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3の1(下).『教会教義学 神の言葉U/2 第2章 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』

3の1(下).『教会教義学 神の言葉U/2 第2章 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』(147-179頁)
再推敲・再整理版です。

 

「十七節 宗教の揚棄としての神の啓示――一 神学の中での宗教の問題」(147-179頁)

 

 その大小・多少の差異はあれ、「キリストの啓示」から独立した(キリストの啓示を捨象した)、それ故に「キリストの啓示」に基礎づけられたあの総体的構造(下記の【注1】を参照)におけるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)の連続性に連続するという仕方で「まことの宗教」を目指すことから独立した(そういう仕方で「まことの宗教」を目指すことを捨象した)ところの、生来的な自然的な人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者レベルでの神」(人間によって造られた「存在者」、偶像)に依拠した「人間的宗教」、自然神学(自然的な信仰・神学・教会の宣教)は、包括的に言えば結果としてそれが良きものであれ悪しきものであれ、生来的な自然的な身体と精神を介して普遍的で実践的な全自然(自己身体、性としての他者身体、人間化された自然を含めた宇宙・天然自然の外界)との相互規定的な対象的活動を行うわれわれの人間のその様々な人間的成果に依拠した「人間的宗教」としての神学、自然神学は、「全体としてみれば、結局は(生来的な自然的な人間的契機のその一面だけを拡大鏡にかけて全体化する、絶対化する)『宗教主義』(≪「人間的宗教」主義≫)」である、ちょうど例えば人間存在における一面に過ぎない科学を形而上学的に抽象し固定化し絶対化する(その一面だけを拡大鏡にかけて全体化する)科学主義が、近代の宗教的形態として存在しているように、またちょうど例えば「聖書の中でも人間精神が生み出したものを問題」とし、それ故に「啓示を問おうとしない」で、「神話を問うことをする」「歴史主義」が、「人間精神が生み出したもの」だけを形而上学的に抽象し一面化し固定し絶対化する(その一面だけを拡大鏡にかけて全体化する)「人間的宗教」、自然神学として存在しているように(下記の【注2】を参照)。そのような「人間的宗教」、自然神学は、「宗教(≪人間的宗教≫)を、(≪キリストの≫)啓示から見たり・説明したりしない」で、「逆に(≪キリストの≫)啓示を、宗教(≪「人間的宗教」≫)から見たり・説明したりした」のである。そのような「保守的な傾向をもったもろもろの神学、十八世紀の超自然主義、十九世紀および二〇世紀の信条主義的、聖書主義的、『積極主義的』神学」――すなわち、「新プロテスタント主義」神学は、「結局は教会を破壊する異端」、「教会の生命活動を妨害するものであるという判決」が、「どうして下されなければならない」のか?

 

【注1】
 神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による主観的な「認識的な必然性」(客観的な「啓示の出来事」の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)を包括した客観的な「存在的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」)を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」(徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)という総体的構造としてのそれである。

 

【注2】
 「神話にはいろいろな解釈の仕方があります。比較神話学のように、他の周辺地域の神話との共通点や相違点をくらべていく考え方もありますし、神話なるものはすべて古代における祭式祭儀というものの物語化であるという考え方もあります。また神話のこの部分は歴史的<事実>であり、この部分はでっち上げであるというより分け方というやり方もあります。そのどの方法をとっている場合でも、この説がいいということは、いまのところ残念ながら断定できません。プロ野球で三割の打率があれば相当の打者だということになるのと同じように、神話乃至古代史の研究において、打率三割ならばまったく優秀な研究者であるとわたしはおもっています。じぶんでそれ以上の打率があるとおもっているやつはバカだとかんがえたほうがいいとおもいます(吉本隆明『敗北の構造』「南島論」)。「形而上史学的な歴史の科学」とは異なる評価の方法において言えば、「ダーウィンの進化論の主要な構成は、遺伝学によって完全なかたちで裏付けられることになりましたが、彼はその進化論において鍵となるいくつかの概念を、今日では批判され捨て去られている科学的領域から引き出しました。(≪しかし、そのことは、≫)全く重大なことではないのです(M・フーコー『思考集成IV』「ミシェル・フーコーとの対話」)。「……<奇蹟>(中略)たとえば、お前は癒された、立てといったら癩患者が立ち上がった……。これは自分流(≪詩、文芸批評、思想≫)の言葉でいえば、比喩なんです。比喩の言葉というのは、あるばあいにはストレートな真実の言葉よりもっと真実を語るということがありうるわけで、これを実在論に還元してしまうと、田川健三はそうだとおもいますが、こんなのでたらめじゃないか、こういういいかげんなことを書いてる本だという以外にないわけです。しかし言葉としての聖書というのは、信仰の書として読んでも、文学書として読んでも、あるいは思想の書として読んでも、どんな読み方をしょうと人間をのめり込ませる力があるとすれば、これは叡知じゃないとこういうことは言えないという言葉が、そのなかに散らばっているからです。たとえばイエスが、『鶏が二度なく前に、あなたは三度わたしを否むだろう』と言うと、ペテロはそのとおりなっちゃったみたいなエピソードをとっても、(≪内在的な、外在的な≫)人間の<悪>というのが徹底的にわかっていないとだめだし、心というのがわかっていないとだめだし、同時にこれはすごい言葉なんだというのがなければ、やっぱり感ずるということはないとおもうんです」(吉本隆明『<非知>へ――<信>の構造 対話編』「吉本× 末次 滝沢克己をめぐって」)。「聖書を読みたくなって来た。こんな、たまらなく、いらいらしている時には、聖書に限るようである。他の本が、みな無味乾燥でひとつも頭にはいって来ない時でも、聖書の言葉だけは、胸にひびく。本当に、たいしたものだ」(太宰治『正義と微笑』)。ここで、最高度に優れた言葉に関わる専門家の吉本も太宰も、歴史主義的に聖書の言葉を無味乾燥化するのではなく、聖書の言葉の力を受感し評価しているのである。

 

 先ず以て、「結局は『宗教主義』」(≪「人間的宗教」主義≫)である彼らの「自由な真理探究という原則」に対しては、「神学の領域においても、……何も反対して語られるべきものはない」。問題は、前述したキリストの啓示に信頼し固執し固着するという立場において、それ故に「キリストの啓示」に基礎づけられたあの総体的構造における「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)の連続性に連続するという仕方で「まことの宗教」を目指すという立場において、「結局は『宗教主義』」(≪「人間的宗教」主義≫)としての様々な「人間的宗教」を包括し止揚し克服するという点にある。したがって、そういう仕方で、人間の自由な「自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」(「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の捨象)においてキリストの「啓示と宗教(≪「人間的宗教」≫)を……逆転させてしまう」(『ヘーゲル』)「幻想」としての人間的宗教、自然神学(自然的な信仰・神学・教会の宣教)に対して「抵抗するという動機」に基づいて、「キリストの啓示」に基礎づけられたあの総体的構造における「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)の連続性に連続するという仕方で「まことの宗教」を目指していくことが「自由な真理探究の原則」である。

 

 そのような訳で、「十八世紀において、自然宗教の標準を用いつつ実際に起こった、教義および聖書的教えの荒廃……カント的道徳主義……フォイエルバッハの幻想主義……D・F・シュトラウスやF・C・バウル、ハルナック、あるいはブッセのようなものの聖書批判……宗教史学派の相対主義に対する恐れ等」が、「抵抗の動機であってはならない」のである。したがって、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者としての第一次的なキリストの啓示(起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示ないし和解の実在」そのもの)を新約聖書の証言(第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉、その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)から取り去って、それからその「啓示の実在を取り去った聖書の証言」を、人間学的な前期ハイデッガーの哲学原理によって対象化され客体化され現前化され第一次化された人間自身の意味世界、物語世界に従事することにおいてのみ、第二次的なものとして「真であり、重要であるものに形式変換し転釈」し、キリストの「啓示と宗教(≪「人間的宗教」≫)を……逆転させた」ブルトマンの「方向転換に対して、抗議をさしはさむ術を知らないならば、……(≪あの総体的構造に基づいてイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指さない、換言すれば第一義化・価値化・絶対化された人間的な余りに人間的な特定の人種、民族、民族法、国家を目指す≫)『ドイツ・キリスト者』に対しても防禦力を持つことはできない」のである。この時には、「イエス・キリストの十字架処刑」も、「イエス・キリストの死人からの甦り・復活」も、「ケーリュグマと信仰の認識基礎命題ではなく」、「単なる説明文に過ぎないものとなる」のである、キリストの啓示から独立した(大小、多少の差異はあれ、キリストの啓示を捨象した)、それ故に「キリストの啓示」に基礎づけられたあの総体的構造における「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)の連続性に連続するという仕方で「まことの宗教」を目指すことから独立した(そういう仕方で「まことの宗教」を目指すことを捨象した)「人間的宗教」、自然神学が目指されているのである。このような訳で、「教会にとって真に役立ち、助けとなるもの」は、「教会の中に入ってきた異端(≪キリストの啓示から独立した、それ故にキリストの啓示に基礎づけられた「まことの宗教」を目指すことから独立した「人間的宗教」、自然神学≫)に対して」、その「程度を何らかの仕方で幾分和らげたり、緩和したりすることではなくて」、「むしろ異端の正体をそれとして見抜き、異端そのものと戦い、異端そのものを除去してしまうことにある」(「異端の正体」の問題を明確に提起することにある)のである。したがって、キリストの「啓示と宗教(≪「人間的宗教」≫)を逆転させない根拠」は、「教会全体とともに」、「イエス・キリストこそ、彼(≪個体的自己としての全人間・全世界・全人類≫)の主であり、それであるから彼(≪個体的自己としての全人間・全世界・全人類≫)は、人間は、イエス・キリスト自身のものであり、そのみ国において主のもとに生き、主に仕え、それ故自分のものではなく、イエス・キリストのものであるということの中で、生きるにも死ぬにも自分の唯一の慰めをもっているという認識と承認にある」のである――「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求めようとしないで、私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストを、いっさいのものにまさって恐れ、かつ、愛すること、神を、大きな問題においても、小さな問題においても、彼がかつてあり、いまあり、やがてあり給う権威のままに肯定し、是認すること、私たちの個人的、社会的生活を敢えて律して、すべての善きものを神から、神からすべての善きものを期待するべきである」(『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』)。何故ならば、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト(「啓示ないし和解の実在」そのもの)が、われわれ人間に対して、イエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)およびその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の宣教を通して「同時的となる時と所」、「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、われわれは、「神の支配のもとに入ることを承認し確認する」し、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会として承認し確認する」し、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪裁き≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけであることを承認し確認する」のであるが、それ故に神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける啓示は、われわれ人間の個と現存性――類と歴史性の生誕から死までのすべてを見渡せ、「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所であるからである、それ故にまた「人間的宗教」、自然神学(自然的な信仰・神学・教会の宣教)における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」、「鋭さをなくした十字架象徴論へと」、「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎない神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所でもあるからである。

 

 そのような「認識と承認を新プロテスタント主義の神学者たちも言葉の上では語っていた」が、しかし神だけでなく人間の自主性・自己主張・自己表現を目指した彼らは、その神学的作業の過程において、あの総体的構造に基づいて、「その信仰告白に対応しつつ思惟し」、「思惟しようと努めなかった」のである。その大小、多少の差異はあれ、彼らは、キリストの啓示から独立して(キリストの啓示を捨象して)、それ故にキリストの啓示に基礎づけられた「まことの宗教」を目指すことから独立して(「まことの宗教」を目指すことを捨象して)、思惟し、思惟しようと努めたのである。例えば、ブルンナーの目指した神学的課題は、「理性的思惟の絶対化〔絶対主義〕」、「理性万能の妄想と理性の孤立の中」で、「神的汝をあこがれ求めている理性を解放する」ことにあったのだが、しかし、このブルンナーのそれは、「神的汝をあこがれ求めている」「自信過剰」の半減された「近代的精神」、近代的な人間の自己意識・理性・思惟のことであり、それによる新たな神との「共働者」関係の構築を目指すそれであったのである、それ故にそれは、「人間的宗教」を、自然神学(自然的な信仰・神学・教会の宣教)を目指すそれであったのである。

 

 「十六世紀から十八世紀にかけての時代は、……人間としての自分、自らの本質、諸可能性と能力、自分の人間性を発見しはじめた偉大な時代」であって、そこにはキリストの啓示だけでなく、それ故にキリストの啓示に基づいた「まことの宗教」だけでなく、「『宗教』(≪「人間的宗教」、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者レベルでの神への信仰、近代的な偶像信仰」≫)の発見も含まれていた」。当然にもその現実と時代状況のただ中に、神学も置かれていたのである。そのただ中で、「宗教改革者たちの神学と原則的にはまた古プロテスタント主義全体の神学」の神学的思惟は、あの総体的構造におけるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)の連続性に連続して「自由な真理探究」をして行くという点にあった。カルヴァンは、キリストの啓示に根拠づけられた「まことの宗教」とキリスの啓示から独立した「人間的宗教」の問題を、神学における思想の課題であると認識していた。バルトも、「その都度の現在の時代(≪個々の世紀の≫)の心配と希望の傍らを知らぬが仏式に、あるいは心をかたくなにして、そのまま素通りしてしまうということは実際、神学から、教会のために、期待され、要求されるべきことではない」と述べている。あの総体的構造の連続性に連続するという立場において、神学における思想の問題を包括し止揚して行くというところで、神学における「自由な真理探究という原則」を適用する。また、バルトは、「神学が十七世紀においてなし始め、十八世紀になってからおおっぴらになしてしまった」、「ルターおよびハイデルベルク教理問答の……主要な命題を公理(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした、第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義≫)として……考慮に入れることをやめてしまい」、逆に「特定の時代の関心事(≪思想傾向、文化傾向、主義、社会構成と支配構成等≫)をそのまま自分の関心事とし、(≪キリストの啓示から独立した、それ故にキリストの啓示に基礎づけられた「まことの宗教」を目指さない≫)その悪魔精神の支配に捕えられてしまうこと」は、「自由な真理探究」とはならないと述べている。何故ならば、「教会に宣教を義務づけている」聖書の中で証しされている教会の宣教の課題であるイエス・キリストの啓示の出来事の宣べ伝えを目指すことのない「人間的宗教」としての、自然神学(自然的な信仰・神学・教会の宣教)としての、「単なる知識」としての形而上学的な教義学(教会の宣教の一つの補助的機能)は、「それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方のものであっても」、その教義学は、「教義学としては非学問的」だからである。ここで、「悪魔精神」は、「人間に向かって語れた神の言葉(≪キリストの啓示≫)と区別された人間の敬虔性(≪生来的な自然的な人間の宗教性≫)が、神の言葉に優先」し、それが「特別な主題となり、支配的となってしまう」という点にある。その時には、その教会の宣教、その一つの補助的能としての神学は、キリストの啓示に基づいていないが故に、すなわち「キリストの啓示」に基礎づけられたあの総体的構造における「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)の連続性に連続するという仕方で「まことの宗教」を目指していないが故に、その「対象、啓示を、それとともに信仰のからし種(山をも、それであるから近代の人文主義的な文化の山をも、移すことができた信仰のからし種)を、失ってしまう」のである、自然神学(自然的な信仰・神学・教会の宣教)に埋没して行くのである、「人間的宗教」に埋没して行くのである。

 

 そのような訳で、「人が……啓示(≪「キリストの啓示」≫)と宗教(≪「人間的宗教」≫)を体系的に同類のものとして取り扱おうとすること」、すなわち相互に比較考量して「相互に限界づけ……関連づけようと企てること」は、その最初から「決定的な誤解を意味している」のである。したがって、その時には、その最初から、「誤謬は必然」となるのである。その時には、その企てが、「宗教(≪「人間的宗教」≫)から」、それ故に「人間から思惟してゆき」、それ故にまた「啓示(≪「キリストの啓示」≫)を宗教(≪「人間的宗教」≫)に従属させ……最後的には宗教(≪「人間的宗教」≫)の中に消滅させてしまおうとする企てであるのか」、あるいはキリストの啓示、キリストの啓示に基礎づけられた「まことの宗教」に対して「特定の留保と担保からその優位性を、保証しようとする企てであるのかという問いは、副次的な問い、……決定的でない問いである」。ここで、われわれは、ルドルフ・ボーレンの「聖霊論的説教論」に依拠して、人間学の後追い知識に過ぎない「人間的宗教」を目指す人間学的神学において、中世的思考に退行するという仕方で、人間の経験の尊重(近代的な人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍の尊重ということであろう)を主張し、「神学の優位性を確保しつつ、人間学を正当に評価する位置を与える」と主張した神学者、小泉健と佐藤司郎を思い起こす。バルトは、それらの問いは、「人間的宗教を、神的な啓示(≪「キリストの啓示」≫)と同じ平面の上で」、「人間的宗教を、……神的な啓示と並ぶ第二のものとして見」、「キリストの啓示」の「自主独立性な本質と権利」との「折り合い」・調停を問う問いや試みでしかないから、「そのこと自体、既に緒戦において完敗した戦いであり」、すでに完敗してしまっている「現実の事情の事実上の隠ぺいでしかない」と述べている。何故ならば、「人がそもそも(≪神的なキリストの≫)啓示を宗教(≪「人間的宗教」≫)と比較したり調停したりしようと欲することができるところ、そこでは既に啓示を啓示として全く誤解している」ことに他ならないからである。啓示「神学においては(≪キリストの啓示、それ故にキリストの啓示に基礎づけられた「まことの宗教」と「人間的宗教」という≫)宗教の問題を問うに際しては、……二者択一……があるだけである」。キリストの啓示、キリストの啓示に基礎づけられた「まことの宗教」の場所においては、人間学的神学の領域における啓示と人間的宗教との「混淆宗教学の流儀」とは全く違う、キリストの啓示、キリストの啓示に基礎づけられた「まことの宗教」か、あるいはキリストの啓示から独立した、それ故にキリストの啓示に基礎づけられた「まことの宗教」を目指すことのない「人間的宗教」かという「二者択一」だけがある宗教学が成立する。

 

 「神学的に真剣に(≪キリストの≫)啓示について語る」者は、「彼にとっては主なるイエス・キリストが問題である」、「彼が主のもとに生き、主に仕え、彼が自分のものではなく、イエス・キリストのものであり、彼がそのような者であるということの中に生きるにも死ぬにも、唯一の慰めを持つということ……が問題である」、「ただイエス・キリストの名だけ」が問題である。したがって、彼にとって「誠実と真実」、「責任的応答」は、「同時代の人たちの思考の前提」や「そこから形成された理解の規準」に対してではなく、「十字架につけられ、復活したイエス・キリストにおけるわれわれの実存という場所」において、われわれの「信仰より以前にも、信仰なしでも、……不信仰に抗して」も、「われわれのために生きて、われわれを支配し、われわれを愛し給うイエス・キリストを、(≪あの総体的構造に基づいて≫)認識し、持つことができることを示すということ……が問題である」。自己自身である神としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の、その「失われない差異性」における外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方である「真に罪なき、従順なお方」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける神の自己啓示は、人間に対する「主権的な働きかけである」。この「主権的という概念」は、「人間的宗教」を排除してはおらず、人間的宗教を「世俗性」の一つの「形姿」・形態としてのみ受け取ることを求めている。言い換えれば、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪「裁き」≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」。「イエス・キリストこそが、主である」――そうでないならば、「たとえ……言葉の上では後からどれほど真剣に、明瞭に、強調しつつ(≪キリストの≫)啓示について語ろうとしても、キリストの啓示について語ることにはならない」から、その時には、結局は、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化されたに過ぎない「存在者レベルでの神」(人間によって造られた神)の啓示について語ることになるのである、「存在者レベルでの神への信仰」、「人間的宗教」について語ることになるのである、人間の自己表現としての「愛、興味、熱心、信頼、慰め」について語ることになるのである。したがって、「本当に啓示について語りたいと思うならば」、「常にはじめから」、「啓示の光にてらされて」、あの総体的構造に基づいて、キリストの啓示について、それ故にキリストの啓示に基礎づけられた「まことの宗教」について「語っていなければならないのである」。その「啓示の光にてらされて」、人間の限界づけられた世俗性としての「人間的宗教」の「現実存在、本質、価値について……記述されなければならない」のである。

 

 神学の中で取り扱われるべき宗教の問題は、「神学的な問題提起を一瞬間といえども中断することなしに、(≪キリストの≫)啓示(≪客観的な「存在的な必然性」≫)から、(≪客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいた≫)信仰からみて、宗教として人間的実在の中での姿を現してくるものは何であるのかという問い」にある。「神学の中での宗教の問題」は、「啓示(≪「キリストの啓示」≫)と宗教(≪「人間的宗教」≫)という概念の秩序」について、「まことの宗教」の根拠である「宗教の揚棄としての啓示(≪「キリストの啓示」≫)について語る」という点にある。したがって、われわれは、第三の形態の神の言葉である教会の宣教、その一つの補助的機能としての神学における思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」、と告白するのである。したがってまた、第三の形態の神の言葉である教会の宣教、その一つの補助的機能としての神学における思惟と語りは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度(≪「祈りの態度」≫)に対し神が応じて下さる(≪「祈りの聞き届け」≫)ということに基づいて成立している」、と告白するのである。

 

 「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト(神の言葉の「受肉」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」ヲトルコト、「肉ヲトルコト」、「イエスの名」ヲトルコト)にあって、「神と人間がひとつである」という単一性(区別を包括した単一性、「単一性と区別」)が、「完成された出来事の単一性」であるが(このイエス・キリストにおける「完成された出来事の単一性」としての「神と人間がひとつである」という単一性は、『神の人間性』においては、「神の神性において、また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」と述べられているが)、「神的啓示(≪キリストの啓示≫)と人間的宗教の単一性」は、やはり「神が主体であり給う」ところにおいて、すなわちあの総体的構造における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」)そのものを起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)の連続性に連続するところにおいて、それ故にキリストの啓示に基礎づけられた「まことの宗教」を目指すところにおいて、「これから完成されるべきひとつの出来事の……単一性である」。すなわち、生来的な自然的な人間の「人間的宗教」は、「キリストの啓示」によって、「キリストの啓示」に基礎づけられた「まことの宗教」によって揚棄されるべき対象である。