4の1(その1).『教会教義学 神の言葉U/2 第2章 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』
4の1(その1).『教会教義学 神の言葉U/2 第2章 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』(302-321頁)
再推敲・再整理版です。
この『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』について、さらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります。
https://karl-barth-studies5.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。
「十八節 神の子らの生活――二 神への愛」(302-321頁)
バルトは、「十八節 神の子らの生活」について、次のような定式化を行っている。
「神の啓示は、それが聖霊の働きの中で信じられ認識されるところでは、神をイエス・キリストの中で尋ね求めることなしにはもはや存在せず、また神が既に彼らを見出されたことを証しすることなしには存在することができない人間を造り出す」。(302頁)
バルトの定式は、次のように理解することができる。
イエス・キリストにおける神の自己啓示は、その啓示からして、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な「存在的な必然性」(客観的側面としてのその死と復活の出来事としてあるイエス・キリストにおける「啓示の出来事」)に包括された主観的な「認識的な必然性」(その啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)に基づいて終末論的限界の下で与えられる人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)のところでは、「神をイエス・キリストの中で尋ね求めることなしにはもはや存在することができない人間を造り出す」。すなわち、自己自身である神としての自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方の中での第二の存在の仕方、「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「ただイエス・キリストの名だけ」に感謝をもって信頼し固執し固着すること以外に「存在することができない人間を造り出す」。
また、イエス・キリストにおける神の自己啓示は、その啓示からして、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による主観的な「認識的な必然性」を包括した客観的な「存在的な必然性」を前提条件とした(「啓示の出来事」と「信仰の出来事」、「啓示と信仰の出来事」に基づいた)主観的な「認識的なラチオ性」(徹頭徹尾聖霊と同一ではないところの、聖霊によって更新された人間の理性性)を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした、終末論的限界の下でのその途上性において、絶えず繰り返し、それに対する他律的服従とそのことの決断と態度という自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関・循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指して行くところでしか「存在することができない人間を造り出す」。それぞれの時代、それぞれの世紀、それぞれの世代において、そのような人間を造り出す。近代以降において、そのような人間は、バルト主義者にではなく、また反バルト主義者にでもなく、また両者の折衷主義者にでもなく、また「人間学の後追い知識」に過ぎない人間学的神学者にでもなく、まさに教会の宣教にとって最善・最良の神学を構成したカール・バルトに見出すことができるのである。
さて、前述した「神への愛」と、「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関・循環における「隣人愛」は、通俗的な意味での自己欺瞞に満ちた市民的観点・市民的常識における「隣人愛」、農耕を経済的基盤とした人類史のアジア的段階における農耕村落共同体が育む自然な相互扶助意識・感情(マルクスは『資本主義的生産に先行する諸形態』で、このアジア的段階における人類史的成果を「破壊しないで、それを発展させ変形することができる」と述べている)、修正資本主義を含めて本質的には「私利」・「私意」に基づく資本主義を経済的基盤とした人類史の西欧的段階における意識された自己愛の外化としてのボランティア精神(これも、西欧的段階における人類史的成果と言える)のことを意味しない。イザベラ・バードは、人類史の原型・母型であるアフリカ的段階あるいは縄文的段階において世界的普遍性として成立していた、「縄文系統の原型的な固有性」、すなわち「自然に対する最大限の利益の享受と感謝の念」、「人と樹木や動物との情念の交流」、「山川草木に霊が宿ると考える内在的な精神」を残していた明治期における原日本人としてのアイヌ人について、次のように述べている――明治期の「日本人たちを見て感じるのは堕落しているという印象である」、「わが西洋の大都会に何千という堕落した大衆がいる――彼らはキリスト教徒として生れ、洗礼を受け、クリスチャン・ネーム名をもらい、最後には聖なる墓地に葬られるが、アイヌ人の方がずっと高度で、ずっとりっぱな生活を送っている」、「彼らは雨宿りを頼むと、どんな貧乏な家でも、一番よい席を提供してくれる」、「彼らには互いに殺し合う激しい争乱の伝統がない」、「彼らは善悪・道徳の観念、高度な宗教をもたないが、誠実、高貴、立派な生活を送っている」、総体として「アイヌ人は純潔であり、他人に対して親切であり、正直で崇敬の念が厚く、老人に対して思いやりがある」(『日本奥地紀行』等)。このようなアイヌ人に残っていた内在的な精神は、白人進出以前の2万年前から先住する、征服併合された被支配民である北米インディアンについても言える――「収穫物の平等な分配がされていた」、「長老たちによる合議制による社会で、国家形成を目指さず、部族共同体あるいは部族連合にとどまる平和な種族であった」、独立革命以前のイングランド系移民である「コロニスト」(植民者)や「セトラー」(定住者)は、インディアンや同国人の死体を食すくらいに飢餓や疫病の流行等の困難を極めた植民であったが、インディアンはそうした彼らに対して平和的で親切であった。しかし、黒人に対する支配の在り方もそうであったが、初期入植者の子孫である白人主義・アングロサクソン・プロテスタント(正当なアメリカ人としてのWASP)による北米インディアンに対する侵略・支配の在り方は酷いものがあった、私が小さい頃アメリカ西部劇が大好きでほとんど見ていたが、そこではほとんどの場合、インディアンは悪者として描かれていた(野村達郎『民族で読むアメリカ』等)。
バルトの論じている前述した「神への愛」と、「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関・循環における「隣人愛」は、徹頭徹尾神の側の真実としてある主格的属格として理解されたローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・「律法の完成」そのもの(『福音と律法』)、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの(『ローマ書新解』)、それ故に終末論的に、われわれ人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっては「いまだ」であるが、徹頭徹尾神の側の真実としてある「成就と執行」、「永遠的実在」として「すでに」であるところの、イエス・キリストにおいて成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(平和の概念は、この救済概念に包括されている)そのものであるイエス・キリストをのみ信ぜよ、このイエス・キリストにのみ感謝をもって固執し固着せよ、すべての人々がこのイエス・キリストの福音をのみ現実的に所有することができるために、このイエス・キリストをのみ告白し証しし宣べ伝えよ、という神の命令・要求・要請のことである、すなわち純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法のことである、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、(≪第三の形態の神の言葉である≫)教会が、(≪それぞれの時代、それぞれの世紀、それぞれの世代において、≫)教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のことである」。
さて、イエス・キリストにおける神の自己「啓示は、例証されようとせず、解釈されることを欲する」から、キリストにあっての特別啓示、啓示の真理、啓示神学、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)に立脚して、それ故にそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、それぞれの時代、それぞれの世紀、それぞれの世代において、「別の言葉で同一のことを言うことである」。この時、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の牧師および神学者を含めてすべての成員は、その思惟と語りにおける対象が、その信仰が、人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神への信仰」ではないということを証明するために、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な「存在的な必然性」(客観的側面としてのその死と復活の出来事としてあるイエス・キリストにおける「啓示の出来事」)に包括された主観的な「認識的な必然性」(その啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)を前提条件とする、すなわち「啓示と信仰の出来事」に基づく主観的な「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」という総体的構造について明確に提起すると共に、次のように言わなければならないのである――第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会、その一つの補助的機能としての神学、そのすべての成員の思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」、それ故にそれは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度(≪「祈り」≫)に対し神が応じて下さる(≪その「祈りの聞き届け」≫)ということに基づいて成立している」、「神に敵対し神に服従しない(≪生来的な自然的な≫)われわれ人間は、肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」し、生来的な自然的な「『自分の理性や力(≪知力、感性力、悟性力、意志力、想像力、自然を内面の原理とする禅的修行等々≫)によっては』――全く信じることができない」(『福音主義神学入門』)、と。
イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、あの総体的構造における神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて造り出された人間の「必然的な行動」は、「内面的なもの」――すなわち、「ほかの何人も彼のために代理をつとめることができない」「神との向かい合いの中にある」「個人」・「孤独」・個体性、「教会のただ中ににあっての個人」・「孤独」・個体性、その「個人」・「孤独」・個体性における「神に向かっての自由な決断」、「神のための自由な決断」、あの他律的服従と自律的服従との全体性において、「神をキリストの中で尋ね求めるキリストにあっての神への愛」・「神に対する人間の愛」と、「外面的なもの」――すなわち、その「個人」・「孤独」・個体性としての、「神への愛」を根拠とした「神への讃美」、「交わり」(教会共同性、個と共同体の対立を超えた「新約聖書の『体』の概念」から言って、イエス・キリストにおいては、「個々人と共同体は近代的に対立してない」)、その「特定の行動すること」、「隣人愛」という全体性において理解することができる。このことは、前段のバルトの定式に即して考えれば、よく理解できることである。
そのような訳で、イエス・キリストにおける神の自己「啓示における体系」は、「われわれに啓示されたイエス・キリストである」、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリスト」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「ただイエス・キリストの名だけ」である――「(中略)確かに受肉は中心的にして重要なものではあるが……新約聖書の本来的内容であるというふうには言ってはならないのである。(中略)それはおよそすべての他の宗教世界の神話や思弁の中にも見出されるものである。(中略)人は、聖書が語っている受肉(≪その内在的本質である神性の受肉ではなく、その「外に向かって」の外在的な第二の存在の仕方における言葉の受肉である≫)を、ただ聖書からのみ、換言すればイエス・キリストの名からのみ……理解することができる。……神人性それ自体もまた新約聖書の内容ではない(≪何故ならば、農耕を経済的基盤とした人類史のアジア的段階の日本において天皇を含めて<非>農耕民は、神人と呼ばれていたからである≫)。新約聖書の内容とは、ただイエス・キリストの名だけであり、そのイエス・キリストの名がたしかにまた、そしてとりわけ、彼の神人性の真理をその名に含んでいるのである。ただまったくこの名だけが、啓示の客観的現実を言いあらわしている」。イエス・キリストにおける神の自己啓示は、その「啓示に固有な証明能力を持っている」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を持っている、キリストの霊である聖霊の証しの力を持っている、主観的な「認識的な必然性」を包括した客観的な「存在的な必然性」を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」という総体的構造を持っている、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を与えることができる力を持っている、あの総体的構造におけるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)の連続性に連続して行く「人間を造り出す」力を持っている。
「「十八節 神の子らの生活――一 み言葉の行為者としての人間」
われわれが、「聖書の証言の対象である啓示を問う時」、教会に宣教を義務づけているところの、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書は、「先ず第一義的に優位に立つ原理」である「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであるイエス・キリストと共に、教会の宣教、その一つの補助的機能としての神学、われわれの思惟と語りにおける「原理」・「源泉、標準」・規準・法廷・審判者・支配者である。したがって、第一に、「聖書の証言の対象である啓示を問う問い」に対する、聖書の啓示証言(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)に依拠した「啓示概念の中に前提されている主体を特に念頭において与えられた第一の答え」は、自己自身である神としての自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、われわれは神の不把握性の下にある)「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の(それ故に、「三神」・「三つの対象」・「三つの神的我」ではない三位一体の神の)、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動)、すなわち起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――啓示されてあること・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体という三位一体論の教説である、第二に、「啓示概念の中で示されている出来事そのものを念頭において与えられた第二の答え」は、「イエス・キリストにおける神の言葉の受肉(≪その内在的本質である神性の受肉ではなく、その第二の存在の仕方における言葉の受肉≫)についての教説である」、第三に、「この出来事の目標と結果を特に念頭において与えられた第三の答え」は、客観的な「存在的な必然性」としてのその死と復活の出来事としてのイエス・キリストにおける「啓示の出来事」の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎの教説」である、すなわち「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(主観的な「認識的な必然性」)の教説である。そして、この「聖霊の注ぎの教説における最後の考察の対象」は、「啓示を受けている人間」――すなわち、客観的な「存在的な必然性」に包括された主観的な「認識的な必然性」を前提条件とした(「啓示の出来事」と「信仰の出来事」、「啓示と信仰の出来事」に基づいた)主観的な「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を授与された人間である。イエス・キリストが「聖霊の特別な働きとして約束」したものは、「慰め主としての霊」と「真理の御霊」であるが、「聖霊は、聖書の中のキリスト教原理を、覆いをとって明らかにする」、「キリストについて語ることができる能力」(ヨハネ一四・二六)であり、「上からのよき賜物」である。神のその都度の自由な恵みの決断により「聖霊を持つということは、キリストにおいて起こった和解にあずかることであり、キリストと共に、死から生命への方向転換に置かれることである」。この二つの方向転換において「イエス・キリストにあっての神の啓示の要素としての霊の本質」は、「キリストにある自由」を意味している。この「キリストにある自由」は、「神に向かっての自由」・「神のための自由」、純粋な教えとしてのキリストにあっての神をキリストの中で尋ね求める自由は、「キリストの奴隷となることである」、あの総体的構造におけるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下でのその途上性において、絶えず繰り返し、あの他律的服従と自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」という連関・循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指して行くということである。客観的な「存在的な必然性」に包括された主観的な「認識的な必然性」としての聖霊が、「教会をみ言葉の奉仕へと向かわせる」のである。また、「聖霊はみ子の霊であり、それ故、子たる身分を授ける霊である」から、われわれは、「聖霊を受けることによって」、「イエス・キリストが神の子であるという概念を根拠として、われわれは、神の子供・世つぎ・神の家族であり、『アバ、父よ』と呼ぶ(ローマ八・一五、ガラテヤ四・五)」ことができる」のであり、「和解者が神の子であるがゆえに、……和解、啓示の受領者たち」は、受領者と授与者との無限の質的差異を固執するという<方式>の下で、「神の子供である」。このことが「初めて、神の言葉としてのイエス・キリストの中で聖霊を通して遂行された啓示のまったき内容である」。
そのような訳で、「われわれは……次のことをしないように……はっきりと警告されている」。すなわち、それは、「聖霊の注ぎの教説における最後の考察の対象である啓示を受けている人間」(信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を授与された人間)は、「啓示なし」の「啓示から切り放されたキリスト教的人間のことではない」のであるから、必然的に、キリストにあっての特別啓示の事柄に、啓示の真理の事柄に仕えなければならないということ、それ故に「教義学的な合理主義を否定」して、啓示神学に、「恵ミノ類比」に立脚しなければならないということである。言い換えれば、あの総体的構造(下記の【注】を参照)の中でのそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指していかなければならないではないということである。何故ならば、聖書によれば「和解主のまことの神性と人間性についてのきびしい教えだけがある」からである。したがって、後期著作の『神の人間性』でバルトは、その神学の総体像から言って本来的な処女作であり前期著作である『ローマ書』に連続させて、「神の神性において、また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」、それ故に「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人」は、換言すれば「聖書の主題であり、哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>(『ローマ書』「第二版序言」)を堅持できていないような人は、「今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」と述べている。したがって、あの「神への愛」と、「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請)という連関・循環を、あの他律的服従と自律的服従との全体性において生きるキリスト教的人間とは、「人間学の後追い知識」に過ぎない「和解主の心理学」、「和解された者の心理学なるもの」(人間学的神学)に立脚するキリスト教的人間ではないのである。ましてや現在、欧米を尖端性とした人間学は、ミシェル・フーコーが述べていたように危機に瀕しているのである。したがって、客観的に言って、欧米へ留学したことで箔を得たと考えている人間学的神学者は、すなわち「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」者は、全くの勘違いの中で神学し、幻想の中で自己満足しているだけなのである――「私に興味があるのは、(≪資本主義を経済的基盤とした人類史の尖端性としてある西欧的段階における≫)西欧の合理性の歴史とその限界です……」、「西欧思想の危機と帝国主義の終焉は同じものです」、そうした中で、「時代を画する哲学者は一人もおりません。というのも、……西欧哲学の時代の終焉であるからです」、人類史の発展段階から言えば「西欧とは、世界のある特定の地域であり、世界史上のある特定の時期にあるもの」で、近代以降において、世界普遍性を獲得した地域、「普遍性誕生の場」である、この意味で「西欧思想の危機とは、すべての人々の関心を引き、すべての人々にかかわり、世界のあらゆる国々の諸思想、あるいは思想一般に影響を及ぼす危機なのです」、「たとえばマルクシズムは、(中略)一つの思想形態……一つの世界ビジョン、一つの社会機構となりました。(中略)マルクシズムは現在、明白な危機のうちにあります。それは西欧思想の危機であり、革命という西欧概念の危機、人間、社会という西欧概念の危機なのです。それはまた(≪西欧が近代以降、人類史の尖端性として世界普遍性を獲得した特定の時空であるが故に、≫)全世界にかかわる危機……です」(M・フーコー『思考集成VII』「フーコーと禅」)。したがってまた、能天気な神学者や牧師たちは、このことを十分に認識し自覚していないことが問題である。したがってまた、「直接的な観照の対象、心理学の対象となり得るであろう……それは、ここでもあそこでも結局『肉』であり、それについてはヨハネ福音書六・六三に述べられている、肉は益なしが妥当する。それ故われわれは……キリスト論において、肉となった言葉(≪「神であり給う言葉が人間となったのであって、決して神性それ自体が人間となったのではない」、すなわちその内在的本質である神性の受肉ではなく、その第二の存在の仕方である言葉の受肉≫)にあくまで踏み止まらなければならなかった」のである。したがってまた、「事柄にそわない馬鹿げた振舞いに陥りたくないならば、われわれの肉との、あの救いとなる抗争における霊(≪あの総体的構造における客観的な「存在的な必然性」に包括された主観的な「認識的な必然性」≫)にあくまで踏み止まらなければならない」のである。「ヨハネ一・一四の言葉は肉となったという新約聖書の中心的命題」におけるその「言葉」は、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち「神的な創造主、和解主、救済主なる言葉」、「神の永遠のみ子」、「まことの神にしてまことの人間である」イエス・キリストのことである。その「キリストの神性」は、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして(下記の【注】を参照)、「啓示および和解におけるキリストの行為の中で認識することができる」のである。すなわち、その第二の存在の仕方における「啓示と和解」が、「キリストの神性の根拠ではなくて」、その内在的本質である「キリストの神性」が、「啓示と和解を生じさせる」のである。ここに一切合財があるのであって、「赦す神」は、たとえその人がまことの人間であっても「人間に内在することはない」のである。キリスト教宗教(教会や神の子どもたち)は、「決してそれ自身においてまことの宗教であるのではない」ように、「キリスト教的人間自身が、真理の主人となるわけではない」。したがって、もしも「教会や神の子供たち」が、イエス・キリストにおける神の自己啓示、「神の言葉」、「聖霊」、「信仰」の外部へ出たならば、人間的な実在と人間的な可能性に偏向したならば、換言すればキリストにあっての神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求(これこそ、「不信仰」、「無神性」、「真実の罪」である――『福音と律法』)もという「神人協力」を主張したならば、そうした「教会や神の子供たち」は、「抽象的に考察されたキリスト教的人間でしかない」ということを、それ故にその時には、「本来的な真剣な意味での真実の罪」、「真実の罪人」ということを、それ故にまた「義トサレタ罪人としてのキリスト教的人間」ということを、あの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比を通して自己認識・自己理解・自己規定することはできないのである。それに対して、「人が(≪客観的な「存在的な必然性」――その死と復活の出来事としての≫)イエス・キリスト(≪における「啓示の出来事」≫)にあって、(≪主観的な「認識的な必然性」――その啓示の出来事な中での主観的側面としての≫)聖霊(≪の注ぎによる「信仰の出来事」≫)を通して受けとる実在の啓示」(信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)は、「人間に向かって、彼が……本来的な意味で罪人であり、ただこの彼の身に対して起こる裁き(≪恵みに包括された裁き≫)の中で、裁き(≪恵みに包括された裁き≫)と共にだけ、それであるから自分自身の中でではなく、イエス・キリストにあって、神と和解せしめられ、したがって恵み(≪裁きを包括した恵み≫)を受けたキリスト教的人間」、「義トサレタ罪人」、「恵み(≪裁きを包括した恵み≫)を受けたものであるということを(≪あの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比を通して≫)語ることを止めないのである」。
【注】
イエス・キリストにおける神の自己啓示は、自己自身である神としての(ご自身の中での神としての)自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれは、神の不把握性の下にある)「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」(それ故に、「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」ではない)の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動)、すなわち起源的な第一の存在の仕方としてのイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解者、第三の存在の仕方としての神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――「啓示されてあること」・キリスト教に固有な客観的に存在しているイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間、「真に罪なき、従順なお方」「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」(「ただイエス・キリストの名だけ」)において、その内在的本質である「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示である。
そのような訳で、神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける神の自己啓示は、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による主観的な「認識的な必然性」(客観的な「啓示の出来事」の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)を包括した客観的な「存在的な必然性」(客観的な「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」)を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」(徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者。標準とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)という総体的構造を持っている。そうでないならば、神は、人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化され第一義化・価値化・絶対化された人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質に過ぎないものであるであろう、すなわち「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下でのキリストにあっての神としての神ではないであろう。
「まさに(≪イエス・キリストにおける神の自己≫)啓示の中でこそ、まさにイエス・キリストの中でこそ、隠れた神は、ご自身を把握できるものとし給うた」。しかし、そのことは、「決して直接的にではなく、間接的にである」、あの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる「信仰に対してである」、「その本質の中においてではなく、しるしの中においてである」、このように「とにかくご自分を把握できるものとし給うた」。その内在的本質が肉となったのでは決してなく、その「外に向かって」の外在的な第二の存在の仕方における「言葉が肉となった」――「これが、すべてのしるしの最初の、起源的な、支配的なしるしである」、換言すれば人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化されたに過ぎない「存在者」では決してなく、徹頭徹尾神の側の真実としてある、イエス・キリストにおける神の自己啓示としての、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方における言葉の受肉としての「存在者」である。したがって、それは、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」ではない、それ故にその対象からして「存在者レベルでの神への信仰」ではない。「このしるしに基づいて、このしるしのしるしとして」、「そのほかにも神の永遠の言葉の被造物的なしるしが存在する」。先ず以て第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)が「しるしのしるし」として客観的・可視的に存在している、また「教会に宣教を義務づけている」聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)が「しるしのしるしのしるし」として客観的・可視的に存在している。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストと地上における可視的なみ国」――「これこそ、神ご自身によって造り出された……神を直観と概念を用いて把握し、したがってまた神について語ることができる」「偉大な可能性」である。
「神の光であり、神の光のみであるし、あり続ける」――この「神の光の中」で、われわれは、「自分の現実存在」を、あの総体的構造に基づいて、あの「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関・循環において、神に向かっての・神のための「自由な決断と規定の行為の中で絶えず実現してゆこうとしている存在を、みる」。「(和協信条)人間ハ堕罪ノ後モ、理性的な被造物デナクナッテシマッタワケデハナイ。(中略)ただしかしまさに、霊的ナ、神的ナ事柄ニオイテハ、(中略)彼ガ聖霊ヲ通シテ心ガ照ラシ出サレ、回心サセラレ、生マレカワラセラレル以前ニハ、自分の罪に対する神の怒リ、死と地獄を通して自分が脅かされていることを見てとることができず、すべての警告や教示をうけとることができない限り、彼はどうしてもそのようなものである。(中略)ナゼナラバ、彼ハ神ノ意志ニ対シテ反逆シ、敵意ヲ抱イテイルカラデアル。(中略)……理性的な被造物として、人間は神的な行為の対象となる。(中略)主ナル神ハ、人間ノ暗クサレタ理解力が明ルクサレ、彼ノ転倒シタ意志ガ従順ナ意志ニ変エラレルトイウ仕方デ、人間ヲ引キヨセ給ウ。(中略)神が聖霊ニヨッテソノ人間ヲ導キ、支配シ、治メ給ウ程度ニ応ジテ、ソノ限リ、人間の回心は起こることができるし、起こるべきである」。このことが生起するためには、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な「存在的な必然性」に包括された主観的な「認識的な必然性」を前提条件とした(客観的な「啓示の出来事」と主観的な「信仰の出来事」、「啓示と信仰の出来事」に基づいた)客観的な「存在的なラチオ性」に包括された主観的な「認識的なラチオ性」(徹頭徹尾聖霊とどういつではないところの、聖霊によって更新された人間の理性性)を必要とする。このように、「啓示の恵みは、人間の人間性を通して条件づけられていない。むしろまさに人間の人間性こそ、啓示の恵みを通して条件づけられている」のである。「神の自由」は、「人間の自由を抑圧し、消し去ってしまわない」。「神の自由」は、「人間に向けられた神のいつくしみの自由である」。したがって、「神がその自由を、まさに自由な人間に対してこそ、実証し、確証するということ、それが啓示の恵みである」。あの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)を授与された人間は、主観的な「認識的なラチオ性」を包括した「存在的なラチオ性」――すなわち、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下でのその途上性において、絶えず繰り返し、あの他律的服従と自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求め続けて行くことができる、そういう仕方で深化させられ豊富化させられた信仰的神学的宣教的な成果を、キリスト教に固有な類の時間性に時間累積させて行くことができる。
そのような訳で、バルトは、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において(≪キリスト教に固有な純粋な教えとしての≫)『教義そのもの』を尋ね求めた」のである(『啓示・教会・神学』)。第三の形態の神の言葉における教会の宣教の一つの補助的機能としての「釈義神学による聖書的教えの認識・概念」も、キリスト教的な神についての語りの「先ず第一義的に優位に立つ原理」・「規準」としての「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであるイエス・キリストと同一ではない。したがって、教義学は、第二の形態の神の言葉である「使徒や預言者たちが語ったことを問うのではない」。何故ならば、第二の形態の神の言葉である「使徒や預言者たちが語ったこと」は、「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであるイエス・キリストと同一ではないから、もしも彼らが語ったことをそれとして問うことをしたならば、それは、彼らが対象化し客体化したそれを問うことになってしまうからである。したがって、「教義学そのもの、また神についての教会の語り」は、あの総体的構造に基づいて、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である「『使徒と預言者たちに基づいて』(≪聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、≫)何をわれわれ自身が語るべきかを問わなければならない」。その時だけ、「キリスト教的語りは今日何を語ることがゆるされ、語るべきかを問うよう自分が要請され・命じられていることを知る」。「教義学そのもの、また神についての教会の語り」は、「信仰のない人間の、信仰にさからう理性を用いての語りである」が、「教義学そのもの、また神についての教会の語り」が、「神についての語りをはかる規準を、イエス・キリストの中で、受けとる限り、教義学は真理の認識として可能となる」。その時には、「教義学そのもの、また神についての教会の語り」は、「人間的な問いの中で、人間的な問いと共に、人間的な問いのもとで、……神的な答えについて語ることができる」――Tコリント12-13「あなたがたは、めいめい、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』などと言い合っているとのことです。キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか」、「私の思想はいかなる場合にも一つの点において常に同じであるということである。いわゆる(≪人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された「存在者レベルでの神への信仰」としての≫)『宗教』が私の思惟の対象・根源・規準ではなく、むしろ、……神の言葉(≪「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであり、「まさに顕ワサレタ神ことが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」≫)こそ私の思惟の対象であるという点では少しも変わってはいない。(≪第三の形態の神の言葉である≫)キリスト教会、その神学、その説教、その伝道を基礎づけ、維持し、支えてきた神の言葉、(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である≫)聖書において人間に……あらゆる時代、あらゆる国、生のあらゆる段階と状況の人間に語りかける……神の言葉、神との関係における人間の秘義……ではなくて、人間との関係における神の秘義である神の言葉……それこそが常に私の思惟の対象なのである」(『バルト自伝』)。