本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』:イエス・キリスト(序論およびその1)

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

神の啓示、神自身の自己認識・自己理解・自己規定としてのイエス・キリストにおける啓示(序論およびその1 1−26頁)

 

 この神の啓示、すなわちイエス・キリストにおける啓示を対象として扱う場合、次の事柄についての認識は重要である。
1)聖書的証言の本来的テーマは、「三位一体の第二」の存在の仕方である「子なる神、キリストの神性」を問う問いの中に、「父を問う問い」と「父ト子ヨリ出ズル」聖霊を問う問いとが包括されている点にある。神は、イエス・キリストにおいて、インマヌエル=「神われらと共にいます」という存在の仕方で、顕現・自己啓示した。このことは、単一性・神性・永遠性を存在の本質とする「自己を覆い隠す」・隠蔽性・「聖性」としての神が、その「存在の仕方」において子として「自分を自分から区別」したことを意味する。したがって、その自己啓示は、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態、イエスの名」・「存在の仕方」において、その「存在の本質」である単一性・神性・永遠性の啓示認識と啓示信仰を要求する啓示である。このように自己啓示する神は、啓示の弁証法において「まさにアラワサレタ神こそが隠サレタ神」である。したがって、バルトは、先ず第一に、その神学の原理・その神学の認識方法および概念構成を、神の側の真実=主格的属格としての「イエスの信仰」=啓示の客観的現実性=イエス・キリストにおける啓示の内容=「インマヌエル」、すなわち神は、罪深き私たち人間と、「はじめの時から終わりの時まで、昨日も今日もいつまでも共にい給う」、というこの「一つの事柄」にのみ信頼し固執するところに置いた――「(≪私たちは神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示、この≫)一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(≪恣意的な閉じられた、党派的思想や党派的共同性、宗派や教派や思想的傾向や時勢や時流や社会的政治的な言説や運動≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」、と言うのである(『教会教義学 神の言葉』)。第二に、聖書は、旧・新約聖書における預言者・使徒の言葉と霊としてのイエス・キリストの出来事の証しであり証言であり、子なる神、イエス・キリストに関わる。この聖書は、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての啓示の実在であるイエス・キリストと共に、教会の宣教における原理である。なぜならば、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である「聖書こそ」が、教会に宣教を義務づけているからである。したがって、「聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならない」、と言うのである(『教会教義学 神の言葉』)。第三に、啓示は、神自身の自己啓示、自己認識・自己理解・自己規定として、「われわれに啓示されたイエス・キリスト」であり、父なる神に関わる。このイエス・キリストにおける啓示は、神の言葉の三形態――第一形態であるイエス・キリストの名=啓示の実在そのもの、第二形態である聖書の証言・証しおよび第三形態である教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(類・歴史性)――における「第一の形態」であり、神の言葉の直接性であり、「啓示の実在そのもの」である。それは、「すでに来たり給うた」、また「再臨し給う」イエス・キリスト自身、「イエス・キリストにおいて起こった和解」、イエス・キリストにおけるインマヌエルとしての神の言葉である。この啓示は、教会の宣教に対して「先ず第一に優位に立つ原理」である。したがって、「啓示の中」での体系は、イエス・キリストの名のみである、と言うのである(『教会教義学 神の言葉』)。第四に、神の自己啓示 =イエス ・キリストの啓示の出来事=啓示の実在=神の自己認識・自己理解・自己規定=啓示の真理、永遠=超歴史=啓示の時間=救済史は、常に、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰・概念・教義、人間の自己認識・自己理解・自己規定、人間の時間・歴史の、彼岸・外にある、また彼岸・外にあり続ける。このことは、啓示自体から与えられた、私たち人間における「終末論的限界」を意味している。またこのことは、まことの神は「隠蔽性・秘義性」を本質としており、その神に対して人間の理性は「全く闇に閉ざされ」た「盲目」性を本質としている、という「神の不把握性」を意味している。この神の不把握性は、神の「存在の本質」である単一性・神性・永遠性についての「信仰命題」であり、一般的真理ではなく、啓示から規定された信仰の真理である。したがって、これらの認識・信仰は、神性を本質とするイエス・キリストの啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて初めて人間が人間的に所有することができる人間の啓示認識・啓示信仰であり、その啓示認識に依拠した信仰の類比・関係の類比・啓示の類比を通して初めて得られる人間の自己認識・自己理解・自己規定である、と言うのである(『教会教義学 神の言葉』)。第五に、「最も単純な形」において「神の啓示の実在を問う」問いに対する「新約聖書の答え」、すなわち聖書の証言・証しとしての啓示の「概念の実在」は、「永遠なる神性」を存在の本質とする「まことの神」であり「まことの人間」である「イエス・キリストの名」(神の言葉・子・存在の仕方)だけである(21頁)。三位一体の根本命題に即して理解すれば、イエス・キリストのその「存在」は神性を「本質」としているから、「啓示の出来事においてはじめて神の子」「神の言葉」となるのではなく、「父を啓示するもの」、そして「われわれを父と和解させるもの」として、「イエス・キリストは神の子」・神の言葉・神の「存在の仕方」なのである。そのキリストの単一性・神性・永遠性は、「啓示および和解におけるキリストの行為の中で認識」することができる。すなわち、その啓示と和解(イエス・キリストにおける神の「存在の仕方」)が「キリストの神性」の根拠ではなくて、「キリストの神性」・キリストの「存在の本質」である単一性・神性・永遠性が「啓示と和解を生じさせる」のである。この「キリストの神性についての教義」・思想こそが、一切の近代主義・一切の自然神学的な信仰や神学や教会の宣教やキリスト教やヘーゲル哲学やシュライエルマッハー神学やブルトマン神学等に抗することができ、それと同時に、それらを包括し止揚してそれらから超出できる教義であり思想である、と言うのである(『教会教義学 神の言葉』)。ここに一切合財があるのであって、「赦す神」はたとえその人がまことの人間であっても人間に内在することは決してないのである。したがって、このイエス・キリストは、教会の客観的な信仰告白・教義における「一切の思惟、洞察、解釈、省察の前提」である、と言うのである(『教会教義学 神の言葉』)。第六に、@「人の子」語句についてであるが、「人々は人の子(あるいはわたし)は誰であると言っているか」(マタイ16・13)と聞かれ、ペテロ(教会の信仰告白)は「あなたは生ける神の子キリストです」と答えた・「メシヤの名」に対するこの「『人の子』というイエスの自己称号」は、「(覆いをとるのではなくて)覆い隠す働きをする要素として、理解する方がよい」・「逆に使徒行伝10・36でケリグマが直ちに、すべての者の主なるイエス・キリストという主張で始められている時、それはメシヤの秘義を解き明かしつつ述べている」というように理解した方がいい・受肉、「神が人間となる」、「僕の姿」、「自分を空しくすること、受難、卑下」は、「神性の放棄」や神性の「減少」を意味するのではなく、「神的姿の隠蔽」・「覆い隠し」を意味している・Aまた、「新約聖書的――キリスト論的命題」については、「まことの人間」として、「神の子あるいは神の言葉が人間、ナザレのイエスである」・「まことの神」として、「人間ナザレのイエスが神の子あるいは神の言葉である」・これは、啓示の弁証法において理解されるべき命題である。このイエス・キリストの名で語るべき「最初にして最後のこと」・「イエス・キリストは誰であるか」という問いに対する答えは、単一性・神性・永遠性をその「存在の本質」とする「まことの神にしてまことの人間である」というその神の「存在の仕方」・神の子・神の言葉(性質・行為・働き)にある・したがって、「神であり給う言葉が人間となったのであって、決して神性それ自体が人間となったのではない」・すなわち、ヨハネ1・14の「言葉は肉となった」という新約聖書の中心的命題、そのヨハネの「言葉」は、三位一体における神の単一性・神性・永遠性をその「存在の本質」とする「神的な創造主、和解主、救済主なる言葉、神の永遠のみ子」であるところの「まことの神にしてまことの人間である」イエス・キリスト(和解主としての神の「存在の仕方」・神の子・神の言葉)のことである、と言うのである(『教会教義学 神の言葉』)。第七に、イエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを承認し確認する・したがって、私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として承認し確認する・すなわち、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを承認し確認する・すなわち、私たち人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」、そしてまた自然神学的な信仰や神学や教会の宣教やキリスト教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」・「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」・「イエス・キリストはたかだか《暗号》にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる、場所は、単一性・神性・永遠性を本質とするまことの神でありまことの人間であるイエス・キリストにおける啓示の場所だけである、と言うのである。 したがってまた、バルトは、第一に、近代主義的プロテスタント主義的信仰・神学・教会の宣教・キリスト教が、「キリストの永遠のまことの神性の告白」を信用しない場合、それは、その認識方法および概念構成それ自体が、人間論的人間学的身体性に依拠した「視覚的錯覚」・感覚と知識を内容とする人間の経験・存在の類比に依拠しているからである、と言うのである。また、その場合、@和解に関して言えば、「赦す神」が人間に内在しなければならないことになり、その認識自体が自然神学的な思弁でしかないものであり、Aイエス・キリストは、「下からの半神」・「超人」・人間の「最深の本質」・「最高の理想」・キリスト教的実存の範型・社会的奉仕活動の範型・事実的な政治的実践の範型等の単なる「空虚な概念」でしかないものとなってしまうから、Bその場合その信仰・神学・教会の宣教・キリスト教は、その最初から、フォイエルバッハの宗教批判の対象そのもの・ハイデッガーの批判・揶揄した「存在者レベルでの神への信仰」・神学・教会の宣教・キリスト教でしかない、と言うのである(『教会教義学 神の言葉』)。したがって、その場合には、私たちは、そのようなキリスト教的な神学者や牧師や著述家の非自立的で中途半端で非本質的で恣意的な私語や戯言に耳を傾けるよりは、純粋な人間学的領域に属する吉本やフーコーやヘーゲルやフォイエルバッハやマルクス等々や、太宰や漱石や賢治やドストエフスキー等々の言葉や言説に耳を傾けた方がいいに決まっているのである。なぜならば、実際的に、確実に、その方が人間や世界の本質を指し示してくれるし、人間的な慰安も励ましも喜びも心の響き合いも心の豊かさも享受できるからである。第二に、教会は、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である「聖書こそ」が、教会に宣教を義務づけており、「聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならない」から、人間が、「人間にあまりに信頼」し、また「神にあまりに信頼」しないことによって成立している宗教的な共同体や共同性ではない・教会は、神と人間との混淆論や「共働」論や「神人協力説」に基づく宗教的な共同体や共同性ではない・したがって、教会の宣教が、時流や時勢や人間学に取り残されるのではないかという不安の中で自主的なプログラムを打ち立てる場合、教会の宣教の「規準としての聖書の性格」・「聖書の自由な力」は喪失される、と言うのである(『教会教義学 神の言葉』)。また、「神的要素」だけでなく、「神的要素」と「人間的要素」の構造としてあるイエス・キリストの教会であれ、その宣教を「より危険なものにしてしまう」のは、@その教会の宣教が、「正しい注釈」を、「最終的に……教会の教職の判決に、……間違うことはありえないものとして振る舞う歴史的―批判的学問の判決に、依存させてしまう」ところにある・A「福音が純粋ニ教エラレ、聖礼典が正シク執行サレルということ」がなされないままに、礼拝改革、社会的政治的実践、キリスト教教育とか、教会と国家および社会との関係とか、国際間の教会的な相互理解というような領域で、「何か真剣なことを企て遂行してゆくことができると考える」ところにある・B宣教の規準を、聖書と同時に、「最上の仕方で基礎づけられ、熟慮に熟慮を重ねられた人間的な判断」あるいは「哲学、道徳、政治」等におくところにある・C「特定の人種、民族、国民、国家の特性、利益と折り合」おうとするところにある・Dある「社会機構、あるいは経済機構の保持」・「廃止」に貢献しようとするところにある、と言うのである(『教会教義学 神の言葉』)。第三に、時系列的判断に依拠して、「バルトが『聖霊』を口にする場合、それは『教会教義学』の第四巻(殊に第三部)以来ますます截然と、排他的にイエス・キリスト自身の霊的臨在またはその力をさし、したがって自然神学へのブルンナー的遡行(またはヘーゲル的哲学化)を許す『父の霊』は考えられていない」(『神学者カール・バルト』の訳者である蘇光正の「訳者あとがき」)と断定的に語る語り方は、神と人間との無限の質的差異の一貫性においてその神学の認識方法および概念構成をなしているバルトにおいてはあり得ないことである・すなわち、バルトの三位一体論における神の「存在の本質」の概念から言えば、蘇の言う「父の霊」への「排他」性は<本質>的に成立しないのであって、蘇の言うバルトの「キリスト自身の霊的臨在」の強調は、『和解論』がイエス・キリストの「存在の仕方」に関わる事柄だからであり、その場合バルト自身は、単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストの「存在の仕方」に重点を置いて論じているだけなのである(『教会教義学 神の言葉』)。第四に、北森嘉蔵は「『神の痛み』は(≪直接的な≫)『神の愛』とは別の事実でなければならぬ。即ち『神の痛み』は『神の愛』に一旦既に背いた者への愛である。『神の愛』は直接的な『神の愛』をば否定的媒介契機として自己の中に止揚しているものであって、『神の愛』より一段高次のものである」・「この『神の痛み』は北森によれば、十字架における神の愛」のことである、と寺園は紹介している(寺園喜基『バルト神学の射程』ヨルダン社)・私たちは、この直接的な神の愛とそれより「一段高次」の否定的媒介契機における神の愛、という北森の語り方に自然神学的なヘーゲル哲学の亜流性を見ることができる・なぜならば、バルトの三位一体論における神の「存在の本質」(単一性・神性・永遠性)・神自身において「実在であり真理」である他在であって自在としての神の自由というその神学の認識方法および概念構成においては、神の「存在の仕方」の差異性はあっても、低次の神の愛と高次の神の愛という段階的概念は、本質的に成立しないからである(『教会教義学 神の言葉』)。言わば、北森には、神学における思想としての良質な三位一体論と単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストにおける「福音と律法」の「真理性」と「現実性」の構造的把握がないのである(『福音と律法』)。
2)私たちは、このバルトの著作を理解するに際しても、一切の近代主義および一切の自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教・キリスト教に抗する神学における思想家カール・バルトを後景に退けるわけにはいかない。なぜならば、バルトはこの著作においても、その信仰的、神学的、教会的な言説や実践においても、またそれらに基づく社会的、政治的な言説や実践においても、バルトの信仰的、神学的、教会的なその存在・その思考・その実践は、それら一切のものとの闘いにあるからである。したがって、私たちは、例えば『福音と律法』のテーマについて、寺園喜基が述べているような「教会闘争という時代背景を抜きにしては考えられない」という一面的・皮相的な通俗性にはない、と言うのである。すなわち、私たちは、『福音と律法』(井上良雄訳)のテーマは、全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和の根拠であり、また信と不信・キリスト者と非キリスト者・知と非知との架橋の根拠であり、したがって党派的思想や党派的共同性を包括し止揚した完全な開放性の根拠であり、すなわち宗派性・教派性・学派性やその党派的共同性等を包括し止揚した完全な開放性の根拠であり、したがってまた、根本的究極的な全キリスト教の宗教改革の原理・認識方法および概念構成の根拠であるところの、ローマ3・22およびガラテヤ2・16等の「イエスの信仰」の属格(所有格)の主格的属格理解(神の側の真実である啓示の客観的現実性)にある、と言うのである。ここに、バルトの神学における思想性があるのである。すなわち、この啓示認識・啓示信仰に立脚しない限り、不信とむなしさと不安が蔓延した現在から未来に生きることはできないのであ。「聖書の主題であり哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異(『ローマ書』)を恣意的に揚棄した神と人間との混淆論や「共働」論や「神人協力説」に依拠する一切の自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教・キリスト教は、状況論も思想も持たず、ただいつも一面的で皮相的で中途半端で非自立的なそれとして、人間学の後追い知識やそれとして、自然時空に死語化し埋没していくほかないのである――私たちは、現在、何かもう……、イラダチが混在したドライで異様な軽率さや明るさを持った考え方・感じ方・行動とが蔓延した社会のただ中に生かされている。したがって、それがこの社会の時代水準である以上、私たちは、子供も含めて老若男女誰であれ、村上春樹の言うように、例えば「カルト宗教に意味を求める人々の大半は、べつに異常な人々ではない。落ちこぼれでもなければ、風変わりな人でもない。彼らは、私やあなたのまわりに暮らしている普通(あるいは見方によっては普通以上)の人々なのだ」・「彼らは……まわりの人たちと心をうまく通じ合わせることができなくて、いくらか悩んでいるかもしれない。自己表現の手段をうまく見つけることができなくて、プライドとコンプレックスとのあいだを激しく行き来しているかもしれない。それは私であるかもしれないし、あなたであるかもしれない。私たちの日常生活と、危険性をはらんだカルト宗教を隔てている一枚の壁は、我々が想像しているいるよりも遥かに薄っぺらなものであるかもしれないのだ」、というほかはないのである。この社会では、ウエット性やユーモアの概念は、そのドライで異様な軽率さや明るさと交換可能である。「アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ」という太宰治の言葉は、現在、時代を超えて私たちの心をとらえている(『右大臣実朝』)。すなわち、この言葉は、一方通行的・往相的に上昇していく「明るいもの」(明る過ぎるもの)、「健康なもの」(健康過ぎるもの)、「建設的なもの」(建設的過ぎるもの)は「すべてまやかし」・「錯覚」「であり、疑いをもったほうがよい」、ということを私たちに教えている。このような社会の中で、人間の意志的行為との間にズレを生じさせる自然の人間化(非有機的身体化)を価値とする自然史的必然としての文明の進歩発展という考え方に対して、その現在を止揚する問題として、自然との関わりの中での「休息や遊び」も「価値論や自然必然性の中にも含めてしまう」必要がある、と吉本が語る時、それは、ユーモアを持つ必要性があるということを語っているのではなく、現在のどうしようもない「息苦しさ」からの人間の自己解放・自己慰安の必要性を語っているのである(『吉本隆明が語る戦後55年 6』)。

 

 さて、吉本は、かつての小泉政権に対する大衆の動向について、またポップ文学やエンターテイメントの世界について、次のように述べている。
1)先ず、前者の問題についてであるが、吉本は、<日―米>主権国家間の相互利益の保持と協調のための交渉・協定に基づく「外交」を、<小泉―ブッシュ>の個人的相互同意レベルで「交際」化「・「社交」化した小泉内閣に対して、すなわちそうした関係で自衛隊を国連多国籍軍としてイラクに派遣させた小泉内閣に対して、不支持の意思表示をしなかった「日本の国民」の対応に「困ったもの」だと苦言を呈したのである。そして、「戦争というものを知らないのは幸福なことだけども、ここまでくると、これはちょっととんでもないことだぞ、というのがぼくの実感」であると述べている(吉本隆明『13歳は二度あるか―「現在を生きる自分」を考える』大和書房)。ここに、「その時代の権力に過不足なく包括されてしまう存在」としての大衆の存在様式の一面があるだろう。それは、不可視な支配や抑圧に対する、軽率で明る過ぎる大衆の無意識に基づく対応である。重たさや暗さをを包括していない軽率な明るさは滅びの姿であるだろう。それに対して、知識人だけでなく、一切の自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教・キリスト教は、即自的・場当たり的に、エリート主義か、時流や時勢への同化・迎合か、大衆迎合か、大衆同化か、大衆啓蒙か、で対応しているに過ぎないのである。
2)「ポップ文学やエンターテイメントの旗手たち」の世界については、次のように述べている――それは、「正統な<知>的制度」を背景として大衆向けに通俗的に作りかえられた世界や「物語や言葉が大衆向けの形で紡ぎだされる世界」を無意識に拒否している世界である。「世界の秩序や制度」が、「無智な大衆を啓蒙」するとか「大衆向けにやさしく通俗化」するとかというモチーフで生みだしたマス・イメージ(共同幻想)の世界を無意識に拒否している世界である。その無意識は「ある未知のシステムを感受しているために産出される無意識」であって、この無意識から必然的に「孤独」や「やさしさ」や「言葉の産出」や「モチーフ」もすべて生じている。また、彼らの「理念の象徴」は、「脱制度化された思考」と、沈潜した「情念や怨根やエロスの抑圧や、社会的な抑圧の渦潮が奔騰している」点にある。したがって、「それらにたいする第一次的な反応を昇華することのなかに、現在のポップ文学やエンターテイメントの世界が存在感を獲得してゆく過程がある」。こうしたポップ文学やエンターテイメントの世界は、「書き言葉の表現の伝統的な様式をぬけることができない純文学」や、「その風俗的低下の世界や場所」や、「その場所からならされた大衆化とも本質的に異なっている」。このこととパラレルに、現在のポップ文学やエンターテイメントの世界は、伝統的な様式を超え得ない純文学の「世界が制度としてあるかぎりは決して解消しない美と権力との結びつきにたいする根源的な苛立ちや反逆」から表現を紡ぎ出している。すなわち、現在のポップ文学やエンターテイメントの世界は、「主体的なアイロニー」として「言葉の背後の闇から滲みでてくる」世界を形成している。例えば「エンターティナーに内蔵されている」次のような表現がその典型としてある――すなわち、「ブスには、ガンバル権利など絶対にない。嫁に行けない恨みを、芝居にぶっつけてくるからね」。この表現は、純文学にある伝統的な様式を超えている。いつも真実に覆いを被せて語る左翼や進歩や反体制の言葉を超えている。「明治以後、知識と高度の産業が……引っ張ってき」た段階では、教養文化と「大衆文化との乖離がはなはだしかった」。しかし、その乖離が高度消費資本主義段階にある経済的社会構成の方から解消されてきている。活字文化と映像文化や音響文化の差異は、「創作の手段」の差異である。ただ映像文化や音響文化は、科学技術の高度化と表現手段の高度化とパラレルな関係にあるから、それらの高度化は映像文化に大きな影響を与えた(吉本隆明『超20世紀論 上』アスキー)。言い換えれば、「ふつうマス・イメージがおおきくふくらんでゆくのは、きめられた<知>の秩序や制度が普及してひろく大衆のレベルにゆきわたることだと理解されている」。しかし、「現在ポップ的な文学やエンターテイメントが、質的に高度になってゆく様子は、まったくちがっている」。その変化は、「下方の裾野からはじまり、それぞれの量的な層が統合されて、強固な同一性の階梯」をつくり上げている点にある。したがって、その階梯を辿ってゆけば、大衆はだれでも「無意識に高度な質にたどりつくことも、意識された上昇もできるひとつの世界通路が成立している」。しかし、ここで考慮すべきことは、そうした現在のポップ文学やエンターテイメントの世界の旗手たちも知識の本当の課題を引き受けるためには、支配の制度がある限り、そのような世界通路の頂から意識的に「非知」へと「もう一度下降してゆかなければならない」 。このように、現在のポップ文学やエンターテイメントの無意識世界を成立させている「ある未知のシステム」とは何か? 「わたしたちが意識的に対応できるものが制度、秩序、体系的なもの」だとすれば、「無意識が対応しているのは、システム価値的なもの」である。「システム化された文化の世界」は、「高度な資本のシステム」によってもたらされたものである。この「高度な資本のシステム」は、「物の系列にマス・イメージ」を付加することを要請する。そして、それは、「虚構の価格上昇力」を形成する。すなわち、内容も容量も同じ化粧品であっても、美しい容器に入れることで実質的価値とは別のイメージ価値が付加される。「実質的にない装飾をつけ加えられることで、自己に差異をつける」。商品は衣食住に必要な商品である前に、「イメージとしての商品」であり、「ブランドとしての商品」である。そして、マス・メディアを通して毎日のようにそうした美しいイメージとしての商品は流通し、大衆の無意識にそうした商品を身に付けたいという欲望を生み出していく。無意識に「そうやってしか存在できなくなったとすれば」、それは、自分の意志によるのではなく外在的な「システムの意志によっている」ということができる。制度が人間の意識を変えたように、「システムの意志」は無意識の層へ刻み込まれることになる。このことから現在、マス・イメージを物の系列である「経済社会的な根拠に還元しようとする思考法は、すでに効力を失いつつある」。「このシステム的な価値は、社会制度や国家秩序の差異によって左右されない世界普遍性をもった様式」となっている。そこでは、「制度・秩序・体系的なものに象徴される物の系列自体」が解体の段階に入っている。また、そこでは、従前の「交換価値は虚構のイメージが加わることのない、実質だけの交換価値である」。しかし、「現在広告、デザイン、サブカルチャーあるいはやや自由な文学の形式上の反抗をふくんだポップ・アートの世界が、既存の内部」にありながら、不可視な「システムからの自由な逃走と、システムのうえにのった未知な力を与える根拠になっている」。システム的な文化は、不可視な「高度なシステムに対応して露出された無意識」である。それは、実質的な価値からシステム的価値への移行によるもので、倫理の問題ではない。ただ、システム的な文化は、「実体から遠く隔てられ、判断の表象」を喪失しているから、その度合に応じて「白けはてた空虚にぶつかる度合」が決定される 。したがって、情報科学や情報技術の高度化は人間の感覚を研ぎ澄まし、高度消費資本主義社会は現実的な衣食住の日常を第一義としない豊かなイメージ価値を消費する社会として、身体的な肺病等に代わって正常と異常との境界を行き来する精神の病を生み落す(吉本隆明『マス・イメージ論』福武書店)。

 

 さて、バルトの『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>』によれば、単一性・神性・永遠性を本質とする「特定の歴史〔出来事〕」であり・「この出来事の先取りや繰り返しはない」という意味で、唯一無比で一回的なイエス・キリストの名は、「神の言葉が人間となった」・したがってその「人間は神の言葉であった」という出来事としての啓示の「客観的な実在」である(21・25頁)――「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである(Tテモテ2・5)」(26頁)。言い換えれば、イエス・キリストの名は、「福音と律法」の「真理性」と「現実性」の総体的構造における啓示の「客観的現実性」(『福音と律法』)のことである。また、教会における「神の三位一体についての教説」は、「聖書の中に証しされている啓示の主体を問う問い」に対する答え、すなわち教会の客観的な信仰告白・教義、啓示を根本的にトータルに正しく把握するための教説である。そして、この啓示は、「神」として・「主」として、神自身においてのみ「実在であり真理」である自由(恵み)において、この「啓示が由来する」「神の内三位一体的父」(啓示者――「子と霊は父とともにひとつの本質である。神的本質のこの単一性の中で子は父から、霊は父と子からであり、他方、父は自分自身以外の何ものからでもない」)であり、「啓示を客観的に(われわれのために)遂行する子」(客観的な啓示、啓示の客観的遂行)であり、「啓示を主観的に(われわれの中で)遂行する聖霊」(啓示されてあること、啓示の主観的遂行)であり、「しかもこれらの異なった、互いに同一視されてはならない存在の仕方と行為の仕方の中でのひとりの神であり給う」(3−5頁)。言い換えれば、、聖書でイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「失われない差異性の中」で三つの「存在の仕方」・「行為の仕方」(性質・行為・働き)において「三度別様」に父・子・聖霊なる神であって、その「存在」は「失われない」単一性・神性・永遠性を「本質」とする「一神」・「一人の同一なる神」である。したがって、「三神」・「三の対象」・「三つの神的我」ではなく、父、子、聖霊の三つの「存在の仕方」・「行為の仕方」の、単一性・神性・永遠性を「存在の本質」とする「一人の同一なる神」、すなわち「三位一体」の神である。したがってまた、単一性・神性・永遠性を「存在の本質」とする神の完全さ・自由さは、父・子・聖霊の三つの「存在の仕方」・「行為の仕方」の完全さ・自由さである。
 キリスト論の「基礎的部分」は、「神の言葉の受肉についての教説」である。すなわち、それは、テキストを問う問い、事実質問を扱う、教会教義学の「プロレゴメナ、基礎づけに属している」。それに対して、「キリストの人格と業についての教説」におけるキリスト論は、神の啓示が人間に及ぶところの「和解についての教説の内部」にある。すなわち、それは、「注釈を問う問い」、「了解質問」を喚起させる。そして、この順序を逆転させることはできない。なぜならば、その順序を逆転させた場合、人間の感覚や知識を内容とする経験や人間学的な哲学原理・認識論・世界観の第一次化によって、テキストが曲解されたり・「切りちぢめ」(『ルドルフ・ブルトマン』)られてしまうからである。すなわち、その場合、人間学等の後追い知識として、非自立的で中途半端な自然神学的な人間学的神学・教会の宣教・キリスト教への道を邁進することになるからである。「神学に対して、その思惟と語りの本質は事実人間が自分の像にしたがって自分の神(≪人間の自由な自己意識の類的本質・意味的世界・自分が管理するプログラム≫)を創造することであると言ったフォイエルバッハの非難を正しいとしなければならない」と述べて、シュライエルマッハーやブルトマン等の自然神学的な信仰・神学・教会の宣教・キリスト教に対して、その神学の原理・その神学の認識方法と概念構成それ自体において、そうした自然神学を包括し止揚し、そこから超出し、「超自然な神学」に立脚したバルトは、「事実質問」から「了解質問」へという在り方において、「聖書の中で規定されている存在秩序」・「何よりも先に啓示の主体としての神を問う」のである。バルトにとって、キリスト論と聖霊論は、「神の恵みについての認識であり讃美である」。言い換えれば、バルトは、三位一体論の唯一の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」、すなわち人間に向かって語られる神の自己啓示としてのイエス・キリストの名(啓示の客観的な実在そのもの)と、また「聖書」の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(類・歴史性)に信頼し固執し立脚するのである(6−16頁)。バルトは、イエス・キリストにおける啓示の出来事と、神自身のその都度の自由な決断による聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて初めて、終末論的限界の下で、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰は可能である、とするのである。すなわち、バルトの認識原理・了解原理は、「啓示に固有な証明能力」に立脚するものであり、それは、「啓示によって示される基礎」(イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事)に基づくものであり、「理性による基礎」(例えば、人間学的な哲学原理や認識論や世界観や歴史主義等)に基づくものではない(19頁)。「イエス・キリストの名は、人々が啓示を理解すべきであり、啓示を理解できる際の、第一のこと、決定的なこと、すべてを包括することである」(21頁)。すなわち、「福音と律法」の理解のすべてである。したがって、このイエス・キリストの名においてのみ、「救いが存在する」・「義と聖とあがない」がある・「知識」と「知恵」がある。「足のきかない人が元気になる(使徒行伝4・10)」。もちろん、その啓示認識も、それが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神」自身の決定事項なのであって、私たち人間の決定事項ではないのである。したがって、教義学の在り方は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基」づいて成立しているのである。したがってまた、私たちは、次のように言わなければならないのである。

 

  人間が人間自身の力によって、自然的な能力・その悟性・その感情に応じて、認識しうるもの、それは精々、最高の実在・絶対的存在のようなもの・絶対に自由な力の精髄・一切事物を超越する存在の精髄であろう。このような絶対最高の存在・このような究極最深のもの・このような「物自体」は、神とは何の関りもない。 (『カール・バルト著作集10』「教義学要綱」)

 

 バルトの啓示認識の可能性の問いを誤解したままバルトを批判したトラウプの啓示認識の方法に対して、逆にバルトは次のように根本的な批判を加えている――トラウプは、啓示の「概念の実在」において「どのように人間は神の言葉を認識することができるのか」というバルトの問いを、自然神学的な常道に従って誤解し曲解し、直接的無媒介的に「どのようにわたしは、神の言葉」を「神の言葉として、また実在として、肯定することにまでくることができるのか」という問いに変じてしまったのである。すなわち、バルトは、あくまでも聖書証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(類・歴史性)において啓示の認識可能性を論じているのにもかかわらず、トラウプは啓示の実在そのものの認識可能性を論じているのである。言い換えれば、トラウプは、人間の自由な自己意識による直接的無媒介的な啓示認識・概念・教義と啓示の実在そのものとの一致の可能性について論じているのであり、啓示の実在を、人間の啓示認識・概念・教義の此岸・内に求めようとしているのである。したがってこの場合、トラウプにおける神や啓示や信仰や神学の位相は、フォイエルバッハの宗教批判の対象そのものであり、ハイデッガーの批判し揶揄した「存在者レベルでの神への信仰」そのものなのである。このことが、神学における思想を持たない自然神学の系譜に属するトラウプやそれに類した神学者や牧師や著述家たちには理解できないのである。このようなトラウプに代表される自然神学的な啓示認識の方法に対してバルトは、カンタベリーのアンセルムス論においても批判を加えている――アンセルムスは「キリストが人間となり給うこと、キリストの贖罪死」の必然性を「理解シヨウ、理性的に論証シヨウとした」が、そのことを人は合理主義だと批判した。しかし、アンセルムスは、「教義学的な合理主義」を明確に否定している。すなわち、アンセルムスは、神学を一般的真理としてではなく、「啓示から得られた認識」・啓示の「概念の実在」としてのイエス・キリストの「実在から」啓示認識の可能性について考えたのである(17・18頁)。このことは、次のように言うことができる――啓示の「真理の客観的考察などというものはない」。その真理は、「われわれが何かを考察するより先にわれわれを考察するところの客観性」であり、「考察する主観を設定する本源的な客観性である」、と(エーバハルト・ブッシュ『バルトの生涯』)。