構造)において「終末論的に語る」。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」にとっての<いまだ>であり、神の側の真実である啓示の客観的現実性、「成就と執行」・「実現」、「永遠的実在」として<すでに>ということである。A啓示とは、「子あるいは言葉の業」すなわち「神の現臨とご自分を知らせること」が「人間の闇の中で、人間の闇にも拘わらず、……出来事として起こるという事実」のことである。この啓示は、「和解」という言葉・概念と一致する。それは、「われわれによって破壊された……神と人間の交わりの回復」を意味する。したがって、「啓示の事実の中で神の敵はすでに神の友」として、「啓示そのものが和解」である。しかし、聖霊の業に関わる救贖・完成概念は終末論的用語であるから、和解の概念と一致しない。救贖・完成は、新約聖書においては、啓示あるいは和解から見て、未だ来ていない現実性である。「復活と完成との間」は、「イエス・キリストの父であり、イエス・キリスト自身であり、この父とこの子の霊」としての「聖霊の時代」である。B、「旧約聖書的な待望の時間」と「新約聖書的な想起の時間」との間の「成就された時間」とは、「イエスがご自分〔の生きていること〕をお示しになった」復活の「あの四〇日(使徒行伝一・三)」のことである。「新約聖書の証人たち」は、このキリスト復活の40日をおぼえる想起において、「キリストの死」と「キリストの生涯」を想起する時、「光を得」たのである。彼らは「甦えりの証人」である。そして彼らは、「既に来た方」であるイエス・キリストは「またこれから来たり給う方」であることを語る。「新約聖書の信仰」は、「想起の時間」である「聖霊降臨日のあとの時代」である。したがって、この「想起の時間」・聖霊降臨日以降の時間は、「成就された時間」・キリスト復活の40日ではない。しかし、その「想起の時間」は、「甦えられた方」・復活のイエスをおぼえる「想起の時間」として、必然的に「甦えられた方を待ち望む待望の時間」、終末・救贖・完成を待望する時間であり、そのようにしてそれは、「成就された時間」(キリスト復活の40日)に参与する。ここで、「すべての以前と以後においても」「同一の方であり給う」イエス・キリストにおいて、未来(終末・救贖・完成)を考えること・待望することは過去(復活)を考えること・想起することであり、過去(復活)を考えること・想起することは未来(終末・救贖・完成)を考えること・待望することであると同時に、「成就された時間」の前の過去を考えることでもあるのである(『教会教義学 神の言葉』)。この終末論の理解において、バルトは、「どれほど強く集中的に、旧約聖書の中で神の契約と隠れとが神の未来を目指しているかということをわれわれは既に見た。まさにこの強烈さの中で神の契約と隠れは、確かに、〔当時〕既に現在なのであり、既にアブラハムは、既にモーセは、既に預言者たちは、概念の全き意味で、神の啓示を受けとったのである」・「持った」のである、と述べている。すなわち、彼らは、終末論的に、神の側の真実・神自身による「完成を望み見る」ことによって、神の側の真実・神自身による「完成」・「来りつつある神の完成されたみ業」・「成就された時間」を持ったのである。この終末論は、「イスラエル的な神信仰の不可欠な構成要素」である(191頁)。 したがって、旧約聖書の世界を「正しく理解するために」は、その二重構造の観点を必要とするのである。すなわち、それを正しく理解するためには、一方の外在的な「特定の歴史的――時間的現在の中での神の契約と隠れの、その都度の、特定の様相」の「対象〔像〕」だけでなく、他方でその「対象〔像〕」に対応した内在的な「意味内容のすべて」であるイエス・キリストにおける「成就された時間」・「来りつつある神の完成されたみ業」――人間の「経験と感性」にとっては<いまだ>であるが、神の側の真実である啓示の客観的現実性、「成就と執行」・「実現」、「永遠的実在」としては<すでに>というそれ――を、同在させているという二重構造において理解する必要があるのであるのである。
 このことについての、バルトの例証――@旧約聖書の世界において、シナイ山上において神が契約を結ばれたのは「ヤコブの子らの子孫全体」(「民」、「イスラエル」、「ユダ」)であった。しかし、エレミヤや第二イザヤのような「後期の預言者」は、「歴史の彼岸」にある「目標」としての、「ヤーヴェによって選ばれ、召され、最後に祝福される」、「未来的な」、「全体としての」、「民の中の民」、「まことのイスラエル」について語っている。この「民の中の民」、「まことのイスラエル」、ヤコブの子孫全部と同一ではないし、その一部とも同一ではない。A神によって父祖たちに約束されたカナンの「国」を考えることは、全く新しく更新された「乳と蜜の流れる」約束の国、「イスラエルの歴史とって彼岸的である」神の国を考えることと同じでなければならない。神性を本質とするイエス・キリストの名にのみ信頼し固執したバルトは、その完了された救済と平和の場所において、国家・政治的権力の問題を不可避な過渡的問題として捉えると同時に、究極的永続的課題としては国家・政治的権力の揚棄・無化を構造化させているのである。すなわち、バルトは、終末、救贖・完成においては、国家・政治的権力も揚棄・無化されてしまうという観点を持っているのである。神学における思想家のバルトは、一方通行的一面的皮相的形而上学的に事実的政治を政治の本質と考え・いつも政治的国家の法(的言語)や政策(的言語)に加担していく政治好きな体制的政治屋とは全く違うのである。Bダビデが神のために欲し、ソロモンが実際に建てたエルサレムの「神殿」を考えることは、「イザヤによれば、人の手によって造られず、神ご自身よって建てられ、……ただ単にイスラエルだけでなく、もろもろの民が群れをなして巡礼するであろう……栄光に輝く未来的な神殿」を考えることと同じでなければならない。C「その運命において、ヤーヴェによって支配され、罰せられ、報いられ、それであるから民全体としても、そのひとりひとりの成員においても、ヤーヴェの指示と命令に聴き従わなければならない」「神の支配」を考えることは、未来における、終末、救贖・完成における、全人間・全世界・全人類のイエス・キリストにおいて完了された究極的包括的総体的永遠的な救済・平和という「完全な神の支配」を考えることと同じでなければならない。この時、「神の民は、……現在の状況と状態の不完全さの中で、その未来において実現されるであろう完全なものによって生きる」。D「大きな国民的災害」としての「裁き」を考えることは、未来的な、「神の愛の終焉」、「イスラエルの棄却」、「すべての民に対してもたらされる神の焼き尽くす怒り、世界審判」を考えることと同じでなければならない。
 さて、ここで「最も重要なものは、『王』についての見方である」。当時において、王は、「神の契約の最も傑出した道具」・「擢んでた仕方で、神的隠れの影」として、「エルサレムで支配する独裁君主のこと」であった。ダビデは、王を、「伝承によれば……『人を正しく治めるもの者、神を恐れて治めるものは、朝の光のように、雲のない朝に、輝きでる太陽のように、地に若草を芽生えさせる雨のように人に臨む』(Uサムエル23・1−7)と言われている義人……の予型として理解した」。このことは、事実的世俗的政治的な王について語ることは、未来的な「義なる王」・「メシヤ、イスラエルの王」、「いや、『終わりの日に』世界に君臨する王」、「来るべき平和の君」を語ることと同じでなければならないことを意味している。預言者たちは、この「王」という政治的な言葉を、未来的な「来るべき平和の君に関して語る時に」、いつも用いていた。第二イザヤの「神の僕」は、王というより「預言者」である。詩篇110のダビデの子やゼカリヤ6章の「人物は、祭司であると同時に王である」。ダニエル7章の天の雲にのって現われる「人の子」は、「世のもろもろの力、いや世の力そのもの、を奪いとって終止符を打つ支配者……の特徴を帯びている」。これらのことは、「支配という概念で総括」できる。すなわち、それは、神自身による「〔完全な〕勝利」、「終わりのない平和の支配、罪を払拭すること、世界審判、ただ単に人間の精神に対して力を奮うばかりでなく、また、更新された自然の世界に対しても力を奮う主権」のことである。この概念においては、世俗的な「地上の王の機能」は棄揚され無化されている。
 いずれにせよ、「旧約聖書の現在」を考えることは、「神の将来であるところの将来」を・「待望の時間」を考えることと同じである。したがって、「父祖たちの待つことは」、その待つことに啓示の出来事と信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰・決断が介在する限り、「単なる、抽象的な、限りなく続く待つことではなくて」、神性を本質とするイエス・キリストにおいて「既に成就した時間にあずかる」ことを「待つ」ということであった。(188−201頁)