3の2(その1).『教会教義学 神の言葉U/2 第2章 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』
3の2(その1).『教会教義学 神の言葉U/2 第2章 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』(180-233頁)
再推敲・再整理版です。
この『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』について、さらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります。
https://karl-barth-studies5.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。
「十七節 宗教の揚棄としての神の啓示――一 神学の中での宗教の問題」(180-233頁)
バルトは、「不信仰としての宗教」について、次のように述べている。
「宗教および諸宗教についての神学的な、特に、その考察方法と価値判断」は、常に後続すべきわれわれの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として常に先行する「本源的な客観性」――すなわち、起源的な第一の形態の神の言葉であり、「啓示ないし和解の実在」そのものである、「人間的な実在と人間的な可能性における宗教の主体としての人間を見、理解し、真剣に受けとることができる」ところの、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方――すなわち、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける神の自己啓示(下記の【注1】を参照)にある。したがって、「彼がそのことを知っているか知らないでいるかはともかくとして」、そのことは、聖書によれば、「本源的な客観性」としてある「イエス・キリストが生まれ、死なれ、甦えられた人間である」というその起源的な第一の形態の「神の言葉の中において語られている」から、「宗教および諸宗教についての神学的な考察方法と価値判断」は、「自分の主をもっている人間として」、そして「あくまでもそのような人間のひとつの生活表現および行動として見、理解し、真剣に受けとることができる」ところのイエス・キリストにおける神の自己啓示の場所にある。したがってまた、イエス・キリストにおける神の自己啓示の場所においては、その「啓示とともに確かに与えられている、まことの宗教の場所としての教会」・「キリスト教宗教」が、「人間的宗教の成就された本質であるかのように、あるいは……ほかの諸宗教と比べて根本的にたちまさった、まことの宗教であるかのように、理解されることは決してできない」という認識も得てくるのである。事実、イエス・キリストにおける神の自己啓示の場所は、現存してきた、また現存している自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと」、「われわれに管理されるプログラムへと」、「鋭さをなくした十字架象徴論へと」、「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎない神秘主義へと変わって行くこと」が見渡せる場所である。また、それは、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教におけるキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法が、「自然法」や「理念」や「民族法」や「大規模な世界改良の偉大な計画」や「ある種の正義」や「道徳的な諸原理」やある「特定の人種や民族」への配慮や人間自身によって恣意的独断的に考え出された「救いの計画と救いの方法」・「平和の計画と平和の方法」やある主義・体制やある社会構成・支配構成や政治的近代国家の法的政策的言語等々へと転倒されて行くことが見渡せる場所である。すなわち、それらは、余りに人間的であるにもかかわらず、例えば観念の共同性を本質とする国家の無化を伴う個体的自己としての全人間の社会的な現実的な究極的総体的永続的解放という革命の究極像を持たない水準のものである、またそれらは、戦争全廃――すなわち平和の実現を標榜しながら、戦争の元凶である民族国家の死滅を明確に提起でき得ていない水準のものである。
【注1】
イエス・キリストにおける神の自己啓示は、自己自身である神としての(ご自身の中での神としての)自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれは、神の不把握性の下にある。Tコリント13・8以下)「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の(それ故に、「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」ではない)、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動――父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体)における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間、「真に罪なき、従順なお方」「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」(「ただイエス・キリストの名だけ」)において、その内在的本質である「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示である。
そのような訳であるから、ただ単なるキリスト教的な建造物を持った宗教法人法における一つの宗教的組織、制度としての教会は、それ自体としては、「まことの宗教の場所であるわけでは決してない」のである。したがって、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な「教会は、(≪あの総体的構造に基づいた≫)恵みを通し、恵みによって生きるし、まさにその限り、まことの宗教の場所であるということを……強調しなければならない」のである。言い換えれば、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会は、あの総体的構造(下記の【注2】)におけるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下でのその途上性において絶えず繰り返し、それに対する他律的服従とその決断と態度としての自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(下記の【注3】を参照)という連関・循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指して行くという限りにおいて、換言すればイエス・キリストの教会は、人間の恣意的独断的な自由事項・決定事項における実体ではないから、またイエス・キリストの教会は、ただ単なるキリスト教的な建造物を持った宗教法人法における一つの宗教的組織(制度としての教会)ではないから、あのような仕方で、常に絶えず繰り返し、教会<となる>ことによって教会<である・であろう>とする限りにおいて、「まことの宗教の場所であるということを……強調しなければならない」のである。
【注2】
神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける神の自己啓示は、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による主観的な「認識的な必然性」(客観的な「啓示の出来事」の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)を包括した客観的な「存在的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」)を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」(徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)という総体的構造を持っている。そうでないならば、「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」(『フォイエルバッハ全集第12巻』「宗教の本質にかんする講演 下」)であろう、キリストにあっての「(中略)神の啓示の内容は、(≪キリストにあっての≫)神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した」ものに過ぎないであろう、それ故にその「対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』」であろう(『キリスト教の本質』)。
「まさに(≪イエス・キリストにおける神の自己≫)啓示の中でこそ、まさにイエス・キリストの中でこそ、隠れた神は、ご自身を把握できるものとし給うた」。しかし、そのことは、「決して直接的にではなく、間接的にである」、あの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる「信仰に対してである」、「その本質の中においてではなく、しるしの中においてである」、このように「とにかくご自分を把握できるものとし給うた」。その内在的本質が肉となったのでは決してなく、その「外に向かって」の外在的な第二の存在の仕方における「言葉が肉となった」――「これが、すべてのしるしの最初の、起源的な、支配的なしるし(≪人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化されたに過ぎない「存在者」では決してなく、徹頭徹尾神の側の真実としてある、イエス・キリストにおける神の自己啓示としての、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方における言葉の受肉としての「存在者」≫)である」(それ故に、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」ではない、それ故にその対象からして「存在者レベルでの神への信仰」ではない)。「このしるしに基づいて、このしるしのしるしとして」、「そのほかにも神の永遠の言葉の被造物的なしるしが存在する」。先ず以て第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)が「しるしのしるし」として客観的・可視的に存在している、また「教会に宣教を義務づけている」聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)が「しるしのしるし」として客観的・可視的に存在している。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストと地上における可視的なみ国」――「これこそ、神ご自身によって造り出された……神を直観と概念を用いて把握し、したがってまた神について語ることができる」「偉大な可能性」である。
【注3】
イエス・キリストにおいて成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この救済概念は、平和の概念を包括している――寺園喜基の私訳の「『平和に関するバルトの書簡』をめぐって」を参照されたし)に包括されていない人間自身によって恣意的独断的に考え出された過渡的部分的相対的な「救いの計画と救いの方法」・「平和の計画と平和の方法」による通俗的な意味での隣人愛ではないということは、次のような思惟と語りを考えればよく理解できることである――マタイ26・6-13、マルコ14・3-9におけるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストの言葉、また客観的な正当性と妥当性とをもった根本的包括的な原理的な、宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(『農業芸術概論綱要』)、全体(個体的自己としての全人間)が幸せにならなければほんとうの幸せとはならないという『よだかの星』の課題における思惟と語りおよび親鸞の思惟と語り(「吉本隆明 親鸞論」を参照)を考えればよく理解できることである。
通俗的な意味での余りに人間的な隣人愛は、過渡的課題と究極的課題との全体性において思惟し語られてはおらず、ただ余りに人間的な過渡的課題における緊急的部分的相対的な救済だけを、拡大鏡にかけて全体化して思惟し語られたものである。しかも、それは、余りに人間的であるにもかかわらず、例えば観念の共同性を本質とする国家の無化を伴う個体的自己としての全人間の社会的な現実的な究極的総体的永続的解放という革命の究極像を持たない水準のものである、またそれは、戦争全廃――すなわちすべての隣人のための平和の実現を標榜しながら、戦争の元凶である民族国家の死滅を明確に提起でき得ていない水準のものである。われわれの立場は、神の側の真実としてある主格的属格として理解されたローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・「律法の完成」そのもの(『福音と律法』)、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの(『ローマ書新解』)、それ故にイエス・キリストによって成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この救済概念は、平和の概念を包括している)そのものである「ただイエス・キリストの名だけ」に感謝をもって信頼し固執し固着するというところにある。したがって、キリスト復活から復活されたキリストの再臨(終末、「完成」)までの聖霊の時代における、終末論的限界の下でのその途上性における、あのような仕方における純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法――すなわち神の命令・要求・要請は、換言すれば「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、<教会>が<教会自身>と<世>に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」は、すべての人々があのような仕方における純粋な教えとしてのキリストの福音を現実的に所有することができるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えにあるのである。このように思惟し語るバルトの場合は、それが社会的な事柄であれ政治的な事柄であれ、「かつて語った(≪あの総体的構造に基づいて純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求めづづけたところでのキリストの福音についての≫)説教(≪言葉≫)の一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから(≪必然的に≫)実践に、決断に、行動になって行った」のである。その時には、明治期のアイヌ人が「使っている煙草入れや煙管入れを二ドル半で買いたいと言うと、それらは一ドル一〇セントの値打ちしかないから、その値段で売りたい」という、また「ある一軒の家が焼け落ちた」時には、「村の男たちが総出でその家を建て直すことをならわしとしていた」という、また「彼らは雨宿りを頼むと、どんな貧乏な家でも、一番よい席を提供してくれた」という、また「彼らは善悪・道徳の観念、高度な宗教をもたないが、誠実、高貴、立派な生活を送っている」し、総体として「純潔であり、他人に対して親切であり、正直で崇敬の念が厚く、老人に対して思いやりがある」というアイヌ人の内在的な精神を知ったイザベラ・バードは、明治期の日本人たちを「見て感じるのは堕落しているという印象である」、「わが西洋の大都会に何千という堕落した大衆がいる――彼らはキリスト教徒として生れ、洗礼を受け、クリスチャン・ネーム名をもらい、最後には聖なる墓地に葬られるが、アイヌ人の方がずっと高度で、ずっとりっぱな生活を送っている」と揶揄して述べているが、そのイザベラ・バードから、そのような揶揄はされないであろう(『日本奥地紀行』)。何故ならば、バルトは、救済および平和について、徹頭徹尾全面的な神の側の真実としてある究極的包括的総体的永遠的なそれと過渡的部分的相対的緊急的なそれとの全体性において思惟し語っているからである。
したがって、キリスト教宗教および諸宗教についての「まことの神学的考察」(その「考察方法と価値判断」)は、「賢者ナタンとレッシングが確執(≪党派性≫)を解消させるために提案した道――すなわち通俗的な『おのおの偏見によって汚されない、清い、公正な愛を目指して努力する』という道」にはないのである。何故ならば、「神学的に……換言すれば啓示から……見た場合、(≪その神学的考察は≫)ただますます深く確執の中に落ち込むだけだからである」(人間は「公正な愛」や寛容の精神だけで生きているわけではないし、現実的に時代状況的に価値意識・価値観が多様化すれば、関係意識は衰退・解体して行くし、共同性統括力も衰退・解体して行くから、党派的多元主義が登場して来るだけだからである)。したがって、通俗的な「公正な愛」や寛容の精神によるエキュメニカル運動の企ても、その最初から敗北必至のそれである、換言すれば最後的には党派的多元主義の容認に辿り着くだけの企てである。何故ならば、その「清い、公正な愛」・「偏見から解放された……愛」自体が、「人間的な実在と人間的な可能性」の一面だけを形而上学的に抽象し固定化し絶対化(全体化)した「人間的な宗教」に過ぎないからである。現存する現実や時代状況からして、そのような党派的な「争いが、いつでも(≪どこでも≫)……はじまりうる」のである。したがって、キリスト教宗教および諸宗教についての「まことの神学的考察」(その「考察方法と価値判断」)は、通俗的な「中庸を得た態度」や「啓蒙主義的な知ったかぶり」や「歴史的な懐疑主義」や党派的多元主義等の「相対主義」にはないのである。何故ならば、そこでは、キリスト教宗教および諸宗教が、党派的なキリスト教宗教および諸宗教を、根本的包括的に原理的に揚棄して行くという課題を「真剣に受けとる」ことができないからである。
さて、「宗教は、不信仰であるという命題」は、「宗教学的判断」や「宗教哲学的判断」ではない。すなわち、それは、あの総体的構造におけるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である「聖書(≪その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」≫)の中で証しされている啓示」における「神的な判決(≪裁き≫)としての命題」である。この「不信仰としての宗教」は、『福音と律法』によれば、キリストにあっての神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己表現・自己義認の欲求もという人間の無神性・不信仰・真実の罪に基づいたそれのことである。したがって、この「宗教は、不信仰であるという命題」は、あくまでも、神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける神の自己啓示の場所に、その「由来を持っている」。したがって、諸宗教だけでなくキリスト教宗教も、「人間的宗教の世界の中で、神が裁きつつ、しかしまた和解させつつ、現臨し給う」というイエス・キリストにおける神の自己啓示の場所において、「人間が神から攻撃され、神によって判決が下され、裁かれることが問題にされている」し、「われわれの現実存在の全体と最後的なもの(≪人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された「存在者レベルでの神への信仰」、偶像崇拝、人間の宗教的意識・行動、宗教性≫)が問いに付されているのである」。このように、「宗教は、事実、不信仰であるということを理解するためには、われわれは宗教を、(≪第三の形態の神の言葉である教会の思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者であるところの、第一の形態の神の言葉自身であるイエス・キリストを起源とする第二の形態の神の言葉である≫)聖書の中で証しされている啓示(≪起源的な第一の形態の神の言葉であり、「啓示ないし和解の実在」そのものであるイエス・キリスト自身≫)から……みなければならない」のである。この時、われわれは、「総じてすべての人間的なもの」は、人間自身である「われわれの裁きの下に立つのではなく」、神の側の真実としてあるあの総体的構造に基づいた「神的な判決の下に立つ」し・「立たされている」し・「立たされる」のである。
「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下における神の側の真実としてあるキリストにあっての啓示は、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方(働き・業・行為、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)であるから、その「啓示は、(≪「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の≫)神がご自身をあらわし、明示し給うことである」。したがって、この啓示は、人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された「存在者レベルでの神への信仰」――すなわち、「不信仰としての宗教」を、総括的に言えば自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教における「不信仰としての宗教」を、「実際的な、事実的な必然性に基づいて、普遍的、全面的に、無益」化してしまうのである。この「無益」化を、「啓示に固有な証明能力」を持っている、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を持っている「本源的な客観性」としてのキリストにあっての啓示は、「人間の身に生じさせる」のである。
われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方である「啓示の中で、(≪自己自身である神としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神としての≫)神は、人間に向かって、ご自分が神であり、そのような方として……人間、の主であることを語り給う」。その「啓示は、それと共に、人間に向かって徹頭徹尾新しい何ごとかを語る」、その「啓示」は、例えば「神に敵対し神に服従しないわれわれ人間は、肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」ということを、また「神に対する人間的反抗」、「罪深い堕落した人間」、「そのような人間の世」ということを、またわれわれ人間は、キリストにあっての神を、生来的な自然的な「『自分の理性や力(≪知力、感性力、悟性力、意志力、想像力等≫)によっては』全く信じることができない」ということを、また生来的な自然的な人間の身体・肉体と精神・意識を介した普遍的で実践的な全自然(自己身体、性としての他者身体、人間化された自然としての人間的自然を含めた宇宙・天然自然としての外界)との相互規定的な対象的活動によっては、その自然史的成果(例えば、拡大・高度化する経済社会構成、進歩・発達する科学や技術およびその知識の細分化と増大、人間にとって部分でしかない科学を全体化する科学主義は近代の宗教的形態である、ちょうど人間にとって基盤となるものではあるが部分でしかない経済を全体化する経済決定論がそうであるように)とそこから疎外された観念諸形態(観念の共同性を本質とする宗教―法―国家、文学、哲学、歴史学、心理学等々)によっては、「全く信じることができない」からである、すなわち「彼が啓示なしには知っておらず、ほかのものと自分自身に向かって語ることができない何ごとかを、語る」。「人間が神を実際に認識することができるとするならば、その時このできるということは、神が(≪「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、あの総体的構造に基づいて≫)ご自身を人間に認識すべく与え給うが故に、神がご自身を人間に対し現わされ、明示されたが故に、事実、人間は神を認識する」ことができる。したがって、「人間的な実在と人間的な可能性」に基づいては、総括的に言えば、自然的な信仰・神学・教会の宣教によっては、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰を与えられることは、「実際的な、事実的な必然性に基づいて、普遍的、全面的に」、その最初から不可能なのである。「教会は、(≪あの総体的構造に基づいて≫)人間が神に聞くというこの一事によって――神が人間に語り給うゆえに聞き、神が人間に語り給うこと(≪徹頭徹尾神の側の真実としてある、あの主格的属格として理解された「イエス・キリストの信仰」、インマヌエルの出来事、イエス・キリストの死と復活の出来事≫)を聞くというこの一事によって、基礎づけられ、支えられているのである。(中略)このことが起こるところ、そこではたとえ二人三人の集まりであっても、またこの二人三人が決して選り抜きの人でなくても、また高い水準にさえ達していなくても、またむしろ人間の屑に属する者であるようなことがあっても、教会は存在する」、したがって、そうでない場合は、「どのような大群衆をその中に擁し、どのように優れた個人をその中に擁していても(≪あの総体的構造に基づいていないが故に≫)教会は存在しない。(≪したがって≫)また、それが、もっとも豊かな生命を示し、国家と社会において、どのように尊敬されようとも教会は存在しない」(『啓示・教会・神学』)。何故ならば、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教、その一つの補助的機能としての神学における思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」からである(『教会教義学 神の言葉』)。
キリスト教に固有なキリストにあっての「啓示は、中立的な状態の中にあるわれわれに出会うのではなく、……啓示に対して、全く特定な仕方で……決定的な仕方で関係している行為に従事しているわれわれに出会う」のである。何故ならば、例えば「中立的な観察者」が、「中立的な観察者」として、「聖書の中に証しされている啓示の『史実的な』確かさを問う問い」は、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である「聖書にとっては、全く縁遠いものであり、聖書の証言の対象にとって異質なものである」からである、しかし第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的証言に対して、それをあの総体的構造に基づいて「聞くもの、見る者、信じる者である<非中立的な観察者>」にとっては、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストにおける啓示、そのイエス・キリストを起源とする第二の形態の神の言葉である聖書、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の宣教の中に、「同時に啓示の秘義があったし、あり続けた」からである。それ故にその「非中立的な観察者だけ」が、「聖書の中の歴史について、史実的には全く何も確かめられないということ知らされたし」、その「非中立的な観察者だけ」が、「中立的な観察者」の「『史実的な』確かさを問う問い」においては、「啓示の出来事にとって重要でないものだけ」しか、「啓示とは別の何かだけしか確認できないということを知らされた」からである(『教会教義学 神の言葉』)。このような訳で、キリストにあっての啓示は、「人間的な実在と人間的な可能性」に依拠し偏向した「中立的な観察者」のような「宗教的人間としてのわれわれに出会う」のである。したがって、あの総体的構造に基づいて「信じる者こそ」は、「自分は信仰から信仰に来たとは言わず」、「まさに不信仰から(≪神のその都度の自由な恵みの決断によるあの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいて≫)信仰に来たと言うであろう」。言い換えれば、その「信じる者こそ」は、キリスト教に固有なキリストにあっての「啓示を通して、(≪あの総体的構造に基づいた≫)啓示を信じる信仰の中で」、「啓示に逆らう抵抗としての宗教の正体が暴露されている」のである、「人間が我意的に、わがまま勝手に自らがえがき出した神についての像(≪人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された「存在者レベルでの神」、偶像≫)をおし込もうとする人間の企てとしての宗教の正体が暴露されている」のである。すなわち、「信じる者こそ」の信は、徹頭徹尾神の側の真実としてある主格的属格として理解された「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)としてのイエス・キリスト(「啓示ないし和解の実在」そのもの)において、不信仰が否定的に媒介された、不信を包括した信なのである。まさに、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけ」なのである。われわれ人間は、「そのままでは恵みを受け取る状態にはない」し、また「自分でそのような状態にすることもできない」。したがって、「もし人がその恵み(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)を受け取り得たとすれば、そのこと自体が恵みである」。すなわち、「私たちの召命・義認・聖化」は、「人間的な実在と人間的な可能性」において「私たち自身の中に生起するのではなく」、徹頭徹尾全面的に、「イエス・キリストの御業として、(≪あの総体的構造に基づいて≫)私たちのために、私たち自身の中に生起する」のである(『カール・バルト著作集3』「神の恵みの選び」)。
思惟に思惟を重ねて具体的普遍の頂へと高次化して、その頂を極めた思惟は、自然から完全に超出した精神であるから、その「精神は、また精神自体としては神と全く同一である」(『ヘーゲル』)、人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能、人間の自由な内面の無限性――すなわち、「人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である。人間は思惟する、すなわち人間は会話をする、人間は自分自身と話をする。動物は自分以外の他の個体がいなければ類の機能をひとつもはたすことはできない、しかし人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかという類的機能……を果たすことができる」、したがって「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である」、したがってまた「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識」であり、「(中略)神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は(≪人間的理性や人間的欲求やが対象化し客体化した「存在者レベルでの神」を対象とした≫)人間学以外の何物でもない!』……」(『キリスト教の本質』)。このような訳で、神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、あの総体的構造に基づいて与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比を通して、あの総体的構造における三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下でのその途上性において絶えず繰り返し、それに対する他律的服従とその決断と態度としての自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求め続けて行かないならば、また「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を堅持し続けて行かないならば、「人ノ才能ハ、……永久ニ偶像ノ製造工場デアル。……偶像ハ精神ガ生ミ、手ガ造リ出スモノデアル(カルヴァン)」。「啓示の真理」は、「本源的な客観性」であるキリストにあっての啓示の「真理そのものを通してだけ(≪キリストにあっての「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、あの総体的構造に基づいてだけ≫)われわれのところに来ることができる」のである。
さて、バルトは、「偶像とは」、人間自身が「自分自身の現実存在の彼岸において(≪「啓示にとって代わる代替物を自ら造り出すこと」において≫)、「人間的な実在と人間的な可能性」における「人間の宗教的な能力」の中で、「そのものからして彼はまた自分自身措定されているとして、あるいは少なくとも自分が規定され、条件づけられているとみなす」「本来的な最後的な、決定的なものを想定」し、造り出した「実在……のことである」と述べている(≪何故ならば、その観念を疎外した主体はこちら側にあるにも拘らず、その主体が、その観念を自己還帰できずに、自ら第一義性・価値性を、向こう側に、すなわち人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」の側に移行させてしまうからである、それ故にこの疎外は、自己還帰しない観念として、疎外の止揚ではなく、転倒そのもの、逆立そのもの、疎外そのものである≫)」――「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である」(『キリスト教の本質』)。したがって、「人間的な実在と人間的な可能性」に依拠し偏向した宗教は、「啓示に対する言い逆らいであり、人間の不信仰のどぎつい表現であり、換言すれば、信仰に真っ向から相反する態度と行動である」・「真理の認識、神認識を自分で造り出そうとする無力な、それでいて反抗的な、傲慢な、それでいてまた何の役にも立たない企てである」。「カレラハ、神ガ(≪神の側の真実として≫)神自身ヲ啓示シタモウママニ神ヲ把握セズ、自己ノ無思慮ニヨッテデッチ上ゲラレタママヲ神トシテ想像スルノデアル(カルヴァン)」。
神の側の真実としてあるキリストにあっての「啓示」は、「既に(≪徹頭徹尾神とは全く異なるすべての被造物によって全面的に左右されない、「本源的な客観性」として≫)存在しており、実証された人間の宗教とは結びつかず」、「宗教に対して真向から抗弁する」、そして「宗教を除去する」、宗教を揚棄する。したがって、あの総体的構造に基づかない、「偽りの信仰」、「不信仰に対して」、「あくまで逆らい」、その「偽りの信仰」、「不信仰」としての宗教を「除去し揚棄しようとする」。
「旧約聖書における異教的な諸宗教の拒否」は、「人間自身が自分の神の創造者(≪人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された「存在者レベルでの神」の創造者≫)として存在していた」「偶像礼拝に対して向けられていた」(エレミヤ一〇・一−一六、イザヤ四四・九−二〇)」。すなわち、それは、「偶像礼拝の禁止を意味していた」。何故ならば、ヤハウェは、「その名が聖であるが故に」、「ヤハウェの像を造っておがむことは許されない」し、「いかなる人間の業によっても模造されることができない」からである。この事柄に関して、新約聖書で「注目すべき箇所は、ローマ一・一八以下、使徒行伝一四・一五以下、一七・二二以下である」。「『神はご自身を啓示し給う』という命題」は、「『神はわれわれのための時間を持ち給う』という命題」と同じ意味であるが(「神の意志」、は、「神ご自身」が、「恵み」と「裁き」という「単一性と区別」(区別を包括した単一性)において、「失われた非本来的な」「否定され」「攻撃される」べきわれわれの「世、歴史、社会の(≪その時間の≫)ただ中に突入して来た」と同じ意味であるが)、その「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける啓示の時間――その「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」としての「本来的な実在の『成就された時間』」は、「まことの現在」(ここに、「まことの過去とまことの未来が存在する」)として存在している。したがって、「『神が、すべての国々の人をして、それぞれの道を行くままにしておかれた』時代は過ぎ去った(使徒行伝一四・一六)」・「神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今は(そこではいってきたイエス・キリストの今の中で、イエス・キリストの今とともに)、どこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる(使徒行伝一七・三〇)」のである。何故ならば、イエス・キリストにおける啓示の場所は、「単一性と区別」(区別を包括した単一性)において、「罪の赦しが明らかになるところ」(恵み)であると同時に、「罪が正体を暴露され、判決が下され、罰せられる」ところ(裁き)でもあるからである。われわれは、あの総体的構造を持っているイエス・キリストにおける神の自己啓示において、「神の選び」を「イエス・キリストの復活において認識し」(「われわれ人間の更新を可能とする」のは、「今日に至るまで罪人の手に渡され・十字架につけられ・死んで甦られ給うたイエス・キリストにある復活の力」である)、「神の放棄」を「イエス・キリストの十字架において認識する」(「人間の不信心と不義」の認識とそうした人間に対する「神の怒り」を認識する)。
そのような訳で、「不信心と不義」は、生活に重きを置く生活者における「世俗的態度」のことではなくて、哲学・道徳、理念、体制、観念の共同性を本質とする宗教―法―国家等々、人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化されたに過ぎない「存在者レベルでの神」(偶像)を「神的なものとして……捧げる」「人間の神奉仕」のことである。すなわち、「人間のまさに最上の行為とみなされているもの、……ほかならぬこの人間の神奉仕(≪偶像崇拝≫)こそ」が、「不信心であり不義である」。この時、「彼らの敬虔さは『悪霊をおそれかしこむこと』(使徒行伝一七・二二)でしかない」・「彼らは、その本質において神ならぬ神々に(ガラテヤ四・八)仕えている」のである。このことを、トゥルナイゼンは、『ドストエフスキー』で的確に言い表している――「彼岸の消尽点が画の中に移され、神自身が人間の霊魂的な、また歴史的な現実の構成要素となり、従ってもはや神ならぬもの、偶像となる。これが特に危険な反乱であり、神への『反逆』である。その危険なわけは、それが、ごうまんにも神を忘れた公然たる反抗として行われず、実に神の名において、神の呼びかけのもとに行われるからである」、と。このことは、「以前には、旧約聖書の預言の中での啓示から」、「背き去ったイスラエル人についてだけ言われなければならなかった……が、今度」は、「キリストにあって、既に起こり、成就した啓示から」、「すべての人間について言われなければならないのである」。「キリストが現れ、死に、甦り給うたことによって、すべての人間にとって神の恵みは出来事として起こったのであり、それと同時にまたすべての人間は、彼らの存在と行為に対して責任あるものとなり、しかもこの出来事の光の中で明らかになってくる彼らの存在と行為に対して責任を追求されるものとなる。なぜならば、この恵みの出来事こそが言うまでもなく、真理の自己啓示であり、したがってそれはまた最も深い、最後的な、あるがままの姿の人間」、すなわち啓示の「真理に逆らう抗争を行い続ける人間についての真理の自己啓示だからである」。したがって、このことは、あの総体的構造に基づいた「キリストを宣べ伝える宣教の中で、キリストを宣べ伝える宣教とともに、起こるのである」。「われわれは(≪イエス・キリストにあって「神は、……われわれひとりびとりに遠くはなれてい給わない」その≫)神の中で生き、動き、あり、(≪それ故に≫)……この神をわざわざ探し求める必要など少しもない」のであるから、啓示の「真理に逆らう抗争という『空しいものから生ける神に立ち帰る』(使徒行伝一四・一五)以外に何も残されていないのである」。このような訳であるから、われわれは、結局は「人間学の後追い知識」にしか過ぎないところの、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」を必要としないのである、われわれは、教会の宣教、その一つの補助的機能としての神学は、徹頭徹尾キリストにあっての「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、あの総体的構造を必要とするのである(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)。
「人は次のことによく注意せよ」――「あれほどしばしばあらゆる種類の可能な自然神学への許容、あるいは要請として理解されることのある」、例えば「ローマ一・二〇」の言葉は、その「言葉の中でその時代のどのような哲学思想がほのめかされているとしても、その言葉(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉、その最初の直接的な第一の「イエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」≫)は、あくまでも、使徒の宣教の構成要素であるということである」。言い換えれば、その言葉は、天然自然や人間化された自然である人間的自然や生来的な自然的な「人間的な実在と人間的な可能性」を契機として「神を知ることができる」ということではなくて、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、あくまでも「目に見えない」不可視的な「神の永遠の力と神性」を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における起源的な第一の存在の仕方である父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事(業・働き・行為)において、可視的に「現れている被造物」という認識において、「神を知ることができ」るということである。したがって、その言葉は、「あらゆる種類の可能な自然神学(≪自然的な信仰・神学・教会の宣教≫)への許容、あるいは要請ということを決して意味してはいない」のである。したがってまた、パウロは、彼らは、「自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間(≪人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」≫)や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替え」、「神の真理を変えて虚偽とし、創造者の代わりに被造物(≪天然自然や人間化された自然である人間的自然やあの「存在者レベルでの神」≫)を拝み(≪偶像崇拝し≫)、これに仕えたのである」(ローマ一・二二、二三、二五)と述べたのである。すなわち、「パウロは、異邦人はこのように神に背き去っているにもかかわらず、神についての『自然的な』認識の残りをもっていたなどということについて、一言もふれていない」のである。「むしろパウロは何の留保もなしに、この背きに対していまや神の怒りが啓示された」と述べたのである。言い換えれば、神の側の真実としてある主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」に根拠づけられた「キリストにあっての神の義の啓示(ローマ一・一七、三・二一)において何が問題であるかと言うことを明らかにするために、パウロはローマ一・一八から三・二〇にかけて、この同じひとつの啓示はまた神の怒りの啓示(≪「恵み」に包括された「裁き」≫)でもあることを思い出させている」のである。すなわち、「まさにわれわれの身に起こる恵みがわれわれに向かって語られる時」、そのことと共に、「恵み」と「裁き」という「単一性と区別」(区別を包括した単一性)において、「またわれわれが全く裁きに渡されていることが見てとられ、信じられなければならないのである」。この「単一性と区別」(区別を包括した単一性)における「恵み」と「裁き」は、偶像崇拝において、「最上の行為、神を拝むという行為に従事している」「異邦人とユダヤ人に対して、ユダヤ人と異邦人に対して、妥当する」のである。何故ならば、「キリストが生まれ、死に、甦えられたが故に、抽象的な、それ自身において閉じられ、憩う異教主義はもはや存在しない」からである、ユダヤ人も異邦人も「キリストの十字架を通して神の約束の下に、しかしまた神の命令の下に、おかれている」からである(ローマ一・一六、二・九)。
「異邦人の状態はユダヤ人の状態と同様に、キリストの死と甦えりの後ではそれ以前と比べて、まさに客観的にみて、別なものになった」のである。何故ならば、「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んで」おり、「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」・時間は、「新しい世」・時間のはじまりである復活へと向かっているからである。
バルトは、イエス・キリストにおける啓示の場所において、次のように述べるのである――「もはや、攻撃されない、相対的に可能な、言い逃れの余地のある異教主義(≪全キリスト教内部にもあるそれを含めて≫)は存在しない。啓示が姿を現すことによって、啓示の光が異教主義(≪全キリスト教内部にもあるそれを含めて≫)の上におちることによって、異教の宗教(≪全キリスト教内部にもあるそれを含めて≫)は、啓示に逆らう敵対者として、不信仰のいつわりの宗教として、篩にかけられ、正体が暴露されるのである」、と。