本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「十八節 神の子らの生活」「三 神の讃美(その4−1)」

『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「十八節 神の子らの生活」「三 神の讃美(その4−1)」(383-401頁)

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、引用の不備や誤字脱字等の不備はご容赦ください)

 

 下記の事項を参照すれば、理解し易くなります。もちろん、下記の事項も飛ばして、読み進んでいただいてもよろしいかと思います。

 

  バルトは、「十八節 神の子らの生活」について、次のような理性的な定式化を行っていた。
「神の啓示は、それが聖霊の働きの中で信じられ認識されるところでは、神をイエス・キリストの中で尋ね求めることなしにはもはや存在せず、また神が既に彼らを見出されたことを証しすることなしには存在することができない人間を造り出す」。(302頁)

 

 私たちは、この定式から、「神の子らの生活」について、次のような事柄を聞いた――「啓示がなすよき業」、啓示に固有な証明能力によって規定されたキリスト教的人間の「存在」、すなわち聖霊の注ぎによって更新された「新しい主体と本質として……呼びかけられる」その「存在」・その思惟・その実践は、
@「内面的なもの」、すなわち「ほかの何人も彼のために代理をつとめることができない」「神との向かい合いの中にある」「個人」性・「孤独」性・個体性、「教会のただ中ににあっての個人」性・「孤独」性・個体性、対自的で対他的な「個人」性・「孤独」性・個体性、その「個人」性・「孤独」性・個体性における、神に向かっての自由な「決断」・神のための自由な「決断」、イエス・キリストに対する感謝の応答としての彼にのみ信頼し固着する自由な「決断」、神をキリストの中で尋ね求めるキリストにあっての「神への愛」・「神に対する人間の愛」と、
A「外面的なもの」、すなわち表現された外化された対象化された「個人」性・「孤独」性・個体性、客観的対象性、「神の讃美」としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)への信頼と固執と連帯を通した「交わり」・教会共同性、その「特定」の「行動すること」、その不可避的「必然的な行動」、「新約聖書において聞く啓示、和解」、イエス・キリストの死と復活の出来事、その内容であるインマヌエルの出来事、の告白・証し・宣べ伝え、
との同時性・同在性において理解することができる。
 キリスト教的人間・「彼の生活、行為」、自由な決断、が、「『キリスト教的』性格を明瞭に描き出す」場合、それは、向こう側から、「外から」、「神から」、神の側のから、やって「来る」、それである。すなわち、私や私たちの、「生活、行為」、自由な決断、における「『キリスト教的なもの』は、つねにただ」、「わたし」や「われわれ」ではなく「彼、主」が、私や私たちの「ために」・「代わりにということの表明であることができるだけ」なのである。したがって、それは、終末論的限界の下における、あの啓示に固有な証明能力を通して授与された人間的な人間の自己認識・自己理解・自己規定としての「神の子らの生活」・「教会の生活」・キリスト教的人間の生活としてのそれなのである。このように、それは、主が、イエス・キリストが、「慰めと警告と命令を与えつつ、限界づけつつ、力を奮うということ」であり、「神の子らの生活」・「教会の生活」・キリスト教的人間の生活の根拠である、ということである。したがって、この「神の子らの生活」・「教会の生活」・キリスト教的人間の生活における「キリスト教的なもの」の「実在」は、「彼ら自身の現実存在の隠れた実在である」。このことは、理解し易いように・イメージし易いように、『福音と律法』に即して言い換えれば、@「私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)」(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」ということである、A「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」ということである。すなわち、「彼ら自身の現実存在の隠れた実在」は、「わたし」や「わたしたちではなく彼が」・主が、「イエス・キリストという唯一の名」が、「この実在である」、ということである。
 「ただ間接的にのみ彼はわれわれと、われわれは彼と同一である。なぜならば、彼は神であり、われわれは人間であるからである」、「彼は天にいまし、われわれは地上にいる」からである、「彼は永遠に生き給い、われわれは時間的に生きるからである」、「この限界、終末論的な限界、は、彼とわれわれの間であくまで引かれ続けている」からである。私たちが、「神の子どもたちの生活」、「教会の生活」、キリスト教的人間の生活、を、「聖霊が造り出すものとして理解する時」、この認識と信仰を得る時、例えば前述した『福音と律法』(@・A)における、「交差し合っている」その存在・その思惟・その実践(行為)の人間的な自己認識・自己理解・自己規定を得るのである。「神の子供たち」・キリスト教的「人間の実際に異なった二つの規定」、すなわち聖書的な「生まれかわりと回心、義認と聖化、信仰と服従、神の子供と奴隷」の区別は、それを「規定する方」である単一性・神性・永遠性を本質とする「イエス・キリストと聖霊」において、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて、「交差し合っている」、と言うことができるのである。聖霊によって更新された「彼」、すなわち「個人」性・「孤独」性・個体性における「彼」は、聖霊の注ぎによって「確かに神の言葉」を、「永遠の言葉、すなわち、肉をとり、ご自分の肉の中で、われわれの肉を、この言葉を聞き信じるすべてのものの肉を、父の栄光の中へと取り上げた永遠の言葉」を、「聞き、信じる」のであるから、「神をキリストの中」で「尋ね求めることこそ」が、教会や神の子供たち・キリスト教的人間の「生活の内面的なこと」であり、「個人」性・「孤独」性・個体性であり、その対象化された外化(表現)された「個人」性・「孤独」性・個体性は、彼らの外面的な「行為の意図」・教会共同性である。啓示に固有な証明能力に基づいて、具体的には啓示の主観的な可能性としての「神の言葉の三形態」を媒介・反復することを通した、イエス・キリストにおける啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、「神を見出した者たち」、すなわち啓示認識・啓示信仰を授与された者たち、が、「神をキリストの中で尋ね求めることについて語っている聖書的概念」は、「神への愛」、「神に対する人間の愛」、である。この「神への愛は、その人間がキリストとともに甦えらされたが故に、そのほかの彼の存在が彼から取り去られた後、ただそれだけが彼に残されている存在である」。なぜならば、「イエス・キリストご自身」が、「イエス・キリストにあってなし遂げられたわれわれの義認と解放が、われわれ自身の中においても現実となるため」に、私たち人間に「力と愛と慎との霊を与え給う」からである。「力の霊」とは、イエス・キリストにのみ信頼し固着させる霊である。「愛の霊」とは、イエス・キリストの「御意に従わしめる」霊・「律法の完成」であるイエス・キリストに対する愛の霊のことである。「慎みの霊」とは、人間が神の要求に対して自己主張し破滅することを防ぐ霊であり、人間が神を救い主として神を見・神に聞くよう促す霊である。
 この時、理性的な定式化における前者の「個人」性・「孤独」性・個体性は、「神をイエス・キリストの中で、尋ね求めることなしに、もはや存在すること」・思惟すること・実践することができないそれなのである。しかし、ただなお、「彼の背後には、……彼の既に片づけられた(≪キリストの復活によって根本的包括的に止揚し・克服された≫)罪、死の深淵がある」。すなわち、イエス・キリストにあって、「彼」は、啓示の弁証法において「恵みを受けた罪人である、義トサレタ罪人である」。また、理性的な定式化における後者のキリスト教的人間の、「外面的なもの」、「特定」の「行動すること」、「交わり」・教会共同性、「神の讃美」としての隣人愛は、「彼らに語らなければならない彼ら自身に関する真理」である「神がすでに為した」・完了したところの全人間・全世界・全人類のために「キリストは死に、甦えられた」というイエス・キリストの死と復活の出来事、その内容であるインマヌエル――神、罪深きわれらと共に、ということ、「新約聖書において聞く啓示、和解」の出来事、その告白・「証し」・「宣べ伝え」にあるのである。なぜならば、「彼」は、聖霊の注ぎにより、「神の自由の中で、彼自身自由となり、神の子供となった」し、「神に向かって自由」となったし、「神のための自由」を得た、のだからである。したがって、「彼」は、「彼の現実存在全体を通して」、神に向かっての自由、神のための自由、の「決断」において、「生きるのである」。しかし、「彼の背後」には、依然として、神に向かっての人間の自由、神のための人間の自由、の「決断」とは違った「決断」を行う、イエス・キリストの死と復活の出来事によって止揚し・克服されたところの、人間の神からの離反・背き・罪、無神性、不信仰、があるのである。したがって、「彼」は、「ただ、キリストにあって」のみ、「救われている」のである。「まさにそれだからこそ、キリストについての証言に向かっての(≪神に向かっての自由、神のための自由、の≫)決断の中で、彼は生きる」のである。「彼」は、聖霊の注ぎによって、授与される啓示認識・啓示信仰である「義トサレタ罪人として」、キリストの「死と復活」の出来事を、神に向かっての自由、神のための自由、の「決断」において、「証ししようと欲し」、「証しし、告白する」のである。「外的な行い・業へと向か」わせられるのである。この時、彼は、キリスト教的人間における「個人」性・「孤独」性・個体性であるにもかかわらず、教会共同性の中に、「教会の交わりの中にいるのである」。聖書的概念として、「われわれが見出され、救われていることをこのように証しし、告白すること」は、「神の讃美」、「神の讃美」としての隣人愛である。それは、キリストの死と復活の出来事からやってくる、不可避的「必然的な行動」としての、告白・証し・宣べ伝え、である。なぜならば、「個々の人間による和解の主体的実現という問題は、絶対に欠くことの出来ない問題」ではあるが、「イエス・キリストにおいて客観的に起った和解の主体的実現は、まず第一に教団において、イエス・キリストの聖霊の業として遂行される」(『カール・バルト教会教義学 和解論T/1』)からである、また、恩寵が「告知」・「証し」・「宣教」される時、「私は私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものだ」、イエス・キリストにのみ固着せよ、という福音を内容とする福音の形式である律法が建てられるのであるが 、それは、その律法(神の要求・要請としてのあの告白・証し・宣べ伝え)がなければ、私たち人間は、現実的に福音を所有することができないからである(『福音と律法』)。
 キリスト復活から再臨、終末、救贖・完成までの聖霊の時代における「キリスト教的生活」、「教会の生活」、「神の子供たちの生活」は、終末論的限界の下において、「神をキリストの中で尋ね求め」、「見出す人間」の途上の生活である。ここに、「神学的倫理学……の原理」がある。それは、「神への愛」、「神に対する人間の愛」、と、「神の讃美」、「神の讃美」としての隣人愛、イエス・キリストの死と復活の出来事の告白・証し・宣べ伝え、との同時性・同在性においてあるのである。このように、教義学が、「キリスト教的人間の問題を既にその基本的な考察」の対象として「承認し、取り扱」い、「倫理学を自分の中に取り上げている」のであるから、「特別な、神学的倫理学」を必要としないのである。なぜならば、「教義学自身」が、終末論的限界の下での「神の言葉についての反省的考察」であり、神学的な「倫理学であるからである」。

 

 啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力に基づいて、「神がご自分を信仰の中で彼らに与え給う故」に、神と人間との無限の質的差異の下で、また終末論的限界の下で、「人間の創造主」として「神」は、「義とされた罪人」としてのその現にあるがままの現実的な人間存在である「彼らにとって対象的」となる。すなわち、イエス・キリストにあっての神は、客観的対象性として、それ自体聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を、私たち、その現にあるがままの現実的な人間存在、に、授与されるのである。「また……(≪そのようにして≫)神が彼らにとって対象となる」ことによって、「神は彼らにとって信仰の中で彼ら自身のものとなる」、すなわち神の側から人間に「向かい合」う。この「向かい合いは、……神が人間の心の中に現臨し給うことの形式(≪啓示の主観的現実性、啓示の主観的実在、啓示認識・啓示信仰≫)であるが」、この神の人間との「向かい合い」において、神は、人間の神への愛を「ゆるし、人間によって愛されることを欲し給う」。「ひとりの他者を愛する」ということは、「愛の決定的な要素である」。自由・主権がそうであったように、愛も、神自身においてのみ「真理であり実在」であるから、この「愛の……要素」は、「ただ神への愛」においてだけ、それゆえにその「神への愛」に包摂され、「神への愛とともに措定される隣人への愛」においてだけ、「実在である」。なぜならば、「すべてのそのほかの愛することは」、それがその現にあるがままの現実的な人間存在における愛である限り、「愛するものがただ自分ひとりだけでいる」愛、自己愛の対象的な疎外、自己愛の外化(表現)としかならないからである。言い換えれば、啓示に固有な証明能力に基づいて授与される啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通した(それゆえに、<自然神学>的な存在の類比を通してでは決してない)人間の自己認識・自己理解・自己規定を必要とするのである、その更新された愛の措定・愛の概念の措定を必要とするのである。(352・353頁)

 

 単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(性質・行為・働き・業、神の子・神の言葉、啓示・和解)である「イエス・キリストの名」(啓示の客観的実在・啓示の客観的現実性)にあっての神が、私たち人間にとって対象的なるためには、その啓示に固有な証明能力、具体的にはそれ自体が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を媒介・反復した、イエス・キリストの啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される、終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰を必要とすることは、神と人間との無限の質的差異、神の聖性、神の隠蔽性・秘義性、神の不把握性からすれば、自明な事柄なのである。もしもそうでないならば、その神は、人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」でしかないし、すなわち近代以降の宗教(その対象の神)は科学主義(その正反対の極限を想定すれば天然自然主義)にあると規定されるところの神でしかないし、その「神」の名と呼びかけによる人間自身が支配し管理するプログラムの産出でしかない、のである。正当性のある根本的包括的な原理的な宗教批判を行ったフォイエルバッハやマルクスやハイデッガー等は、そのことを見抜いたのである。
 したがって、例えば、「新約聖書の釈義に役立つ新しい哲学的な鍵」を、前期ハイデッガーの哲学原理に見出したブルトマン(その学派、党派性、党派的共同性)に対して、ハイデッガー自身は、「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」、と述べたのである。したがってまた、バルトは、例えば、次のような、質の良い語り方をするのである――「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)・「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)。
 イエス・キリストにあっての神の愛に根拠づけられた隣人愛を包摂した神への愛は、それが「自分自身の存在と行為」の全体性におけるそれであっても、また「神の子供としての存在と行為」の全体性におけるそれであっても、その自分の愛が・愛の奉仕が、「自分を義とすることはできないこと」を認識させ承認させ確認させる。したがって、「愛はただ神的な恵みのしるしをうち立てることであり、うち立てることであろうと欲することができるだけである」。すなわち、隣人愛を包摂した「神への愛」は、次に述べる後者の事柄へと向かわせるのである。聖霊の注ぎによって更新された「新しい主体と本質として……呼びかけられる」その「存在」・その思惟・その実践は、第一に、「内面的なもの」、すなわち「ほかの何人も彼のために代理をつとめることができない」「神との向かい合いの中にある」「個人」性・「孤独」性・個体性、「教会のただ中ににあっての個人」性・「孤独」性・個体性、対自的で対他的な「個人」性・「孤独」性・個体性、その「個人」性・「孤独」性・個体性における、神に向かっての自由な「決断」・神のための自由な「決断」、イエス・キリストに対する感謝の応答としての彼にのみ信頼し固着する自由な「決断」、神をキリストの中で尋ね求めるキリストにあっての「神への愛」・「神に対する人間の愛」と、第二に、「外面的なもの」、すなわち表現された外化された「個人」性・「孤独」性・個体性、客観的対象性、「神の讃美」としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)への信頼と固執と連帯を通した「交わり」・教会共同性、その「特定」の「行動すること」、その不可避的「必然的な行動」、「新約聖書において聞く啓示、和解」、イエス・キリストの死と復活の出来事、その内容であるインマヌエルの出来事、の告白・証し・宣べ伝え、との同時性・同在性において理解することができる。この後者の事柄は、「われわれが神を愛することがゆるされる」ことによって、「起こる」のである。すなわち、啓示に固有な証明能力に基づいて、「神への愛」は、「われわれ自身の現実存在」を、おのずから必然的に不可避的に、「神の讃美へと移行」させて行くのである、「神の讃美」としての隣人愛へと移行させて行くのである。「神が人間に向かって語り給うたことに対する人間の応答として」、「神の愛は全く活動的なものである」。このようなイエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固着する感謝の「応答として神への愛」は、またその告白・証し・宣べ伝えにおいて「神の讃美」としての隣人愛を包摂した神への愛は、すべての自己義認の欲求の放棄・「すべての自己賞賛とすべての自己主張の放棄」において、「神のみ業の証し」となるのである。

 

 

「十八節 神の子らの生活」「三 神の讃美(その4−1)」

 

 「マルコ福音書一二章の、……『第二の命令』、自分のようにあなたの隣り人を愛せよ」は、「神への愛と神の讃美」の関係について「原則的」にも、「愛の命令」の「註釈」においても、「神の讃美」に属している。言い換えれば、隣人愛の命令の「意味と内容」――それは、「すなわち、われわれは(≪啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて啓示認識・啓示信仰を授与された、義とされた罪人としての≫)神の子供として、それであるから心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして神を愛する者」として、イエス・キリストにあっての神に対する「感謝の行動および行為」としての、「わが魂とわがうちにあるすべてのものよ、主をほめたたえよ、その聖なるみ名をほめたたえよ」という「神の讃美へと……召され、要求されているということである」。ただ唯一、この「神の讃美」に、隣人愛の「意味と内容は存在」する。したがって、逆に言えば、「新約聖書において聞く啓示、和解」、すなわちイエス・キリストの死と復活における啓示の出来事、その内容である「インマヌエル、神われらと共にいます」ということが、聖霊の注ぎにおいて「神の子供たちの身に及んだ支配と救助」を「告げ知らせ、証しし、告白」し、宣べ伝えることへと「召され、要求されている」「神の讃美」は、隣人愛の「命令を通して知るのである」。
 言い換えれば、このことは、全人間・全世界・全人類の完了された究極的包括的総体的永遠的救済・平和・解放が単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにのみあるという啓示認識・啓示信仰を、啓示に固有な証明能力、啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を媒介・反復した、イエス・キリストにおける啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与された神の子供たち、教会ならば、神と人間との無限の質的差異の下で、終末論的限界の下で、その啓示・和解の出来事に対する感謝の応答として、その出来事の告白や証しや宣べ伝えへと向かわせしめられるであろう、ということである。ここに、隣人愛の第一義性、源泉、原動力が、あるだろう、ということである。なぜならば、恩寵が「告知」・「証し」・「宣教」される時、「私は私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものだ」、イエス・キリストにのみ信頼し固着せよ、という福音を内容とする福音の形式である律法(命令、神の要求・要請)が建てられるのであるが、この律法がなければ、私たち人間は、現実的にその福音を所有することができないからである。この意味で、律法は、本来的には「生命に導くべきもの」・「神の恩寵を証しするもの」という事実において、福音を内容とする福音の形式なのである。したがって、バルトは、教会の宣教、説教の無条件的な出発点と目的は、「新約聖書において聞く啓示、和解」、すなわちイエス・キリストにおける啓示の出来事、その誕生・死と復活の出来事、その内容である「インマルエル、神われらと共にいます」である、したがって、私たちは「キリストからすべてのことを期待しなければならない」、このことが「終末論」である、したがって、「キリスト教的終末論とは、キリスト論にほかならない」、ここで教会の宣教、説教は、「感謝と確信と共に期待の態度と行動」である、「第一の来臨(≪誕生・死と復活≫)と第二の来臨(≪終末、救贖・完成≫)との間(≪聖霊の時代≫)」に、あの、教会の宣教、「説教と、また同時にキリスト者の生活全体」とがある、と言うのである。したがってまた、バルトは、ある者は「盲目的に」仕事へと没頭し、ある者は「人目をひくような簡素さと寡欲さに沈潜する」、また、ある者は「その時代の人間中の様々な敗残者に対して、熱心に博愛的配慮……教育的配慮を行う」ことに、ある者は「大規模な世界改良の偉大な計画」に邁進する、そしてまた、ある者は「大衆や時代の傾向と手をたずさえて、ある種の正義」に邁進する、「まことに空の空なるかな、である。これらすべてのことが、一体何だろうか」、と言うのである。
 自己愛の対象的な疎外としての、自己愛の外化(表現)としての、隣人愛・愛の奉仕は、誰々のどのようなそれであっても、それが人間自身の直接的なそれである限り、どうしても人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」の名と呼びかけによる人間自身が支配し管理するプログラムや実践としかならないであろう。また、その隣人愛・愛の奉仕の水準は、イザベラ・バードが指摘していたように、近代以降においては、明治期の日本人や西洋人のそれよりも、人類史の原型・母型・母胎におけるアフリカ的段階・縄文的段階(例えば、原日本人、アイヌ人)のそれの方が優れたものである、と言わざるを得ないであろう。このことは、バードが、@彼ら(アイヌ人)が使っている煙草入れや煙管入れを二ドル半で買いたいと言うと、「それらは一ドル一〇セントの値打ちしかないから、その値段で売りたい」と言った。儲けることはアイヌ人の「ならわし」ではなかった、ましてや絆や恩返しということで、儲けようとはしなかった、A「ある一軒の家が焼け落ちた」場合には、村の男たちが総出でその家を建て直すことを「ならわし」としていた、戦争責任の告白をし、「隣人を愛し、社会の福祉のために労し、キリストの正義と愛とがあまねく世に行われるようにする」ことを生活綱領としている日本キリスト教団において、果たして、イエス・キリストにのみ信頼し固着した、イエス・キリストをのみ主・頭とする、教会の宣教が目指されているのだろうか・身内においてさえ人的資金的な適正な再分配は行われていないのではないだろうか、B彼らは雨宿りを頼むと、どんな貧乏な家でも、一番よい席を提供してくれる、C彼らには互いに殺し合う激しい争乱の伝統がない、すなわち、ある一部の支配上層の意思によって動かすことができる軍事部門を有する国家を形成しようとする意志をもたない、D彼らは善悪・道徳の観念、高度な宗教をもたないが、誠実、高貴、立派な生活を送っている、総体として「アイヌ人は純潔であり、他人に対して親切であり、正直で崇敬の念が厚く、老人に対して思いやりがある」、と述べていることからも明らかである。

 

 ここで、私は前回述べたことを思い出す。太宰は、『正義と微笑』で、「聖書を読みたくなって来た。こんな、たまらなく、いらいらしている時には、聖書に限るようである。他の本が、みな無味乾燥でひとつも頭に入ってこない時でも、聖書の言葉だけは、胸にひびく。本当に、たいしたものだ」、と述べている。太宰のこの感性、文学においても一流の人は、やっぱり言うことが違うのだ。詩人であり・文芸批評家であり・思想家である吉本も、次のように述べている――「……〈奇跡〉(中略)たとえば、お前は癒された、立てといったら癩患者が立ち上がった……。これは自分流(≪文芸批評あるいは思想≫)の言葉でいえば、比喩なんです。比喩の言葉というのは、あるばあいにはストレートな真実の言葉よりもっと真実を語るということがありうるわけで、これを実在論に還元してしまうと、田川健三はそうだとおもいますが、こんなのでたらめじゃないか、こういういいかげんなことを書いてる本だという以外にないわけです。しかし言葉としての聖書というのは、信仰の書として読んでも、文学書として読んでも、あるいは思想の書として読んでも、どんな読み方をしょうと人間をのめり込ませる力があるとすれば、これは叡知じゃないとこういうことは言えないという言葉が、そのなかに散らばっているからです。たとえばイエスが、「鶏が三度なく前に私を否むだろう」と言うと、ペテロはそのとおりなっちゃったみたいなエピソードをとっても、人間の<悪>というのが徹底的にわかっていないとだめだし、心というのがわかっていないとだめだし、同時にこれはすごい言葉なんだというのがなければ、やっぱり感ずるということはないとおもうんです」(『〈非知〉へ―〈信〉の構造 対話編』)。牧師であり・神学者であり・神学における思想家であるバルトも、次のように述べている――最終的に離脱した宗教的社会主義における「そこでの人間の困窮と人間に対する助けとが、聖書が理解しているほどには、真剣に理解されておらず、深く理解されて」いなかった(『証人としてのキリスト者』)。「説教者が、実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言いつくしていない(≪人間の感覚や知識を内容とする経験・情報が不足している≫)、と考えるようなことがある限り、彼は、この信頼、信仰を持っておらず、真に信仰によって生き」ようとしていないのである。福音は、「われわれの思考や心情の中にあるのではなく、聖書の中にある」から、私たちは、「思想」、「最高の習慣、最良の見解、そのようなものいっさい」を、聖書に「聴従」することの前で、「放棄」しなければならない。その「聖書は神の言葉となる」ところで、「聖書は神の言葉なのである」。すなわち、聖書に「聴従」するために、神のその都度の自由な決断に基づく啓示の出来事と信仰の出来事、その神の言葉の「出来事」の運動の中において、聖書によって導かれなければならないのである。説教者にとって、「彼らに語らなければならない彼ら自身に関する真理」は、「神がすでに為した」「わたしの前にいるこの人々のために、キリストは死に、甦られた」――神、罪深きわれらと共に、ということである。また、バルトは、『ローマ書』で、次のようにも述べている――「パウロはその時代の子としてその時代の人々に語った。けれどもこの事実よりはるかに重要な事柄は、いま一つの事実、すなわち彼は神の国の預言者ならびに使徒としてあらゆる時代のあらゆる人々に語っている、ということである。(中略)(≪「神の言葉の三形態」における聖書は、「きょうも、きのうも、いつまでもかわることのない」単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示・和解)であるイエス・キリストの証し・証言として≫)聖書の精神は永遠の精神なのである。かつての重大問題は今日もなお重大問題であり、今日の重大問題で単なる偶然や気まぐれでない事柄は、またかつての重大問題と直結している」。

 

 神への愛は、「絶対性と排他性を含んだ命令」であった、「すべての命令中の命令」であった。『福音と律法』によれば、この「もろもろの誡命中の誡命」は、「福音の中核」であるイエス・キリストが、「律法を満たし・すべての誡めを遵守し給うたという事実」から考えられなければならないから、その素直な感謝の応答、その告白・証し・宣べ伝えにあるのである。私たちがイエス・キリストを信じるということ、イエス・キリストにのみ信頼し固着するということ――それは、あくまでも素直な感謝の応答であって、そのことが私たちを義とするのではない。あくまでも、神の側の真実としてのみある、主格的属格としての「イエスの信仰」、すなわち神の義そのものが私たちを義とするのである。ここには、義認についての混淆論・混合論・共働論・協働論は存在しないのである。したがって、バルトは、確信を持って、ローマ3・22、ガラテヤ2・16等の「イエスの信仰」の属格を主格的属格として認識し信仰し理解し承認し確認したのである(『福音と律法』)。ここにおいてしか、不信とむなしさと不安と不確かさが蔓延した現在から未来に生きる言葉を発することはできないことを、全キリスト教世界の中で認識していたのはバルトだけだったのである。

 

 さて、「第一の命令」としての「唯一の主」であり「唯一の神」である神への愛が「絶対性と排他性を含んだ命令」であるとするならば、その神への愛と「第二の命令」としての隣人愛を同一化することは「注釈的にゆるされないことである」。したがって、恣意的独断的に、神と人間との無限の質的差異を棄揚し捨象した、すなわち「人間学的――神学的前提」・混合神学的前提に依拠した、神への愛と隣人愛との同一化の「ゆきつく帰結は、神は隣人であり、隣人は神であるという、滅びに導く冒?と混乱である……」。なぜならば、聖書によれば、「人間それ自身は、……自分に固有な価値を持っていない」し、「人間と人間の間の交わりについても……それは自分に固有な価値を持っていない」のである。神への愛と隣人愛を同一化する「主要原理および解釈原理」のゆきつく果ては、神への愛と隣人愛との混淆であり、「人間性神学者」が主張する「理想主義」的な「人間性」・「人間性の内的自由」における「人間愛」の「最高の総内容」であり、「人間愛の理念」であり、その実体化である。結局は、神への愛を後景へ退かせた、隣人愛、人間的な愛の奉仕、の第一義化・第一次化・前面化である。聖書によれば、「神の言葉と霊を通して新たに基礎づけられた、イエス・キリストの中で啓示され、キリストを信じる信仰の中で把握されるべき人間性……があるのであって」、すなわち啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて授与された啓示認識・啓示信仰、それに依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定における「人間性」があるのであって、無媒介的直接的な「それ自身の中で基礎づけられた人間性があるのではない」。聖書においては、神への愛と隣人愛は、関連しつつも、相違性があるのであって、二つの命令は、「互いに排除し合う、相容れない対立物である」。なぜならば、「聖書からみられた隣人は決して神と同一視されることはできず、……人間として、……被造物として理解されなければならず、……ただこの区別の中でのみ確かにまた、隣人愛は神への愛と最も明確に関連づけられることができるであろう」からである。したがって、イエス・キリストにあっての「神の子供たちは神への愛の中で、それであるから彼らの父の絶対命令に対する服従を実行に移しつつ、生きるのであり、そのような生活の内容充実と並んで、隣人への愛(≪第一義的に、イエス・キリストにおける啓示の出来事、その誕生・死と復活、「新約聖書において聞く啓示、和解」、その内容である「インマヌエル、神われらとともにいます」、に対する感謝の応答としての、「神の讃美」、その告白・証し・宣べ伝え≫)の中で生きる彼らの生活は、ただ、まさに(≪第一の命令に対する服従としての≫)自由なしるしという意味だけを持つであろう……」。この意味において、第二の命令の「神の讃美」としての隣人愛も、「真剣」な、「切実」な、「鋭い仕方」、の命令である(マタイ22・37−40、Tテサロニケ4・9、ガラテヤ5・14、ローマ13・8以下、ヨハネ13・34および15・12、17、Tヨハネ3・11以下および4・11ならびに3・23等、393−394頁)。
 あの「人間性型の(≪神への愛と隣人愛の同一化の≫)思想」・「哲学」に対して、「歴史神学者」が主張する「現実主義」的な「超個人的な外的な拘束や義務」における「秩序型の(≪神への愛と隣人愛の同一化の≫)思想」・「哲学」は、歴史的な実在として対象的に認識できる「結婚」、「家族」、「父、息子、兄弟、夫」、「職業」、「民族性」、「市民」、「国家」の諸秩序を、「創造の秩序」・「神の秩序」として「認識し尊重し」、価値化して、「隣人愛の命令を基礎づけている」。この場合も、「前もって与えられてそこにある固有な価値を引き合いに出して、自分の立場を裏付けているという点」において、「人間性型の思想」・「哲学」と同じ水準のそれである。

 

 この両者に対して、次のような問いが向けられるべきである。すなわち、それは、「果たしてわれわれにとっていわゆる人間性が、あるいは造られた世界の……諸秩序が、……神的な創造を再認識することができるような具合に、与えられており知られているだろうかということである」。言い換えれば、啓示に固有な証明能力、具体的には啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を媒介・反復した、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、神の子、啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事を、恣意的独断的に棄揚し捨象してしまって、「つまり啓示を通りすごして」しまって、「直接」的に、「創造にてらして方向を定めることができる神の認識、および神の命令についての認識」は不可能なのである。なぜならば、もしも可能であるとするならば、その認識は、ハイデッガーが指摘しているように、人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」の認識、その神の命令でしかないであろうからである。したがって、バルトは、次のように言うのである――「人間性神学者の理想主義も歴史神学者の現実主義も、……われわれ自身の映像でしかない神の認識、われわれの自由と束縛の総内容および理念でしかない神の認識」に過ぎない、と。「啓示は歴史の賓辞ではない」、「歴史が啓示の賓辞である」。人間の歴史は、徹頭徹尾、「神的自由の行為」としての啓示となることはできない。神の自己啓示、神の自己認識・自己理解・自己規定、イエス・キリストの啓示の出来事、啓示の実在そのもの、啓示の真理、神の時間、啓示の時間、永遠、超歴史、救済史は、常に、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・概念・教義、人間の自己認識・自己理解・自己規定、人間の時間、歴史の、彼岸・外にある、彼岸・外にあり続ける。このことは、啓示自体から与えられた、私たち人間における終末論的限界を意味している。またこのことは、まことの神は「隠蔽性・秘義性」を本質としており、その神に対して人間の理性は「全く闇に閉ざされ」た「盲目」性を本質としている、という「神の不把握性」を意味している。この神の不把握性は、聖性としての神は単一性・神性・永遠性を本質とするということについての「信仰命題」であり、一般的真理ではなく、啓示に固有な証明能力に基づく啓示の真理・信仰の真理である。

 

 聖書によれば、自由・主権は神においてのみ「実在であり真理」であるから、イエス・キリストにあっての神の命令(要求、要請)への服従においてのみ、聖書的な自由な概念は成立する。ヘーゲルの自由の概念は、人間に内在する神的本質、すなわち自己還帰する対自的で対他的・他在であって自在としての人間の自由な自己意識・思惟・理性の無限性そのものである。
 神への愛と隣人愛の「関連と相違性」は、「神の子供たち、教会」が、イエス・キリストの「甦えりと再臨」(終末、救贖・完成)の間の聖霊の時代において、「二つの時間と世界に属して生きているということ」、すなわちキリストの十字架・死でもって終わる「われわれ人間の失われた非本来的な古い時間」・「古い世」界とキリストの復活(成就された時間)によって初まる「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」・「新しい世」界に属して生きているということを認識する時、明らかになってくる。なぜならば、「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」。すなわち、「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」は、復活へと向かっているからである。このイエス・キリストにおける啓示の時間に、「まことの現在」、まことの「過去と未来」が、「神の言葉」が、存在する。したがって、私たち全人間・全世界・全人類における人間の時間・世界は、この啓示の時間から「攻撃された」それ、「否定的判決」を受けたそれ、それゆえに「失われた」それである。私たちは、イエス・キリストの啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰において、敗北者である「われわれ人間の失われた非本来的な古い時間」・「古い世」界は、「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」(成就された時間)・「新しい世」界、すなわちキリストの復活における神の「勝利の行為」によって根本的包括的総体的永遠的に止揚され・克服されて「そこにある」ことを認識し信仰することができるのである。また、その勝利の行為は、「敗北者もまた依然としてそこにいるところの勝利の行為」であることを認識し信仰することができるのである。ここに、「神の子供たち、教会」、キリスト教的人間の、その現にあるがままの現実的な人間存在があるのである。この言葉の水準においては、前回述べた次のような太宰の悲嘆の言葉――「ああ、可哀想だ。人間が可哀想だ。(中略)みんな、みんな可哀想だ。僕には、昔から、軽蔑感も憎悪も、怒りも嫉妬も何も無かった。人の真似をして、憎むの軽蔑するのと騒ぎ立てていただけなんだ。(中略)僕のいのちが役に立つなら、誰にでも差し上げます。このごろ僕には人間がいよいよ可哀想に思われて仕様がないんだ。無い智慧をしぼって懸命に努めても、みんな、悪くなる一方じゃないか(新ハムレット)」を包摂できるのである。こういうバルトの言葉の水準を、牧師・関口康は全く理解できないのである。何故か? それは、関口が、形而上学的一面的皮相的抽象的な思惟の持ち主だからである、そのことを認識し自覚していないからである。関口が、自分には生活がある(誰にだって、生活の世界に重きを置いているか・知識の世界に重きを置いているか、の違いはあれ、あるのだ)、自分はそれを重視している(誰にだって、不可避的な生活はあるのだ)、バルトは理論を重視している、論理的、理論的、過ぎる、と関口が言うこと自体が、観念を媒介とした一つの抽象なのである。そのことが関口には理解できないのである。すなわち、そこで問題となることは、抽象<度>の問題なのである、思想の往還の問題なのである。関口の言葉の水準では、徹頭徹尾全く、バルトを根本的包括的に原理的に止揚できないし、太宰の悲嘆の言葉も包摂できないのである。
 「神の子供たち、教会」、キリスト教的人間、は、「既に起こったイエス・キリストの甦えり昇天にもとづいて」、そして啓示の出来事と信仰の出来事に基づく「神のみ子の顕現を信じる信仰」の授与において、み子にあって新しい時間と世界に属する者であり、み子によって「義トサレタ罪人」であり、「み子の人格の中で……既に神のみ座の前に集められ、永遠のみ国の市民であり、永遠の生命にあずかっている者である」――「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」・「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」(『福音と律法』)。この恩寵が「告知」・「証し」・「宣教」される時、「私は私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものだ」、イエス・キリストにのみ固着せよ、という福音を内容とする福音の形式である律法(神の命令・要求・要請)が建てられるのである。イエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを認識し承認し確認するのである。したがって私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し承認し確認するのである。すなわち、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪裁き≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを認識し承認し確認するのである。「古い時間と古い世界は、確かに過ぎ去った時間と世界であるとしても、つねになお彼らの最後にひそんでいる、いや、最後から彼らに迫ってくる」から、その現にあるがままの現実的な人間存在において、その人間の存在様式を、個と類、歴史性と現存性を、生きる「彼ら」は、「義トサレタ罪人として彼らの主を持ち、目を覚ましていなければならない」のである。不可視的な「キリストにあるもの」という「隠された」「被造物的――人間的存在」として、「神の子供たち、教会」、キリスト教的人間、諸個人は、神への愛、キリストにあっての神を尋ね求めること、を命じられているのである。一方で、そのような「確かな約束の慰めと警告」・「全き希望と危険」の中で、「闇と直面しつつ光の中で『歩む』」「被造物的――人間的存在」として、「神の子供たち、教会」、キリスト教的人間、は、神への愛の対象的な疎外、表現、外化としての、「隣人愛の命令のもとにおかれ」ており、その「特定」の「行動すること」、その不可避的「必然的な行動」、「新約聖書において聞く啓示、和解」、イエス・キリストの死と復活の出来事、その内容であるインマヌエルの出来事、の告白・証し・宣べ伝えにおいて、可視的な「神の讃美」としての隣人愛の歩みを歩むのである。なぜならば、「福音の中核」である「十字架につけられ甦り給うた」イエス・キリストが、「律法を満たし・すべての誡めを遵守し給うたという事実」、啓示・和解の出来事、が「告知」・「証し」・「宣教」され、「私は私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものだ」、イエス・キリストにのみ信頼し固着せよ、という福音を内容とする福音の形式である律法(神の命令・要求・要請)が建てられなければ、私たち人間(隣人)は、現実的に福音を所有することはできないからである。この意味で、バルトは、次のように述べたのである――イエス・キリストを信ずる信仰は、あくまでも感謝の応答としてのそれであって、それが人間を義とするわけではない、人間を義とする義認の根拠は、あくまでも神の側の真実としてのみある主格的属格として「イエスの信仰」・神の義そのものである、したがって、神と人間との、神学と人間学との、混淆・混合・共働・協働における神に対する「熱心さの無知」は、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求(無神性・不信仰・真実の罪)に基づいており、「神の要求」を、人間によって恣意的に曲解された「十誡・預言者の言葉・ソロモンの処世上の知恵・山上の垂訓また使徒の報告」に過ぎないものへと変える、この時、人間のその存在・その思惟・その実践は、「罪」に「勝利を収め」させる熱心さ・「不従順」・「虚偽」となる、なぜならば、その「無数の儀文」は、「偶像崇拝」・「神冒?」を生じさせるからである、ある者は「盲目的に」仕事へと没頭し、ある者は「人目をひくような簡素さと寡欲さに沈潜する」、また、ある者は「その時代の人間中の様々な敗残者に対して、熱心に博愛的配慮……教育的配慮を行う」ことに、ある者は「大規模な世界改良の偉大な計画」に邁進する、そしてまた、ある者は「大衆や時代の傾向と手をたずさえて、ある種の正義」に邁進する、「まことに空の空なるかな、である。これらすべてのことが、一体何だろうか」、と。

 

(1)第一の命令、すなわち神への愛・キリストにあっての神を尋ね求める、という命令は、「その地上的な肢体の天的なかしらとしてのイエス・キリストにあっての、完成された存在の中での神の子供のことを意図し、そのような神の子供に向かって語りかけている」。第二の命令、すなわち「神の讃美」としての隣人愛は、「天的なかしらの地上的な肢体としての、まだ完成されない歩みと行動の中での神の子供のことを意図し、そのような神の子供に向かって語りかけている。同一の神が同じひとりの人間に向かって語りかけ給う」。「それはひとりの絶対的な主の二つの命令であり、それ故ひとりの人間にとってそれぞれ、……絶対的な意味を持っている」。
(2)二つの命令は、「ひとりの神が、人間全体に対し掲げておられる要求」である。なぜならば、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」・「キリスト教使信の中心」は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」「広い共同体」に向かっての運動において、個と類、歴史性と現存性、人間存在の三様式、を生きるその現にあるがままの現実的な人間存在における不信・非キリスト者(教)・非知、全人間・全世界・全人類、に対して完全に開かれているからである(『カール・バルト教会教義学 和解論 T/1「和解論の対象と問題」』)。
 私たちの、その存在・その思惟・その実践においては、「神の言葉と神の霊……の単一性」、「イエス・キリストにあって、聖霊を通しての神の啓示」、「恵みの秩序」が問題である。言い換えれば、啓示に固有な証明能力、啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を媒介・反復した、イエス・キリストにおける啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される、啓示認識・啓示信仰が、それに依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定が問題である。神の啓示こそが、先述した「人間的な現実存在の二重の実在と二重の局面を基礎づけている」。したがって、「人間に向かって発せられる要求の二重性が、存在する」。この神の啓示、恵みの秩序においては、神への愛と隣人愛の同一化はあり得ないことである。言い換えれば、神の啓示から遠く離れてしまう時には、恣意的独断的な、神と人間との無限の質的差異の棄揚・捨象の下で、神への愛と隣人愛の同一化を惹き起こすであろう。したがって、「神の啓示から遠く離れてしまわない時」には、神と人間との無限の質的差異の下で、また終末論的限界の下で、「ただ神と隣人を愛することができるだけであるだろう」。したがってまた、私たちは、「神の言葉と神の霊に耳を傾け、……神の啓示の中で愛の二重命令を聞かなければならないのである」。
(3)二つの命令の関連と相違性とは、神への愛の命令は感謝の応答としての「神の讃美」としての隣人愛を包摂し含んでいるということであり、それゆえに隣人愛は神への愛の下位に立っており、「神への愛の命令の絶対性にあずか」っている、ということである。したがって、「神の讃美」としての隣人愛は、私たち人間の恣意性や独断性に委ねられてはいないのである。なぜならば、私たち人間の恣意性や独断性に委ねられ隣人愛、善意、愛の奉仕、は、バルトが述べているように、次のような事態を惹き起こすからである――「ドストエフスキーの書いたあの大審問官は、神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていたのであるが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の善意(≪彼自身が対象介した「存在者レベルでの神」の名と呼びかけによる、彼自身が支配し管理するプログラム≫)によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、最も洗練された支配行為に過ぎなかったのである。神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえどのように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう。またそのようなところには、教会は存在しないのである。そのような救いの計画と救いの方法の独断性が、神に余りに僅かしか信頼せず、人間に余りに多く信頼するという点に現われるということは、疑いない」(『啓示・教会・神学』)。私たちは、神への愛の命令を、「来たりつつある、永続する時間と世界」、「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」・「新しい世」界、「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」イエス・キリストの連続性における時間と世界、の中での、私たち人間の「現実存在にあてはめ」、隣人愛の命令を、「過ぎ去りゆく時間と世界」、「古い時間」・「古い世」界、「失われた」「否定的判決の」時間と世界、の中での、私たち人間の「現実存在にあてはめる限り」、「第一の命令と第二の命令、先行する命令と後続する命令、優位に立つ命令と下位に立つ命令、永遠的命令と時間的命令、とかかわりをもたなければならない」のである。この場合、後者のその現にあるがままの現実的な人間存在の時間・世界は、キリストの復活における神の「勝利の行為」、すなわち「新しい時間」・「新しい世」界によって根本的包括的総体的永遠的に止揚され・克服されたそれである。したがって、「このわれわれの時間と世は現在の、過ぎ去りゆく時間と世である……」。このような訳で、隣人愛は、「神への愛ゆえに」、神への愛の「命令の中で」、神への愛の「命令と共にわれわれに命じられており、神への愛は隣人愛の実質的な根拠であり、解釈原理であるとともに、他方隣人愛」は、「事実神への愛のしるし」、イエス・キリストにあっての神への感謝の応答としての、「新約聖書において聞く啓示、和解」、その内容であるインマヌエルの出来事、神の側の真実としてのみある「永遠的実在」として<すでに>におけるイエス・キリストにける完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的救済・平和・解放、の告白・証し・宣べ伝え、すなわち「神の讃美」である。