カール・バルト(その生涯と神学の総体像)を理解するためのサイト

4の2(その1).『教会教義学 神の言葉U/2 第2章 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』

4の2(その1).『教会教義学 神の言葉U/2 第2章 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』(322-352頁頁)
再推敲・再整理版です。
この教会教義学 神の言葉U2 神の啓示 聖霊の注ぎ』についてさらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります
https://karl-barth-studies5.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。

 

 

「十八節 神の子らの生活――二 神への愛」(322-352頁)
 キリスト復活から復活されたキリストの再臨(終末、「完成」)までの聖霊の時代における「教会や神の子供たち」・「キリスト教的人間」の、その「生活」、その「存在」、その「思惟と語り」、その「行為」は、「神をキリストの中で尋ね求め・見出す人間の途上の生活(≪終末論的限界の下での途上における生活≫)である」、換言すればあの総体的構造(下記の【注1】を参照)における主観的な「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、「神をキリストの中で尋ね求め・見出す人間の途上の生活(≪終末論的限界の下での途上における生活≫)である」。ここに、「神学的倫理学……の原理がある」。このような訳で、「キリスト信者の生活は、愛でもってはじまり……愛でもって終わる」。したがって、「信仰もまた愛に先行するものではない」。何故ならば、「信仰とは、……イエス・キリストを信じる信仰である」から、あの総体的構造に基づいて「人が信じるならば、彼にとっては、キリストにあって神を愛する愛の中での存在として、彼は(≪その存在、その思惟と語り、その行為において、キリストにあっての≫)神を尋ね求めることなしにいることはできないからである」。言い換えれば、「信仰とは」、それは「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位相互内在性」における三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方(働き・業・行為)――すなわち、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事として、徹頭徹尾神の側の真実としてある、主格的属格として理解されたローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものである「イエス・キリストを信じる信仰である」から、あの総体的構造に基づいて「人が信じるならば、彼にとっては、キリストにあって神を愛する愛の中での存在として、彼は」、あの総体的構造における主観的な「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下でのその途上性において、絶えず繰り返し、それに対する他律的服従とそのことの決断と態度という自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請)という連関・循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指して行くことなしにいることはできないからである。そうでなければ、「無に等しい」、「何の益もない」(Tコリント12・31、13、およびTヨハネ4・7-12)。「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、私たちの知識は一部分、予言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう」(Tコリント13・8-10)――このことを、パウロは、「来るべき世においての贖われた人間の存在と行為についても妥当する」と考えている、「神を顔と顔とを合わせて見るであろう永遠の生命の中においても、彼は愛するものであろう」と考えている。

 

【注1】
イエス・キリストにおける神の自己啓示は、自己自身である神としての(ご自身の中での神としての)自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれは、神の不把握性の下にある)「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」(それ故に、「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」ではない)の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動)、すなわち起源的な第一の存在の仕方としてのイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解者、第三の存在の仕方としての神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――「啓示されてあること」・キリスト教に固有な客観的に存在しているイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間、「真に罪なき、従順なお方」「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」(「ただイエス・キリストの名だけ」)において、その内在的本質である「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示である。
 そのような訳で、神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける神の自己啓示は、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による主観的な「認識的な必然性」(客観的な「啓示の出来事」の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)を包括した客観的な「存在的な必然性」(客観的な「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」)を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」(徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者。標準とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)という総体的構造を持っている。そうでないならば、神は、人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化され第一義化・価値化・絶対化された人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質に過ぎないものであるであろう、すなわち「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下でのキリストにあっての神としての神ではないであろう。
 「まさに(≪イエス・キリストにおける神の自己≫)啓示の中でこそ、まさにイエス・キリストの中でこそ、隠れた神は、ご自身を把握できるものとし給うた」。しかし、そのことは、「決して直接的にではなく、間接的にである」、あの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる「信仰に対してである」、「その本質の中においてではなく、しるしの中においてである」、このように「とにかくご自分を把握できるものとし給うた」。その内在的本質が肉となったのでは決してなく、その「外に向かって」の外在的な第二の存在の仕方における「言葉が肉となった」――「これが、すべてのしるしの最初の、起源的な、支配的なしるしである」、換言すれば人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化されたに過ぎない「存在者」では決してなく、徹頭徹尾神の側の真実としてある、イエス・キリストにおける神の自己啓示としての、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方における言葉の受肉としての「存在者」である。したがって、それは、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」ではない、それ故にその対象からして「存在者レベルでの神への信仰」ではない。「このしるしに基づいて、このしるしのしるしとして」、「そのほかにも神の永遠の言葉の被造物的なしるしが存在する」。先ず以て第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)が「しるしのしるし」として客観的・可視的に存在している、また「教会に宣教を義務づけている」聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)が「しるしのしるしのしるし」として客観的・可視的に存在している。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストと地上における可視的なみ国」――「これこそ、神ご自身によって造り出された……神を直観と概念を用いて把握し、したがってまた神について語ることができる」「偉大な可能性」である。

 

 あの総体的構造に基づいた「神への愛」と、「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関・循環における「愛」は、「教会や神の子供たち」・「キリスト教的人間」の、その「存在」、その「思惟と語り」、その「行為」、「キリスト信者の生活の本質である」。「愛はローマ一三・一〇によれば、律法(≪純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法≫)を完成するもの、Tテモテ一・五によれば、命令(≪神の命令・要求・要請、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法≫)の目標である」。「マルコ一二・二九以下で律法と預言者とが……二重命令、あなたは、神とあなたの隣人を愛せよの中でまとめられている」。イエス・キリストにおける神の自己啓示は、その「啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、キリストの霊である聖霊の証しの力、あの総体的構造を持っていることからして、あの総体的構造に基づいた「愛はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える(Tコリント13・7)」、あの総体的構造に基づいた「愛の中で真理は尊ばれる(Uテサロニケ二・一〇、Tコリント一三・六、エペソ四・一五)」、あの総体的構造に基づいた「愛は教会を建てる(Tコリント八・一、エペソ四・一六)」。この「キリスト信者の生活」、その「生活の表現としての愛」、「人間の現実存在の自己規定としての愛」は、「自然の光の中においてではなく、恵みの光の領域の中において」、その「光の秩序と力によって」、あの総体的構造に基づいて「神の言葉を聞き、信じる時」、それ故に「神の子供として新しく生まれる時に、……理解されることができる」。何故ならば、「全く特定の領域で、ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、あの総体的構造に基づいて「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる時、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識ではなく」、「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであるイエス・キリストに感謝をもって信頼し固執し固着する「認識」、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事であり、その時初めて、神の言葉は、われわれ人間に対して「実在」となり、またわれわれ人間も人間的にそれを「実在として理解することができる」からである。その時には、われわれは、「神の支配のもとに入ることを承認し確認する」のである、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会として承認し確認する」のである、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪裁き≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけであることを承認し確認する」のである。

 

 あの総体的構造に基づいた「神への愛」と、「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関・循環において「キリスト信者の愛するということをなすということ」は、先ず以て、「キリスト信者の生活がいまや愛でもってはじまることができるために」、「人間に向かっての神の愛が、……先行していなければならない」、キリストにあっての神に「彼が愛されるということ、彼が愛されたものであるということにのみ基づいていなければならない」――「イエス・キリストにおける神の愛は、神自身の人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」(『ローマ書』)。したがって、「キリストもルカ一四・三四−三五で……言い給うている」ように、「全身全霊をもって」「神への愛を全うすることができない」、「自分自身と全世界に対して敵となることまでしてそうすることができない」、その現にあるがままのわれわれ人間の現実的な人間存在における「神への愛」の「困窮状態」・「絶望」――すなわち、瞬間瞬間キリストにあっての神から遠ざかり・遠ざかり続けている、キリストにあっての神に背き・背き続けている、罪を新たな罪を犯し続けている「困窮状態」・「絶望」は、「神の言葉が肉(≪その内在的本質である神性の受肉ではなく、その「外に向かって」の外在的な第二の存在の仕方における言葉の受肉≫)となり、われわれの肉であるわれわれの目と耳をあけ、そのようにして信仰へと目覚ましめる聖霊を通して」(あの総体的構造における客観的なその「死と復活の出来事」としてあるイエス・キリストにおける「啓示の出来事」とその出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」を通して)、「裁き(≪慰めに包括された裁き≫)となる時に」、キリストの復活によって克服されたところの「慰められた困窮状態」・「慰められた絶望」として、「キリスト信者の生活にまでくる」のである。この時に、「神の子供たちの誕生と生活が生起する」。「ただそのようにしてだけ、実在の人間が現実に愛するようになるのである」。すなわち、「ただそのようにしてだけ」、あの総体的構造に基づいた「神への愛と、「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請)という連関と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指す生と生活が生起するのである。

 

 「聖書の中でキリスト教的愛について語られている差異の文脈によく注意すれば」、次のように言うことができる――「神がまず、わたしたちが罪人であった時に、キリストの死の中で私たちに対する愛を示された(ローマ五・五)ことに基づいて」、すなわち「わたしたちが神を愛したというのではなく、神がわたしたちを愛されたこと……に注意しなければならない」、「そして、ご自分をわたしたちの罪の和解のためにつかわされたこと(≪その「死と復活の出来事」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事≫)の中に愛がある。わたしの愛の中にとどまっていなさいと主は命じ給う。なぜならば、父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのであるから(ヨハネ一五・九)」、それ故に「神への愛」は、「われわれに与えられる聖霊を通して」、客観的なその「死と復活の出来事」としてのイエス・キリストにおける「啓示の出来事」の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」を通して、「わたしたちの心の中に注がれるのである」。「『わたしを愛し、わたしのためにご自身を捧げられた』神のみ子を信じる信仰によって、パウロは、肉にあっての生活を生きる(ガラテヤ二・二〇)」――「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、(≪徹頭徹尾神の側の真実としてある主格的属格として理解された≫)神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(≪それ故に、≫)(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)。

 

 「申命記三〇・六において、既にイスラエルに向かってこう言われている」――「あなたの神、主はあなたの心とあなたの子孫の心に割礼を施し、あなたをして心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主を愛させ、こうしてあなたに命を得させられるであろう」。したがって、自然神学、存在の類比に依拠した「トマス・アクィナスが、(≪キリストにあっての神を、≫)……ワレワレニヨッテ〔ワレワレノ本性カラシテ〕自然ニ愛スルコトガデキルと考えること」、すなわち「人間が(≪キリストにあっての≫)神の啓示を度外視して」、換言すれば「啓示に先行する自然的な能力に基づいて神への自然的な愛を考えること」は、「聖書の箇所においては考慮に入れられていない」のである。

 

 そのような訳で、「神の子供たちの愛」は、神とは全く異なる「被造物的な実在として」、常に先行する「神的な恵みの光の中で神ご自身によって(≪あの総体的構造に基づいて≫)新たに創造されるという出来事となって起こる」のである。言い換えれば、「愛でないもの(≪愛でない、生来的な自然的なわれわれ人間≫)が愛あるものとなる出来事である」、「自由」・「主権」がそうであったように、「愛」も、「神ご自身においてのみ実在であり真理である」。この時、聖霊によって更新された人間の理性性(客観的な「存在的なラチオ性」に包括された主観的な「認識的なラチオ性」)が、徹頭徹尾聖霊と同一ではないように、神とは全く異なる「被造物的な実在」が、「神的な実在に転化するわけで決してない」のである(それ故に、東京神学大学の実践神学者の小泉健が、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍を尊重することを主張した人間学的神学者のルドルフ・ボーレンの「神律的相互関係」の概念に依拠して、恣意的独断的に、「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」と聖霊や聖霊の言葉を実体化させた時、そのことは、その最初から「誤謬」に基づいたものなのである)。すなわち、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下でという意味において、「イエス・キリストの中で起こった言葉の受肉(≪その内在的本質である神性の受肉ではなく、その「外に向かって」の外在的な第二の存在の仕方における言葉の受肉≫)と厳格に類比的関係を持っている」。あの総体的構造に基づいた愛なきものから愛あるものとなる被造物的実在におけるその出来事は、その現にあるがままの現実的な人間存在における「人間性がそれとして損なわれることなし」、換言すればその人間性が神化にされたり、その人間性に神的なものが付加されたりすることなしに、「啓示ないし和解の実在」そのものであるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストの中に、起源的な第一の形態の「神の言葉の中に、……自分の人間性の主体を見出す出来事である」。何故ならば、その内在的本質である神性の受肉ではなく、その「外に向かって」の外在的な第二の存在の仕方における言葉の受肉である、それ故に「神性の放棄」・「神性の減少」を意味するのではなく、あくまでも「神的姿の隠蔽」・「覆い隠し」・「秘義」を意味している神の言葉の受肉、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」の「その人間であるあることの中で」、人間の類と歴史性――人間の個と現存性の交点で生きるわれわれ人間、「被造物的実在のために、イエス・キリストが父の右に立ち、とりなし給うからである」。したがって、その「被造物的実在」は、その現にあるがままの現実的な人間存在における人間でありつつ、「しかも神を、このイエス・キリストの中で尋ね求めること」、それ故にキリストにあっての神を、あの総体的構造における主観的な「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下でのその途上性において、あの他律的服従と自律的服従との全体性において、絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求めるというキリストにあっての神を「愛するということ以外のことは残されていないのである」。キリストにあっての「神の愛の中に基礎づけられた神の子供たちの神を愛する愛」、「神への愛」、「神の子供たちが……天的なかしらを慕い求めるもの」は、「そのかしらのからだの地的な肢体である」、換言すればあの総体的構造における三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉(「すべてのしるしの最初の、起源的な、支配的なしるし」)であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉(「しるしのしるし」)である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉(「しるしのしるいしのしるし」)である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)である。したがって、それは、イエス・キリストにおける「天的な愛すること」、「神的な愛」ではない。

 

 「神は愛である(Tヨハネ四・八、一六)という命題」は、「例えば神は霊である(ヨハネ四・二四)、あるいは主は霊である(Uコリント三・一七)と違って、〔主辞と賓辞を〕ひっくり返すことのできない命題である」。この命題は、「神的な方の愛のことを教えている」。「神ご自身においてのみ実在であり真理である」「愛についてだけ、神は愛(≪神的な愛≫)であると言うことができる」。したがって、この「イエス・キリストにおける神的な愛こそ」が、神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下での「われわれが愛するすべての愛」、「被造物的実在における神の子供たちが愛する愛の基礎づけである」。この「愛の基礎づけ」は、「聖書に従った」、あの総体的構造の中での客観的なその死と復活の出来事としてのイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「聖霊の奇蹟」(「愛の発生の秘義」)として、「この罪深い被造物である人間に対して……約束を信じる信仰の中でイエス・キリストが出会い給い、現にあるところの方、まことの神、まことの人間として、したがって彼の和解主として」、人間の側にやってくるのである。三位一体の根本命題に即して理解すれば、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な第三の存在の仕方である聖霊は、「三度目」に、父と子の二つの存在の仕方から生じる「一つの存在の仕方」である。したがって、この第三の存在の仕方である聖霊は、父と子の啓示に対する「特別な第二の啓示」ではなく、「父なる神と子なる神の愛の霊」である。ここに、聖霊の「起源」がある。この聖霊は、神的愛に基づく「父と子の交わりの中で、父は子の父・言葉の語り手であり、子は父の子・語り手の言葉であるところの行為(≪働き。業・行動≫)である」。ここに、「神は愛、愛は神であることの根拠がある」。「愛は神にとって、最高の法則であり、最後的な実在である」。「愛」は、「自由」・「主権」がそうであったように、「神ご自身においてのみ実在であり真理である」。

 

 さて、アウグスティヌスによれば、「聖霊は三位一体の中で……、父が子を愛する愛、子が父を愛する愛であり、われわれに対して……この聖霊が与えられている」、「人間的な精神ノ活動の代わりに、……人間のキリスト教的生活の中に」、そのような「聖霊ご自身が、直接……入ってくる」(「以上のような教えの「代表」は、「われわれが神と隣人を愛する愛は、神、しかも聖霊ご自身以外の何ものでもない」と主張したペトルス・ロンバルドゥスである)。それに対して、トマス・アクィナスは、「われわれが愛するということ」は、「神ノ愛ヘノアル種ノ参与であり、それ自身では人間的な端緒をもった人間的理性と意志の活動」である。「意志が聖霊ニヨッテ愛スルヨウニト動カサレルナラ、ソノ上意志ソノモノガコノ愛スルトイウ行為ヲ行ナウコトハフサワシイコトデアル」――このことが、われわれの人間の「功績とはならない」というのであれば正当性があるのであるが、トマスは「われわれが愛することは功績となる」という言葉を付加した時、それは、誤謬となる。また、トマスは、「愛ノ行為が遂行されるために」、「神的な基礎と人間的な基礎の間の真中のところで働く第三の基礎」、すなわち「聖霊によって、人間ノ自然的能力」(われわれ人間の生来的な自然的な能力)が、「愛ノ運動」(愛の行為)へと「向ケサセられ、愛ガ進ンデ、喜ンデナサレルヨウニツケ加エラレタ習慣的トナッタ形相を要請した」が、その時、「人が(≪恣意的独断的に≫)より多くその神的な性格を強調するならば」、あの総体的構造における客観的な「存在的な必然性」に包括された主観的な「認識的な必然性」を前提条件とした客観的な「存在的なラチオ性」に包括された主観的な「認識的なラチオ性」に基づいた「聖霊の奇蹟」(愛の発生の秘義)は捨象されてしまうことになる。いずれにしても、両者は、「ロンバルドゥスとともに『仮現論的な』人間論に、あるいはトマスとともに『エビオン主義的な』人間論に陥っていくことになる」。したがって、「われわれが……愛の人間的な可能性を問う問いに答えようと欲する時」には、われわれ「人間は、確かに教会の領域の中で生きており」、「洗礼を受け」、「イエス・キリストは……彼のためにも死なれ甦えられたという約束の成就を望み見る展望をもっているということを指し示すことがゆるされるだけであろう」。このことこそが、「まことのツケ加エラレ、習慣的トナッタ形相……である」。したがって、われわれは、「教会、洗礼、約束に」、あの総体的構造における「聖霊の力を、……信頼しつつ帰さなければならない」し、それ故に「愛を基礎づける力を、信頼しつつ帰さなければならない」のである。この時、「人は……、実際にあるがままの人間、つけ加えも削除もなしの現実の人間が、約束にあずかることができるし、……その自然的な能力(それはそれ自体全くの無能力なのであるが、……)をもったこの人間が信仰の中で約束にあずかるようになり、信仰の中で愛しはじめるということから聖霊の注ぎの奇蹟が成り立っているということ……を考慮に入れるのである」。ルターが「Tヨハネ四・八、一六を註釈しつつ、愛について……語った時」、ルターは、「ロンバルドゥスとともに聖霊と同一な愛のことを……、またトマスとともに、超自然な資質(≪聖霊によって「人間ノ自然的能力」に付加された「習慣的トナッタ形相」≫)として理解された愛のことを言おうとしていたのではない」。すなわち、ルターは、「人間的な領域においてただ約束と信仰の中にだけ基礎づけられた愛のことを言おうとしていたのである」。「そのようなわけで彼は、愛を……讃美した。なぜならば、彼は、愛を、神と呼ばれるものにしているからである。(≪愛を≫)……すべての被造物を超えて、神ご自身の中においている。それであるから両者はひとつの同じものである(ルター)」。

 

 われわれ人間に対する「神の愛」は、「われわれを愛する神の愛」と、それに基礎づけられた「神を愛するわれわれの愛」(「神への愛」)との構造としてある「キリスト教的愛の実在根拠であり、認識根拠である」。したがって、われわれが、「愛は何であるかと問う時」、「まず第一に、われわれに対して向けられた神の唯一無比な愛を問わなければならない……」、それから第二に、「われわれを愛し給う神の愛に応じるわれわれの答え」は、「どのようでなければならないかというその内容を得てこなければならない」(あの総体的構造に基づいた「神への愛」と、「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関・循環における愛という内容を得てこなければならない)。それからまた、「われわれのそのほかの、(≪それぞれの時代、それぞれの世紀、それぞれの世代における≫)愛について自由に形成された諸概念が吟味されなければならないであろう」。農耕を経済的基盤とした人類史のアジア的段階における農耕村落共同体が育む相互扶助意識・感情、資本主義を経済的基盤とする人類史の西欧的段階における「私利」・「私意」を精神とする近代市民社会が生み出したボランティア意識・感情等が吟味されなければならない。

 

 自然神学、存在の類比に立脚したトマス・アクィナスにおける「キリスト教的な愛の定義」は、先ず以て個体性における「愛情」に置き、次にそれに「キリスト教的愛の中での……相互的ナ愛シ合イをつけ加」え、またそれに重ねて「神と人間との間の伝達」、「友愛をつけ加えてできあがっている」。それに対して、キリストにあっての特別啓示、啓示の真理、啓示神学、恵ミノ類比(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)に立脚したバルトは、次のように述べている――「まず第一に、根本的に、それとして神的愛であるところの神の啓示の中での最高に一方的な伝達があって、それから、それに基づいて、しかし……それから区別されて(相互的ニ……という言葉……と同一の段階におかれてはならない)人間的な愛シ合イ(≪あの「神への愛」と、「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関・循環におけるところの、相互的ニ……という言葉……と同一の段階におかれてはならない人間的な愛シ合イ≫)……があるのであり、その人間的な愛シ合イから」、農耕を経済的基盤とした人類史のアジア的段階における農耕村落共同体が育む相互扶助意識・感情、資本主義を経済的基盤とする人類史の西欧的段階における「私利」・「私意」を精神とする近代市民社会が生み出したボランティア意識・感情等「友愛という概念に関して考えられるべきものが引きだされなければならない……」、と。

 

 ヘーゲルにとっては、まさに「愛は、二つのものの区別であるが、しかもこの二つのものは相互に端的に区別されていない。このような同一性の感情および意識が愛である」、換言すれば自己還帰する相互承認による和解の感情・意識が愛である。この時、「私は私の自己意識を(≪対自的な自己意識として≫)私の内にもたず、むしろ(≪対他的な自己意識として≫)他者の内にもつが、しかし私はこの他者の内(≪自己還帰する相互承認による和解の感情・意識≫)においてのみ満足し、私の平安を見出す」、「両者はただそれらの相互外在(≪自己還帰する「相互に自分を相手の中に失い合う」対他的な自己意識として≫)および同一性のこの意識(≪自己還帰する相互承認による和解の感情・意識≫)である」(下記の【注2】を参照)。愛は、この「統一の……直観、感知、知のことである」。ここで、「神は、愛である」ということは、神(無限の精神)の側からする人間(有限な精神)との相互承認による和解」ということ、それ故に「……この区別およびこの区別の空無性」、区別が「止揚されたものである」ということである。したがって、それは、「聖書の主題であり、哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の完全な捨象・廃棄ということである。ここでは、「神は、単純な、永遠の理念である」。「ヘーゲルが愛と等置しようとしている一般的な可能性は、明らかに同一性と非同一性の間の同一性の可能性のことである」。無限の精神(神)と有限の精神(人間)との統一としての「究極的同一性」である。ヘーゲルにとっては、この「運動する理念(≪「単純な、永遠の理念」≫)の弁証法的展開過程が、愛の実現過程である」。それに対してバルトは、次のように述べている――「キリスト教的愛は、この『何ら真面目なものではない区別の一種の遊動』と少しも係わりのない」ものである。父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体としての「愛の中で、(≪キリストにあっての≫)神は、(全く真剣な意味で)われわれから区別された在り方の中で(≪「聖書の主題であり、哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の中で≫)、徹頭徹尾その自意識をわれわれの中で持ったり、あるいはわれわれのところで失ってしまうということなしに、われわれに対して働きかけ給う」――「わたしたちが神を愛したのではなく、(≪徹頭徹尾神の側の真実として、≫)神がわたしたちを愛して下さった(Tヨハネ四・一〇)」(下記の【注3】を参照)。「そのように事は成り行くのである」。したがって、「われわれが、そのことに基づいて神を愛し返す時」、そのことは、「われわれがわれわれの自己意識を神の中に持っているとか、あるいは神のところで失うということを意味していない」。このように、われわれは、「われわれが神と区別されている区別に関しても真剣なのである」。われわれは、徹頭徹尾、「聖書の主題であり、哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を堅持するのである、堅持し続けるのである。何故ならば、「ただまさにこの区別の中でこそ、われわれは神を(≪あの総体的構造に基づいたあの「神への愛」と、「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関・循環において≫)愛することができるし、神を愛するであろう」からである。「それであるから、われわれに対する神の愛と神を愛するわれわれの愛の間の関係全体」は、「『単純な、永遠の理念』が継続的に、あちこち揺れ動く運動、あるいは循環という性格を持っていない」し、「上と下、あらかじめの規定と自己規定、神と人間というひっくり返すことのできない秩序が支配している」という点にある。「われわれに対する神の愛と神を愛するわれわれの愛の間の関係」にとっては、「シリアの総督のクレニオ」と「聖降誕の出来事」、「ポンテオ・ピラト」と「使徒信条」というように、「神の啓示に対してその都度ごとに、一つの時間的、年代的と空間的、地誌的・地域的との限定性において、「出来事として起こったもろもろの歴史(Gschichten)について語っているということは本質的なことである」。したがって、あの総体的構造に基づいたあの「神への愛」と、「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関・循環においてキリスト教的愛に立脚して、「世間に広まっている『愛』についての考え方を批判するに際して、まさにヘーゲル的な概念」であるところの(ヘーゲル的な概念を誤解・誤謬したところの)、形而上学的に一面だけを拡大鏡にかけて全体化された人間「相互に自分を相手の中に失い合うこと(≪一面的に純化された他者愛≫)という浪漫主義的概念に反対して、いくつかのことが思い出されなければならない」。その現にあるがままの現実的な人間存在におけるわれわれ人間の愛は、どうしても不可避的に、「自己愛の対象的な疎外」、すなわち自己愛の外化(表現)としかならないのである。

 

【注2】
 現実の意識は、対自的となった人間的意識(自己意識の対自的意識、言語の自己表出)と対他的となった実践的意識(自己意識の対他的意識、言語の指示表出)との構造としてある。この自己意識における対自的意識と対他的意識、言語の自己表出と指示表出の構造である現実的意識の外化である言語表現は、「現実的人間との関係の意識、いわば対他的意識(≪実践的意識≫)の外化である」。このようにして人間は、自己を客体化し、他者の対象となり、社会的関係に入るのであるが、その時、その外化された(表現された)言語は、客観的な対象性として百人百様の享受の対象となり、「交通の手段」となる。その外化された(表現された)実践的意識(対他的意識、言語の指示表出)は、「確かに他の人々にとって存在するとともに、そのことによってはじめて私自身にとってもまた実際に存在するところの現実の意識という意味で、コミュニケーションによる相互理解に根拠を与える意識である」。

 

【注3】
 キリストにあっての「神の自由」は、「自己自身である神の自由」(自己自身である神としての「失われない単一性」を内在的本質とする「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の自由)としての「自存性の概念(≪神の自由の概念の積極的側面≫)」と「神とは異なるものによって為されるすべての条件づけからの神の自由」(われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における自由、父――啓示者・創造者、子――啓示・和解者、聖霊――啓示されてあること・救済者なる神の存在としての神の自由な神的愛の行為の出来事全体における自由)としての「独立性の概念(≪神の自由の概念の消極的側面≫)」との全体性において定義されなければならない。何故ならば、例えば「世界に対する神の関係としての神の創造と和解の概念」と「神の全能、遍在、永遠性の概念」は、「神とは異なるものによって為されるすべての条件づけからの神の自由としての独立性の概念(≪自由の概念の消極的側面≫)に言及することとなしに、把握し、展開することはできない」からである。キリストにあっての神は、自己自身である神として、それからまたわれわれのための神として「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動)において三度別様に起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――啓示されてあること・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な神的愛の行為の出来事全体において存在しているから、「神とは異なるものによって為されるすべての条件づけからの神の自由」は、「ただ外に向かっての神の行為の本来的な積極性(≪独立性としての神の自由≫)であるばかりでなく」、「また、神ご自身の内的な本質の本来的な積極性(≪自存性としての神の自由≫)である」という「認識の下で起こる時にだけ、正しい仕方で為すことができるし、為す」のである。キリストにあっての「神についての聖書的な証言」は、「神とは異なるすべてのものに対して持つところの神の優位性」を、「神とは異なるものによって為されるすべての条件づけ(≪外的条件づけ≫)からの神の自由(≪独立性としての神の自由≫)としての神の相違性(≪差異性≫)そのものの中でだけ見ているだけでなく」、「神がそれらを実証することによって」、それ故に「外的条件づけからの(≪独立性としての≫)神の自由に相対しても自由(≪自存性としての神の自由≫)であり」、この完全な自由を放棄することなく、「創造主、和解主、救済主として」、「神とは異なった実在との交わりへと歩み入り、その交わりの中でその実在に対して忠実であり給うということの中で」、「神の真実を実証し、まさにそのようにしてこそ現実に自由(≪独立性としての神の自由≫)であり、ご自身の中で自由(≪自存性としての神の自由≫)である」その神の自由の全体性の中で見ている。

 

 リッチュルは、「愛は……ほかの、精神的な、……同質の人格に対して、その本来の、最高の定めを達成するようすすめ励まし、しかもそのことの中で愛する者自身が自分の最終目的(第三版では自己目的)を追求する不断の意志」、「他者の生の課題をこのように自分の課題とすること」は、「自分自身を否定することではなく、むしろ自分自身を強める肯定である」と述べている。すなわち、自然神学、人間学的神学に依拠したリッチュルは、人間学的には個と共同性は逆立するにも拘わらず、「個人的な意志決定と社会的な意志決定との一致および均衡の可能性を、愛と定義した」のである(下記の【注4】を参照)。それに対して、バルトは、次のように述べている――リッチュルが、「われわれに対する神の愛」について、「三位一体の神の啓示に、特に(≪神性を内在的本質とする、その「外に向かって」の外在的な第二の存在の仕方、「啓示ないし和解の実在」であり、起源的な第一の形態の神の言葉であるまことの神にしてまことの人間≫)イエス・キリストの人格と業(≪子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事≫)に視線を向けていたならば」、「神が、ご自分が愛されるということの中で、自分自身の自己目的を追求し給うというような言い方は、……決して思い浮かばなかったし、……書きはしなかった言い方である」。また、「神を愛するわれわれの愛」(神への愛)について、「愛する者が『別な、精神的な、したがって同質の人格に対して、その本来の、最高の定めを達成するようすすめ励ます』ということが問題ではない」から、「われわれ自身の自己目的を追求すること」が、「本質構成的に属していることであるかどうかということを問われなければならない」。何故ならば、「神への愛」の本質構成は、あの総体的構造に基づいたあの「神への愛」と、「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関・循環におけるそこにあるからである。

 

【注4】
 人間は、自然の一部であり、その身体(肉体)と精神(意識)を介して、普遍的で実践的な全自然(自然としての自己身体、性としての他者身体、宇宙を含む外界としての自然)との相互規定的な対象的活動を行う。ここに、人間の類的な活動や生活がある。それは、人間諸個人による全自然の対象化であり、非有機的身体化であり、自然の人間化であり、そのことによってまた人間は、人間的自然として有機的自然となる。それは、人間の歴史的行為である。人間の類の時間性、歴史、世界史、人類史も自然史の一部であるが、その自然史の一部である人類史の自然史的過程における自然史的必然としての自然史的成果である「科学・技術や生産様式の発達」は、「遅延させることはできても逆行させたりすることはできない」ものなのである(「人間の心的な過程が存在するためには、身体の存在は絶対的条件である」が、「それにもかかわらず、人間の心的な過程の内容は必ずしも身体の存在の反映ではない」から、そうしていったん疎外されたその心的な過程の内容は、それ自体の展開過程と自己増殖過程を持つように、経済的範疇に影響を受け疎外された観念諸形態も、そうしていったん疎外されたそれは、それ自体の展開過程と自己増殖過程を持つ。そして、それは観念を本質としているから、逆行したり復古したりすることができるものである。「人間学の後追い知識」に過ぎない混合神学としての人間学的神学者の小泉健や佐藤司郎は、ルドルフ・ボーレンの恣意的独断的な「聖霊論的出発」という概念に依拠して、中世的思考・中世的観念に退行し、恣意的独断的に「神学の優位性を否定することなく」あるいは「神学の優位性を確保しつつ」、「人間学的局面にもその位置を正しく与える」あるいは「人間学を正当に評価する位置を与え得る」と述べている)。この意味で、その極限には天然自然主義を想定し得るエコロジーは錯誤でしかないものである(自然は人間に対して恩恵だけでなく新型コロナウィルス、台風、地震、寒波、豪雨、津波等々の脅威も与えるから、例えば新型コロナウィルスにしても、環境問題にしても、科学的技術的に解明され克服され、その脅威から解放されなければならないものである)、それ故にただ時流や時勢に乗った混合神学としての人間学的神学であるエコロジー神学は、神学的にも人間学的にも全く役立たずの実質なき神学である、ちょうど時流や時勢に乗った混合神学としての人間学的神学であるフェミニズム神学がそうであるように。最近のニュースに引き寄せて言えば、東京五輪等組織委員会会長の森喜朗がセクハラ発言(女性蔑視発言)をしたことを徹底的に断罪した連中やマス・メディアが、同じように2014年のソチ五輪の打ち上げでフィギュアスケート男子の高橋大輔に抱きつき無理やりキスをしようとしセクハラした新会長の参議院議員・橋本聖子(男性蔑視行動)に対しては徹底的に断罪しないことは、市民的観点や市民的常識が自己欺瞞に満ち満ちていることの証左である。フェミニズム神学者たちやそれに同調する牧師たちは、セクハラをしたところの、男性の森に対してだけでなく女性の橋本に対しても、<平等に>、同じように批判しただろうか?
 ビル・ゲイツは、世界的な環境保全のための脱炭素社会実現のために、クリーンエネルギーとして、グリーン水素、科学的技術的に安全な第四世代の原発に希望を託しているということである――東洋経済2/15オンライン記事。吉本も環境問題や原発の安全性の問題は科学的技術的に解決すべき問題であると述べている。前段の論述から言っても、短絡的なエコロジーや反原発・脱原発の考え方よりも、ビル・ゲイツや吉本の考え方の方に、客観的に現実性が、客観的な正当性と妥当性があることは明らかなことである。すなわち、原発事故を起こしたから反原発だ、脱原発だという主張は、非現実的な、非科学的技術的な、短絡的思考によるものでしかないのである。言い換えれば、東日本大震災時における福島原発事故に典型的な原発問題は、徹頭徹尾国民全体や住民全体の奉仕者であるべきであるにも拘らず、現実的な社会の中で具体的に生き生活している大多数の被支配としての一般大衆・一般市民・一般住民・一般国民のことを第一義として考えないところの、それ故に様々な分野における科学的技術的な安全性を担保しないところの、ただ原発に関係する自分たちの利権だけで原発推進へと動く国・県・市町村の政党、政党政治家、その党員、その賛同者等と官僚と御用学者の現存である、また現実的な社会の中で具体的に生き生活している大多数の被支配としての一般大衆・一般市民・一般住民・一般国民のことを徹底的に継続して第一義として考えない実質なき正義漢ぶった商業資本のマス・メディアや評論家たちの現存である。それと共に、問題は、東日本大震災時における福島原発事故による時空的に大きな被害を現実的に被った現実的な社会の中で具体的に生き生活している大多数の被支配としての一般大衆・一般市民・一般住民・一般国民が、そのような保守・野党を含めたその大事故の責任と解決を徹底的に持続して取るべき企業や支配層に対して、徹底的な持続的な抗議活動を行うのではなく、その大被害を、天然自然の災害と同じように受け入れて行くその存在様式にある。何故ならば、支配は被支配を逆立した鏡とするからである、その存在様式を逆立した鏡とするからである。
 私は震災時仙台市に住んでいたのだが(私の地域は震度6弱であったが、身体が振られて一歩も身体を動かすことができず、ただ揺れがおさまるまで机にしがみついていた。このような地震は、初めて体験した。私の体験から言えば、震度5強までならば、まず心配しなくても大丈夫である)、あの時、毎日のようにマス・メディアを通して、ACジャパンの宣伝・金子みすゞの「こだまでしょうか」や「がんばろう日本」という言葉が頻繁に流され、「絆」という言葉が2011年の漢字に選ばれ、それに引きずられて現在は、スポーツ選手等において挨拶代わりのように「感謝」や「恩返し」という言葉が流されている。そうした中で、客観的に現実性および客観的な正当性と妥当性とを持ったビル・ゲイツや吉本隆明のような思惟と語りにおけるような議論が白熱することはなく、原発事故問題は、その責任の所在も解決の方途も明確に提起されることなく、曖昧のまま終わってしまった。後に残ったのは、短絡した原発反対、脱原発という言葉だけであった、ちょうど世界が経済の世界性と民族国家の一国性を単位として動いている中で、短絡的に戦争反対という平和主義者たち(学者、評論家の知識人たち)が、戦争の元凶である民族国家の死滅(究極的課題)を、その過渡的課題と共に明確に提起しないまま正義感ぶって叫んでいるだけのように。
 人類は、「人間のつくる観念と現実のすべての成果(それが<良きもの>であれ、<悪しきもの>であれ)を、不可避的に蓄積していくよりほかないものである」。したがって、「歴史的現存性」とは、それが良きものであれ、悪しきものであれ、「人類がそれらを人類的成果(≪個体的自己としての成果の世代的総和≫)として歴史的に蓄積させてきたもの(≪その類の時間性、歴史性≫)の現存性のことである」。したがって、個体としての人間は、そうした歴史的現存性としてある人類史的成果としての制度や社会を不可避に生きる以外にないのである。したがってまた、「個人としての人間の意志、判断力、構想が通用するのはただ半分だけであって、いったんそうした現実に衝突してから」は、人は、「何々させられる」、「何々せざるをえない」、「何々するほかないというように生きる以外にはない」のであって、そのようにして個の現存性(個の時間性、個体史、自己史)を刻んでいく。すなわち、人間の歴史は、「すべての個人としての<人間>が、或る日、<人間>はみな平等であることに目覚め、そういう倫理的規範にのっとって行為すれば、ユートピアが<実現する>という性質のものではない」のである(吉本隆明『思想の基準をめぐって』)。