A・E・マクグラス『キリスト教神学入門』における神学の水準について
A・E・マクグラス『キリスト教神学入門』における神学の水準について――思いつくままに
A・E・マクグラス『キリスト教神学入門』神代真砂実訳、教文館に基づく
はじめに
近くにある図書館でアングロ・サクソン系の神学者であるA・E・マクグラスの『キリスト教神学入門』(教文館)という本を借りてきた。私は、正直に言って、マクグラスの本を読むのは初めてである。この本は、「中立的」立場で書かれている、とマクグラスは述べている。分厚い! しかし、分厚いけれども、現在的な神学における思想の課題を認識し自覚していないために、<総花的>――彼自身は、「包括的」と述べてはいるが――な本である。したがって、旧態依然の仕方で、すでに自然時空に死語化してしまった人物や事柄についてもすべて、何か意味あり気に書いている。しかし、ほんとうは、異様で軽薄な明るさの中で、不信とむなしさと不安と不確かさの蔓延した現在において、神学における思想の課題を扱うことが重要であるのだから、現在から未来に生きる神学における思想の課題と関わる箇所についてだけ扱ってみることにする。
先ず、マクグラスについて、ウィキペディアにはこうあった――北アイルランド出身の聖公会の執事でキリスト教神学者、哲学博士前である。オックスフォード大学歴史神学教授。2008年9月からロンドン大学教授。講義と著書で「科学的な神学」を提唱し、無神論に反対している、と。
さて、このマクグラスは、「ここに述べられていることに基づいて、読者が自分で決断を下せるようにしてある」、また「自分なりの捉え方や理解を提示出来るようになっている」、そして最終的にはそれらのことを諸個人の享受の仕方に一任している、そういう「神学的に中立の立場」で書かれた本である、と述べている。このように何か意味あり気に語られているこの言葉に、私たち読者は、マクグラスの読者に対する配慮を感じさせられると思うのだが、ほんとうのところは、このことは、現存する言語表現の不可避性でしかないのであって、言語の表出と表現の問題から言えば、いったん表現された言語(対象化された・表現された・外化された表出としての言語)は、客観的な対象物として、百人百様の享受の対象となる、という意味で当たり前のことなのである。それならば、なぜ、百人百様としての享受の仕方になるかと言えば、現存する人間が、国家の無化を伴って究極的包括的総体的永続的に社会的現実的に解放されていないからである。すなわち、現存する人間の自由が、観念の共同性を本質とする政治的近代国家における法的政治的な自由の下で<恣意的>自由としてしか成立していないからである。
マクグラスは、「長いのは包括的(≪ほんとうは、この本の内容から言って、総花的と言うべきである≫)であるからであって、必要な情報をすべて与えられるようになっている……」・また彼は自画自賛して、「本書は、一冊で事足りる参考書であろうとしている」、と書いている。しかし、マクグラスは、神学におけるあるいは人間学における体系的な<思想家>であるバルトやマルクスについて、根本的包括的に理解しないまま論じていることは、読めばすぐに分かることである。このことは、後述するのであるが、マクグラスが、バルトを論じている時に、また解放の神学との関係でマルクスを論じている時に、よく現われている。したがって、少なくともマクグラスのバルト論やマルクス論(その知識・情報)については、そのまま鵜呑みにしたり模倣したりしてしまわない方がいいのである。そうしない場合、私たち読者は、根本的な誤謬に普遍性や大学社会の神学<村落共同体>の組織性の後光をかぶせて語っている彼と同じように、根本的包括的な誤謬の陥穽に陥ってしまうことになるからである。この点に関しては、この本は、私たち読者にとって、ほんとうは、百害あって一利なし、の本と言うことができる。
また、マクグラスは、「日本語版への序」で、「あらゆる思想、個人、学派への、注意深く、また充分な手引きであり、解説となっている」、と述べている。私たちは、このマクグラスの「学派への……充分な手引き……解説」書という言葉から、まさにこの本の<総花性>を知るのである。すなわち、私たちは、マクグラスが、自らの神学の、その原理、その認識方法と概念構成それ自体において、神学における思想の課題である「学派」性――党派性、党派的思想、党派的共同性、党派的多元主義を、根本的包括的に止揚し超克していくことをしていないことを知るのである。したがって、マクグラスは、この本が読者に「深い満足と刺激とを与えてくれる(≪また、その「主題」である「知的な興味」と「霊的……重要」性を喚起してくれる≫)キリスト教神学へと導かれること」を願う、と述べているのであるが、私たち読者の方からしてみれば、この本は、私たち読者に対して、「知的な興味」も「霊的……重要」性も享受させてくれる水準にあるものではないのである。
もしもマクグラスがほんとうにそのことを望むのであれば、やはりバルトのように、明確に、<現在的>な神学における思想の課題――自らの神学の、その原理、その認識方法と概念構成それ自体で、一切の近代主義、一切の<自然神学的なもの>を根本的包括的に止揚し超克していくそれ、信・知・キリスト者(教)と不信・非知・非キリスト者(教)とを架橋し、その枠組を取り除いていくそれ――を認識し自覚した上で、言わば現在から未来に生きる信仰・神学・教会の宣教の言葉で、次のように述べるべきなのである――私たちは、「だれに対して」「誠実と真実をささげるべきなのか?」・「責任的応答をなすべき」なのか? 「同時代の人たちの思考の前提に対してか?」・「そこから形成された理解の規準に対してか?」。「否」である。私たちは、十字架につけられ、復活したイエス・キリストにおける私たちの「実存という場所」において、私たちの「信仰より以前にも、信仰なしでも、……不信仰に抗して」も、私たちのために「生きて、われわれを支配」し、私たちを「愛し給う」イエス・キリストを、「認識し、持つことができることを示すということ以外の何が問題となるのだろうか?」というように(『教会教義学 神の言葉』)。バルトが「イエスの信仰」の属格を主格的属格として認識し理解した時、それは、イエス・キリストにおける<完了>された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的救済・平和(史)、すなわち神の側の真実・キリストの「死と復活」・インマヌエルの出来事・啓示の客観的現実性に対して、「イエスの信仰」の目的格的属格理解におけるような神の義だけでなく人間の義もという混淆・共働・折衷を目指すことでは全くなくて、終末論的限界の中で、「主よ、私は信じます。私の不信仰を助けてください」という信仰において、「感謝の応答」を目指すということなのである。私たち人間には、そうした「感謝の応答」しかないということなのである。
このようなマクグラスの、結局は人間の対象化された自己意識・理性・思惟の類的本質・意味的世界の羅列として「中立的」な立場で書かれたこの本は、このようなキリスト教・神学・学派・運動があった・ある、またあのようなキリスト教・神学・学派・運動があった・ある、そして神と人間・神学と人間学との混淆論・共働論に基づいた、マルクス主義と神学との折衷神学・運動があった・ある、また科学と神学との折衷神学・運動があった・ある、またフェミニズムと神学との折衷神学・運動があった・ある、また「キリスト教神学思想史」の「重要な名前と用語」には挙げられていないが、エコロジー(その極限に想定される天然自然主義)と神学との折衷神学・運動があった・ある、というように、終始、党派的多元主義的に、キリスト教・神学・学派・運動の羅列が行われている。
このような論じ方では、「『キリスト教入門』みたいな本なら、山ほど出ている。でもあんまり、役に立たない」・神学的な「知識を、これならわかるかねと上から目線で教えをたれる。ひとびとが知りたい一番肝心なところ(≪現在的な神学における思想の課題≫)が書かれていない。根本的な疑問ほど、するりと避けられてしまっている」、と書かれても仕方がないのである(橋爪大三郎・大澤真幸『ふしぎなキリスト教』)。
近代以降は、この認識と自覚が必要なのであるが、すなわちそれは、ヘーゲル、フォイエルバッハ、マルクスが出て以降は、神学の、その原理、その認識方法と概念構成それ自体で神学的に自立しない場合、すなわち神学が人間学的な哲学原理・認識論・世界観を第一次化して装備する場合、「人間学の後追い知識」としかならないということ、非自立的で中途半端な人間学的神学としかならないということである。このことが、近代<主義>を骨肉にまで受け入れながら、一方で停滞と循環を繰り返し旧態依然の枠組みに閉じられていく大学社会の神学<村落共同体>に属する神学者やそれに類する牧師やメディア的著述家には分からないのである。それに対して、バルトは、バルトだけが、現在的な神学における思想の課題を認識し、自覚的に、一切の近代主義、一切の<自然神学的なもの>を根本的包括的に止揚し超克していく、また不信とむなしさと不安と不確かさの蔓延した現在から未来に生きる、そうした信仰・神学・教会の宣教の、その原理、その認識方法と概念構成、の根拠・出自・第一次的な事柄・原動力を、先ず以て、ただ一回的な唯一無比の、神の側の真実としてのみある、ローマ3・22およびガラテヤ2・16等の神性を本質とする「イエスの信仰」の属格、ガラテヤ2・19以下「神の御子の信じる信仰」の属格、を<主格的>属格として認識(啓示認識・信仰)し理解するところに置いたのである。この認識・理解は、そしてこの自覚的な在り方は、ほんとうところは最後的な宗教改革をもたらすものであって、根本的包括的究極的な神学における思想の言葉なのである。「イエスの信仰」を<主格的>属格として啓示認識(信仰)し理解し自覚した、ということは、私たち人間の現存は、そのイエス・キリストにおいてのみあるということであり、神と人間との無限の質的差異において、また「人間精神は、聖霊と同一ではない」ということにおいて、神・啓示・啓示認識(信仰)は、徹頭徹尾、決して人間の自由事項・決定事項とはならないということであり、キリストの復活から終末・完成・救贖までの「聖霊の時代」において現存する人間は、常に終末論的限界の下にあり続けるということである。
したがって、バルトは、「人間が人間自身の力によって、自然的な能力・その悟性・その感情に応じて、認識しうるもの、それは精々、最高の実在・絶対的存在のようなもの・絶対に自由な力の精髄・一切事物を超越する存在の精髄であろう。このような絶対最高の存在・このような究極最深のもの・このような「物自体」は、神とは何の関りもない」、と言うのである (『教義学要綱』)。したがってまた、バルトは、人間学的な哲学原理・認識論・世界観を第一次化してなされた、あるいは人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍に依拠した啓示認識というものは、その最初から「誤謬は必然」となる、と言うのである。
さて、大学社会の神学者に過ぎないマクグラスは、旧態依然の在り方で、それゆえに旧態依然の概念で、バルトを「新正統主義」の枠組みの中に入れている。しかし、キリスト教の歴史(その信仰・神学・教会の宣教)は、バルトの概念を介して言えば、@<自然神学>の段階、と、A一切の近代主義、一切の<自然神学的なもの>を根本的包括的に止揚し超克していくバルトの「超」<自然な神学>の段階、において根本的包括的に認識し理解することができるのである。ほんとうは、現在的な神学における思想の課題を扱うためには、そのような認識と理解を必要とするのである。キリスト教の歴史を、「断続性と連続性」という<段階>概念を介して言えば、Aは、@とは異なった次元の段階への移行である。両者には、このような次元の差異性があるのである。ところで、「新正統主義」神学の、その原理・その認識方法と概念構成は、例えば根本的究極的な事柄で言えば、「イエスの信仰」の属格を主格的属格として認識し理解し得てはいない。したがって、それは、根本的には<自然神学>の段階に属するものとして総括できるのである。このような訳であるから、マクグラスが、バルトを、<自然神学>の系譜に属する「新正統主義」の枠組みの中に入れて論じている時、彼がバルトを根本的包括的に把握できていないことの証左となるのである。したがって、マクグラスの少なくともバルト論(その知識・情報)については、そのまま鵜呑みにしたり模倣したりしない方がいいのである。したがってまた、この意味において、マクグラスは意味あり気に語っているのであるが、彼の「中立的」立場には、何の有意味性も正当性もないことの証左となるのである。
前述したことからだけでも、だいたいマクグラスのような「中立的」立場という在り方は、何も生み出さないことは明らかなことなのである。したがって、私たち読者は、マクグラスに対して、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」者としての貌しか見出せないのである(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)。神学における思想家・バルトの立場は明確である――すなわち、バルトは、「≪神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示、この≫)一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(≪学派、教派、党派的思想、党派的共同性、党派的多元主義、特定の思想傾向、特定の政治的社会的言説と運動≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」という<立場>において、自らの信仰・神学・教会の宣教の、その原理、その認識方法と概念構成を展開しているのである(『教会教義学 神の言葉』)。人間学のける思想家・吉本隆明も明確である――すなわち、吉本は、「対立する双方に真理があるというような俗説が、世界史的に流布され、流通している」中で、自らの立場において、両者を包括し「止揚しなければならないということが思想的な問題」である、と述べている(『思想の規準をめぐって』)。
さらにまた、マクグラスは、「序」において、自信あり気に、「キリスト教神学」を、「人が学ぼうとしうる主題」の中で「最も報われ、満足のいく、純粋に刺激的なもの」とした、と述べている。それに対して読者の私は、躊躇なく正直に書けば、この分厚い書物が、「最も報われ、満足のいく、純粋に刺激的なもの」であるとは感じられなかったし・思われなかった。このことを例証することは簡単なことであって、それは、この分厚い神学の本を読むよりは、何度も述べているように、むしろ純粋な人間学的領域に属する吉本やフーコーやヘーゲルやフォイエルバッハやマルクス等々や、太宰や漱石や賢治やドストエフスキー等々の言葉や言説を読み・それに耳を傾けた方が、実際的に、確実に、ほんとうに、人間や社会や世界や歴史の本質を指し示してくれるし、人間的な慰安も励ましも喜びも心の響き合いも心の豊かさも享受させてくれるからである。おそらく、誰もが、そう感じ・そう思うに違いない。例えば、『罪と罰』においてドストエフスキーが語らせたマルメラードフの終末論的告白(信仰)の言葉は、文庫本一頁ほどのあの短い言葉だけで、「知的な」言葉と「霊的」な言葉とを享受させ得る水準を持っているのであって、それに対してマクグラスのこの分厚い<総花的>な本にはそれがないのである。また、字数としてはこの本の26分の1くらいしかないであろうバルトの薄っぺらな『福音と律法』は、薄っぺらではあっても、「純粋に刺激的なもの」として、「知的」に「霊的」に「報われ、満足」させられ、感動させられ、イエス・キリストにおける啓示の出来事である福音とその内容であるインマヌエルの出来事を明確に享受されてくれるし、聖書や神学の核心と神学における思想の課題を明確に認識させ理解させてくれる水準を持っている書物なのである。それに対して、マクグラスのこの分厚い<総花的>な本にはそれがないのである。『福音と律法』の「難解さは、ここに論じられている事柄そのものの重さとこれを論じるバルトの洞察の深さから来ている。この難解さに堪えて読まれる人には、それに報いて余りある喜びが分かたれるにちがいない」という訳者「あとがき」にある井上良雄の言葉はほんとうのことなのである。
さらにまた、マクグラスは、「序」において、バルトが「キリスト教神学を最高に美しい仕方で描き出している」・しかし、「バルトは、キリスト教神学の学びが与えてくれる興奮を強調するたくさんの神学者たちの一人でしかない」、と述べている。この評価の仕方から、私たちは、すぐに、マクグラスが、<自然神学>の系譜に属する神学者の一人に過ぎないことを知るのである。なぜならば、バルトは、「単なる知識」と「認識」とを厳密に区別して、『教会教義学 神の言葉』で次のように述べているからである――「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわちイエス・キリストにおける啓示の出来事(啓示の客観的現実性・啓示の客観的実在)と聖霊の注ぎによる信仰の出来事(啓示の主観的主体的現実化)に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に信頼し固執する「認識」・信仰である。その時初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができる。したがって、人間の対象化された自己意識・理性・思惟の類的本質(意味的世界)としての知識、人間学的な哲学原理・認識論・世界観を第一次化して神学を構成する人間学的神学の知識を含めて、人間学的なただ「単なる知識」に過ぎないある理念・ある概念の実体化・「最高存在」・「最モ完全ナ存在」としての啓示概念は、神の言葉・啓示の「概念の実在」ではないのである。神の言葉は、「人間の現実存在の内部」・人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍・感情や理性や実存や意志の中にはないのである。なぜならば、神に敵対し神に服従しない私たち人間は、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力」を一切持ってはいないからである。神の言葉は、その都度の神自身の自由な決断において、またその隠蔽と顕現において、「われわれのところに来」る。この神の隠蔽性・神の秘義性とは、私たち人間のその啓示認識が、常に終末論的限界(≪自己相対化≫)の前に立たされるということである。したがって、神の言葉が「人間によって信じられる……出来事」・信仰の出来事は、徹頭徹尾人間「自身の業」ではなく、啓示に固有な証明能力、すなわち「神の言葉自身」と「聖霊の注出」においてのみ可能となるのである。言い換えれば、「言葉を与える主」は、同時に、啓示認識(啓示の主観的主体的現実化)・「信仰を与える主」・である。したがって、聖書の中で証しされている教会の宣教の課題である啓示――すなわち、イエス・キリストにおける啓示の出来事の宣べ伝えを目指すことのない<自然神学>的な「単なる知識」としての形而上学的な教義学は、「それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方」のものであっても、その教義学・神学は、神学・「教義学としては非学問的」なのである。マクグラスは、この神学における思想の課題についての認識と自覚を持たないのである。したがって、マクグラスは、<自然神学>の系譜に属する神学者として総括できるのである。
バルトには徹底した一貫性がある。すなわち、バルトは、『神の人間性』において、人間自身の「素晴らしさ」を語るのであるが、人間の感情・理性・意志・実存・構想等を含めた人間的自然や人間的能力や人間的試みの根本的かつ究極的な限界性をも語るのである。また、「神の人間性」という概念と、その「神の人間性」から与えられた人間の人間性との無限の質的差異についても語るのである。すなわち、人間における労働や性・夫婦・家族や理性や感情や意志や実存や言語が対象化した文明や文化等々の人間的自然(人間の人間性)の一切は、「神の人間性」ではないということを語るのである。
また、バルトは、『教義学要綱』において、「聖霊は、人間精神と同一ではない」・「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」・聖霊によって更新された理性も聖霊ではない、と語るのである。それゆえに、急逝した年の邦訳『シュライエルマッハーとわたし』において述べたバルトの夢は、「霊的に精神的(≪学識的≫)にきわめてしっかりした基礎を持つ人々」による、<自然神学>を根本的包括的に止揚し超克した神学の原理・認識方法と概念構成における最善最良の「第三項の神学」・聖霊の神学の構成にあったのである。したがって、バルトは、勘違いして恣意的独断的に自分がそれだと思い込んだ誰かによって「軽薄に書きあげられた」聖霊の神学が市場に出回らないことを、衷心から切望したのである。しかし、その後の神学の動向は、相も変わらず、バルトの衷心からの切望を容赦なく打ち砕き、近代主義的、<自然神学>的、恣意的独断的場当たり的な惨憺たるものとなったし・惨憺たるものとなっているのである。ほんとうは、この停滞と循環とを,真っ先に、根本的包括的に打ち破らなければならないのは、教会の宣教を担っている牧師なのである。そして、そのことは、ほんとうは、実際的には、現在的な信仰・神学・教会の宣教における思想の課題を認識し理解し自覚した、バルトの根本的包括的な理解からはじめる以外にはないのである。最も容易い、外在的な皮相的な場当たり的な、時流や時勢への迎合や同化にはないのである。
このようなバルトを、「キリスト教神学の学びが与えてくれる興奮を強調するたくさんの神学者たちの一人でしかない」という批評しかできないマクグラスの神学は、何も生み出すことはできないのである。なぜならば、マクグラスは、批評・批判の本質的な在り方を知らないからである。マクグラスの批評の在り方は、スカンディナビア人のヴィングレンと同じ水準の語り方なのである。したがって、このマクグラスに対しても、バルトの次の言葉が投げ返されなければならない――スカンディナビア人のヴィングレンが、バルトには「神――悪魔図式」が欠けていると批判したことに対して、バルトは、「私に反論する人は、ただ私の全構築(その信仰・神学・教会の宣教の、その原理、その認識方法と概念構成それ自体)に対応する各自の構築を立てるという形においてのみ可能であり、そんな……たわごとを持ち出すくらいでは駄目である」と述べた、このバルトの言葉が投げ返されなければならない(『バルトの生涯』)。神学における体系的思想家のバルトを批判する場合、ヘーゲルやマルクスに対するのと場合と同じように、その原理そのものに対して、単純にしかし根本的にそして包括的になされなければならないのである。「私の弁証法的方法は、その根本において、ヘーゲルの方法と……正反対である。ヘーゲルにとっては、(≪自己還帰する自己意識・理性・思惟、区別を包括した同一性の原理、思惟と思惟されたものとの等価性の原理において、対象の抽象、この抽象の抽象・思惟の思惟、……そして知識の頂き・理念へと上昇していく≫)思惟過程が現実的なるものの造物主……にほかならないのである。(中略)私においては、逆に、理念的なものは、人間の頭脳に転移し翻訳された物質的なものにほかならない」(マルクス『資本論』)。吉本は、ヘーゲルが知識の意識的自覚的過程だとした、区別を包括した同一性の原理、思惟と思惟されたものとの等価性の原理において、知識的に上昇していく知識の過程を、実はそれは、知識の自然過程に過ぎないものである、と批判した。したがって、吉本は、例えば親鸞の浄土教理・知識の課題を、往相回向・縦超・非俗・往相浄土・聖道の慈悲・衆生の緊急的相対的過渡的救済の課題・<知識の自然過程>(意味)、と、還相回向・横超・非僧・還相浄土・浄土の慈悲・衆生の究極的包括的総体的永続的救済の課題・<知識の意識過程>(価値)、との構造において扱ったのである。マクグラスには、このような認識と自覚がないのである。
マクグラスは、「あるオックスフォードの一学生」が、彼に神学の「『面白いところに辿り着く』前に理解する必要がある膨大な量の素材によって、……意欲は殺がれてしまう」と言ったことを述べている。そのことは当たり前のことであって、それは何故かと言えば、大学社会の神学者たちが、すでに自然時空に死語化してしまった人物や神学の皮相的で瑣末なことまでも意味あり気に覚えさせようとするからであり、またバルトのように神学のその原理・その認識方法と概念構成を単純にしかし根本的にそして包括的に展開しないからである。すなわち、<総花的>であるからである。それだけでなく、マクグラス自身が、バルトを根本的包括的に理解しないまま、それゆえに旧態依然的な分類でバルトを「新正統主義」という枠組の中に入れてしまってバルトを論じているために、学生だけでなく私たち読者の方も、バルトを根本的包括的に理解することができないからである。マクグラスは、理解できない責任について、「教える者が、より高度な思想へと導き、それを議論しようとしても、教わる側が背景となる知識をひどく欠いているために、それを意味あるものとして受けとめ、理解することが出来ない」ためだと一方的に学生や私たち読者の方に責任を転嫁しているのであるが、教授自身の理解の質と度合の問題でもあるのである。
また、マクグラスは、「英国において本書を用いた十六歳の若さの学生が、この本はよく分かり、面白いと感じたという事実がある」と自慢しているのであるが、その学生がこの本でバルトを「よく分か」ったと言ったとすれば、その分かり方は、バルトを根本的包括的に分かったのではなく、少なくともバルト(あるいはマルクス)に関しては根本的包括的に分からずに分かった、という理解の質であることは明らかなことである。
(1)マクグラスのアンセルムス論について
マクグラスは、「神学における理性の役割の探求」において、11世紀の思想家カンタベリーのアンセルムスの「知解を求める信仰」と「理解するために私は信じる」を引用し、それは「信仰は理解に先行するが、信仰の内容はそれにもかかわらず合理的なものである」ということである、そしてこの「決定的な定式」は「理性に対する信仰の優位性」と「信仰が完全に合理的である」ということの主張ある、と述べている。それだけでなく、マクグラスは、「神学は信仰において受け取られ、把握された神の啓示の意識的・組織的説明である」、というカトリックのカール・ラーナーの言葉を引用し、「第8章 哲学と神学」でアンセルムスの神の存在の証明について論じ、直接的無媒介的に、「ひとたび信仰者が『神』と言う言葉が何を意味するかを理解するようになるなら、神はその信仰者にとって本当に存在するのである」、と述べると同時に、その神の存在の「証明は依然として続けられている」として、「神の存在についての存在論的証明に対する……批判」を行ったカントを持ち出すのである。
この論じ方から、私たちは、マクグラスが、正当性のある根本的な批判であるフォイエルバッハの宗教批判やハイデッガーのブルトマン(その学派)に対する「存在者レベルの神への信仰」批判・揶揄だけでなくヘーゲル哲学を、一切の近代主義を、一切の<自然神学的なもの>を、自らの信仰・神学・教会の宣教の、その原理、その認識方法と概念構成それ自体において、根本的包括的に超克していこうとしていないことを知るのである。すなわち、私たちは、マクグラスが、現在的なあるいは現在から未来に生きる神学における思想の課題を認識し自覚していないことを知るのである。この場合、神と人間・神学と人間学との混淆論・共働論・折衷論を惹き起こすのである。そこにおいて神・啓示・信仰は、まさしく人間の対象化された自己意識・理性・思惟の類的本質(意味的世界・自己認識)である。そのことをよく認識し・そのことに対して自覚的であったバルトは、例えば「理性」についても、「聖霊は、人間精神と同一ではない」・「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」・啓示認識に必要な聖霊によって更新された理性も聖霊ではない――この認識方法と概念構成は、バルトが、自己意識・理性・思惟というヘーゲルにおける人間に内在する神的本質の概念を包括し止揚したことを意味しているのである――、と述べたのである(『教義学要綱』および『教会教義学 神の言葉』)。
現在的な神学における思想の課題を認識し、その課題を自覚的に担ったバルトのアンセルムス論にかかわる重要な事柄は、次の点にある。
ア)『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、こうである。
バルトは、「存在するものそのもの」・「その純然たる造られた存在」に依拠したアウグスティヌスの「造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」という語り方に対して、根本的な批判を加えている。すなわち、そのような三位一体の跡は、「世界に対して超越する創造神の跡」として理解することはできない。それは、ただ単なる人間の自己意識・理性・思惟によって対象化された人間自身の自己認識、すなわち人間自身の「内在的に理解」された「宇宙の諸規定・人間的な現実存在の諸規定」・「単なる宇宙論や人間論」でしかない。また、そのような三位一体論は、人間自身に基づく「人間の世界理解の、最後的には人間の自己理解」・「神話」、すなわち<自然神学>的な神の人間化・神学の人間学化・人間学的神学の水準にあるものである。なぜならば、そのような神と人間・神学と人間学との混淆論・共働論・折衷論に基づく人間の啓示認識、それに依拠した存在の類比を通した人間の自己認識を目指す<自然神学>的な信仰・神学・教会の宣教は、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼しない」からである。「神学をただ啓示の中にのみ基礎づけ」るために、聖書に依拠した信仰・神学・教会の宣教は、「罪深い曲がった人間」の「究極的な限界性」・終末論的限界を自覚した人間の言語を前提として、「三位一体を、世界から説明しようと欲」しないで、むしろ逆に、「世界を三位一体から説明せんと欲」する。すなわち、バルトは、<三位一体論――キリスト論>の立場において、神の側の真実としての啓示の出来事と信仰の出来事に基づく啓示認識、その啓示認識に依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識を目指したのである。このアウグスティヌスとバルトとの根本的な差異性は、前者においては「被造物ノ中デノ三位一体ノ跡」というように語られ、後者においては「三位一体ノ中デノ被造物ノ跡」というように語られる点にある。「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」。「解釈する」とは、「別の言葉で同一のことを言うこと」である。
イ)『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』に即して言えば、こうである。
アンセルムスは「キリストが人間となり給うこと、キリストの贖罪死」の必然性を「理解シヨウ、理性的に論証シヨウとした」が、そのことを人は合理主義だと批判した。しかし、アンセルムスは、「教義学的な合理主義」を明確に否定している。すなわち、アンセルムスは、神学を一般的真理としてではなく、「啓示から得られた認識」・啓示の「概念の実在」としてのイエス・キリストの「実在から」啓示認識の可能性について考えたのである。
アウグスティヌスは、「三位一体の痕跡」である「想起(記憶)、知解、愛」としての「人間の中での神の像」を、「最も身近な最も高貴な認識根拠」とした。それは、アウグスティヌスにとって、「聖書的・教会的・教義的前提」であった。そして、アンセルムスにとってもそうであったが、彼の場合は、アウグスティヌスとは違って、@徹頭徹尾「教えられつつ語る」のであって、「われわれの理性に内在している神概念の再想起」において「創造しつつ神について語ろう」とはしなかった。したがって、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰である」とした「カントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」(『カント』)のであるが、アンセルムスの教説はそうした教説とは一致しないのである。したがってまた、A「認識的なラチオ性〔理性性〕」は、「啓示、恵み、信仰(≪神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく人間の啓示認識、それに依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識≫」を前提条件としていた。この紙一重を超える在り方に、アンセルムスの神学における思想性はあるのである。大学社会の神学者に過ぎないマクグラスには、このような思想性がないのである。
ウ)私たち人間における「存在を問う問い」は、それは「考えることの対象である限り」、「対象そのものを」問う問いとして、対象を「考えられたものへと解消」(≪人間の自己意識・理性・思惟によって対象化された存在、すなわち存在者へと解消≫)しないで、その「独立的に存在する」対象そのものとして問われなければならない。「いかなる人間もほかの者に教えることができないことを教えることができ、また繰り返し教えるであろうことを信頼していた客観的な根拠」、すなわち「信仰の対象そのものの客観的根拠」の「力強さを念頭において」、「非キリスト者をキリスト者として、不信者を信者として語りかけ」、「信者と不信者の間の深淵を超え」出て、「彼が自分を不信者たちに対して不信者たちと同類の者としておき、不信者たちを自分と同類の者として受けとる」ことができた。この「客観的根拠」は、神の側の真実としてのイエス・キリストにおける啓示の出来事(啓示の客観的実在・啓示の客観的現実性)のことである。このことは、言い換えれば、啓示の「真理の客観的考察などというものはない」、その真理は、「われわれが何かを考察するより先にわれわれを考察するところの客観性」であり、「考察する主観を設定する本源的な客観性である」、というように言ってもいいものである(『バルトの生涯』)。
ここで、「考察する主観を設定する本源的な客観性である」とは、神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示の出来事(啓示の実在そのもの、啓示の客観的実在、啓示の客観的現実性)のことである。なぜならば、イエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを承認し確認するからである。したがって私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として承認し確認するからである。すなわち、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを承認し確認するからである。したがって、その神の側の真実としてのイエス・キリストにおける啓示の出来事の場所は、<自然神学>的な信仰・神学・教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」・「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」・「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所なのである。したがってまた、私たち人間の、その類・歴史性――個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所は、神性を本質とするまことの神でありまことの人間であるイエス・キリストにおける啓示の出来事の場所だけなのである。
エ)啓示認識の可能性は、啓示という「認識対象の特性」から、この「対象を認識する認識概念」が、「ほかの諸対象を認識する場合」の「一般的な認識概念に照らして……最後的に決められてしまってはならず」、あくまでもその認識対象(イエス・キリストにおける啓示の出来事、啓示の客観的実在、啓示の客観的現実性)から規定されるものでなければならない。すなわち、啓示認識は、神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてのみ可能である、ということである。また、そうして得られた人間が人間的に所有する人間の啓示認識・教義・言葉性であっても、それは、啓示の実在そのものではない。すなわち、啓示は、神の隠蔽性・神の不把握性・終末論的限界において、人間の「言葉性に縛」られることはないのであり、逆に人間の「その言葉性の方が神に縛られている」のである。したがって、私たち人間は、「神の言葉」・「神の恵みの実在」・啓示の実在そのものの「認識を問うことはできない」のである。
にもかかわらず、トラウプは、啓示の実在に基づいた啓示の「概念の実在」(キリスト教に固有な類・歴史性)において「どのように人間は神の言葉を認識することができるのか」というバルトの問いを、<自然神学>的な常道に従って誤解し、直接的無媒介的に「どのようにわたしは、神の言葉」を「神の言葉として、また実在として、肯定することにまでくることができるのか」という問いに変じてしまったのである。すなわち、バルトは、あくまでも聖書の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(キリスト教に固有な類・歴史性)に連帯することにおいて啓示の認識可能性を論じているのにもかかわらず、トラウプは啓示の実在そのものの認識可能性を論じているのである。言い換えれば、トラウプは、人間の自由な自己意識・理性・思惟による直接的無媒介的な啓示認識・教義と啓示の実在そのものとの一致の可能性について論じているのであり、啓示の実在を、人間の啓示認識・教義の此岸・内に求めようとしているのである。したがって、この場合、トラウプにおける神や啓示や信仰や神学の位相は、まさしく、フォイエルバッハの宗教批判の対象そのものとなるのであり、ハイデッガーの揶揄・批判した「存在者レベルでの神」・その神への「信仰」そのものとなるのである。したがって、私たちは、トラウプを、<自然神学>の<段階>に属する神学者として総括できるのである。
このような訳であるから、バルト自身の信仰・神学・教会の宣教の、その原理、その認識方法と概念構成においてはじめて、ハイデッガーのあの揶揄・批判や、次のようなフォイエルバッハのキリスト教批判を根本的包括的に止揚し超克していくことができるのである――「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である」・「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」・「(中略)神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……」・「(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』」(L・フォイエルバッハ『キリスト教の本質 上・下』)、「神とはまさに、人間の(≪自由な自己意識・理性・思惟の≫)想像能力・思惟能力・表象能力の本質(≪無限性・類的本質≫)が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」(『フォイエルバッハ全集第12巻』「宗教の本質にかんする講演 下」)。
(2)マクグラスが言うように、ほんとうに、バルトは「新正統主義」の一人なのか?
マクグラスは、「まえがき」にも書いたように「中立的」立場における党派的多元主義に立って、神学思想史を発展的連続性において論じている。キリスト教思想史を「キリスト教神学の歴史的発展」として考えている。したがって、その「発展」概念には、<断続性と連続性>の構造における<段階>という概念、<次元の差異>の概念がない。体系的思想家のヘーゲルもマルクスも吉本も、断続性と連続性の構造における段階という概念、次元の差異の概念を持っている。
例えば、ヘーゲルにおいてはこうである――まず、ヘーゲルは、『歴史哲学講義』において、地域的な中国、インド、ペルシャ及びギリシャ世界への移行的世界であるエジプトも東洋世界として扱っている。ここでエジプトが移行期であるという規定は、例えば人間が自然を分離し出したことを物語る人面獅身・スフィンクス・半人半獣に基づいた規定といえる。また『哲学史講義』においては、地域的なペルシャの時間論、中国の哲学、インドの哲学を東洋・アジアの哲学として扱っている。こうしたヘーゲルにおいては、西欧的段階の原理は自由であり、アジア的段階の原理は自然である、というように概念的に把握され、その概念把握を媒介として、自然からの離陸の度合の差異、次元の差異、<段階>概念によって、西欧とアジアは相互に関係づけられている。アジアの原理は自然であると語るヘーゲルは、アジアは世界史のはじまりであり西欧は世界史の終わりである、「野放図な自然のままの意思を訓練して、普遍的で主体的な自由へといたらしめる」世界史の過程の尖端に西欧的段階があることを述べている(『歴史哲学講義』)。また、このヘーゲルは、「中国の哲学(≪人類史におけるアジア的段階と関わる≫)とエレア哲学(≪人類史における古典古代のギリシャ的段階と関わる≫)とスピノザの哲学(≪人類史における西欧的段階と関わる≫)が、おなじ一を原理とするといっても、肝心なのは一の内容がどうなのかです。一が抽象的な一か具体的な一か、精神的な一に達するほど具体的にとらえられているかどうか、そこに根本的なちがいがあるので、それを無視して三つの哲学を同列にあつかうのは、みずから、抽象的な一しか知らないこと、哲学の関心がどこにあるかを知らないまま哲学について判断をくだしていることを、証明するようなものです」、とも述べている(『歴史哲学講義』)。
マルクスにおいては、こうである。人類史は、一方で、自然史の一部である人類史の自然史的過程である@経済社会構成体、A科学や技術等・それに関わる知識、B生活の利便性は、@についてはその拡大・高度化・高次化、Aについてはその進歩・発達・増大、Bについてはその向上の歩みを持っていて、この歩みは、自然史的必然としてのそれであるから、その歩みを停滞させたり退行させたり逆行させたりすることはできないものであり、それゆえにそのことは倫理の問題とはならない歩みである。また、他方で、人類史は、そこを出自としながらも、そこからいったん疎外されたその観念諸形態は、それ自体の展開過程と自己増殖過程を持ち時間累積されていく。そして、その本質は時間であるから、退行や復古や逆行もあり得る、という意味で、進歩するとは言い切れないのである。フレイザーは西欧近代における自然宗教・アニミズムとしての「樹木崇拝の名残り」について述べているが、その「名残り」の根拠は、それが観念諸形態の一つであるからである。したがって、人間の観念を本質とするマクグラスの神学思想史を発展的連続性において論じる在り方は間違っている、と言うことができる。言い換えれば、停滞性・退行性・逆行性もあり得るのである。すなわち、ローマ・カトリック主義的神学は、もともと<自然神学>的であって、それが日本に輸入されると、おそらく日本人神父はそうだと思うのだが、プロテスタントの神学者や牧師やメディア的著述家を含めて、すぐにその<自然神学>がアジア的日本的な自然思想によってアジア的日本的変容を受ける、ということがあるのである。
滝沢克己の場合、世界史のアジア的段階の日本における神人論(非農耕民の呼称)のそれであるのか・天台本覚論の草木国土悉皆仏性論のそれであるのかは別として、滝沢にとってイエスは、あくまでも彼自信の第一次的な「根本的事実」という哲学的概念によって規定されたところの、「まことの神」・「まことの人」(神の「存在の仕方」・性質・働き・行為・業)にされてしまった。それだけでなく、三位一体論における神の「存在の本質」である単一性・神性・永遠性は揚棄されてしまった。すなわち、キリストの神性は棄揚されてしまった。滝沢の場合は、哲学的神学を目指していることは明確であるが、北森嘉蔵の場合はひどいもので、彼は、日本におけるナショナルなものとしての滅私奉公的な人間の在り方と神の痛みの在り方を混淆・折衷させて、神学を<土俗>的神学にしてしまった。正直に言えば、滝沢は九州大学の教授であっからそれはそれで受容できるとしても、牧師養成の神学校において、北森のような人たちが神学者として牧師の卵の神学生を教えていてどうなのかな、という疑問を、キリスト者の一人である私はどうしても持ってしまう。
私は、「はじめに」において、次のように書いた――キリスト教の歴史(その信仰・神学・教会の宣教)は、バルトの概念を介して言えば、@<自然神学>の段階、A一切の近代主義、一切の<自然神学的なもの>を根本的包括的に止揚し超克していくバルトの「超」<自然な神学>の段階、において根本的包括的に認識し理解することができる、と。このことを「断続性と連続性」という<段階>概念を介して言えば、Aは、@とは異なった次元の段階への移行である。両者には、このような次元の差異性がある。ところで、「新正統主義」のその原理・その認識方法と概念構成は、例えば「イエスの信仰」の属格について、それを主格的属格として認識し理解してはいない。したがって、それは、バルトとは違って、根本的には<自然神学>の<段階>に属するものとして総括できる。こうした根本的な差異性は、聖霊論等においても現存している。このような訳であるから、バルトを「新正統主義」として規定しバルトを論じる場合、その論述は、その最初から、根本的包括的な誤謬を犯すだけでなく・もたらすことにもなるのである。
しかし、マクグラスは一つ覚えのように旧態依然としてバルトを「新正統主義」と規定し、『教会教義学』を「二十世紀最大の神学的業績であろう」と評価し、「これは既にカルヴァンやルターとしっかりと結び付いている主題の反復にしか見えない」としても、「聖書を通してのイエス・キリストにおける神の自己啓示を真剣に受け取るという……自分の課題にかなりの創造性を発揮しており、それによって彼自身、大思想家としての地位を確立している」、と述べている時、もうこれだけで、私たちは、少なくともバルト論に関して、この神学者の神学の質がどの程度のものあるかが分かってしまうのである。
第一に、ほんとうは、停滞と循環を繰り返す「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところすべての大学社会の神学」村落共同体あるいはそれに類する教会共同体でしか通用しない「新正統主義」という概念は、バルト自身においてはもちろんのこと、状況論的にもすでに自然時空へと死語化してしまった概念に過ぎないのである。第二に、バルトの神学における思想的営為は、ほんとうの意味での処女作の『ローマ書』→『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』→『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』→『福音と律法』における、一切の近代主義、一切の<自然神学的なもの>の根本的包括的な止揚と、そこからの超出(超克)にあるのである。第三に、『教会教義学』の主題をルターの「主題の反復」とその「創造性」に置いているのであるが、これでは何も言わないのと同じことであって、ほんとうは、バルトは、先ず以て『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』と『福音と律法』において――すなわち、自らの信仰・神学・教会の宣教の、その原理、その認識方法と概念構成それ自体において、ルターの<自然神学>的な信仰・神学・教会の宣教の在り方を、根本的包括的に止揚し超克しているのである。ルターとバルトとの根本的包括的究極的な差異性を『福音と律法』に即して一言で言えば、ルターにおける「イエスの信仰」の目的格的属格理解(認識・信仰、神だけでなく人間も、神と人間・神学と人間学の混淆・共働)とバルトにおける「イエスの信仰」の主格的属格理解(認識・信仰、神の側の真実のみ、イエス・キリストにおける啓示の出来事のみ)にあるのである。また、バルトを「大思想家」と言うのであれば、マクグラスは、『教会教義学 神の言葉』に基づいて、少なくとも次の点については述べておくべきなのである――バルトは、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」、すなわち人間に向かって語られる神の言葉の受肉、啓示の客観的実在そのものとしてのイエス・キリストと、また「聖書」の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(キリスト教に固有な類・歴史性)に連帯した、ということを。このことを、バルトは、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」である、と述べている。このことは、オリジナルな神学思想というものはない、ということを意味しているのである。したがって、バルトは、啓示の客観的実在に基づく啓示の「概念の実在」(キリスト教に固有な類・歴史性)を媒介・反復するという仕方で、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」(『啓示・教会・神学』)、その信仰・神学・教会の宣教に、個性や時代性を刻んだのである。バルトの「創造性」(個性、時代性、独創性)について言うのであれば、そのことは、バルトだけが、はじめて、一切の近代主義、一切の<自然神学的なもの>を根本的包括的に止揚し超克していくという神学における思想の課題を認識し、それを自覚的に担い、担い続けた点にあるのである。
しかし、これらのことが、「大学社会の神学」者たち・それに類する牧師たちやメディア的著述家たちには分からないのである。分かろうとしないのである。
大学社会の神学者のマクグラスは、あの、とっくに自然時空に死語化してしまった旧態依然な概念に過ぎない「新正統主義」に対する批判ということで、重要なものとして次の三つを挙げている。
ア)「神の超越性や『他者性』の強調によって、神は遠くて、潜在的には無益なものと見られてしまう」。←→ここには、いかにも人間に配慮したような言い方がなされているが、その意味・意図はこうである――それは、神と人間との無限の質的差異を揚棄した、近代主義的<自然神学>的な言葉なのであって、神だけでなく、人間の自主性・自己主張、人間の自由な自己意識・理性・思惟の無限性、もという人間的欲求の表現なのである。バルト自身においては、神と人間との無限の質的差異の認識・概念は、またキリストの「存在の本質」である神性性の強調は、フォイエルバッハの宗教批判やヘーゲル哲学を根本的包括的に止揚し超克できるそれである。すなわち、それは、一切の近代主義、一切の<自然神学的なもの>を根本的包括的に止揚し超克できるそれである。このことが、大学社会の神学者やそれに類する者たちには理解できないのである。
イ)「神の啓示にのみ基づくという新正統主義」の「主張の正しさを検証するのには、同じ啓示によるしかない」から、「自らの領域の外部からのあらゆる批判を受け付けない信仰の体系である」。←→この言い方は、私意・私利によってすぐに崩壊する寛容主義や折衷主義や党派的多元主義に依拠した者たちの発言である。なぜならば、現在的な神学における思想の課題は、自らの信仰・神学・教会の、その原理、その認識方法と概念構成それ自体で、その信仰・神学・キリスト教を、不信・無神性・無関心・非知・非キリスト教に完全に開く点にあるからである。バルト自身においては、神の隠蔽性・神の不把握性・終末論的限界、神の啓示・時間・救済史は人間の啓示認識・時間・歴史の常に外・彼岸にある、神の側の真実としてのみある「イエスの信仰」の主格的属格理解、イエス・キリストにおける完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的救済・平和(史)、啓示の<客観的>実在・啓示の<客観的>現実性、啓示に固有な証明能力、神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく啓示認識等々の認識・概念は、一切の近代主義、一切の<自然神学的なもの>を根本的包括的に止揚し超克できるそれであるばかりでなく、信・知・キリスト教を、不信・非知・非キリスト教に対して完全に開くことができるそれなのである。このことが、大学社会の神学者やそれに類する者たちには理解できないのである。
バルトにとって、神の啓示は、その啓示に固有な証明能力を持っており、それは、神自身のその都度の自由な恵みの決断――すなわち、イエス・キリストにおける啓示の出来事(啓示の客観的現実性、啓示の客観的実在)と聖霊の注ぎによる信仰の出来事(啓示の主観的主体的現実化)に基づいて初めて授与されるところの、人間が人間的に所有する人間の啓示認識であり、しかもその人間の啓示認識は、神の聖性・隠蔽性に基づく神の不把握性において、また終末論的限界において、授与されるものである。したがって、神の啓示は、決して、人間の自由事項とはならないのであり、ましてや独占事項とはならないのであり、それゆえに、それが「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということ」は、徹頭徹尾、神自身の決定事項なのである。このような訳であるから、<自然神学>的な「人間が人間自身の力によって、自然的な能力・その悟性・その感情に応じて、認識しうるもの、それは精々、最高の実在・絶対的存在のようなもの・絶対に自由な力の精髄・一切事物を超越する存在の精髄……。このような絶対最高の存在・このような究極最深のもの・このような「物自体」は、神とは何の関りもない」ものなのである (『教義学要綱』)。このことが、大学社会の神学者やそれに類する者たちには理解できないのである。
教会の客観的な信仰告白と教義である三位一体論の根拠としての神の啓示は、旧約聖書におけるヤハウェ・新約聖書における神(テオス)あるいは主(キュリオス)自身の自己啓示のことである。聖書また教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する。したがって、この啓示が教会の宣教の客観的な信仰告白と教義である三位一体論の根拠である。この三位一体論は、神論の定的に重要な構成要素であり、「啓示の認識原理」である。したがって、この三位一体論を啓示認識の原理にしない場合、すぐに、<自然神学>的な神性否定のキリスト論や半神・半人キリスト論や三神論や神と人間・神学と人間学との混淆・共働・折衷という<自然神学>的なキリスト論・聖霊論・神論に埋没していく以外にないのである。
したがって、バルトは、神学の原理として第一次化されたあるいは混淆された・共働された・折衷された「哲学、歴史学、心理学等は、この神学的問題領域のどれにおいても、事実上、教会の自己疎外の増大以外のなにものにも役立ちはしなかった」。「神についての教会の語りの堕落と荒廃以外の何ものにも役立ちはしなかった」。またその場合、「哲学は哲学であることをやめ、歴史学は歴史学であることをやめる」。キリスト教哲学は、「それが哲学であったなら、それはキリスト教的ではなかった」。また、「それがキリスト教的であったなら、それは哲学ではなかった」――と述べたのである。言い換えれば、バルトは、「哲学と神学」の混淆や共働や折衷を目指す人間学の「後追い知識」でしかない人間学的神学は、神学としても人間学としても非自立的で中途半端なものとしかならないのである、と述べたのである。したがって、<自然神学>的な信仰・神学・教会の宣教は、現在から未来に生きることは決してできないのである(『教会教義学 神の言葉』)。自然時空に死語化していく以外にないのである。したがってまた、バルトは、『バルトとの対話』で、「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」、と述べたのである。すなわち、神学も理性的な知的営為ではあるが、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」、と述べたのである。言い換えれば、私たち罪に穢れた人間には、心が開かれ「み言葉を受け入れまた聞くために」、「み言葉の主である」聖霊によって「再生」された理性を必要とするのである。聖霊は、「理性の再生をもたらす」。しかし、人間実存の直接性に依拠する「実存的釈義家」の場合は、「本文と彼自身との対話だけでなく、ある特定の人間学、つまり一つの思惟の型を前提とし」・それに信頼し固執しているから、誤謬は必然となるのである。それに対して、聖書の中の「キリスト教原理を、覆いをとって明かにするのは」徹頭徹尾「聖霊」であるから、その「聖霊の交わりにおける人間の実存」に依拠したバルトの場合は、「あやまちは可能」であっても、実存主義者の場合のように、その最初から「あやまちは必然」ではないのである。この場合、もちろん、聖霊によって「再生」され・更新された理性であっても、その理性は、聖霊と同一ではないのである。
ウ)「新正統主義は、他宗教に惹かれる人々の助けになるような応答をしない。他宗教は歪曲・倒錯として退けられるしかない。(≪逆に、≫)他の神学(≪神と人間・神学と人間学との混淆・共働・折衷に依拠した<自然神学>の系譜に属する人間学的神学≫)の行き方は、キリスト教信仰と関連付けること」ができる。←→この場合、その神学の位相は、<自然神学>そのものである、人間学の後い知識として、非自立的で中途半端な人間学的神学としかならない。バルト自身においては、前述したイ)と関わるのであるが、「キリスト教使信の中心」、神の側の真実としてのみある、主格的属格としての「イエスの信仰」・啓示の客観的現実性・その内容であるインマヌエルの出来事の認識・概念は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの不信・非知・非キリスト者(教)、全人間・全世界・全人類に対して完全に開かれているそれである(『教会教義学 和解論』)。すなわち、バルトのそれは、自らの信仰・神学・教会の宣教の、その原理、その認識方法と概念構成において、党派性・党派的思想・党派的共同性・党派的多元主義・学派・教派を根本的包括的に止揚し超克できるそれであるだけでなく、信と不信、知と非知、キリスト者(教)と非キリスト者(教)とを架橋し、両者の枠組みを取り除くことができるそれである。このことが、大学社会の神学者やそれに類する者たちには理解できないのである。
(3)マクグラスの「科学と神学の連続性」論について
マクグラスは「科学と神学の連続性」において、「プロセス神学は、キリスト教の伝統を現代科学に適応させようとする神学の形態の好例である」と述べている。ただこのように紹介するだけで、自らの立場において、その神学を肯定的にあるいは否定的に媒介しようとはしないのである。ただはっきりしていることは、このプロセス神学もマクグラスも、直接的無媒介的に「科学と神学の連続性」について述べている、ということである。
さて、マクグラスは、自然神学への「神学的反論」において、「自然神学は正しく理解された場合には啓示神学の『内』に含まれる、とバルトは主張」したと述べているのであるが、彼は、バルトを根本的包括的に理解できていないために、私が(1)の(ウ)で論じた<私たち人間の、その類・歴史性――個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所は、神性を本質とするまことの神でありまことの人間であるイエス・キリストにおける啓示の場所だけである>、ということが理解できないのである。ほんとうは、このイエス・キリストにおける啓示の場所においてのみ、現在話題となっているiPS細胞(人工多能性幹細胞)関する科学や技術の進歩発達およびその知識の増大が自然史的必然に属する事柄であり、停滞したり逆行したりすることはあり得ないということ、またそれは、人間によって対象化された自然・人間的自然であるということ、それゆえにヒッグス粒子等々の発見を含めてそうした研究成果を、人間的な「世俗的真理」として正直に受け取ることができるのである。このことを、マクグラスは理解できないのである。また、マクグラスは、あのようにして、バルトが、現在的な神学における思想の課題である、一切の近代主義、一切の<自然神学的なもの>を根本的包括的に止揚し超克していこうとしていたことを理解できないのである。
このような訳であるから、マクグラスの説明するプロセス神学は、神と人間・神学と人間学との混淆・共働・折衷に依拠した<自然神学>の段階に属する神学として総括できるのである。したがって、プロセス神学は、「キリスト教神学の歴史的発展」とは言えないのであって、すなわち停滞というべきであり、<自然神学>の段階に属する神学の増大、と言うべきなのである。言い換えれば、その神学は、「断続性と連続性」の構造としての段階概念における高次な「超」「自然な神学」の段階への移行ではないのである。
(4)マクグラスの「解放の神学」論について
マクグラスは、(3)にもあるように「科学と神学の連続性」という言い方をしているのであるが、人間学的概念としても誤謬である。なぜならば、マルクスに依拠して純粋に人間学的に言えば、ほんとうは、科学は、自然史の一部としての人類史の自然史的過程に属するものであって、その進歩発達は自然史的必然に属しており、それゆえにそのことは倫理の問題ではないのであるが――「私の立場は、経済的な社会構造の発展を自然史的過程として理解しようとするものであって、決して個人を社会的諸関係に責任あるものとしようとするものではない。個人は、主観的にはどんなに諸関係を超越していると考えていても、社会的には畢竟その造出物にほかならないものであるからである」(『資本論』)が――、その過程を出自とした観念諸形態であり、その自体的展開と自己増殖過程を持つ、観念を本質とする神学は、進歩も停滞も退行もあり得るからである。
さて、マクグラスは、ラテン・アメリカにおける「解放の神学」と「希望の神学」者ユンゲル・モルトマンとの関係で、マルクス主義について述べている。そして、「マルクス主義の崩壊」についても述べているのであるが、その読み替えの方法については論じられていない。したがって、マクグラスは、マルクス主義を、次のように説明している――マルクス主義の基本は、「人間が物質的な要求にどう反応するかが」<「すべてを決める」>・「宗教思想を含めた」<「あらゆる思想・観念は」>、「物質的な現実への応答である」・「もし、(≪経済的・社会的構造が≫)……根底から変えられることになれば、……信仰の体系も、共にすぎ去ることになる」、という主張にある、と。マクグラスは、いったん疎外され・表現され・外化された諸観念が、それ自体の展開過程と自己増殖過程を持つこと・時間累積していくことについては述べていないし、経済決定論の立場から「もし、(≪経済的・社会的構造が≫)……根底から変えられることになれば、……信仰の体系も、共にすぎ去ることになる」とも述べているのである。したがって、マクグラスは、旧態依然のマルクス主義的な唯物主義や経済決定論を反復して述べているのであって、マルクスの思想を述べているのではないのである。すなわち、マクグラスは、マルクスを根本的包括的に理解して論じてはいないのである。したがって、マクグラスは、自然哲学における疎外概念・労働概念を棄揚してしまって、直に経済学的概念としての疎外された労働に依拠して論じてしまうのである。
このようなマクグラスが、「マルクスの思想は、ふさわしく修正された上で」、「ラテン・アメリカの解放の神学」に「流れ込ん」でいる、と述べているのである。さらに、マクグラスは、@この解放の神学は、「理論上、抑圧の状況に向かって語りかける神学」・「そのような状況を取り扱う神学」である。Aこの解放の神学は、実践的には、教会が、「地域の抑圧者の政府」の側に立つのをやめて、「貧しい人々の側に立つ」点にある。B解放の神学は、「世俗の哲学者を用いて、根本的にキリスト教的な信仰内容に実質を与え」得るものである。C解放の神学においては、「ラテン・アメリカの状況に解放の洞察を適用しようという関心から聖書が読まれ」ている。D「解放の神学者たちは、……マルクスの利用を熱心に擁護」する。すなわち、ラテン・アメリカの「社会分析の道具」・現状を「解決する手段」として、「不正な社会制度を解体し、公平な社会を創造するための」<「政治的指針を与えてくれる」>ものとして、擁護する。そのため、解放の神学は、「資本主義に対して非常に批判的であり、社会主義に対して肯定的である」、と述べている。
これらの引用から、解放の神学は、先ず、地域的土俗的な民衆の解放に適用できる聖書の解釈を構成する神学を目指すことにあるから、その場合、世界史的視点が失われてしまうことになる。この論理では、宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」、という人間の幸福・救済・解放における思想の課題を包含できない。したがって、ほんとうは、世界史的視点を保持するために、自らが現存する地域において、現在を止揚する課題を扱う方法は、人類史をその母胎・母型・原型にまで時間を遡及して考察し追究することと同在的でなければならないのである。マタイ26・6―13、マルコ14・3−9は、神学における思想の言葉に言い直せば、イエスに注いだ香油を高く売ればある一部の「貧しい人々に施すことができたのに」とベタニアの女を叱責した弟子たちの往相的な相対的・一面的・部分的・過渡的・緊急的な救済の言葉に対して、イエスは、還相的な究極的・包括的・総体的・永遠的な全人間・全世界・全人類の救済の言葉を投げかけているのである。マルクスの究極的な革命のイメージも、国家の無化を伴う、社会的現実的な人間の究極的包括的総体的永続的な解放にあった。そして、その過渡的問題として、国家を第一義(価値)とする国家社会主義――東西イデオロギー・権力も、ナチズムも、全体主義も、スターリニズムも、ロシア・マルクス主義も、修正資本主義も、アメリカにおける経済的自由至上主義・至上市場主義経済化を目指すキリスト教も加担した新保守主義と結びついた小さな政府を目指す新自由主義もそうである――から、社会を第一義とする社会主義国家への移行の問題があった、国家を大多数の被支配としての一般大衆に開いていく問題があった。
神だけでなく人間も、神学だけでなく人間学(マルクス主義)もという<自然神学>の段階に属する神学者として総括できるラテン・アメリカの解放の神学者たちは、「自分たちの主張を一部はマルクス主義の原理に、一部は全く伝統的なキリスト教の思想に基づかせ」る、という。解放の神学は、救済を「社会的・政治的・経済的側面」の解放において考える、という。「贖いを必要としているのは」個人というよりも社会の方であり、その「構造的罪」の方である、という。しかし、マクグラスの論述には、この「構造的罪」についての詳論はない。
したがって、ほんとうは、マルクスや吉本やミシェル・フーコーのように述べる以外にはないであろう。
自由主義国家は、法的政治的に信教の自由が保証された政治的近代国家である。この段階において、国家の問題は、現世的問題、すなわち政治的近代国家の批判の問題となる。言い換えれば、完成された政治的近代国家における国家の問題は、観念の共同的形態である<国家>と個別的私的現実的生活の場である<市民社会>との問題として現われる。したがって、ここで、国家の問題は、国家の無化を伴う、社会的現実的な究極的包括的総体的永続的な人間の解放の問題として現われる。なぜならば、法・政治的近代国家の本質は、逆立的に対象化された市民社会の自己意識の類的本質・共同意識・共同の幻想的形態にあるからである。逆立的にとは、第一義性・価値が、法・政治的近代国家の側に移行してしまうからである。すなわち、現実的人間的な社会諸力を、自己還帰させることができずに逆立した形で観念的法的政治的な諸力として疎外した観念の共同性・共同幻想である完成された法・政治的近代国家において人間は、その人間の思惟や現実的生活は、現実的個人的生活を奪われて、天上の観念的非日常性、非現実的非現世的普遍性(類)、公民(政治的共同性)、と、「ひとつの真実ならざる現象」としての現世的存在、地上の現実的日常性、市民社会生活、個別的私的現実的生活との二重の生活が強いられるからである。言い換えれば、具体的に私人として、「私利・私意」に基づく利己主義的な私的他者との対立・争いの生活、利害共同性との対立・争いの生活と、一方であたかもそうした対立や争いのない法的政治的共同的観念によって統一された公的共同性の一員・公民としての生活との二重の生活を強いられるからである。
このような訳であるから、階級概念も、事実としての現実的で具体的な市民社会では、労働者の子が資本家であったり、資本家の子が労働者であったりというように百人百様の現れ方をする。しかし、経済的社会構成を中枢とする理念としての市民社会においては、一方が資本家なら他方は非資本家であるというように、垂直的な概念に転化する。このことは、マルクスが、「資本家や土地所有者」は「経済的範疇の人格化」、すなわち経済的範疇において抽象化された人格であり、その限りで、「階級関係と階級利害の担い手である」・それゆえ、「決して個人を社会的諸関係に責任あるものにしようとするのではない」、と述べたことである(『資本論』)。本質的に共同幻想と逆立する共同幻想はないから、全ての共同幻想は、共同体の個々の成員に対して権力に転化してしまうことになる。したがって、個体の自己幻想において、国家を「風俗、習慣的な慣行律」、家族的習慣、宗教、法まで含めて共同幻想の一態様として自覚的に把握するとき、少なくとも国家の共同性を第一義背・価値として措定し抑圧されていく錯誤だけは犯さずに済むことになる。「国家が法律を作ったのではなく、まず宗教があって、それが法律になって、それから国家(近代国家)が生まれた」。つまり、共同的な宗教から法へ、法から国家へと流れくだった「国民国家というものは、宗教のもっとも新しいかたち」である。国家もその一形態であるが、「あらゆる共同幻想は消滅しなければならないということは、究極の<読み>としてはっきりしておかなければならない」。「これは究極の<読み>、いいかえれば、<思想>の原理」、「構想力の問題」であるから、「<空想>としてではなく言い切るべき問題として存在」している(吉本隆明『吉本隆明全著作集14』「国家論」)。したがって、起源としての国家(共同幻想)の無化と止揚にまで至り得る思想は、共同幻想の階梯を書かれた以前の過去にまで歴史的に遡及して考察し追究していかなければならない(吉本隆明『超恋愛論』大和書房)。
革命の究極像は、国家を止揚し無化していくことで、大衆を歴史の主人公・主体としていくところにある。緊急的課題としては、国家の共同性を頂点とするすべての共同性を、生活者大衆にどこまでも開いていくところにある。これらのことを、現在において考えるとすれば、例えば、知識人・政治的集団が、自覚的に自らの知識過程に、国民国家(具体的には、「政府」)や資本制「企業」に拮抗しうる、消費資本主義段階が付与した潜在的な経済的権力・主権を備えた消費者大衆の像とその大衆的課題を繰り込み、それを国家無化の契機としていくところにある。また、法的中枢としての憲法(国家意志、国家の共同性・法・制度)を開くという問題は、憲法改正時における国民投票だけでなく、例えば、日本の生活者大衆がテロの標的になりかねないところの日米同盟に基づく自衛隊のイラク派遣の問題にあるように、生活者大衆の生命や生活の持続や安全に関わる法案については、<国民投票>を実施する旨、憲法に<国民投票>条項を付加していくところにある。議会に対する解散請求等憲法へのリコール権の規定は、「議会制民主主義に対する異議申し立ての手段」である。リコール権があれば、「国家は国民に対して開」かれるから、国家の権力性の無化の課題としてある「次の段階に移行できる条件を持つこと」ができる。すなわち、一部の支配上層に国家の権力性を閉じさせないことが重要である。そうした制度的・物質的基礎の上に、共同幻想の書き換えの問題が登場してくる(吉本隆明『遺書』角川春樹事務所)。
フーコーの場合のマルクスの読みかえ――
マルクスは資本主義の分析の際に、「労働者の貧困という問題に出くわして自然の希少のためだとか計画的な搾取のせいだとかといった、ありきたりの説明を拒」んだ。なぜなら、資本主義制度における生産は、制度的必然・「その基本的法則によって必然的に貧困を生産せざるをえない」ものだからである。すなわち、資本主義制度は、「何も働き手を飢えさせるために存在しているわけではないが、かといって彼らを飢えさせずに発展することもできない」ものなのである。したがって、「マルクスは搾取を告発するかわりに、生産を分析した」のである。「このマルクスのやり方にちょっと手を加えますと、ほぼわたしのしたかったことになります。(中略)問題は、何らかの様式に基づいてセクシュアリティを生産し、不幸な結果をもたらす積極的なメカニズムとはどんなものかをとらえること、それだけなのです」(『セックスと権力』)。
吉本の場合のマルクスの読みかえ――
資本主義が悪や欠陥を持っていることは、制度的必然として原理的に自明なことである。しかし、資本主義は「人類の歴史の無意識(≪自然史の一部である人類史における自然史的過程≫)の生んだ……最高の出来栄えの作品」である。したがって、「資本主義が産みだした文明も文化も人類の最高の作品」である。したがってまた、資本主義には「悪」と「欠陥」・搾取・貧困があるから資本主義が産みだした「文明や文化や商品も悪」で欠陥があると資本主義を批判しその文化や文明を批判し否定しても、その「最高の作品たる根拠を揺るがすことはできない」。すなわち、その根拠を揺るがし資本主義を止揚し・超えるためには、資本主義とその資本主義が生み出した文明や文化や商品を根本的包括的に止揚する以外にないのである。すなわち、@還相的な究極的包括的総体的永続的課題としては、根本的に資本主義を包括し止揚するためには、資本制的生産様式(交換価値論)とは異なる新たな生産様式(新たな価値論)を構成しなければ不可能なのである。その可能性は、世界普遍性としてある人類史の母胎・母型・原型であるアフリカ的・縄文的段階における種々の贈与制の歴史的批判的な調査・解明に基づくその再構成にある。すなわち、民族国家の枠組みを超えた世界的規模での技術的・産業的・経済的な地域特性化に基づく贈与制の構成、等価交換的価値論を包括し止揚した高次の贈与価値論の構成にある。それができれば、経済社会構成を資本制におく西欧的・「超」西欧的段階を超え出て、高次な次の段階へと超出することができる。A往相的な過渡的緊急的課題としては、例えば「西武」や「電通」や「自民党の手先」であっても、優れたCM作家の優れたCMは評価すべきであるから、創造的な批判は、その「文明や文化や商品」を包括し止揚してそれを超えたそれを創造する以外にないのである。
いずれにしても、人類は、一部の支配上層、制度としての官僚・政治家・資本家のために存在しているのではないし、「文明の進展やエリート層への従属のために存在しているのではない」から、大多数の被支配としての一般大衆・一般市民が、「歴史の主人公だとおもうためには、まだやること、創られるべき物語はたくさんある……意識のなかの転倒、知識のなかの転倒、政治のなかの転倒をふくめて、すべてひっくり返さなければいけない反物語ばかり」である。「知識人が非知識人を導くというようなかんがえ方は、絶対に転倒されなければいけない」ものである(『情況へ』・『マルクス――読みかえの方法』・『母型論』・『アフリカ的段階について 史観の拡張』・『大状況論』)。
さて、マクグラスは、解放の神学においては、「まず行為があって、批判的考察が後に続くのである。『神学は世界を説明するのをやめて、変革しはじめなければならない』(ボニーノ)」。「真の神知識は、貧しい人々の訴えへのかかわりにおいて、また、それを通してやってくるものなのである」――と述べている。マルクスの場合は、「理論」が「実践」の方へと「必然的につれてゆくようにできあがっていた」(吉本隆明『カール・マルクス』)。バルトの場合もそうであった。その神学的実存の在り方は、それが社会的な事柄であれ政治的な事柄であれ、「かつて語った説教の一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから実践に、決断に、行動になって行った」という在り方にあった(『バルトの生涯』)。
解放の神学は、自らの自己相対化視座をどこに設定しているのだろうか? この場合、ある権力(政府)の打破は、新たな権力の構成に終わってしまうだけでないのか? 解放の神学は、「マルクス(≪正確にはマルクス主義≫)の利用」を、「不正な社会制度を解体し、公平な社会を創造するための」<「政治的指針を与えてくれる」>ものとして擁護する」、と述べているのであるが、観念の共同性を本質とする政治的国家をどのように始末(無化)するかについては述べられていない。またこの場合、「貧しい人々」の立場と言うけれども、それはバルトの述べているように、結局は支配行為になってしまうのではないか? 解放の神学は、その原理それ自体に自己相対化視座を持っているのだろうか? 思想の往還を持っているのだろうか?――「ドストエフスキーの書いたあの大審問官は、神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていたのであるが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の善意(≪の対象化された自己意識・理性・思惟の意味的世界、彼の管理するプログラム≫)によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、最も洗練された支配行為に過ぎなかったのである。神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえどのように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう。またそのようなところには、教会は存在しないのである」(『啓示・教会・神学』)。フーコーにとっても、権力は実体ではなく、「個人間に存在するひとつの個的な関係タイプ」なのである。すなわち、それは、ある価値基準ある時ある場所において、「聖なる者」と「俗なる者」、「教えるもの」と「教えられるもの」、「正常なもの」と「異常なもの」、「支配されるもの」と「支配するもの」等へと関係を規定する政治的合理性の形態である。言い換えれば、それは、権力的、強制的、弾圧的にではなく、司牧システムが生み出す無意識の共同性によって、その権力的在り方に服属させられる関係性のことである。
(5)マクグラスにおけるフォイエルバッハとマルクスについて
マクグラスが、フォイエルバッハの宗教批判(キリスト教批判)は「重要であったが」、マルクスの登場の「お陰で見劣りをするようになった」、と述べた時、私たちは、彼が、自らの信仰・神学の、その原理、その認識方法と概念構成それ自体で、フォイエルバッハの宗教批判を根本的包括的に止揚し超克しようとしていないことを知るのである。バルトは、自らの信仰・神学・教会の宣教の、その原理、その認識方法と概念構成それ自体で、フォイエルバッハの宗教批判を根本的包括的に止揚し超克しようとして『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』を著わした。それはルターの宗教改革にも残存していた<自然神学的なもの>を根本的包括的に止揚し超克しようとするものでもあった。
また、マクグラスは、フォイエルバッハをマルクスとの関係において説明するのであれば、もう少し分かり易く述べて欲しいものである。先ず以て、マルクスは、次のようにフォイエルバッハを批判している。ヘーゲルの媒介性一般までも否定してしまったフォイエルバッハは、@「宗教的本質を人間的本質に解消させる。しかし、人間的本質はなにも個々の個人に内在する抽象体ではない。その現実においてはそれは社会的諸関係の総和である」。A感性的存在だけが現実的存在である・感覚の対象(客体・自然)だけが真(真理)であるとみなして、その「現実本質の批判にいたらないから」、「『宗教的信条』そのものが一つの社会的な産物」であり、「人間的個体」が「一定の社会的形態に属している」というその媒介性を見ない(『ドイツ・イデオロギー 附録 フォイエルバッハについてのマルクスのテーゼ』)。そして、マルクスのいう宗教は共同宗教としてのそれであって、その宗教は、宗教・法・国家の問題である。したがって、マルクスの究極的包括的永続的革命における人間の社会的現実な解放には、国家の無化が伴うのである。信教の自由が保障された法的政治的に解放された政教分離の政治的近代国家・民主的国家・自由主義国家(法的政治的観念的な解放としての政治的革命による)は、宗教からの国家の解放であって「宗教からの人間の解放」・社会的現実的な解放ではない。この段階において、国家の問題は、現世的問題、すなわち政治的近代国家の批判の問題となる。なぜなら、人間は社会的現実的に自由でなくても・解放されていなくても、観念の共同性・共同幻想である国家は自由主義国家であり得るからである。その場合、人間は恣意的に自由であり得るだけである。また、人間は、経済的社会的な不平等や格差があっても、法的には平等であり得る。
マクグラスのこうした論じ方は、「他宗教に対するキリスト教の態度」における論述においても変わらない。「特殊主義」がある、「包括主義」がある、「多元主義」があると説明するだけで、信・知・キリスト者(教)を、不信・非知・非キリスト者(教)に完全に開いていく、という神学の思想の課題については全く論じないのである。
(6)マクグラスのパンネンベルク論と復活論について
パンネンベルクは、@「キリスト教神学の基礎は普遍的で誰にも開かれている歴史の分析にあるのであって、人間個人の実存の内的主観性やその歴史の特殊な解釈にあるのではない」。A「歴史そのものが啓示なのである(あるいは、啓示となる力を持つ)」・「啓示は本質的に公で普遍的な歴史的出来事であり、この歴史的出来事は『神の行為』として認識され、解釈されるものである」、と述べた、とマクグラスは説明している。そして、マクグラスは、「パンネンベルクは歴史に向かうことで、フォイエルバッハの袋小路へと進む思考の流れを回避できた」、とも述べている。このマクグラスの理解は、根本的な誤謬を犯している。「歴史」を思惟の対象にしようと、その神学の原理、その神学の認識方法と概念構成それ自体に、神と人間との無限の質的差異、神の隠蔽性・神の不把握性、啓示に固有な証明能力、終末論的限界、<神性>を本質とするイエス・キリストの名としての啓示の客観的な実在、神の啓示・神の時間・救済史は、人間の啓示認識・人間の時間・歴史の、常に、外・彼岸にあり続ける、という認識方法と概念構成を持たない場合、その「公で普遍的な歴史的出来事」を「認識」し・「解釈」するという時、それは、そう認識し解釈する人間の自己意識・理性・思惟を介したそれであるから、それゆえに、その「認識」も「解釈」も、対象化された人間の自己意識・理性・思惟の類的本質にしか過ぎないものなのでる。したがって、その認識・解釈における啓示・神・信仰は、フォイエルバッハの宗教批判の対象そのものでしかないのである。ハイデッガーの揶揄・批判した「存在者レベルでの神への信仰」としかならないのである。言い換えれば、パンネンベルクは、正真正銘の<自然神学>の段階に属する神学者として総括できるのである。
フォイエルバッハの宗教批判を、神学における思想の課題として、自らの信仰・神学・教会の宣教の、その原理、その認識方法と概念構成それ自体で根本的包括的に止揚し超克していこうとする場合、重複してしまうが、バルトのように、神と人間との無限の質的差異、神の隠蔽性・神の不把握性・終末論的限界、神の自己啓示であるイエス・キリストにおける啓示の実在、啓示の真理、神の啓示・神の時間・救済史は、常に、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・人間の時間・歴史の、常に、彼岸・外にあり続ける、「啓示は歴史の賓辞ではない」・「歴史が啓示の賓辞である」、人間が人間的に所有する人間の啓示認識が、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神」自身の決定事項なのであって、私たち人間の決定事項ではない、という認識方法と概念構成を必要とするのである(『教会教義学 神の言葉』)。このことが、パンネンベルクやマクグラスには分からないのである。
近代主義を骨肉にまで受け入れたマクグラスが、一切の近代主義、一切の<自然神学的なもの>を根本的包括的に止揚し超克していく、という神学における思想の課題を認識し自覚していない論述の典型が、これである――マクグラスは、「批判的探求を越えた歴史的出来事としての復活」ということでバルトの復活理解について、「ブルトマンの主観主義的行き方に対して、公の歴史の中での行為としての復活を擁護しようとしていても、バルトはその歴史を批判的に研究するのを許さない。このことの一部は、歴史学が信仰の基礎となることはできないという情熱的な信念から来ている」・「また、キリストの復活は歴史的探求によっては開示も証明も出来ない(中略)…この点…バルトの神学的関心に同情的になるとしても、そこには(≪歴史実証主義的には≫)信頼性が欠けているという結論は避け難い」、と述べている。そして、マクグラスは、前述したパンネンベルクを持ち出すのである。
まず、バルト信仰・神学・教会の宣教の、その原理、その認識方法と概念構成は、マクグラスに「同情」されなくても、それ自体で信仰的・神学的に自立しているのであって、唯一、現在から未来に生きる水準を保持した信仰・神学・教会の宣教である。「情熱的な信念から来ている」というバルト理解しかできない、このようなマクグラスが、バルトを根本的包括的に論じられるわけがないのである。
人間学的領域において、吉本は、「神話乃至古代史」については、歴史<主義>、歴史実証<主義>的な在り方を否定している。しかし、それに対して、現在的な神学における思想の課題を担おうとしていない大学社会の神学者のマクグラスは、そうした認識と自覚を持たないのである。
(中略)ぼくは、マタイ伝の象徴している思想内容にくらべたら、史実性はあまり問題にならない……。(中略)日本でいえば荒井献さんでもいいし、田川健三さんでもいいんですが、歴史的イエスをどこまで限定できるかとか、できないとか、そういう立証のしかたや歴史観があるわけでしょう。ぼくはいまでもそれほどの重要性があるとはおもってないんです。それからそれがほんとうに、そういうふうに実証できているともおもえないところがあります。(『信の構造2―全キリスト教論集成』)
神話にはいろいろな解釈の仕方があります。比較神話学のように、他の周辺地域の神話との共通点や相違点をくらべていく考え方もありますし、神話なるものはすべて古代における祭式祭儀というものの物語化であるという考え方もあります。また神話のこの部分は歴史的〈事実〉であり、この部分はでっち上げであるというより分け方というやり方もあります。そのどの方法をとっている場合でも、この説がいいということは、いまのところ残念ながら断定できません。プロ野球で三割の打率があれば相当の打者だということになるのと同じように、神話乃至古代史の研究において、打率三割ならばまったく優秀な研究者であるとわたしはおもっています。じぶんでそれ以上の打率があるとおもっているやつはバカだとかんがえたほうがいいとおもいます。(『敗北の構造』「南島論」)
また、歴史的科学的な実証主義者とは異なる、もう一人の人間学的領域の思想家・フーコーにも耳を傾けてみたいと思う。フーコーは、「形而上史学的な歴史の科学」とは異なる評価の方法について論じている。
ダーウィンの進化論の主要な構成は、遺伝学によって完全なかたちで裏付けられることになりましたが、彼はその進化論において鍵となるいくつかの概念を、今日では批判され捨て去られている科学的領域から引き出しました。(≪しかし、そのことは≫)、全く重大なことではないのです。 (『思考集成IV』「ミシェル・フーコーとの対話」)
このような人間学的領域における優れた良質な自立的思想は、個的・共同的な私意・私利の矛盾や対立によって崩壊していく寛容の精神論や、人間学と神学との混淆・共働論や折衷論においてではなく、現在的な神学における思想の課題を自覚的に担ったところで、その信仰・神学・教会の宣教の、その原理、その認識方法と概念構成それ自体において、現在から未来に生きる優れた良質な自立的神学思想を保持したバルトのそれと交点を結び得るのである。
バルトの聖書における歴史認識の方法は、『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、次の点にある。「聖書の中で物語られているもろもろの歴史」は、史実史や神話ではなく、「ただ、(一人、あるいは何人かの)物語者が物語られた歴史に対して、多かれ少なかれ(主観を交えて脚色しており、そういう意味で)干渉し、関与する」という「歴史物語あるいは古譚の要素を持ったもの」である、という点にある。バルトは、聖書の歴史認識の方法について、次のように論じている。
ア)「中立的な観察者」として「聖書の中に証しされている啓示の『史実的な(historisch)』確かさを問う問い」は、「聖書にとっては全く縁遠いもの」であり、「聖書の証言の対象にとって」異質なものである。しかし、その聖書的証言に対して、それを「聞くもの、見る者、信じる者」である「非中立的な観察者」にとっては、啓示・聖書・教会の宣教の中に「同時に啓示の秘義があったし、あり続けた」。したがって、その非中立的な観察者だけが、聖書の中の歴史について、「史実的」には「全く何も確かめられない」ということ知らされたし、「啓示の出来事にとって重要でないものだけ」・「啓示とは別の何かだけ」しか確認できないということを知らされた。
イ)史実的に正しい内容が重要なのではなく、重要なことは、聖書が、「シリアの総督のクレニオ」と「聖降誕の出来事」、「ポンテオ・ピラト」と使徒信条というように、神の啓示に対してその都度ごとに、一つの年代的・時間的と地誌的・空間的・地域的との限定性において、「出来事として起こったもろもろの歴史(Gschichten)」について語っているという点にある。
ウ)聖書の中の歴史は歴史物語あるいは古譚であって、そのような「神と人間との間に起こったもろもろの歴史」は、「神的な側面」からは、常に、人間が人間的に所有する人間の一般的な歴史認識・概念の彼岸・外にあるものである。すなわち、聖書証言の報知における歴史(Gschichte)・「特殊な歴史〔的出来事〕」については、いかなる「『史実的な(historisch)』判断」認識・概念もあり得ない。
エ)聖書の中の歴史である歴史物語あるいは古譚、「史実以前の歴史」は、無空間的無時間的な神話ではない。なぜならば、「神話が事実として報告していること」は、「少なくとも潜在的に存在している根源的なそして自然的な結びつきとの関係の中に立っている」ところの、「思弁の前形式」として、自然生に依拠した世界史のアフリカ的・縄文的段階においては世界普遍的に起こり得た出来事であって、世界史的に「決して一回的な出来事ではなく、繰り返され得る出来事」だからである。歴史主義、歴史実証主義は、人間精神が生み出したものを問題とする限り、「啓示を問おうとしない」で人間精神の自己理解を第一義として「聖書の中でも神話を問う」ことをする。しかし、「啓示の証言としての聖書の理解」と、「神話の証言としての聖書の理解」は、相互排除の関係にある。したがって、聖書記事を歴史物語とみなし、聖書記事の「一般的な歴史性(Geschitlichkeit)を問題化すること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃しない」。しかし、聖書記事を「神話として受けとること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃する」。なぜならば、啓示は、人間学的な「歴史の枠に、はめ込まれてしまうような歴史的出来事ではない」からである。したがって、聖書の歴史認識の方法は、その歴史を、「一般的な歴史性」を含んではいるが史実史ではない歴史物語・古譚として受けとる点にある。
オ)バルトは、バーゼルの刑務所でイエス・キリストの復活の出来事について、「ただ単に考えや夢の中にではなく、何か精神的にではなく、身体的に見、聞き、つかまえることできる形」における弟子への顕現の出来事について説教をしている。復活の出来事が「どのようにして……起こりえたか、また起こったか、……私はあなたがたと同じように、その理由を知らない。それは(≪人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍に依拠して考えれば≫)人が信じないようなことだと言う以外に、単純な言い方はほかに存在しない。事実、当時でさえも、解き明かすことは愚か、書き記すことや説明することはできなかった」。「イエスの復活は、徹頭徹尾神の業であって、そのようなものとして、最高度に良くなされたが、しかし最高度に理解し難いもの」なのである。したがって、「当時でさえも、ただ認識(≪信仰≫)され、告白され、証しされ、宣べ伝えることができた」だけである。このことは、説明ではなく、「感謝の応答」としての、「告白」・「証し」・「宣べ伝え」である。バルト自身は、福音は「魂と体、天と地、内的と外的いのちのため」にある、私たちは、「身体的存在と理性的存在という全体的人間を考えなければならない、救贖は全的人間のそれであるから、身体的復活である」、と述べている。このように、バルトにおいても、復活の事柄は、全く説明なしの、素直な「感謝の応答」としての告白や証しや宣べ伝えなのである。カトリック作家の小川国夫も、吉本の「あなたはキリストの復活、再臨を信じているのですか」という問いに対して、即座に「信じています」と答えている。そして、吉本も、そのことを受容している。私の信仰体験を介して言っても、ただ「感謝の応答」として、「主よ、私は信じます。私の不信仰を助けてください」という人間的態度において、そう告白できるだけである。したがって、歴史的科学的に実証され確かめられなければならない、といことでは全くないのである。