カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

『福音と律法』および『神の恵みの選び』(その2−2)

『福音と律法』、および『神の恵みの選び』(その2−2)
『神の恵みの選び』をめぐって
再推敲・再整理版です。

 

『カール・バルト著作集3』「神の恵みの選び」蓮見和男訳、新教出版に基づく

 

 『福音と律法』との関係において、根本的で重要な事柄は次の点にある――「予定説」は、神の側の真実としてある、「イエス・キリストにある救いの自由な表現そのもの」である。言い換えれば、それは、「真に罪なき、従順なお方」イエス・キリスト自らが、われわれ人間に代わって、「見捨てられた人間となり、その罰を引き受け給うたということ」、すなわち神の恵みに対してイエス・キリスト自らが、われわれ人間のために、われわれ人間に代わって、その死と復活の出来事において、「福音と律法の真理性」と「福音と律法の現実性」を構築するために、主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)という仕方で端的に信じ給うたということである。これが「神の最高の義」である。このことは、イエス・キリストを信ずるということ、イエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執し固着するということに関して、第一次的な契機はわれわれ人間には全く何もないということを意味している。その信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)は、全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられるということを意味している。そして、その客観的啓示と客観的な啓示の主観的側面である聖霊の注ぎによる人間的主観に実現された神の恵みの出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)は、われわれに対して、「生来人間は、神の恵みに敵対し、神の恵みによって生きようとしないが故に、このことこそ、第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急であった」ということを自己認識させ自己理解させ自己規定させるのである。言い換えれば、われわれは、そのような啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて、「神の選び」を「イエス・キリストの復活」において認識(信仰)し、「神の放棄」を「イエス・キリストの十字架」において認識(信仰)することができるのである。この時同時に、その啓示認識・啓示信仰を通して、すなわち「われわれが本当に神の啓示を認識する時、「われわれは初めて」、「神に対する人間的反抗」、「神の敵」、「神に相対して、自分の力を誇り、まさにそのことの中でこそ罪深い堕落した人間としての自分自身」を、換言すれば先行させたあるいは並行させたわれわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求(すなわち、無神性・不信仰・真実の罪)のただ中に生きる人間としての自分自身を、またそのようなわれわれ人間の「世」を「認識する」ことができるのである。
 さて、内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方である「十字架のイエス・キリストこそが、神に選ばれたお方」である(この「啓示の実在」そのものであり起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストに、直接的に唯一回的特別に召され任命され・その人間性と共に神性を賦与され装備されたのが第二の形態の神の言葉に属する預言者および使徒たちであり、そしてこの預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」が、第二の形態の神の言葉、すなわち啓示の「概念の実在」としての聖書である)。人間は、「そのままでは恵みを受け取る状態にはない」し、また自分でそのような状態にすることもできない。したがって、「もし人がその恵みを受け取り得たとすれば、そのこと自体が恵み」なのである。言い換えれば、人間的主観に実現された神の恵みの出来事――すなわち信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)は、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその啓示の主観的側面である「聖霊の注ぎ」によるのである。このように、「私たちの召命・義認・聖化」は、生来的な自然的な人間的契機の直接性において「私たち自身の中に生起」するのではなく、徹頭徹尾全面的に、「イエス・キリストの御業」として、「私たちのため」に、「私たち自身の中に生起」するのである。そして、このように恵みの選びを認識(信仰)する時、われわれに要求する洞察は「イエス・キリストを信ずる信仰の二重の洞察」、すなわちパウロの「神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順の中に閉じ込めたのである」という二重の洞察は、神の側の真実としてあるキリストの福音の内容そのものである主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了そのもの、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものと、われわれ人間に対する神の要求(福音を内容とする福音の形式としての律法)である「イエス・キリスト信ずる信仰において明らかになる」、換言すれば神との「混淆」、「協働」、「共働」あるいは「神人協力」ということでは決してなくて、「律法の成就」・完了そのもの、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものであるイエス・キリストを信じる信仰において明らかになる。何故ならば、啓示の出来事と信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰において、われわれがそのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法にのみ生きようとしなければ、われわれは、その信仰に全く生きていないし・全く生きようとしていないし・全く生き得ていないということを、また常に神から遠ざかり・遠ざかり続けているということを、罪を新たな罪を犯し続けているということを、自主性・自己主張・自己義認の欲求(無神性・不信仰・真実の罪)のただ中にある「真実の罪人」であるということを自己認識し自己理解し自己規定することはできないからである――(人間論的な自然的人間だけでなく、現存する教会論的なキリスト教的人間であるわれわれも、われわれの信仰事情が次のようであることを正直に告白しなければならないであろう)「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』」その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり(≪生来的な自然的な≫)『自分の理性や力(≪知力、感情力、意志力、禅的な自然を内面の原理とする身体的修行等々≫)によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)。
 パウロの語る「すべての人」においては、「放棄される危険の全くない選ばれた者とか、選ばれる約束も一切ないほど放棄された者が存在するという考えは、はっきりと排除」されている。したがって、この言葉は、イエス・キリストにあるときにおける「威嚇」である。しかし、一方で、「それよりもはるかに確実に」、われわれは、イエス・キリストにおいて与えられた「約束」によって、この「威嚇から解放」されている。すなわち、神の側の真実としてある、主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了そのもの、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものにおいては、この威嚇は、止揚された威嚇、克服された威嚇である。何故ならば、そこにおいては、「すべての人」を救うために、「罪なきただ一人の選ばれたイエス・キリスト」が、「この怒りを正しい怒りとして引き受けて下さったが故」に、われわれは「イエス・キリストにあって死なないで、生きるであろう」という神の側の真実としてある約束が与えられているからである。神の側の真実としてある、神は「すべての人をあわれむために、すべての人を不従順の中に閉じ込め」たについては、全き自由の神の全き自由の恵みの選びにおいてということであるから、「罪の増し加わったところには、恵もますます満ちあふれた」ということができる。この時、信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)において新たな認識を得ることができる。すなわち、それは、「律法の成就」・完了そのもの、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものであるイエス・キリスト自身に対する人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求(これは、無神性・不信仰・「真実の罪」である)は、神の側の真実としてある客観的なイエス・キリスト自身のその死と復活の出来事によって止揚され克服されたそれであるということである。また、それは、その客観的な啓示の出来事の主観的側面としてその主観的現実化のために、イエス・キリストは、われわれに対して、イエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執し固着する霊(聖霊)を授与されるということである。したがって、われわれが、信仰の出来事において「イエス・キリストを信ずる」と告白する時、「イエスは主なり」と告白する時、それは、「聖霊の注ぎ」・「聖霊との交わり」におけるそれであり、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」、「賜物」なのである。したがってまた、バルトは次のように語るのである――マルコ福音書の「信じます。不信仰な私を、お助け下さい」・「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい」、「私たちが神に向かって語る。『ああ……!』というこの小さな嘆息」、それは、「すべての祈りの源」である、「そこにはただ、神の子の全く素直な赦しがあるだけである。あなたが祈れない時、この赦しを用いるのが、あなたのなすべきことである」。
 このような訳で、バルトは、『証人としてのキリスト者』で、次のように述べている――われわれは、「心を頑固にし福音を認めない人間」や「異教徒」に対して、「恵みから語り、恵みについて語るという以外のこと」を為すことはできない。すなわち、われわれがそうした人々に呼びかけることができるのは、
(1)「私がその人をその中に置くことによってではなく」、
(2)神の側の真実としてある、それ故に客観的現実性、「成就と執行」、「永遠的実在」としてある、「律法の成就」完了そのもの、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものである、内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち「神であり給う言葉が人間となったのであって、決して神性それ自体が人間となったのではない」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストが、すでにその人をその中に置いてい給うことによってである」。したがって、われわれは、「キリストにあるものとしての人間のために、努力し得るにすぎない」。また、バルトは、『カール・バルト教会教義学 和解論T/ 1』「和解論の対象と問題」で、次のように述べている――神の人間化あるいは人間の神化の原理を発見した「ヘーゲルの強力な痕跡」(『ヘーゲル』)を持つシュライエルマッハーのそれを含めた一切の近代神学、近代主義的神学、自由主義的神学、総括的に言えば神と人間との混淆論、協働論、共働論、「神人協力説」、人間学と神学との混合学を志向し目指す一切の自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教と抗するために、まず「神の霊と人間の精神の全面的な区別が強調されなければならない」。そして、われわれは、「啓示の主体的現実」化を、「人間の業としてではなく、まさに神の霊の行為(≪「聖霊の注ぎ」≫)としてとらえることによって」、内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第三の存在の仕方、すなわち愛に基づく父と子の交わりである「聖霊を、神の似姿の『唯一の現実』として、人間の『恩寵に敵対する態度』に立ち向かって戦うものとして、実存を超えたところにある神の子としての身分の創造者として理解しなければならない」。その上で、われわれは、「(聖霊と密接に関連して)記されている」、「真理の柱、真理の基礎」とは、第三の形態の神の言葉に属する「神の教団」、「表向き」だけではない・それ故に実質的に内在的にも外在的にもイエス・キリストをのみ主・頭とする「イエス・キリストの教団」、第二の形態の神の言葉である「使徒ヨリノ唯一ノ聖ナル公同教会」のことであって、その「イエス・キリストと個人的関係を持つ」その「肢々」としての「一人一人のキリスト者」、「キリスト者個人」のことではない、と言わなければならない。共同性に価値を置くヘーゲルは、「神自身にとって最高に必要であり必然的であるのは教団」であって、「教団の精神であることによって初めて神は精神となり神となることができる」と述べていることに対して、バルトは、「個々の人間による和解の主体的実現という問題は、絶対に欠くことの出来ない問題」ではあるが、「イエス・キリストにおいて客観的に起った和解の主体的実現は、まず第一に教団において、イエス・キリストの聖霊の業として遂行される」と述べている。このことは、バルトが、個と教団との関係において、神学的な共同性価値論に立っていることを意味している。この場合、『カール・バルトの生涯』においてバルトは、「私自身は、ヘーゲルが好きだという弱みを持っていますし、そしていつでもヘーゲル的に考えるのが好きです」と述べていたとされるバルトにとっては、それ故にこのバルトを厳密な正確性と妥当性を持って理解するためには、神学における思想家としてバルトは、前述したヘーゲルの哲学を、近代主義を、近代神学、近代主義的神学、自由主義的神学を、総括的に言えば自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教を、ヘーゲル哲学を<否定的>に媒介することによって、換言すれば自らの<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教におけるその神学の方法論、その原理、その神学の認識方法および概念構成によって、根本的包括的に・原理的に、紙一重で超えなければならなかったし、紙一重で超えたのである――例えば、歴史認識の方法に関しても、バルトは、西欧近代を頂点とするヘーゲルの進歩史観に対して、人類史・世界史における「先行する他のもろもろの時代のその問題意識にも……、真に耳を傾けることが出来るようになるために」、われわれは、西欧近代を頂点とする歴史の直線的な進歩・発展という「ヘーゲルの思想を、直ちに全面的に放棄しなければならない」と述べている(『ヘーゲル』)。このような点に、バルトの神学における思想としての神学的な共同性価値論があるのである――「神はご自身との共同性の中に生きてい給う。そして神は人間との共同性の中に生きてい給う。そして人間は他人との共同性の中で生きている。共同性ということが、人間が神(≪三位一体の神≫)に似ていることの根拠だ。……教会なきところではイエスはキリストであり給わない。教会は永遠よりえらばれたものだ。そして、キリストは、その頭としてありつづけ給う。……個々人と共同体の対立は近代的な対立であって、新約聖書のものではない。……新約聖書の『体』の概念はこの対立を超えたものだ」(『バルトとの対話』)。このバルトにとってイエス・キリストにおいては、個と共同性は近代的に逆立し対立するのではなく、正立し平和なのである。したがって、バルトの神学における思想としての神学的な共同性価値論は、ヘーゲルのような客観的精神の弁証法的展開の果てに想定される哲学的な国家共同性価値論とは全く異なっているのである、現実的な個や家族や社会から逆立的に疎外された観念の共同性を本質とする国家共同性価値論とは全く異なっているのである。したがってまた、表面上、ヘーゲルのように共同性価値の概念構成を為しているから、ヘーゲルと同じような近代主義者だとか、近代主義的神学者、自由主義的神学者だとかと主張したならば、その者は、木を見て森を見ない――否、一本の木だけを見て総体としての森を見ない誤解と曲解と誤謬に満ち満ちた者であり、レンガを積み上げるようにして教会の宣教にとって最善最良の神学を構成したバルトを誤解させ、そのバルトに迷惑をかけるだけの者であるだろう。このバルトにおいては、内的・内在的な三位一体の神、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち啓示・和解であり、起源的な第一の形態の神の言葉であり、まことの神にしてまことに人間であるイエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」、「キリスト教使信の中心」は、神の側の真実としてある、それ故に客観的現実性、「成就と執行」、「永遠的実在」としてある、主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信じる信仰)による「律法の成就」・完了そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものにおいて、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」「広い共同体に向かっての運動において」、個体的自己としての全人間・全世界・全人類に対して完全に開かれているのである。このバルトの信仰の完全な開放性について、ブッシュは次のように述べている――「教会は、(中略)信仰の完全な開放性において理解されなければならない。その信仰の開放性においては、『イエス・キリストはマルクス主義者のためにも死に給うたのだが、また資本主義者と帝国主義者とファシストのためにも死に給うた』ということから出発することができる……」、と(『カール・バルトの生涯』)。
 まさにここが、終末論的な「すでに」と「いまだ」における、すなわちイエス・キリストの復活と再臨の中間時、和解と救贖(すなわち、終末、復活されたキリストの再臨、「完成」――『バルトとの対話』)の中間時における、われわれ人間が――第三の形態の神の言葉に属する全く人間的なわれわれ人間が現存する場所なのである。したがって、中間時における人間とは、終末論的限界と啓示の弁証法において、すでに「自由の身になったという吉報を受け取った」けれども、いまだ「牢獄から外に出てしまっていない」状態にある人間のことである。このことを、『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、こうである――キリストにあっての啓示とは、内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち「啓示の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉である「子あるいは言葉の業」すなわち「神の現臨とご自分を知らせること」が「人間の闇の中で、人間の闇にも拘わらず、……出来事(≪子なる神の存在としての全き自由の神の全き自由の愛の行為の出来事≫)として起こるという事実」のことである。この啓示は、「和解という言葉」と一致する。それは、「われわれによって破壊された……神と人間の交わりの回復」を意味する。したがって、「啓示の事実の中で神の敵はすでに神の友」として、「啓示そのものが和解」である。しかし、内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第三の存在の仕方、すなわち聖霊の業に関わる救贖(すなわち、終末、復活されたキリストの再臨、「完成」)の概念は終末論的用語であるから、和解の概念と一致しない。救贖(すなわち、終末、復活されたキリストの再臨、「完成」)は、新約聖書においては、啓示あるいは和解から見て、未だ来ていない現実性――復活と救贖(すなわち、終末、復活されたキリストの再臨、「完成」)の中間時、すなわち聖霊の時代の中で、神の側の真実としてのみある客観的な現実性――である。「復活と完成との間」は、「イエス・キリストの父であり、イエス・キリスト自身であり、この父とこの子の霊」としての「聖霊の時代」である。
 さて、聖書によれば、内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第三の存在の仕方である聖霊は、われわれの「救済主」である。しかし、聖霊は、「救済主」であるだけではない。内的・内在的な三位一体の神の、すなわち「三位相互内在性」における「失われない差異性」における第三の存在の仕方である聖霊(愛に基づく父と子の交わりとしての「父ト子ヨリ出ズル御霊」)は、「失われない単一性」・神性・永遠性を存在の本質としているから、「子とともに、子の霊として、また和解者」でもあり、また「父および子とともに創造主なる神」でもあるのである。新約聖書の「イエスは主である」という「証言」は、その「神性」を本質とするイエスを、「事実の承認」として・「思惟の初め」として語っている。したがって、この「イエスは主である」・「子を通しての父を、父を通しての子を信じるこの信仰」、「神との出会いであるイエスとの出会い」、「信仰の出来事」は、客観的な啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面である聖霊の注ぎによるのである。このように、この信仰の出来事は、新約聖書において、「啓示の出来事の中での主観的側面」、すなわち「聖霊の注ぎ」による人間的主観に実現された神の恵みの出来事、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰の主観的現実化のことである。このような訳で、救済を「信仰の中で持つ」ことは、「約束として持つ」ことである。「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」。「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である。新約聖書によれば、「神の恵みの賜物である聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」にとっての、換言すればわれわれ人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとって「いまだ」であり、神の側の真実としてある客観的現実性、「成就と執行」、「永遠的実在」として「すでに」ということである。