本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』:イエス・キリスト(その2)

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

神の言葉の受肉――イエス・キリスト(その2 啓示の客観的な実在 26−50頁)

 

 @「神の言葉あるいは神の子は人間となり、ナザレのイエスと呼ばれた」(命題1)・それ故に、A「この人間ナザレのイエスは神の言葉あるいは神の子であり給う」(命題2)――これが、新約聖書の証言に基づいた、「一回的」な、すなわち「神は唯一(≪単一性・神性・永遠性≫)であり、神と人間との間の仲保者もただひとり(≪神性を本質とする神の第二の存在の仕方・神の子・神の言葉、その性質・行為・働き≫)」であるところの「イエス・キリストの名」・「啓示の客観的な実在」の定義である(27頁)。このことは、神自身においてのみ「実在であり真理」である自在であって他在なる神の自由(恵み)の行為である。「啓示の客観的な実在」としての「イエス・キリストの名の場所」においてのみ同在であるところの、この「二つの構成要素」を持った二つの「解析命題」の「位置と意味」は、次の点にある。
1)このキリスト論的告白・教義は、三位一体論的告白・教義の場合と同じように、聖書「テキストの注釈」である――すなわち、マルコ福音書冒頭の「神の子」は、「おそらくもともとはなかった言葉であろう」。しかし、「歴史的な記述」や「組織的な論述」ではない「宣教と証しのため」新約聖書は、その告白・教義を「待っている」・「切望している」(28頁)。
2)新約聖書の証言の要素からすれば、イエス・キリストの神性と人性についての規定(キリスト論的告白・教義)は、「イエス・キリストご自身の名」との関係において「副次的」なものである。すなわち、「イエス・キリストの名の場所」においてのみ同在であるところの、その啓示の弁証法における二つの解析命題としてのキリスト論的告白・教義が重要である。なぜならば、一切の近代主義、およびフォイエルバッハの宗教批判の対象そのものであり、ハイデッガーが揶揄し批判した「存在者レベルでの神への信仰」(安っぽい無神論以下の無神論)そのものである一切の自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教・キリスト教を包括し止揚して、そこから超出するためには、「イエス・キリストの名の場所」においてのみ同在であるところの、その啓示の弁証法的における二つの解析命題としてのキリスト論的告白・教義が重要である、からである。したがって、次のように言わなければならない――@「確かに受肉は中心的に重要なものであるが、しかし受肉が新約聖書の本来的な内容であると……言うべきではない」。神性を本質とする神の第二の存在の仕方(まことの神にしてまことの人間)としての「イエス・キリストの名」・「啓示の客観的な実在」から離反した「受肉が新約聖書の本来的な内容でないのは、人間が神の子供であるということ、あるいは終末論的な救済……も、新約聖書の本来的な内容でないのと同様である」。したがって、バルトは、ナザレのイエスは神の子である、そして神の子はナザレのイエスである、という新約聖書の証言の意味を、人間の感覚や知識を内容とする経験、人間的な存在の類比によって理解することはできないから、「人は、聖書が語っている受肉をただ聖書から」のみ、すなわち「イエス・キリストの名から」のみ、この「単純な、一回的な実在から」のみ、啓示の客観的な実在からのみ、この啓示自身に固有な証明能力においてのみ、聖霊の注ぎによる信仰の出来事においてのみ、理解することができる、と述べるのである。この啓示の出来事と信仰の出来事を通してのみ初めて、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰は授与されるのであり、そのことを通してキリスト教に固有な啓示の「概念の実在」(類・歴史性)も構成されるのである。すなわち、神と人間との無限の質的差異を揚棄してしまう、グノーシス主義的思想あるいは人間学的な哲学的原理・認識論・世界観を第一次化することによってでは決してないのである(35・36頁)――「(中略)イエスは天使の立場をおとりにならず、むしろアブラハムのすえの立場をおとりになった。イエスはあらゆる点において兄弟たちと同じようにならなければならなかった。それは彼らに対してあわれみ深くあり、同時に神のみまえで彼らの正しい大祭司であるためである(ヘブル2・14以下)」・「この線全体の上で、キリスト論的陳述」は、神性を本質とする「神の子は人間となられ、人間であり給う、それこそ啓示の実在である、そのことの中で神は、(≪その自在性においてあるというだけでなく、人間へと向かう他在性においても≫)われわれの神であるという神の自由を確証し給う」。この「神の啓示を信じ、神の啓示を認識するということは」、「この人間」(ナザレのイエス)を「そのまま神の現臨および行為(≪神性を本質とする神の存在の仕方≫)として信じ、認識するということを意味」する。ヨハネ福音書のキリスト論は、「肉をとった姿の中で見られ、聞かれたロゴスそのものの記述」、「イエス――福音書」・「キリスト――福音書」である。「聖金曜日」と「復活日」、イエスの「死と復活」が宣べ伝えの主題であり、したがって神性を本質とするイエスは「言葉、光、生命、道、真理」であり、このイエス自身においてのみ、「救い、ゆるし、生命、支配、永遠の言葉、神の子を発見」・認識できるのであるから、イエスは、「それらすべてをもち給い、それらすべてであり給うという宣べ伝えから成り立っているイエス―――使信である」。この「ケリグマ」が、「仮現論的キリスト論」に、また「エビオン主義的キリスト論に特有……な、歴史主義、虚妄な現実主義、被造物崇拝」に抗することができる神学における思想的武器である。A人類史のアジア的段階の農耕村落共同体の当初においては、農耕以外の職業に携わる非農耕民は神人と呼ばれていた・天皇もそれであった・その尊ばれると同時に蔑まれる存在の神人は、具体的には芸能者・宗教者・鍛冶屋・ハンセン病者・笊や籠を生産する竹細工師・海部民のことであった(吉本隆明『<アジア的>ということ』)。このようなことも、バルトは識知していたに違いない。したがって、先に述べた一切の近代主義・一切の自然神学的な信仰・神学・教会の宣教・キリスト教に根本的に抗するバルトは、「神人性それ自体もまた新約聖書の内容ではない」、と述べるのである。すなわち、「新約聖書の内容はただイエス・キリストの名だけであり、そのイエス・キリストの名だけが確かにまた、とりわけ特に、イエス・キリストの神人性の真理を自分自身の中に含んでいる」・「徹頭徹尾ただこの名だけが啓示の客観的な実在を言い表している」、と述べるのである(37ー39頁)。
3)新約聖書の証人たちが「イエス・キリストの名」・「啓示の客観的な実在」の中で「見出したもの」、またそのことから「身に及んだところの照明」は、
@神の子あるいは神の言葉――キリストは、このひとりの人間――ナザレのイエスと「同一」である、という認識、したがって、
Aこのひとりの人間――ナザレのイエスは、神の子あるいは神の言葉――キリストと「同一」である、という認識、この「イエス・キリストの名の場所」においてのみ同在であるところの、啓示の弁証法における二つの解析命題としてのキリスト論的認識・告白・教義として構成されるのである。
 バルトは、@神の子あるいは神の言葉――キリストは、このひとりの人間――ナザレのイエスと「同一」である、という認識について、次のような注意喚起を行っている。すなわち、神、神の子、神の言葉、ひとりのキリストについて、「ある一つの明確な概念をもって」、次に「その概念がイエスの中で裏づけられ、成就したのを見出した、というふうに想定してはならない」、と。なぜならば、その場合、それは、人間の側の恣意的な「発端およびその結論において、仮現的なキリスト論であって、……キリストの神性を認めるいかなる真剣な承認もあり得ない」からである、と。すなわち、その仮現的キリスト論は、人間の側から恣意的に「イエスに神性の衣を着せたように」、また恣意的に「イエスから神性の衣をはぎ取ってしまうことができる」からである、と。言い換えれば、このことは、グノーシス主義的思想あるいは人間学的な哲学的原理・認識論・世界観を第一次化して、したがってその場合、不可避的に「啓示の客観的な実在」・「イエス・キリストの名」を第二次化するのであるが、そうしたキリスト論における、恣意的な「人性」の軽視や否定あるいは恣意的な「神性」の重視や肯定は、「真剣な」「キリストの神性の……承認」とはならない、ということを意味している。すなわち、その場合、その「仮現論的キリスト論は……ナザレのイエスの歴史的(historisch)現実存在を、事情によっては放棄し、……自分のキリスト(≪第一次的なイエス・キリストの名・客観的な啓示の客観的な実在を揚棄してしまっところでの、人間によって恣意的に対象化されたキリスト≫)を保持する」。この時、そのイエスは、その最初から人間によって恣意的に対象化された概念的イエスであり、ある理念の象徴である。この場合、そのイエスは、単一性・神性・永遠性を「存在の本質」とする、神の第二の「存在の仕方」ではなくなってしまうのである。したがって、仮現論的キリスト論に抗する場合、「イエスの人格および業のメシヤ性」、すなわち「イエス――使信」(「聖金曜日」と「復活日」、イエスの「死と復活」)における、そのイエスの神性性が強調されなければならないのである(29−39)。
 一方で、バルトは、Aこのひとりの人間――ナザレのイエスは、神の子あるいは神の言葉――キリストと「同一」である、という認識について、次のような注意喚起を行っている。すなわち、この命題は、イエスの神性を否定し「〔ひとりの〕人間を理想化……神化する」ことを問題にしているのではない、と。この命題は、現在においても綿々と尽きない仮現論的キリスト論と対でありその補充であるエビオン主義的キリスト論に根本的に抗することができる神学における思想的武器であるということが重要である。両者に共通している点は、そのキリスト論の認識方法と概念構成において、本質的に、「キリストの神性を真剣な意味で承認することが不可能」な点にある。なぜならば、仮現的キリスト論における神性性が「人間的な概念……から出発しているように」、エビオン主義的キリスト論における人性性は「人間的な経験から、ナザレのイエスの英雄的な人格についての体験および印象から、出発する」。そして、あくまでも「この印象および体験に基づいて、この人間に対して神性が帰せられる」からである。もっと単純に根本的に言えば、両者とも、人間中心主義的キリスト論、自然神学的なキリスト論だからである。まさしく近代以降においては、人間の対象化された自己意識そのものとしての存在者であり・理念であり・意味的世界であり・独り言の私語であり・戯言だからである。人間学的領域の芸術の意識にける自己還帰する自己意識が対象化し外化した至上なもの・無限なもの・作品(存在者)には、神であると共に人間であるという両義性は存在しないけれども、近代主義的・自然神学的な神学者や牧師や著述家の自己意識によって対象化され外化された神(存在者)には、その自己意識によって対象され外化された神(存在者)が第一義性として自己意識の中に還帰するから、神は無限者であると共に人間であるという両義性を持つことになる。したがって、その場合、その神(存在者)は、近代主義的・自然神学的な神学者や牧師や著述家の自己意識によって対象化され外化されたそれ、すなわち恣意的な神・独り言の私語・戯言でしかないから、彼ら自身がそのことに自覚的でない場合、私たちは、彼らのそうした水準の言葉を聞かなければならないことになるのである。ここに、近代主義的・自然神学的な信仰・神学・教会の宣教・キリスト教の本質がある。この近代主義的自然神学的キリスト教という領域に限定して言えば、『不思議なキリスト教』の叙述にも正当性はあるのである。それは、ちょうど、フォイエルバッハの宗教批判やハイデッガーの揶揄に正当性があるのと同じである。したがって、『不思議なキリスト教』に目くじらを立てても仕方がないので、またフォイエルバッハやハイデッガー等の批判や揶揄に対して、近代主義的・自然神学的な神学においてはその批判や揶揄を根本的に包括し止揚することはできないので、バルトのように近代主義的・自然神学的な神学を包括し止揚してそこから超出した「超自然な神学」の原理・認識方法と概念構成それ自体において、根本的に包括し止揚していくということが重要なのである。近代以降の仮現的キリスト論は、「カント、フィヒテ、ヘーゲルの影響」の下にある。エビオン主義的キリスト論の典型は、「A・リッチュル」・「A・v・ハルナック」に見い出すことができる(40頁)。したがって、私たちは、「人間が人間自身の力によって、自然的な能力・その悟性・その感情に応じて、認識しうるもの、それは精々、最高の実在・絶対的存在のようなもの・絶対に自由な力の精髄・一切事物を超越する存在の精髄であろう。このような絶対最高の存在・このような究極最深のもの・このような『物自体』は、神とは何の関りもない」、ということを信仰・神学・教会の宣教・キリスト教的思惟・認識の前提として持つことが重要である(『カール・バルト著作集10』「教義学要綱」)。神学における思想家・バルトだけが、これらの事柄に対して自覚的であった。
 このバルトは、次のように述べている――釈義神学による聖書的教えの認識・概念も、キリスト教的な神についての「語りの規準」であるイエス・キリストの名そのもの・啓示の客観的な実在そのものと同一ではない。したがって、私たちは、「使徒や預言者たちが語ったことを問う」のではない。なぜならば、「使徒や預言者たちが語ったこと」はイエス・キリストの名そのもの・啓示の客観的な実在そのものではないから、もしも彼らの語りをそれとして問うことをしたならば、それは、人間によって言語を介して対象化された彼らの語り・「存在者レベルでの神」を問うことになってしまうからである。このような理由で、私たちは、「『使徒と預言者たちに基づいて』何をわれわれ自身が語るべきかを問」わなければならない。その時だけ、「キリスト教的語りは今日何を語ることがゆるされ、語るべきかを問うよう自分が要請され」・命じられていることを知ることができる。教義学そのもの、また「神についての教会の語り」は、「信仰のない」人間の、「信仰にさからう理性を用いての語り」であるが、それらが、「神についての語りをはかる規準を、イエス・キリストの名・啓示の客観的な実在の中で、すなわち啓示自身に固有な証明能力に信頼し固執する中で、すなわちまたイエス・キリストの啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事の中で、受けとる限り、教義学そのもの、また神についての教会の語りは、キリスト教に固有な「真理の認識として可能」となる。その場合、それらは、「人間的な問いの中で、人間的な問いと共に、人間的な問いのもとで、……神的な答えについて語る」ことができる。しかし、それが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神」自身の決定事項なのであって、私たち人間の決定事項ではないのである。したがって、それらの在り方は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基」づいて成立しているのである(『教会教義学 神の言葉』)。このように語るバルトの根拠・立脚点は、主格的属格としての「イエスの信仰」(『福音と律法』)理解にある。それは、神学における思想家バルトに、軽率な明るさとは異なる、啓示の弁証法における神学的なユーモアを惹き起こしている。このことは、バルトの次のような語り方に見い出すことができる――@マルコ福音書の「信じます。不信仰な私を、お助け下さい」・「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい」。イエス・キリストにおける神から遠ざかり遠ざかり続けている、また罪を新たな罪を犯し続けている私が、無神性・不信仰・真実の罪の只中にある私が、そしてどう祈ったらいいのか全く分からなくなるところでの「私たちが神に向かって語る。『ああ……!』というこの小さな嘆息」、それは、「すべての祈りの源」である。「そこにはただ、神の子の全く素直な赦しがあるだけである。あなたが祈れない時、この赦しを用いるのが、あなたのなすべきことである」。このバルトの語りは、一方通行的に信に上昇していく往相的な言葉(祈り)ではなく、まさしく不信をそのあるがままに包括し止揚した・克服した、信における還相的な言葉(祈り)である(『カール・バルト著作集3』「神の恵みの選び」)。このバルトの語りは、私の心に響いてくる。私に自己慰安や自己解放をもたらす。A「律法を悪用する罪に対する神の勝利」とは、イエス・キリスト自身が、私たちを「罪と死との法則」である律法から解放した出来事のことである。なぜならば、人間の「不従順・不信仰に抗して、イエス・キリストにあって義とされている」がゆえに、律法は人間をその不従順・不信仰によって「罪に定めることは出来ない」からである。このように、神の律法が人間を「真に罪に定めない」のであるから、律法は「もはや絶対に『罪と死との法則』」ではない。したがって、ルターに強烈に存在したところの、人間が「律法に対して全体的に不従順であるという事実」における人間に生ずる「生の不安」は、「克服された……慰められた……癒された不安、望みと喜びの確かな岸によって取りかこまれた不安にすぎない」。このことは終末論的限界と啓示の弁証法において語られており、それは、「生の不安」がなくなるということではなくて、イエス・キリストにおいて包括し止揚された・「克服された」・「慰められた」・「癒された」・「望みと喜び」の確かさに取り囲まれた「不安」ということである(『福音と律法』)。このことは、神学的な認識においてだけでなく、私自身の信仰体験としても実感できる。ルターやキルケゴールは、ルター主義者や実存主義者とは違って、信仰的神学的キリスト教的<実存者>であった。したがって、彼らのその著作は、彼ら自身の対象化された実存そのものであった。したがってまた、彼ら自身のその著作は、私たちにとって、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わる」ところのものではなく、様々な事柄を考える契機を与えてくれるものであった。B自然神学の系譜に属しているとは言え、アウグスティヌスが、三位一体についての自分の思惟と語りがいつも「危険にさらされている」思惟と語りであることについて十分に自覚していた点に、バルトは、アウグスティヌスの良質さを見出すのである。なぜならば、アウグスティヌスのその良質さが、彼を、三位一体論の論議において、党派的(宗派・教派・学派等々的)な思想や共同性の陥穽に陥ることを防いでいる、からである。
 重要なことは、仮現論的キリスト論やエビオン主義的キリスト論における、神性や人性は、神と人間との無限の質的差異を揚棄したところでの、人間によって恣意的に対象化された人間の自己意識における理念・意味的世界・独り言の私語・戯言でしかないものであり、「存在者レベルでの神」でしかないものであり、偶像でしかない位相のものである、という点にある。滝沢克己の場合、人類史のアジア的段階における日本の自然原理、すなわち農耕村落共同体における神人論を原理としたそれであるのか、天台本覚論の草木国土悉皆仏性論を原理としたそれであるのかは別として、滝沢にとってもイエスの「存在の仕方」は、あくまでも滝沢の第一次的な「根本的事実」の概念に規定された限りにおい神人である。しかし、すべての近代主義者のように滝沢は、イエス ・キリストの「存在の本質」である神性性を揚棄してしまった(『滝沢克己著作集第一巻 カール・バルト研究』創言社)。また、八木誠一は、「イエスは別段自分を超人間的存在として自覚していたわけではなく、『人の子』語句でもって人間存在の根底を語り続けた」「ただの人であり、ただの人として自らを自覚し、ただの人の真実のあり方を告げた」と述べ、イエスに本来的な人間存在の在り方・範型を見る。したがって、八木は、滝沢と同じようにイエス・キリストの「存在の本質」である神性性を揚棄すると同時に、さらにイエス・キリストの「存在の仕方」・神の子・神の言葉性も揚棄してしまって、滝沢のインマヌエル論に同調している(一九八二年の南山大学主催滝沢講演後討論会)。イエスは、まさしく、八木自身の自己意識によって恣意的に「管理されるプログラム」に従って、「ただの人」にされてしまった。そうであるならば、ハイデッガーに、揶揄的に「それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』」、と言われても仕方がないだろう(木田元『ハイデッガーの思想』岩波書店)。また、そうであるならば、私たちは、近代主義的・自然神学的な、信仰としても神学としても人間学としても非自立的で中途半端な滝沢や八木等々の言葉や言説に聞くよりも、むしろ純粋な人間学的領域に属する吉本やフーコーやヘーゲルやフォイエルバッハやマルクス等々や、太宰や漱石や賢治やドストエフスキー等々の言葉や言説に耳を傾けた方がいいに決まっているのである。なぜならば、ほうとうにその方が、実際的に、確実に、人間や世界の本質を指し示してくれるし、人間的な慰安も励ましも喜びも心の響き合いも心の豊かさも享受させてくれるからである。
 さて、仮現的キリスト論においては「キリストのまことの人間性が欠けてしまってもよいもの」であったように、「歴史的なものを過度に尊重する、英雄崇拝的熱狂主義」的なエビオン主義的キリスト論においては、「神、神の子、神の言葉という概念」は大切ではないものであった。後者においては、「人の心を動かす」・人の心に「強烈な感動」を惹き起こす「人間イエスが大切」なものである(41頁)。したがって、エビオン主義的キリスト論は、「好んで自分の『正直さ』と『誠実さ』」を誇ることをする。イエス・キリストにおける啓示の客観的な実在に固有な証明能力に信頼し固執せず、したがって、その啓示の出来事と、神自身の自由な決断による、その都度の聖霊の注ぎによって人間の側で惹き起こされるその啓示の主観的な実在の出来事(インマヌエルとしての信仰の出来事、啓示認識・啓示信仰の授与の出来事)に信頼し固執せず、またキリスト教に固有なその啓示の「概念の実在」(類・歴史性)に連帯せず、したがってまた、イエス・キリストのその「存在の本質」である神性性と、歴史的現実存在(ナザレのイエス)の形態で人間へと向かう神の全き自由における第二の「存在の仕方」(神の子、神の言葉)を理解せず、そのために、人間の側の「体験と印象」・「価値」基準に従って、すなわち人間的なその考え方の様式・その感じ方の様式・その行動の様式に従って、恣意的に「イエスに神性の衣を着せたように」、また恣意的に「イエスから神性の衣をはぎ取ってしまう」ことができる仮現的キリスト論と同じように、エビオン主義的キリスト論は、「イエスのまことの神性は……欠けてしまってもよいもの」であるだけでなく、その人性も、「神の神性において、また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」――したがって、この場合、「神であり給う言葉が人間となったのであって、決して神性それ自体が人間となったのではない」――という位相のものではないのである(『カール・バルト著作集3』「神の人間性」)。すなわち、そこでは、その神性も人性も、ただ人間の恣意性に従って管理される「詭弁」でしかないものである――新約聖書の証人たちにおいては、「イエスの人間性の中でこそ神性が彼らに出会っている」。したがって、新約聖書の証人たちが、イエスの中に「英雄的な、聖者にふさわしい特徴」や「賢者の特徴」や「偉大な人間の特徴を見い出」していたとしても、「人間イエスはキリストである」と告白する新約聖書の命題は、「エビオン主義的キリスト論との対立の中で考えられ、語られた」ものである、ということが重要である。したがってまた、「イエスの神性こそ、その人間性の中で、彼らに出会っている」――このことは、仮現論的キリスト論との対立の中で考えられ・語られたものである、ということが重要である(42・43頁)。そして、このエビオン主義的キリスト論だけでなく仮現的キリスト論も、その本質が観念であるという意味で、いつでも・現在でも変形して復古が可能なものである、ということに注意することが必要である。
 「イエスは神の子である」・「言葉が肉となった」という命題における「ヨハネ的なイエス福音書」に対して、共観福音書は「キリスト福音書として理解されることを欲している」。神が――キリストの神性が、この人間――ナザレのイエスの中で、「人間性をおとりになったということ、そのことこそヨハネが述べようとしている、大いなる秘義である」。それに対して、この人間が――ナザレのイエスが、神の存在の本質において――キリストの神性において、「われわれの間に現れたということ、そのことこそが共観福音書記者たち」にとっての「大いなる秘義」であった。そして、この記者たちの謎は「イエス・キリストの人間性」であり、読者たちに対するその解答は「イエス・キリストの神性」という事柄にあった。そしてまた、共観福音書における「キリスト論の高所」は、@「人々は人の子(あるいは、わたし)は誰であると言っているか」(マタイ16・13)という問いに対して、「人々は、バプテスマのヨハネ、エリヤ、あるいは預言者のひとり」と答えたことに対して、それとは対立的に、弟子たちのペテロ(教会の客観的な信仰告白)は、「あなたこそ生ける神の子キリストです」と答えた・告白した、ところにある。バルトは、この「人の子」語句について、「メシヤの名」に対する「『人の子』というイエスの自己称号」は、「(覆いをとるのではなくて)覆い隠す働きをする要素として、理解する方がよい」、「逆に使徒行伝10・36でケリグマが直ちに、すべての者の主なるイエス・キリストという主張で始められている時、それはメシヤの秘義を解き明かしつつ述べている」というように理解した方がいい、と述べている。受肉・「神が人間となる」・「僕の姿」・「自分を空しくすること、受難、卑下」は、「神性の放棄」や神性の「減少」を意味するのではなく、「神的姿の隠蔽」・「覆い隠し」を意味している(44頁)。
 「神の子あるいは神の言葉が、人間ナザレのイエスである」――これが、新約聖書的――キリスト論的命題の一つであった。「人間ナザレのイエスが、神の子あるいは神の言葉である」――これが、もう一つの新約聖書的――キリスト論的命題であった。これらの事柄は、「解析命題」としてあるのであって、「綜合命題」としてはあり得ないものである。すなわち、「イエス・キリストの名」の場所においてのみ、両命題は同在することができる。したがって、「われわれが新約聖書の中で聞くことのできる最後の言葉」は、「イエス・キリストの名」だけである。これが、「啓示の客観的な実在」である。したがってまた、人間が人間的に所有する人間の啓示認識(キリスト論)の可能性は、この啓示の出来事と、聖霊の注ぎによる信仰の出来事を必要とするのであるあるが、その場合も、それは、終末論的限界の下において、「ただ試行であることができるだけであろう」、とバルトは、ここでも自己相対化を行っている。言い換えれば、バルトは、近代主義的・自然神学的な党派的神学や共同性のようにその啓示認識を閉じるのではなく、その「超自然な神学」の認識方法と概念構成それ自体において、その啓示認識を完全に開いているのである(50頁)。人間ナザレのイエスは、「神の子であること、甦られたキリストである」ことを「証明する」場合、「ナザレのイエス……の人間存在の中で同時に彼の神性の真の証人であるところの十字架につけられた方、を記述」するという方法のほかはない。したがって、神性を本質とする甦り・復活し給うたイエス・キリストは、「十字架上で死に給う」ことにおいて、「ご自分が人間であることを実証し給うた方」である、また「受肉を完成し給うた方」である。イエス・キリストは、「『神われらとともに』」という名で呼ばれる子、父なる神の右にいます人間、である」。「ケリグマはここでもまたイエス――使信である」・「イエス――使信としてこそ、それはキリスト――使信である」。これは、「すべてのエビオン主義的キリスト論に対する決定的な反駁である」(46・47頁)。