本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「十八節 神の子らの生活」「三 神の讃美(その4−2)」

『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「十八節 神の子らの生活」「三 神の讃美(その4−2)」(401−438頁)

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、引用の不備や誤字脱字等の不備はご容赦ください)

 

 下記の事項を参照すれば、理解し易くなります。もちろん、下記の事項は飛ばして、「十八節 神の子らの生活」「三 神の讃美(その4−2)」から読み進んでいただいてもよろしいかと思います。

 

                            記

 

  バルトは、「十八節 神の子らの生活」について、次のような理性的な定式化を行っていた。

 

「神の啓示は、それが聖霊の働きの中で信じられ認識されるところでは、(≪――すなわち、恣意的独断的にではなく、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、神の子、神の言葉、啓示・和解、であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事という啓示に固有な証明能力に基づいて、それゆえにそれ自体が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性である「神の言葉の三形態」を媒介・反復することを通して認識されるところでは、――≫)神をイエス・キリストの中で尋ね求めること(≪すなわち、神への愛≫)なしにはもはや存在せず、また神が既に彼らを見出されたことを証しすること(≪すなわち、感謝の応答としての、神への愛を根拠とした、神の讃美としての隣人愛――隣人が現実的に福音を所有することができるための神の命令・要求・律法であるイエス・キリストにおける福音の告白・証し・宣べ伝え≫)なしには存在することができない」「人間を造り出す」。(302頁)

 

 私たちは、この定式から、「神の子らの生活」について、次のような事柄を聞いた――「啓示がなすよき業」、啓示に固有な証明能力によって規定されたキリスト教的人間の「存在」、すなわち聖霊の注ぎによって更新された「新しい主体と本質として……呼びかけられる」その「存在」・その思惟・その実践は、
@「内面的なもの」、すなわち「ほかの何人も彼のために代理をつとめることができない」「神との向かい合いの中にある」「個人」性・「孤独」性・個体性、「教会のただ中ににあっての個人」性・「孤独」性・個体性、対自的で対他的な「個人」性・「孤独」性・個体性、その「個人」性・「孤独」性・個体性における、神に向かっての自由な「決断」・神のための自由な「決断」、イエス・キリストに対する感謝の応答としての彼にのみ信頼し固着する自由な「決断」、神をキリストの中で尋ね求めるキリストにあっての「神への愛」・「神に対する人間の愛」と、
A「外面的なもの」、すなわち表現された外化された対象化された「個人」性・「孤独」性・個体性、客観的対象性、「神の讃美」としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)への信頼と固執と連帯を通した「交わり」・教会共同性、その「特定」の「行動すること」、その不可避的「必然的な行動」、「新約聖書において聞く啓示、和解」、イエス・キリストの死と復活の出来事、その内容であるインマヌエルの出来事、の告白・証し・宣べ伝え、
との同時性・同在性において理解することができる。
 キリスト教的人間・「彼の生活、行為」、自由な決断、が、「『キリスト教的』性格を明瞭に描き出す」場合、それは、向こう側から、「外から」、「神から」、神の側のから、やって「来る」、それである。すなわち、私や私たちの、「生活、行為」、自由な決断、における「『キリスト教的なもの』は、つねにただ」、「わたし」や「われわれ」ではなく「彼、主」が、私や私たちの「ために」・「代わりにということの表明であることができるだけ」なのである。したがって、それは、終末論的限界の下における、あの啓示に固有な証明能力を通して授与された人間的な人間の自己認識・自己理解・自己規定としての「神の子らの生活」・「教会の生活」・キリスト教的人間の生活としてのそれなのである。このように、それは、主が、イエス・キリストが、「慰めと警告と命令を与えつつ、限界づけつつ、力を奮うということ」であり、「神の子らの生活」・「教会の生活」・キリスト教的人間の生活の根拠である、ということである。したがって、この「神の子らの生活」・「教会の生活」・キリスト教的人間の生活における「キリスト教的なもの」の「実在」は、「彼ら自身の現実存在の隠れた実在である」。このことは、理解し易いように・イメージし易いように、『福音と律法』に即して言い換えれば、@「私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)」(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」ということである、A「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」ということである。すなわち、「彼ら自身の現実存在の隠れた実在」は、「わたし」や「わたしたちではなく彼が」・主が、「イエス・キリストという唯一の名」が、「この実在である」、ということである。
 「ただ間接的にのみ彼はわれわれと、われわれは彼と同一である。なぜならば、彼は神であり、われわれは人間であるからである」、「彼は天にいまし、われわれは地上にいる」からである、「彼は永遠に生き給い、われわれは時間的に生きるからである」、「この限界、終末論的な限界、は、彼とわれわれの間であくまで引かれ続けている」からである。私たちが、「神の子どもたちの生活」、「教会の生活」、キリスト教的人間の生活、を、「聖霊が造り出すものとして理解する時」、この認識と信仰を得る時、例えば前述した『福音と律法』(@・A)における、「交差し合っている」という人間の自己認識・自己理解・自己規定を得るのである。「神の子供たち」・キリスト教的「人間の実際に異なった二つの規定」、すなわち聖書的な「生まれかわりと回心、義認と聖化、信仰と服従、神の子供と奴隷」の区別は、それを「規定する方」である単一性・神性・永遠性を本質とする「イエス・キリストと聖霊」において、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて授与された、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰、またそれに依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定、と言うことができるのである。
 聖霊によって更新された「彼」、すなわち「個人」性・「孤独」性・個体性における「彼」は、聖霊の注ぎによって「確かに神の言葉」を、「永遠の言葉、すなわち、肉をとり、ご自分の肉の中で、われわれの肉を、この言葉を聞き信じるすべてのものの肉を、父の栄光の中へと取り上げた永遠の言葉」を、「聞き、信じる」のであるから、「神をキリストの中」で「尋ね求めることこそ」が、教会や神の子供たち・キリスト教的人間の「生活の内面的なこと」であり、「個人」性・「孤独」性・個体性であり、その対象化された外化(表現)された「個人」性・「孤独」性・個体性は、彼らの外面的な「行為の意図」・教会共同性である。啓示に固有な証明能力に基づいて、すなわち啓示の主観的な可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を媒介・反復することを通した、イエス・キリストにおける啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、「神を見出した者たち」、すなわち啓示認識・啓示信仰を授与された者たち、が、「神をキリストの中で尋ね求めることについて語っている聖書的概念」は、「神への愛」、「神に対する人間の愛」、である。この「神への愛は、その人間がキリストとともに甦えらされたが故に、そのほかの彼の存在が彼から取り去られた後、ただそれだけが彼に残されている存在である」。なぜならば、「イエス・キリストご自身」が、「イエス・キリストにあってなし遂げられたわれわれの義認と解放が、われわれ自身の中においても現実となるため」に、私たち人間に「力と愛と慎との霊を与え給う」からである。「力の霊」とは、イエス・キリストにのみ信頼し固着させる霊である。「愛の霊」とは、イエス・キリストの「御意に従わしめる」霊・「律法の完成」であるイエス・キリストに対する愛の霊のことである。「慎みの霊」とは、人間が神の要求に対して自己主張し破滅することを防ぐ霊であり、人間が神を救い主として神を見・神に聞くよう促す霊である。
 この時、理性的な定式化における前者の「個人」性・「孤独」性・個体性は、「神をイエス・キリストの中で、尋ね求めることなしに、もはや存在すること」・思惟すること・実践することができないそれなのである。しかし、ただなお、「彼の背後には、……彼の既に片づけられた(≪キリストの復活によって根本的包括的に止揚し・克服された≫)罪、死の深淵がある」。すなわち、イエス・キリストにあって、「彼」は、啓示の弁証法において「恵みを受けた罪人である、義トサレタ罪人である」。また、理性的な定式化における後者のキリスト教的人間の、「外面的なもの」、「特定」の「行動すること」、「交わり」・教会共同性、啓示に固有な証明能力に基づいてキリストにあっての神を尋ね求める神への愛を根拠とする「神の讃美」としての隣人愛は、「彼らに語らなければならない彼ら自身に関する真理」である「神がすでに為した」・完了したところの全人間・全世界・全人類のために「キリストは死に、甦えられた」というイエス・キリストの死と復活の出来事、その内容であるインマヌエル――神、罪深きわれらと共に、ということ、「新約聖書において聞く啓示、和解」の出来事、感謝の応答としてのその告白・「証し」・「宣べ伝え」にあるのである。なぜならば、「彼」は、聖霊の注ぎにより、「神の自由の中で、彼自身自由となり、神の子供となった」し、「神に向かって自由」となったし、「神のための自由」を得た、のだからである。したがって、「彼」は、「彼の現実存在全体を通して」、神に向かっての自由、神のための自由、の「決断」において、「生きるのである」。しかし、「彼の背後」には、依然として、神に向かっての人間の自由、神のための人間の自由、の「決断」とは違った「決断」を行う、イエス・キリストの死と復活の出来事によって止揚し・克服されたところの、人間の神からの離反・背き・罪、無神性、不信仰、があるのである。したがって、「彼」は、「ただ、キリストにあって」のみ、「救われている」のである。「まさにそれだからこそ、キリストについての証言に向かっての(≪神に向かっての自由、神のための自由、の≫)決断の中で、彼は生きる」のである。「彼」は、聖霊の注ぎによって、授与される啓示認識・啓示信仰である「義トサレタ罪人として」、キリストの「死と復活」の出来事を、神に向かっての自由、神のための自由、の「決断」において、「証ししようと欲し」、「証しし、告白する」のである。「外的な行い・業へと向か」わせられるのである、福音を宣べ伝えることへと向かわせられるのである、。この時、彼は、キリスト教的人間における「個人」性・「孤独」性・個体性であるにもかかわらず、教会共同性の中に、「教会の交わりの中にいるのである」。聖書的概念として、「われわれが見出され、救われていることをこのように証しし、告白すること」・宣べ伝えることは、「神の讃美」、「神の讃美」としての隣人愛である。それは、キリストの死と復活の出来事からやってくる、不可避的「必然的な行動」としての、告白・証し・宣べ伝え、である。なぜならば、「個々の人間による和解の主体的実現という問題は、絶対に欠くことの出来ない問題」ではあるが、「イエス・キリストにおいて客観的に起った和解の主体的実現は、まず第一に教団において、イエス・キリストの聖霊の業として遂行される」(『カール・バルト教会教義学 和解論T/1』)からである、また、恩寵が「告知」・「証し」・「宣教」される時、「私は私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものだ」、イエス・キリストにのみ固着せよ、という福音を内容とする福音の形式である律法が建てられるのであるが 、それは、その律法(神の要求・要請としてのあの告白・証し・宣べ伝え)がなければ、私たち人間は、現実的に福音を所有することができないからである(『福音と律法』)。
 キリスト復活・昇天から再臨、終末、救贖・完成までの聖霊の時代における「キリスト教的生活」、「教会の生活」、「神の子供たちの生活」は、終末論的限界の下において、「神をキリストの中で尋ね求め」、「見出す人間」の途上の生活である。ここに、「神学的倫理学……の原理」がある。それは、「神への愛」、「神に対する人間の愛」、と、それに基づく「神の讃美」、「神の讃美」としての隣人愛、すなわちイエス・キリストの死と復活の出来事の告白・証し・宣べ伝え、との同時性・同在性においてあるのである。このように、教義学が、「キリスト教的人間の問題を既にその基本的な考察」の対象として「承認し、取り扱」い、「倫理学を自分の中に取り上げている」のであるから、「特別な、神学的倫理学」を必要としないのである。なぜならば、「教義学自身」が、終末論的限界の下での「神の言葉についての反省的考察」であり、神学的な「倫理学であるからである」。

 

 啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力に基づいて、「神がご自分を信仰の中で彼らに与え給う故」に、神と人間との無限の質的差異の下で、また終末論的限界の下で、「人間の創造主」として「神」は、「義とされた罪人」としてのその現にあるがままの現実的な人間存在である「彼らにとって対象的」となる。すなわち、イエス・キリストにあっての神は、客観的対象性として、それ自体聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を、私たち、その現にあるがままの現実的な人間存在、に、授与されるのである。「また……(≪そのようにして≫)神が彼らにとって対象となる」ことによって、「神は彼らにとって信仰の中で彼ら自身のものとなる」、すなわち神の側から人間に「向かい合」う。この「向かい合いは、……神が人間の心の中に現臨し給うことの形式(≪啓示の主観的現実性、啓示の主観的実在、啓示認識・啓示信仰≫)であるが」、この神の人間との「向かい合い」において、神は、人間の神への愛を「ゆるし、人間によって愛されることを欲し給う」。「ひとりの他者を愛する」ということは、「愛の決定的な要素である」。自由・主権がそうであったように、愛も、神ご自身においてのみ「真理であり実在」であるから、この「愛の……要素」は、「ただ神への愛」においてだけ、それゆえにその「神への愛」に包摂され、「神への愛とともに措定される(≪神の讃美としての≫)隣人への愛」においてだけ、「実在である」。なぜならば、「すべてのそのほかの愛することは」、それがその現にあるがままの現実的な人間存在における愛である限り、「愛するものがただ自分ひとりだけでいる」愛、自己愛の対象的な疎外、自己愛の外化(表現)としかならないからである。言い換えれば、啓示に固有な証明能力に基づいて授与される啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通した(それゆえに、<自然神学>的な存在の類比を通してでは決してない)人間の自己認識・自己理解・自己規定を必要とするのである、その<更新>された愛の措定・愛の概念の措定を必要とするのである。(352・353頁)

 

 単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(性質・行為・働き・業、神の子、神の言葉、啓示・和解)である「イエス・キリストの名」(啓示の客観的実在・啓示の客観的現実性)にあっての神が、私たち人間にとって対象的となるためには、その啓示に固有な証明能力、すなわちそれ自体が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を媒介・反復することを通した、イエス・キリストの啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される、終末論的限界の下での、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰を必要とすることは、神と人間との無限の質的差異、神の聖性、神の隠蔽性・秘義性、神の不把握性からすれば、自明な事柄なのである。もしもそうでないならば、その神は、人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」でしかないし、それゆえに、近代以降の宗教は科学主義(その正反対の極限を想定すれば天然自然主義)にあると規定されるところの神と同様であるし、またそこで考え出された様々な「救いの計画と救いの方法」は、その「神」の名と呼びかけによる人間自身が支配し管理するそれでしかないものなのである。正当性のある根本的包括的な原理的な宗教批判を行ったフォイエルバッハやマルクスやハイデッガー等は、そのことを見抜いたのである。
 したがって、例えば、「新約聖書の釈義に役立つ新しい哲学的な鍵」を、前期ハイデッガーの哲学原理に見出したブルトマン(その学派、党派性、党派的共同性)に対して、ハイデッガー自身は、「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」、と述べたのである。したがってまた、バルトは、例えば、次のような、質の良い語り方をするのである――「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)・「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)。
 イエス・キリストにあっての神の愛に根拠づけられた神の讃美としての隣人愛を包摂した神への愛は、それが「自分自身の存在と行為」の全体性におけるそれであっても、また「神の子供としての存在と行為」の全体性におけるそれであっても、その自分の愛が・愛の奉仕が、「自分を義とすることはできないこと」を認識させ承認させ確認させる。したがって、「愛はただ神的な恵みのしるしをうち立てることであり、うち立てることであろうと欲することができるだけ」なのである。すなわち、神の讃美としての隣人愛を包摂した「神への愛」は、次に述べる後者の事柄へと向かわせるのである。聖霊の注ぎによって更新された「新しい主体と本質として……呼びかけられる」その「存在」・その思惟・その実践は、第一に、「内面的なもの」、すなわち「ほかの何人も彼のために代理をつとめることができない」「神との向かい合いの中にある」「個人」性・「孤独」性・個体性、「教会のただ中ににあっての個人」性・「孤独」性・個体性、対自的で対他的な「個人」性・「孤独」性・個体性、その「個人」性・「孤独」性・個体性における、神に向かっての自由な「決断」・神のための自由な「決断」、イエス・キリストに対する感謝の応答としての彼にのみ信頼し固着する自由な「決断」、神をキリストの中で尋ね求めるキリストにあっての「神への愛」・「神に対する人間の愛」と、第二に、「外面的なもの」、すなわち表現された外化された「個人」性・「孤独」性・個体性、客観的対象性、「神の讃美」としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)への信頼と固執と連帯を通した「交わり」・教会共同性、その「特定」の「行動すること」、その不可避的「必然的な行動」、「新約聖書において聞く啓示、和解」、イエス・キリストの死と復活の出来事、その内容であるインマヌエルの出来事、の告白・証し・宣べ伝え、との同時性・同在性へと向かわせられるのである。この後者の事柄は、「われわれが神を愛することがゆるされる」ことによって、「起こる」のである。すなわち、啓示に固有な証明能力に基づいてキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」は、「われわれ自身の現実存在」を、おのずから必然的に、「神の讃美へと移行」させて行くのである、「神の讃美」としての隣人愛へと移行させて行くのである。「神が人間に向かって語り給うたことに対する人間の応答として」、「神の愛は全く活動的なものである」。それは、その都度の神の自由な決断による、神の言葉の「出来事」の運動においてある。このようなイエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固着する感謝の「応答としての神への愛」は、またその告白・証し・宣べ伝えにおいて「神の讃美」としての隣人愛を包摂した神への愛は、人間の、すべての自己義認の欲求の放棄・すべての自負の放棄・「すべての自己賞賛とすべての自己主張の放棄」・すべての自主性の放棄において、「神のみ業の証し」となるのである。

 

 

「十八節 神の子らの生活」「三 神の讃美(その4−2)」

 

 これまでに「解明された神への愛と隣人愛の関係についての前提に基づいて、隣人愛とは何を意味しているのか……」。

 

(1)キリストの復活・昇天から再臨までの間の聖霊の時代における「『汝は……すべし』は、概念の外延全体の中で神の子供たちに対して向けられた神の命令と要求を意味している……」。先ず以て、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力に基づく、すなわちそれ自体聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を媒介・反復することを通した、キリストにあっての神を尋ね求める神への愛――この第一の命令の「全体性と絶対性こそ」が、「現在の過ぎ去りゆく世」のただ中において、この時代と世界のただ中において、恣意的独断的にではなく、神への愛を根拠とした神の讃美としての隣人愛において、イエス・キリストにおける死と復活の出来事(啓示・和解)、その内容であるインマヌエルの出来事、に対する感謝の応答としての告白・証し・宣べ伝えにおいて、「具体的形態をもつ」ことを目指している。なぜならば、福音を内容とする福音の形式である律法(神の命令・要求・要請)が無ければ、私たち人間は、現実的に福音を所有することができないからである。すなわち、神の子供たちは、「現在の、過ぎ去りゆく世のただ中において、(≪キリストにあっての≫)神が彼らを見出し給うこと」、それゆえに、先ず以てその啓示に固有な証明能力に基づいて「キリストにあっての神を尋ね求めること・神への愛」を、そして「同時に」、そのことに対する感謝の応答としての告白・「証し」・宣べ伝えを、「やめることはできない」のである。
 さて、聖書的な、神の子供たちのその現にあるがままの人間の「現実存在の二重規定」は、「義トサレタ罪人」であり、「来るべき世と過ぎ去りつつある世に属するものである」、という点にあった。この「属する者」というのは、彼・彼らのみがその人間の「現実存在の二重規定」を専有しているということではなくて、彼・彼らは、それを、イエス・キリストにおける啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて認識し信仰している者ということである。なぜならば、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の子、神の言葉、啓示・和解)であるイエス・キリストにおける救済・平和・解放は、完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的救済・平和・解放としてあるからである。したがって、一方で、「彼らは(≪キリストにあっての神に≫)見出された」者、「来るべき世に属する」者、私たち人間の人間的存在が「イエス・キリストの人間的存在」であるところの者、それゆえにその私たち人間の人間的存在が自分自身にとっても唯一の「主」・「避け所」・「城」・「神」である「われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリスト」の人間的存在であるところの者、という啓示認識・啓示信仰を授与された者であるのであるが、と同時に「また」、「彼らは過ぎ去りゆく世に属するものである」――すなわち「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である」ところの者、「一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰」を生きる者、信における不信に生きる者、「全く闇に閉ざされた」者、現実的な市民社会に規定された私意・私利に生きる者、情念の世界や動物的残虐性の世界も生きる者、「そのままでは神に接するための器官や能力」を一切持っていない者、人間自然としての「理性や力」・諸能力を持ってはいてもそれに基づいては啓示認識・啓示信仰を所有することは全く不可能であると規定された者、神から離反する者、神に「敵対」し神に「服従」しない者、神に「人間的反抗」をする者、「罪深い堕落した」者、自主性・自己主張・自己義認の欲求に生きる者、それゆえに無神性・不信仰・真実の罪に生きる者、である。このような訳であるから、第二の命令における神の讃美としての隣人愛は、「神の子供としての彼らの現実存在の単一性を、それとともにその全体性を思い出させる」のであるが、彼が、その神の讃美としての隣人愛の課題を、直接的無媒介的に、自分が現に身近に接している「食物の飢え」等々で困窮している具体的な一人の人や一部の人を施しや奉仕によって緊急的過渡的一時的に救済しようとする「歩みと行動」に置く場合、その隣人愛の「歩みと行動」は、自己愛の対象的な疎外・自己愛の外化(表現)のそれとしかならないし、往相的な相対的・部分的・一面的・皮相的な救済・平和・解放のそれとしかならないのである。なぜならば、彼のその隣人愛は、啓示に固有な証明能力に基づいた、キリストにあっての神を尋ね求める神への愛に根拠づけられたそれではないからである、それゆえにイエス・キリストにおける完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和・解放に対する感謝の応答としてのその告白・証し・宣べ伝えのそれではないからである、また彼のその神は彼自身が対象化した神であり・彼の考え出した「救いの計画と救いの方法」はその神の名と呼びかけによる彼自身が支配し管理する恣意的独断的な「救いの計画と救いの方法」でしかないからである。第一と第二の、二つの命令の関連と相違性とは、神への愛の命令は感謝の応答としての「神の讃美」としての隣人愛を包摂し含んでいるということであり、それゆえに、隣人愛は神への愛の下位に立っており、「神への愛の命令の絶対性にあずか」っているのであり、それゆえにまた、「神の讃美」としての隣人愛は、私たち人間の恣意性や独断性に委ねられてはいないのである。したがって、「人間性型の(≪神への愛と隣人愛の同一化の≫)思想」・「哲学」、その行動・実践は、また「歴史神学者」が主張する「現実主義」的な「超個人的な外的な拘束や義務」における「秩序型の(≪神への愛と隣人愛の同一化の≫)思想」・「哲学」、その行動・実践は、すなわち人間の恣意性や独断性に委ねられた隣人愛や善意による愛の奉仕は、バルトが述べているように、次のような事態を惹き起こすのである――「ドストエフスキーの書いたあの大審問官は、神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていたのであるが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の善意(≪この場合、この善意は、彼の神はまさしく彼自身が対象化した「存在者レベルでの神」であり、それゆえに彼のその「救いの計画と救いの方法」はその神の名と呼びかけによるそれであり、それゆえにまたそれは彼自身の支配と管理を隠し持った善意である≫)によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、最も洗練された支配行為に過ぎなかったのである。神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえどのように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう。またそのようなところには、教会は存在しないのである。そのような救いの計画と救いの方法の独断性が、神に余りに僅かしか信頼せず、人間に余りに多く信頼するという点に現われるということは、疑いない」という事態を惹き起こすのである(『啓示・教会・神学』)。
 私たちは、神への愛の命令を、「来たりつつある、永続する時間と世界」、「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」・「新しい世」界、「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」イエス・キリストの連続性における時間と世界、の中での、私たち人間の「現実存在にあてはめ」、また隣人愛の命令を、「過ぎ去りゆく時間と世界」、「古い時間」・「古い世」界、「失われた」「否定的判決の」時間と世界、の中での、私たち人間の「現実存在にあてはめる限り」、「第一の命令と第二の命令、先行する命令と後続する命令、優位に立つ命令と下位に立つ命令、永遠的命令と時間的命令、とかかわりをもたなければならない」のである。この場合、後者の「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限り」でのその現にあるがままの現実的な人間存在の時間・世界は、キリストの復活における神の「勝利の行為」、すなわち「新しい時間」・「新しい世」界によって根本的包括的総体的永遠的に止揚され・克服されたそれとしてそこにあるそれである。したがって、一方で、キリスト再臨、終末、完成までは、なお依然として「このわれわれの時間と世は現在の、過ぎ去りゆく時間と世である……」、そうであり続ける。したがってまた、ヘーゲル主義を踏襲したモルトマンの神学的な三段階的進歩史観は、すでに時代状況がゆるさないから自然時空に死語化してしまっているのであるが、それと同時に、状況的にも神学的にも、彼の歴史と終末論との交叉論・混淆論・混合論・協働論・共働論も、旧態依然な自然神学の<段階>に停滞した形而上学的抽象的空論的なそれでしかないものなのである。このような訳で、隣人愛は、啓示に固有な証明能力に基づいてキリストにあっての神を尋ね求める、「神への愛ゆえに」、神への愛の「命令の中で」、神への愛の「命令と共にわれわれに命じられており、神への愛は隣人愛の実質的な根拠であり、解釈原理であるとともに、他方隣人愛」は、「神への愛のしるし」、イエス・キリストにあっての神への感謝の応答としての、「新約聖書において聞く啓示、和解」、その内容であるインマヌエルの出来事、神の側の真実としてのみある、「永遠的実在」として<すでに>にあるイエス・キリストにける完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的救済・平和・解放の告白・証し・宣べ伝え、すなわち「神の讃美」である。

 

 このような訳であるから、諸本の多読を自負し自慢し、一流・エリートを自称している佐藤優の個人救済論は、救済論から言えば、身近な農民のために身も心も尽くして「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」・全体が幸せにならなければほんとうの幸せとはならない(『農業芸術概論綱要』や『よだかの星』における課題)と述べた宮沢賢治におけるような思想の往還を全く認識し理解し自覚し持っていない、往相的な形而上学的一面的皮相的固定的抽象的な救済論の典型なのである。また佐藤の「権威」としての「天皇」制的「国家」論も、革命論・国家論の問題から言えば、その過渡的課題である社会を第一義とする<社会主義>国家(注意されたい! ソ連もロシアも中国も、<社会主義>国家ではなく、国家を第一義とする<国家>社会主義、である。もちろん、ナチズムも、全体主義も、スターリニズムも、修正資本主義も、国家を第一義(価値)とする<国家>社会主義である、新保守主義と結びついた小さな政府を目指す新自由主義もそうである)への移行の課題をさえ認識し理解し自覚し持っていないところの、国家を第一義とする国家主義的国家論の典型である。観念の共同性を本質とする政治や国家を事実的にのみ考える佐藤の「権威」としての「天皇」制的「国家」論は、既存の事実的な枠組みの中で停滞と循環を繰り返しているだけの戯言である。したがって、このように、革命論・国家論の究極的課題だけでなく過渡的課題をも認識し理解し自覚し持っていない佐藤の場合、すなわち一部支配上層の意思によって動かすことのできる軍事部門を持つ国家を第一義とする国家主義者の佐藤の場合、戦争廃絶の構想を持てないし・持たないことは、論理的に自明なことなのである。経済は世界性を持ちながらも、民族国家・自由主義国家・政治的近代国家を単位として動いているこの世界においては、大国主義や安保理拒否権やがまかり通る国連は根本的究極的に役立たずなのであって、その政治的国家が存在する限り戦争廃絶はあり得ないのであり、それゆえに平和な世界や社会の実現は不可能なことは自明なことなのである。このような訳であるから、現存する悪循環に停滞している事実的政治の枠組みを止揚しそこから超え出て行く、抽象力・構想力が必要なのである。こうしたことが、国家主義者の佐藤優や靖国参拝推進論の冨岡幸一郎や牧師の関口康には理解できないのである。吉本隆明が述べていたように、例えば、「歴史的に<天皇制>を問題とするとき、歴史時代的にこれを問題にしたらだめで歴史時代以前の視点を包括する眼で問題にしなければ、南島の問題やアイヌの問題や在日朝鮮人の問題を包括する」ことはできないのである。この場合、既存の枠組みを止揚しそこから超え出て行く抽象力・構想力が必要なのである。「祭儀ひとつとっても、天皇族独自の祭儀はなかった」ことを根拠づけることができれば、天皇制の根拠を相対化し無化することができるのである。この天皇制を相対化し無化していく課題は、日本においては、まだ山の民と海の民と陸の民の相互変換が可能であった共同体の水準、「<法>が法以前の<宗教>的な<威力>であったときの共同体」の水準、「国家が国家以前の共同体」の水準であった時期にまで歴史的時間を遡及し追究していくところに、すなわち鳥瞰図の時間軸を拡張させて考察し追究していくところにあるのである。なぜならば、天皇制という「歴史時代の一国家の歴史は、千数百年」に過ぎず、「そういうものに、人類的にも生活的にも文化的にも価値を収斂させるわけにはいかない」からである。そのような作業において、地域としての南島(宗教祭儀)やアイヌ(言葉)の問題は、人類史における世界普遍的な課題に連帯させることができる。歴史時代的に問題とされる現存する日本国は、それ以前にまで時間を遡及させ追究することで、すなわちそれ以前から先住していた先住民のアイヌの言葉や南島の宗教祭儀を考察し追究することで、相対化し無化していくことができるのである。この場合、抽象力・構想力を必要とするのである。
 こうした問題だけでなくさらに問題はあるのであって、それは、戦後に戦争責任の告白をし・平和や正義や愛を標榜する日本キリスト教団の上層部や諸教会の牧師たちや神学者たちやキリスト教的メディア的著述家たちが、佐藤や冨岡たちを持ちあげ温存はしても批判をしないことにあるのであり、このとは、ごく普通に考えて、全くおかしなことなのである。また、そのおかしなことに鈍感なことがまたおかしなことなのである。このことは、キリスト教的カルト的宗教と同じように、イエス・キリストを主・頭とする現存する神的側面と人間的側面を構造とする教団・教会の、その人間的側面の堕落のしるしなのである。今や、日本キリスト教団の戦争責任の告白の言葉さえも、自然時空の中に、死語化してしまったのである。そういえば、バルトは、@1948年に、「六〇〇万人のユダヤ人が殺され……ありとあらゆる恐怖と困窮が人間を襲い、しかもすべてはちょうど風が……花の上を吹くように来て、また去って行った。……草や花はしばらく身を曲げる。しかし風が静まれば、また身を起こす。……ある近代劇」が『私たちはまた逃げおおせた』という言葉(≪近代以降の、神と人間・神学と人間学との混淆論・共働論・協働論を目指した自然神学の段階にある神学者や牧師やキリスト教的メディア的著述家等々たちが、同じように旧態依然として自然神学の段階を停滞し循環している言葉≫)でこれを言い直しているように」、と書いていた(ブッシュ『バルト神学入門』)。まだある。バルトは、A第二次世界大戦後において、「私は教会のなかに、破滅に急ぎつつあった一九三三年当時と同じ構造、党派、支配的傾向を見出した」・「公然たる信条主義や教権主義、およびいろいろ賑やかな姿で現われている典礼主義への興味によってよびおこされた関心」を見出した・「私は、前よりももっと明瞭に人間――キリスト者もまた、そしてキリスト者こそ!――がもともと頑なであり、容易に悔改めに導かれえないということを認識したのである」、と書いていた(カール・バルト『バルト自伝』)。それから70年になんなんとしているにもかかわらず、その状態は、ちっとも変ってはいない、――いや、「悪くなる一方じゃないか」(『正義と微笑』)。

 

 先述したように、神の讃美としての隣人愛は、「神がわれわれを愛して下さる」神の愛への感謝の応答として、啓示に固有な証明能力に基づいてキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛の中に基礎づけられて」おり、それゆえにそのように「(≪イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて≫)理解する時、(≪キリストの死と復活によって、すなわち、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求、無神性・不信仰、「真実の罪に対する神の勝利」の出来事によって、また人間の「律法を悪用する罪に対する神の勝利」の出来事によって、そしてまた私たち人間に、イエス・キリストにのみ固着させる「力の霊」、イエス・キリストの「御意に従わしめる霊」また「律法の完成」・成就者であるイエスキリストに対する「愛の霊」、人間が神の要求(律法・命令)に対して自己主張して破滅することを防ぐ「慎みの霊」、を授与する「神の勝利」の出来事によって、≫)『汝は……すべし』はここでもまた、『汝は……であろう』という約束」において認識し理解することができるのである。したがって、「隣人愛が登場するところ、そこでは、神を愛するものとしてのわれわれの歩みと行動が問題」となるのである。神への愛を内容とするその「外的なこと」・その表現(外化)・その「歩みと行動が問題」となるのである。この「歩みと行動」が、「汝は、神によって愛されたもの」とならなければならないであろう、それゆえに神への愛として、「汝を見出し給うた」キリストにあっての神を「尋ね求める(≪「神をイエス・キリストの中で尋ね求める」≫)であろう」ということを「指し示しているとすれ」ば、それと同時的・同在的な第二の命令、神の讃美としての隣人愛の「汝は……すべし」もまた、永遠的実在としての啓示の時間における「未来」において、「第一の命令を聞くもの」、すなわち「神を愛するものとして語りかけられているもの」ということを指し示しているのである。そして、キリストにあっての神を尋ね求める神への愛を根拠として「神を愛するこのもの」は、感謝の応答として、すなわち神の讃美として「自分自身のように隣人を愛するであろう……」。全人間・全世界・全人類が、現実的に福音を所有することができために、すなわちイエス・キリストにおける完了された全人間・全世界・全人類の根本的包括的総体的永遠的な救済・平和・解放を所有することができるために、先ず以て、神への愛を根拠とする神の讃美としての隣人愛として、そのイエス・キリストの名を告白し証しし宣べ伝えるであろう。
 さて、「律法を悪用する罪に対する神の勝利」とは、イエス・キリストご自身が、私たちを「罪と死との法則」である律法から解放した出来事のことであった。なぜならば、人間の「不従順・不信仰に抗して、イエス・キリストにあって義とされている」がゆえに、律法は人間をその不従順・不信仰によって「罪に定めることは出来ない」からである。このように、神の律法が人間を「真に罪に定めない」のであるから、律法は「もはや絶対に『罪と死との法則』」ではない。なぜならば、福音を内容とする福音の形式としての律法は、神の側の真実としてのみある主格的属格としての「イエスの信仰」・神の義そのもの(啓示の客観的現実性・啓示の客観的実在)に根拠づけられた福音を内容としているから、それゆえに「福音の中核」であるイエス・キリストが「律法を満たし・すべての誡めを遵守し給うたという事実」から考えられなければならないから、神の律法(神の人間に対する要求・要請・命令)は、@人間に対して、「罪と死の法則」としての律法・「汝斯く斯くなるべし」という要求から、「生命の御霊の法則」としての律法・「汝斯く斯くならん」という約束へと回復せしめられたそれなのである、A「遂行せよ」と求める要求から、「信頼せよ」と求める要求へと回復せしめられたそれなのである。したがって、私たち全人間・全世界・全人類は、「『生命の御霊の法則』である律法によってイエス・キリストにあって解放された」のであるから、「われわれが己の解放を与えられるためには、彼に固着し得る」だけなのである。このような訳で、神の子供たちにとっては、第一の命令(神の律法・要求・要請)も、その神への愛を根拠とする第二の命令(神の律法・要求・要請)も、「全く同じように、福音である」。言い換えれば、それは、福音を内容とする福音の形式としてのそれなのである。したがって、第一の命令は、恣意的独断的にではなく、あくまでも、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(性質・行為・働き・業、神の子、神の言葉、啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく啓示に固有な証明能力への信頼と固執、すなわちそれ自体が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)への信頼と固執とそれを媒介・反復することを通して、キリストにあっての神を尋ね求める神への愛のことなのである。それと同時的同在的な第二の命令は、その神への愛を根拠とする、感謝の応答としての神の讃美としての隣人愛のこと、すなわち先ず以て具体的には、イエス・キリストの名の告白・証し・宣べ伝えのことなのである。「ワタシタチガ、マズ前モッテ神ヲ愛サナイナラバ、隣人ヲ愛スルコトガデキナイ、トイウコトハ確カデアル。ナゼナラバマコトノ愛ハソノ源カラワキ出ルカラデアル(カルヴァン)」。(401−403頁)

 

 このようにして、神の子供たちは、「隣人を、自分自身のように愛するであろう……」。この場合、神の子供たちは、「現在の、過ぎ去りゆく世に属するもの」としてのその現にあるがままの人間の「現実存在においても」、すなわちキリストの「再臨」における「からだをもっての死人の甦えりのこちら側」の生・此岸の生においても、不可視的な「隠された身分」としての性質、すなわち「来るべき、永続する世の市民としての性質」を喪失したり・「放棄したり」・「抑圧してしまうことはできない……」のである。この場合ももちろん、神の子供たちは、「イエス・キリストご自身ではなく」、あくまでも啓示に固有な証明能力に基づいてイエス・キリストを主・頭とする、その主・頭の「地上的なからだの地上的な肢体」なのである。すなわち、その時、神の子供たちは、「この世と時間の内部で、われわれの人間性の中で」、「神への讃美」の形態において、神の讃美としての隣人愛において、「地上的――人間的な証しの光」である(マタイ5・14以下)。啓示に固有な証明能力に基づいてキリストにあっての「神を愛すること」・尋ね求めること――すなわち神への愛は、先ず以て「神がわれわれを愛して下さる愛への応答であるが故に」、「われわれを全くの感謝の状態におく」のである。その時、その感謝の応答において、神の讃美としての隣人愛へと、私たち人間が福音を現実的に所有することができるために、先ず以て、イエス・キリストの名の告白・証し・宣べ伝えへと、向かわしめるのである。その時、「われわれは……、イエス・キリストは甦えられ、天にのぼられたということを通して」、キリストの復活と昇天を通して、「またそのことに基づいて」、神と人間との無限の質的差異の下で、また終末論的限界の下で、「感謝するものの歩みと行動」へと「拘束され」・「動かされ」て、拙いながらも、イエス・キリストの名の告白・証し・宣べ伝えへという「われわれの歩みと行動」をなすのである。この神の子供たちの「本性の必然性をもって」、「われわれの現実存在の中で、(≪その「感謝するものの歩みと行動」へと拘束され」・「動かされ」た、不可避的な「われわれの歩みと行動」は≫)しるしおよび証しとなるのである」。このような訳であるから、イエス・キリストの名に対する感謝の「しるしおよび証しとなる」この「歩みと行動」は、人間の恣意性・独断性、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求、に基づいては全くいないのである。(404−406頁)

 

 したがって、「このなるということ」は、「われわれの勝手な恣意にまかせられてはいない」。恣意的な独断的な神の讃美は、結局は、神学者あるいは牧師あるいはキリスト教的メディア的著述家――その人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」の讃美としかならないであろう、それゆえに「この世と、この世を通して規定されたわれわれ自身の古き本質の転倒とはかなさ」に対する讃美としかならないであろう、「われわれの(≪直接的な身体を経由した、≫)体験と考察から由来しているものは、……神にふさわしい、み心にかなう讃美……ではない」。その場合、ハイデッガーに、それよりは「むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい」と揶揄されてしまうだろう。したがって、バルトは、次のように言うのである――すなわち、「このなるということ」は、神のその都度の自由な決断によるイエス・キリストにおける啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく啓示に固有な証明能力、すなわちそれ自体が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)への信頼と固執とそれを媒介・反復することを通して授与される、終末論的限界のもとでの、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰、それに依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定に強いらたそれである、と。「神をイエス・キリストの中で尋ね求める」「真剣な」「神への愛」、そのキリストにあっての神への感謝の応答・外化・表現としての「イエス・キリストの甦えりと昇天」についての「証しが実際に、言葉と霊を通して新しく生まれた神の子供たちの証しであるところで、この証しを定め、秩序づけ給う方は、その啓示の中での神である」、と。この意味で、第二の命令・神の讃美としての隣人愛の命令は、「この世における」、すなわち「神の裁きと忍耐のもとでわれわれに許容された時間の中でのわれわれの未来である」。「自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリスト(≪単一性・神性・永遠性を本質とする、啓示の客観的実在・啓示の客観的現実性としての、イエス・キリスト≫)が、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである (『福音と律法』)。したがって、救済を「信仰の中で持つ」ことは、「約束として持つ」ことである。「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」。「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」・人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてのみある、啓示の客観的実在・啓示の客観的現実性、「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである。(406−408頁)

 

(2)この時間と世界の中において、第二の命令の「隣人」は、「誰」であり、またその隣人が「どのようにして、……われわれの感謝のしるしおよび証言」の不可避的な契機を形成するのか。ここで、「われわれに相対しておかれた隣人」において問題は、その不可避的に、「すえおかれた」「同胞たる人間(Mitmensch)」についてである。「聖書的な表現で隣人」、「ほかの人」、「兄弟および(相互二格)互いに」は、「われわれに近いこととわれわれと違っていること」、「またわれわれに対してすえおかれている」人間、「同胞たる人間を意味している……」。また、「数多くの重要な脈絡の中で、人という単語(マタイ6・14、7・12、10・32以下、ルカ5・10、ローマ12・17以下、Uコリント3・2、コロサイ1・28等々)」が使われている。したがって、カルヴァンが第二の「命令の内容を時折、ソノヨウナワケデ、神ガ認識サレルトコロ、人間性モ尊重サレルというふうに要約した」ことに対して、「異議を唱えることはできない……」。
 この同胞は、この時間と世界の中において、神の子供たちが、その信仰を、その信仰の「証示、あるいは審問、あるいは証拠」を、「われわれの感謝のしるしおよび証言」を、確証する際の不可避的な契機を形成している。したがって、「同胞に相対して、神を愛するわれわれの愛は現われて来なければならない……」。啓示に固有な証明能力に基づいて、神への愛として神をイエス・キリストの中で尋ね求める・キリストにあっての神を尋ね求める神を愛する者は、「この確証が問題」となる。この同胞たる隣人は、「われわれの未来なのであり、その中で神がわれわれから讃美を受けることを欲しておられる秩序を表示している」。「われわれを愛そうと欲せられ、われわれからも愛し返されることを欲し給う」キリストにあっての神は、また、キリストにあっての神の子供たちに、「感謝のしるしおよび証言」として、神への愛に根拠づけられた神の讃美、神の讃美としての隣人愛、「この隣人を愛することをも欲し給う」。したがって、人間の恣意的独断的な善意に基づいて考え出された「救いの計画と救いの方法」における特定の隣人への律法としての愛の奉仕は、「聖書の意味」において、命令・「律法の具現化」を意味しないのである。なぜならば、そうした愛の奉仕は、先ず以て第一義的な、福音を内容とする福音の形式である神の要求(命令・律法)、すなわち「律法を満たし・すべての誡めを遵守し給うた」・「福音の中核」であるイエス・キリストの名の告白・証言・宣べ伝えを前景化させないために、同胞たる隣人は、現実的に福音を所有することができないからであり、それゆえにキリストにあっての神への愛を根拠とした神の讃美としての隣人愛とはならないからであり、それゆえにまたそれは、「生命に導くもの」・「神の恩寵を証しするもの」としての福音を内容とする福音の形式としての律法とはならないからである。その場合、そこでの神は、まさしく人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」であり、そこでの愛と正義による「救いの計画と救いの方法」は、その「神」の名と呼びかけるよる人間自身が支配し管理するそれでしかないものなのである。
 したがって、「ルターにおいてしばしば出会う」隣人概念の指示、すなわち「夫は妻の中に、子供たちは両親および兄弟姉妹の中に、主人は下僕の中に、目下のものは目上のものの中に、……民族の一員は同じ民族の一員の中に、隣人を尋ね求めなければならない、という指示」・「われわれが特定の仕方で義務を負うている者」という指示に、「惑わされてはならないであろう」、その概念をそのまま鵜呑みにしたり模倣したりしてはならないであろう。旧約聖書における「愛されるべき隣人」は、「第一に、同じイスラエルの民の中の同胞のことを考えているということは、事実」であるが、「この『民』そのものが……主要なこととしてまず、血のつながりをもった民族共同体のことを意味していないことに注意しなければならない」。「『あなたの門のうちにいる外国人』も『隣人』」である。主要なこととしては、「民そのものは……神の民、契約の民、神を礼拝する民である」。したがって、血のつながりによって閉じられた民族共同体の枠組みの中で、「神の民、契約の民、礼拝の民……は、既に旧約聖書自身においても、副次的な規定」でしかないのである。(408−411頁)

 

 「隣人の起源的な、本来的な形姿」における隣人は、神の讃美への契機、神を讃美する契機、である。隣人は、この時代と世界において、「神がわれわれからよきみ業の故に讃美されんことを欲し給う」、「欠かすことのできない秩序」における契機である。言い換えれば、「神の憐れみ」を、神の恩寵を、福音を、すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の子、神の言葉、啓示・和解)であるイエス・キリストにおける完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和・解放を、感謝を持って「讃美」する契機である。すなわち、啓示に固有な証明能力に基づいてキリストにあっての神を尋ね求める神への愛を根拠とした、神の讃美としての隣人愛、感謝の応答としてのイエス・キリストの名の告白・証し・宣べ伝えによって、この隣人は、はじめて現実的に福音を所有することができるのである。このような訳であるから、福音を内容とする福音の形式である律法は、そのイエス・キリストにおける福音の告白・証し・宣べ伝えにあるだろう。したがって、直接的無媒介的に、隣人を律法として理解した場合、イザベラ・バードの課題――例えば、@彼らが使っている煙草入れや煙管入れを「二ドル半で買いたい」と言うと、「それらは一ドル一〇セントの値打ちしかないから、その値段で売りたい」と言った、儲けることはアイヌ人の「ならわし」ではなかった、A「ある一軒の家が焼け落ちた」場合には、村の男たちが総出でその家を建て直すことを「ならわし」としていた、B明治期の日本人たちを「見て感じるのは堕落しているという印象である」、「わが西洋の大都会に何千という堕落した大衆がいる――彼らはキリスト教徒として生れ、洗礼を受け、クリスチャン・ネーム名をもらい、最後には聖なる墓地に葬られるが、アイヌ人の方がずっと高度で、ずっとりっぱな生活を送っている」、C彼らは雨宿りを頼むと、どんな貧乏な家でも、一番よい席を提供してくれる、D彼らには互いに殺し合う激しい争乱の伝統がない。すなわち、民族国家・近代自由主義国家・政治的近代国家が軍事部門を構成し一部支配上層の意思によって戦争が行われ得るという意味で、現在のところ戦争の可能性はあるのであるが、アイヌ人は、軍事部門を立ち上げようとする意志・国家形成の意志をもたない、E彼らは善悪・道徳の観念、高度な宗教をもたないが、誠実、高貴、立派な生活を送っている。総体として「アイヌ人は純潔であり、他人に対して親切であり、正直で崇敬の念が厚く、老人に対して思いやりがある」――というイザベラ・バードの課題を止揚し克服し超えることはできないのである。バルトは、イエス・キリストにおける福音なき、その感謝の応答としての福音の告白・証し・宣べ伝えなき、人間的契機の直接性に根差した、自己愛の対象的な疎外、自己愛の外化(表現)、における律法としての・倫理としての隣人愛について、次のように述べている――ある者は「盲目的に」仕事へと没頭し、ある者は「人目をひくような簡素さと寡欲さに沈潜する」、ある者は「その時代の人間中の様々な敗残者に対して、熱心に博愛的配慮……教育的配慮を行う」、ある者は「大規模な世界改良の偉大な計画」に邁進する、ある者は「大衆や時代の傾向と手をたずさえて、ある種の正義」に邁進する。「まことに空の空なるかな、である。これらすべてのことが、一体何だろうか」。
 「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限り」は、人間の隣人愛は、どうしても自己愛の対象的な疎外、自己愛の外化・表現としかならないのである。人類史の母型・母胎・原型(ブラックアフリカ、北米インディアン、アイヌ等々)においてもそうである。したがって、イザベラ・バードのあの差異性の指摘は、人類史的段階の社会構成・支配構成・文化構成の差異性と言うことができる。また、「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限り」は、その中で、身体を座とする自己意識・観念は自然時空を飛び越えていける自由自在な無限性を持っているが、生理的身体は自然時空に制約されしか存在できない。このような訳であるから、極限を想定して、自分の<死>を賭して、自分が現に<身近>に接している「食物の飢え」等々で困窮している具体的な一人の人や一部の人たちを施しや奉仕で救済したとしても、それは、往相的一方通行的な緊急的一時的部分的相対的な救済としかならないのである。このことに、身近な農民のために身も心も尽くした宮沢賢治は気づいていたのである。したがって、賢治は、「農業芸術概論綱要」で「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と述べたし、「全体が幸せにならなければほんとうの幸せとはならない」という課題を『よだかの星』の主題としたのである。したがって、佐藤優が、『はじめての宗教論』で、知ったかぶりして、「究極的な救済をどう得るかという視座から宗教について考察する」・神学研究の本質と教会の責務は「個々人の救済、具体的な人間の救済です。人類という抽象的なものの救済ではありません」と書いた時、佐藤は、救済論におけるあるいは革命論における往相的課題と還相的課題を、全く認識し理解し自覚していないことを自己暴露したのである。このことは、すでに述べた。

 

 単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示・和解)であるイエス・キリストは、「人間のために死ぬという仕方でしか、人間を救い得るとは考え給わなかった」ということは、そのイエス・キリストの「十字架とその復活を前にしては、人間そのもの」は、すなわち「キリストなしの人間」は、「多少破滅したものだということではなくて、全く破滅したものだということ」を意味しているのである。「『このあなたの兄弟は死んでいたのに生き返り……』〔ルカ一五・三二〕」ということが「われわれにおいて起こること」は、「神の創り給うた人間において起こるのであるが」、すなわちそれは「神の憐れみの奇蹟(≪秘義のしるし≫)として、起こるのである」が、キリストにあっての「唯一の神が、われわれに憐れみを示し給う」出来事である。「キリストは、われわれを、われわれのために死ぬということによって以外の仕方では、救い得給わなかった。われわれは、そういうことによって救われるという以外の仕方では、救われ得ないのである」(『証人としてのキリスト者』)。この事柄は、こういうことである――「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の「イエスの信仰」は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである)」。このイエス・キリストご自身が、人間のために人間に代わって、人間の「神の恩寵への嫌悪と回避」に対する神の答えである刑罰(死)を、「唯一回なし遂げ給うた」(律法の成就)のである。このイエス・キリストご自身が、私たち人間からは「何ら応答を期待せず・また実際に応答を見出さず」とも、「神であることを廃めず」に、「全く破滅した」、何ら価値や力や資格もない「罪によって暗くなり・破れた姿」の「人間的存在を己の神的存在につけ加え、身内に取り入れ、それをご自分と分離出来ぬよう」に、「しかも混淆されぬように(≪神と人間との無限の質的差異の下で、それゆえに神と人間との混合・共働・協働は全く許さず、≫)、統一し給うた」のである。「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」。「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)。ここに、その現にあるがままの人間の現実存在の「二重規定」があるのである。したがって、キリスト者と非キリスト者との差異性は、その啓示認識・啓示信仰の授与に生きているのか・いないのかのそれである。なぜならば、全人間・全世界・全人類の根本的包括的総体的永遠的な救済・平和・解放は、神の側の真実として、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の子、神の言葉、啓示・和解)であるイエス・キリストの死と復活の出来事において、「勝利の福音」において、啓示の客観的現実性・啓示の客観的実在として、「永遠的実在」として、<すでに>完了されているからである。したがって、「すべての人間はキリストの実質上の兄弟である」、「キリスト者になる以前でも、彼は、(≪その現にあるがままで≫)キリストにおける神との連続性の中にいる。ただ、彼はそのことをまだ発見(≪認識・信仰≫)していない」だけなのである(『バルトとの対話』)。この場合も肝要なことは、「私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きる」という点にあるのであり、また「そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」、という点にあるのである。したがって、その現にあるがままの人間の現実存在における同胞としての隣人とは、この側面の人間のことである。したがって、バルトは、次のようにも述べるのである――私たちは、「心を頑固にし福音を認めない人間」や「異教徒」に対して、「恵みから語り、恵みについて語るという以外のこと」をなすことはできない、すなわち、私たちがそうした人々に呼びかけることができるのは、<私が>、「その人をその中に置くことによってではなく」、「律法を満たし・すべての誡めを遵守し給うた」、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の子、神の言葉、啓示・和解)である<イエス・キリストご自身が>、「その人をその中に(≪神の側の真実としてのみある、啓示の客観的実在・啓示の客観的現実性、主格的属格としての「イエスの信仰」・神の義そのもの、イエス・キリストにおいて完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永続的永遠的な救済・平和・解放の中に≫)置いてい給うことによってである」、このような訳であるから、私たちは、「キリストにあるものとしての人間のために、努力し得るにすぎない」、と。すなわち、あの現実的な人間的存在における二重規定にある、一方の「人間的存在がわれわれの人間的存在である限り」での人間的存在にではなくて、あの二重規定にある、他方の「人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限り」での人間的存在のために語り得るにすぎないのである。

 

 さて、「『証し』という言葉は、新約聖書では、殉教者が行い苦しむことに対しては、用いられていない」、「殉教者を称賛し讃美するということは、新約聖書にまったく見出されない」。ステパノを「証人とするのは、(≪単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにのみ信頼し固執する≫)彼の言葉であって、彼の苦難ではない」。「証人」は、「自分の観念を持ち、確信を持ち、人生の中に立ち、一定の歴史的状況の中に立って入る」が、彼は、「聖書の意味においては、講解者・説明者・解釈者にすぎない。預言者・使徒の語ったことを、指示する人にすぎない」(『証人としてのキリスト者』)。すなわち、イエス・キリストの証人は、啓示の出来事と信仰の出来事に基づく啓示に固有な証明能力、すなわちそれ自体が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)への信頼と固執とそれを媒介・反復することを通した、「講解者・説明者・解釈者」である。なぜならば、「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」からである、そして「解釈する」とは、「別の言葉で同一のことを言うこと」だからである。また、なぜならば、次の理由による――聖書は旧・新約聖書における預言者・使徒の言葉と霊としてのイエス・キリストの出来事の証しであり証言であり、子なる神、イエス・キリストに関わるものであるからである。この聖書(神の言葉の第二形態)は、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての啓示の客観的実在そのものであるイエス・キリスト(神の言葉の第一形態)と共に、教会の宣教・説教と聖礼典(神の言葉の第三形態)における原理である。なぜならば、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の子、神の言葉、啓示・和解)であるイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である「聖書こそ」が、教会に宣教を義務づけているからである。したがって、「聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのである」。「真の証しとは、このような従属関係(≪第二形態は第一形態に従属している、第三形態は第一形態と第二形態に従属している≫)において語られたすべての証しのこと」である。したがって、バルトは、次のように言うのである――「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」である。このことは、オリジナルな神学思想というものはない、ということを意味している。だからこそ、バルトは、「神の言葉の三形態」に信頼し固執しそれを媒介・反復するという仕方で、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」たのである。また、一方でバルトは、そういう仕方で、その信仰・神学・教会の宣教に、個性や時代性を刻んだのである。

 

 ヘーゲル主義の人間学的神学者のモルトマンに評価されたファン・ルーラーを称賛する牧師・関口康に対して、バルト自身はこう根本的包括的な原理的な批判をするだろう――「神だけでなく私も」・「教説だけでなく生活」も、「言葉だけでなく愛と行為」も、理論だけでなく実践も、という「道はキリスト教生活をもって始まり、異教をもって終わる」であろう、と(『証人としてのキリスト者』)。この関口は、人間学における理論と実践の関係についても、無理解を露呈させている。人間学的領域において「千年に一度しかこの世界にあらわれないといった」自然哲学・経済学理論・観念の共同性(観念の共同性としての、宗教、法、国家)の解明という「幻想領域の巨匠」の「マルクスの完結した体系は、……理論が彼を実践のほうへ必然的につれてゆくようにできあがっていた」のである(吉本『カール・マルクス』)。バルトの神学的実存・社会的政治的実践も、「かつて語った説教の一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから(≪必然的に≫)実践に、決断に、行動になって行った」という在り方にあった。したがって、バルトは、バルト読みのバルト知らずという人物たちによる、また牧師・関口のように、そうした人物の評論の言葉をそのまま鵜呑みにしたり模倣したりする人物たちによる、バルトには「生活」や「経験」の尊重がない・「抽象的」「理論的」過ぎる、という無知と悪意に満ちた揶揄に対して、『証人としてのキリスト者』において、次のように答えている――あなたは、「『抽象的』とか『理論的』とかいう言葉をお洩らしになったが、私も多少は、経験(≪私の感覚と知識を内容とする経験的普遍を含めて生活的体験と生活思想・様々な現実的な体験とその体験思想≫)を持っているということを、信じていただきたい。私もまた、一人の近代人であり、私もこの時代に立ち、この時代の問題を、……見ている。生活の問題が重要だということを、私に向かってそれほど熱狂的にお教えになる必要は、恐らくないのである。否、私にもやはり、生きねばならぬ自分の実際生活があり、しかもそれは、激烈な現代のただ中においてである。すなわち、諸君がここで耳にされたようなところ(≪言説、教説≫)に達したのは、ほかならぬこの生活においてであり、ほかならぬ近代世界との対決においてなのだ」、と。バルトは、神学における思想の往還なきリアリティなき、往相的な、一方通行的な、一面的皮相的な、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」・知識、それに類する神学・知識、それに依拠した神学者、それに類する牧師、キリスト教的メディア的著述家、たちを根本的包括的に批判しつつ、そう述べているのである。ヨハネ八章(「姦通の女」)にある、その死と復活の出来事を背後に持った、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」というイエスの言葉は、罪を隠し持った私たちすべての人間の内面の普遍性に届く、はかり知れないほど深く高度な抽象<度>を持った言葉である――この場合、その言語を介した抽象(観念)は、はかり知れないほど深く高度なリアリティを持った抽象(観念)なのである。だからこそ、太宰が『正義と微笑』で、「他の本が、みな無味乾燥でひとつも頭に入ってこない時でも、聖書の言葉だけは、胸にひびく。本当に、たいしたものだ」と書くのである。だからこそ、その言葉の前で、私たちは、ハッとさせられるのである、いつも神から遠ざかり遠ざかり続けている自分を・神に背き背き続けている自分を・罪を新たな罪を犯し続けている自分を・内面の罪に満ち満ちている自分を、認識させられ・痛感させられるのである、悔改めさせられるのである。このことが、関口には理解できないのである。ここでも、関口は、「フェアネス」を「確保」するために、「テキストを読」んだ上で――このことは、ほんとうは、論じる対象を根本的包括的に原理的に理解した上で、ということでなければならないのだ――「批判」すべきだと他者に強いていた彼自身の言葉によって、復讐されなければならないのである。言い換えれば、このことは、その関口自身の言葉の破綻を意味するのである。「勉強が悪くはないのだ、勉強の自負が悪いのだ」(『正義と微笑』)。

 

 人は、「洗礼」を契機としてキリストの「死と復活」の「証人となる」。また、人は、「『キリストが完全にわれわれの代理となり、われわれにその体を食らわせ血を飲ませて、永遠の生命に至らしめ給う』という徹頭徹尾この一事を、われわれに語り、常に語ろうとする」ところの「希望のサクラメント、未来のサクラメントである」「聖晩餐」を契機としてキリストの「死と復活」の「証人であり続ける」。このことはキリストにあっての「神の創造である」。神のその都度の自由な決断による啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて、イエス・キリストにおける完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永続的永遠的な救済・平和・解放を「信仰の中で持つ」ことは、「約束として持つ」ことである。「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」、「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」、人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍、にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてのみある、啓示の客観的実在・啓示の客観的現実性、「永遠的実在」として、<すでに>ということである。「イエス・キリストの証人にとって……開かれている……道は『御国がきますように』〔マタイ六・一〇、ルカ一一・二〕という徴の下に立っている」点にある。「ただ万人を憐み、万人万物を解する神様ばかりが、われわれを憐んで下さる」、「神さまは万人を裁いて、万人を赦され」、「最後の日にやって来て」、「……われわれに、御手を伸ばされる。その時こそ何もかも合点が行く!……誰も彼も合点が行く」。「主よ、汝の王国の来たらんことを」(ドストエフスキー『罪と罰』)。

 

 「隣人の起源的な、本来的な形姿」における隣人は、次のように言うことができるだろう――@「すべての人間はキリストの実質上の兄弟である」、「キリスト者になる以前でも、彼は、(≪その現にあるがままで≫)キリストにおける神との連続性の中にいる。ただ、彼はそのことをまだ発見(≪認識・信仰≫)していない」だけである(『バルトとの対話』)、A私たちは、「心を頑固にし福音を認めない人間」や「異教徒」に対して、「恵みから語り、恵みについて語るという以外のこと」をなすことはできない。すなわち、私たちがそうした人々に呼びかけることができるのは、「私がその人をその中に置くことによってではなく」、「律法を満たし・すべての誡めを遵守し給うた」、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の子、神の言葉、啓示・和解)であるイエス・キリストが「その人をその中に(≪神の側の真実としてのみある、啓示の客観的実在・啓示の客観的現実性、主格的属格としての「イエスの信仰」・神の義そのもの、イエス・キリストにおいて完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永続的永遠的な救済・平和・解放の中に≫)置いてい給うことによってである」。このような訳であるから、私たちは、「キリストにあるものとしての人間のために、努力し得るにすぎない」のである。したがって、バルトは、「イエス・キリストは<マルクス主義者>のためにも死に給うたのだが、また<資本主義者>と<帝国主義者>と<ファシスト>のためにも死に給うた」、と言うのである。したがってまた、バルトは、『説教の本質と実際』において、聖書に「聴従」するために、神のその都度の自由な決断による啓示の出来事と信仰の出来事に基づく、その神の言葉の「出来事」の運動の中において、聖書によって導かれなければならない、と述べたのである。そして、説教者にとって、「彼らに語らなければならない彼ら自身に関する真理」は、「神がすでに為した」・「わたしの前にいるこの人々のために、キリストは死に、甦られた」――神、罪深きわれらと共に、イエス・キリストにおける完了された根本的包括的総体的永遠的な救済・平和・解放、ということである、と述べたのである。そこにおいて、説教は、「会衆」、「特定の場所と時における全く特定の現在の人間」の生活、「彼らの生活がイエス・キリストの中に根拠と希望とを持つことを語ること」であるが、その場合、可視的な「ただ聴衆にだけ目をとめてはならない」のであって、不可視的なその現にあるがままの不信・非知・非キリスト者、大多数の被支配としての一般大衆・一般市民、全人間・全世界・全人類、に向かっても語らなければならない、と述べたのである。なぜならば、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の子、神の言葉、啓示・和解)であるイエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」・「キリスト教使信の中心」は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの不信・非知・非キリスト者、全人間・全世界・全人類に対して完全に開かれているからである(『カール・バルト教会教義学 和解論 T/1 「和解論の対象と問題」』)。

 

 さて、私たちが、生来人間は、「神の恵みに敵対」し、「神の恵みによって生きようとしない」し、また「われわれ人間の間の伝達は――われわれが人間一般として互い相対立して立つ限り――事実いかに問題的であるかということを念頭におくならば」、また意識と無意識との構造としてある人間の「心・精神」における無意識の深層のことを念頭に置くならば、また他者からはどうしても窺い知ることが出来ない対自的意識・言語の自己表出としての人間的意識を念頭におくならば、私たちは、牧師であれ、学者であれ、善人であれ、敬虔な人であれ、誰であれ、他者をほんとうには全く知ることはできないし、それゆえに他者を根本的包括的総体的永遠的に救済・解放することはできないのである。私たちは、ただの人間でしかない以上、誰であれ、他者を根本的包括的総体的永続的永遠的に救済することはできないし、「他人の重荷を取り除くことも、また、その人が自分にするところの厄介も、取り除くことはできはしない」のである。しかし、啓示に固有な証明能力の基づいてキリストにあっての神を尋ね求める神への愛を根拠とした、感謝の応答としてのイエス・キリストの名の告白・証し・宣べ伝えは、他者の重荷を負う行為となるだろう、神の讃美としての隣人愛となるだろう。なぜならば、人間が人間的に福音を現実的に所有するためには、啓示に固有な証明能力に基づいた、福音を内容とする福音の形式である律法、感謝の応答としてのイエス・キリストの名の告白・証し・宣べ伝えを必要とするからである。

 

 先にも述べたように、「起源的な、本来的な形姿」における隣人は、「キリストにあるものとしての人間」・「キリストにおける神との連続性の中にいる」人間のことである。すなわち、隣人は、啓示の弁証法、二重規定における、その現にあるがままの現実的な人間存在の内の、その人間的存在が、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方である「イエス・キリストの人間的存在」のことである。理解しイメージし易いように、重複するがもう一度書いておこう――@「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」、A「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」。これら@とAにおける、後者の人間的存在、すなわち「われわれの人間的存在が……イエス・キリストの人間的存在であり限り」での人間的存在が、隣人ということである。このことを、「ルカ一〇・二五−三七」に登場する「イスラエルの中」で、「ヤハウエの教団に属し……その伝承によって生きている」、「律法の専門家」・「律法学者」は、認識していないのである。「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に信頼し固執する「認識」・信仰であるのであるが、「彼は両方の誡めを(≪「単なる知識」として≫)知ってはいるが、正しく(≪認識し・信仰し≫)理解していない」のである。したがって、彼は、「ただ、憐れみによってのみ生きることを欲しないのである」。彼は、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求を手離せないのである。彼は、知識の<自負>を求めるのである。彼は、イエスに対して、「自分の立場を弁護しようと」するのである。彼は、「自分の立場を正当化しようと意図し、そう試み」るのである。彼は、「神の前に自分を正しい人間としてたてようとする自分自身の意図と力によって生き」ようとするのである。したがって、彼は、隣人が「誰であるか」・「憐れみが何であるか」、「知らない」し、「知ろうとしない」のである。

 

 ルカ10・25−37において、律法学者に対して、「イエスは……慈悲深いサマリヤ人の話あるいは譬えでもって答え給う」。このイエスの「話あるいは譬え」の肝要な点・「要点」・「前提」は、マタイ26・6−13やマルコ14・3−9における問題と同じように、自分が現に身近に接している「食物の飢え」等々で困窮している具体的な一人の人や一部の人を施しや奉仕によって相対的・部分的・一面的に救済しようとする、往相的な緊急的一時的過渡的課題、すなわち「お前も行って同じようにしなさい」という点にあるのではなくて、その前にあるイエスの問い――すなわち「(≪道の向こう側を通り過ぎて行った≫)祭司、(≪道の向こう側を通り過ぎて行った≫)レビ人、(≪慈悲深く介抱した≫)サマリヤ人」の内「誰が強盗に襲われた人」の「隣人」であるかという問いに対する、律法学者の答え――すなわち「慈悲深い行いをした」「サマリヤ人」です、という答えにあるのである。したがって、先ず以て、「律法学者は次のことを知ら」なければならないのである――@律法学者自身が、「強盗どもの手中におち、傷つけられ、半死半生の状態にまま道に捨ておかれ」た者であることを、A 「イスラエルが神と交わる交わりの代表者」の「祭司とレビ人」、「ほかのすべてのもの」、が「順々に」、「彼を見て通り過ぎてしまった」ということを、B介抱された彼は、「神を憎む者……神から憎まれる者として憎んでもよいと信じていた外国人」・「サマリヤ人」によって「情けをかけてもらわなければならなかった」ということを、知らなければならないのである。このような訳であるから、神への愛として、啓示に固有な証明能力に基づいて、神をイエス・キリストにおいて尋ね求める・キリストにあっての神を尋ね求める、神の子供たちにとって、その神への愛を根拠とする神の讃美としての隣人は、その現にあるがままの現実的な人間的存在の二重規定における、「人間の人間的存在が……イエス・キリストの人間的存在」であるところのそれであり、「人間の人間的存在」が「われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神である」ところの人間的存在のそれであり、「キリストにあるものとしての人間」的存在のそれであり、「キリストにおける神との連続性の中にいる」人間的存在のそれである。したがって、第二の命令の神の讃美としての隣人愛は、この側面の人間的存在に向かっての、神への愛(「神の言葉の三形態」を媒介・反復することでキリストにあっての神を尋ね求める)を根拠とする、キリストの死と復活の出来事、イエス・キリストの名の告白・証し・宣べ伝え、となるだろう。この時、人は、神だけでなく人間も、という人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求が、人間の隣人愛の<自負>が、無神性を本質としていること、それ故に不信仰であること、真実の罪であること、を認識するのである。この時、その神への愛を根拠とする神の讃美としての隣人愛は、イエス・キリストの死と復活の出来事に対する感謝の応答としてのその告白・証し・宣べ伝えへと向かわしめられるのである。その場合、そうするのは、「私がその人をその中に置くことによってではなく」、「律法を満たし・すべての誡めを遵守し給うた」、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の子、神の言葉、啓示・和解)であるイエス・キリストが「その人をその中に(≪神の側の真実としてのみある、啓示の客観的実在・啓示の客観的現実性、主格的属格としての「イエスの信仰」・神の義そのもの、イエス・キリストにおいて完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永続的永遠的な救済・平和・解放の中に≫)置いてい給うことによって」そうするのである。このような訳であるから、私たちは、「キリストにあるものとしての人間のために、努力し得るにすぎない」のである。サマリヤ人が、「盗賊の手におちた者に対し慈悲深い」隣人となったということは、「彼自身半死半生の人の中に慈悲深い」隣人、すなわち「キリストとの連続性にある」人間・「キリストにあるものとしての人間」・「人間の人間的存在が……イエス・キリストの人間的存在」である人間的存在、「義トサレタ罪人」・罪人にして義人における人間的存在、を「見出したということの証しであった」。したがって、カルヴァンの注釈、「スベテノ人ヲ」・「全人類」ヲ「自分自身ノヨウニ愛セヨ」は、「ただひとりのサマリヤ人だけ」が隣人であったという「事実」を見過ごしていることになる。それだけでなく、身体を座とする私たち人間は、一方で不可避的に自然時空に制約されているのであるから、カルヴァンの言う、「スベテノ人ヲ」・「全人類」ヲ「自分自身ノヨウニ愛」することは不可能なのである。

 

 「聖書の概念的な意味での隣人」は、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の子、神の言葉、啓示・和解)であるイエス・キリストを介して、互いに、「私自身イエス・キリストによって、召されており、あなたも行って同じようにしなさい」という出来事が惹き起こされる場所に参与するところで成立するものである。そして、この「出来事の意味と内容」は、恣意的独断的にではなく、あくまでも啓示に固有な証明能力、すなわちそれ自体が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を媒介・反復することを通してキリストにあっての神を尋ね求める神への愛を根拠とする神の讃美にあるのである、神の讃美としての隣人愛にあるのである。なぜならば、イエス・キリストが、この要求を語られる時、それは福音を内容とする福音の形式としての律法だからである。すなわち、私たち人間が、現実的に福音を所有するためには、福音を内容とする福音の形式である律法(神の命令・要求・要請)を必要とするのであるが、それゆえに、啓示認識・啓示信仰を授与された時、その福音にのみ信頼し固執することにおいて、その感謝の応答として、その福音を告白し・証しし・宣べ伝える歩みをはじめるのである。「イエスは律法学者を一言も非難し給わない」・「あなたも行って同じようにしなさいということは、あなたはわたしに従って来なさい、ということを意味している」。すなわち、私たちは、啓示に固有な証明能力に基づいて、すなわち「神の言葉の三形態」を媒介・反復することを通して、キリストにあっての神を尋ね求める神への愛を根拠として、イエス・キリストの名を感謝をもって告白し・証しし・宣べ伝えていくという仕方において、神の讃美としての隣人愛へと向かうことができるのである。なぜならば、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の子、神の言葉、啓示・和解)であるイエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」・「キリスト教使信の中心」は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの不信・非知・非キリスト者、全人間・全世界・全人類に対して完全に開かれているからである。(412−418頁)

 

 サマリヤ人が、「盗賊の手におちた者に対し慈悲深い」隣人となったということは、「彼自身半死半生の人の中に慈悲深い」隣人、すなわち「キリストとの連続性にある」人間・「キリストにあるものとしての人間」・「人間の人間的存在が……イエス・キリストの人間的存在である限り」での人間的存在、「義トサレタ罪人」・罪人にして義人における人間、を「見出したということの証しであった」。形而上学的一面的固定的に、サマリヤ人が助ける側の主体であり半死半生の人が助けられる側の客体であるわけではない。なぜならば、「教会のいかなる代表者も、彼がただの人間である限りは、そこで何も助けることができないであろう」からである。「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限り」は、ある一部の人たちを――否、あるひとりの人をさえ、確かに過渡的緊急的一時的に、また一面的部分的相対的には助け得たとしても、根本的包括的総体的永遠的には助けることはできない、ましてや、その人間が一方で自然時空の制約を受ける身体性を持つ限り、様々な事柄で困窮する全人間・全世界・全人類を過渡的緊急的一時的に、また一面的部分的相対的にも助けることが困難であるばかりでなく、根本的包括的総体的永遠的には全く助けることはできない。したがって、「憐れみ深いサマリヤ人」におけるように、イエス・キリストご自身の介在において、「イエス・キリストの大祭司としての代理ととりなし」によって、この「イエス・キリストによって、召されて」、お互いが、このような出来事に参与する時、お互いは<ほんとうの>同胞としての「隣人」となり得るのである。ここに、「単なる同胞から隣人となる……出来事の意味と内容」がある。したがって、このような出来事における隣人は、この時代と世界の中で、「特別な委任と全権を持って」、恣意的独断的にではなく、啓示に固有な証明能力に基づいてキリストにあっての神を尋ね求める神への愛を根拠として、「……イエス・キリストを宣べ伝え、目の前におき、それとともにわたしの神賛美に対して方向と明確な定めを与える」、認識と確証を与える、イエス・キリストの証人である。この場合、その「出来事」は、あくまでも啓示に固有な証明能力の基づく「神の言葉の三形態」を媒介・反復することを通してキリストにあっての神を尋ね求める神への愛を根拠とする神の讃美であり、神の讃美としての隣人愛である。このような訳であるから、ほんとうは、啓示に固有な証明能力、「神の言葉と霊を通して」、すなわちイエス・キリストにおける啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、それ自体が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を媒介・反復することを通してのみ、「天的なかしらイエス・キリストの地上的なからだとなるためにつくられた教会、イエスの昇天と再臨の間における啓示の……しるし」である教会は、「神の憐れみの担い手および代表者」、「憐れみ深い隣人を登場させるところ」なのである、その「委任と全権をあたえられた」ところなのである。この教会は、「人々が互いに果たし合う奉仕の業、互いにイエス・キリストを宣べ伝え合い、明らかに示し合う奉仕の業」、すなわち「彼らに語らなければならない彼ら自身に関する真理」、「神がすでに為した」「わたしの前にいるこの人々のために、キリストは死に、甦られた」――神、罪深きわれらと共に、ということについての、告白・証し・宣教「以外の何ものでもない」場所、可視的な「神の言葉の三形態」における第三の形態なのである。なぜならば、福音が「告知」・「証し」・「宣教」される時、「私は私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものだ」、イエス・キリストにのみ「固着」せよ、という福音を内容とする福音の形式である律法が建てられるのであるが、この律法、その感謝の応答としてのその福音の告白・証し・宣べ伝えがなければ、私たち人間は、現実的に福音を所有することができないからである。したがって、ここに、啓示に固有な証明能力に基づいてキリストにあっての神を尋ね求める神への愛を根拠とする神の讃美としての隣人愛はあるのである。

 

 「聖書的預言者と使徒たちが教会を基礎づける姿にてらして、具体的に」、「隣人とは誰であり、何であるのか」――それは、「イエス・キリストを証しする」<人>であり、「イエス・キリストを証しする」<こと>である。神と人間との無限の質的差異の下で、終末論的限界の下で、キリストの復活・昇天からキリストの再臨までの聖霊の時代における私たちのその途上の歩みにおいて、恣意的独断的にではなく、あくまでも、イエス・キリストにおける啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事という啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力に基づいて、それゆえにそれ自体が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を媒介・反復することを通して、福音を内容とする福音の形式である律法を、「生命の御霊の法則」を、キリストにあっての神の「要求と強請」・「恩寵への召喚」を、福音の「告知」・「証し」・「宣教」を、その存在・その思考・その実践において<生きる人>・<生きること>である。ここに、神の子供たちがなす「神の讃美」の「秩序づけ」がある。したがって、このことが、「(≪啓示に固有な証明能力に基づいて、教会となることによって教会である≫)教会が教会であるところでは……起こっている」。それに対して、「教会があの祭司とレビ人の姿を持つところ」、あのほんとうの「奉仕の業がなされないところ、そこではそれは教会ではないのである」。バルトは、次のように述べている――@教会は、(≪啓示に固有な証明能力、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて、啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」を媒介・反復することを通して、≫)人間が神に聞くというこの一事によって――神が人間に語り給うゆえに聞き、神が人間に語り給うこと(≪イエス・キリストにおける啓示・和解、インマヌエルの出来事≫)を聞くというこの一事によって(≪それゆえに、その福音をすべての人間が現実的に所有することができるために、感謝の応答として、キリストにあっての神を尋ね求める神への愛を根拠とする憐れみ深い神の讃美としての隣人愛、具体的にはイエス・キリスト名の告白・証し・宣べ伝え、によって≫)、基礎づけられ、支えられているのである。(中略)このことが起こるところ、そこではたとえ二人三人の集まりであっても、またこの二人三人が決して選り抜きの人でなくても、また高い水準にさえ達していなくても、またむしろ人間の屑に属する者であるようなことがあっても、教会は存在する」、A(≪したがって、そうでない場合は、≫)どのような大群衆をその中に擁し、どのように優れた個人をその中に擁していても教会は存在しない。またそれが、もっとも豊かな生命を示し、国家と社会において、どのように尊敬されようとも教会は存在しない」のである(『啓示・教会・神学』)。サマリヤ人の譬え話によれば、「憐れみ深い隣人の奉仕」は、すでに述べているような仕方において、「人類が……参与」し「果たすようになるという可能性」を否定することはできないことを教えている。例えば、私自身は、恣意的独断的な、また往相的一方通行的な、そしてまた形而上学的一面的皮相的抽象的空論的な佐藤優や冨岡幸一郎や関口康や佐藤司郎や小泉健等々の言葉には「憐れみ深い隣人の奉仕」の業を全く垣間見ることはできないが、ドストエフスキーの『罪と罰』におけるマルメラードフを通した終末論的告白の言葉――すなわち、「ただ万人を憐み、万人万物を解する神様ばかりが、われわれを憐んで下さる」、「神さまは万人を裁いて、万人を赦され」、「最後の日にやって来て」、「……われわれに、御手を伸ばされる。その時こそ何もかも合点が行く!……誰も彼も合点が行く」、「主よ、汝の王国の来たらんことを」という終末論的告白の言葉には、「憐れみ深い隣人の奉仕」の業を垣間見ることができる。また、バルトを根本的包括的に原理的に理解していないのに、トマスの「『神学大全』とバルトの『教会教義学』を読んでおけば神学の概略がどうなっているか理解できるはず」とか、バルトの『教会救義学』のうち「第三巻第四部(邦訳『創造論IV』全四冊)だけはぜひ読んだほうが良い」とか、ヨハネ8・1−11の「姦通の女」における人間の内面の罪の普遍性についても理解せず、またバルトの『福音と律法』についても理解せず、それゆえに、罪の本質は人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求、無神性・不信仰・真実の罪にあるのであって、「余りに性急に、余りに熱心に、念頭に置いて来た」「性的リビドー」(「『死んでいる』罪の成果の一部」)にあるのではないというバルトの言葉も認識し理解せず、ただメディア的センセーショナリズムにおいて皮相的・意味あり気に「火宅の人、バルト」と語るとか、自慢げに諸本をいっぱい読んでいるとか、大言壮語する往相的一面的皮相的固定的な佐藤には「憐れみ深い隣人の奉仕」の業を全く垣間見ることはできない。「後任牧師の選任」基準を、「外国留学」と「学位」においている馬鹿げた教会にも「憐れみ深い隣人の奉仕」の業を全く垣間見ることはできない。しかし、それに対して、吉本隆明の「あなたはキリストの復活、再臨を信じているのですか」という問いに対して、「信じています」と答えたカトリック作家の小川国夫には、「憐れみ深い隣人の奉仕」の業を垣間見る。また、「自分は、かつて聖書の研究の必要から、ギリシャ語を習いかけ、その異様なよろこびと、麻痺剤をもちいて得たような不自然な自負心……。あの不健康な、と言っていいくらいの奇妙に空転したプライド……。勉強がわるくないのだ。勉強の自負が悪いのだ(如是我聞)」と書いた太宰治には、「憐れみ深い隣人の奉仕」の業を垣間見ることができる。そしてまた、「わたしは……『源氏』は原文で読まなければ判らないなどという迷信の世界を……無化したいと思った。『頭をひねりながら判読』してみても、たった二、三行すら正確には判読できない。また『ある程度以上のスピードで読める(正確に)』ような『源氏』研究者が現存するなどということを、まったくしんじていない (『源氏物語論』)とか、「万巻の書を読んだという人もいるけれど、僕は全然そんなことはない。(中略)主な作品を読んでいくだけでも、……こういう作家かとおもうわけで、それは間違いなくイメージは湧きます。(中略)専門家といわれる人でも、誰か一人でもいいから全部ちゃんと読んだかと聞かれたら、それはあんまりいないと思います(『幸福論』)」とか、「……<奇蹟>(中略)たとえば、お前は癒された、立てといったら癩患者が立ち上がった……。これは自分流(≪文芸批評あるいは思想≫)の言葉でいえば、比喩なんです。比喩の言葉というのは、あるばあいにはストレートな真実の言葉よりもっと真実を語るということがありうるわけで、これを実在論に還元してしまうと、田川健三はそうだとおもいますが、こんなのでたらめじゃないか、こういういいかげんなことを書いてる本だという以外にないわけです。しかし言葉としての聖書というのは、信仰の書として読んでも、文学書として読んでも、あるいは思想の書として読んでも、どんな読み方をしょうと人間をのめり込ませる力があるとすれば、これは叡知じゃないとこういうことは言えないという言葉が、そのなかに散らばっているからです。たとえばイエスが、『鶏が三度なく前に私を否むだろう』と言うと、ペテロはそのとおりなっちゃったみたいなエピソードをとっても、人間の<悪>というのが徹底的にわかっていないとだめだし、心というのがわかっていないとだめだし、同時にこれはすごい言葉なんだというのがなければ、やっぱり感ずるということはないとおもうんです」(『〈非知〉へ―<信>の構造 対話編』)とか、述べた吉本隆明には「憐れみ深い隣人の奉仕」の業を垣間見ることができる。因みに、親鸞の思想そのものもそうだが、吉本の親鸞論も、<異教的証し>、可視的な「教会の外に立っている」不可視的な「憐れみ深い隣人の奉仕」の業、と言えるであろう。しかし、すべてとは言わないとしても、小川国夫やドストエフスキーや太宰や吉本と比べたら、多くの場合、あの祭司やレビ人のように、今なお旧態依然として自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す、現存する神学者や牧師やキリスト教的メディア的著述家たちのその存在・その思考・その実践には、全く「憐れみ深い隣人の奉仕」の業を垣間見ることはできない。バルトは、次のように述べている――「人間は、たとえ彼が教会を全く知らないとしても、たとえ彼にとって教会が全くどうでもいいものであるとしても、たとえ彼が教会の敵であるとしても」、教会の「外に立つ者として結局は教会に相対して立つ者であるのであり」、「イエス・キリストの中で起こった和解の力によって」、「イエス・キリストの昇天と再臨の間の領域」におけるこの世界と歴史のただ中にある「教会の現実存在に対して」、「その本来的な、顕在的な形態においては(≪イエス・キリストを主・頭とするまことの≫)教会の中でなされている奉仕」であるが、不可避的に「彼なりの仕方で関係をもち、参与しているのである」。すなわち、彼は、そういう仕方で、「憐れみ深い隣人の奉仕」の業、イエス・キリストの死と復活、インマヌエル、の証しへと「召される召命とかかわりをもたせられているのであり、イエス・キリストを宣べ伝えるという奉仕の中に引き入れられているのである」、と。私たちは、このことからも、イエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」において、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを認識し承認し確認するのである、したがって私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し承認し確認するのである、すなわち、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪裁き≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを認識し承認し確認するのである。

 

 このような認識・知識――すなわち、それ自体が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を媒介・反復することを通した啓示に固有な証明能力に基づくこの認識・知識が、「異邦人世界とイエス・キリストの教会との事実的な、それとして真剣に受けとられるべき約束に満ちた出会いを念頭」においた、「キリスト教的人道主義の思想」である。それに対して、「ストア的人道主義の思想」――すなわち、「人間『性』を考慮に入れている人道主義、そして人間性に対して適用されるべき教育の諸可能性を考慮に入れている人道主義」は、「……人間性に関する懐疑により、あるいはすべての人間的な教育に関する懐疑によって腐食されており、またこれからも腐食されるであろう」。なぜならば、その現にあるがままの現実的な人間、「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限り」での人間的存在は、ただ理性的にだけ生きているのではないし、情念の世界も・動物的残虐性の世界等も生きているのであり、またその人間自身の隣人愛は、本質的に、誰のそれであっても、どのような愛であっても、自己愛の対象的な疎外、自己愛の外化・表現としかならないからである。野村達郎『民俗で読むアメリカ』(講談社)によれば、独立革命以前のイングランド系移民である「コロニスト」(植民者)や「セトラー」(定住者)は、インディアンや同国の死体を食すくらいに飢餓等の困難を極めた植民であったが、インディアンはそうした彼らに対しても平和的で親切であった、しかし飢餓等の極限状況の中で、移民たちは、インディアンや同国の死体を食したのである。宗教における思想家である親鸞は、一面的皮相的固定的な往相的観点においてではなく、思想の往還において、宗教者・知識人・善人・誰であろうと、現実的な戦争とか愛憎問題とか利害対立とかの不可避な「機縁」さえあれば、自分が意志しなくとも、人一人だけでなく多数の人を殺し得るという究極的観点(還相的観点)において、自己欺瞞に満ちた市民的観点・市民的常識(往相的観点)を批判し・そこから超出したのである。(418−426頁)

 

 「われわれは、教会の内部で、……また必然的に教会の外部でも、この助けを与えつつ登場してくる同胞の可能性」を、「サマリヤ人の譬え話の中で述べられている隣人の出来事」が考慮されたこのような出来事の「リアルな使命を帯び」た「派遣と全権」は何か。「同胞」は、「人類にとってもっている意味全体の中での教会のしるしに対して、その起源、根拠、存続を与える……しるし」、「イエス・キリストの人間性の反射の中で」、すなわちその現にあるがままの人間の人間的存在が、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間「イエス・キリストの人間的存在である限り」での人間的存在において、可視的になってくることを通して、「われわれにとって憐れみ深い」「隣人」となる。サマリヤ人が、「盗賊の手におちた者に対し慈悲深い」隣人となったということは、彼自身が、その「半死半生の人の中に慈悲深い」隣人、すなわち「キリストとの連続性にある」人間・「キリストにあるものとしての人間」・「人間の人間的存在が……イエス・キリストの人間的存在である限り」での人間的存在、「義トサレタ罪人」・罪人にして義人における人間的存在、を「見出したということの証しであった」。このように、「イエス・キリストによって、召されて」、お互いが、このような出来事に参与する時、お互いは<ほんとうの>「隣人」としての同胞である。したがって、そこにおいては、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の子、神の言葉、啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストの、その復活(「四〇日の福音」)と昇天において、「十字架につけられ、死んで墓に葬られた……人間が捧げる神讃美」において、「その起源的な、本来的な形で、神にふさわしい、み心にかなう神賛美が出来事となって起こったのである」。単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の子、神の言葉、啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間「イエス・キリストにおける神の愛」は、神ご自身の「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」(『ローマ書』)。このような仕方で、イエス・キリストは、「ご自分を宣べ伝え給うたことによって」、神「讃美の秩序……をうちたてるという善き業をわれわれのためにして下さったのである」。したがって、それは、「まことに一つの秩序であり、そこで遂行されたものは人間の定めである」。このような訳であるから、同胞は、隣人として、イエス・キリストにおいて、ただ一回的に、「独一無比な仕方で、神が人間の現実存在を引き受け給うたということの証言」・証しとなることに基づいて、「自分自身はイエス・キリストでない……われわれすべてのもの」たちを通しての、また「この現在の、過ぎ去りゆく世と自分自身の古い存在の限界の中で〔つかの間の生命を〕走り去ってゆかなければならないものたち」を通しての、「神賛美があってよいし、あるべきなのである」。この「起源的な秩序」、それに基づく人間の「新しい定め」は、「預言者と使徒たちの現実存在」、また「神の言葉の三形態」を媒介・反復することを通して、イエス・キリストの死と復活の出来事、インマヌエルの出来事、を告白し・証しし・宣べ伝えていく「教会の現実存在の中で、……力を発揮し活動する」のである。「教会とは証人としての奉仕という意味である」。したがって、イエス・キリストを主・頭とする<まことの>「教会の奉仕は、……イエス・キリストが(≪感謝の応答として、福音を告知し・証しし・宣教するところの、≫)人間的兄弟をもつようになられたということ」、そのような「特定の人間……に対してイエス・キリストが隣人となられたということに基づいている」。ここで特定の人間は、「特別な教会人」を意味しない。「教会の中で、あなた方はわたしの証人となるであろう(使徒行伝一・八)という約束の光に照らされるようになる」のは、「特別の教会人ではなく、むしろ一般に人間、すべての人間」である。したがって、「われわれはイエス・キリストの証人」を、すなわち同胞としての「隣人」を、その「神の善き業」としての出来事が神のその都度の自由な決断において起こることを、「教会の中で、期待すべきであるが故に」、「単に教会の中ばかりでなく、……すべての人間の中で期待しなければならない」のである。言い換えれば、「もしもわれわれが予言者と使徒たちの中に……イエス・キリストが隣人となり給うた人間……を認識するならば、それとともに」、「われわれにイエス・キリストについて証しする」予言者と使徒たち自身の中に、「援助の手をさしのべてくれる憐れみ深いわれわれの隣人を認識するならば」、このことが「教会の中で、われわれに対し現われ出たのであるならば」、「同胞たる人間」が、「キリストとの連続性にある」人間・「キリストにあるものとしての人間」である「彼の人間性の中で、神の子の人間性をわれわれに思い出させ、それとともに神を讃美するようわれわれを呼び招くが故に」、彼は同胞としての隣人として、「われわれに対し慈悲深い行いをすることができるということである」。
 したがって、啓示に固有な証明能力に基づいてキリストにあっての神を尋ね求める神への愛を根拠としない神の讃美としての隣人愛はあり得ないのであって、それゆえに、恣意的独断的な告知・証し・宣教はあり得ないのであって・神の讃美としての隣人愛はあり得ないのであって、それゆえにまた、神の讃美としての隣人愛の根拠である、キリストにあっての神を尋ね求める神への愛として、啓示に固有な証明能力に基づいて、終末論的限界の下で、絶えず繰り返し、啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を媒介・反復しなければならないのである。このような仕方で、感謝の応答としての、イエス・キリストの名の告白・証し・宣べ伝えが「起こることによって、新しく、……罪深い、死の手に引き渡された人間の捧げる神賛美……が出来事となって起こる」のである、「いまやまた人間自身がしるしとなる」のである。「彼はいまやまたわたしの憐れみ深い隣人であることができるし、あることがゆるされる」のである。なぜならば、そのことが出来事となって起こるのは、「彼自身の能力や意志から出ていることではなく、神のみ子が受肉の中でご自分を彼の隣人になし給うたからであり、その甦えりの中でご自分をそのようなものとしてあらわし給うたからである」。
 可視的な「教会の外に立っている」不可視的な「憐れみ深い隣人」、「異邦人」は、「教会に相対して立っている」、すなわち聖書によって証しされた救済史の、「救いの歴史の現在のさ中」に立っている。彼らは、異邦人・外国人として、救済史に属している者たちである、「神の選びと召しと聖化の円のただ中」において、隣人として、「ひとつの奉仕」の「ある種の委任を遂行し、務めを果たす外国人である」――例えば、@「イスラエルを呪うように命じられたにもかかわらず」、不可避的に「イスラエルを祝福しなければならなかったバラム(民数記二二−二四章)」、A「イスラエルの斥候に対して慈悲深い行いをし(ヨシュア二・一二)」、「その業のゆえに義とされ(ヤコブ二・二五)」、「その信仰によって救われた(ヘブル一一・三一)」「遊女ラハブ」、B「ソロモンが神殿をつくった際、ツロの王ヒラムが協力した(列王上五・一五以下)」、C「東の国から贈物を携えてはるばるやってきた博士たち(マタイ二・一以下)」、「人は聖書に出てくるこれらの人物の中」に、「これらの箇所の文脈」から言って、自然神学的な「一般啓示の担い手のようなものを見なければならないということ」は、「全く……ない」のである。Dなぜならば、「サレムの王であると同時に『いと高き神の祭司』である……メルキゼデク……はアブラハムにパンとぶどう酒をもって来て、アブラハムを祝福し、そのアブラハムから十分の一を受ける(創世一四・一八以下)」のであるが、「彼こそがヘブル五・六以下、六・二〇、七・一以下によれば、イエス・キリストご自身とその優越した、決定的な祭司職の原型である」からであり、それゆえに、この「メルキゼデクの姿」を、それらの「聖書的な線全体を解き明かす解釈学的な鍵として理解することはゆるされているばかりでなく、また命じられているといってよい」からである。したがって、前述した「すべての外国人が彼らのあのような顕著な地位にまで来る」のは、人間的な契機の直接性や、人間に自然的に備わった感性や理性や意志や抽象力や想像力や、人間的自然としての「自然的な神認識および人間が神と自然的に結ばれている」ということでは全くないのである。したがって、自然神学的に理解することはゆるされていないし、命じられていないのである。すなわち、「彼らの中で、偉大なサマリヤ人として自らを告げ知らせておられる方は、(≪単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間≫)イエス・キリストである」。したがって、「人はよく注意せよ。これらすべての(≪あの広い意味での≫)啓示の証人たちに対して、自主独立的な意味は与えられていない」のである。「キリストなしにアブラハムがないのと同様に」、「アブラハムなしにはメルキゼデクはない」のである。外国人、「彼らは復活の証人ではない」、「神を愛するように呼びかける全権をもっていない」、「彼らは予言者や使徒たちと根本的に異なっている」、「彼らの機能はまた教会の機能と根本的に異なっている」、したがって、「彼らの証しは確認してゆく証しであって、基礎づける証し(恣意的独断的ではないところの、啓示に固有な証明能力に基づいてキリストにあっての神を尋ね求める神への愛を根拠とした証し、啓示に固有な証明能力に基づく啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」を媒介・反復することを通した証し)ではない」、しかし、彼らは、「予言者と使徒が、神の民と教会が、存在するという前提の下で」、「神がすでに為した」「わたしの前にいるこの人々のために、キリストは死に、甦られた」というこの客観的な永遠的実在としての啓示の真理の下で、「神は愛され給うという前提の下で」、「神を愛する者たちを、神にふさわしくみ心にかなう仕方で、神を讃美するようにと呼びかけるべき使命と全権をもっている」のである。(426−430頁)

 

 聖書においては、「神の子供たちにとってイエス・キリストを証しする証人となるであろう同胞の抜擢」は、「兄弟という強い呼び名」で表現されている。この「兄弟」は、旧約聖書においては、「民の一員」、むしろ「契約の仲間を言い表す……隣人……と並んで用いられている」。そして、新約聖書においては、「兄弟」は、「少数の箇所を除いては、まさに隣人……の代わりに用いられるようになる」。証人として抜擢された同胞、兄弟、隣人は、キリスト論的にのみ、「イエス・キリストの受肉、イエス・キリストの甦えりと昇天」からのみ、理解することができる。すなわち、「神が父(≪単一性・神性・永遠性を本質とする神の第一の存在の仕方≫)であるということ、および人間が子供(≪神の子、神の言葉の受肉としてのまことの神にしてまことの人間≫)であるということ」は、「起源的、本来的に、イエス・キリスト(≪単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、神の子、神の言葉、啓示・和解であるまことの神にしてまことの人間≫)」において「まことである」が、証人として抜擢された同胞、兄弟、隣人、という概念は、単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストにおける「啓示と和解が造り出す新しい創造である」。すなわち、「われわれの間で兄弟あることは、イエス・キリストがご自分と特定の人間の間にそのような兄弟であることを造り出されたことを通して発生した」、イエス・キリストが「彼らの人間性とご自分の人間性との血縁的な親しさを造り出され、彼らに対しご自分の父を彼らの父として与え給うことによって発生した」。すなわち、「聖霊はみ子の霊であり、それ故、子たる身分を授ける霊である」から、私たちは「聖霊を受けることによって」、「イエス・キリストが神の子であるという概念」を根拠として、私たちは「神の子供」・「世つぎ」・「神の家族」であり、「『アバ、父よ』と呼ぶ」(ローマ八・一五、ガラテヤ四・五)ことができるように、また、「和解者が神の子であるがゆえに、……和解、啓示」の受領者たちは、受領者と授与者との無限の質的差異において、「神の子供」である。イエス・キリストにおける啓示・和解が造り出す兄弟は、「ひとりの者が他の者の中に、本来的、起源的な兄弟であり給うイエス・キリストを再認識」し、そのキリストとの連続性にある人間・キリストにあっての人間・「彼を通してイエス・キリストによって」「神を讃美するよう召し出されるということ……から成り立っている」。人間それ自身の隣人愛が、自己愛の対象的な疎外、自己愛の外化としかならないように、「自然的な兄弟関係」も、人間が理性的にだけ生きているわけではないことを認識し自覚するならば、「わずかしか期待できない」ということを、「カインとアベルの物語(創世記四・三以下)――それについてはマタイ二三・三五と、Tヨハネ三・一二以下で警告しつつ、想起されている」――が示している」。「本来的な、まことの兄弟は、イエス・キリストである(ローマ八・二九)。ただ彼の中で、彼を通して、またほかの兄弟もありうるし、あるであろう。彼らはキリストにあって兄弟(コロサイ一・二)である。すなわち、彼が彼らを兄弟と呼び(ヘブル二・一一)、すべての点において彼ら自身と等しくなることを恥とされなかった(同二・一七)が故にそうなのである。彼は彼らについて、ご自分の兄弟として語っておられる(マルコ三・三四、マタイ二八・一〇、ヨハネ二〇・一七)。また彼らの互いの関係に対してもこの名を与えるものは彼である(マタイ二三・八、ルカ二二・三二)。彼らは『神によって愛された兄弟』(Tテサロニケ一・四)として兄弟である」。(430−432頁)

 

 この特別な意味での兄弟としての隣人は、前述したことから「相互に、信仰の仲間……教会の一員……以外のものに対しては適用されていない」が、そのことはまた、「われわれがすべての人間の中に、また兄弟を……待ちもうけていなければならないということを排除せず、むしろ含み入れている」のである、兄弟としてすべての人間を包摂しているのである。前述した意味における兄弟としての出会いではないとしても、誰であれ、「われわれに対し、……神の言葉の使者として、復活の証人として、出会う」ことができるのである。なぜならば、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の子、神の言葉、啓示・和解)であるイエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」・「キリスト教使信の中心」は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの不信・非知・非キリスト者、全人間・全世界・全人類に対して完全に開かれているからである(『カール・バルト教会教義学 和解論 T/1 「和解論の対象と問題」)。言い換えれば、「すべての人間はキリストの実質上の兄弟である」、「キリスト者になる以前でも、彼は、(≪その現にあるがままで≫)キリストにおける神との連続性の中にいる。ただ、彼はそのことをまだ発見(≪認識・信仰≫)していない」だけだからである。

 

 「聖書の中で隣人は……しばしば……困難な事情のもとで苦しんでおり助けを必要としている同胞としえがかれている」のは、何故か。「聖書的証言」によれば、それは、次の点にあるのではない――すなわち、神は、「種々の困窮や苦難や労苦を欲し給わ」ず、「それらを除去されることを欲し給」い、「よりよい世界を欲し給う」ゆえに、困窮と苦難と労苦にある「助けを必要としている同胞」は、神の子供たちに、「神によって……与えられた課題を示」しており、それゆえに、そのような同胞に対して、「その時代の人間中の……敗残者」に対して、市民社会の精神に規定された私意・私利に基づいた人間自身の「救いの計画と救いの方法」で、直接的に、往相的一方通行的に、一面的相対的に、「博愛的配慮」や「教育的配慮」を行うべきである、また「大規模な世界改良の偉大な計画」を遂行すべきである、そしてまた「大衆や時代の傾向と手をたずさえて、ある種の正義」を行うべきである、という点にあるのではない。この場合、さらに、「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限り」での人間的存在の領域においても、決定的な根本的な誤謬に「普遍性や組織性の後光をかぶせて語」る学者やメディア的著述家・知識人の知識や情報を、そのまま鵜呑みにしたり模倣したりしてしまう危険性をはらんでいるのである、革命論・国家論の問題においてもそうした危険性をはらんでいるのである、「国家の政策を、知識人があらゆるこじつけを駆使して合理化し、それを大衆が知的に模倣し、行動では国家以上に国家を推進」し、支配に直通していく危険性をはらんでいるのである、身近なことでいえば、学者やメディア的著述家・知識人は、財政赤字は政府債務残高のことであって、その赤字の責任は全面的に制度としての官僚・政治家・政府支配上層にあるにもかかわらず、彼らはその支配上層に対する徹底的な追及はしないで、その責任を消費税増税必要論で一般大衆・一般市民に転嫁することに加担したことに対して、そうした消費税増税は本末転倒もはなはだしい、と最も正当性のある発言をしていた名古屋市長の河村たかしを片隅に追いやってしまう危険性をはらんでいるのである、等々。
 このような訳であるから、「正しい神奉仕」は、そのような仕方で同胞の困窮と苦難と労苦を「取り除いてゆくことに協力して働くこと」にあるのではない、「困難な事情のもとにある隣人はわれわれにとって、この、……神奉仕を想起させ、そのきっかけを与えてくれる……その対象である」わけではない、彼らは、そのような「宗教的――社会的」な思惟や実践の対象ではない。すなわち、神が、「悪やわざわい」の下での、われわれ人間の困窮や苦難や労苦を「欲し給わないということ」は、啓示の真理によれば、「悪やわざわいの根拠」である「神からの人間の離反」、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求、無神性・不信仰・真実の罪を通して「形成された世」、それゆえに「悪とわざわいに満ちた世…を事実欲し給わず、むしろ神はイエス・キリストの中で人間をご自分のもとにひきよせつつ、ひとつの新しい世を……出現させ給う限り、本当」のことである。したがって、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の子、神の言葉、啓示・和解)であるイエス・キリストにおいて「既に起こった悪とわざわいの除去以外の除去について考えてはならない」から、またイエス・キリストにおいて完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永続的永遠的な救済・平和・解放以外の救済・平和・解放について考えてはならないから、イエス・キリストにおける「まことの世界改善」以外の世界改善について考えてはならないから、この神の側の真実としてのみある啓示の客観的実在・啓示の客観的現実性を認識し「信じ」、その感謝の応答として、そのことを告白し・証しし、「また……宣べ伝えてなければならない」のである。したがってまた、「われわれは……隣人愛」を、「まことの世界改善」としてのイエス・キリストの名を、告白し・証しし・「宣べ伝えることでもって」なすべきなのである。この時、神の要求・要請・命令(律法)としての隣人愛は、すべての同胞たる人間が現実的に福音を所有することができるための、福音を内容とする福音の形式としてのそれなのである。ここに、「正しい神奉仕」はあるのである。
 バルトが異教的証しと述べた親鸞は、思想の往還において、次のように考えた――親鸞にとって、「聖道の慈悲」(往相浄土)は困窮する者を「不憫におもい、悲しみ、助けてやることである。けれども思うように助けおおせることは、きわめて稀なことである」。この往相過程における救済は、相対的・部分的・一面的であって、緊急的過渡的一時的な救済でしかないから、一切の衆生を究極的包括的総体的永続的な救済に導くことはできない。したがって、自分が現に身近に接している「食物の飢え」で困窮している具体的な一人の人や一部の人を施しや奉仕によって相対的・部分的・一面的に救済しようとする課題は、往相的な緊急過渡的一時的な課題に属している。それに対して、「浄土の慈悲」(還相浄土)は、「念仏をとなえて、いちずに仏に成って、大慈大悲心をもって思うがまま自在に、衆生をたすけ益することを意味するはずである」――還相過程における、この阿弥陀仏の側の真実にのみ信頼し固執すれば、一切の衆生の究極的包括的総体的永続的な救済は可能となるだろう、と。(432−434頁)

 

 往相的な相対的・部分的・一面的な「人間的な余りに人間的な『汝は斯くなすべし』」としての「世界改善」の計画は、神学における思想の往還なき、神に対する「熱心さの無知」に基づいている。したがって、その場合、神の要求・要請・命令(律法)を、人間によって恣意的独断的に曲解された「十戒・予言者の言葉・ソロモンの処世上の知恵・山上の垂訓また使徒の報告」に変える。したがってまた、「無数の儀文」は「偶像崇拝」・「神冒?」を生じさせる。これら自然神学の<段階>における在り方は、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求の基づく自己表現として、恣意的独断的に、啓示を「例証」しようとする、人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」とその神の名と呼びかけいによる人間自身が支配し管理する「救いの計画と救いの方法」のそれである。このような訳であるから、彼らのそれらの計画と方法は、前述した、福音を内容とする福音の形式としての律法ではない、私たち人間が現実的に福音を所有することができるための「生命の御霊の法則」としての律法(神の要求・要請・命令)ではない。「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」。「解釈する」とは、「別の言葉で同一のことを言うこと」である。言い換えれば、「解釈する」とは、イエス・キリストにおける啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく啓示に固有な証明能力、すなわちそれ自体が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を媒介・反復することを通した、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰のことであり、それと同時的同在的な、それに依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定のことである。例えば、このことに基づいて、@「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」、すなわち、「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」は、復活へと向かっている、このキリストの復活・成就された時間は、「新しい世」のはじまりである、このことは、私たち人間の世界や歴史は、この神の側の真実としてのみある完了された永遠的な啓示の客観的実在に取り囲まれてある、ということを意味している。このことから、私たちは、敗北者である「われわれ人間の失われた非本来的な古い時間」は、「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」、すなわち成就された時間であるキリストの復活における神の「勝利の行為」によって包括され止揚され・克服されて「そこにある」という啓示認識を得るのである。また、その勝利の行為は、キリスト復活・昇天から再臨までの聖霊の時代において、「敗北者もまた依然としてそこにいるところの勝利の行為」であるという啓示認識を得るのである、Aイエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」こと、したがってその場合、「世、歴史、社会」は、「その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」であること、したがってまた、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪裁き≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」こと、という啓示認識を得るのである、B「予定説」は、「イエス・キリストにある救いの自由な表現」そのものである。すなわち、それは、「真に罪なき、従順なお方」イエス・キリスト自らが、私たち人間に代わって、「見捨てられた人間となり、その罰を引き受け給うたということ」、神の恵みに対してイエス・キリスト自らが、私たち人間に代わって、「端的に信じ給うた」ということである、これが神の側の真実としてのみある永遠的な啓示の客観的実在としての「神の最高の義」である――この啓示認識に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して、私たち人間は、生来人間は、神の「恵みに敵対」し、「神の恵みによって生きようとしないが故」に、「このことこそ、第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急」であったという人間の自己認識・自己理解・自己規定を得るのである、神に敵対し神に服従しない私たち人間は、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力」を一切持ってはいないという人間の自己認識・自己理解・自己規定を得るのである、私たち人間は、「『自分の理性や力によっては』……全く信じることができない」という人間の己認識・自己理解・自己規定を得るのである、「義トサレタ罪人」という人間の自己認識・自己理解・自己規定を得るのである。このような訳であるから、「宗教的――社会的」な恣意的独断的に考え出された「世界改善」の計画は、「支持できないもの」であり・首肯することができないものなのである。

 

 さて、人間は「不幸」を、「病気、弱さ、敗北の中」で現出させることがあるように、「健康、力、勝利の背後に……隠すこともできる」、微笑の中に隠すこともできる、破綻した関係性を仲睦まじさの中に隠すこともできる、笑顔の背後に悲しみと泪を隠し持つこともできる。人は、そうした人間に対して、恣意性の中で、「同情」の念、「驚愕の念」、「畏敬の念」、「嫌悪の念」、「あきらめの気持」、を抱くことができる、また、あるいは同じ対象に対して、ある人は同情の念を抱き、ある人は嫌悪の念を抱き、ある人はばかばかしさの念を抱くことができる。そしてまた、その「不幸」は、ある人にとっては耐え得るものであるかもしれないが、ある人にとっては耐え難い絶望であるかもしれない。大多数の被支配としての一般大衆・一般市民、国民の貧困について、ほんとうは、それは国家支配上層の責任であるのであるが、そのほんとうの認識を、首肯する人もいれば・否定する人もいる。したがって、神の子供たちにとって、人間の自己認識・自己理解・自己規定として、人間のほんとうの・まことの「不幸」というものを認識し理解するためには、前述した、啓示に固有な証明能力を必要とするのである。したがって、「困難な事情のもとにあって苦しんでおり、助けを必要としている同胞」は、「われわれをまず第一に終始一つの(≪第一義的な≫)課題の前におく」隣人のことではなく、「われわれに対して……主要なこととして、決定的な意味で」、先ず以て第一義的なイエス・キリストにおいて「既に起こった悪とわざわいの除去」を、イエス・キリストにおいて完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永続的永遠的な救済・平和・解放を、イエス・キリストにおける「まことの世界改善」を、明確に喚起させてくれる「憐れみ深い隣人」のことなのである。そうして「それから」、その「彼のわれわれに対するよき業」から、すなわち「勝利を収める人間性ではなく、むしろ敗北する人間性、健康な、強い人間性ではなく、われわれの罪をになうことを通して特色づけられた人間性、したがってわれわれの肉の肉であったところの人間性、罪、苦しみ、死に引き渡されたイエス・キリストのまことの人間性――(≪啓示に固有な証明能力に基づく啓示認識とそれに依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識におけるそれ、憐れみ深い隣人の「不幸の中にこそ」、「彼がキリストを信じるか信じないかということとはかかわりなく」、それゆえに「たとえ彼がキリストの敵であるとしても」、「十字架につけられたキリストと彼との事実上の類似性が成り立っている」のである、この人間の「事実上の不幸」は「イザヤ書五三章で……神の僕の苦難について語っている限り、……すべての人に妥当する」のである≫)――を目の前に描き出してくれる」・想起させてくれる「よき業」から、「われわれをひとつの課題の前におく」のである。福音を内容とする福音の形式としての律法の前におくのである。この律法、神の要求・要請・命令であるイエス・キリストの名の告白・証し・宣べ伝えという課題の前におくのである。なぜならば、私たち人間が、現実的に福音を所有するためには、その福音を内容とする福音の形式としての・「生命の御霊の法則」としての律法が必要だからである。「世界審判についてマタイ二五・一以下で述べられているイエスの譬え話」は、「われわれに対して、同胞の中にイエスを見てとる」ことが肝要であることを教えている。すなわち、「われわれ」と「キリストとの連続性にある」人間・「キリストにあるものとしての人間」である「これらいと小さき者」との「連帯責任性および同一性の認識」が肝要であることを教えている。しかし、この「認識」は、「われわれに……隣人の中で事実イエスが出会い給」い、「われわれが隣人に相対して決断する」場合、「事実イエスに味方して」・「あるいは反対して」「決断することということから成り立っていることが……確かである限り」、この「決断」に先行しないのである、隣人に対する場合において、「事実イエスに味方する」かあるいは「反対する」かという「決断」が、「認識」に先行するのである。「われわれに対して、不幸な同胞は、そのようなものとしてあらわれ出、またそのようなものとして事実イエス・キリストの代理者であり、そのようなものとして事実神の憐れみの担い手および代表者であり、そのようなものとして事実神を正しくほめたたえるようにとの指示である」・「われわれはこの世の中においても、待望と目を覚ましていることの時間の中においても、イエス・キリストご自身とかかわりをもたなければならない。われわれはまさにそのことのためにはただ同胞とかかわりをもつようになることが必要である。まさにそのようなものとしての同胞こそが、神の子供たちに対して……彼らが生まれたところの」「全く罪を知らないにもかかわらず、罪とされた方を通して彼らが和解せしめられた」「和解の言葉」「神の言葉を証しする」のである。(434−439頁)

 

 

(次回以降)
カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「十八節 神の子らの生活」「三 神の讃美(その4−3)」(439−482頁)

 

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「十八節 神の子らの生活」「三 神の讃美(その4−4)」(482−491頁) (了)

 

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』、カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』 (「神の言葉」論の完了)、へと続く。――ここまで完了すれば、バルト自身が『バルト自伝』で、「イエス・キリストにおける私の恩寵の神学として組織だてる」という「私の仕事に生じた変化の意義を見かつ理解するためには、一九三二年と三八年に現われた私の『教会教義学』の最初の二冊」を、すなわち邦訳の『神の言葉』T/1、T/2、II/1、II/2、II/3、II/4を「研究する必要がある」と述べていたことを果たすことができる。因みに『教会教義学』第1巻第1分冊(1932年)と『教会教義学』第1巻第2分冊(1938年)の間に、『福音と律法』(1935年)が出版されている。これからも、拙くとも、倦み疲れず、やれるところまで頑張ってやっていこう。