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4の2(その2).『教会教義学 神の言葉U/2 第2章 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』

4の2(その2).『教会教義学 神の言葉U/2 第2章 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』(322-352頁頁)
再推敲・再整理版です。

 

「十八節 神の子らの生活――二 神への愛」(322-352頁)
 「神を愛するわれわれの愛を現に基礎づけ、それと共にそのような愛の本質を前もって規定しているわれわれを愛し給う神の愛」は、次のように言うことができる――「自由・主権」は、「神ご自身においてのみ、実在であり真理である」ように、「愛」もそうである。したがって、「われわれを愛する神の愛は、聖書によれば……ある特定の存在、態度、行動から成り立っている」(「ホセア一一・一、四、エレミヤ三一・三、申命記七・八、一〇・一四以下、詩一一・七、三三・五、Tヨハネ三・一、ヨハネ一五・一三以下、エペソ五・二、ローマ八・三七」)。キリストにあっての神は、すなわち自己自身である神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の根源としての父は、「子として自分を自分から区別するし自己啓示する神として自分自身が根源」であり、その区別された子は「父が根源」であり、神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊は「父と子が根源」であるように(それ故に、「愛は神にとって、最高の法則であり、最後的な実在である」)、「ご自身の中で愛であり給う」――それ故に、われわれは、そのキリストにあっての「神に愛されることによって、比喩的表現としての神の『心』」、すなわち「父・子・聖霊としての神の『心』の中をうかがい見ることがゆるされるし、現にあるがままの神を認識することができる」。この「比喩的表現としての神の『心』」、「神の内面」は、「われわれを愛する神の愛は満ちあふれる、自由な愛(≪徹頭徹尾、神の側の真実としてある神的愛≫)というように表現することができる」。このことは、イエス・キリストにおける神の自己啓示(下記の【注】を参照)からして、「われわれに向けられた神の『外面』」、「神はわれわれを愛し給うたという事実を通してだけ言うことができる」。言い換えれば、このことは、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、自己自身である神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位相互内在性」における三位一体の神の、われわれのための神としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における三つの存在の仕方、すなわち起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――啓示されてあること・その「交わりの中で、父は子の父、言葉の語り手であり、子は父の子、語り手の言葉である」ところの「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体に基づいてだけ言うことができる。イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、われわれは、第二の問題としての神の本質の問題からではなく、第一の問題である神の存在の問題からこそ、すなわち「神が選び、導き、助け、救出し給うという事実の言葉からこそ」、「神の愛……を学ばなければならない」。その「総括の言葉」は、「人間の罪、失われた状態、死、を引きうけ、これらすべてをご自分の身に負われて、人間に味方して立ち給う」「啓示と和解の出来事」、すなわちその「死と復活の出来事」における「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「ただイエス・キリストの名だけ」である。キリストにあっての「神は、そのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは(≪徹頭徹尾、神の側の真実としてある主格的属格として理解された「イエス・キリストの信仰」、イエス・キリストが信ずる信仰による「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものである≫)御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の生命を得るためである(ヨハネ三・一六)」。イエス・キリストにおいて、神は、その「死と復活の出来事」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事において、「われわれに対して現臨し給うことによって、われわれに負わされている恥と呪いは、彼に負わされるようになる。われわれの恥と呪いの担い手として、神はわれわれの恥と呪いとをわれわれから取り除いてくださる。神がそれら両方のものを自ら担いつつ取り除いてくださることによって、神はわれわれをきよく、汚れのない子供として父の前に立たせてくださる。そのように神は世をご自分と和解させ給う(Uコリント五・一九)」。このことが、「神がわれわれを愛し給う愛について……の事実である」。この事実の言葉(客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」)を、われわれに向かって語り、「わたしはあなたを愛するがゆえに、恐れるな、わたしはあなたと共にいる(イザヤ四三・四以下)」と語るのは、その啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」、すなわち「聖霊の業であり、賜物(≪人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)である」。われわれは、「この事実を聞く時、……万物の造り主がわれわれを愛してくださるということを聞くのである」。

 

【注】
 イエス・キリストにおける神の自己啓示は、自己自身である神としての(ご自身の中での神としての)自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれは、神の不把握性の下にある)「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」(それ故に、「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」ではない)の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動)、すなわち起源的な第一の存在の仕方としてのイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解者、第三の存在の仕方としての神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――「啓示されてあること」・キリスト教に固有な客観的に存在しているイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間、「真に罪なき、従順なお方」「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」(「ただイエス・キリストの名だけ」)において、その内在的本質である「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示である。
 そのような訳で、神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける神の自己啓示は、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による主観的な「認識的な必然性」(客観的な「啓示の出来事」の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)を包括した客観的な「存在的な必然性」(客観的な「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」)を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」(徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者。標準とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)という総体的構造を持っている。そうでないならば、神は、人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化され第一義化・価値化・絶対化された人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質に過ぎないものであるであろう、すなわち「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下でのキリストにあっての神としての神ではないであろう。
 「まさに(≪イエス・キリストにおける神の自己≫)啓示の中でこそ、まさにイエス・キリストの中でこそ、隠れた神は、ご自身を把握できるものとし給うた」。しかし、そのことは、「決して直接的にではなく、間接的にである」、あの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる「信仰に対してである」、「その本質の中においてではなく、しるしの中においてである」、このように「とにかくご自分を把握できるものとし給うた」。その内在的本質が肉となったのでは決してなく、その「外に向かって」の外在的な第二の存在の仕方における「言葉が肉となった」――「これが、すべてのしるしの最初の、起源的な、支配的なしるしである」、換言すれば人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化されたに過ぎない「存在者」では決してなく、徹頭徹尾神の側の真実としてある、イエス・キリストにおける神の自己啓示としての、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方における言葉の受肉としての「存在者」である。したがって、それは、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」ではない、それ故にその対象からして「存在者レベルでの神への信仰」ではない。「このしるしに基づいて、このしるしのしるしとして」、「そのほかにも神の永遠の言葉の被造物的なしるしが存在する」。先ず以て第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)が「しるしのしるし」として客観的・可視的に存在している、また「教会に宣教を義務づけている」聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)が「しるしのしるしのしるし」として客観的・可視的に存在している。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストと地上における可視的なみ国」――「これこそ、神ご自身によって造り出された……神を直観と概念を用いて把握し、したがってまた神について語ることができる」「偉大な可能性」である。

 

 「ルターがエラスムスに対し抗議している際の腹立たしい気持ち」は、次の言葉で表現されている――「汝ハ、キリストニツイテ一言モ言及シテシナイ。アタカモ汝ハ、キリスト信者ノ敬虔ガキリストナシニ(≪キリストにあっての特別啓示、啓示の真理ナシニ≫)可能デアルト考エテイルカノヨウデアル。本性カラシテ最モ慈悲深イ神ガ全力ヲ尽クシテコノ程度ニシカ敬ワレナイトシタラ。エラスムスヨ、ワタシハココデ何ヲイウベキデアロウカ」。私もバルトと共に、このルターの言葉を首肯できる。

 

 「わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである(ローマ八・三八)」、「神はみ旨によって、御子(イエス・キリスト)のうちに(神の)すべての満ちみちた徳を宿らせ、そして、その(≪復活に包括された≫)十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させてくださったのである(コロサイ一・一九以下)」、「啓示の中で万物を保っておられるのは、神のみ子である……和解主として、罪のきよめの業をなし終えてからいと高き所にいます大能者の右に、座につかれた方、……(≪「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方である≫)神のみ子である(ヘブル一・三、四)」。したがって、「創造主なる神の愛について」、「……われらの主イエス・キリストの永遠の父は、そのみ子キリストのゆえに、わたしたちの神またわたしたちの父でいます(ハイデルベルク信仰問答……第一条の説明の中での主要命題)」と述べなければならないのである。「創造された世界における神の愛」と「われわれの世界におけるイエス・キリストの事実の中における神の愛」との間には差異がある。すなわち、後者の神の愛は、「まさしく神に対し罪を犯し、負い目を負うことになった人間の失われた世界に対する神の愛である」。すなわち、「和解ないし啓示」は、「創造の継続や創造の完成ではない」、それは、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方、「イエス・キリストの新しい神の業である。それは、神的な愛の力・和解の力である」。イエス・キリストは、和解主として、創造主のあとに続いて、その神の第二の存在の仕方において、「第二の神的行為(≪その「死と復活の出来事」、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事≫)を遂行した」のである。この「失われない差異性」における神の存在の仕方における「創造と和解のこの順序」に、「キリスト論的に、父と子の順序、父(≪啓示者≫)と起源的な第一の形態の神の言葉としての子(≪啓示≫)の順序が対応しており」、それ故に「和解主としてのイエス・キリストは、創造主としての父に先行することはできない」のである。しかし、父と子は、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質としているから、この従属的な関係は、その内在的本質における差異性を意味しているのではなく、その起源的な第一の存在の仕方(働き・業・行為)と第二の存在の仕方(働き・業・行為)の差異性を意味しているのである。

 

 そのような訳で、「われわれに対する神の愛を記述しようとする時、われわれは……ただ(≪神の愛そのものとしての「自由な憐れみであり、自由な恩恵である」≫)イエス・キリストの名を語り、宣べ伝えることができるだけである」。したがって、そのこと自体が、「神の愛について語ることを意味している」。何故ならば、神は、「ご自身の中で、三位一体の神として愛であり給う」からである。このことは、「アウグスティヌスによって強調された思想である」。このような訳で、「神の愛はまた必然的に」、「われわれの愛し返しを呼び起こす」のである。あの総体的構造に基づいたあの「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関・循環における「われわれの愛し返しを呼び起こす」のである。「われわれがもっているよきもの、それは、(≪あの総体的構造に基づいた≫)神ご自身であるかあるいは神からくるものであるかそのいずれかである」。「神が存在すべきであり、また世を愛すべきであるということ、世に対して何か善いものを与えるべきであるということ、そのことはわれわれのすべての理性、感覚、悟性、術を超えている。(中略)まことに世が値した神の怒りの代りに、神は世を愛し、しかもあのように限りなく、理解を絶した仕方で世を愛されたので、神はそのひとり子を世に、その最も邪悪な敵対者に、与え給うたのである。(中略)あるがままの世……。悪い、恥ずべき人々に満ちた豚小屋。その人々は神のすべての被造物を最も恥ずべき仕方で乱用し、神を冒涜し、神にすべての害悪の責任を負わせている。しかもその恥ずべき人々を神は愛し給う。それこそすべての愛にまさった愛である。神はまことに善意に満ちた神であり給う。(中略)それはあまりに高く、わたしの術を超えている(ルター)」、「わたしは事実、あるがままに、それを詳述することはできないし、仔細を尽くして描き出すことはできない(ルター)」。

 

 「われわれを愛し給う神の愛に対する応答としてのわれわれが愛する愛とは何か?」
 それは、「われわれを愛し給う神の愛から、(≪あの総体的構造に基づいて≫)必然的に呼び起こされるものである」。したがって、それは、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、キリストの霊である聖霊の証しの力、あの総体的構造に基づいた「記述でなければならない……」。「われわれを愛する神の愛についての、聖書的な証言は、(≪客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」の中での主観的側面としての≫)聖霊の注ぎそのものがこの啓示のひとつの要素であるが故に、神を愛する人間の正しい愛を証しする」、「われわれを見捨てない」ということである。したがって、そこに根拠づけなければ、「われわれはキリスト教的愛を定義するに当たって、確実に、誤解の源(≪キリスト教に固有な愛の概念ではなく、一般的な愛についての概念の根拠≫)を開くことになるであろう」、その最初から「誤謬は必然」の道を歩むことになるであろう。バルトは確信をもって語る――「すべての人間はキリストの実質上の兄弟である」、「キリスト者になる以前でも、彼は、(≪その現にあるがままで≫)キリストにおける神との連続性の中にいる。ただ、彼はそのことをまだ発見(≪認識≫)していないだけである」(『バルトとの対話』)、われわれは、「心を頑固にし福音を認めない人間や異教徒に対して、恵みから語り、恵みについて語るという以外のことをなすことはできない」、すなわちわれわれが「そうした人々に呼びかけることができるのは、私がその人をその中に置くことによってではなく、イエス・キリストがすでにその人をその中に置いてい給うことによってである」(『証人としてのキリスト者』)、イエス・キリストがすでにその人を、徹頭徹尾神の側の真実としてある主格的属格として理解されたローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この救済概念は、平和の概念を包括している)そのもの中に置いてい給うことによってである、それ故にわれわれは「キリストにあるものとしての人間のために、努力し得るにすぎない」。この認識を得た時には、あの総体的構造に基づいた「神への愛」と、「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関・循環における愛を呼び起こされるであろう。

 

 「第一(のいましめ)はこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。第二はこれである『自分のようにあなたの隣り人を愛せよ』(マルコ一二・二九―三一)(この神への愛と隣人愛の聖句は、マタイ二二・三七以下、ルカ一〇・二七以下にもある)」。第一の戒めは、「絶対性と排他性における命令」である。したがって、「すべての命令中の命令」である。このような訳であるから、例えば、「神の愛の規定全体をそのまま隣人愛へと転用すること」は、「註釈的にゆるされない」ことである。何故ならば、「神への愛」は、「絶対性と排他性における命令」であるからである。したがって、この「絶対性と排他性における命令」を、隣人愛に転用することは矛盾となる。したがってまた、「神への愛と隣人愛との同一化も註釈的にゆるされない」。何故ならば、その時には、先ず隣人を神への愛と同じ位相で、「心をつくし、精神をつくし、……愛さなければならない」と言うことになるし、次に神を隣人愛と同じ位相で、自分を愛するように愛するということになってしまうからである。「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を捨象・廃棄したそれは、「神は隣人であり、隣人は神であるという、滅びに導く冒涜と混乱である……」。このような「聖書的な啓示証言によって基礎づけられない、聖書的な啓示証言に逆らった特定の、ゆるされざる……人間学的――神学的前提」(「混合神学」的前提)は、「滅びに導く冒涜と混乱である」。

 

 「マルコのみが申命記六・四にある命令の前提となっている呼びかけの言葉を記している」――「イスラエルよ、聞け」。したがって、この「愛の命令は、人類とか、何らかの自然的あるいは歴史的な交わりの中で生きている人々に向けられているのではない」。すなわち、この「愛の命令」は、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(聖書、その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)に基づいて、「ユダヤ人および異邦人の中から選ばれたメシアを信ずる者たちの教会」、「まことのイスラエル、イエス・キリストの教会だけに向けられている」(聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした教会だけに向けられている)。何故ならば、この「愛の命令を聞くことができるためには」、人は、あの総体的構造におけるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下で、絶えず繰り返し、あの他律的服従と自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関・循環を必要とするからである。このように、「キリスト教的愛」は、「その根底において、キリスト教的に愛するようにという要請と招きにおいて」、キリスト教に固有な「ひとつの存在なのである」。「われわれのためにご自身を捧げられた、(≪「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方である≫)「神の救う言葉」、「神のひとり子」、「イエス・キリストの名」に、「イスラエル、信ずる者の民は、属している」。したがって、その現にあるがままの即自的な「イスラエルが、このイスラエルではない」、その現にあるがままの即自的な「民が、この民ではない」、その現にあるがままの即自的な宗教的制度・組織としての「教会が、この教会ではない」。したがってまた、その現にあるがままの即自的な「イスラエル」、「民」、「教会」は、あの総体的構造に基づいて神語り給う故に神語り給うことを「聞くことによって、常に新しく決定される」。したがって、「イスラエル」、「民」、「教会」は、宗教的制度・組織としての実体ではなく、あくまでもあの総体的構造の中の主観的な「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下でのその途上性において絶えず繰り返し、それに対する他律的服従とそのことへの決断と態度という自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請)という連関・循環において、「まことのイスラエル、イエス・キリストの教会」となることによって「まことのイスラエル、イエス・キリストの教会」である。「何人も神の子供であることなしに聞くことはできないが、同時にまた何人も、聞くことなしに、しかも繰り返し聞くことなしに、神の子供であることはできない」。何故ならば、「神に愛された」、「聞くイスラエル」、「聞くイエス・キリストの教会」、聞く民、聞く神の子供たちは、あの総体的構造に基づいて、おのずから必然的に、絶えずくり返し、その「愛の命令の成就に向かって進んでゆく」からである。「イエス・キリストの中で、神は彼らのために味方してい給う。したがって、イエス・キリストの中で、彼らは、命令を聞くことによって、愛するものとしての彼ら自身の未来を、彼らが(≪あの総体的構造に基づいたあの「神への愛」と、「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関・循環において≫)律法(≪純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請≫)を成就する成就を、つかむのである」。

 

 神の「命令の(≪「明瞭な」≫)前提」は、「主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である」という点にある。「愛せよという厳命」が、「ヤハウェの独一無比性……と結びつけられていること」は、「かしこにおいてイスラエルに対しモーセを通して『われわれの神』……、イスラエルの主として、えがかれている方、その同一の主」は、「共観福音書の(≪神性を内在的本質とする、その「外に向かって」の外在的な第二の存在の仕方である≫)イエスの言葉にしたがっても」、「イエスを信じる者たちにとって」、「『ただひとりの主』であり給う」、自己自身である神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」であり給う。イエス・キリストは、「彼らの人間的な現実存在を恥と呪いから、罪と死から解き放つという業(≪神性を内在的本質とする、その「外に向かって」の外在的な第二の存在の仕方における業≫)において、……行動し給う」ところの、「ただひとりの主」(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位一体の神」≫)である。このような訳で、神の「命令」は、「独一無比な命令」であるし、「単なる要請、要求、指令といったようなものではなく、……賜物、提供、約束」である。すなわち、その啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」を包括しているその「死と復活の出来事」としてのイエス・キリストにおける啓示の出来事に基づいたそれは、「罪と死の法則」・律法――すなわち「汝斯く斯くなるべしという要求」から、「生命の御霊の法則」・福音――すなわち「汝斯く斯くならんという約束」へと回復せしめるそれである、「遂行せよと求める要求」から、「信頼せよと求める要求」へと回復せしめるそれである。したがって、神の「命令」は、「人間に対してそこでなされているこの約束であるが故に、同時にまた無比な要請、要求、指令としての誡命」、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式である。何故ならば、この純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法・誡命がなければ、われわれは、現実的に純粋な教えとしてのキリストの福音を所有することができないからである。したがって、あの総体的構造に基づいたあの「神への愛」と、「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関・循環において、純粋な教えとしてのキリストの福音が「告知」・「証し」・「宣教」される時、「私は私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものだ」、「イエス・キリストをのみ信ぜよ」、「イエス・キリストにのみ固着せよ」という純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法が建てられるのである。したがってまた、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法・誡命は、イエス・キリストを模倣することでは全くないし、イエス・キリストが信じたように信ずることでも全くないのである。それは、「福音の中核」であるイエス・キリストが、「律法を満たし・すべての誡めを遵守し給うたという事実から考えられなければならない」から、イエス・キリストに対する素直な感謝の応答、その告白・証し・宣べ伝えにあるのである。「三位相互内在性」における神性を内在的本質とする、その「外に向かって」の外在的な第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト――「この主に、人間は属している」。そして、「この主が、第一に、心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ」という神の「命令の内容について、決定を下されている」。その内容は、「わたしはお前のためにそのことをなした。お前はわたしのために何をなすかということではない」。何故ならば、その時には、「彼は……神の無比の業の必要性と十分性を否定することになる」(「その死と復活の出来事」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事を否定することになる)からである、その時には、「確実に、神と並んでなおほかの実際の主人たち(≪人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された「存在者レベルでの神」、そうした様々な神々≫)が存在する……という思想に対し余地を与えることになる」からである。ここに、「イスラエルにおいて、しばしば繰り返された神に対する反逆の罪(≪信に内在する異端、不信、無神性、真実の罪≫)の正体がある」。「ただひとりの助け主としての神から自分たちを引き離してしまった……中で、偶像をたてておがむことは、(≪外在的な≫)異教の祭壇がたてられる前に、既におこっていたのである」。

 

 それでは、「イエス・キリストの教会における堕落とは何」か? それは、自己自身である神としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、その「啓示に固有な証明能力」を持っている「啓示ないし和解の実在」そのものであり、その言葉自身の出来事の自己運動を持っている起源的な第一の形態の神の言葉そのものであり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執し固着するのではなく、その「傍らに」、別の「ひとつの特別なキリスト教的義とか神聖さとか生命(≪信に内在する異端、不信、無神性、真実の罪≫)……を……おき、……対立させておこうとした」点にある。このような訳で、「ただひとりの主としての神の命令」は、あの総体的構造に基づいたあの「神への愛」と、「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関・循環において、キリストにあっての「神を愛せよとして、聞かれるところでだけ、聞かれ尊ばれる」。

 

 われわれ人間の「神を愛するということ」、「神への愛」は、「神がただひとりの神であるという唯一性」「独一無比な意味で」、われわれ人間のために、われわれ人間に代って、「死に甦られた」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストをのみ、「自分の主として選ぶこと、主たらしめることにある」。しかし、この「神への愛の命令の成就」は、人間の意志力や意志的努力の極限に想定されるそれではない。したがって、神は「ひとりの主である」から、われわれ人間が、「神への愛を、自分自身のものとして」、自分自身で意志的に成就できるものとして、「さし出そうとするとき」、「神への愛は否定され踏みにじられてしまうことになる」。何故ならば、教会論的なキリスト教的人間であれ、「神に敵対し神に服従しない」人間であり、「肉であって」、それ故に「神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」からである、その現にあるがままの現実的な人間存在における「われわれ自身のものは、神を愛するわれわれ自身の愛……も、……常にただわれわれの恥であり、呪いであり得るだけである」からである。その「死と復活の出来事」における「ただイエス・キリストの名だけ」が、このことを、あの総体的構造に基づいて、われわれに対して「徹底的に承認させる」のである、「われわれが愛のない者として、しかも神によって愛されている者であるということを承認させる」のである。したがって、「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関・循環における「神への愛」は、神のその都度の自由な恵みの決断によるあの総体的構造に基づいてなすことができるのである。このような訳で、その「啓示に固有な証明能力」を持っている「啓示ないし和解の実在」そのものであり、その言葉自身の出来事の自己運動を持っている起源的な第一の形態の神の言葉であるまことの神にしてまことの人間「イエス・キリストご自身の中にこそ」、それ故にあの総体的構造に基づいて「イエス・キリストをわれわれが承認することの中にこそ」、「唯一の主としての神の前での、神の中での」、「神がわれわれを愛してくださった愛に答えるところのわれわれが愛する愛のはじまりと継続をもつことができるのである」。

 

 神の「命令は、われわれを『汝は……すべし』(≪という律法、命令・要求・要請≫)の前におく」。しかし、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法――すなわち「『汝は……すべし』(Du sollst!)(≪という律法、命令・要求・要請≫)の中」には、「福音の『汝は……するであろう』(Du wirst!)という(≪約束≫)が含まれている」。何故ならば、その「死と復活の出来事」としてのイエス・キリストにおける「啓示ないし和解の出来事」による「律法を悪用する罪に対する神の勝利」とは、「神ご自身」が、われわれ人間を、「罪と死との法則である律法から解放した出来事のこと」であり、それ故にわれわれ人間の「不従順・不信仰に抗して、イエス・キリストにあって義とされているが故に」、律法はわれわれ人間をその不従順・不信仰によって「罪に定めることは出来ない」からである。このように、神の律法が人間を「真に罪に定めない」のであるから、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法は、「もはや絶対に『罪と死との法則』ではない」。したがって、そこにおいては、律法と福音を二元論的に対立させ、「律法→福音」という一方通行的な順序を主張したルターに強烈に存在したところの、われわれ人間が「律法に対して全体的に不従順であるという事実」におけるわれわれ人間に生ずる「生の不安」は、「克服された……慰められた……癒された不安、望みと喜びの確かな岸によって取りかこまれた不安にすぎない」のである。イエス・キリストにおいては福音と律法は二元論的に対立していないのであるから、その「福音と律法」における「福音の『汝は……するであろう』(Du wirst!)(≪という約束≫)が含まれている」(キリストの福音に包括された)、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての「『汝は……すべし』(Du sollst!)(≪という律法、神の命令・要求・要請≫)」は、「必然」的に、「自明」的に、「自発的に」、「ひとつの服従の行為へと向かわしめる」(「必然」的に、「自明」的に、「自発的に」、あの総体的構造に基づいたあの「神への愛」と、「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関・循環における「ひとつの服従の行為へと向かわしめる」)。ここに、「神学的倫理学……の原理がある」、「あるいは内容的にキリスト教的人間の生活」の原理がある。このように、教会の宣教における一つの補助的機能としての教会教義学が、「神学的倫理学の問題」あるいは「内容的にキリスト教的人間の生活の問題」を、「すでにその基本的な考察の対象として承認し、取り扱い、……自分の中に取り上げている」のであるから、「特別な、神学的倫理学を必要としない」のである。この時、「神への愛」は、あの総体的構造におけるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉である第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在そのもの」)を起源とする「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類と歴史性)における第二の形態の神の言葉である聖書(「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下でのその途上性において、絶えず繰り返し、それに対する他律的服従とそのことへの決断と態度という自律的服従との全体性において、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請)という連関・循環における「命令の成就」、「服従」、「服従の行為であり得るだけである」。「神への愛」と、「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関・循環における愛は、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会教会自身に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のことである」。