本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「十八節 神の子らの生活」「三 神の讃美(その4−3)」

『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「十八節 神の子らの生活」「三 神の讃美(その4−3)」(439−482頁)

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、引用の不備や誤字脱字等の不備はご容赦ください)

 

 

  バルトは、「十八節 神の子らの生活」について、次のような理性的な定式化を行っていた。

 

「神の啓示は、それが聖霊の働きの中で信じられ認識されるところでは、(≪――すなわち、恣意的独断的にではなく、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、神の子、神の言葉、啓示・和解、であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事という啓示に固有な証明能力に基づいて、それゆえにそれ自体が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性である「神の言葉の三形態」を媒介・反復することを通して認識されるところでは、――≫)神をイエス・キリストの中で尋ね求めること(≪すなわち、神への愛≫)なしにはもはや存在せず、また神が既に彼らを見出されたことを証しすること(≪すなわち、感謝の応答としての、神への愛を根拠とした、神の讃美としての隣人愛――隣人が現実的に福音を所有することができるための神の命令・要求・律法であるイエス・キリストにおける福音の告白・証し・宣べ伝え≫)なしには存在することができない」「人間を造り出す」。(302頁)

 

 

「十八節 神の子らの生活」「三 神の讃美(その4−3)」

 

(3)私は、前回、次の事柄について述べた。
 サマリヤ人が、「盗賊の手におちた者に対し慈悲深い」隣人となったということは、彼自身が、その「半死半生の人の中に慈悲深い」隣人、すなわち「キリストとの連続性にある」人間・「キリストにあるものとしての人間」・「人間の人間的存在が……イエス・キリストの人間的存在である限り」での人間的存在、「義トサレタ罪人」・罪人にして義人における人間的存在、を「見出したということの証しであった」。このように、「イエス・キリストによって、召されて」、お互いが、このような出来事に参与する時、お互いは<ほんとうの>「隣人」としての同胞である。したがって、そこにおいては、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の子、神の言葉、啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストの、その復活(「四〇日の福音」――使徒行伝1・3)と昇天において、「十字架につけられ、死んで墓に葬られた……人間が捧げる神讃美」において、「その起源的な、本来的な形で、神にふさわしい、み心にかなう神賛美が出来事となって起こったのである」。したがって、「イエス・キリストにおける神の愛」は、神ご自身の「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」(『ローマ書』)。このような仕方で、イエス・キリストは、「ご自分を宣べ伝え給うたことによって」、神「讃美の秩序……をうちたてるという善き業をわれわれのためにして下さったのである」。したがって、それは、「まことに一つの秩序であり、そこで遂行されたものは人間の定めである」。このような訳であるから、同胞は、隣人として、イエス・キリストにおいて、ただ一回的に、「独一無比な仕方で、神が人間の現実存在を引き受け給うたということの証言」・証しとなることに基づいて、「自分自身はイエス・キリストでない……われわれすべてのもの」たちを通しての、また「この現在の、過ぎ去りゆく世と自分自身の古い存在の限界の中で〔つかの間の生命を〕走り去ってゆかなければならないものたち」を通しての、「神賛美があってよいし、あるべきなのである」。この「起源的な秩序」、それに基づく人間の「新しい定め」は、「預言者と使徒たちの現実存在」、また「神の言葉の三形態」を媒介・反復することを通して、イエス・キリストの死と復活の出来事、インマヌエルの出来事、を告白し・証しし・宣べ伝えていく「教会の現実存在の中で、……力を発揮し活動する」のである。「教会とは証人としての奉仕という意味である」。したがって、イエス・キリストを主・頭とする<まことの>「教会の奉仕は、……イエス・キリストが(≪感謝の応答として、福音を告知し・証しし・宣教するところの、≫)人間的兄弟をもつようになられたということ」、そのような「特定の人間……に対してイエス・キリストが隣人となられたということに基づいている」。ここで特定の人間は、「特別な教会人」を意味しない。「教会の中で、あなた方はわたしの証人となるであろう(使徒行伝一・八)という約束の光に照らされるようになる」のは、「特別の教会人ではなく、むしろ一般に人間、すべての人間」である。したがって、「われわれはイエス・キリストの証人」を、すなわち同胞としての「隣人」を、その「神の善き業」としての出来事が神のその都度の自由な決断において起こることを、「教会の中で、期待すべきであるが故に」、「単に教会の中ばかりでなく、……すべての人間の中で期待しなければならない」のである。言い換えれば、「もしもわれわれが予言者と使徒たちの中に……イエス・キリストが隣人となり給うた人間……を認識するならば、それとともに」、「われわれにイエス・キリストについて証しする」予言者と使徒たち自身の中に、「援助の手をさしのべてくれる憐れみ深いわれわれの隣人を認識するならば」、このことが「教会の中で、われわれに対し現われ出たのであるならば」、「同胞たる人間」が、「キリストとの連続性にある」人間・「キリストにあるものとしての人間」である「彼の人間性の中で、神の子の人間性をわれわれに思い出させ、それとともに神を讃美するようわれわれを呼び招くが故に」、彼は同胞としての隣人として、「われわれに対し慈悲深い行いをすることができるということである」。なぜならば、「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」、だからである(『福音と律法』)。
 このような訳であるから、「すべての人間はキリストの実質上の兄弟である」、「キリスト者になる以前でも、彼は、(≪その現にあるがままで≫)キリストにおける神との連続性の中にいる。ただ、彼はそのことをまだ発見(≪啓示認識・啓示信仰≫)していない」だけなのである。この場合も肝要なことは、「私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく」、「私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた」「神の子が信じ給うことに由って生きる」という点にあるのであり、また「そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」、という点にあるのである。したがって、その現にあるがままの人間の現実存在における同胞としての隣人とは、この側面の人間のことである。言い換えれば、同胞としての隣人は、その現にあるがままの現実的な人間の人間的存在が、「われわれの人間的存在である限り」での人間的存在のことではなくて、その人間的存在が「イエス・キリストの人間的存在である限り」での人間的存在のことなのである。したがって、バルトは、次のように述べたのである――私たちは、「心を頑固にし福音を認めない人間」や「異教徒」に対して、福音・「恵みから語り」、福音・「恵みについて語るという以外のこと」をなすことはできない、すなわち、私たちがそうした人々に呼びかけることができるのは、<私が>、「その人をその中に置くことによってではなく」、「律法を満たし・すべての誡めを遵守し給うた」、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の子、神の言葉、啓示・和解)である<イエス・キリストご自身が>、「その人をその中に(≪神の側の真実としてのみある、永遠的実在としての、啓示の客観的実在・啓示の客観的現実性、主格的属格としての「イエスの信仰」・神の義そのもの、イエス・キリストにおいて完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永続的永遠的な救済・平和・解放の中に≫)置いてい給うことによってである」。このような訳であるから、私たちは、キリストにあっての神への感謝の応答として、「キリストにあるものとしての人間のために、(≪福音を内容とする福音の形式としての律法を通して、すなわちイエス・キリストの名、イエス・キリストの死と復活の出来事、インマヌエルの出来事の告白・証し・宣べ伝えという仕方において、≫)努力し得るにすぎない」のである。なぜならば、イエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを、それゆえに、私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として、すなわち、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪裁き≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを、認識(信仰)し承認し確認することができるからである。したがって、バルトと同じように、カンタベリーのアンセルムスも、「いかなる人間もほかの者に教えることができないことを教えることができ、また繰り返し教えるであろうことを信頼していた客観的な根拠」、すなわち「信仰の対象そのものの客観的根拠」(単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方である、イエス・キリストの名、啓示の客観的実在・啓示の客観的現実性)の「力強さを念頭において」、「非キリスト者をキリスト者として、不信者を信者として語りかけ」、「信者と不信者の間の深淵を超え」出て、「彼が自分を不信者たちに対して不信者たちと同類の者としておき、不信者たちを自分と同類の者として受けとる」ことができたのである、彼は、キリストにあっての神により秩序づけられた同胞たる隣人との共存性において、キリストにあっての神を尋ね求める神への愛を根拠とする神の讃美としての隣人愛、すなわち同胞を「第二の命令の意味」で「神によって遣わされ全権を与えられて、われわれに対し慈悲深い行いをなす」隣人として「愛すること」ができたのである。

 

 啓示に固有な証明能力に基づいて授与された人間の自己認識・自己理解・自己規定は、神の恩寵を嫌悪し回避する存在としての人間、自主性と無神性と不信仰に生きる真実の罪人としての人間、完全に破滅した喪われたものとしての人間、ということであった。それゆえに「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給う」・刑罰(死)を欲し給う、しかし「われわれのうち誰一人として」、「このような答えを聞」かない、「承認」しない、「このような答えに屈服」しない――このような事実「真実の罪」を生き・生き続ける人間、「事実不幸な人間」、すなわちそのような人間にために・人間に代わって「十字架につけられたキリスト」との「類似性」を隠し持った同胞たる人間が、「第二の命令の意味での隣人」である。この時、その「事実不幸な人間」・同胞たる隣人は、「彼が実にキリストの代わりとしてそこに立っている」人間的存在として、「十字架につけられた方」・「キリストを思い出させ」る人間的存在として、「わたしに相対してもっている神的な使命と全権」を与えられた人間的存在として、「わたしに対して……慈悲深い行為」をなす人間的存在として、「わたしに対して彼の現実存在の中で、全くただそのままわたし自身の不幸をあらわにする」・「わたしに対して、私自身が罪人であるということをあらわにしてくれる」。このように、「イエス・キリストによって、召されて」、お互いが、このような出来事に参与する時、お互いは<ほんとうの>「隣人」としての同胞である。神の讃美としての隣人愛における同胞としての隣人である。ここでは、人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」・「偶像礼拝と(≪人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求に基づく、その神の名と呼びかけによる人間自身が支配し管理する救いの計画と救いの方法による、すなわちその≫)業による義」は全く否定されている。この「偶像礼拝と業による義」を目指した典型が、自然神学の<段階>を停滞し循環しているだけの人間学的神学、神と人間との混淆神学・混合神学・混同神学、「神への愛は兄弟に対する愛の外部では何等行動できる領域を持たない」と述べたリッチュルであり、「……わたしは神を……本当に隣人を愛する時にのみ、愛することができる」と述べたブルトマンである。彼らには、不可視的な神への愛と可視的な隣人愛・兄弟愛との<直接的な>混淆・混合・混同はあっても、「神の言葉の三形態」を媒介・反復することを通した<媒介的な>関係性の論理が全くないのである。すなわち、恣意的独断的なのである。このことは、自然神学の<段階>で停滞し循環しているキリスト教(信仰・神学・教会の宣教、神学者・牧師・キリスト教的メディア的著述家)、近代主義的キリスト教(信仰・神学・教会の宣教、神学者・牧師・キリスト教的メディア的著述家)、ローマ3・22やガラテヤ2・16等の「イエス・キリストの信仰」の属格の目的格的属格理解におけるキリスト教(信仰・神学・教会の宣教、神学者・牧師・キリスト教的メディア的著述家)の宿命である。私は、バルトともに、こう認識し信仰し確信する――すなわち、私たちすべての人間の義認の根拠は、神の側の真実としてのみある、主格的属格としての「イエスの信仰」(ローマ3・22やガラテヤ2・16等)による神の義そのものにのみある、と。したがって、神の子供たちの、イエス・キリストを信じる信仰、イエス・キリストにのみ信頼し固執する信仰は、感謝の応答としてのそれなのであって、それゆえに、そのことが義認の根拠ではないのであって、それゆえにまた、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事という啓示に固有な証明能力、それ自体が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を媒介・反復することを通したキリストにあっての神を尋ね求める神への愛を根拠とする、神の讃美としての隣人愛は、福音を内容とする福音の形式としての神の命令・要求・律法として、隣人が福音を現実的に所有できるための、隣人の救いのための、隣人の「神の言葉と聖霊による新しい誕生」のための、イエス・キリストの名、その死と復活の出来事、インマヌエルの出来事、の告白・証し・宣べ伝えにあるのである。したがって、人間自身が支配し管理する「救いの計画と救いの方法」におけるところでの同胞たる人間、「自分が善行者、教育者、改良者の役割を演じる」ところでのその対象としての同胞たる人間は、「第二の命令の意味での隣人」ではないのである。なぜならば、その場合、「わたしが彼に対して……向けるかもしれない」「誠実な態度」・「すべての熱心な努力や献身にもかかわらず、実際」は、その献身的態度は、「神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法」でしかないそれであり・彼の<ほんとう>の困窮を認識し「見ていない」ところのそれであり・彼の永遠的実在としての「救い」を認識し「見ていない」ところのそれであり、それゆえにそこでの彼は「第二の命令の意味」での同胞たる隣人ではないからである。言い換えれば、そこでの同胞たる人間的存在は、「すべての人間はキリストの実質上の兄弟である」ところの人間的存在としての同胞たる隣人ではないからであり、「キリスト者になる以前でも、彼は、(≪その現にあるがままで≫)キリストにおける神との連続性の中にいる」人間的存在としての同胞たる隣人ではないからであり、その現にあるがままの現実的な人間の「人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限り」での人間的存在としての同胞たる隣人ではないからである。したがって、そこでの同胞たる隣人ではないないところの人間的存在を対象とする奉仕は、「われわれ自身の空想と自由な恣意」による独断的な「ドストエフスキーの書いたあの大審問官」の問題性(『啓示・教会・神学』)を露呈させてしまうのである。したがってまた、「人間の公私の生活においては、絶えず新たな支配が行われるような仕組みになっている」し・「国家は支配であり、文化は支配」である、から、神の子供たちは、ほんとうは、どのような社会構成・支配構成・文化構成にも、「どのような国家形態にも、どのような文化傾向にも、無条件に『然り』とは言わぬ」のであり、「神の言葉の三形態」を媒介・反復することを通した福音の言葉の「繰り返し」において、不可避的な「ある状況下において、その状況に抗するそれとして」、「おのずから」、「西の獅子」にも「東の獅子」にもどのような「獅子」にも、すなわち一切の「獅子」に「全力をあげて抵抗」するのである。

 

 さて、過ぎ去りゆくこの時代と世界の中で生き生活している「神の子供たちは、彼ら自身なお依然として不幸な人間であり、ただ神の義認にあずかっているばかりでなく、また神の義認を必要としているところの罪人」である。すなわち、自主性・自己主張・自己義認の欲求、無神性・不信仰・真実の罪、のただ中を生き生活している彼らには、私たちすべての人間には、<神の側の真実としてのみある>、主格的属格としての「イエスの信仰」・神の義そのものによって義とされている「義トサレタ罪人」として生きる生き方以外の生き方はないのである――「自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリスト(≪単一性・神性・永遠性を本質とする、啓示の客観的実在・啓示の客観的現実性としての、イエス・キリスト≫)が、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである 」(『福音と律法』)。
 神の子供たちは、同胞たる隣人・「彼らに対して、来たりつつある、永続する世に関してただ十字架につけられたイエス・キリストを通してのみ助けが与えられているということに対応しつつ、この現在の、過ぎ去りゆく世において、不幸な隣人を通して(≪同胞たる隣人、その現実的な人間の「人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限り」での人間的存在であるということを想起することを通して≫)助けが与えられなければならないのである」。(439−448頁)

 

 神の子供たちが、その現にあるがままの現実的な人間存在における同胞たる隣人を「喜んで心から認めるということ」は、その隣人の「奉仕」、すなわちその隣人が、不可視的な、「私自身の罪、私自身の不幸」を「目の前に示してくれるということ」を「喜んで受け入れるということ」であり、またそのことによって、不可視的な、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにあっての「神の卑下」を、「ご自身十字架につけられ給うた方」・「イエス・キリスト」の「人間性」を、「目の前にしめしてくれるということ」を「喜んで受け入れるということ」である。もちろん、この場合、その隣人は、イエス・キリスト、すなわち啓示の実在そのものと並んでの「イエス・キリストの第二の啓示」では決してないのである。すなわち、この場合、その隣人は、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストとの「相違性の中でだけ」、神と人間との無限の質的差異の下でだけ、「ただキリストによってたてられたしるしとしてだけ、キリストと連帯的であり同一」なのである。ここでも、肝要なことは、『神の人間性』におけるあのバルトの言葉、すなわち、@「神の神性において」(前提、神と人間との無限の質的差異において)、「また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」、A「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人は、今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」という言葉にある。したがって、後期バルトの「第二の方向転換」としての「神の人間性」の「主文章」化は、「第一の方向転換」の「神の神性」の「主文章」化と「対立」関係にあるのではなく、その主文章化と副文章化とのベクトル変容は、啓示の弁証法におけるそれなのである。すなわち、啓示の弁証法に基づいてある時はその一方が「中心部から周辺へ、強調された主文章からさほど強調されない副文章へ」と退いたりするだけなのである。また、「まことの人間」とは、神の<言葉の受肉>のことであって、直接的・無媒介的に、神ご自身が人間自身となったということではないのである。常に「神は神」であり、常に人間はだの人間でしかないのである。この意味において、バルトは、単一性・神性・永遠性を本質とするまことの神にしてまことの人間「イエス・キリストにおける神の愛」は、神ご自身の「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」と述べたのである。また、バルトは、次のように述べたのである――聖書また教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する、したがって、この啓示が教会の宣教の客観的な信仰告白と教義である三位一体論の根拠である、この三位一体論は、神論の決定的に重要な構成要素であり、「啓示の認識原理」である、したがって、「教会の宣教の批判と訂正」は、常にこの三位一体論に即して行わなければならないのである、なぜならば、この三位一体論を啓示認識の原理としない場合、すぐに神性否定のキリスト論や半神・半人キリスト論や三神論や自然神学の<段階>で停滞循環したキリスト論・背入れ論・神論に埋没していく以外にはないからである、例えば、近代主義的プロテスタント主義神学が「キリストのまことの神性の告白」を信用しない場合、それは、「視覚的錯覚」によるのであり、いわば近代以降における人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍に依拠しているからである、したがって、「キリストの神性についての教義」こそが、一切の近代主義や自然神学の<段階>で停滞し循環している信仰・神学・教会の宣教に抗することができる思想的武器なのである、もちろん、この不可視的な隠蔽性におけるイエス・キリストの単一性・神性・永遠性についての認識・信仰を要求する神の自己啓示は、ナザレのイエスという可視的な顕現性における「人間の歴史的形態、イエスの名」におけるそれである、このように自己啓示する神は、「まさにアラワサレタ神こそが隠サレタ神」なのである、と。
 いずれにしても、あのように「イエス・キリストによって、召されて」、お互いが「隣人」として出会う出来事への参与を通して、神の子供たちは、そのような出来事の「秩序へと呼びもどされる」のである、啓示に固有な証明能力に基づいた「神の言葉の三形態」を媒介・反復することを通してキリストにあっての神を尋ね求める神への愛を根拠とする神の讃美としての隣人愛を喚起させる秩序へと「呼びもどされる」のである。このような、神の子供たちに事実的にある、自主性・自己主張・自己義認の欲求、無神性・不信仰・真実の罪、恣意的な独断性、に対する告発・「暴露」――これらの「事実的な想起と制限が、まさに隣人なのである」。したがって、私は、バルトと同じように次のように告白する――「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」、と(『福音主義神学入門』)。ここには、恣意的独断的に一方通行的に上昇していく自己欺瞞に満ちた信における往相的観点を相対化する、啓示に固有な証明能力に基づく信における還相的観点、すなわち信における不信を包括した信について述べられている。すなわち、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示・和解)である「イエス・キリストの御業」、「神の言葉と霊のみ業」、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて神の子供たちの身に起こる、「赦し」、「召命」、義認、「新しい誕生」、更新、聖化、という啓示認識・啓示信仰が肝要なことである。神の子供たちが、この「赦しによって生きることがゆるされるということこそ、その中に含まれている信仰、認識、神聖さ、喜び、謙遜、愛のすべての賜物とともに彼らに与えられた新しい生活」である。同胞たる隣人は、「われわれをこの場所におくことはできない」、「わたしに対してわたしの罪を赦すことはできない」。私たち人間は、その思惟において・その現実生活において、このような「赦し」が必要なことを、「容易に忘れてしまいがち」な存在である。このような訳であるから、隣人は、私に対して、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示・和解)である「イエス・キリストの御業」、「神の言葉と霊のみ業」、における「赦し」が必要なことを想起させる存在なのである。すなわち、隣人は、「私自身の罪、私自身の不幸」を、気づかせてくれる・「目の前に示」してくれる存在なのである。隣人は、「そのことを欲し、またそのことに気づいているか、あるいはそうでないかはともかくとして」、いつも、神から遠ざかり背き続けている私自身を、罪を新たな罪を犯し続けている私自身を、罪と不幸のただ中にある私自身を、私に気づかせ・私の「目の前に示」してくれるそれなのである。この場合、隣人のその機能は、不可視的な恵みの一つの可視的な「しるし」として、「事実一つのサクラメンタルな意味を持つ」のである。隣人が、私に対して、「わたしの失われた状態を暴露することでもって間接的に、しかしはっきりと、わたしはただ恵みによってのみ生きることができるということ」を私に気づかせ・私の「目に前」に示してくれるという「奉仕を……してくれる時に、まさにそのことでもって彼はいわば私自身の現実存在の中に入ってくる」それなのである。言い換えれば、神の子供たちが、隣人に対して、「キリストとの連続性にある」人間・「キリストにあるものとしての人間」・その現にあるがままの現実的な「人間の人間的存在が……イエス・キリストの人間的存在である限り」での人間的存在、「義トサレタ罪人」・罪人にして義人における人間的存在、の「しるし」を見出すのならば、その出会いの出来事において両者には(ほんとうは人間の間には)「罪と不幸の交わりが存在するということ」、両者には(ほんとうは人間の間には)「互いに非難し合わなければならないものは何もないということ」、両者には(ほんとうは人間の間には)「互いに優越した特徴とか、よりましな状態とか、よりよい事情というもの」は何もないということ、を「語り、告白し合う」ことになるのである。それゆえに、その場合には、「われわれは共通にわれわれの破綻した状態を語り、告白し合う」であろう、赦罪や和解や救済や平和について、私たち人間から「生ずる現実は何もない」ということを「語り、告白し合う」であろう。

 

 しかし、このこと自体は、「まだ恵みと赦しの交わりではない」。なぜならば、まだそこでは、神の子供が、「自分自身、隣人を通して全く真剣に、……罪と不幸の交わりへと移されているのを見る時」に、彼と隣人との出会いの出来事が、「彼をその罪と不幸の中でまず最初に愛して下さった神を愛するようにと呼び出されていることを知る」とこにまで来ていないからである。すなわち、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事という啓示に固有な証明能力、すなわちそれ自体が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を媒介・反復することを通してキリストにあっての神を尋ね求める神への愛を根拠とする神の讃美としての隣人愛(第一義的に、「わたしと彼」との「共通の困窮の現実性」・「罪と不幸」の共通性・その「連帯責任性」における、同胞としての隣人が福音を現実的に所有することができるために、福音を内容とする福音の形式としての律法、イエス・キリストの名、イエス・キリストの死と復活の出来事、インマヌエルの出来事、を告白し証しし宣べ伝えていくそれ)の啓示認識・啓示信仰にまで来ていないからである。このことは、隣人の観点からは、神の子供への「要求」であり、神の子供の観点からは、隣人に対する「義務」である。キリストにあっての神から与えられた秩序における隣人は、「神の恵みの生けるしるし」――それゆえに隣人のそれは「ひとつの奉仕とひとつの善行である」が――福音のしるしであるから、この隣人への義務(命令・要求・律法)・この隣人愛は、福音の方からおのずから惹き起こされる律法である。したがって、バルトは、啓示の出来事と信仰の出来事という啓示に固有な証明能力に基づいた、すなわち「神の言葉の三形態」を媒介・反復することを通してキリストにあっての神を尋ね求める神への愛を根拠とする神の讃美としての隣人愛でなければ、それゆえに福音を内容とする福音の形式としての神の命令・要求・律法でなければ、必然的に、近代主義や自然神学の<段階>における人間が恣意的独断的に考え出した神・人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」(フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーが根本的包括的に原理的に批判した宗教そのものとしてのそれ)の名と呼びかけによる律法に、すなわち人間によって恣意的に曲解された「十誡・預言者の言葉・ソロモンの処世上の知恵・山上の垂訓また使徒の報告」に過ぎないものとなってしまう、と言うのである、その場合、その「無数の儀文」は「偶像崇拝」・「神冒?」を生じさせる、と言うのである、ある者は「盲目的に」仕事へと没頭し、ある者は「人目をひくような簡素さと寡欲さに沈潜する」、また、ある者は「その時代の人間中の様々な敗残者に対して、熱心に博愛的配慮……教育的配慮を行う」ことに、ある者は「大規模な世界改良の偉大な計画」に邁進する、そしてまた、ある者は「大衆や時代の傾向と手をたずさえて、ある種の正義」に邁進する、「まことに空の空なるかな、である。これらすべてのことが、一体何だろうか」、と言うのである。「われわれは結局、また困窮の中にあってわれわれ自身が救われているということについても、ただイエス・キリストにあっての神を念頭におきつつ、ただ」絶えず繰り返し「神の言葉の三形態」を媒介・反復することを通して、「神の言葉を聞きつつ、知るのであって」、恣意的独断的に、人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍や人間論や人間学的な哲学原理・認識論・世界界や社会的政治的実践等、「われわれ自身の存在と行為そのものを念頭において知るのではない」のである。したがって、啓示の出来事と信仰の出来事という啓示に固有な証明能力、すなわち「神の言葉の三形態」を媒介・反復することを通してキリストにあっての神を尋ね求める神への愛を根拠とする神の讃美としての隣人愛においては、私たちは、「心を頑固にし福音を認めない人間」や「異教徒」に対して、「恵みから語り、恵みについて語るという以外のこと」をなすことはできないのである、すなわち、私たちがそうした人々に呼びかけることができるのは、<私が>、「その人をその中に置くことによってではなく」、「律法を満たし・すべての誡めを遵守し給うた」、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の子、神の言葉、啓示・和解)である<イエス・キリストご自身が>、「その人をその中に(≪神の側の真実としてのみある、啓示の客観的実在・啓示の客観的現実性、主格的属格としての「イエスの信仰」・神の義そのもの、イエス・キリストにおいて完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永続的永遠的な救済・平和・解放の中に≫)置いてい給うことによって」なのである、このような訳であるから、私たちは、キリストにあっての神への感謝の応答として、「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」「イエス・キリストとの連続性にある」人間のために、「キリストにあるものとしての人間のために、(≪福音を内容とする福音の形式としての律法を通して、すなわちイエス・キリストの名、イエス・キリストの死と復活の出来事、インマヌエルの出来事、の告白・証し・宣べ伝えという仕方において、≫)努力し得るにすぎない」のである。
 神の子供たちと隣人との差異性は、「すべての人間はキリストの実質上の兄弟である」、「キリスト者になる以前でも、彼は、(≪その現にあるがままで≫)キリストにおける神との連続性の中にいる。ただ、彼はそのことをまだ発見(≪啓示認識・啓示信仰≫)していない」だけである、という点にあるのである。したがって、自己愛の対象的な疎外、自己愛の外化(表現)として、「愛スルコト」は、「人」が、「隣人を、また神を、愛するようにと促し、動かすことから成り立っている」と述べた、自己愛を前提とした自然神学の<段階>で停滞したアウグスティヌスを首肯することはできないのである。このことは、丁度、自然神学の<段階>で停滞し(アウグスティヌスやルターの場合は時代的制約性があったからやむを得なかったとしても、フォイエルバッハの宗教批判以降においては、時代的制約性を理由として、この自然神学の<段階>で停滞し循環することは全く許されないのである)、「三位一体を、世界から説明しようと欲」し、「被造物ノ中デノ三位一体ノ跡」と述べたアウグスティヌスを首肯することができないのと同じである。したがって、このアウグスティヌスに対して、バルトは、近代主義や自然神学の<段階>を根本的包括的に原理的に止揚して、その近代主義や自然神学の<段階>(フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーが根本的包括的に原理的に批判した宗教そのものとしてのそれ)から超え出て、「世界を三位一体から説明せんと欲」し、「三位一体ノ中デノ被造物ノ跡」と述べたのである。したがってまた、バルトは、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事という「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼し」、「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」、「解釈する」とは、「別の言葉で同一のことを言うこと」であると述べたのである。そして、その啓示に固有な証明能力に基づいて、すなわちそれ自体が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を媒介・反復することを通したキリストにあっての神を尋ね求める神への愛を根拠とする神の讃美としての隣人愛を述べたのである。このようなバルトを根本的包括的に原理的に認識し理解していないところの、やはり国家主義的な靖国神社参拝推進論者の冨岡幸一郎は、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰である」とした「カントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」(『カント』)と述べたバルトの言葉も捨象してしまって、自然神学とは「人間が生まれながらにもつ理性によって神の存在を捕えることができるという考え方」であると説明し、具体的にはトマス・アクィナスの神学がその典型であって、トマスは「アリストテレスの哲学を神学にもちこむことで、人間の理性では自然的に神を認識することはできず、神の啓示と恩寵によらなければ、神を知ることはできないというアウグスティヌス的な信仰理解をこえようとした」と、高校の倫理レベルの知識で出鱈目なことを述べているのである。ほんとうことを言えば、ここに、キリスト教的メディア的著述家の神学・宗教・知識の水準があるのである。このような富岡が、臆面もなく、『使徒的人間――カール・バルト』の「あとがき」で「本書が未来の思想に関与することができればと願う」と書き残しているのであるが、このような水準の富岡の本が「思想」の言葉として現在から未来に生きることは全くできるわけがないのである。もちろん、このような冨岡は、佐藤優と同じように、その最初から戦争廃絶の構想を持ち得ないことも、論理的に自明なことなのである。(448−457頁)

 

 このような訳であるから、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事という啓示に固有な証明能力に基づいて、すなわちそれ自体が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を媒介・反復することを通してキリストにあっての神を尋ね求める神への愛を根拠とする神の讃美としての隣人愛(第一義的に、「わたしと彼」との「共通の困窮の現実性」・「罪と不幸」の共通性・その「連帯責任性」において、同胞としての隣人が福音を現実的に所有することができるために、福音を内容とする福音の形式としての神の命令・要求・律法、すなわち、イエス・キリストの名、イエス・キリストの死と復活の出来事、インマヌエルの出来事、を告白し証しし宣べ伝えていくそれ)の啓示認識・啓示信仰にまで来ることが「標準」である。なぜならば、「私自身もまた神を、自分勝手な気持から愛するのではなく、また誰かが私に対して、そのようにすべきであると言ったから神を愛するのではない」からである。啓示に固有な証明能力に基づいて、私が、キリストにあっての「神が神の愛を通して困窮(≪あの、啓示の客観的現実性・啓示の客観的実在から規定された、その現にあるがままの現実的な人間の人間的存在における、事実的な、真実の「罪と不幸」≫)の中にあるわたしを助けられた」という啓示認識・啓示信仰を授与されることによって、「わたしが困窮の中にあって神を愛するならば、わたしは神を愛さざるを得ないが故に、(≪感謝の応答として≫)神を愛するのである」。啓示に固有な証明能力に基づいてキリストにあっての神を尋ね求める神への愛を、その神への愛を根拠とする神の讃美としての隣人愛へと喚起されるのである。私が、イエス・キリストを信じて生きていきたいということ、イエス・キリストにのみ信頼し固執して生きていきたいということ――このことは、あくまでも神の愛に対する感謝の応答であって、そのことが私を義とするのではない。すなわち、私の義認の根拠は、あくまでも神の側の真実としてのみある主格的属格としての「イエスの信仰」・神の義そのものにあるのである。したがって、神の子供たちが、啓示に固有な証明能力に信頼せず、自らの自主性・自己主張・自己義認の欲求から、隣人に対して、「自分がすでによく知っていると思い込んでいる何事か」をもって、また「非常に多くの善意の努力」や「キリスト教的に意図された隣人のための努力」を持って、そしてまた「多くの見かけ上の隣人愛」をもって、恣意的独断的に、神を愛すべきであるという要求をすることは、「問題」なのであり、首肯することはできないのである。なぜならば、それは、人間自身が対象化した神(「存在者レベルでの神」)の名と呼びかけによる人間自身が支配し管理する救いの計画と救いの方法でしかないからである。それは、福音なき隣人の律法化(福音なき、人間自身の隣人に対象化された倫理、善意、善行)でしかないのである。そこでは、「憐れみ深い隣人」の姿が消失してしまうのである。したがって、神の子供たちと同胞としての隣人との交わりは、啓示の出来事と信仰の出来事という啓示に固有な証明能力に基づいて、すなわち「神の言葉の三形態」を媒介・反復することを通してキリストにあっての神を尋ね求める神への愛を根拠とする神の讃美としての隣人愛、すなわち同胞としての隣人がキリストにあっての神の「救い」に与るために・福音を現実的に所有することができるために、キリストにあっての神から神の子供たちに与えられた福音を内容とする福音の形式としての神の命令・要求・律法、すなわち私たち人間のために「キリストは死に、甦られた」――このイエス・キリストの名(福音)の告白・証し・宣べ伝え、にあるのである。

 

 神の子供たちに対する隣人の正当な「要求」、それゆえに神の子供たちの「義務」は、「わたしが神をほめたたえるということ」、感謝の応答として、啓示に固有な証明能力に基づいて、すなわち「神の言葉の三形態」を媒介・反復することを通してキリストにあっての神を尋ね求める神への愛を根拠とする神の讃美、神の讃美としての隣人愛、へと向かうということ、「わたしの隣人に対して、(その愛をもって神がイエス・キリストにあって、わたしを、そして彼を、愛して下さった)愛について証しをするということである」、そのことを告白し宣べ伝えるということである。したがって、「隣人を愛するということは、……隣人に対して、イエス・キリストの証人となるということ」なのである。神の子供たちが、その現にあるがままの現実的な同胞としての隣人に、「キリストとの連続性にある」人間・「キリストにあるものとしての人間」・「人間の人間的存在が……イエス・キリストの人間的存在である限り」での人間的存在・「イエス・キリストのひとりの兄弟」としての人間を見出すことを通した、隣人「愛の義務は(≪単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける啓示・和解の出来事を≫)証しする義務である」。すなわち、隣人は、神の子供たちにとって、恣意的独断的な律法の対象ではなく、あくまでも啓示に固有な証明能力の下で、福音を内容とする福音の形式としての律法、すなわち彼が現実的に福音を所有できるために、彼にイエス・キリストの名(福音)を告白し証しし宣べ伝えていくことこそが、義務としてあるのである。したがって、バルトは、次のように述べたのである――私たちは、「心を頑固にし福音を認めない人間」や「異教徒」に対して、「恵みから語り、恵みについて語るという以外のこと」をなすことはできない、すなわち、私たちがそうした人々に呼びかけることができるのは、<私が>、「その人をその中に置くことによってではなく」、「律法を満たし・すべての誡めを遵守し給うた」、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の子、神の言葉、啓示・和解)である<イエス・キリストご自身が>、「その人をその中に(≪神の側の真実としてのみある、啓示の客観的実在・啓示の客観的現実性、主格的属格としての「イエスの信仰」・神の義そのもの、イエス・キリストにおいて完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永続的永遠的な救済・平和・解放の中に≫)置いてい給うことによってである」、このような訳であるから、私たちは、キリストにあっての神への感謝の応答として、「キリストにあるものとしての人間のために、(≪福音を内容とする福音の形式としての律法を通して、すなわちイエス・キリストの名、イエス・キリストの死と復活の出来事、インマヌエルの出来事、の告白・証し・宣べ伝えという仕方において、≫)努力し得るにすぎない」、と。したがって、啓示に固有な証明能力に基づいて、キリストにあっての「神によって愛されたものとして彼」・隣人も、「また神を愛し返すであろう……。まさに彼に相対してこのことを信じる信仰をこそ、わたしは……実際に生きなければならない」。したがって、私は、感謝の応答として、啓示に固有な証明能力に基づいてキリストにあっての神を尋ね求める神への愛を根拠とする神の讃美としての隣人愛として、隣人に対して、イエス・キリストの名を告白し証しし宣べ伝えなければならない。なぜならば、「概念のキリスト教的意味での証し」の第一義性は、神の側の真実としてのみある、啓示の客観的実在・啓示の客観的現実性、主格的属格としての「イエスの信仰」・神の義そのもの、イエス・キリストにおいて完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永続的永遠的な救済・平和・解放にあるのであり、その福音の現実的な所有にあるからである。したがってまた、「わたしは証しをする時に、わたしは何も欲しないし、何も欲してはならない」のである・「わたしはただ隣人との具体的な向かい合いの中で、わたしの信仰を生きるだけである」。「キリスト教的な証しの力」は、「この意味」で、すなわち「神の恵みの自由を最高度に尊重する」という意味において、「控え目であるという性格を持っているかどうかということとともに、立ちもすれば倒れもする」のである。したがって、キリスト教的な「証人」は、「牧会的配慮者でもなければ、教育者でもない……」し、同胞としての隣人を自分の恣意的独断的な対象として「『取扱い』はしない」し「自分の活動の対象としない」、また、「わたしからは何も期待してはならず、すべてを神から期待しなければならない」から、自覚的に、自分自身が対象化した神(「存在者レベルでの神」)の名と呼びかけによる自分自身が支配し管理する「救いの計画と救いの方法」を全面的に排除していこうとする。したがって、ただ「わたしは彼」・同胞としての隣人に対して、神の愛に対する感謝の応答として、「神に負うている讃美」、啓示に固有な証明能力に基づくキリストにあっての神を尋ね求める神への愛を根拠とする神の讃美としての隣人愛、イエス・キリストの名の告白・証し・宣べ伝えという隣人に対する「義務」、を「果たす」のである。(458−463頁)

 

 さて、この「証し」の「同時」的・同在的な「三つの決定的な形態」は、次の点にある。
ア)「証しの第一の形態」は、「イエス・キリストの御業」による「私たちの召命・義認・聖化」によって「もしもわたしが本当に助けられており、同時に」、同胞としての隣人と共に「罪と不幸の交わりの中にいる」のを認識するならば、「わたしは彼に対して」、終末論的限界の下で、「言葉」を介して、「何ごとかを語るべくもっているし、語らなければならない」、という点にある。すなわち、それは、「隣人に向かって語る……義務」を負っている、という点にある。したがって、私は、例えば、「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」、ということを語らなければならないであろう、「キリストとの連続性にある」人間・「キリストにあるものとしての人間」・その現にあるがままの現実的な「人間の人間的存在が……イエス・キリストの人間的存在である限り」での人間的存在、「義トサレタ罪人」・罪人にして義人における人間的存在、について語らなければならないであろう。このように、「もしも心がイエス・キリストの恵みの認識で満ちているならば、……おのずからまたそれはわれわれの口をついてあふれ出てゆくであろう」。なぜならば、「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示(和解)に信頼し固執する「認識」・信仰である、その時に初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができる、からである。

 

 律法とは、人間が福音を現実的に所有することができるための神の要求・要請・命令であるから、すなわち福音を内容とする福音の形式であるから、神の讃美としての隣人愛としてのイエス・キリストの名の「証し」(告白・宣べ伝え)は、自分自身の「罪と不幸」・「自分自身の罪と困窮そのものについて語ること」、また「わたしの困窮のいくらかの改善あるいは除去」・わたしの「経験、状態、出来事」について語ること、を「主題」とすることは「ゆるされない」のである。なぜならば、「それ自身ではまだいかなる証しでもない」し、またその場合には、啓示に固有な証明能力に基づいてキリストにあっての神を尋ね求める神への愛を根拠とする神の讃美としての隣人愛として、「わたしは隣人に対してまだ助けにみちたことを、いや絶対的に新しいことを、何も語っていない」からである。このような訳であるから、表現としての言葉を介した「証し」の「主題となることのできる事柄」は、「罪深い人間が滅びず、主を通して救われるために」、神の側の真実としてのみある主格的属格としての「イエスの信仰」において、その死と復活において、キリストにあっての「神が罪深い人間を引き受けられた愛」の「本質および現実存在としてのイエス・キリストの名を指し示す指し示し」にあるのである。すなわち、キリストにあっての神の自己啓示における「彼ら自身に関する真理」、すなわち「神がすでに為した」「わたしの前にいるこの人々のために、キリストは死に、甦られた」――神、罪深きわれらと共に、ということについて「指し示す指し示し」にあるのである。イエス・キリストの名――「この名こそが、われわれが隣人に対して惜しみなく与えなければならず、それをもってわれわれが隣人に対し未来の兄弟として挨拶しなければならないところの言葉である」。イエス・キリストの名――「この名」は、「啓示された、自由な恵みの尊厳さを感謝をもって拝する崇拝の言葉である」。このイエス・キリストの名の「指し示し」が、「イエス・キリストの讃美であり、イエス・キリストについての証し」であり、「神の讃美」であり、イエス・キリストの名の証しを通した神の讃美としての隣人愛である。このキリストにあっての神の讃美、イエス・キリストについての証し、の言葉は、恣意的独断的な人間自身が対象化した神(「存在者レベルでの神」)の名と呼びかけによる人間自身が支配し管理する「救いの計画と救いの方法」を根本的包括的に原理的に「批判」する「言葉である……」。なぜならば、「イエス・キリストはどなたであるか、イエス・キリストを通して何が起こったかについての知識」を尋ね求める、すなわちあの啓示に固有な証明能力に基づいてキリストにあっての神を尋ね求める神への愛を根拠とする「イエス・キリストの讃美……イエス・キリストについての証し……の言葉は、神の正しい讃美であり、それとともに隣人に対する正しい証しであるだろう」からである。キリストにあっての神の讃美、イエス・キリストについての証し、の言葉は、イエス・キリストの名の「受認」として、「同時、……また必然的に信仰告白の言葉であるだろう」。このイエス・キリスト名は、不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性として、すなわちそれ自体が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」として、「教会的な、換言すれば教会から出ており教会へと招き入れる言葉である」だろう。したがって、「教会的な性格」は、「教会を基礎づけ保持する、イエス・キリストについての原証言としての聖書の注釈、説明と適用の言葉であるだろう」。したがってまた、聖書は、旧・新約聖書における預言者・使徒の言葉と霊としてのイエス・キリストの出来事の証しであり証言であり、すなわちイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」であり、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の子、神の言葉、啓示・和解)であるイエス・キリストに関わるから、この聖書は、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての啓示の客観的実在そのものであるイエス・キリストと共に、教会の宣教における原理であり、またこのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である「聖書こそ」が教会に宣教を義務づけているのであるから、「聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのである」。なぜならば、キリストにあっての神は、三位一体の神として、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事という啓示に固有な証明能力に基づいて、「わたしの奉仕(≪神ご自身の愛に対する感謝の応答としての、イエス・キリストの名の告白・証し・宣べ伝え≫)を用いることがおできになる」からである。この時、このイエス・キリストの名の、告白・証し・宣べ伝えは、おのずから惹き起こされた心からの「行動」である。このように、「もしもわたしの証しがイエス・キリストの名についての証しであるならば、……言葉として同時に最も具体的な行為、厳格な文字通りの意味での神の讃美、隣人への愛の、『言葉で語られた』業であるだろう」。しかし、この「『言葉で語られた』業」を介して、それを契機として、隣人が啓示認識・啓示信仰へと到達できるかどうかは、あくまでも啓示に固有な証明能力に属している事柄なのである、神のその都度の自由な決断に属している事柄なのである。言い換えれば、この事柄は、人間に対する限界づけである。したがって、バルトは、次のように言うのである――信仰・神学・教会の宣教の語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身」の決定事項なのであって、私たち人間の決定事項ではない、それゆえに、信仰・神学・教会の宣教の在り方は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基」づいて成立している、と。(463−469頁)

 

イ)「証しの第二の形態」は、すべての人間は、生来、神の「恵みに敵対」し、「神の恵みによって生きようとしないが故」に、「このことこそ、第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急」であったし・あるし・あり続けるということを認識し自覚している者として、またイエス・キリストにおける完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永続的永遠的な救済・平和・解放を必要としていることを認識し自覚している者として、また「自分の力では、ちょうど私自身を助けることができないように、ほかの者を助けることができ」ず、それゆえに神の側の真実としてのみある主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」・神の義そのもの、その死と復活の出来事による以外にはないということを認識し自覚している者として、「わたしは隣人に対して」、彼にも「約束されている神の救助のしるしとして、助けを行うということである」。すなわち、「隣人に対して……助けを行う義務」を負っている。言い換えれば、このことは、恣意的独断的に、「自分勝手な」「生きようとする試みの罪と不幸に対して」、すなわち自分の自主性・自己主張・自己義認の欲求、無神性・不信仰・真実の罪に「生きようとする試みの罪と不幸に対して」、「いままで全然知らなかった助け、外からの助け」・究極的包括的総体的永続的永遠的に「本当に助けることができる」単一性・神性・永遠性を本質とする「まことの兄弟」であるイエス・キリストの助け、イエス・キリストにおける完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永続的永遠的な救済・平和・解放、を指し示す指し示しを意味している。すなわち、「困窮した精神的――肉体的現象」を有する隣人を、究極的包括的総体的永続的永遠的に「本当に助けることができる」「まことの兄弟」は「イエス・キリストだけ」なのであり、「わたしはただイエス・キリストから委任されて兄弟となりうるだけ」なのである、それゆえにその委任において「まことの兄弟であるイエス・キリストを指し示す」という仕方において兄弟となりうるだけなのである。この認識と自覚がないところの、「盲目的」な仕事へと没頭、「人目をひくような簡素さと寡欲さ」への「沈潜」、「その時代の人間中の様々な敗残者に対」する「熱心」な「博愛的配慮……教育的配慮」、「大規模な世界改良の偉大な計画」への邁進、「大衆や時代の傾向と手をたずさえ」た「ある種の正義」への邁進、「これらすべてのことが、一体何だろうか」、これらすべてのことは、「まことに空の空なるかな、である」。ましてや、それらのことが、人間論的にも人間学的にも出鱈目な知識や恣意的独断的な救いの計画と救いの方法によるのであれば、全く救いようがないのである。この場合、最悪なことは、それら出鱈目なことをそのまま鵜呑みにし模倣してしまう同胞としての隣人を道ずれにしてしまうことにあるのである。ちょうど、戦前、「国家の政策を、知識人があらゆるこじつけを駆使して合理化し、それを大衆が知的に模倣し、行動では国家以上に国家を推進」し、支配に直通して、出征時に町内会の見送りを受けて「<家>からでてゆくとき、元気で御奉公してまいります」と挨拶する庶民の「紋切型」の重たさの意味を、知識人たちは全く把握できなかったように、それゆえに知識人たちの知識の在り方が庶民の家族や親族や友人を死に追いやることに加担したように。このような訳で、啓示に固有な証明能力に基づく、同胞たる隣人に対するこの「わたしの兄弟」の「在り方」・「わたしの行為」は、隣人を「本当に助けることができる」「まことの兄弟」――単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示・和解)であるイエス・キリストの「告げ知らせのみでありうる」のである。この場合、「兄弟愛をもっての行為」、すなわち「ひとりの兄弟がほかの兄弟に対してするように援助の手をさしのべるという」言葉を介した「わたしの行動」は、「本当に助けうる唯一の方、イエス・キリスト、にあっての救助と同一」では決してないのであり、そこには無限の質的差異があるのであり、それゆえにそうした限界の下での「彼のための行動」なのである。このような仕方で、同胞としての隣人を助けることによって、「わたしは……ただ」、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示・和解)であるイエス・キリストの「救助のしるしをたてることができるだけ」なのである。この時、「確かに過ぎ去りゆく一時的な、単に部分的なものであるとしても」、過渡的相対的なものであるとしても、同胞としての隣人の罪と不幸・「生の困窮」には「限界が存在するということが、……具象的に明らかになってくる」、すなわち「困窮の軽減と緩和が与えられるようになる」ことによって「具象的に明らかになってくる」。例えば、次のように言うことができる――「律法を悪用する罪に対する神の勝利」とは、イエス・キリストご自身が、私たちを「罪と死との法則」である律法から解放した出来事のことである、なぜならば、人間の「不従順・不信仰に抗して、イエス・キリストにあって義とされている」がゆえに、律法は人間をその不従順・不信仰によって「罪に定めることは出来ない」からである、このように、神の律法が人間を「真に罪に定めない」のであるから、律法は「もはや絶対に『罪と死との法則』」ではない、したがって、ルターに強烈に存在したところの、人間が「律法に対して全体的に不従順であるという事実」における人間に生ずる「生の不安」は、「克服された……慰められた……癒された不安、望みと喜びの確かな岸によって取りかこまれた不安にすぎない」のである、このことは終末論的限界と啓示の弁証法において語られており、それは、「生の不安」がなくなるということではなくて、イエス・キリストにおいて包括し止揚された・「克服された」・「慰められた」・「癒された」・「望みと喜び」の確かさに取り囲まれた「不安」ということなのである、と。もちろん、これらのことが、もしも「成功をもって首尾よくなし」得たとしたならば、それはまさにキリストにあっての神の恵みによるのである。したがって、「わたしはまたここでも、わたしの兄弟らしい振舞をもってただ、本当の助けをなし得る兄弟であり給うイエス・キリストが、(それがみ心である時に、そしてみ心にかなう方法で)わたしをお用いくださるよう、奉仕すべく準備していることができるだけ」なのである。(469−476頁)

 

ウ)「証しの第三の形態」は、隣人に対する「わたしの態度」、すなわち「わたしが言葉と行為を通して彼に語らなければならない……こと」を、「確証する」点にある。言葉と行為を通した証言における態度が問題である。「ある特定の態度」において「出来事として起こる言葉と行為」による「証言が問題」である。この切り放すことができない同時性・同在性・構造性における「言葉や行為と区別された『態度』」は、隣人に対する時の「わたしの心情……気分」として「理解されるべきである」。すなわち、「証しにかなっている……態度」・「心情・気分」・「人格」は、それが、「わたしの言葉と行為」を介した「イエス・キリストについての本当の証しであるならば」・「イエス・キリストが主であることを指し示そうとする指し示し」であるならば・啓示に固有な証明能力に基づいてキリストにあっての神を尋ね求める神への愛を根拠とする神の讃美としての隣人愛であるならば、「福音的な」それのことである。その場合、その態度は、「わたし自身がイエス・キリストの支配のもとに服している」それである、それゆえに、「それはわたしの言葉や行為そのもの」において、「またわたしの隣人に向かって語りかけている」それである。その態度は、次のように言うことができる――@「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示・和解に信頼し固執する「認識」・信仰である。その時初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができる、Aイエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを認識し承認し確認する、したがって私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し承認し確認する、すなわち、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪裁き≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを認識し承認し確認する、B私たち人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所は、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示の場所だけである、と。ここでは、「救われた者は、もっと救われた者らしく見えるはずだ」という人の評価は、「標準」とはならない、「われわれの意識が決定的な標準ではない」。すなわち、この「態度の問題においては、神を讃美し隣人を愛するという、この時代とこの世においてわれわれに課せられた課題に関して、個々の行為をするとかしないとかということではなくて、われわれの生きる態度全体」が問題なのである。「われわれの実存そのものを問う包括的な問い」が問題なのである。私たちのその存在・その思惟・その実践の在り方が問題なのである。「(≪啓示認識・啓示信仰の授与の有無の差異はあるが、身体を座とする、二重規定における≫)われわれの言葉や行為や態度はただ、この現在の過ぎ去るべき世の中での神の子供としてのわれわれの行動を言い表しており、他方、神の前でのわれわれの存在はイエス・キリストにあってのわれわれの存在、そして、来るべき、永続する世にわれわれが属していることの中でのわれわれの存在を言い表している限り、われわれの少しばかりの態度を、この、神の前での、われわれの存在から区別しなければならなし、区別することが許される。しかし、この区別はどうしてもただ、神の子供としてのまさに(≪啓示認識・啓示信仰を授与された、身体を座とする≫)われわれの現実存在が同じひとつのものであるという単一性の内部で力を奮う」ことができる。すなわち、「このわれわれの証しの実在、働き、効果的な活動は決してわれわれ自身の力と処理能力のうちにはなく」、それは、「われわれの行動」(言葉と行為と態度)において、啓示に固有な証明能力に基づいてキリストにあっての神を尋ね求める神への愛を根拠とする「本当の神の讃美へ、本当の隣人愛にまで来る」ためには、「われわれの行動からみてただ奇蹟の性格をもちうる……神ご自身の行動」が、その神ご自身の行動に基づく確証の授与が、啓示の出来事と信仰の出来事という啓示に固有な証明能力に基づく啓示認識・啓示信仰の授与が、「出来事となって起こらなければならない」のである。したがって、この出来事に対して、「われわれはただ」、「われわれの行動」(言葉と行為と態度)において「仕えることができるだけ」なのである。(476−482頁)

 

 

(次回以降)
カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「十八節 神の子らの生活」「三 神の讃美(その4−4)」(482−491頁) (了)
カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』、カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』 (「神の言葉」論の完了)、へと続く。――ここまで完了すれば、バルト自身が『バルト自伝』で、「イエス・キリストにおける私の恩寵の神学として組織だてる」という「私の仕事に生じた変化の意義を見かつ理解するためには、一九三二年と三八年に現われた私の『教会教義学』の最初の二冊」を、すなわち邦訳の『神の言葉』T/1、T/2、II/1、II/2、II/3、II/4を「研究する必要がある」と述べていたことを果たすことができる。因みに『教会教義学』第1巻第1分冊(1932年)と『教会教義学』第1巻第2分冊(1938年)の間に、『福音と律法』(1935年)が出版されている。これからも、拙くとも、倦み疲れず、やれるところまで頑張ってやっていこう。

 

 

 なお、6月30日から7月17日まで、年齢も年齢ですから最初で最後になると思うのですが、北海道の「お試し体験住宅」(格安です)で生活をしながら、道東・道央・道北を巡ってきます。帰宅しましたら、北海道への旅――「お試し体験住宅」の生活と北海道旅行記、として何回かに分けて記事(写真も含めて)にしていきたいと考えています。