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カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「十八節 神の子らの生活」「二 神への愛(その3−2)―2」

『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「十八節 神の子らの生活」「二 神への愛(その3−2)―2」(352−382頁)

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、引用の不備や誤字脱字等の不備はご容赦ください)

 

 

 前回述べた(A)事項および下記の事項を参照すれば、理解し易くなります。もちろん、下記事項も飛ばして、直接「十八節 神の子らの生活」「二 神への愛」(その3−2)−2へと、読み進んでいただいてもよろしいかと思います。

 

 

 バルトは、「十八節 神の子らの生活」について、次のような理性的な定式化を行っていた。

 

「神の啓示は、それが聖霊の働きの中で信じられ認識されるところでは、神をイエス・キリストの中で尋ね求めることなしにはもはや存在せず、また神が既に彼らを見出されたことを証しすることなしには存在することができない人間を造り出す」。(302頁)

 

 私たちは、この定式から、「神の子らの生活」について、次のような事柄を聞いた――「啓示がなすよき業」、啓示に固有な証明能力によって規定されたキリスト教的人間の「存在」、すなわち聖霊の注ぎによって更新された「新しい主体と本質として……呼びかけられる」その「存在」・その思惟・その実践は、
@「内面的なもの」、すなわち「ほかの何人も彼のために代理をつとめることができない」「神との向かい合いの中にある」「個人」性・「孤独」性・個体性、「教会のただ中ににあっての個人」性・「孤独」性・個体性、対自的で対他的な「個人」性・「孤独」性・個体性、その「個人」性・「孤独」性・個体性における、神に向かっての自由な「決断」・神のための自由な「決断」、イエス・キリストに対する感謝の応答としての彼にのみ信頼し固着する自由な「決断」、神をキリストの中で尋ね求めるキリストにあっての「神への愛」・「神に対する人間の愛」と、
A「外面的なもの」、すなわち表現された外化された対象化された「個人」性・「孤独」性・個体性、客観的対象性、「神の讃美」としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)への信頼と固執と連帯を通した「交わり」・教会共同性、その「特定」の「行動すること」、その不可避的「必然的な行動」、「新約聖書において聞く啓示、和解」、イエス・キリストの死と復活の出来事、その内容であるインマヌエルの出来事、の告白・証し・宣べ伝え、
との同時性・同在性・構造性において理解することができる。
 キリスト教的人間・「彼の生活、行為」、自由な決断、が、「『キリスト教的』性格を明瞭に描き出す」場合、それは、向こう側から、「外から」、「神から」、神の側のから、やって「来る」、それである。すなわち、私や私たちの、「生活、行為」、自由な決断、における「『キリスト教的なもの』は、つねにただ」、「わたし」や「われわれ」ではなく「彼、主」が、私や私たちの「ために」・「代わりにということの表明であることができるだけ」なのである。したがって、それは、終末論的限界の下における、あの啓示に固有な証明能力を通して授与された人間的な人間の自己認識・自己理解・自己規定としての「神の子らの生活」・「教会の生活」・キリスト教的人間の生活としてのそれなのである。このように、それは、主が、イエス・キリストが、「慰めと警告と命令を与えつつ、限界づけつつ、力を奮うということ」であり、「神の子らの生活」・「教会の生活」・キリスト教的人間の生活の根拠である、ということである。したがって、この「神の子らの生活」・「教会の生活」・キリスト教的人間の生活における「キリスト教的なもの」の「実在」は、「彼ら自身の現実存在の隠れた実在である」。このことは、理解し易いように・イメージし易いように、『福音と律法』に即して言い換えれば、@「私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)」(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」ということである、A「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」ということである。すなわち、「彼ら自身の現実存在の隠れた実在」は、「わたし」や「わたしたちではなく彼が」・主が、「イエス・キリストという唯一の名」が、「この実在である」、ということである。
 「ただ間接的にのみ彼はわれわれと、われわれは彼と同一である。なぜならば、彼は神であり、われわれは人間であるからである」、「彼は天にいまし、われわれは地上にいる」からである、「彼は永遠に生き給い、われわれは時間的に生きるからである」、「この限界、終末論的な限界、は、彼とわれわれの間であくまで引かれ続けている」からである。私たちが、「神の子どもたちの生活」、「教会の生活」、キリスト教的人間の生活、を、「聖霊が造り出すものとして理解する時」、この認識と信仰を得る時、例えば前述した『福音と律法』(@・A)における、「交差し合っている」その存在・その思惟・その実践(行為)の人間的な自己認識・自己理解・自己規定を得るのである。「神の子供たち」・キリスト教的「人間の実際に異なった二つの規定」、すなわち聖書的な「生まれかわりと回心、義認と聖化、信仰と服従、神の子供と奴隷」の区別は、それを「規定する方」である単一性・神性・永遠性を本質とする「イエス・キリストと聖霊」において、「交差し合っている」、ということができるのである。
 聖霊によって更新された「彼」、すなわち「個人」性・「孤独」性・個体性における「彼」は、聖霊の注ぎによって「確かに神の言葉」を、「永遠の言葉、すなわち、肉をとり、ご自分の肉の中で、われわれの肉を、この言葉を聞き信じるすべてのものの肉を、父の栄光の中へと取り上げた永遠の言葉」を、「聞き、信じる」のであるから、「神をキリストの中」で「尋ね求めることこそ」が、教会や神の子供たち・キリスト教的人間の「生活の内面的なこと」であり、「個人」性・「孤独」性・個体性であり、その対象化された外化(表現)された「個人」性・「孤独」性・個体性は、彼らの外面的な「行為の意図」・教会共同性である。啓示に固有な証明能力に基づいて、具体的には啓示の主観的な可能性としての「神の言葉の三形態」を媒介・反復することを通した、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、「神を見出した者たち」、すなわち啓示認識・啓示信仰を授与された者たち、が、「神をキリストの中で尋ね求めることについて語っている聖書的概念」は、「神への愛」、「神に対する人間の愛」である。この「神への愛は、その人間がキリストとともに甦えらされたが故に、そのほかの彼の存在が彼から取り去られた後、ただそれだけが彼に残されている存在である」。なぜならば、「イエス・キリストご自身」が、「イエス・キリストにあってなし遂げられたわれわれの義認と解放が、われわれ自身の中においても現実となるため」に、私たち人間に「力と愛と慎との霊を与え給う」からである。「力の霊」とは、イエス・キリストにのみ信頼し固着させる霊である。「愛の霊」とは、イエス・キリストの「御意に従わしめる」霊・「律法の完成」であるイエス・キリストに対する愛の霊のことである。「慎みの霊」とは、人間が神の要求に対して自己主張し破滅することを防ぐ霊であり、人間が神を救い主として神を見・神に聞くよう促す霊である。
 この時、理性的な定式化における前者の「個人」性・「孤独」性・個体性は、「神をイエス・キリストの中で、尋ね求めることなしに、もはや存在すること」・思惟すること・実践することができないそれなのである。しかし、ただなお、「彼の背後には、……彼の既に片づけられた(≪キリストの復活によって根本的包括的に止揚し・克服された≫)罪、死の深淵がある」。すなわち、イエス・キリストにあって、「彼」は、啓示の弁証法において「恵みを受けた罪人である、義トサレタ罪人である」。また、理性的な定式化における後者のキリスト教的人間の、「外面的なもの」、「特定」の「行動すること」、「交わり」・教会共同性、「神への讃美」は、「彼らに語らなければならない彼ら自身に関する真理」である「神がすでに為した」・完了したところの全人間・全世界・全人類のために「キリストは死に、甦えられた」というイエス・キリストの死と復活の出来事、その内容であるインマヌエル――神、罪深きわれらと共に、ということ、「新約聖書において聞く啓示、和解」の出来事、その告白・「証し」・「宣べ伝え」にあるのである。なぜならば、「彼」は、聖霊の注ぎにより、「神の自由の中で、彼自身自由となり、神の子供となった」し、「神に向かって自由」となったし、「神のための自由」を得た、のだからである。したがって、「彼」は、「彼の現実存在全体を通して」、神に向かっての自由、神のための自由、の「決断」において、「生きるのである」。しかし、「彼の背後」には、依然として、神に向かっての人間の自由、神のための人間の自由、の「決断」とは違った「決断」を行う、イエス・キリストの死と復活の出来事によって止揚し・克服されたところの、人間の神からの離反・背き・罪、無神性、不信仰、があるのである。したがって、「彼」は、「ただ、キリストにあって」のみ、「救われている」のである。「まさにそれだからこそ、キリストについての証言に向かっての(≪神に向かっての自由、神のための自由、の≫)決断の中で、彼は生きる」のである。「彼」は、聖霊の注ぎによって、授与される啓示認識・啓示信仰である「義トサレタ罪人として」、キリストの「死と復活」の出来事を、神に向かっての自由、神のための自由、の「決断」において、「証ししようと欲し」、「証しし、告白する」のである。「外的な行い・業へと向か」わせられるのである。この時、彼は、キリスト教的人間における「個人」性・「孤独」性・個体性であるにもかかわらず、教会共同性の中に、「教会の交わりの中にいるのである」。聖書的概念として、「われわれが見出され、救われていることをこのように証しし、告白すること」は、「神への讃美」である。それは、キリストの死と復活の出来事からやってくる、不可避的「必然的な行動」としての、告白・証し・宣べ伝え、である。なぜならば、「個々の人間による和解の主体的実現という問題は、絶対に欠くことの出来ない問題」ではあるが、「イエス・キリストにおいて客観的に起った和解の主体的実現は、まず第一に教団において、イエス・キリストの聖霊の業として遂行される」(『カール・バルト教会教義学 和解論T/1』)からである、また、恩寵が「告知」・「証し」・「宣教」される時、「私は私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものだ」、イエス・キリストにのみ固着せよ、という福音を内容とする福音の形式である律法が建てられるのであるが 、それは、その律法(神の要求・要請としてのあの告白・証し・宣べ伝え)がなければ、私たち人間は、現実的に福音を所有することができないからである(『福音と律法』)。
 キリスト復活から再臨、終末、救贖・完成までの聖霊の時代における「キリスト教的生活」、「教会の生活」、「神の子供たちの生活」は、終末論的限界の下において、「神をキリストの中で尋ね求め」、「見出す人間」の途上の生活である。ここに、「神学的倫理学……の原理」がある。それは、「神への愛」、「神に対する人間の愛」、と、「神の讃美」、イエス・キリストの死と復活の出来事の告白・証し・宣べ伝え、との同時性・同在性・構造性においてあるのである。このように、教義学が、「キリスト教的人間の問題を既にその基本的な考察」の対象として「承認し、取り扱」い、「倫理学を自分の中に取り上げている」のであるから、「特別な、神学的倫理学」を必要としないのである。なぜならば、「教義学自身」が、終末論的限界の下での「神の言葉についての反省的考察」であり、神学的な「倫理学であるからである」。

 

 身体を座として持つ現実的な人間存在を生き死んでいく「キリスト信者の生活は、愛でもってはじまり……愛でもって終わる」。したがって、「信仰もまた愛に先行するものではない」。なぜならば、「信仰とは、……(≪神の側の真実としてのみある啓示の客観的実在そのものである主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」・神自身の義そのものにおけるその≫)イエス・キリストを信じる信仰である」から、それゆえにその人間の側からの信仰が人間を義とするのではないから、それゆえにまたその人間の側からの信仰はあくまでも啓示・和解であるイエス・キリストに対する感謝の応答であるから、「人が信じるならば、彼にとっては、キリストにあって神を愛する愛の中での存在」として、「彼は(≪その存在・その思惟・その実践において、キリストにあっての≫)神を尋ね求めることなしにいることはできないからである」。言い換えれば、「彼」は、啓示に固有な証明能力、具体的にはそれ自体が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復した、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいた、キリストにあっての「神を尋ね求めることなしにいることはできないからである」。この信仰、この信仰に先行する愛は、主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」におけるイエス・キリスト自身の死と復活による人間の「不信仰の罪に対する神の勝利」に根拠づけられたそれである。このイエス・キリストにおける人間の「不信仰の罪に対する神の勝利」は、単一性・神性・永遠性を本質とする「イエス・キリストにあってなし遂げられたわれわれの義認と解放が、われわれ自身の中においても現実となるため」に、私たち人間に対して「力と愛と慎との霊を与え給う」出来事である。キリストにあっての神の側の真実としてのみある、第一義的な、第一次的な、この「不信仰の罪に対する神の勝利」としての「力と愛と慎との霊」の授与こそが、「信仰もまた愛に先行するものではない」ということの根拠である。「力の霊」とは、イエス・キリストにのみ固着させる霊である。「愛の霊」とは、イエス・キリストの「御意に従わしめる」霊・「律法の完成」であるイエス・キリストに対する愛の霊のことである。「慎みの霊」とは、人間が神の要求に対して自己主張し破滅することを防ぐ霊であり、人間が神を救い主として神を見・神に聞くよう促す霊である。このように、先ず以て、神に向かっての人間の自由、神のための人間の自由は、神の側の自由な決断においてのみ、神の側の真実としてのみ、やってくるそれである。このことは、すべての人間に、その現実的な人間存在すべてに、完全に開かれたそれである。したがって、人は、神に向かっての人間の自由、神のための人間の自由、に背反すること、すなわちキリストにあっての神から遠ざかり・遠ざかり続ること、また神に背き背き続けること、もあり得るのである。したがってまた、不信や非キリスト教においてだけでなく、信の中での・キリスト教の中での、不信や偶像崇拝や異教や異端もあり得るのである。この時、「彼」は、聖霊の注ぎによって、授与される「神の言葉の三形態」を通した人間の啓示認識・啓示信仰およびそれと同時的同在的に授与される人間の自己認識・自己理解・自己規定(啓示の主観的実在、啓示の主観的現実化、終末論的限界の下での啓示の「概念の実在」の内在化)である「義トサレタ罪人として」、キリストの「死と復活」の出来事を、神に向かっての人間の自由、神のための人間の自由、の「決断」において、すなわち「神への愛」の「決断」において、「証ししようと欲し」、「証しし、告白する」のである。これは、その「愛」の対象化・外化・表現、「神の讃美」である。そして、ほんとうは、このことこそが、信仰におけるすべての人間への愛の実践である。なぜならば、「イエス・キリストの名」こそが、完了された全人間・全世界・全人類の根本的包括的総体的永遠的な救済・平和(史)そのものであるからである。したがって、完了された全人間・全世界・全人類の根本的包括的総体的永遠的な救済・平和(史)そのものであるイエス・キリストについての「証言、宣教、説教」の繰り返しの言葉が、現に身近にいる「食物の飢え」等々で困窮している具体的な一人の人や一部の人を施しや奉仕等によって相対的・部分的に救済しようとする緊急的過渡的な救済の「外的な行い・業」へと、「ある状況下において、その状況に抗する」「実践、行動」へと、「おのずから」・必然的につれて行くのである、「外的な行い・業へと向か」わせるのである。そうでなければ、「無に等しい」、「何の益もない」(Tコリント12・31、13、およびTヨハネ4・7−12)。ある者は「盲目的に」仕事へと没頭し、ある者は「人目をひくような簡素さと寡欲さに沈潜する」、また、ある者は「その時代の人間中の様々な敗残者に対して、熱心に博愛的配慮……教育的配慮を行う」ことに、ある者は「大規模な世界改良の偉大な計画」に邁進する、そしてまた、ある者は「大衆や時代の傾向と手をたずさえて、ある種の正義」に邁進する、「まことに空の空なるかな、である。これらすべてのことが、一体何だろうか」である(『福音と律法』)。この言葉の背後には、最終的に離脱したバルトの宗教社会主義における体験思想が隠されている。バルトは、次のように述べている――「そこでの人間の困窮と人間に対する助けとが、聖書が理解しているほどには、真剣に理解されておらず、深く理解されて」いなかった、と(『証人としてのキリスト者』)。バルトは、啓示に固有な証明能力に基づいて、存在の類比には立脚せず、啓示の類比・信仰の類比・関係の類比に立脚しているのである。
 さて、「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、私たちの知識は一部分、予言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう」(Tコリント8−10)――このことを、パウロは、「来るべき世においての贖われた人間の存在と行為についても妥当する」と考えている、「神を顔と顔とを合わせて見るであろう永遠の生命の中においても、彼は愛するものであろう」、と考えている。(322・323頁)

 

 「愛」は、教会や神の子供たちの生活、キリスト教的人間の生活、「キリスト信者の生活の本質である」。「愛はローマ一三・一〇によれば、律法を完成するもの、Tテモテ一・五によれば、命令の目標である」。「マルコ一二・二九以下で律法と預言者とが……二重命令、あなたは、神とあなたの隣人を愛せよ、の中でまとめられている」。「愛はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える(Tコリント一三・七)」。「愛の中で真理は尊ばれる(Uテサロニケ二・一〇、Tコリント一三・六、エペソ四・一五)。愛は教会を建てる(Tコリント八・一、エペソ四・一六)」。この「キリスト信者の生活」、その「生活の表現としての愛」、現実的な人間存在・「人間の現実存在の自己規定としての愛」は、「自然の光」の中においてではなく、「恵みの光」の「領域」の中において、その「光の秩序と力」によって、啓示に固有な証明能力に基づいて、「神の言葉を聞き、信じる時」、それゆえに「神の子供として新しく生まれる時に、……理解されることができる」。なぜならば、「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方としての神の言葉・神の子であるイエス・キリストを通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に信頼し固執する「認識」・信仰であり、その時初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができる、からである。またなぜならば、単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」において、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを認識し承認し確認する、それゆえに、その時、私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し承認し確認する、すなわち「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪裁き≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを認識し承認し確認する、からである。

 

 

「十八節 神の子らの生活」「二 神への愛」(その3−2)−2

 

(4)啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力に基づいて、「神がご自分を信仰の中で彼らに与え給う故」に、神と人間との無限の質的差異の下で、また終末論的限界の下で、「人間の創造主」として「神」は、「義とされた罪人」としてのその現にあるがままの現実的な人間存在である「彼らにとって対象的」となる。すなわち、イエス・キリストにあっての神は、客観的対象性として、それ自体聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を、私たち、その現にあるがままの現実的な人間存在、に、授与する。「また……(≪そのようにして≫)神が彼らにとって対象となる」ことによって、「神は彼らにとって信仰の中で彼ら自身のものとなる」、すなわち神の側から人間に「向かい合」う。この「向かい合いは、……神が人間の心の中に現臨し給うことの形式(≪啓示の主観的現実性、啓示の主観的実在、啓示認識・啓示信仰≫)であるが」、この神の人間との「向かい合い」において、神は、人間の神への愛を「ゆるし、人間によって愛されることを欲し給う」。「ひとりの他者を愛する」ということは、「愛の決定的な要素である」。自由・主権がそうであったように、愛も、神自身においてのみ「真理であり実在」であるから、この「愛の……要素」は、「ただ神への愛」においてだけ、それゆえにその「神への愛」に包摂され、「神への愛とともに措定される隣人への愛」においてだけ、「実在である」。なぜならば、「すべてのそのほかの愛することは」、それがその現にあるがままの現実的な人間存在における愛である限り、「愛するものがただ自分ひとりだけでいる」愛、自己愛の対象的な疎外、自己愛の外化(表現)としかならないからである。言い換えれば、啓示に固有な証明能力に基づいて授与される啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通した(それゆえに、<自然神学>的な存在の類比を通してでは決してない)人間の自己認識・自己理解・自己規定を必要とするのである、その更新された愛の措定・愛の概念の措定を必要とするのである。(352・353頁)

 

 バルトは、「単なる知識」と「認識」とを厳密に区別している。「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、具体的には「神の言葉の三形態」を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に信頼し固執する「認識」・信仰である。その時初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができる。したがって、人間学的なただ「単なる知識」に過ぎないある理念・ある概念の実体化・「最高存在」・「最モ完全ナ存在」としての啓示概念は、神の言葉・啓示の「概念の実在」ではない。
 単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(性質・行為・働き・業、神の子・神の言葉、啓示・和解)である「イエス・キリストの名」(啓示の客観的実在・啓示の客観的現実性)にあっての神が、私たち人間にとって対象的なるためには、その啓示に固有な証明能力、具体的にはそれ自体が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を媒介・反復した、イエス・キリストの啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される、終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰を必要とすることは、神と人間との無限の質的差異、神の聖性、神の隠蔽性・秘義性、神の不把握性からすれば、自明な事柄なのである。もしもそうでないならば、その神は、人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」でしかないし、すなわち近代以降の宗教(その対象の神)は科学主義(その正反対の極限を想定すれば天然自然主義)にあると規定されるところの神でしかないし、その「神」の名と呼びかけによる人間自身が支配し管理するプログラムの産出でしかない、のである。正当性のある根本的包括的な原理的な宗教批判を行ったフォイエルバッハやマルクスやハイデッガー等は、そのことを見抜いたのである。
 したがって、例えば、「新約聖書の釈義に役立つ新しい哲学的な鍵」を、前期ハイデッガーの哲学に見出したブルトマン(その学派、党派性、党派的共同性)に対して、ハイデッガー自身は、「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」、と述べたのである。このような質の良い一流の語り方に対して、自称エリート主義・一流を標榜する佐藤優は「神学がなくても信仰は成立しますが、高等教育を受け、『天にいる神』をもはや素朴に信じることができなくなったわれわれには神学が必須です。われわれは『天にいる神』をほんとうに信じていませんが、ほんとに信じていないことを口にしてはいけないというのが、キリスト教信仰の第一の前提です。だからこそ神学が不可欠なのです。神学的な操作(≪ブルトマンのような非神話化等の操作≫)を経ない限り、われわれは古代の世界像をもっているキリスト教を信じることはできないということです」という全く質の悪い二、三流の語り方をするのである。この佐藤に対して、バルトは、次のような、質の良い一流の語り方をするのである――「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)・「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)。
 しかし、信仰・神学・教会の宣教、「教会や神の子供たち」・「キリスト教的人間」を取り巻いている世界的な現状は、シュライエルマッハー的なもの、ブルトマン的なもの、混合的神学的・人間学的神学的なもの、日本で言えば、大木英夫的なもの、佐藤的や冨岡幸一郎的なもの、関口康的なもの、それらに尻尾を振る者たち、等々を垣間見る時、総括的に言えば<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返しているだけのもの・者たちを垣間見る時、実際的事実的には、場当たり的で悲惨で惨憺たる状態にある、と言うことができるのである。こうした中で、バルト<主義>者ではない、バルト<自身>のその信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成を探求し掘り下げようとしているバルト者の私は、確信をもって言えるのであるが、不信とむなしさと不安と不確かさの蔓延した現在において、現在から未来に生きる最高度に良質な信仰・神学・教会の宣教は、信仰・神学・教会の宣教における<段階>概念から言えば、バルトのそれしかないことは、明明白白、自明なことなのである。このことが、人間学の後追い知識に過ぎない<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返しているだけの神学者や牧師やキリスト教的メディア的著述家には全く理解できないのである。したがって、バルト主義者のバルト論も、中途半端な立場のバルト論も、反バルトのバルト論も、全く質の悪い最悪のものばかりなのである。私自身は、次のような吉本隆明の言葉に励まされて、自分のような者でも理解できれば他の人も理解できるに違いないと考え、バルトの<ほんとう>の分かり方に退職後の時間を費やしようと決意し、バルト自身の信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成を探求し掘り下げている者である。吉本は、次のように述べている――@「わたしは……『源氏』は原文で読まなければ判らないなどという迷信の世界を……無化したいと思った。『頭をひねりながら判読』してみても、たった二、三行すら正確には判読できない。また『ある程度以上のスピードで読める(正確に)』ような『源氏』研究者が現存するなどということを、まったくしんじていない 」(『源氏物語論』)――私は、この言葉を首肯する、A「万巻の書を読んだという人もいるけれど、僕は全然そんなことはない。(中略)主な作品を読んでいくだけでも、……こういう作家かとおもうわけで、それは間違いなくイメージは湧きます。(中略)専門家といわれる人でも、誰か一人でもいいから全部ちゃんと読んだかと聞かれたら、それはあんまりいないと思います 」(『幸福論』)――私は、この言葉を首肯する。したがって、私は、吉本の言葉に励まされると同時、『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』・『福音と律法』・『教会教義学 和解論』を翻訳した井上良雄とレンガを積み上げるよう作業で『知解を求める信仰 アンセルムスの 神の存在の証明』・『教会教義学 神の言葉』等を翻訳した吉永正義、の偉業を、感謝をもってたたえる者である。
 いずれにしても、人間学の後追い知識に過ぎない<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返しているだけの信仰・神学・教会の宣教的領域には、次に引用するミシェル・フーコーのような一流の質の良い言葉を発することができる神学者や牧師やキリスト教的メディア的著述家が全くひとりも存在していないのである。フーコーは、次のように述べている――マルクスは資本主義の分析の際に、「労働者の貧困という問題に出くわして自然の希少のためだとか計画的な搾取のせいだとかといった、ありきたりの説明を拒」んだ。なぜならば、資本主義制度における生産は、制度的必然・「その基本的法則によって必然的に貧困を生産せざるをえない」ものだからである。すなわち、資本主義制度は、「何も働き手を飢えさせるために存在しているわけではないが、かといって彼らを飢えさせずに発展することもできない」ものなのである。したがって、「マルクスは搾取を告発するかわりに、生産を分析した」のである。「このマルクスのやり方にちょっと手を加えますと、ほぼわたしのしたかったことになります。(中略)問題は、何らかの様式に基づいてセクシュアリティを生産し、不幸な結果をもたらす積極的なメカニズムとはどんなものかをとらえること、それだけなのです」(『セックスと権力』)。

 

 バルトは、「自分自身のように、あなたの隣り人を愛せよ」――この言葉を聖書的な根拠として、「古代教会……以来、今日にいたるまで……特異な役割を演じ続けている考え方」、「正当とされ……命じられてさえいる『自我愛』という考え方」、すなわち自己愛の対象的な疎外、自己愛の外化(表現)、という考え方に異議申し立てをして、次のように述べている。
 アウグスティヌスが「ソコデ人ハ愛サナケレバナラナイ三ツノモノヲ見出ス。ソレハ神、隣人、自分自身デアル」という場合の「愛」は、「自我愛」の対象的な疎外、自我愛の外化なのである。このアウグスティヌスの考え方(「既にそれ以前に、テルトゥリアヌスやクリュソストモスもそれと同じような意見を持っていた」)は、人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍から言えば、正当性があると言わなければならない。なぜならば、その現にあるがままの現実的な人間存在における愛は、どうしても不可避的に、身体を座とする人間の対自的な自己意識の対象的な疎外、自己愛の対象的な疎外、自己愛の外化(表現)としかならないからである。したがって、アウグスティヌスは、「まず自分自身を、それから隣人を。……その両者を神の中で、そのようにして与えられた限界の中で、愛さなければならないという勧告を結びつけた」。また、トマス・アクィナスは、「愛はヒトツニサセル力デアル。シカシナガラヒトリビトリハ自分自身トノ<一致>ガアリ、ソレハ他者トノ<結合>ト比ベテ、ソレヨリモマサッタモノデアル。ソレ故ニ……<一致>ハ<結合>ノ基礎デアル。ソレデアルカラ誰カガ自分自身ヲ愛スルトコロノ愛ハ友愛ノ典型デアリ、基礎デアル」、というように、「自我愛」の対象的な疎外、「自我愛」の外化に「思弁的な基礎づけを与えた」。キルケゴールは、「隣人に対する愛の命令」は、逆に言えば、「自分自身を正しい仕方で愛さなければならない」、ということであると考えた。
 それに対して、宗教改革者のルターとカルヴァンの考え方は異なっている。ルターは、次のように述べている――「コノ『自分自身ノヨウニ』トイウ誡命ニヨッテ、……実際ハ人間ハ自分自身ヲ愛シテイル、スナワチ自分ノコトダケニカカズライ自己愛ヲコトトシテイル、ソノ誤ッタ愛ヲ示シテイルノデアル。(中略)チョウドワレワレガアダムニオイテ悪クアルヨウニ、ワレワレハキリストニオイテ善クアルノデアル。ソレニヨッテ比較ヲシテイルノデアッテ模倣ヘノ勧誘ガ述ベラレテイルノデハナイ」、と。また、カルヴァンは、「アウグスティヌスの権威をも何ら顧慮することなしに」、次のように述べている――「コノ箇所カラ……『順序トシテ自分自身ヘノ愛ガツネニ先行シナケレバナラナイ……』トイウ結論ヲ引キ出ス人々ハ、主ノコトバヲ解釈スルモノデハナクテムシロコレヲ覆スモノデアル。邪悪、無知、間抜ケが、そのような註釈の中で暴露される。これは一滴ノ愛サエモモタナイ驢馬ノ言ウコトデアル。われわれの自我愛は、決して正しい、聖なる、神によって承認された感情ではなく、むしろ愛と真正面から対立する感情である。神は……(≪啓示に固有な証明能力に基づいて≫)真ノ愛ニ変エラレルことを求め給う」、と。「神への愛」とそれに包摂された「隣人への愛」の認識は、「古代の『汝自身を知れ』」ということによるのではなくて、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、具体的には啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を媒介・反復した、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて授与される啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通した「まことの悔い改めの自己認識」・自己理解・自己規定によるのである。すなわち、決して、人間の経験的普遍や人間論や人間学的な哲学原理・認識論・世界観の尊重や第一次化、<自然神学>の<段階>における存在の類比によるのではない。「自我愛」が「隣人愛に先行する事柄であるという考え方は、明らかに『自然』神学と『自然』人間学の命題」として、「重大な誤謬」である。しかし、現在も、「自分自身のように、あなたの隣り人を愛せよ」について説明するに際して、「『自然〔神学〕的な』見解を無批判的に、……基準」にしてしまっているが、それは「重大な誤謬」である。すなわち、総括的に言えば、隣人愛の認識についても、なお依然として、<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返しているだけなのである。この場合、愛は、「自我愛」あるいは自己愛の対象的な疎外、自己愛の外化として、イザベラ・バードの述べていたように、人類史の原型・母型としての人類史のアフリカ的縄文的段階におけるそれと比較考量した場合、後者の方が善悪・道徳の観念、高度な宗教をもたないが、誠実、高貴、立派な生活を送っていて、総体として「アイヌ人は純潔であり、他人に対して親切であり、正直で崇敬の念が厚く、老人に対して思いやりがある」、と言わざるを得ないのである。この場合、<自然神学>の<段階>におけるキリスト教の自己愛の外化としての隣人愛は、それで終わりなのである。「まことに空の空なるかな」なのである。

 

 愛は、他在であって自在としての自由・主権がそうであったように、神自身においてのみ「実在であり真理」であるから、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力に基づいて、神の側から授与された、神に向かっての自由な「決断」・神のための自由な「決断」、イエス・キリストに対する感謝の応答としての彼にのみ信頼し固着する自由な「決断」、すなわちイエス・キリストにあっての「神への愛」において、「人間は本当の相手とのかかわりをもつようになるのである」。「ただ(≪その≫)神への愛についてだけ人は、その愛が本当の相手(≪愛そのものである他者≫)をもつということができる。したがって、「隣人への愛ということも、ただ(≪その≫)神への愛」においてのみ、「存在する」ことができるのである。なぜならば、単一性・神性・永遠性を本質とするまことの神にしてまことの人間「イエス・キリストにおける神の愛」は、神自身の「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」からである(『ローマ書』)。言い換えれば、どのような綺麗事を並べてみても、どのような人間の愛・救済も、徹頭徹尾、究極的包括的総体的永遠的なものとは決してなり得ず、いつも緊急的相対的部分的過渡的なものとしかならないのである――マタイ26・6−13、マルコ14・3−9。還相的観点も持っていたイエスは、もろもろの弱さや頑なさや虚偽や矛盾や利害や対立をその背後に隠した、往相的観点だけしか持たない、自己欺瞞に満ちた市民的観点・市民的常識(通俗的観点・通俗的常識)を相対化しているのである――マタイ26・31−35および69−75、マルコ14・27−31および66−71.ルカ22・31−34および54−62、ヨハネ13・36−38および18・15−18ならびに25−27。単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストの誕生・死と復活の出来事、すなわち神自身の自己啓示、神自身の自己認識・自己理解・自己規定である啓示・和解そのものである「イエス・キリストの名」の「想起と待望の時の中で、その方の主権を知らされるのである」。言い換えれば、「すべての以前と以後においても」「同一の方であり給う」イエス・キリストにおいて、未来(終末、救贖・完成)を考えること・待望することは過去(キリストの復活)を考えること・想起することであり、過去(キリストの復活)を考えること・想起することは未来(終末、救贖・完成)を考えること・待望することであると同時に、「成就された時間」(キリストの復活)の前の過去を考えることでもあるのである。
 さて、前回でも述べたように、「聖書の中でキリスト教的愛について語られている差異の文脈によく注意」すれば、次のように言うことができる――「神がまず、わたしたちが罪人であった時に、キリストの死の中で私たちに対する愛を示された(ローマ五・五)ことに基づいて」、すなわち「わたしたちが神を愛したというのではなく、神がわたしたちを<愛された>こと……に注意」しなければならない、「そしてご自分をわたしたちの罪の和解のためにつかわされたことの中に愛がある。わたしに愛の中にとどまっていなさいと主は命じ給う。なぜならば、父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのであるから(ヨハネ一五・九)」、したがって、「神への愛」は、この啓示の出来事と、「われわれに与えられる聖霊を通して」・キリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事を通して、「わたしたちの心の中に注がれるのである」。「『わたしを愛し、わたしのためにご自身を捧げられた』神のみ子を信じる信仰によって、パウロは、肉にあっての生活を生きる(ガラテヤ二・二〇)」。この「神のみ子を信じる信仰」は、バルトの場合、あくまでも、徹頭徹尾、神の側の真実としてのみある<主格的属格>としての「イエス・キリスト」そのもの、ということを念頭に置いて理解する必要がある。すなわち、私たち人間の義認と聖化と更新と救済の根拠は、<主格的属格>としての「イエスの信仰」・神の義そのもの、単一性・神性・永遠性を本質とするそのイエス・キリストの死と復活の出来事、にのみあるのであって、私たちのその「神のみ子を信じる信仰」(目的格的属格としての「イエスの信仰」)にあるのではないのである。言い換えれば、この私たちの「神のみ子を信じる信仰」は、あくまでも啓示に固有な証明能力に基づいて授与された啓示認識・啓示信仰に対する感謝の応答、その告白と証しと宣べ伝え、としてあるのであって、それが、私たちを義とするわけではないのである、それが、私たちの義認・聖化・更新・救済の根拠では決してないのである。この点が、バルトとルターの決定的な根本的包括的な原理的な差異性である。この点に、バルトの啓示認識・啓示信仰の一貫性があるのである。この点に、バルトの信仰・神学・教会の宣教のその原理・認識方法と概念構成の一貫性があるのである。したがって、バルトは、「キリスト者になる以前でも、彼は(≪すべて人間は≫)、キリストにおける神との連続性の中にある。ただ、彼はそのことを発見(≪認識≫)していないのだ(≪認識し信仰していないだけである≫)。彼が信じはじめるようになるとき、はじめてそのことを理解する(≪認識する・自覚する≫)」、と述べたのである(『バルトとの対話』)。また、バルトは、単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」・「キリスト教使信の中心」は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの不信・非キリスト者・非知、全人間・全世界・全人類に対して完全に開かれている、と述べたのである(『カール・バルト教会教義学 和解論 T/1 和解論の対象と問題』)。このようなバルトの信仰・神学・教会の宣教のその原理・認識方法と概念構成の一貫性は、次のように言うことができる――「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリスト(≪一切の天然自然や一切の人間的自然に左右されることのない、啓示・和解の客観的現実性・客観的実在そのもの≫)が、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)。
 したがって、バルトは、次のように言うのである――教会や神の子供たち・キリスト教的人間は、聖霊の注ぎによって、授与される「神の言葉の三形態」を通した人間の啓示認識・啓示信仰およびそれと同時的同在的に授与される人間の自己認識・自己理解・自己規定(啓示の主観的実在、啓示の主観的現実化、終末論的限界の下での啓示の「概念の実在」の内在化)である「義トサレタ罪人として」、キリストの「死と復活」の出来事を、神に向かっての人間の自由、神のための人間の自由、の「決断」において、すなわち「神への愛」の「決断」において、「証ししようと欲し」、「証しし、告白する」のである。これは、その「愛」の対象化・外化・表現、「神の讃美」である。そして、ほんとうは、このことこそが、信仰における還相的なすべての人間への愛の実践である。なぜならば、「イエス・キリストの名」こそが、完了された全人間・全世界・全人類の根本的包括的総体的永遠的な救済・平和(史)そのものであるからである。したがって、完了された全人間・全世界・全人類の根本的包括的総体的永遠的な救済・平和(史)そのものであるイエス・キリストについての「証言、宣教、説教」の繰り返しの言葉が、現に身近にいる「食物の飢え」等々で困窮している具体的な一人の人や一部の人を施しや奉仕等によって相対的・部分的に救済しようとする緊急的過渡的な救済の「外的な行い・業」へと、「ある状況下において、その状況に抗する」「実践、行動」へと、「おのずから」・必然的につれて行くのである、「外的な行い・業へと向か」わせるのである。そうでなければ、「無に等しい」、「何の益もない」(Tコリント12・31、13、およびTヨハネ4・7−12)のである。「十字架につけられ甦り給うたイエス・キリスト」に信頼し固着するということ、「(≪神から遠ざかり遠ざかり続けている、神に背き背き続けている、罪を新たな罪を犯し続けている、すなわち絶えず湧き上がってくる自主性と自己主張の欲求、無神性、不信仰、真実の罪のただ中にある≫)われわれには絶対に実現出来ぬ(≪それゆえに、神の側の真実としてのみある主格的属格としての≫)イエスの代理的な信仰を、承認し受け入れる」ということ、「われわれの生命がキリストと共に保管されている」ことを承認し受け入れるということ、が、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会(≪教会や神の子供たち、キリスト教的人間≫)が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」なのである。
 「神の唯一無比性についての認識は、神の本質についての哲学的な考察の結果ではありえず」、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける啓示に固有な証明能力、具体的には啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を媒介・反復した、三位一体論的――キリスト論的な啓示認識・啓示信仰として「あることができるだけである」。なぜならば、「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、イエス・キリストにあっての神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に信頼し固執する「認識」・信仰であり、その時初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができるからである。したがって、人間学的なただ「単なる知識」に過ぎないある理念・ある概念の実体化・「最高存在」・「最モ完全ナ存在」としての啓示概念は、神の言葉・啓示の「概念の実在」ではないのである。したがって、聖書の中で証しされている教会の宣教の課題である啓示、イエス・キリストにおける啓示の出来事の宣べ伝えを目指すことのない<自然神学>の<段階>にある「単なる知識」としての形而上学的な教義学は、「それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方」のものであっても、その教義学は「教義学としては非学問的」なのである。したがってまた、「神の本質についての哲学的な考察は、……唯一神教と多神教、汎神論と無神論という諸概念の弁証法を決して越え」ることはできないのである。
 「人は普通、旧約聖書の伝承のある層に含まれている、いわゆる『単一神教』」を、「もっと後代の、より高度のものと思われる預言者的『唯一神教』と比べて、もっと初期の、宗教史的にみてもっと低い段階にあるものとして区別」するが、「ヤハウエ信仰は……パウロがなしたように(Tコリント八・五)、ほかの神が民の存在を考慮に入れているところでも、既に原理的にヤハウエの神性の唯一無比性の認識を含んでいる……」。「また……後代の預言者的『唯一神教』の力」は、「すべての異教的な唯一神教から自分自身を区別し」、「イスラエルにご自身を啓示されたヤハウエ」が、「独特な仕方で、イスラエルを救うためにイスラエルを取り扱い給い、また逆にこのヤハウエの行動の中でイスラエルによって……全くただひとりの神として尊敬され、敬われるべき主として、認識されること……が決定的に問題である契約を基礎づけ給う(あるいはあらたに基礎づけ給う)」。すなわち、「後代の預言者的『唯一神教』の力」は、このようにして「イスラエルが自分たちの主に出会った唯一無比な歴史〔出来事〕の認識の力、なのである」。教会の客観的な信仰告白と教義である三位一体論の根拠としての神の自己啓示は、旧約聖書におけるヤハウェ・新約聖書における神(テオス)あるいは主(キュリオス)自身の自己啓示のことである。聖書また教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する。したがって、この啓示が教会の宣教の客観的な信仰告白と教義である三位一体論の根拠である。この三位一体論は、神論の決定的に重要な構成要素であり、「啓示の認識原理」である。したがって、「教会の宣教の批判と訂正」は、常にこの三位一体論に即して行わなければならないのである。なぜならば、この三位一体論を啓示認識の原理にしない場合、すぐに神性否定のキリスト論や半神・半人キリスト論や三神論に、総括的に言えば<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返しているだけの、神と人間との無限の質的差異と神の不把握性と終末論的限界と啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を捨象してしまった、すなわち人間自身が恣意的独断的に対象化した「存在者レベルでの神」、キリスト論・聖霊論・神論に埋没していく以外にないからである。この場合、信仰・神学・教会の宣教においては、その最初から、「誤謬は必然」、となるのである。(353−358頁)

 

(5)キリスト者の愛であれ非キリスト者の愛であれ、誰の愛であれ、人間のなす愛は、どうしても不可避的に、自己愛の対象的な疎外、自己愛の外化(表現)、としかならないとすれば、「対向者、主、あなたの神、を愛する」という神への愛は、神の側の真実として神の側から「聖霊を通して」人間に対する無償の「神の愛」としてやってこなければならない。それは、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストの誕生・死と復活の出来事における「福音と律法の真理性」と「福音と律法の現実性」との同時性・同在性として、すなわちイエス・キリストにおける<完了>された全人間・全世界・全人類の根本的包括的総体的永遠的救済・平和(史)として、やってこなければならない(拙著144−164頁あるいはホームページ参照)。「もしも愛が、自己愛の幻想(≪――なぜならば、愛は、自由・主権がそうであったように、神自身においてのみ「実在であり真理」であるから――≫)と違って、他者に対する愛であり、この他者がまことに主なる神であり給うならば、その時、われわれの愛することはいずれにしてもまた、自分自身をこの対象に相対して別な種類のものとして認識している(≪神と人間との無限の質的差異を認識し自覚している≫)人間の存在および態度として定義されなければならない」。したがって、「神への愛」は、「悔改めの自己認識」・自己理解・自己規定、すなわち「神を愛する者こそが、自分が徹頭徹尾、愛する者としても、そして彼の愛するという行為の中においても、神のみ前にあって、神に相対して、正しくはなく、……自分の愛するという行為をもってしても神に対して何も差し出し、提供するものをもたないところの罪人であることを、自分自身に向かって語らしめるし、またそのことを告白する」ことにおいて起こるのである。この「神への愛」としての「悔改めの自己認識」・自己理解・自己規定は、人間に対する「神の愛」、すなわち「どうしても従順な態度をとれない」「不従順な者」、それゆえに「全く愛に価しない者である彼のために、責任をとり、保証してくださる」という「神の愛」の中において、惹き起こされる。啓示に固有な証明能力が、このことを、私たちに認識させる。したがって、人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍、存在の類比、等を通してではなく、「彼が、自分に向かっての神のこの愛を肯定し、確認し、つかむならば、そして自分に向かっての神のこの愛の中に自分自身の未来を、それと同時にまた神の命令を、肯定し、確認し、つかむならば」、それと同時的同在的に、「彼は悔改めへとせきたてられ」、「神への愛」としての「悔改めの自己認識」・自己理解・自己規定が、義とされた罪人の自己認識・自己理解・自己規定が、義とされた罪人としての現実的な人間存在(その存在・その思考・その実践)が、惹き起こされるのである――@「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を「持っている」、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが「できる」と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)、A「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである(『福音と律法』)、Bイエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを認識し承認し確認する。したがって私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し承認し確認する。すなわち、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪裁き≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを認識し承認し確認する、C私たち人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所は、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示の場所だけである、D救済を「信仰の中で持つ」ことは、「約束として持つ」ことである。「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」。「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」(人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍)にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてのみある啓示の客観的実在・啓示の客観的現実性、「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである、E神の自己啓示、神の自己認識・自己理解・自己規定、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示・和解)であるイエス・キリスト、啓示の客観的実在、永遠、超歴史、啓示の時間、救済史は、常に、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・概念・教義、人間の自己認識・自己理解・自己規定、人間の時間・歴史の、彼岸・外にある。このことは、啓示自体から与えられた、私たち人間における「終末論的限界」を意味している。またこのことは、まことの神は、聖性・「隠蔽性・秘義性」を本質としており、その神に対して人間の理性は「全く闇に閉ざされ」た「盲目」性を本質としている、という「神の不把握性」を意味している。この神の不把握性は、単一性・神性・永遠性を本質としている神についての「信仰命題」であり、一般的真理ではなく、啓示の真理・信仰の真理である。したがって、これらの認識は、終末論的限界の下で、単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストの啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて初めて人間が人間的に所有することができる人間の啓示認識・啓示信仰であり、その啓示認識・啓示信仰に依拠した啓示の類比・信仰の比論・関係の比論を通して初めて得られる人間の自己認識・自己理解・自己規定である。(358・359頁)
 啓示に固有な証明能力に基づいて啓示認識・啓示信仰を授与された者にある「全く明確な、哀調を帯びた」「嘆き」、人間の自主性や自己主張の欲求・無神性・不信仰・真実の罪としての神から遠ざかり・遠ざかり続けているまた神に背き背き続けているそしてまた罪を新たな罪を犯し続けている切実な「嘆き」、信にある不信(マルコ9・24)、内面の罪の普遍性(マタイ5・27、28、ヨハネ8・3−9、総括的にはローマ7・7−25)に対する切実な「嘆き」、「『鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われたイエスの言葉を思い出し」て、「激しく泣いた」「いきなり泣きだした」ペテロの態度(マタイ26・75、ルカ22・61,62、マルコ14・72)、は、「神の愛が彼らの中にあることを証明している」、神の愛の「しるし」である(360頁)。

 

 この啓示に固有な証明能力に基づいた、「愛する者」と「愛される者」との無限の質的差異(「われわれと全く違っている別種性」)の「認識の必然性こそが」、「神を愛すること」・「神への愛」は、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、具体的には啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を媒介・反復した、終末論的限界の下で、「神を尋ね求めることであるということを明らかにする」のである。したがって、「神によって、(われわれに対する神の大きな愛の中で)見出された……者たちこそが」、そのような仕方で、「神を尋ね求め」続ける。そのような教会、そのような神の子供たち、そのようなキリスト教的人間は、「神に対してわれわれの愛でもって何事かを提供することができる(≪われわれが、イエス・キリストを愛し、イエス・キリストを信仰することによって、義を形成し提供し、義とされ・聖化され・更新され・救済されることができる≫)などという考え(≪イエス・キリストにおける神の義・「律法の成就」以外に、さらに人間的な義の形成・提供を目指す「イエスの信仰」を目的格的属格として理解すること≫)は毛頭なしに、……われわれは、……われわれをまず愛して下さった方を尋ね求めるであろう」。なぜならば、聖書また教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示するからであり、「ご自身の啓示の中で唯一であり、われわれの働きかけ給う行為の中で唯一であり、自ら、ただひとりわれわれの希望である方として、唯一の方であり給うからである」。この神は、「われわれの唯一の逃れ場であり救い」であり、「われわれの唯一の存在可能性である」。
 「われわれに向かい合って立ち給う際に、われわれとは全く違」った「別種性の中にいます神にこそ」、「われわれは……(≪神と人間との無限の質的差異の下で≫)属している」。啓示の真理によれば、人間は、自主性・無神性・不信仰を本質としており、神の恩寵を嫌悪し回避する存在である。この人間に対して、神は、神の恩寵を嫌悪し回避する人間が生きるためにのみ、その死を欲し給う。しかし、人間はその神の要求(律法)に対してさえも、聞き従おうとはしない。したがって、「福音と律法の真理性」における福音の内容は、神の自由な愛によって、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト自身が、その神の要求に対して然りと言い、人間のために人間に代わって、人間の「神の恩寵への嫌悪と回避」に対する神の答えである刑罰(死)を、「唯一回なし遂げ給うた」(律法の成就・律法の完成)ところにある。すなわち、このインマヌエルの出来事は、私たち人間からは「何ら応答を期待せず・また実際に応答を見出さず」とも、「神であることを廃めず」に、何ら価値や力や資格もない「罪によって暗くなり・破れた姿」の「人間的存在を己の神的存在につけ加え、身内に取り入れ、それをご自分と分離出来ぬよう」に、「しかも混淆されぬように(≪厳格な意味で神と人間との無限の質的差異の下で≫)、統一し給うた」ということを内容としている。この時、「神の主権性、したがって神の愛」の認識は、私たちに、「われわれ自身の愛のなさ、われわれ自身の愛に価しない姿」の認識を喚起させるのである。また、この時、「神がわれわれを『ご自分の愛のみ子の国に移される』(コロサイ一・一三)ことによって、神ご自身がわれわれに対して根となり、地盤となり、故郷となり給うことによって」、すなわち直接的無媒介的な「われわれの現実存在の自主独立性」・「根」・「地盤」・「故郷」を否定することによって、その現にあるがままの「われわれに固有な」人間の現実存在、義とされた罪人、を授与されたのである。したがって、バルトは、次のように述べたのである――「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」、と。また、神は、そのような仕方で、「人間の自由を抑圧し、消し去ってしま」うことなしに、すなわち神に向かっての自由な「決断」・神のための自由な「決断」、イエス・キリストに対する感謝の応答としての彼にのみ信頼し固着する自由な「決断」、神をキリストの中で尋ね求めるキリストにあっての「神への愛」・「神に対する人間の愛」を授与されたのである。これらのことは、「神のみ子の受肉と高揚から見たならば」、それは、「われわれの人間存在……が、もはやその本来のあり方を自分自身の中にもたず、神のみ子の中にもつために」、「神のみ子が第二のアダムとして人性をおとりになり、人性をその神的位格のひとつに結びつけ給うたということ」である。また、これらのことは、「み子の中で出来事として起こった和解と義認から見るならば」、それは、単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストが「人間としてわれわれの罰を代わって身にうけられ、われわれのしないところの従順をなし給い、われわれが行為をもって確証しない信仰を行為をもって確証されることによって、一度ですべてにわたって力を奮う仕方でわれわれのために行動されたということである」。
 したがって、私たちは、次の事柄を認識し承認し確認するのである――イエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを認識し承認し確認する、したがって私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し承認し確認する、すなわち、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを認識し承認し確認する、のである。このような訳であるから、「われわれはわれわれ自身の存在および行為を、それがわれわれにゆるされている限り」、「常に罪の赦しを必要」としている者として、終末論的限界の下で、「ただ神のみ子の中で尋ね求めることができるだけである」、「イエス・キリストにあっての神に向かう方向性」において「尋ね求めることができるだけである」。「われわれが彼を(≪啓示・和解そのものである、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト≫)を尋ね求める者であり、繰り返し彼を尋ね求める者となるということ、そのことこそ愛の命令がわれわれに向かって命じていることであり、そのことこそ律法の成就である愛である」。この場合、「原則としてなおただ一つのことが付加されなければならない」。それは、「彼らが尋ね求めるものがご自分を彼らによって見出させ給う時に、彼が、彼らに対して、彼らが彼を尋ね求めた前に、彼らを尋ね求め見出しておられたということでもって、確認を与え給う時に、彼らはそのことを喜ぶ……ということの中で……何の曖昧さもなしにはっきりと示され、裏付けられるであろうということである。神が彼らにいまや実際に出会い給う時に」、すなわち「彼が彼らに対してそのみ言葉の中で、イエス・キリストの中で、現臨され、彼らと語り、彼らに対し行動し給う時、……彼らはそのことを喜」ぶということである。言い換えれば、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、具体的には啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」を媒介反復した、イエス・キリストにおける啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事が惹き起こされた時、彼らはそのことを喜ぶということである。なぜならば、「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に感謝をもって信頼し固執する「認識」・信仰であるからであり、それゆえにその時初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができるからであり、それゆえにまたその啓示に「喜びをもって、全心全霊、全力を傾けての然り」の告白や証しや宣べ伝えへと向かうからであり、「主に対する服従」においてのみ、イエス・キリストにのみ信頼し固執することにおいて、「自由でありうることを新たに聞き、感じ、味わうようになる」からである。イエス・キリストの死と復活の出来事における福音、すなわちこの「イエス・キリストの名」(啓示の客観的実在)に対する感謝をもった信頼と固着は、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」である。
 この神の「恵み」は、人間に対して、「いかなる偶像崇拝もいかなる業による義ももはや許さない」し、それゆえにそれは、「人間に対して、彼がなすべく義務を負うているすべてをなし終えた後」においても、「自分のことを無益な僕として告白するよう命じる厳しい陶冶」(例えばルカ17・10のような)であり、「彼の最上の思想や企てにも附着している怠惰や粗野なあり方を暴露する」ものである。このことを、「教会や神の子供たち」・「キリスト教的人間」は、「不名誉なことではなく、むしろ最高の誉れとして」喜び「慕う」のである。「教会や神の子供たち」・「キリスト教的人間」は、「まさにそのことをこそ愛するのである」。しかし、ここで注意すべきことがある。なぜならば、「人間は根底からして偽善者である」からであり、それゆえに「愛のこの確証に関しても、自分自身およびほかの者たちの前で、彼が実際にそうでないところの者として芝居を演ずる」からである。したがって、「われわれが神を尋ね求める限り、神を愛するというだけでなく、……われわれに対しご自身を与え給うままの神を愛するということを告白することが許されると考える時に、そのことに対し神の前で責任をもたなければならない」。なぜならば、「人間に対する神の言葉、語られているままの神の言葉、を喜んで聞くところの者は神を愛する」からである。言い換えれば、そのような仕方でイエス・キリストにあっての「神を尋ね求め」・「神を愛する」者は、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、具体的にはそれ自体聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を媒介・反復した、イエス・キリストにおける啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事によって授与される、終末論的限界の下での、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰、それと同時的同在的に授与される、それに依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定に信頼し固執し連帯する、ということである。なぜならば、神の言葉は、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」、すなわち人間に向かって語られる神の自己啓示である「イエス・キリスト」(啓示の実在そのもの)と、また「聖書」の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」においてある、からである。したがって、バルトは、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」である、と述べたのである。したがってまた、バルトは、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」(『啓示・教会・神学』)、それと連帯したのである。また一方で、バルトは、そうした仕方で、その信仰・神学・教会の宣教に、個性や時代性を刻んだのである。この意味で、全くオリジナルな思想というものはあり得ないのである。(361−368頁)

 

(6)「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして』神を愛すべし」――これらの概念は、「新しいこと」を語っている。「その関連性と全体的意味において」、「四度繰り返されている言葉、『あなたの』と『つくし』」および「四つの名詞、心、精神、思い、力」を考察しなければならない。先ず以て、身体を座とする「わたし自身」において、「目に見える仕方でわたしであるところの」現実的な人間存在(人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りのそれ)と、「イエス・キリストの中で目に見えない仕方でわたしであるところの」イエス・キリストの人間的存在(人間の人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りのそれ)とを分離・分割して、前者の意味で「わたしである人間を(≪神を愛する神への≫)愛の義務から免除するなどということは……問題とならない」。なぜならば、「神の言葉の三形態」を媒介・反復した啓示認識によれば、両者の人間的存在は、身体を座とする「わたし自身」において、神と人間との無限の質的差異の下で、その同時性・同在性・構造性としてあるからである。バルトは、次のように述べている――@啓示の真理によれば、人間は、自主性・無神性・不信仰を本質としており、神の恩寵を嫌悪し回避する存在である。この人間に対して、神は、神の恩寵を嫌悪し回避する人間が生きるためにのみ、その死を欲し給う。しかし、人間はその神の要求(律法)に対してさえも、聞き従おうとはしない。したがって、神は、その自由な愛によって、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、神の子、啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト自身が、その神の要求に対して然りと言い、人間のために人間に代わって、人間の「神の恩寵への嫌悪と回避」に対する神の答えである刑罰(死)を、「唯一回なし遂げ給うた」(律法の成就)ところにある。すなわち、このインマヌエルの出来事は、私たち人間からは「何ら応答を期待せず・また実際に応答を見出さず」とも、「神であることを廃めず」に、何ら価値や力や資格もない「罪によって暗くなり・破れた姿」の「人間的存在を己の神的存在につけ加え、身内に取り入れ、それをご自分と分離出来ぬよう」に、「しかも混淆されぬように、統一し給うた」ということを内容としている、A「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」、B「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)。
 このような仕方で、「まさしく目に見える仕方でわたし自身の中でわたしであるところのものとしてこそ、わたしはイエス・キリストの中で目に見えない仕方でわたしであるところの者である。まさしくわたしがまた目に見えない仕方ででも、イエス・キリストにあってわたしであるということこそが、わたしを、目に見える仕方でわたし自身の中でわたしであるところの者として、愛の義務の下におくのである」。したがって、神を愛するという神への愛の義務(神への愛の命令)は、「わたしの存在の個々の側面および能力」、「内面」や「行為」に限定されないのである。すなわち、「愛の命令がわたしの最も内面の部分を要求してくる時」、その愛の命令は、「その愛から」、「考え、感じるばかりでなく、……同時に、わたしが生き、行為することを要求する」のである。私の存在と行為の全体性を要求してくるのである。また、「愛の命令が、わたしが生きることと行為することを要求する時、愛の命令はそのことがわたしの最も深い内面から出ている愛であることを要求する」のである。すなわち、神への愛だけでなく、隣人への愛も、という在り方はあり得ないのである。言い換えれば、第一義的な神への愛に包摂された隣人愛を要求するのである、人間に対する自由な神の愛の側から規定された神への愛は、おのずから必然的に隣人愛を包摂しているのである。したがって、バルトの信仰・神学・教会の宣教における実存の在り方は、言葉だけでなく行為も、理論だけでなく実践も、神への愛だけでなく人間への愛(隣人愛)も、という位相のものではなくて、それが身近な生活的な事柄であれ社会的な事柄であれ政治的な事柄であれ、「かつて語った説教の一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから(≪必然的に≫)実践に、決断に、行動になって行った」という在り方にあるのである。すなわち、バルトにおいては、言葉と行為、理論と実践、神への愛と人間への愛(隣人愛)とが、イエス・キリストにあっての人間に対する神の愛によって架橋されているのである。このことは、バルトが、神学における思想の<往還>を保存していることの証左である。言い換えれば、そのことは、明確に、バルだけが、人間の経験的普遍や人間論や人間学的な哲学原理・認識論・世界観等の後追い知識として、神学的にも人間学的にも非自立的で中途半端な混合神学・人間学的神学としての<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返しているだけの状況論なき思想なき神学者や牧師やキリスト教的メディア的著述家たちとは全く違って、神学における<思想>を持っているということの証左である。

 

ア)「主なるわれわれの神はただひとりの神である」という前提との関係での「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくしという付け加え」は、まず第一に、私たちに、「神がわれわれを愛し給う際の愛と、われわれに対し命じられている神を愛する愛の間に、ひとつの類似性が成り立っている、ということ」に注意を向けさせる。すなわち、イエス・キリストにあっての「神のみがわれわれの主であり給う」という「排他独占性」に対して、その排他独占性の中で「われわれの存在および行為」はその「神を尋ね求めること(≪神への愛≫)でしかあり得ない」という「排他独占性が対応している」。本来的には「神がわれわれを愛することを必要としてい給わないように、神はわれわれによって愛されることを必要としてい給わない」のであるから、他在であって自在としての自由な決断において、「神がわれわれを愛そうとし給うばかりでなく、またわれわれから愛し返されることを欲し給う時」、また私たちが「罪深い被造物として、神のためにあることがゆるされ」、神を「愛することをゆるされ」ている時、「そのことは恵み」なのである。「それであるから神は、われわれのただひとりの主であることによって、われわれの単一的な、唯一の愛を欲し給う。あなたの心、精神、思い、力全体を、この一つのこと、神を愛するというこのひとつのことのために、欲し給う。したがって神は神とわれわれの間のあの類似性を欲し給う。また神の言葉(≪イエス・キリストにおける啓示の出来事≫)と神の聖霊(≪聖霊の注ぎによる信仰の出来事≫)を通してそのような類似性を造り出し給う」。イエス・キリストにおける啓示の客観的実在それ自体がもつ啓示に固有な証明能力、具体的には啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を媒介・反復した、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて授与される人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰、それと同時的同在的に授与される、それに依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定において、「類似性を造り出し給う」。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全なものとなりなさい(マタイ五・四八)」――私たちが、この律法を、神の<律法の完成>者・<律法の成就>者そのものである「イエス・キリストから聞く時には、それは確かに律法であるが、しかし約束および」福音を内容とする「福音の形式としての律法、律法の中での福音である」。なぜならば、神の<律法の完成>者・<律法の成就>者そのものとしてのイエス・キリストは、その死と復活の出来事と通して、私たち人間を「罪と死との法則」の律法から解放したからである、イエス・キリストによって、「罪と死の法則」の律法、すなわち「汝斯く斯くなるべし」という要求は、福音を内容とする福音の形式としての律法、すなわち「生命の御霊の法則」、「汝斯く斯くならん」という約束へと回復せしめられたからである、「遂行せよ」と求める要求は、「信頼せよ」と求める要求へと回復せしめられたからである。したがって、福音が「告知」・「証し」・「宣教」される時、「私は私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものだ」、イエス・キリストにのみ固着せよ、という福音を内容とする福音の形式である律法が建てられるからである。なぜならば、この律法がなければ、私たち人間は、現実的に、福音を所有することができないからである。したがって、このイエス・キリストにおける福音は、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」であるし、その自由な神の愛に基づく<完了>された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的救済・平和(史)そのものである「イエス・キリストの名」、に対する感謝の応答としての信頼と固着、その告白と証しと宣べ伝え、は、「まことの」隣人愛を包摂した神への愛である。

 

イ)「主なるわれわれの神はただひとりの神である」という前提との関係での「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくしという付け加え」は、第二に、キリスト教的愛における「服従の自発性というものを明らかにする」。さて、「啓示がなすよき業」、啓示に固有な証明能力によって規定されたキリスト教的人間の「存在」、すなわち聖霊の注ぎによって更新された「新しい主体と本質として……呼びかけられる」その「存在」・その思惟・その実践、その「人間的な存在と行為の全体性」は、@「内面的なもの」、すなわち「ほかの何人も彼のために代理をつとめることができない」「神との向かい合いの中にある」「個人」性・「孤独」性・個体性、「教会のただ中ににあっての個人」性・「孤独」性・個体性、対自的で対他的な「個人」性・「孤独」性・個体性、その「個人」性・「孤独」性・個体性における、神に向かっての自由な「決断」・神のための自由な「決断」、イエス・キリストに対する感謝の応答としての彼にのみ信頼し固着する自由な「決断」、神をキリストの中で尋ね求めるキリストにあっての「神への愛」・「神に対する人間の愛」と、A「外面的なもの」、すなわち表現された外化された「個人」性・「孤独」性・個体性、客観的対象性、「神への讃美」としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)への信頼と固執と連帯を通した「交わり」・教会共同性、その「特定」の「行動すること」、その不可避的「必然的な行動」、「新約聖書において聞く啓示、和解」、イエス・キリストの死と復活の出来事、その内容であるインマヌエルの出来事、の告白・証し・宣べ伝え、との同時性・同在性・構造性において理解することができる。したがって、「人間的な存在と行為の全体性」における神への愛は、「服従をただ恐れの念から差し出すところの、あるいは神ご自身を愛そうとしないで神の賜物を得ることをあてこんでいるところの、律法的な隷属状態」式の、あるいはまた「ひそかに反発しているが故に、悲しみや憂いに囚われている式の服従を締め出す」。したがってまた、「人間的な存在と行為の全体性」における神への愛は、「世を恐れる恐れ、あるいはわれわれ自身を恐れる恐れと両立することはできない……」。なぜならば、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを認識し承認し確認するからである、したがって私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し承認し確認するからである、すなわち、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪裁き≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを認識し承認し確認するからである。バルトは、このイエス・キリストにおける啓示の場所において、例えば、@「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求め」ようとしないで、「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストを、いっさいのものにまさって恐れ、かつ、愛すること、神を、大きな問題においても、小さな問題においても、彼がかってあり、いまあり、やがてあり給う権威のままに肯定し、是認すること、私たちの個人的、社会的生活を敢えて律して、すべての善きものを神から、神からすべての善きものを期待」するべきである、と言うのである、A「不毛な反抗や反論を避けて」、「西でも東でも等しく通用し、西でも東でもひとしく稀であり、人々に好まれぬ福音に、無償の恩寵によって、素直に止まる」べきである、と言うのである、B「人間の公私の生活においては、絶えず新たな支配が行われるような仕組みになっている」・「国家は支配であり、文化は支配」である、したがって、「どのような国家形態にも、どのような文化傾向にも、無条件に『然り』とは言わぬ」、と言うのである、C「われわれは平和を維持するためにできる限りのことをしなければならない」、しかし、「このことは、われわれは平和主義者でなければならないということを意味しない。平和主義は一つの絶対主義だ(すべての主義のように)(≪科学主義が近代以降の宗教であったように、一つの宗教的形態である≫)、われわれは神には服従するが、一つの原理や理念にはしない、したがって、われわれは最後の手段のために、(≪政治的近代国家・民族国家が存在する限り≫)戦争の可能性はあけておかなければならない」、と言うのである。D「スイス(≪における、私の、大多数の被支配としての一般大衆・一般市民の、自由≫)をナチズムからまもるために私は軍隊に参加」し、「両国を区分しているライン河にかかっている橋を護衛」するために、「もしもドイツのキリスト者の友人の一人が、その橋を爆破しようとしたら、私は射殺しなければならなかったであろう」・「規準はただ方向を与えることしかできない。(中略)ある特定の瞬間になした決断はおそらく、もっとも重要なキリスト教の教義よりもっと重要であるかもしれない」、と言うのである、E「ドストエフスキーの書いたあの大審問官は、神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていたのであるが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の善意(≪彼自身が対象化した「存在者レベルでの神」・その神の名と呼びかけによる彼自身が支配し管理するプログラム≫)によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、最も洗練された支配行為に過ぎなかったのである。神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえどのように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう。またそのようなところには、教会は存在しないのである。そのような救いの計画と救いの方法の独断性が、神に余りに僅かしか信頼せず、人間に余りに多く信頼するという点に現われるということは、疑いない」、と言うのである。
 聖書は、「再び恐れをいだかせる奴隷の霊」・「臆する霊」に対立して、「子たる身分を授ける霊(ローマ八・一五)」・「力と愛と慎みとの霊(Uテモテ一・七)」を置いている。イエス・キリストにあっての「神がまずわれわれを愛して下さったから」、「われわれは(≪神を≫)愛する」のである。したがって、「愛には恐れがない、完全な愛は恐れをとり除く」。人間の自主性・自己主張の欲求、無神性・不信仰・真実の罪、に対する「神の勝利」とは、イエス・キリストご自身が、「イエス・キリストにあってなし遂げられたわれわれの義認と解放が、われわれ自身の中においても現実となるため」に、私たち人間に「力と愛と慎との霊を与え給う」出来事である。「力の霊」とは、イエス・キリストにのみ信頼し固着させる霊である。「愛の霊」とは、イエス・キリストの「御意に従わしめる」霊・「律法の完成」であるイエス・キリストに対する愛の霊のことである。「慎みの霊」とは、人間が神の要求に対して自己主張し破滅することを防ぐ霊であり、人間が神を救い主として神を見・神に聞くように促す霊である。したがって、「ある特定の人間」が、イエス・キリストにおける神の自己啓示を通して、具体的には聖書を通して、啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に感謝を持って信頼し固執する啓示認識・啓示信仰である。その時初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができる。この時、神が「われわれを愛して下さった」ことを認識し信仰して、おのずから必然的に、神自身の「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」「イエス・キリストにおける神の愛」にのみ感謝をもって信頼し固執して、その人間的な存在と行為の「全体性としての神への愛」へと向かわせしめられる、この神への愛は、おのずから必然的に、その「イエス・キリストの名」の告白・証し・宣べ伝えにおいて、それと同時的同在的に、人間への愛(隣人愛)を包摂するのである、ちょうどステパノのように。

 

ウ)「主なるわれわれの神はただひとりの神である」という前提との関係での「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくしという付け加え」は、第三に、私たちに、「愛はなくなることはないということ」を学ばせ認識させる。すなわち、「神的な『汝は……すべし』」は、「時間的な継続」・その連続性と断続性において、唯一無比な「律法の完成」者である、「一度ですべてにわって力を奮う仕方で起こった啓示と和解」そのものであるイエス・キリストが、私たち人間に「力と愛と慎との霊を与え給う」によって、人間的な存在と行為の「全体性としての神への愛」において、「汝は愛するであろう」という「未来の生」を指し示していることを学ばせ認識させるのである。なぜならば、イエス・キリストにあっての「神がまずわれわれを愛して下さったから」、おのずから必然的、自発的に、「われわれは(≪人間的な存在と行為の全体性において神を≫)愛する」ことができるようになるからである、ちょうど、主格的属格としての「イエスの信仰」、イエス・キリストの死と復活、イエス・キリストによる「律法の完成」、インマヌエル、の出来事としての福音を内容とする福音の形式としての律法において、「罪と死の法則」としての律法・「汝斯く斯くなるべし」という要求は、「生命の御霊の法則」・「汝斯く斯くならん」という約束へと回復せしめられたし、「遂行せよ」と求める要求は、「信頼せよ」と求める要求へと回復せしめられたように。言い換えれば、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、神の子、業)であるイエス・キリストにおいて「啓示と和解」は、その啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力に基づいて、「われわれのところに来たのであり、その啓示と和解(≪イエス・キリストにおける啓示の出来事、啓示は和解という言葉・概念と一致する≫)に対して聖霊は、われわれの心を開き給うた(≪聖霊の注ぎによる信仰の出来事≫)のであり、その啓示と和解は神に対する愛をわれわれの中で基礎づけ」(終末論的限界の下での、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与、それと同時的同在的な、それに依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定の授与において)、それゆえに「抵抗すべからざる仕方でわれわれを愛へと呼び出し、われわれの全くの無能さの中で、なおかつ愛に向かっての能力を与えたのである」。
 「マタイ二四・一二……そこでは、迫害に当たって、不法が増す故に、多くの者の愛が『ひえる』であろうということが言われている」。しかし、その場合には、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」としての単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方におけ「イエス・キリストにおける神の愛」――この「イエスの愛の命令に本当に従順であった者の愛のことが言われている」のではない。その場合には、まさに直に現実的な人間存在における愛について言われているのである。なぜならば、人間は、善人であれ、悪人であれ、誰であれ、理性的に、意志的に、生きているだけでなく、裏切りの世界も生きているし、憎悪による殺害や殺戮もある愛憎渦巻く情念の世界も生きているからである。したがって、その場合には、イエスが「命じられている神への愛、(≪その神への愛に包摂された≫)隣人への愛に関して言おうとされて」いるのではない。バルトの生涯をイメージしながら言えば、福音を内容とする福音の形式である律法(神の人間に対する要求)は、先ず以て、「福音の中核」である「十字架につけられ甦り給うたイエス・キリスト」が、「律法を満たし・すべての誡めを遵守し給うたという事実」から考えられなければならないから、また「われわれには絶対に実現出来ぬ……代理的」な主格的属格としての「イエスの信仰」・神自身の義そのものから考えられなければならないから、そしてまた、それゆえに「われわれの生命がキリストと共に保管されている」ということから考えられなければならないから、主格的属格としての「イエスの信仰」・神の義そのものによる、神の側の真実からする、人間との和解、人間の義認・聖化・更新・救済、という啓示認識・啓示信仰の授与に対する神に向かっての自由な「決断」・神のための自由な「決断」、イエス・キリストに対する感謝の応答としての彼にのみ信頼し固着する自由な「決断」、隣人愛を包摂した神をキリストの中で尋ね求めるキリストにあっての「神への愛」・「神に対する人間の愛」にあるのであり、またイエス・キリストにおける出来事(啓示・和解)に対する感謝の応答としてのその告白・証し・宣べ伝えにあるのである。ここに、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」なのである。このことは、隣人愛を包摂した神への愛、および神の讃美、との同時性同在性を意味している。したがって、バルトは、信仰・神学・教会の宣教において、この事柄の繰り返しの言葉、「かつて語った説教の一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから実践に、決断に、行動になって行った」、と述べたのである。したがってまた、バルトは、牧師として神学者として、自ら語った説教や神学における福音の言葉を媒介として、おのずから必然的に、信仰・神学・教会の宣教におけるイエス・キリストにおける実存へと駆り立てられていくのである。なぜならば、バルトの場合は、「見えないもの、知りえないもの、勝手に処理しえないものへの信頼としての信仰」へと、「自己自身の現在から神の将来への方向転換」へ、「そのことによって神と隣人に対する愛」へと、「そのままで、人間の本来的実存であり、真に自然な実存である新しい被造物の『終末論的』実存」へと、その神の恵みに対する感謝の応答としての実存へと召しだされている、というように、啓示に固有な証明能力に基づいて、終末論的限界の下で、啓示認識・啓示信仰しているからである。このように、バルトの場合、政治的なドイツ教会闘争・反ナチ闘争も、またバーゼルの刑務所での社会的な説教奉仕、等々も、その位相にあるものなのである。
 「神の真理と言葉」に基づいて、現実的な人間存在のその類と個、歴史性と現存性について告白する場合、「明らかに、(≪その≫)実在としての罪について語らなければならない(ヨハネ第一の手紙の一・八以下)」、しかし、「神のその同じ真理、言葉に基づいて、われわれが自分たちに与えられた命令とその約束を認識しつつ将来あるであろうことを告白することが問題であるときには、はじめから可能性としての罪(ヨハネ第一の手紙の五・一八)」について語ることはできない。それは、次の理由による――救済を「信仰の中で持つ」ことは、「約束として持つ」ことである、「われわれはわれわれの未来の存在を信じる、われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」、「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」、この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である、新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」、ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」・人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としての啓示の客観的実在・啓示の客観的現実性、「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである、からである。したがって、バルトは、次のように述べるのである――@「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである、A「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」。このようなバルトの語り方を垣間見るだけで、「現実の人間を考慮しない(『神はすべてであって人間は無である!』)抽象的な超越神、現代にとっての意義を伴わない抽象的な終末の待望、この超越的な神にのみに専念し、深淵によって国家や社会から分離された同様に抽象的な教会――それらすべては私の頭に存在したものではなくて、私の本を読んだ多くの人々の頭のなかに、また特に私についての評論をしたり、一冊の本を書いたりした人々(≪根本的包括的な原理的な誤謬に普遍性や組織性の後光をかぶせて語る<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返しているだけの質の悪い神学者・牧師・著述家たち≫)の頭のなかにのみ存在していた」(『バルト自伝』)ということを、よく知りよく理解することができるであろう。また、あのようなバルトの語り方を垣間見るだけで、『福音と律法』や『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』や『ヘーゲル』やバルト自身が読むことを求めていた邦訳の『神の言葉』T/1、T/2、II/1、II/2、II/3、II/4もしっかりと読まずに、それゆえにバルトを根本的包括的に原理的に理解もしないで、例えばすでに時代状況がゆるさないヘーゲルの進歩史観に依拠した神学的三段階的進歩史観を展開していたモルトマンに評価されたから評価できるのだというような言い方でファン・ルーラーを持ち上げて、出鱈目なバルト論を論じていた牧師・関口康には、このバルト自身の神学の質の良さや神学における思想の質の良さについて理解することは全くできないであろう。
 「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」。すなわち、「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」は、復活へと向かっている。このキリストの復活・成就された時間は、「福音と律法」の「真理性」と「現実性」の同時性・同在性・構造性におけるそれであり、「新しい世」のはじまりである。私たちは、このイエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰の授与において、敗北者である「われわれ人間の失われた非本来的な古い時間」は、「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」(成就された時間)であるキリストの復活における神の「勝利の行為」によって根本的包括的総体的永遠的に止揚され・克服されて「そこにある」ことを認識し信仰することができる。また、それに依拠した信仰の類比・関係の類比を通して、その勝利の行為は、「敗北者もまた依然としてそこにいるところの勝利の行為」であることを認識し信仰することができるのである。この啓示の真理・「神の真理と言葉」に「基づいてわれわれは(≪終末論的限界の下で≫)『完成を目指して進む』ことがゆるされるし、進むべき(ヘブル六・一−三)」なのである。しかし、ここで「完成されたもの」とは、キリストの復活・成就された時間による「望みと喜びの確かな岸によって取りかこまれた」「逆戻りはあり得ない未来」として、再臨、終末、救贖・完成へと向かっているそれのことである。したがって、私たちは、ここで、次のように言うべきである――「すべての以前と以後においても」「同一の方であり給う」イエス・キリストにおいて、未来(終末、キリストの再臨、救贖・完成)を認識すること・信仰すること・考えること・告白すること・待望することは過去(キリストの復活・成就された時間)を考えること・認識すること・信仰すること・考えること・告白すること・想起することであり、過去(キリストの復活・成就された時間)を認識すること・信仰すること・考えること・告白すること・想起することは未来(終末、キリストの再臨、救贖・完成)を認識すること・信仰すること・考えること・告白すること・待望することであると同時に、キリストの復活・「成就された時間」の前の過去をそれとして認識すること・信仰すること・考えること・告白することでもあるのである、と。したがってまた、キリストの復活・成就された時間を基軸とした「神の良き言葉と来るべき世の力とを味わった者たちは」、「自分たちが(≪神に≫)愛されているように(≪神を≫)愛するであろうという一重の線の未来」に向かっていることを、「考慮に入れることができるだけ」なのである――「汝は愛するであろう」、「汝斯く斯くならん」、ということを「考慮に入れることができるだけ」なのである。このような訳であるから、「トマス・アクィナスが……(≪神の側の真実としてのみある啓示の客観的実在において≫)聖霊ノ力ニヨリ愛が失われることが不可能であること、愛そのものの行為の中での罪の不可能性、父ノ愛――それをもってわれわれは顔と顔を合わせて神と出会うであろう愛――が失われ得ないものであることを承認しながら」、一方で、存在の類比に依拠して、「コノ世ニオケル愛ハ常ニ必ズシモ実際ニ神ノ方ヘ向ケラレテイルとは限ラナイ」し、「またソレガ神ノ方へ向ケラレ担ワレテイナイ時ニハ、……愛ガ失ワレル何カガ起コリ得ルノデアルと述べ」た時、「そのことは聖書的な証言を水増しして薄めてしまうこと」になったのである。それに対して、「カルヴァン主義者たちによって時折代表されたように、聖霊ニヨッテ注ギコマレタ……信じる人間の超自然的な素質という……考え方」も、「非聖書的な考え方」である。なぜならば、その場合、神の「恵みの自由についての認識」が侵害される可能性があるからである。したがって、バルトは、「聖霊は、人間精神と同一ではない」・「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」、聖霊により更新された理性も聖霊と同一ではない、と述べたのである(『教義学要綱』)。「われわれを愛し給う神の愛の中で、神の愛と共に、またわれわれが神を愛する愛も、われわれに対して与えられることが確約され、そのようなものとして信仰の中でつかまれた約束であり、それであるからいかなる超自然的な性質……でもないのである」。したがって、私たちは、神への愛を、恣意的独断的に「ある時は捧げられ、ある時は……捧げられないところの」過渡的部分的相対的な「行為」において「見、理解するのではなく」、「信仰(≪聖霊の注ぎによる信仰の出来事≫)の中で、言葉(≪神の言葉であるイエス・キリストにおける啓示の出来事≫)と霊(キリストの霊である聖霊の注ぎ)を通して規定された人間の存在の中で見、理解しなければならない」のである・「キリスト教的愛は、それが自分自身および自分の諸行為から慰めを受けるのではなく、……ただ自分の根拠および対象から慰めを受けることが確かである限り」、自分自身や自分の諸行為によって失われてしまうということは、「不可能な未来として、(それであるから……可能な未来としてではなく)考慮に入れることができるだけである……」。したがって、バルトは、次のように述べているのである――@「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである)、A「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」、と。

 

エ)「主なるわれわれの神はただひとりの神である」という前提との関係での「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくしという付け加え」は、第四に、キリスト教的愛は、私たち自分自身について、私たち人間に向かって語られた神の自己啓示であるイエス・キリストにおける啓示の出来事(啓示・和解)に対して、その啓示に固有な証明能力に基づいて、そのイエス・キリストにのみ「感謝」をもって信頼し固執する啓示認識・啓示信仰に生きる者以外ではあり得ない、ということを理解させる。「まことの愛にとっては、ただ自分のことを感謝として理解することだけが余地として残されている」。すなわち、「神がわれわれを愛そうとし給うばかりでなく、またわれわれから愛し返されることを欲し給う」のである、それゆえに「神がわれわれを愛して下さる愛の方がわれわれが神を愛する愛の根拠であり、後者は前者の中に基礎づけられている」のである・「それであるから(≪感謝の応答としてのイエス・キリストを信ずる信仰が私たちを義とするのではないように、≫)「われわれが神を愛する愛がわれわれを義とすることはできない」のである、したがって、この神の自由な「恵み」において、神が「われわれによって愛されることを欲し給うところの全体性」は、隣人愛を包摂した神への愛において、「すべての自己賞賛と自己主張を閉め出す」のである、神の側の真実としてのみある主格的属格としての「イエスの信仰」・神の義そのものは、一切の自己義認の欲求を閉め出すのである。そうでない場合、人間の恣意的独断的な自主性・自己主張の欲求によって、次のような事態を惹き起こす――@「ドストエフスキーの書いたあの大審問官は、神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていたのであるが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の善意(≪彼自身が対象化した「存在者レベルでの神」の名と呼びかけによる彼自身が支配し管理するプログラム≫)によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、最も洗練された支配行為に過ぎなかったのである。神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえどのように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう。またそのようなところには、教会は存在しないのである。そのような救いの計画と救いの方法の独断性が、神に余りに僅かしか信頼せず、人間に余りに多く信頼するという点に現われるということは、疑いない」、A阪神・淡路大震災の時、ある牧師が「武器を持って神戸市役所かどこかに押しかけて行って、被災者の住めるような建物をすぐにつくってくれと、職員を脅かした」ことを話すために、吉本にわざわざ電話をかけた事態である。その行為に対して吉本は、その牧師は「じぶんがやったことを得々としゃべるわけです。ぼくは、ははぁ、戦前とちっとも変っていないやと思いながら聞いていた……。(中略)正義のために脅かしたのだと得々としゃべることは、ぼくらが戦争中に『お国のために』といわれたのとまったくおなじことで、そんなの、ちっともよくない」、「日本というか、あるいはアジアの特質かもしれません。ラジカルな人ほど、ほかの分野の人に対してじぶんを押し付けがちです。そういう傾向がとても強い」、と述べている。私は、この吉本を首肯する。なぜならば、その場合、「彼は、……自分の視線を全くイエス・キリストにあって、神に向けて固着させる代りに、ふた心をもって、神を考察することと自分自身を考察することの間を、あちこちゆれ動くであろう」からである、その場合、「彼が愛することと神が愛し給うことの間の類似性は消え失せてしまうであろう」からである、その場合、「彼はその時明らかに神をして唯一の主たらしめていないからである」、その場合、「彼の愛の純粋な自発性についてはもはや語られることはできないであろう」からである。
 イエス・キリストにあっての神の愛に根拠づけられた隣人愛を包摂した神への愛は、それが「自分自身の存在と行為」の全体性におけるそれであっても、また「神の子供としての存在と行為」の全体性におけるそれであっても、その自分の愛が・愛の奉仕が、「自分を義とすることはできないこと」を認識させ承認させ確認させる。したがって、「愛はただ神的な恵みのしるしをうち立てることであり、うち立てることであろうと欲することができるだけである」。すなわち、隣人愛を包摂した「神への愛」は、次に述べる後者の事柄へと向かわせるのである。聖霊の注ぎによって更新された「新しい主体と本質として……呼びかけられる」その「存在」・その思惟・その実践は、第一に、「内面的なもの」、すなわち「ほかの何人も彼のために代理をつとめることができない」「神との向かい合いの中にある」「個人」性・「孤独」性・個体性、「教会のただ中ににあっての個人」性・「孤独」性・個体性、対自的で対他的な「個人」性・「孤独」性・個体性、その「個人」性・「孤独」性・個体性における、神に向かっての自由な「決断」・神のための自由な「決断」、イエス・キリストに対する感謝の応答としての彼にのみ信頼し固着する自由な「決断」、神をキリストの中で尋ね求めるキリストにあっての「神への愛」・「神に対する人間の愛」と、第二に、「外面的なもの」、すなわち表現された外化された「個人」性・「孤独」性・個体性、客観的対象性、「神の讃美」としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)への信頼と固執と連帯を通した「交わり」・教会共同性、その「特定」の「行動すること」、その不可避的「必然的な行動」、「新約聖書において聞く啓示、和解」、イエス・キリストの死と復活の出来事、その内容であるインマヌエルの出来事、の告白・証し・宣べ伝え、との同時性・同在性・構造性において理解することができる。この後者の事柄は、「われわれが神を愛することがゆるされる」ことによって、「起こる」のである。すなわち、啓示に固有な証明能力に基づいて、「神への愛」は、「われわれ自身の現実存在」を、おのずから必然的に不可避的に、「神の讃美へと移行」させて行くのである。「神が人間に向かって語り給うたことに対する人間の応答として」、「神の愛は全く活動的なものである」。このようなイエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固着する感謝の「応答として神への愛」は、またその告白・証し・宣べ伝えにおいて隣人愛を包摂した神への愛は、すべての自己義認の欲求の放棄・「すべての自己賞賛とすべての自己主張の放棄」において、「神のみ業の証し」となるのである。     
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