4の1(その2).『教会教義学 神の言葉U/2 第2章 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』
4の1(その2).『教会教義学 神の言葉U/2 第2章 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』(302-321頁)
再推敲・再整理版です。
この『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』について、さらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります。
https://karl-barth-studies5.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。
「十八節 神の子らの生活――二 神への愛」(302-321頁)
キリストにあっての神の言葉は、それを「語られた方自身からして」、「『あなたがたのたましいを救う力』がある(ヤコブの手紙一・二一)」。その神の言葉は、「それ自身の力」において、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動において、「それを信じ、認識した人間の『心に植え付けられ』」・「『心に植え付けられて』いる」。その時、「み言葉は、『あなたの口にあり、心にある』(ローマ一〇・八)」。このことは、「み言葉が彼によって『受け入れられる』ことを欲しているということを意味している」。しかし、この「受け入れられる」ということは、「神の前でのすなおさへの方向転換を意味している」。すなわち、われわれ人間は、「キリスト者こそ!――もともと頑なであり、容易に悔改めに導かれ得ない」(『バルト自伝』)が故に、この方向転換は、「神から新しく措定された」「われわれの現実存在」、「神の前でのすなおさへの方向転換を意味している」。したがって、「もしも彼が単なる聞き手であって、まさに聞き手として同時に、み言葉を行う者であろうとしないならば(≪あの「神への愛」と、「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関・循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指さないならば≫)、自分自身を欺いている(ヤコブの手紙一・二二)ことになる」のである。「み言葉を行う者」とは、「神ノ言葉ヲ心デ把握シ、生活デ証シスル――神の言葉ヲ聞イテソレヲ守ル人タチハ、メグマレテイル(ルカ一一・二八)トノ、キリストノ言葉ニ従ッテ、真剣ニ自分ヲユダネタコトヲ生活デモッテ証シスル――モノのことである(カルヴァン)」。それに対して、「み言葉の単なる聞き手」とは、「み言葉に対する単なる専門家、興味を抱いている者、尊敬者、崇拝者として自分自身(≪自主性・自己主張・自己義認の欲求、人間的な実在と人間的な可能性への欲求を持つ自分自身≫)を保留しておこうとする」者たちのことである。そのようなことは、「人間的な言葉に対してはできることであるが、神の言葉に対しては決してできなない」ことである。何故ならば、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、あの総体的構造におけるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として「神の言葉を聞くということ」は、それが「主の言葉であるが故に」、その言葉に対する他律的服従とそのことの決断と態度という自律的服従との全体性において、「神の言葉に聞き従うことを意味している」からである。「神の言葉」は、律法(純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請)として、「われわれ自身を要求してくることによって、……われわれ自身の、自由な、自発的な服従を要求してくる」、「われわれの現実存在をもっての告白を要求してくる」、「われわれの心を要求してくる」、「単に聴従するだけでなく、留保なしに服従すること、真理にわれわれが身をまかせる決断へと要求してくる」。すなわち、「言葉の行為」は、その「神の言葉を本当に聞くという以外の何ものでもないのである」。ここで言葉は、通俗的な意味での二元論的に対立させられた言葉と行為における言葉ではない、言葉は行為そのものである。言葉は、言葉だけでなく行為も・実践もと声高に強いて叫ばなくても、「必然的に」、「おのずから」、行為へと、実践へと向かわせる。バルトの場合、それが社会的な事柄であれ政治的な事柄であれ、あの総体的構造における「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)の連続性に連続して「かつて語った説教(≪純粋な教えとしてのキリストの福音を尋ね求めての説教、すなわちその言葉≫)の一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから実践に、決断に、行動になって行った」ところの言葉である(『カール・バルトの生涯』)。この「言葉の行為(≪純粋な教えとしてのキリストの福音を尋ね求めての説教、すなわちその言葉≫)ソレ自身ノ中ニ、祝福ガアル(カルヴァン)」、「救い」がある。したがって、言葉(説教と聖餐としての教会の宣教)と行為(社会的な政治的な実践)とを二元論的に対立させた言葉は、その言葉が力のない証左である。「ステパノの殉教の本質」は、その「苦難の行為」にはなく、あの総体的構造に基づいて「ただイエス・キリストの名だけ」に感謝をもって信頼し固執し固着する(行為する)その「言葉」(説教)にある(『証人としてのキリスト者』)。
パウロにとっても、「律法(≪ここで律法は、福音と律法を二元論的に対立させた律法ではなく、あの総体的構造に基づいたあのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法である≫)を聞く者が義とされるのではなく、ただ律法(≪ここで律法は、福音と律法を二元論的に対立させた律法ではなく、あの総体的構造に基づいたあのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法である≫)を行う者が義とされる(ローマ二・一三)」。「一つの土台イエス・キリスト(≪「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであるイエス・キリスト≫)の上に各人は自分の業(≪あの総体的構造に基づいたあのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法の行い≫)を立てる、またこの業(≪あの総体的構造に基づいたあのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法の行い≫)こそが終わりの裁きの時にいずれにしても明らかにされるであろうことである(Tコリント三・一三)」。「ひとりひとりが自分を欺かないように、……自分の誇りをもつとともに、それぞれ自分の重荷も負うであろう自分の行いを……検討してみなさい、と命じられている(ガラテヤ六・三以下)」。パウロは、「永遠の救いに到達することを、……努力してなしとげるという観点を述べたその後直ちに」、「なぜならば、あなたがたのうちで働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神だからである、という顕著な基礎づけを行っている(ピリピ二・一二以下)」。「またパウロはエペソ二・八以下で逆に、わたしが救われたのは、恵みにより、信仰によるのであり、神の賜物であって、決して行いによるのでないことを、最高級の強い表現で語った後」、「わたしたちは、(≪あの総体的構造に基づいた≫)神の作品であって、(≪あの総体的構造に基づいて≫)良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、(≪あの総体的構造に基づいて≫)良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えてくださったのである」、と述べている。パウロは、「Tテサロニケ一・三、Uテサロニケ一・一一によれば、信仰の業という概念を知っている」。すなわち、パウロは、「使徒としての自分の行為を、主のご用をなしとげること(Tコリント一六・一〇)として、また自分のことを(≪あの総体的構造に基づいた≫)神の同労者として(Tコリント三・九)述べている」。この「行いの前提は、パウロにとっては、……(≪神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという神との「共働」・「協働」・「共労」・「協力」ということではなくて、≫)それの主体が神ご自身であり、あくまで神ご自身だけであって」、それ故に「その力は行いによって増し加えられることもなければ、減らされることもなく、ただまさに(≪あの総体的構造に基づいたあの「神への愛」と、「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関・循環における≫)行いによって確認されることができるだけである行為……から成り立っているということである」(ピリピ二・一二以下およびエペソ二・四以下)。「人間はパウロによれば……(≪あの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいて授与される≫)信仰の中でのみ、あの神的な行為の対象であり、(神によって義とされたが故に)神の前で義とされた人間である」。何故ならば、「人間は(≪あの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいて授与される≫)信仰の中でイエス・キリストを対象にもっており、イエス・キリストとかかわりをもち、イエス・キリストに合わせられ、イエス・キリストに委ねられ、イエス・キリストのみもとに行くように命じられているからである」。あの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいて「彼が信じる時、彼の信仰は、彼の現実存在の偶然的な規定ではなく、……(≪あの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいた≫)必然的な規定であり、……単なる部分的な規定ではなく、全体的な規定である」。何故ならば、その彼の信仰においては、成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この救済概念は、平和の概念を包括している)は、徹頭徹尾神の側の真実としてある、「成就と執行」、「永遠的実在」としてある、主格的属格として理解されたローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・「律法の完成」そのものであり、それ故に「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものである「ただイエス・キリストの名だけ」だからである。「もしも信じるところのものが、人間、人間自身、全人間でないならば、それは信仰ではないし、それはイエス・キリストを対象として持っていないし、それであるから義とすることもないのである」。それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、「われわれは、われわれの主としてのイエス・キリストに固執することにより、またイエス・キリストがわれわれのかしらであるということに固執することにより、(中略)この主とかしらのもとで、またこの主とかしらとともに、……これからは神の義、神の子の義、神自身の義をまとっている者として生きることを許される」(『ローマ書新解』)。このように、「信仰が自由な神の造り出し給うものとして、同時に与えられた限界の内部で、必然的全体的に、また(≪あの他律的服従と自律的服従との全体性における≫)人間の自由な決断であり、行為である限り、行いは信仰であり信仰は行いである」。
「われわれが、聖霊の恵みについて、欠けたところなく、正しく語ろうとする時、避けて通ることのできない具体的ニキリスト教的人間」は、「自由な人間」、すなわち、その人間に対して「神がその自由を確証し、確認し給うところの自由な人間」である。あの他律的服従と自律的服従との全体性としてある「人間の自由」は、「神学的倫理、あるいは内容的にキリスト教的人間の生活の問題となる」。その「人間の自由を問うこと」は、「神の啓示の事実そのものと共に」、「われわれは何をなすべきかという問い」、「神の啓示の事実に対応してどのように人間の生活を形成していったらよいのかを問う問い」、「神の啓示の事実に対する服従の命令を問う問い」、「神の子らの生活」・「教会の生活と取り組むことである」。
「神の子らの生活」――バルトは、この「表題をA・V・ハルナックに負うている」。バルトは、1925年「福音主義的教義学の可能性について」、ハルナックと「最後の……対話を行った」。その時、ハルナックは、福音主義的教義学を書かなければならないとすれば、「神の子らの生活という表題のもとで書くであろうと……語った」。このことは、律法がキリストの福音を内容とする福音の形式としてのそれであるという意味において、一面において正当性のある表題である。しかし、この表題は、形而上学的にその一面だけを拡大鏡にかけて全体化したそれとして、根本的包括的な原理的な誤謬を内在させている。したがって、バルトは、次のように言うのである――イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊の証しの力、あの総体的構造、キリストにあっての特別啓示、啓示の真理、啓示神学、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)に立脚する「福音主義教義学は、根本的、決定的に、神のひとり子と聖霊について取り扱うであろう。また(≪客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」としての≫)神のひとり子と聖霊(≪その啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」≫)の中にその本来的な中心を、(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である≫)聖書の中にその源泉を、(≪その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉である≫)教会の中にその堅固な場所を、持たなければならないであろう」、と。人間的な実在と人間的な可能性へと偏向していく「新プロテスタント主義」者のハルナックの「信仰の対象」は、キリストにあっての「啓示の中での神」ではなく、「神的なものを信じる人間自身であった」、すなわちハルナック自身の人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された「存在者レベルでの神」であった。したがって、このハルナックの「存在者レベルでの神への信仰」に対しても、例えばハイデッガーから、客観的な正当性と妥当性とをもって、「それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』」と「揶揄」・批判されてしまうであろう。あの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいた「神の子らの生活」・「教会の生活」・「キリスト教的人間の生活」は、「キリスト教的な人間的な自由な決断」、「人間的な行い……業」、「実在の人間の生活としての性格・特徴」を、「イエス・キリストにおける恵みの光の中に持っている」。
「キリスト教的人間」――「彼の生活、行為」が、「『キリスト教的』性格を明瞭に描き出す」時、それは、向こう側から、「外から」、「神から」、やって「来る」それである。すなわち、「わたしやわれわれの生活、行為」における「『キリスト教的なもの』は、つねにただ、わたしやわれわれではなく、彼、主が、わたしやわれわれのために・代わりにということの表明であることができるだけである」。それは、主が、イエス・キリストが、「慰めと警告と命令を与えつつ、限界づけつつ、力を奮うということ」であり、「神の子らの生活」・「教会の生活」・「キリスト教的人間の生活の根拠である」ということである。したがって、この「神の子らの生活」・「教会の生活」・「キリスト教的人間の生活」における「キリスト教的なものの実在」は、「彼ら自身の現実存在の隠れた実在である」。すなわち、「彼ら自身の現実存在の隠れた実在」は、「わたしやわたしたちではなく彼・主」が、「イエス・キリストという唯一の名」(「ただイエス・キリストの名だけ」)が、「この実在である」ということである――それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、(≪それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、≫)人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」、「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、(≪徹頭徹尾神の側の真実としてある主格的属格として理解された≫)神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(≪それ故に、≫)(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)。
「ただ間接的にのみ、彼はわれわれと、われわれは彼と同一である。なぜならば、彼は神であり、われわれは人間であるからである」、「彼は天にいまし、われわれは地上にいる」からである、「彼は永遠に生き給い(≪「イエス・キリストは、きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」≫)、われわれは時間的(≪有限な、人間の類としての時間性・人類史・世界史と人間の個としての時間性・個体史・自己史≫)に生きるからである」――「この限界、終末論的な限界は、彼とわれわれの間であくまで引かれ続けている」。われわれが、「神の子どもたちの生活」、「教会の生活」、「キリスト教的人間の生活」を、「聖霊が造り出すものとして理解する時」、「交差し合っている人間的な自己規定を得るのである」。すなわち、「神の子供たち」・「キリスト教的人間の実際に異なった二つの規定」、すなわち「聖書的な生まれかわりと回心、義認と聖化、信仰と服従、神の子供と奴隷の区別」は、それを「規定する方であるイエス・キリスト(≪客観的なその死と復活の出来事としてのイエス・キリストにおける「啓示の出来事」≫)と聖霊(≪その啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」≫)において、交差し合っている」ということができる。「啓示がなすよき業」、あの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいた「キリスト教的人間の存在」は、「新しい主体と本質として……呼びかけられる」それである(前の段落で引用した『福音と律法』を参照)。この「新しい主体と本質として……呼びかけられる」「キリスト教的人間の存在」は、「内面的なもの」――すなわち、「ほかの何人も彼のために代理をつとめることができない」「神との向かい合いの中にある」「個人」・「孤独」・個体性、「教会のただ中ににあっての個人」・「孤独」・個体性、その「個人」・「孤独」・個体性における神に向かっての・神のための自由な「決断」、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を、あの総体的構造における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、キリストの中で尋ね求める「神への愛」(「神に対する人間の愛」)と、「外面的なもの」――すなわち、そのような「神への愛」を根拠とした「神への讃美」としての「交わり」(教会共同性)、その「特定の行動すること」、その「必然的な行動」、「隣人愛」(純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請)の全体性において理解することができる。徹頭徹尾聖霊とは同一ではないところの、聖霊によって更新された「彼」(彼の理性性――客観的な「存在的なラチオ性」に包括された主観的な「認識的なラチオ性」)、その「個人」・「孤独」・個体性における「彼」は、あの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいて「確かに神の言葉」を、「永遠の言葉、すなわち、肉をとり、ご自分の肉の中で、われわれの肉を、この言葉を聞き信じるすべてのものの肉を、父の栄光の中へと取り上げた永遠の言葉を、聞き、信じる」のであるから、「神を(≪あの総体的構造における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、≫)キリストの中で尋ね求めることこそ」が、「教会や神の子供たち」・「キリスト教的人間」の「生活の内面的なこと」であり、「個人」・「孤独」・個体性のことであり、その外化(表現)された「個人」・「孤独」・個体性は、彼らの外面的な「行為の意図」、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性である。あの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいて「神を見出した者たち」、すなわち信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を授与された者たちが、「神をキリストの中で尋ね求めることについて語っている聖書的概念」は、「神への愛」・「神に対する人間の愛」である。この「神への愛は、その人間がキリストとともに甦えらされたが故に、そのほかの彼の存在が彼から取り去られた後、ただそれだけが彼に残されている存在である」(前の段落で引用した『福音と律法』を参照)。
この時、キリスト教的人間の「内面的なもの」、「個人」・「孤独」・個体性は、「神をイエス・キリストの中で、尋ね求めることなしに、もはや存在することができない」。しかし、ただなお、「彼の背後には、……彼の既に片づけられた(≪神の側の真実として、「すでに」キリストの復活によって克服された≫)罪、死の深淵がある(≪復活されたキリストの再臨、終末、「完成」の時までは、人間としての彼の側では、なお依然としてそれは存在する≫)」(前の段落で引用した『福音と律法』を参照)。すなわち、イエス・キリストにあって、「彼」は、「恵みを受けた罪人である、義トサレタ罪人である」。また、キリスト教的人間の「外面的なもの」、「特定」の「行動すること」、「交わり」(教会共同性)、「神への愛」を根拠とした「神への讃美」、「神への讃美」としての「隣人愛」は、「彼らに語らなければならない彼ら自身に関する真理である神がすでに為した」ところの個体的自己としての全人間・全世界・全人類のために「キリストは死に、甦えられた」というイエス・キリストの死と復活の出来事、その内容であるインマヌエル――神、罪深きわれらと共にということ、「新約聖書において聞く啓示、和解」の出来事、その「告白」・「証し」・「宣べ伝え」にある。何故ならば、「彼」は、「神の自由の中で、彼自身自由となり、神の子供となった」し、「神に向かって自由」となったし、「神のための自由」を得たからである。したがって、「彼」は、「彼の現実存在全体を通して」、神に向かっての自由・神のための自由の「決断」において「生きるのである」。しかし、「彼の背後」には、依然として、神に向かっての自由・神のための自由の「決断」とは違った「決断」を行う、神からの離反・背き・罪、不信仰・無神性・真実の罪がある。したがって、「彼」は、「ただ、キリストにあってのみ、救われている」のである。「まさにそれだからこそ、キリストについての証言に向かっての(≪神に向かっての自由・神のための自由の≫)決断の中で、彼は生きる」のである。「彼は、義トサレタ罪人として」、あの総体的構造における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、神に向かっての自由・神のための自由の「決断」において、「証ししようと欲し」、「証しし、告白する」のである、あの「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関・循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指すところの、「外的な行い・業へと向かう」のである。この時、彼は、「キリスト教的人間における個人」・「孤独」・個体性であるにもかかわらず、その外化された(表現された)「キリスト教的人間における個人」・「孤独」・個体性として、その教会共同性の中に、その「教会の交わりの中にいるのである」。「聖書的概念として、われわれが見出され、救われていることをこのように証しし、告白すること」は、「神への讃美」である。何故ならば、「個々の人間による和解の主体的実現という問題は、絶対に欠くことの出来ない問題である」が、「イエス・キリストにおいて客観的に起った和解の主体的実現は、まず第一に教団において、イエス・キリストの聖霊の業として遂行される」(『カール・バルト教会教義学 和解論T/1』)からである、また恩寵が「告知」・「証し」・「宣教」される時、「私は私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものだ」、「イエス・キリストにのみ固着せよ」という純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法が建てられるのであるが 、それは、この律法がなければ、われわれ人間は、純粋な教えとしてのキリストの福音を現実的に所有することができないからである(『福音と律法』)。
キリスト復活から復活されたキリストの再臨(終末、「完成」)までの聖霊の時代における「キリスト教的生活」、「神の子供たちの生活」は、終末論的限界の下における、「神をキリストの中で尋ね求め・見出す人間の途上の生活である」。ここに、「神学的倫理学……の原理がある」。それは、あの総体的構造における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下でのその途上性において、絶えず繰り返し、それに対する他律的服従とそのことの決断と態度としての自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」・「神に対する人間の愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請)という連関・循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指すところにある。このように、教義学が、「キリスト教的人間の問題を既にその基本的な考察の対象として承認し、取り扱い、倫理学を自分の中に取り上げている」のであるから、「特別な、神学的倫理学を必要としない」のである。したがって、例えばクラッパートやそれに追従する寺園喜基のような、言葉(説教)と行為(社会的政治的実践)を二元論的に対立させる神学者や牧師のように、「神学的なもの」と「政治的なもの」とを二元論的に対立させて、「神学的なもの」と「政治的なもの」、「倫理―隣人愛―仕える教会―信徒―民主主義的社会主義―平和運動」において、「キリストと同じ形になること」を目指す「形成倫理学」など全く必要としないのである。何故ならば、「教義学自身」が、「神の言葉についての反省的考察であり、神学的な倫理学であるからである」。世界的に優れた思想家の言葉や理論体系は、言葉と行為とを二元論的に対立させて、言葉だけでなく行為(実践)もとわざわざ言わなくてもよいように出来上がっている。神学思想家のバルトの場合もそうであるが、革命思想家のマルクスの場合もそうである――「宗教、法、国家という幻想性と幻想的な共同性について考えつくし」、「ある意味でこの幻想性の起源でありながら、この幻想性と対立する市民社会の構造としての経済的なカテゴリーの骨組みを定め」、「そしてこれらの考察の根源にあるかれ自身の<自然>哲学を三位一体」とした「マルクスの完結した体系は、当時も(そしていまも)よく理解されていなかったが、理論がかれを実践のほうへ必然的につれてゆくようにできあがっていた」(吉本隆明『カール・マルクス』)。